ヒルデは戦争を指し示す
間違いない。
顔こそはっきりとは確かめられなかったが、癖のある赤毛、幾度も見た鎌、何よりも、見間違える筈がない。
体が揺さぶられている。
何度も、何度も、何度も。それでも、一はその場から動けなかった。靴はとっくに血塗れで、靴下までじっとりと濡れてしまっている。
「マスターっ!」
どうして、彼女が。
どうして、彼女が。
どうして、ここにいて、自分たちに武器を向けたのか。
何も分からず、知りたくなくて、一は真っ黒に塗り込められた空を見上げる。星一つ見えないそこは、暗い海の底を思わせた。
「おい」
「なっ……!」
乾いた音と同時に、一の頬が熱を持ち始める。痛みはなかったが、その衝撃で目が覚めたように感じられた。
ふと視線を下ろすと、苛立っている様子のシルトが拳を強く握っている。
「いつまで突っ立ってるつもり? あんたバカじゃないの?」
「あなた、よくもマスターに……」
「はあ? 何、あんたらバカなの?」
ナナとシルトの言い争いを聞いている内、一は状況を理解しようと、事態を呑み込もうとし始めた。ぼんやりと霞みかかった頭ではあったのだが。
「ナナ、良いんだ。ぼうっとしてた俺が悪い。店に戻ろう」
「しかし……」
「お前がこいつを嫌ってるってのは分かってる。俺だって南の連中は好きじゃないしな」
「……おい。その、南を目の前にして言うなよ」
シルトが突っ込むが、一は無視した。
「都合良く出てきたじゃねえかよ南駒台。お前ら、何を考えてやがる」
「あ。何だよ、その目。何だよ。私らは、そんなんじゃ……」
一の頭に血が上る。八つ当たりしても意味はない。声を荒らげても何一つ解決しない。
「だったらさあ! どうしてヒルデさんがいたんだ!? どうしてっ、あの人があんな事をしたって言うんだよ!?」
それでも、止められない。掴み掛かるのだけは必死に我慢して、一は感情のままに怒号を轟かせる。
「そういや、朝からこの辺うろついてたよな? あの二人も見たぜ。……何をしやがった」
「違うっ、私は、私たちは!」
「違う違うじゃ話が伝わんねえよ!」
「マ、ス、ター」
「あたっ」
頭を三度も小突かれ、一はつんのめった。振り返ると、ナナが今までにないくらいに深く頭を下げている。
「申し訳ございません。メイドでしかない私がマスターに手を上げるなど。ナナは、あとでどんな罰でも受けましょう」
「いや、今更過ぎるような気がする」
「ありがとうございます。では、まずは落ち着いてください。そして店に戻る事を考えましょう。話なら歩きながらでも出来ます」
シルトはずり下がっていたニット帽の位置を直して、不承不承ながら頷いた。
「では行きましょうか。……あなたは、さっさと口を開いたらどうですか」
「……う。あ、いや、分かったっつーの」
一を先頭にして三人が歩き始める。
「何から話せば良いのか分かんないけど、けど、ごめん。これだけ一番最初に言っとく」
「ごめん?」
「巻き込んでごめん。多分、あんたらの店に連絡がいったろ。ソレが出たから、勤務外を出せって」
どうして知っているのか。なんてくだらない事は聞くまい。一は溜め息を吐く。
「お前が電話したのか。あの男の人を止める為にか?」
一は、あえて、ヒルデをとは言わなかった。
「って言うより、私らはヒルデさんを止めたいの。あんな奴、死のうがどうなろうが知らないしー」
「ん? じゃあ、どうしてヒルデさんはさ、そんなどうでも良い奴と一緒にいるんだよ」
「あー、ヒルデさんの男だし。つーか、ヒルデさんがあいつの女っつーか」
「は?」
立ち止まり、大口を開けて一は固まる。しばし固まる。
「は? じゃなくて。言ってる意味分かる? ヒルデさんとあの男はー、付き合ってんのー」
「は?」
