黄金ライン
ならば、あなたは恋をするなと縛るのか。
ならば、あなたはどこにも行くなと声を荒らげるのか。
ならば、わたしは死者を運ぶだけの存在なのか。
口答えは許されない。神に逆らう愚か者には神罰が下る。下って当然なのだと後ろ指を差されて嘲笑の的になった。
神性を奪われて、彼女は燃え盛る炎の中で眠りに落ちる。
それは、いつ覚めるかも分からない。ひたすらに眠り続けなければならない。あるいは、幸せなのかもしれない。永遠、夢を眺める事が出来るのだから。
そう、彼女は眠り続ける。恐れる事を知らない男が現れる、その時まで。
体を休める暇もない。ここ数日は勤務外として出勤する毎日である。ソレが人間の都合を考える筈もないのだが、少しはこちらの身にもなってくれと、一は仕方のない事を思った。
思って、上半身を起こす。不思議と疲れは感じていない。以前の自分に比べれば驚くべき事なのだが、決して悪くはない変化なので気にはしなかった。
一はあくびをしながら起き上がる。二度寝したかったが、今日も午前中はアルバイトなので彼は暖かい布団へ潜り込む誘惑を断ち切った。偉いぞと自分を宥めながら冷水で顔を洗う。ぐええと呻き、タオルを顔に当てたまま、ぼうっと立ち尽くした。
「……行きたくねえなあ」
三森たちが未だ入院している為、穴ぼこだらけのシフトを残ったメンバーで埋めなければならない。分かっていても、真冬の朝は一からやる気を奪おうとする。たかがバイトじゃんサボっちまえ辞めちまえよと悪魔が耳元で囁いている。悪魔に全面的に同意しながらも、彼は溜め息一つで気持ちを切り替えた。こんな日は外をぶらつくのに限る。散歩していればくだらない気分も眠気もどこかへ吹き飛ぶだろうと、そう思って。
アパートを出ると、知った顔が見えた。なので一は彼女を無視する。
「ちょ、おい! おいっ、はあ!? 無視っ、無視ですか!?」
声を掛けられたが、お腹が減っていたので先に何か買ってくるのを優先させようと一は判断した。が、コートの襟を思い切り引っ張られてしまう。
「だっ、やめろボケ、これは親父の形見のコートなんだぞ」
「はああ? そんなん知らないし、つーかあんたって親子で趣味悪かったんだ」
「笑うな」と一は振り返った。厚手の真っ白いニット帽を被った女がげらげらと笑っている。駒台の駅前や中心街に行けばそこらに転がっていそうな格好をした女は彼を指差してまだ笑っていた。
一頻り笑って満足したのか、オンリーワン南駒台店の勤務外店員、戦乙女のシルトは大きなサングラスを外して一の肩に手を置く。
「だっせーのは父親譲りだったんだね。うっ、同情するよ、あんたの父親に」
「黙ってろよ小娘が。そんな事より、俺たちの縄張りに何の用だ」
「縄……? うわ、エロっ!」
「エロくねえよやっぱ馬鹿だなお前」
どうにも、シルトに対しては強く出てしまう。一は口の悪さを自戒しながらも、矯正しようとは思わなかった。
「南駒台の勤務外め。ここは北駒台の領土だぞ」
「何それ? バッカじゃん。つーかヒルデさんとかちょくちょくこっちに来てんだけどー」
「ああ、ヒルデさんは良いんだよ」
一はにっこりと笑う。
「差別だー! 知ってるぞ北駒台、センミンシソーは良くないってヒルデさんが言ってたもんね!」
「差別じゃないよ。俺の嫌いなものは差別とニット帽を被った女だからな」
「あ、ああ、そっか。それなら」言って、シルトは自分の頭に手を当てた。
「私じゃん!」
哀れむような、悲しむような色を浮かべた一の瞳はシルトを捉えない。彼は、彼女の頭の中と同じくらいに晴れやかな空を見上げた。雲一つない、馬鹿みたいに良い天気である。
「この辺うろついてたって事は何か、もしかして俺に用事でもあったのか」
