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24時間戦う人たち  作者: 竹内すくね
サンダーバード
184/328

その小さき手に



 腕一本で充分だ。



 ぐにゃりと目の前の空間が歪む。

 ぐらりと足元がふらつく。

「どうしたでござるか?」

 刀を両手で握り直して、立花は何度も頭を振った。額からは汗が滲み、彼女の前髪を濡らしている。

「何を……?」

「何を、とは?」

 声が震える。足が震える。着流しの男をまともに見る事が出来ない。立花は俯きながら、それでも刀を彼に向けた。

「まさか、竦んでいるのでござるか?」

 男の声が耳に纏わりついて離れない。先刻までとはまるで違う。対峙しているだけで、ただただ恐ろしい。

「切っ先が定まっておらぬ。足元も、視線も、どうした、こちらを向いてみせるでござる」

 男がにじり寄り、立花は短い悲鳴を上げた。彼はそれが気に入らなかったのか、不満そうに鼻を鳴らす。

「拙者の力を見たかったのではなかったのか。やはり、骨がない。昨夜の剣士との死合いは心が踊ったぞ、イヌめ」

 強烈な重圧、質量を伴った殺意によって周囲の空間ごと塗り込められていく。立花は声すら出せないでいた。

「その程度で拙者の前に立とうとしたのか。見ているこちらが哀れむほどの力でっ」

 腰を深く落として、男は剣の柄を指で叩いた。立花との距離は三メートル弱。だが、彼はそこから動かない。そこからでは届かない筈だと言うのに、立ち上る殺意を一層強める。

「抗う事もしないまま……良い。そっ首、切り落とすでござる」

 抜かれる。剣を抜かれる。動けないから、死ぬ。切られて死ぬ。首を落とされて死ぬ。分かっていても立花は動けない。死にたくないと、涙を流したまま。



 ビルに入ってすぐに立花は見つかった。彼女の前方には隻腕の、着流しの男が腰を低く落として構えている。何をすべきなのか直感で理解した。

「立花さんっ」

 立花は動かない。呼び掛けにも反応しないで震えている。俯き、刀を下ろしている。相対する男からは武器を、殺意を収めるつもりはないように思えた。

 一はアイギスを広げながら駆け出した。着流しの男と目が合い、射抜かれるような、切り捨てられるような視線を注がれる。無視して、彼は立花と並んだ。

 着流しの男が体を身じろぎさせる。一は次の一歩で立花の前に立った。彼女を庇うようにしてアイギスを掲げる。瞬間、彼らの横を疾風が吹き抜け、盾を通して一の両腕に微弱な衝撃が走った。一も立花も目を瞑り、それから着流しの男を見遣る。

「……ううむ」

 (ちん)、と音が鳴り、男は剣を鞘に収めた。彼は片目を瞑り、難しそうな顔で一を見返す。

 一は片手でアイギスを構え、もう片方の腕で立花を抱き寄せた。彼女はされるがままにされ、床に視線を落とす。

「貴殿、名乗られよ」

「……俺の? は、嫌だね」

「残念でござる。拙者のアレを、無傷で受け止めたのは貴殿が初めてだ」

 嬉しくも何ともなかった。一は警戒の姿勢を崩さないで男を睨み付ける。

「サムラァイではござらんようだが異国の戦士、貴殿が持つのは傘ではあるまい。自慢ではないが拙者、天空をも切り裂けると自負しているのでござる。先の一振り、貴殿諸共そこのイヌを切るつもりでござった」