「いや、はあ、じゃなくて」
「は?」
「……何、こいつ」
すっと、ナナが一歩前に出た。彼女は悲しげな表情を浮かべている。
「マスターは、現実を認めたくないのでしょう。ああやって何も知らない、分からない、聞いていない振りをしているのです。マスター、あの方は売約済みらしいですよ。忘れちゃいましょう」
「な、な、な、なんでやねん!?」
「なんで関西弁よ?」
「マスターはたまにああなります」
一はその場に崩れ落ちた。しかもちょっと泣いていた。
「なんでヒルデさんが男と付き合ってんねん!」
「いやー、そりゃヒルデさんも女だしさー。私らだってあーゆータイプはどうかと思ったんだけどー。まー、顔だけ見れば全然イケてんじゃん? 抱かれても良いって感じに」
「ふざけんなよ!」
「あんたよりマシじゃん」
信じない。信じてなるものか。一は立ち上がり、コートの袖で涙を拭いた。
「マスター、これで鼻をおかみください。鼻水が垂れてきています」
差し出されたティッシュペーパーを素直に受け取り、一は盛大な音を鳴らす。
「ありがとう、ナナ。……じゃあ、アレか。あの男はソレじゃなくて人間なのか」
「は? なんで?」
シルトは小ばかにしたように笑った。それが腹立たしくて、一は(使用済み)ティッシュペーパーを彼女に向かって投げつける。
「あっ、あ……! コロス! コロスゾ!」
「ひゃひゃひゃ、おら、良いから答えろよ。さっきの時代錯誤甲冑野郎は何者なんだ」
一に殴り掛かろうとしたシルトだが、ナナが先ほどからブレードを出したりしまったりしているのを見て、冷静になる。
「くっ。あいつは、ソレだよ。こっちの言葉で言うならだけど」
「うわ、マジでソレなのか。じゃあ尚更だ、ヒルデさんは、どうしてそんな奴と……」
そこまで一が言い掛けたところで、ナナが不思議そうに首を傾げた。
「あの、マスター、もしかしてなのですが、気付いていないのですか?」
「何が?」
「先ほどの方たちも、その方も、人間ではありません」
「……何だって?」
大剣を持った男も、ヒルデも、シルトも、シューも、怪我をしたルルも。誰もが。
「私らは人間じゃない。ソレなの。あんた、ワルキューレって知らない?」
ワルキューレ。
戦乙女と呼ばれる彼女たちは、戦場においては戦士の死を定め、勝敗の行く末を決定づける存在である。その戦で息絶えた勇士を選り分け、ヴァルハラへと迎え入れて彼らをもてなすのが、ワルキューレの役割だ。
戦場で横たわる死体を選ぶ女。
主神の命を受け、鎧と兜で身を固めて戦場を駆ける。時には天女のような羽衣を着て勇士に食事を振舞う。
戦場に出る者は誰もが夢を見る。自分が、自分こそが勇士なのだと信じて命を賭ける。戦乙女に見初められ、死後もまた戦う為に。
ワルキューレについての説明を聞き終えたナナはぽつりと漏らした。
「使い走り」
シルトは眉根を寄せて、ナナをじとりとねめつける。
「あんただってメイドじゃん。同じじゃん」
「メイドとパシリを同列に並べられては困ります。いえ、憤慨ものですね。あなたたちは誰かの命令を受けなければ動かない。動けない。仕事だと割り切るあなた方に意思は皆無です。私は、私の意志を以ってマスターに仕えているのですから」
「はあ? ムッカつく。人形のくせにがたがたと言っちゃってさ」
「おい」
ナナとシルトの間に一が無理矢理割って入った。彼はシルトを強く見据えつける。
「喧嘩すんのは良いけどよ、俺がどっちの味方するのか考えてしろよ」
「高が人間が脅してるつもりかっつーの。あんたみたいなのが一人や二人増えたってカンケーないしー」
「だったら二対一でやんのかよ。なあ」
「マスターは手出し無用です。この程度、私の片手で充分ですから」
シルトは舌打ちし、一たちから背を向けて歩きだす。
