Festivo
一は制服を脱いでコートを羽織り、ロッカールームからアイギスを持ち出す。ぎゅっと握った柄からは何も感じられないが、彼の内からは誰かの声が響いた。その声を聞いて一は安心し、目を瞑る。
「準備が出来たんなら、さっさと行ってこい」
「はいはい、すぐに行きますよ。……でも、俺が行ったところで、何も出来ないとは思いますよ」
「そうか?」
頷き、一は後頭部を摩った。
「話をしてくれるかどうかも分からないですし、荒事になったら俺の出る幕はありませんよ」
「そこには期待していない。私が期待しているのは、あー、そうだな、お前が、私の代わりに確かめてくれる事だ」
「何をです?」
「さてな」と店長は嘯く。彼女は煙草に火を点け、不味そうに煙を吸い込んだ。
「やばくなったら逃げて良い。一、今回はお前の判断に任せる。その事に関しての責任は私が負うから、何も気にするな」
「……はあ。つまり、何をすれば良いんですか」
「好きにしろ」
なるほどと一は得心する。つまり、いつも通りにやれば良いのか。そう判断して、彼はバックルームを出た。フロアで後片付けをしている神野へ声を掛けようか迷ったが、結局、一は何も言わずに店を出る。
どうか、安心して欲しいと一は思った。自分は、立花に対して特別な感情を抱いていない。どうか、余計な事に気を取られないで、神野らしくあってくれと願う。
一が出て行ってから暫く経った後、店長は煙草を銜えたままフロアに姿を見せる。彼女は、嵐が過ぎ去ったような店内の参上を見て眉をつり上げた。
「全然片付いていないじゃないか」
睨まれる神野だが、自分がしでかした事なので何も言えない。尤も、彼が掃除を始めてから十五分と経っていないのだが。
「さてさて、何から聞こうか。何から聞いて欲しい?」
「……何でも答えますよ」
香水の瓶の欠片を拾いながら、神野はぼそりと呟く。店長は手を貸す素振りすら見せずに彼を見下ろした。
「立花はやはり強いな」
「はい。俺なんかじゃ、全然……」
「お前が弱い訳じゃあない。分かっているだろうが、相手が悪かったんだ。なのに」
店長は一度言葉を区切り、ドリンク棚から缶ビールを取り出す。
「どうして、こんな事になったんだかな」
「新さんに言われたんです。立花には、強い男が相応しいって……」
欠片をちり取りに詰め込み、神野は息を吐いた。
「俺は……立花に、あいつに見合う男になりたかったんです。チャンス、だったんだ」
「吹き込まれたか。全く、少しは考えろ。馬鹿者が」
「……本当、馬鹿です」
壁に立て掛けておいたモップを掴むと、神野は香水を拭き取るべく床を擦り付ける。
「でも、ここしかないって、今しかないんだって、思いました」
「焦る事はない筈だ。お前は若い。それに、都合の良い男だって立花の前には現れんだろうさ」
「そんなの、分からないっすよ」
「……一に取られると思ったのか?」
作業の手は止まらなかったが、神野の動きが僅かに鈍るのを店長は見逃さなかった。
「取らんよ。あいつはそんな奴じゃない。大体だな、立花は一を異性として見ているかどうか怪しいぞ」
「分かるんですか」
「伊達に年は取ってない。立花が一に向けているのは、確かに好意ではあるが。アレは、そうだな、ペットにでも向けるようなそれに見える」
「……ペット」
「ペットだ」と店長は断言する。
「神野、それでもお前が嫉妬するのは分かる。だが、やはりやり方がまずかったな」
神野は床に視線を落としたまま、決して顔を上げようとはしなかった。
「焦る気持ちは分かるよ。若いんだ、大いに恋愛したまえ青少年。……ま、正直なところ、職場内ってのは勘弁して欲しいがな。あれこれ面倒ではある」
「……店長、俺……」
「辞めるのは構わんが、何も解決はしないぞ。お前の気持ちが楽になって、救われたと勘違いするだけだ」
「分かるんですね」と、神野は諦めたように苦笑する。