 しかしと付け足し、着流しの男は息を吐く。

「阻まれてしまった。その傘、一体……?」

「悪いけど教えられないな、侍」

 侍と呼ばれて、男は残念そうに首を振った。

「拙者、サムラァイではござらん。そう呼ばれるのは拙者が腕を上げ、強者の域を少しでも垣間見る事が出来たなら……」

「……謙虚な辻斬りもいたもんだ。で、どうするんだよ。俺たちを帰してくれんのか」

「そこのイヌによって既に興は削がれている、でござる。貴殿と死合いたい気持ちがあるのも確かだが、拙者の力が及ばなかったと諦めよう」

 着流しの男は柄から手を離し、ふう、と、一つ息を吐く。

「もう一度問うが、貴殿の名は?」

「人に名前を聞く時は自分から名乗るのが礼儀じゃないか」

「失礼した。では、改めて名乗らせていただこう。拙者は円卓の奇士が第七席、テュールと申す」

「円卓の……!」

 一と立花が構え、一歩退いた。着流しの男は何も言わず、顎をしゃくって一を指す。

「佐藤」

「サトウ? サトウ。謙虚な名だ。覚えておく、で、ござる」

 男は一たちに背を向けて歩き始めた。彼が向かう先には階段があり、どこから建物を抜けるのかが気になったが、一は何も言わなかった。

 得体のしれない圧迫感から解放されて、一は安堵の息を吐き出す。彼に抱き寄せられたままだった立花は息苦しそうに呻いた。

「あ、ああ、ごめんね」

 立花は何も言わないで俯く。彼女の掌から抜き身の刀が零れ落ち、高く、耳障りな音を放った。

「立花さん?」

「どうして、来たの?」

 拒絶の言葉ではないのだと知ると、一は胸を撫で下ろす。今の立花は自分の知る、彼女なのだと思い知る。

「どうしてって、まあ、アレだよ。仕事だから」

「お仕事?」

「そうだよ」と一は首肯した。

「勤務外だからね。それに、立花さんが心配だったから」

「……ボクが?」

「そうじゃなきゃここまで来ないよ。俺も店長も……神野君も。皆が心配してる」

 少し露骨な言い方だったろうかと思ったが、鈍い立花にはこれくらいが丁度良いのだと一は思い直した。

「ボク、はじめ君やけん君に酷い事しちゃった……」

「気にしてないよ。それより、その、いつもの立花さんに戻ったみたいで嬉しい」

「いつもの?」

 きょとんした顔で、立花は一を見る。その距離が存外に近く、彼はようやくになって彼女から手を離した。

「笑わなくなったじゃないか。新さんの前でずっと俯いてさ」

「あ。ん、うん。お母さんに、そう言われてたから。……嫌、だった?」

「いきなりでびっくりしたけど、でも、理由があるんならもう良いよ」

「良かった。はじめ君に嫌われなくて」と、立花は笑う。居たたまれなくて、一は目線を逸らした。

「……聞きたい事があるんだ。多分、色々とあったんだとは思うけど、一つだけ聞かせてくれないかな?」

 立花は頷き、まっすぐに一を見つめる。

「立花さんは、全部知っていたの?」

「……全部って?」

 新に利用されていたのか。着流しの男が『立花』の仇だと知っていたのか。話したい事、聞きたい事が浮かんでは消えていく。

「はじめ君が言っている全部、多分、ボクは分かってる」

「…………君は」

 その笑みはあまりにも儚げで、今にも壊れてしまいそうな危うさを孕んでいた。一は立花に触れようとして腕を伸ばしかけるも、必死で堪える。

「ボクに聞きたい事って?」

 ――――どうして、どうして、どうして!

 十七かそこらの人間にこんな顔が出来るものなのか。そんな顔をさせる環境なんて存在しても良いものなのか。喉から、腹の底から何かが込み上げてくる。それでも尚、何も言えない自分が憎かった。一は拳を握り締めて、涙を流すまいと歯を食い縛る。