「んなわけないじゃん。あんましチョーシ乗ってっと痛い目見っからね北駒台」
「あっそ、嬉しい限りだよ。うぜえからさっさと消えろよ」
一は歩きだした。シルトは彼の後ろを歩く。
「……ついてくんなよ」
「私の前を歩かないでくれない? マジうざい。死んじゃえよ。つーか、っつーか死なすっ、コロス!」
「だったらオルァ、先に行けよ」立ち止まり、一は前方を指差す。
「は? 誰に指図してんの? そっちがどっか行けば良いじゃん。あったま悪くね、あんた?」
「てめえに言われたくねえよっ」
アルバイトまでは時間がある。来た道を戻って遠回りで店まで行けば良い。こんな脳みそ海綿状の女と話していてはこっちまで馬鹿になってしまう。そう考えた一は大股で歩き始めた。
が、シルトは方向を転換して歩く。つまり、一の後ろをてくてくと。
暫らくはシルトを無視していた一だが、彼女が石や空き缶を蹴ってぶつけてくるので我慢出来なくなる。
「お前は頭が悪いから皮肉は通じない。だから簡単に言うぞ。死んでくれ」
小石が一の顔面、すぐ真横を飛んでいく。
「……死ね、じゃなくて、死んでくれ、と、これでも譲歩したつもりなんだけどな」
「はああ? ジョーホって何? ブランド? つーかマジにムカつくんだけど。そのイライラする話し方、やめてくんない?」
「やめて欲しいのか? はっ、絶対やだね。勝手にイライラしてろやストーカーが」
「だっ、誰が!」
お前だよ。一は顔が真っ赤になったシルトを指差す。
「俺とお前は仲良しこよしじゃねえんだ。誰がどこからどう見ても、お前は俺のあとをつける不審者でしかない。これくらいは分かるだろ」
「私馬鹿だからわかんなーい」
「よっしゃ、そこの電信柱に頭百回打ちつけろ」
「なんでっ!?」
「したら死ねるぜ」
一の靴、その爪先に小石がぶつかった。彼は転がっていく小石を見送らずにシルトを睨む。
「つーか、つーかさ、どうしてそんな冷たいワケ? フツーさあ、私みたいなかーわいい子には優しくしてあげようとか思うっしょ」
にっと、シルトは笑んだ。一は睨んだ。
「どの口で言うか。大体だな、第一印象が最悪だったんだよ」
「第一印象?」
オウム返しするシルトに、こいつ脳みそ詰まってんのかと疑いながらも、一は初めて彼女と出会った時を思い出す。
「出会っただけで、それだけで、三対一でボコられた」
「そんな事あったっけ」
「誤魔化そうとしても無駄だぞ。お前がハゲたのは、その時糸原さんにやられたからじゃねえか」
「ハゲてねえし!」
シルトはニット帽を外して、長く伸びた髪の毛を一に見せつけようとした。彼はそれを無視した。
「あーあーあー! 覚えてますよー今でもっ、あの化け物! 私らがまるで子供みたいにやられちゃったんでしたねー」
「化け物? ああ、糸原さんに言いつけてやろう。南がまた喧嘩売ってきたって」
「ちょっ、マジ勘弁してよ。私やシューはともかく、ルルはトラウマ? ウマ、シカ? タカトラ、バッタ? なんだって」
「ウマシカはお前だよ。はあ、と言うか、何と言うか」
ある意味、流石は糸原か。一は少しだけ彼女らに同情する。
「あん時の借りならカトブレパスで返したじゃん。めっちゃくちゃに泣いてたあんたを助けてやったのはどこのどなた様か言ってみればー?」
「ヒルデ様」断言。
「私も助けたもんね! あっ、それだけじゃないし、野球ん時も助けてやったじゃん!」
一は腕を組み、難しい顔を作った。そして、心底嫌そうに頭を下げる。
「あの時はありがとう」
「ぎゅ……っ!」
「ぎゅ?」
奇声が気になって頭を上げようとするが、一の頭はシルトによって再び下げられてしまった。
「急にフツーになってお礼なんか言わないでよ。キショイ」