「ワンパターンなのさ、お前も。神野、何か気に病んでいるようなら、気にするな。この世はお前が思っているよりもちょろいんだから」
店長は缶ビールを半分程度飲み下していった。
「辞めたら、本当に取られるかもしれんぞ。それが嫌なら……」
「でも、俺は何を言えば良いんですか。分かっていたとはいえ、立花に手を上げちまったし、一さんにも迷惑を掛けて……」
神野は作業の手を止めて、今にも泣き出しそうな声を漏らした。
「やりたい事をやって、自分だけが得をする為に自分の我を通した。まさかとは思うが、許されたいのか、お前」
「……っ!」
「欲しかったんだろうが。認められたかったんだろうが。ボコボコにされて、まだ立花を諦められないって言うんなら、他の奴の事を考えるのはよしておけ。手に入れるまでは針のむしろに座り続けろ」
まだ自分の中に甘えがあったのかと、神野は歯を食い縛って堪える。
「やっちまったんだから、あまり言い訳はするなよ。……手、止めるな」
「あ……」神野は再び床を拭き始めたが、その動きはどこかぎこちない。
「それに、甘い。立花が好きなら最初から他人なんか気にするな。あいつ本人にその気がなくても、立花の母親が出しゃばってきても関係のない話だろう。『立花』がどうした。肩書きでビビるようなら手を出すなって話なんだよ」
店長はビールを飲み干し、空いた缶を床に転がす。
「半端な真似はやめろ。どうせなら、そうだな、ゴーウェスト辺りを見習え。人間、あそこまで盲目になれれば勝ちだ。好きな奴以外見えないなら何も恐くないんだからな」
「いや、あそこまでは……」
「気概だけでも見習え」
神野は困った顔で頷く。
「……俺、謝ります。立花と一さんに」
「馬鹿が、何を謝る事がある。それじゃあ、本当に居辛くなるぞ」
「じゃあ、何を言えば良いんですか」
「知らん。自分で考えろ」
「ひでえ……いや、その通りっす」
俯き、それから、神野は外に目を向けた。
「俺、何か、最低っすね」
「……そういや、お前がミスらしいミスをしたのは初めてだったか」
「いや、そんな事は……」
「少なくとも、私はお前に対して怒った記憶がない。その分、一が面倒を見ていたんだろうがな」
自分の立場、役職を理解しているのかどうか。店長は煙草に火を点けて、ぼんやりと窓の外を見遣る。
「良かったよ。ようやく大人らしい事が言えた」
「ようやくだなんて事はないっすよ」
「そうか? なら、ついでに良い事を教えてやろう。失敗も後悔も、若い内なら取り返せる。もう一度やり直したいなら、帰ってきた一たちに掛ける言葉は一つだ」
神野はまっすぐに店長を見つめる。
「たった一つで良い。何食わぬ顔でおかえりと、それだけ言えれば構わないんだよ」
「それだけ、ですか」
「簡単だろう?」
くつくつと笑う店長につられて、呆気に取られていた神野も笑った。
店があんな事になったのはどうしてだ。立花が笑わなくなったのは何故なんだ。どうして、神野が苦しまなければならなかった。
自問自答を繰り返すまでもない。全て、彼女が現れてから。立花新が駒台にやってきてからだ。全てが新のせいではない。彼女にも事情があり、立花にも、神野にも理由がある。いつか必ず訪れたであろう歪みが、今になってまとめてやってきたに過ぎないのだ。新は、あくまで糸口、切っ掛けでしかない。
しかし、新が現れなければ、いなければ、回避出来たかもしれない問題なのである。と、一はそこまで考えて頭を振った。
「……都合が良過ぎるか」
一は自戒する。巻き込まれた全員に選択肢は用意されていたのだ。立花が新に逆らえば、神野が新の誘いに乗らなければ、自分がもっと強い意志を以てして立ち向かえていれば良かった。結局のところ、これは甘えなのである。流れに抵抗せず、楽な方へと身を任せたからこうなる。責任の所在を誰かに見いだすなど、自分勝手極まりない行為なのだ。
それでも、やるせない。