「言いたい事があんなら聞くぜ」
「そっちこそ聞きたい事があるんじゃないの?」
「意地張んなよめんどくせえな。……ワルキューレって本当かよ。お前も、ヒルデさんも」
「嘘吐いてもしょうがねーし。マジマジ、ソンケーしなよ人間」
出会った時から色々な意味で人間離れしているとは思っていたが、本当に人間ではなかったとは。一は混乱していたが、何を今更と開き直る。自分だって、とうの昔にそれを諦めているのだから。
「私もシューもルルもワルキューレだよ。けど、ヒルデさんは違う。あの人は別格。マジ、すっごい、超やばい」
「頭悪い説明……にもなってないぞ。つまり、ヒルデさんって何者なんだよ」
「んー、リーダー? みたいな感じ。私らはさ、いつも何人かで動かなきゃなんないの」
「お前らグループのリーダーか。はあ、なるほど」
「ちっげーし。ヒルデさんは私ら全体のリーダーだから」
またもや要領を得ない話である。一はシルトのこういうところが嫌いだった。
「察するところ、ヒルデさんはワルキューレという種を統括する……噛み砕いてしまえば一番偉い方、ですか」
「はあ? あー、なんか難しいけど、多分そんな感じ」
理解はした。が、ならば尚更納得出来ない。ワルキューレのトップであるヒルデが、何故あの男と連れ立って、ルルを負傷させたのか。
「ヒルデさんが天使なのは分かった。なら、あいつは誰で、どうしてお前らの仲間がやられなきゃならないんだ」
「……それは、その、分かんない。ヒルデさんがあいつと一緒にいて、どうしてルルがあんな目に遭っちゃったのか、分かんない」
だから。だから、一と会ってしまった。シルトたちは朝早くから、この辺りを捜し回っていたのだろう。ヒルデを、ずっと捜していたに違いない。
「ヒルデさんはお前らには何も言わないで、勝手に出ていったって事なのか」
「うん。マジで、もう、意味が……」
「では、彼女といた男とは何者なのでしょうか。ソレとおっしゃいましたが、あの身のこなし、膂力、只者ではないように見受けられました」
シルトは言いにくそうに口を小さく開け、俯く。しかし、彼女は意を決して一を見つめた。
「シグルズ」
「……ナナ、知ってるか? 俺は知らない」
「無論です。私のデータベースに敗北の二文字、ひらがなにすれば四文字の言葉は記載されていません」
ナナはえへんと胸を張るが、視線は宙を泳いでいた。
「シグルズってのが、さっきの男の名前なのか?」
「そうだよ。話の流れで分かるじゃん」
「そうか」一はアイギスを握る手に力を込める。何があろうと、何が起ころうとも、敵になりうる相手の名前さえ把握すればこちらに分がある。
「そいつが、ヒルデさんの……」
「男」
一はシルトを睨みつけた。分かっていても、何度も言うな。
「俺は出会った時から遊ばれていたのか」
口に出して言うと何とも情けない。
「んー、ヒルデさんにはそんなつもりなかったと思うけど」
「そりゃあ、ヒルデさんは本物だから。『私ってー、天然なところがあってー』とか抜かす馬鹿女なんかじゃあなく、『天然なんかじゃないよー』ってちょっとむきになって反論してくるタイプだから。しかもほっぺた膨らませてるから。無自覚に男を勘違いさせる……ああ、ヒルデさん、あなたは天使だ」
「膨らませてねーよ。男ってマジにバカ。バーカ。じゃなくてさ、シグルズが出てきたのはつい最近なんだよ。多分、三日も経ってない。いきなり来たんだと思う」
一は疑わしげな目つきをシルトに向ける。
「昔のって言ったじゃん。あの二人はとっくに別れてんの。ここにだって来ない筈で、いない筈だったし」
「ですが、いる、と。なるほど、あなたたちは上司をかどわかした男を、あるいは自分たちを見捨てた女を追っている訳ですね」