「お礼を言ってキショイと言われるとは思ってなかった。で、気色悪い奴に何か用事か?」
「だから、用事なんか……」
「わざわざこんな時間、こんなところに来ないだろうが。借りなら返すけど、金なら貸さねえぞ」
ズボンのポケットから薄っぺらい財布を取り出して、一は二、三回それを振る。悲しくなるほど見事なまでに空っぽだった。
「……だっさー。恵んであげよっか、ほら、十円」
「いらんわ。せめてその十倍持ってこい。俺に頼み事があるならその一万倍は持ってこい」
「一万……? えーと、十の十倍が百でー、百の十倍がー」
「冗談だよ。そんな計算お前には出来ないだろうからな」
「はあああ!? 出来るし! バッカじゃん、お前」
一は顔をしかめて、近付いてくるシルトから離れる。
「朝からうるせえなあ。全くよう、良いご身分じゃねえの。こっちはバイトだってのに、そっちは遊んでられるんだもんな。良いよなあ、まだオープンしてねえくせに遊ぶ金はもらえるんだから」
「なっ……! 私はっ」
シルトは言い掛けて、うな垂れた。
「私は、何だよ?」
「うるせえっ、とっととくたばれ勤務外! 北駒台なんかとっとと潰れろ!」
顔を上げたと思ったら、すぐにどこかへ走り出す。朝から元気な女だと、シルトの背中を眺めつつ、一は溜め息を吐いた。
「朝飯だあ?」
睨み、凄みを利かす店長から視線を逸らしつつ、一は頷いた。
「ほーう。なるほどな、朝ごはんをくださいと言うのかお前の口は。ならば私はお前の母か? お前の女か?」
「や、やだなあ店長、そんな気持ちの悪い事を言わないでくださいよ」
「だったら言わせるな。……仮にお前の母なら、産んだ直後にお前を殺す。お前の女には死んでもならん。お前に食べさせるものはない。帰れ」
「帰れって、そろそろシフトなんですけど、俺」
「じゃあ残れ」
一はパイプ椅子を組み立てて、力なく腰を下ろす。
「お腹空いたなあ。こんなじゃ力が出ないなあ」
「自分の顔でもちぎって食ってろ」
「……猟奇的な。ん? いや、待てよ。店長、俺はこの店のものに手をつけても問題ないんじゃ? だってほら、かなり前ですけど、三森さんがお金払わずに色々と持ってったり食べてたりしてましたよね」
店長は煙草に火を点けると、座ったままの体勢から椅子を器用に回転させた。
「その権利を放棄したのはお前だ。金を払うのが当たり前だと言ったのはお前だ。それに、今は三森だって金を払ってるぞ」
「へ? そうなんですか? へー」
「そうだ。何だ一、三森の事には興味がないのか」
「今、俺の脳内を占めるのは炭水化物、たんぱく質だけです。それ以外の何かが入り込む余地はありません」
恨めしげに店長を見遣る一だが、彼女は微動だにしない。
「金、金、金。商品が欲しいなら金をよこせ」
「えー、消費期限切れてるんだから良いじゃないですか」
「知っているか一、鳩が増える原因と言うのはだな、人間が奴らに餌をやるから、なのだそうだ。鳩どもの餌の八割近くは人間が与えるものらしい。人間は餌をくれる生き物だと知っているから、奴らは人に集ってきやがる。充分な餌を与えられて鳩の数は増える。人間は懲りずに餌をばら撒く」
一は首を傾げる。
「何が言いたいのか分かるか?」
「あー、つまり、俺は鳩だと?」
「いや、そこまでは考えてなかった。しかし、まあ、そうだ」
気を取り直した風に呟くと、店長は熱せられた火種を一に向けた。
「金さえ払えば文句はない。お前一人にやって、別の者にやらない訳にもいかんだろう。ほら、言い出すとキリがない。諦めろ」
「俺は諦めてるんですけど、お腹の虫がぐうぐうと」
「無視しろ。さっさと働け。働けば気も紛れる。働けば金も手に入る。一石二鳥だろう」