誰かのせいにして進まなければ、この足はもう動かなくなる。それが分かっているから、一は歩けていた。新に罪はない。だが、立花は笑わなくなった。神野は笑えなくなるかもしれない。二人から笑顔を奪ったモノは、何だ。
――――一人勝ちさせてたまるかよ。
好きにやれと言われている。後を気にするつもりはなかった。立ちはだかると言うのなら、せめて新の目論み通りに動いてやるものか。一は前をしっかと見据えて歩を進める。相手は『立花』、不足はない筈だ。
振り切れ。振り切れ。振り切れ。
「おおっ……!」
忘れろ。忘れろ。忘れろ。
何度も、何度だって言い聞かせる。友人を、親しい人を、親しくしたい人を切り捨てる覚悟がなければ戦えない。自分ではいられない。それが嫌だと思っても、体に根付く呪いからは逃れられないのだから。
だから、全てを忘れて、目に映るものを切り払う。そうしないと自分でいられない。代価を支払ったつもりはない。学校になんか行かなければ良かった。人と出会うのではなかった。ずっと、あの家に閉じ込められたままならば知らなくて済んだのである。『立花』に囚われたままなら、どんなに幸せだったろうと、今になって思うのだ。同年代の者と比べれば、自分はなんと可哀相だったのだろうと、嫌でも気付かされる。言葉を知らず、他者との接し方を知らず、ただ、甘えた。縋るような笑みを向けた。取り戻したくてもどうすれば良いのかが分からない。誰かが誰かと笑い合っていた時に自分は何をしていたと、彼女は歯を食い縛る。欲するのは自由だ。しかし、実際には手に出来ない。何かを得るには何かを捨てる必要がある。ならば、支払うべき代価は何だ。幾ら払えば、どれだけ捨てれば。否、はたして、自分の中に払えるモノ、捨てるモノがあるのか。
全てを忘れ、失った時、残るのはこれしかない。これしかなくて、これだけが唯一頼れるモノなのである。
「ああああっ!」
刀を振るう度に自分が消え、刀を振るう度に自分が戻る。研ぎ澄まされていく感覚と、込み上げてくる感情をコントロール出来なくて、叫んだ。立花は大いに叫んだ。
腕には自信があった。剣を握ってからどれだけの時間が経っただろう。数えきれないくらいにそれを振るい、危機を乗り越えてきた。だから笑うしかない。自信はあるが、自分よりも高みに位置するモノの存在は認めなければならない。だが、同じ日、同じ時に自分よりも力量のあるモノ、二人と出会うだなんて思いもしなかった。年端もいかない女子に遅れを取るなどと、想像出来なかった。
――――出会うか、ここで。
ディルは双剣を構えて着流しの男と、割って入った者を見る。
逃げる事が第一だが、着流しの男に隙があれば切り掛かる気概は持ち合わせていた。階段前に陣取られ、背中を見せれば殺される。気が遠くなる睨み合いの末、事態は思わぬ方へと転がった。乱入者、である。闇に溶け込みそうなほどの黒いセーラー服を着た女、立花真。彼女は抜き身の刀を手に階段を駆け上がり、着流しの男にそれを振り下ろした。彼も立花に対応し、攻撃を全て防いでいったのである。寸断なく、間断なくやり取りされる剥き出しの攻防。
後悔している。
その間、ディルも少年も、一歩たりとも動けなかったのだ。風よりも速く、嵐よりも激しい剣の舞に、ただ見惚れるしかなかったのである。
全て受け、全て躱す。
着流しの男と立花、斬り合う二人は掠り傷ですら負っていなかった。
立花は息を止め、その場に足を止めて突きを放つ。足を運ぶのが煩わしくて、着流しの男の手首を蹴り上げた。軌道が変わり、彼女の首筋近くを刃風が過ぎていく。立花は刀を横に薙ぎ、彼が床へ膝立ちになって剣の腹で受けた。
薄暗い室内に火花が散り、刃が欠ける。飛び散った破片は互いの額や、素肌に刺さっていった。
僅かに息苦しくなり、立花が後方へと退く。着流しの男は彼女を追わずに、剣を鞘に納めた。
「……貴様は、何でござるか?」
的を射ない男の問いを受けて立花は息を吐く。