「ごめんね。はじめ君はボクの事考えてくれてるのに、ボクは、こうなんだ。だから……」

「……立花さんはどうしたいの?」

「どう、したい?」

「君は、『立花』でありたいの? お母さんの言われるままに従って、刀を振るって戦って、好きでもない相手と結婚したいのか?」

「分からない。ボクには、そんなの……」

 立花は一から顔を背けて、逃げるように背を向ける。

「もし、もしも立花さんが『立花』から逃げたいって言うのなら、全部投げ捨てたいって言うのなら、俺は手を貸すよ。俺だけじゃない、きっと、皆助けてくれる」

 何を言っているのか自分でも良く分からない。しかし、溢れてくる言葉を止められない。一は縋るような声を絞りだした。

「君はイヌでも人形でもない、人間なんだ。何をしたって構わない、誰かの命令に従わなくったって……!」

「でも」

「押し付けがましいよね。けど、ごめん。ごめん、お願いだから、何か、言ってくれよ。じゃないと、そんなの」

「……ありがとう、はじめ君」

 立花は振り向き、刀を拾い上げる。

「でも、ボクは立花真なんだ。『立花』の六代目で、家を、皆を守らなきゃ。それにボクは、ボクは……お母さんが、好きだから」

「立花さん、でもっ」

「ご飯が、食べたいな」

 一は不思議そうに立花を見遣った。彼女は恥ずかしそうに頬を掻き、視線を逃がす。

「お腹減っちゃったよ、ボク。えへへ、だめ、かな?」

「ううん、俺で良ければ、腕を奮うよ」

 それぐらいなら、彼も許してくれるだろう。一はゆっくりと頷き、おどけてみせた。



 廃ビルを抜けると、入り口のすぐ傍に新が立っていた。彼女は所在なげに手元を遊ばせている。

「どうも」と、一が声を掛けると、新は凛とした表情を作った。彼女は立花を鋭く睨み付ける。

「あ、おかあさ――――じゃ、なくて、母様、そのう……」

 立花は刀を握ったままもじもじとしていた。ふと我に返った一は、彼女から少し離れて新をじっと見つめる。

「ボ、ボク、言われた事、ちゃんと出来なくて、あの、その……」

 早く言え。一は新を強く見据え付けた。

 新は立花に近付き、そっと手を上げる。びくりと、立花の肩が震えた。

 その手は何かを掴もうとして不自然な動きを見せる。迷っているのだと一は気付いた。

「ごっ、ごめんなさ――――」

「――――お帰りなさい」

 掌は立花の頭をぎこちなく撫でる。彼女は弾かれるように顔を上げ、戸惑いがちに新を見つめた。

「お母さん……?」

 新は何食わぬ表情を作っていたが、立花の視線から逃れようとして目を逸らしている。

「お腹、空いてる?」

「うっ、うん」

「何か食べたいものはある、かしら?」

「お母さんが作ってくれるの!?」

「たまには良いでしょう? 腕を鈍らせるのもつまらないから」

 顔は合わせない。視線さえも交わさない。親子にしてはぎこちない会話で、それでも、二人は心を通わせようとしていた。一は彼女たちを眩しそうに見遣る。

「ボク、お母さんが作ってくれるんなら何でも良いよ!」

「そ、そう?」

「そうだ、はじめ君もおいでよっ」

「……え? いや、俺は……」

 水入らず、水を差すのは流石に躊躇われる。一は考える振りをしてやんわりと申し出を断った。

「えー、お母さんの料理、美味しいのにー」

「あーと、じゃあ、それはまたの機会に。この後、予定があるんだ」

「そうなの?」

「そうなんだ。残念な事に。また、誘ってね。楽しみにしとくから」恐らく、立花は勤務外として店を出たのを忘れている。この後彼女は店に戻らないだろう。ならば、店長たちに事情を説明しなければならない。『立花』の事、円卓と名乗った男の事を。