取りつく島もない。一は本格的に諦めて椅子から立ち上がる。
「金、金、金。嫌な世の中ですね全く。お金よりも大事なものは山ほどあるでしょうに」
「ないな」
「でしょうね」
皮肉っぽく笑み、一はロッカーから制服を取り出した。
「しかし、意外と金遣いが荒いんだな。ウチの給料、そう安くはないと思うんだが」
「額だけ見りゃそうでしょうね。けど、一応命を張ってますから」
「それぐらいもらって当然だと?」
「そこまで傲慢にはなれませんけど」
制服に着替え終わった一は弱々しい笑みを見せる。
「給料には満足してますよ。それから、金遣いも荒くはないと思います。……俺は」
「ああ、厄介な同居人がいるんだったな。追い出せば良いんじゃないか?」
「出来たらとっくに追い出してます」
その返事を聞くと、店長は愉しそうに、嫌らしそうに口角をつり上げた。
「本当は糸原を追い出したくないんだろう?」
「俺にも堪忍袋ってのがありますからね。はあ、お腹減った」
「しつこいぞ」店長は短くなった煙草を灰皿に押しつける。吸殻で山盛りになっていたので、溢れた灰が机に飛び散った。
「そういや、ナナが来ていないな。珍しい、あいつでも遅刻をするんだな」
一は時計を見遣ってから頷く。
「遅刻なんて初めてじゃないですか?」
「糸原や立花ならいざ知らず、何かあったのかもな。面倒だが、技術部に連絡を入れてみるか」
店長が受話器に手を伸ばし掛けた瞬間、バックルームのドアが勢い良く開かれた。
「マスターは無事ですかっ!?」
いつになく焦った様子のナナがバックルームに飛び込んでくる。が、彼女はそこにいた一を認めて安心したように胸を撫で下ろした。
「あ、えーと。まあ、俺は無事? だけど」
「良かった。マスターに何かあってはメイド失格ですからね」
「おい、ナナ。それよりも私に一言あるんじゃないのか」
ナナは店長を一瞥してから、スカートの裾を摘んでお辞儀をする。
「本日もご機嫌麗しゅう」
「違う。遅れてすいません、だろう。これからは遅れるなら遅れるで連絡を入れろ」
「申し訳ございません。マスターの家に寄っていたものですから」
「え?」
「そうか。それじゃ、シフトに入れ」
「かしこまりました」
「おぉい! っておい! おかしいだろ!」
うるさい一を店長とナナが見つめた。
「どうしました、マスター。まさか、お体が優れないのでは……?」
「じゃなくて、どうして俺の家に寄るんだよ」
「メイドですから」
事もなげに言い放つナナに、一はしばし呆気に取られてしまう。
「勝手に部屋へ上がり込んだんじゃないだろうな?」
「今日は天気が良かったので、お布団を干しておきました。お仕事が終わったら取り込みますね」
「ありがとう! もうありがとう!」
「お礼など勿体ない。この身に余る光栄でございます」
皮肉すら通じない。
「それよりもマスター、お出かけになるのでしたら私に一声お掛けください。全く、私がどれほど心配したとお思いでいらっしゃるのですか」
「ああ、その、アレだな、一。囲うのは構わんが、もう少し財力に余裕を持ってだな……」
「囲ってねえよ! むしろ囲まれてるって感じです!」
「おっしゃる通り。ナナはマスターを愛で包み込むようにして、お仕えさせていただいています」
むしろ樽の中に押し込まれて外側は鎖でぐるんぐるん。
「ところでマスター、冷蔵庫が空でしたが、朝食はもう召し上がってしまわれたのですか?」
「いや、まだだけど」
「ではっ、すぐにっ、何か持ってきます!」
言うが早いがナナはバックルームを飛び出した。その後姿を、店長が呆けた顔で見送る。
「まるで別人だな」
「誰が一番驚いて、誰が一番困っているか分かりますか?」