「見捨てられてなんか……!」
シルトは何か言い返そうとするが、力なくうな垂れた。
「事情は呑み込めてきました。しかし、何故北駒台店に連絡を入れたのですか?」
「ルルが、あいつがヒルデさんを見つけたって先に行っちゃって。私とシューだけじゃ捜せなくて、それで……」
「我々に助力を請うた訳ですか。合点はいきました。ですが、それならはっきりと伝えればよろしかったのでは? 店長も困っておられましたよ」
「それは、ダメ。言えなかった。言ったら、ヒルデさんが」
そこで言葉を区切ると、シルトはもう何も語ろうとしなかった。ただ、彼女の顔色は青ざめている。良く見ると、シルトは化粧をしていなかった。それだけ慌てていて、必死だったのだろうと一は認識する。
「言えよ。店長には黙っておくから。なあ、ナナ、何を聞いたってあの人に報告はしないよな?」
「勿論、マスターのご命令には全力で従います」
「だ、そうだ。話してくれ」
「けど、あんたらだって上には逆らえない。すげーめんどうな奴を敵に回すかも」
大剣を軽々と振り回す、甲冑を着込んだ男は面倒以外の何者でもない。が、だからと言って退く理由にはならない。
「あいつが人を襲うソレなら見過ごせない。今更だよ、気にしないで話してくれ」
「そっ、そう? あんた、案外良いトコあんじゃん。えーと、ヒルデさんは、とにかく理由もなしに南駒台店を出てっちゃった」
一は首を振る事で相槌を打つ。
「だから追っ手がかかっちゃったんだよねー。やばいくらいヤッカイなヤツでさ、多分、もうとっくに動いてんじゃないかな」
「追っ手って、もしかして、南の勤務外?」
「はあ? そうに決まってんじゃんバーカ」
一とナナは顔を見合わせ、声を潜めた。
「また、南を敵に回すのかよ」
「問題ありません。いざとなれば店長に告げ口しちゃいましょう。ワルキューレがどうなろうとマスターとナナのしったこっちゃないのです」
「そうしよう。とりあえず、気にすべきはあの野郎だな」
「ちょー、こそこそしないでよねー。つーか北駒台ってどっちだっけー?」
「ああ、悪い悪い。こっちだよ、おら、俺の尻を眺めながら歩け」
「コーロース!」
バーサーカー。
彼、鹿賀徹夫はそう呼ばれていた。尤も、北欧の神話に登場するような神代のモノではない。れっきとした人間である。そう、一応は。
恵まれた体躯に、希有な身体能力。それだけでも勤務外としては及第点だろうが、鹿賀にはもう一つ、卓越した才があった。技術部が開発した、肉体を変化させ、能力を向上させる薬との相性が抜群に良かったのである。
気付けば、彼はその名にひけをとらない風に呼ばれていた。
鹿賀の目的はただ一つ。店長に次いで南駒台店の勤務外を束ねていたヒルデの口封じだ。戦乙女。野獣。狂戦士の長である彼女がその気になれば、南駒台店どころかオンリーワン全体にすら害を与えかねない。生死問わず。鹿賀の目的は、ヒルデを止める事だ。
が、仮にもバーサーカーと呼称される存在が、生死を確認、認識出来るレベルでの戦闘を行なえるのか。あるがまま、狂ったように戦いに身を投じ、戦いに興じるのではないか。考えるまでもない。答えは否で、是である。
不機嫌だ。私は機嫌が悪いぞー。とでも言うかのように、店長はハイペースで煙草を消費していた。
「もう一度言うが、そいつを追い出せ」
「はあ? だからあ、どうして私が追い出されなきゃなんないワケ? 連れてきたのはそっちじゃん」
「あ? 一、本当か?」
めちゃくちゃ睨まれたので、一は素早く視線を逃がす。
「あー、堀さんから聞いてませんか? 何か、こいつが事情に明るいんじゃないかと思って。ほら、一応はその場にいましたから」
「聞いたとも。は、偶然にも。偶然にもそこに出くわしたとな。偶然。偶然ときたか。素晴らしいなあ」