「今日はもう、ゆっくり休みなよ」

「うんっ、そうするね」

「それじゃあ、俺はここで」

「ああ、真、先にあなたは帰っていなさい」

 言い掛け、立ち去ろうとした一は足を止める。

「え? どうして?」

「私にはまだ用事が残っています。あなたはあの小汚い部屋を掃除しておきなさい」

「え、えへへ、やだなあ、掃除なら……」

「物を押し入れに詰め込むのは掃除と呼べません。私の目を誤魔化せたと思っているの?」

 立花はこの世の終わりを迎えたかのような悲壮な表情を浮かべて、がくりと頭を下げる。彼女のポニーテールがだらりと、哀しげに揺れていた。

「は、はじめ君、それじゃあ、また、明日ね」

「あ、うん。気を付けて帰りなよ?」

「真っ、鞘と袋!」

「え、あ、わあっ!」

 刀身を見せびらかしながら帰るつもりだったのか、はたまたそんな事にも気付かないくらいにぼんやりとしていたのか。まあ、間違いなく後者だろうなと一は思った。



 立花が去った後、先に口を開いたのは一だった。

「用事って、俺にですか?」

「ええ、まあ」

 歯切れ悪く言うと、新は目を瞑る。

「アレで、ご満足いただけました?」

「は?」

「真に掛けた言葉です。店員さんはどう思われましたか」

「聞きますか普通、そんな事」

 一は呆れた風に溜め息を吐いた。

「店員さんと私の普通は、違いますから」

「ですね。でも言いませんよ。あなたはそうやって死ぬまで悩んでいれば良いんだ」

「あら、私の事をまだお嫌いなのですか。あんなにも情熱的に押し倒したと言うのに」

「用事ってのはそれだけですか」

 アイギスを杖代わりに、一はその場にしゃがみ込む。

「……あの方と出会ったのですね」

「あなた、まだそんな事を言いますか」

「そうではなく、よく、生きて戻ってこれたものだと。それも、真も店員さん、二人ともが無傷で」

 一は着流しの男とのやり取りを思い出す。今頃になって彼が異常なのだと認識して肝が冷えた。

「運が良かったんでしょうね。割って入られたのが気に入らなかったのか、特に何もなく帰っていきましたよ」

「そうでしたか」

 新の横顔からは、彼女が何を考えているのか読み取れなかった。一は無闇に追求するのを避け、別の話題を探す。

「店員さんの目から見て、あの方はどう映りましたか」

「俺の意見なんか聞いたって仕方ないですよ」

「そうですか?」

「そうです」と頷き、一は立ち上がって伸びをする。

「でも、アレを立花さんと結婚させるってのはどうかと思いますよ。まあ、あっちにはその気がなさそうですし」

「あの子への嫉妬かしら?」

「俺にもその気はありませんよ」

 その気があったところで、少なくとも今は許されない身なのだ。とは言わないが。

「食事の誘いぐらいは受けてくださると思っていたのですけれど」

「部外者ですから」一が意地悪く言うと、新は扇子を広げて口元を覆い隠す。

「あら、近い将来に三人で食卓を囲むかもしれませんのに。もう、予行演習だと思っていただければ」

「三人?」

 新は無言で一を指差した。

「やーめーてーくーだーさーいー。第一、俺は立花さんに見合わないし、似合わないんでしょ」

「あの方と出会って戻ってこれた。私を押し倒した。及第点ぐらいは差し上げますわ、候補は多くても困りませんもの」

「俺は困ります」

「それに、あの子は店員さんを好いているみたいですし。あなただって、好意を向けられて悪い気はしないでしょう?」

「悪い気なら死ぬほどしますし、立花さんは俺をそういう風には見てませんよ」

 きっと、飼い犬にでも向けるようなそれなのだ。一はそう納得してわざとらしく頷いてみせる。

「冗談を言い合う仲じゃないと思うんですけどね」

「はい? ……ああ、ええ、全く」

「……? じゃ、もう行って良いですか?」

「用事は済んでいませんから、もう暫くおばさんに付き合ってくださいな」

 楚々として笑む新に毒気を抜かれ、騙されていると気付きながらも一は動けなかった。

 が、新は何も話そうとしない。ビルを見上げて、扇子を開いたり閉じたりして時間を食い潰している。業を煮やした一が何か言おうとするが、

「料理はお上手ですの?」

 ぽつりと、彼女は呟いた。

「俺、ですか? ですよね。作れないって事はないですけど、あんまり上手くはないですよ」

「私は、こう言ってはなんですが、下手なのだと思います」

「あれ、でもさっき立花さんは……」

「私があの子に何か作ってやったのは、数えられる程度なのです。刀の扱いは上手くても、包丁など殆ど握った事がないんですよ」

 自嘲気味に微笑むと、新は頬をつねって凛とした顔を作る。

「ほんの気紛れに作った料理を、あの子はまだ覚えていたのですね。それも、美味しいだなんて……」

「嬉しかったんじゃないんですかね」

「ふ。ふふ、何を作ったのか聞いても笑わないでくださいね。……私が初めてあの子に食べさせたのは握り飯と、味噌汁だけですよ? 飾り気のない、歪な。女中が作った方があの子も喜んだでしょうね」

「味や形なんて関係ないと思いますけどね。あなたが作ってくれたから、立花さんは嬉しいと思ったんですよ」

 フォローする訳ではないですがと前置きして、一は話を続ける。

「親子って味覚が似通うもんだって聞きますし。塩加減とか、微妙なところもそうでしょう。小さい頃に母親の料理を嫌っていた娘が成長して料理を作ってみれば、不思議な事に母親の味を再現していた、みたいな話も聞きます。うん、例えば、俺があなたの作った料理を食べて吐き出したとしましょう」

「酷い例えね」

「でも、立花さんは美味しいと言うでしょう。料理ってのはそんなもんなんですよ。一緒にご飯を食べる人によって変わりますしね。気分とか雰囲気とか、割と曖昧なものに左右されます。そう思いません?」