「困っているならそれらしい態度を見せたらどうだ。本当に、口だけは達者だなお前は」
「それより飯食って良いですよね」
ちゃっかり店長の隣に座り、机の上を片付けている一がいた。
「念の為に言っておくが、勤怠登録してるよな、お前」
「マスターお待たせしました!」
ナナが両手いっぱいに商品を持ち帰ってくる。彼女は机の上にそれらを広げて、何故だか申し訳なさそうに俯いた。
「こんなものしかありませんでした。マスターのお気に召すかどうか……」
「大丈夫、我慢するよ」
「流石はマスター、海よりも深く山よりも高く空よりも広く獅子よりも気高い心をお持ちですね」
店長は新しい煙草に火を点けようとしたが、手首をナナに掴まれる。
「いけません、マスターのお食事中にお煙草はご遠慮願えますか」
「……分かったから離せ。私の手首を折る気か」
「必要とあらば。あるいは、マスターがそう命令すれば、どなたの手首であろうとも折ってご覧に入れましょう」
一は我関せず、ツナマヨネーズのおにぎりを平らげた。
空腹の満たされた一はきっちりと交代の時間近くまで働いた。尤も、それは当たり前であり、当たり前にこなすべき仕事なのである。それでも彼は満足げだった。
「いやー、今日も殆ど客が来なかったなあ」
「お陰で殆ど二人きりでしたね、マスター」
「あっはっは、この店どうなっちゃうんだろ」
「仮にもオンリーワンの支店です。潰れる事はないと思われますが」
ナナは何気なく窓の外に目を向ける。
「南駒台店がオープンしてしまえば、どうなるか分かりませんね。いざとなると、売り上げの低いこちらが吸収されてしまうかもしれません」
「それはそれで良いんじゃないのかな。人も増えるし時給も上がるし」
「そう、なのですか? 人員に関してはともかく、時給が上がるとは聞いた事がありませんけれど」
しまった、と一は内心で頭を抱えた。南駒台店の時給について知っているのは、引き抜きを打診された自分だけなのである。
「ま、まあ、オープニングスタッフってのは時給が高いもんなんだよ。経験者だから、こっちよりも優遇されたり」
「なるほど。ですが、私は、このままでも充分だと思います」
「そうかあ? だってさ、しんどくないか? 待遇だって、人数だって中々に辛いものがあると思うんだけど」
「人が増えれば、その分マスターと一緒にいる時間が少なくなってしまいます。それはナナにとって、あまり嬉しい事ではありません」
ナナはきっぱりと言い切り、今、良い事を言ったでしょうと言わんばかりに胸を張った。
「俺に何を期待しているのかは知らないけど、色々と買い被り過ぎ。勿体ねえよ、他の人に仕えた方が良いと思うけどな。いや、仕えさせてるつもりもねえけど」
「今更何を仰いますか。マスターはマスターです。それで充分なのです」
「……極端な奴」
一は呟き、店内に入ってきた人物を見て、顔を引きつらせる。
立花真。
神野剣。
「あら」
それから、
「店員さん、こんにちは」
立花新。
そろそろ交代だから、立花と神野が店に来るのは当然で、二人が連れ立ってきたのは非常に喜ばしい事で、しかし、どうしてここに新がいるのか一には分からない。彼はナナの背中に隠れて知らない振りで通そうとした。
「はじめ君、ナナちゃん、おはようっ、ございます!」
「おはよう立花さん。神野君もおはよう」
「お二方、おはようございます。本日は良いお日柄ですね」
駆け寄る立花から少しだけ距離を取り、一は神野に声を掛ける。
「……おはようございます」
会釈し、神野はバックルームへと向かった。何だか針のむしろに座っているようで、むしろ座らせて欲しい気分に一は陥ってしまう。どうやら、彼はまだ勘違いしているようだった。