「『立花』」
「それは名前か。いや、獣に名など不要」
「……獣?」
「然り」男は頷き、つまらなさそうに立花を見遣った。
「人で非ず、サムラァイでもないのなら、貴様は餓えた獣でしかないのでござる」
「獣じゃない。ボクは……」
「ぎらついている。そんなに腹が減っていたか。……やはり獣よ、獣以下よ。貴様に誇りはない。渇きを、餓えを満たす為、いたずらに振るうそれでは拙者に届かぬ」
立花は無言で切っ先を向ける。男は鼻で笑い、柄に手を掛けた。
「拙者、イヌを斬る趣味は持たぬ。切り捨てるつもりも毛頭ござらん」
「何を。あなたの剣だってボクには届いていないぞ」
「……イヌにはイヌの剣を。人の身ならざるモノには相応の剣を、でござる」
男が腰を深く落とし、つり下げた鞘の先端が高く上がった。
「だったらイヌに食われてしまえっ」
立花が駆け出す。瞬間、彼女に向かってコンクリートの破片が飛んでいた。刀の腹で受け止めると、破片は真っ二つに割れて背後の壁へと流れていく。
「……ふむ」
着流しの男は柄から一度手を離し、立花へ向かうディルを見送った。
「邪魔をするなっ」
答えず、ディルは長剣を振り下ろした。立花は横に回避し反撃を試みる。だが、彼は短剣で突きを繰り出して彼女の出鼻を挫いた。
呼気を吐き出し、ディルは短剣で突きを再度放つ。立花は彼の左へ回ろうとして、
「――――っ」
何とか押し留まった。僅かに光る長剣が、彼女の動きを牽制している。ディルはわざとらしく右手を動かしながら、左手に持つ短剣で素早く、何度も切り、薙ぎ、突く。
「一時休戦といかない?」
着流しの男の傍らに少年が立つ。やけに無警戒で、いやに人懐こそうな笑みを浮かべて。
「……三対一の利を捨ててまで、で、ござるか?」
「それはあの子を御せるならの話だよ。僕には無理だし、数に頼んでもあなたを殺せるとは限らない。危ない橋を渡るのは愚か者のする事だ」
片目を瞑り、着流しの男は少年を流し見た。彼から戦意を感じ取れず、男は柄から手を離す。
「死合いを邪魔されるのもつまらない話でござるか。あい分かった、貴殿らに付き合おう」
「助かるよ、ホント」
「しかし、あの獣との戦闘に乗じて逃げる気でござろう?」
「そんなつもりないけどなー」舌を出し、少年は愛嬌を振りまく。
「貴殿らを逃がすつもりはない。背中から斬り殺すのも興醒めでござる。やるなら上手く逃げて欲しいもの」
「そうするよ。……で、仕掛けるの?」
「拙者は詰めに回ろう。階下、開いたところまで追い詰め、囲むが上策」
「同感」
少年は短く口笛を吹き、コンクリートを蹴った。ディルは長剣を大振り、立花を見据える。
立花は作られた隙に反応して刀を振るっていた。その攻撃を少年が受け止め、ディルが彼女の腹を蹴飛ばす。
「くっ……」
刀を戻し、階段近くまで後退すると、立花は構える事なく更に下がった。飛び掛かる少年は隙だらけだが、間を詰めるディルを確認して段を飛ぶ。踊り場に着地した瞬間に刀を構えれば、がぎん、と音が鳴って得物が軋んだ。それを跳ね退けて更に引く。立花は壁に背を預けて少年を、段をゆっくりと下りてくるディルを一瞥した。
追い込まれると分かっていても、尻尾を巻いて逃げる事は許されない。否、立花が『立花』である以上はあり得ないのだ。
だから、
「おお……っ!」
踏み込む。
狭い踊り場、立花は突きを放って声を荒げた。少年は剣の切っ先でそれを逸らし、右へと足を滑らせる。僅かに空いた床にディルが立ち、彼女に剣を突き付けた。
「なるほど、イヌか」
「ボクはイヌじゃない」
「じゃ、イヌ以下だ」と、少年は口の端をつり上げる。
「手負いの獣も時には退く。噛み付いてみなよ、君の牙じゃ届かないからさ」
「言ったな……!」
立花はもう一度刀を突き出そうとするが、ディルの剣に遮られてほぞを噛む。彼女は段差を少しずつ下りていき、階下にて彼らを待ち受けた。