 新は少しの間考えて、眉根を寄せて呟く。

「つまり、私の料理は下手で、あの子の舌が馬鹿なのだと?」

「それは否定しません。……あなたも、否定しないでくださいね」

「……何を、ですか」

「今までやってきた事をです。俺は、間違ってたんだと思いますよ。やっぱり」

 一は頭に手を遣り、申し訳なさそうに俯いた。

「究極的には、俺はやっぱり部外者でしたよ。立花さんはあなたを好きで、あなたも立花さんを好きなんだなって、そう思いましたから」

「どうして、そう思いますの?」

「あはは、死ぬまで悩んでください」

「では、二人で仲睦まじく悩みましょう」

「……はあ、どうぞご勝手に?」

 妙な言い回しに引っ掛かったが、一は適当に流しておいた。

「さて、それじゃあ今度こそ俺は帰ります」

「本題がまだなのですが。もう少しだけ、あなたのお時間を頂いても?」

「まだあるんですか」

 不満げな顔は隠さない。一は気だるそうに体を伸ばした。

「ええ、あなた、私と子を作るつもりはありませんか」

「ありません」

「何も『立花』はあの子だけではありませんよ。そろそろ一線を退く私だって『立花』なのです。不自由はさせませんわ。そう、色んな意味で」

 肌が粟立つ感覚を受けて一は身震いする。新の白い指先から視線が離れてくれない。

「私とあなたで子を成せば済む話だと思いませんか。そうすれば、真だって先程のような目に遭わなくなります」

「度が過ぎれば冗談も冗談じゃ済まされませんよ」

「あら、私は本気で言っているのですけれど」

 にこりと笑む新だが、その目は決して笑っていなかった。

「俺は『立花』に相応しくないんでしょうに。勘弁してくださいよ」

「かもしれませんが、あなたの事は個人的に気に入ったのです。ここまで首を突っ込んでくれる方はいませんでしたから。お節介焼きは良い父親になれると思いますよ」

「い、いや、それはちょっと……」

 一歩引くが、一歩詰められる。

「悪くはしません。『立花』が隆盛した暁には、あなたが望むもの何もかも、いかなる手段を用いてでも差し出しましょう」

「なっ、どうしてそんな。さっきまでとは態度が全然!」

「生まれて初めて押し倒されたのですもの。こんなおばさんに火を点けるあなたが悪いのではなくて?」

「知るかっ」

 一は逃げ出そうとするが、コートの襟をしっかりと掴まれてしまう。

「旦那さんがいるんでしょう!」

「この喪服が見えませんか? 夫に先立たれてしまった私を慰めようとは欠片も思わないのですか? ……まあ、いたとしても構いませんが。若いツバメを囲うのも『立花』の甲斐性ですし」

「いやだあっ」

「いやよいやよも好きの内。式は和、洋、どちらがよろしいですか。でも、私みたいな女がウェディングドレスというのも恥ずかしいですわね」

 聞こえる。一をパパと呼ぶ立花の声が。彼は頭を振って奇声を上げる。新から逃れようとして振り向けば、彼女の真っ白いうなじが朱に染まっていたのが見えて何だかもうどんとこいだった。でもどんときたら取り返しがつかないんだろうなと思い直すのに成功する。

「さっ、さっきの片腕の人が好きだって言ってたじゃないですか!」

「ええ、強い殿方は好きですわ。だからこそ、あなたに焦がれているのです」

「焦がれんでええわ! 嫌だったら嫌です!」

「でしたら本気で抵抗すれば良いのです。先の奇妙な力を使えば、私から逃れるのは容易い筈です」

 そんな事にアイギスを利用すればメドゥーサに殺されそうな気がして、しかし、一は長い間悩み抜く。

「そうしないと言う事は、期待してもよろしいんですね」

「よろしくねぇーよ! 意味が分かんねえ、何だよこれ悪い夢でも見てんのか!」

「夢とはいつも悪いもの。人をこんなにも狂おしい気持ちにさせ、狂わせてしまうのですから。流石、あなたは詩人なのですね」

「あなたのニュアンスが怖い!」

 このままでは本当にどうにかなってしまいそうだったので一は一計を案じた。

「分かったから、とりあえず離してくださいよ。コートが駄目になっちまう」

「好都合ですわ。こんな安物よりもっと良いものを差し上げましょう」

「……何が好都合なのかは知りたくないですけど。これは父親の形見なんですよ」

「あら、それは……」

 新は思わずコートから手を離した。一はまっすぐに走りだす。

「あっ……」

 安全な距離を確保したところで立ち止まり、一はコートを示すように叩いた。

「そろそろ買い替え時かもしれませんね、これ」

「小賢しい方。素敵ですわよ」

「今日のところは、立花さんとごゆっくり。そっちが何もしないってんなら、また今度ごちそうしてもらいますよ。構いませんか?」

「勿論です」と、新は鷹揚に頷く。

「是非、二人きりで」

「あー、いや、それは」

「何もしませんわ。絶対に手を出しませんから」

「信じらんねえ……」

 一は手を振り、一目散にその場を脱した。残された新が意味ありげな笑みをしていたのに、彼は気付かない。

 ともかく、終わったのだ。今日はもう終わった。一は今回を振り返る。お節介だと言われて、言い返せなかった事を思い出す。全く、素直じゃない人間が多過ぎなのだと責任を転嫁した。結局、自分がやったのは何だったのか。誰が幸せで、誰が死んで、誰が悲しんで、誰が生き残って、誰が誰に焦がれて、恋をして。

「つまりは、アレだ」

 恋なんかなくなってしまえ。恋をする奴なんか死んでしまえ。

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