全く信じていない。店長は自分以外を全て疑っているようだった。
「うっざー。だから北の連中は嫌いなの。かったるー、オバサンってのはどいつもこいつも」
「黙れ糞ガキ。文句があるなら消え失せろ。それとも何か、お前は嫌いな連中に用でもあるのか?」
「ねーし!」
「では、何故ウチに連絡を入れた?」
その場が一瞬間凍りつく。それだけで、店長の溜飲はいくらか下がった様子であった。
「見くびるなよ。声を聞けば誰にだって同一人物だと分かる。伊達にクレーム処理はこなしていないんだ」
「大概無視してるじゃないですか」
「おい、一」
「なんですか店長」
「死ね。それで? 南駒台さんがこんなところまで何かお困りか? 死ぬまで困れバーカ」
大人気なかった。店長はくるりと椅子を回転させて、一たちから背を向ける。
「お前が死ね! もう良いし、こんなババアに何が出来るっつーの。ほら、行こう」
「……え? 行こうって、俺に言ってんのかアーパー」
「アー……何それ? つーか、つーかさ、そうに決まってんじゃん。話聞いたんだから手伝ってくれるんでしょ」
一は困ったように、と言うか困っていた。ヒルデの事が気になるのは確かだが、こんな状態の店長から逃れる術を持ってはいないのである。あとでどんな酷い目に遭うか分かったものではなかった。
「オッケー、行けたら行くわ」
「来る気ねえんじゃん!」
「マスター、そろそろ本気でつまみ出したほうがよろしいのでは?」
「うーん。じゃあ」
「じゃあって言うな! イウナヨー!」
わざとらしい動作で耳を塞ぎ、店長は短くなった煙草をぺっと床に吐き捨てる。瞬間、一がちりとりと箒を引っ張り出して吸殻を片付けた。
「流石はマスター、惚れ惚れする清掃技術です」
「うん、いや、お前はこの為だけに生きてるって感じがするな。私もポイ捨てする甲斐があるというものだ」
「ありがとうございます」
恭しく頭を下げる一の後ろで、シルトが苦々しい表情を作っている。空中ブランコで死者が出る。ゾウの火の輪くぐりでピエロが死んで、猛獣が観客席で暴れ回る。最低のサーカスを見終わったあとでも、こんな顔はしないように思われた。
「仕事しろっつーの!」
「半分ニートのくせに何言ってやがる」
「はあああっ!?」
その時、シルトの声に重なるようにして電話が鳴る。
「やかましいぞお前ら」
「電話と一緒にすんなババア!」
店長はディスプレイに表示された番号を確認した後、憂鬱そうに息を吐いた。
「ふざけるのもそこまでだ。戻ってきて早々だが、悪いな、仕事だ」
ソレが現れた。ただ、今までにはないパターンだったので一は驚く。
「さっきの奴らじゃないんですか?」
「お前らが見たのは一応は人間の形をしていたんだろう? なら違う。また、別のソレだ」
「マジかよ……」一は両手で顔を覆い隠し、その場にしゃがみ込んだ。
「店長、それは確かなのですか?」
落ち着き払った様子のナナに頷いて返し、店長は煙草を銜える。
「馬鹿でかい猪が現れたそうだ。場所は、駒台デパート前の駐車場。全く情報部め、いつの間にいやがったのか、なんて抜かしやがる」
「被害はどうなのですか。この時間では殆ど人がいないとはいえ、ゼロとは限らないでしょう」
「人的被害はなしだ。駐車場のフェンスが破られたぐらいで、ソレはそこから一歩も動いていないらしい。ただ、その時間まで残っていたデパートの関係者が逃げられない」
ナナはカチューシャをこんこんと指で叩いた。
「猪というのは確か、動くものに襲い掛かるのでしたか。神経質で、警戒心も強い。尤も、自ら人里に降りてきているようですけれど」
「いや、関係者が竦んで動けないってところだろう。……巨大な猪か。まあ、所詮は獣。適当にやってやれ」