「来ないのかい?」
「卑怯だ」
「奇襲を掛けたあなたに言われたくありません。全く、激情しそうだ」
言って、ディルは段を飛び下りる。着地後、即座に立花へ切り掛かった。彼女は半身になってそれを躱し、刀を彼の下半身に向かって薙ぐ。短剣を盾に立花の攻撃を防ぐと、お返しとばかりに長剣で彼女の足元を払おうとした。
「はしこいっ!」
立花は刀を手元に戻さないまま低く地を跳ぶ。無防備になったところを狙われるも、得物を盾代わりにして防いだ。彼女は回転して刀を振るう。ディルは二本の剣を交差させて受け止めた。が、立花はお構いなしに力を込める。刀を受け止めさせたまま体を捻り、彼の体躯を弾き飛ばした。床を滑るディルを追撃するべく、彼女はくるりと回り、首元への斬撃を放つ。ひゅっと音が鳴り、彼は身を低くした。
「追い込むよ」
少年が走り寄る。立花は背後からの突きを回避して、足元からの切り払いを刀を床へ突き刺すようにして受けた。
少年は立花の側面に回り込み、脇腹を狙って剣を突き出した。彼女はディルの得物を止めたまま、柄を握って右方向へと流れるように跳躍する。自由になった刀で少年の剣を払い除け、立花は返す刀で立ち上がっていたディルを切り付けた。
「は――――っ」
息を吐き出しながら振るった立花の刀は再び防がれる。散った火花を視線が追い掛けた刹那、少年の姿が視界から消えた。どこだと思考し即座に決断。彼女の背中を狙っていた突きは、
「うわ……」
彼女自身の足で蹴り上げられる。剣を寝かせた事が仇となり、傷を負わせられなくて少年は舌打ちした。
立花は腰を落とす。ディルと少年は間を置かずに得物を横に薙ぐ。風切り音が重なって聞こえたやいなや、二人はその場から後退した。視線を下げると、立花が円を描くような軌道で刀を払っていたのが見える。
息を吐かせるつもりはないのだろう。今まで傍観に撤していた着流しの男が階段を駆け下り、勢いを殺さぬまま地を蹴った。左手一本で抜剣し、立花の真上を宙返り、曲線の軌道で彼女を襲う。
「今だっ」
立花は床を転がるようにしてそれを躱した。体勢を立て直して片膝をつき状況を確認する。
と、階段の踊り場に『騎士団』が、自分を挟んだ反対側に着流しの男が位置していた。
「ごめんね」
少年は楽しそうに笑う。着流しの男はしてやられたとでも言いたげな笑みを浮かべた。
「やはり、数に頼むのは好かないでござるな。まだまだ、拙者には修業が足りぬ」
「それ以上強くなられたら、君の相手は誰がするのさ?」
答えず、あるいは答えを持っていないのか、着流しの男は鞘に剣を納める。
「……ま、良いや。そいじゃね、イヌならイヌなりに、しっかり番を務めてよ」
立花は己の立ち位置を再確認し、少年たちを視界から外した。足音が遠ざかっていき、廃ビルから彼らの気配が消えたのを認識すると、
「二人きりだね」
凄絶な笑みを浮かべる。
「……生憎と、拙者も、貴様も人ではないでござる。この場に残るは二匹の何かよ」
「それでも構わない。あなたと斬り合えるなら、ボクは何にだってなれるよ」
「死合う相手に向ける顔ではない。やはり、貴様はサムラァイではないでござる」
立花は頬をつねり、難しそうな顔を作った。
「どんな顔をすれば良いのかな」
「……やはり獣かっ」
腰を深く落とし、着流しの男は立花を強く睨み付ける。彼女は一つ息を吐き、床の感触を爪先で確かめた。
誰も使わない。誰も覚えていない。既に終わり、忘れ去られたビルが立ち連ねる場所に一は立つ。彼は傘の柄を握り直して歩き始めた。目指すは、立花のいるところである。
会って何をするのか、何を話せば良いのか、一には分からない。そもそも、自分が口を挟める余地はないのかもしれなかった。家族の問題で、部外者には関係ないと新は言っていた。正しくその通りだと彼は思う。打開策、解決の糸口すら用意しないで、いたずらに首を突っ込まれては誰も良い気はしないのだから。