――――ま、誤解ならいつでも、どうにでもなるだろ。
楽観的に考えて、一は立花を見送る。
「店員さん? 私に挨拶を返してはくれないのですか?」
「マスター、こちらの方とお知り合いなのですか?」
「えー。まあ、知り合いっちゃあ知り合いだよ。立花さんのお母さんだからさ」
「そうでしたか」
ナナは新に向き直り、丁寧にお辞儀をした。
「申し遅れました。私はナナ、立花さんとは同僚の間柄、でございます」
物珍しそうな視線を送った後、新は口元に手を当てて微笑む。
「まあ、可愛らしいメイドさんですね」
「あ、メイドだって分かってるんですね」
「失礼ですね、店員さんは。それくらい私にだって分かりますわよ」
新は笑いながらカウンターへと近付き始めた。彼女はカウンターの中にいる一へと手を伸ばそうとして、その手をナナに掴まれる。
「あら?」
「カウンターに身を乗り出すのはおやめください。危険ですので」
「ふふ、誰が?」
「そうですね。今はあなたが危険ですよ」
ナナが力を込めようとした瞬間、新がするりとそこから逃れた。一は再び顔を引きつらせている。
「恐ろしいメイドさんですこと。私はただ、未来の旦那様にご挨拶をしたいだけなのに」
「……旦那様?」
「ええ。その方は『立花』の現当主にして『立花』五代目、即ちこの私、立花新の旦那様ですの」
にっこりと新が微笑んだ。ナナは微笑んで返す。
「ありえません」
ナナはカウンターから出ると、新を押し留めるように両手を突き出した。
「仕事の邪魔になります。どうぞお引き取りを」
「では店員さんを引き取らせていただきますわね」
「減らず口をっ」
ナナの気勢を涼しげな顔で受け流し、新は一に目を向ける。
「式場はどうしましょうか?」
「……お好きに。俺は関係ないですから」
一はこれ以上付き合っていられないとばかりにバックルームに向かって歩き始めた。
「マスター、この方を殴り飛ばしてもよろしいでしょうか」
「流石に駄目だろ。ほら、交代だからナナも戻るぞ」
「ですが許せません。マスターを侮辱するばかりか、あまつさえ……」
ナナは新を睨みつけるも、当の彼女はレジ前のおでん鍋をじっと見つめている。
「侮辱などとは失敬な。『立花』の一員になれるのですから、むしろ誇ってもよろしいくらいですよ。あ、店員さん、おでんをくださいな」
「お客さま、おでんはセルフサービスとなっております。どうぞお引き取りを」
「良いよ良いよ、俺がやるから。ナナ、レジ打ってくれ」
半ば諦めながら、一はカウンターに戻って空の容器を手に取った。彼はトングをかちかちと鳴らして無言の催促をする。
「迷いますね。何かおすすめはありますか?」
「こちらの大根はいかがでしょう。煮込み過ぎて不細工に崩れていますが、あなたにはお似合いだと判断します」
「ではその大根はメイドさんに譲りましょう。店員さん、ダシは少なめでお願いします」
「かしこまりました。おすすめは、あー、厚揚げなんかは染みてておいしそうではありますね」
そろそろ廃棄処分になりそうでもある。そんな事はおくびにも出さずに、一は何食わぬ顔で厚揚げを掴んだ。
「いただきましょう。……小桜はないんですね」
「あ、そういや前に立花さんも同じような事を言ってましたね」
「あら、あの子が? ……なるほど、ここにいない娘について話す。夫婦ですわね」
「どこが」
「ナナ、勝手に水増しするな。ちゃんとレジを打ちなさい」
いつの間にか金額がおでんだけで五桁になっている。一はレジの液晶と、それからナナの横顔を見遣った。
「仕事は仕事。お客さまはお客さま。割り切りたまえナナ君」
「はい、確かに割り、切り、殴り、蹴り、嬲りたいですね」
「全部聞こえてますわよ。ん、辛子は一つだけで」