「はあ? 何言ってんの? これだから北駒台の連中ってのはさー」
今まで黙っていたシルトが口を開けたので、店長は嫌そうに眉根を寄せる。
「まだいたのか」
「いたら悪い? つーか、なんつーか、ソレを舐め過ぎだと思うんですけど?」
「は、お前のような者が私に説くつもりか。たかが猪、仕留められないようでは勤務外としては生きていられん」
「心構えくらいは持ったらどうって言ってんだけど? 猪の怪物が多いって言っても、何かあるんじゃん? バッカ正直に突っ込むだけじゃホントにバカだよ」
一は意外に思った。それは、シルトが『もっと頭を使え』と言っている事ではなく、北駒台店の人間を助けようとする姿勢に、である。
「あのう、店長。俺だってこいつに味方する訳じゃないですけど、情報があるならあるだけ教えて欲しいです」
「……情報部の見間違いかもしれないが、猪の体毛が光って見えたらしい」
光る猪。さっぱり見当もつかないので、一は黙り込んだ。
「ふーん。もしかしたら、えっげつないヤツかもしんない」
「お前、知ってんのか?」
「多分、グリンブルスティっての。水ん中や空を馬なんかより早く走るって言われてる」
「ナナ驚きです。猪にはそんな力も備わっていたのですね」
備わっていない。
「へえ、意外だな。詳しいじゃんか」
「勤務外。勤務外だから。あんた、ソレについてもっと知っといた方が良いんじゃない?」
暗にバカだと言われているようだったが、さっきから何度も聞いた台詞だったので一は気にしなかった。
「仮にグリンブルスティと呼ばれるソレだとして、ウチの勤務外では相手にならないレベルなのか?」
「さあ? 私バカだからわかんなーい」
「良し、行け」
「何が良しなんですかっ、厄介な奴なんでしょうに!」
一は立ち上がり、死にたくないと喚いた。腹を括るまでは逃げ腰の彼に、店長はげんなりとする。
「厄介じゃないソレがどこにいる。でかいとはいえ、猪は猪。的もでかいんだから横合いからガッと行け、ガッと」
「……うわ、マジで言ってんの? あんたらさ、こんなヤツの下でよく生きてこれたねー。私ならこんな店、即辞めてるし」
「嫌だあっ、立て続け過ぎる! 俺のキャパを超えた! もう無理っ、いつか死んじまう今日死んじまう!」
「がたがた抜かす暇があるならさっさと行け。足がないんだから、こっからだと時間が掛かるぞ」
店長は煩わしそうに手を振った。
「今日はもう駄目だ、駄目なんです。必死で耐えてきたけど、やっぱりダメージがでかかったんだあっ。何もかも信じられない、裏切られた俺の心をこれ以上傷つけないでくださいよう!」
割に、良く回る口である。一以外の者は彼を無視しつつ、準備を始めた。
「あー、もう。しょうがないから私も行ってあげる。感謝しろよな北駒台。……って、おい、聞けよ、聞けって、聞けってば!」
「ついてくるのは構いません。しかし空手で戦うつもりですか? あ、いえ、囮になってくださるのでしたら色々な意味で助かりますが」
「はあ? 誰が囮なんかに、なるかっつーの。バーカ。ワルキューレ舐めんな」
「そうですか。マスター、この方をぶっ飛ばす許可をください」
「駄目だ」一は力強く断言する。シルトの前に立ち、彼女をナナから庇うようにして。
「わざわざついてきてくれるってんだから、いざとなりゃ盾にでも囮にでも捨て駒にも出来るだろ? ここでぶっ飛ばすのは勿体ない」
「ああ、流石はマスター、おみそれしました」
「馬鹿とハサミは何とやら。立ってる者は馬鹿でも使え。馬鹿にも五分の魂、だ。どうしようもない頭空っぽな奴でも、使い方次第でどうにでも……」
「こっ、ころ、ブッコロス! 調子乗り過ぎブッコロス!」
「うわあああっ、やめろっ、どこから槍なんて出しやがった!」
「さっさと行かんか馬鹿どもが!」