それでも、決して歩みを止める事はない。立花の背負ったものをなくせるとは思わないが、こちらには言いたい事がある。どう転ぼうが、どうなろうが知った事ではないのである。
「……あら」
一が足を止めると、とある廃ビルの入り口前に立つ人影が見えた。彼は再び歩きだして、それに答える。
「お久しぶりね、店員さん。もう会えないかと思っていました」
新は胡散臭い笑みを一に向けた。
「立花さんはこの中に?」
「ええ、まだいると思います」
「……あなたは何を? 見ていないで良いんですか?」
「私が見ていたところで何も変わりません。ただ、ここで待つだけですわ」
一は新の脇を通り抜けようとして、足を止める。鼻先に突き付けられた扇子が、やけに鋭いものに見えていた。
「何のつもりですか?」
「それは私の台詞です。しのぎを削る方々の邪魔をなさるおつもりで?」
「仕事ですから」一は扇子を退かそうとするが、ぴたりと動かない。新はふっと笑み、彼を見据える。
「店員さん、あなたは真には不釣り合いな方だと分かっています。『立花』と並ぶものを有さないのでは……」
「通るぞ、『立花』」
無理矢理に扇子を退かして足を踏み出そうとした瞬間、そこに地面はなかった。一の視界はぐるりと回り、上下左右不覚になって背中から倒れてしまう。何が起こったのか理解出来ないでいると、上から声が降ってきた。
「なんて不様。口だけは達者ですのね、店員さんは」
「……はあ、なるほど」
投げ飛ばされたのだと気付いて一は頭を掻く。立ち上がり、傘を拾った。
「ここは既に我らの狩場、『立花』の名、伊達ではないと知りなさい」
「……入っちゃ駄目なら、せめて話だけでもしましょうか」
「戦意旺盛、敵意を漲らせたままでお話を?」
「刺激的じゃないですか」
新は一の真意をはかりかねていた様子だったが、彼自体に脅威を感じなかったのだろう。渋る事もなく、静かに首肯した。
「良いでしょう。手持ちぶさたなのは確かですし。ふふ、それに、若い子と話すのは嫌いではありません」
「こちらこそ」と、一は恭しく頭を下げる。
「じゃ、早速。あなたがここに来た理由、教えてください」
「色気のない……、それに、言いませんでしたか。私がここに来たのは……」
「立花さんの婿探し、だけじゃあないですよね」
新は何も言わず、扇子を閉じる。
「『立花』を復興させる為には強い者を立花さんにあてがうのが一番だ」
「その通りですわ」
「だと思ってたんですけど、ちょっとばかりやり方が荒過ぎませんか?」
「剣を交えてこそ強者が分かる。店員さんからすれば、そう見えるのも仕方のない事かもしれませんね」
「強い人にぶつけて、立花さんが死んでしまうとは考えなかったんですか」
一は傘の柄をぐっと握り、新を見つめる。
「死ねばそこまで。真はその程度の器だったと諦めます」
「彼女が死ねば、誰が『立花』を立て直すんですか。……あなた、やっぱりどこかが抜けてるんだ。人間として、親として大事なものが」
「何が言いたいのですか、店員さんは」
「全部うそっぱちなんでしょう。どうにも、あなたはむちゃくちゃなんだ。あなたは、立花さんを何とも思っちゃいない」
「娘、ですよ。何も思わない筈が……」
「『立花』の名、継がせる気がないんでしょう」
新は一を見返し、口元を歪ませた。
「強い者を探していたのは立花さんじゃない、あなただ。あなたは立花さんを使って、この街にいた……いや、来たモノの力を計ってたんだ」
「憶測ですわ」
「おかしいと思ってたんだ。立花さんが死ねばあなたたちに未来はない。なのに、立花さんは自分から死のうとしてるように見えたし、あなたは……立花さんを殺そうとしてるように見えた」
「憶測ですわ」
一は長い息を吐き出して、俯いてしまう。
「ですが、面白い話ではありますね。続き、伺いましょう」
新は好戦的な態度で一に臨んでいた。彼はそれが嬉しくて、同時に、無性に空しかった。