血煙駒台ビル
駒台の北部に位置する商店街を抜けてまっすぐ進めば、それは見えてくる。今ではもう使われていない、建設途中のビルが連立する地区が。
そのビルの一つに、大勢の人間がたむろしている。埃舞い、薄汚れ、蜘蛛の巣さえ張られていない廃ビルの中に充満する熱気。
彼らの名は、新興のフリーランス集団、『道場』。
「今日は我らの新しい門出の日となる。同時に、良き日にも」
男たちに囲まれた、大柄で髭面の男が芝居がかった口調で断言した。彼は腰に日本刀を提げており、周囲を見回して、鞘から刀身を抜き放つ。それを天に向けて掲げると、声を張り上げた。
「苦節十数年、我らが師事し、あるいは指南していた道場から摘み出されたのはっ、我らの力が及ばなかったからでは、断じてっ、ない! 彼奴らめが軟弱だっただけの事よ」
彼らは知らない。以前、この近くにヤマタノオロチと呼ばれ恐れられたソレが出現した事を。
おお、と、髭面の男に呼応して声を上げるは九名の男たちだ。格好はばらばらだが、彼らは皆、腰に刀を提げており、全員がそれを抜く。
「この街にはソレが多量に現れると聞く。『道場』の名を売るには良い街だ。そうは思わんか、同士諸君!」
「『道場』、最近出来たフリーランス集団ですね」
『道場』がいる向かいの廃ビルの屋上に、少年と青年が立っていた。『騎士団』と呼ばれるフリーランスであり、昨夜、サンダーバードを絶命せしめた二人である。
「おっとこ臭いなあ、あの人たち。見ているだけで胸焼けがしてくるよ」
白いパーカーを羽織った少年は、嫌そうに目を背け、その場に寝転がった。隣に立つ、黒を基調にした服装をしている青年、ディルは目を細め、『道場』の様子を注意深く探る。
「で、どうなの? 強いの、あの人たち」
「髭を生やした大男、名を中山。彼は駒台へ来るまでに何匹かのソレを仕留めてはいるようです。『道場』全体で数えれば、二桁程度でしょうか。個人個人の力量は全く、不明です」
「ふうん、新しく出来たにしては、まあやる方じゃないの? 尤も、何を仕留めたかによるけどね」
「彼らも、我々と同じ獲物を追っているんでしょうね」
ディルは煩わしげに呟いた。
「困るよねえ、ホント。どうするのディル、確かめてみるの?」
「何をですか」
「個人個人の力量、とやらをだよ」
少年は足の力だけで立ち上がり、向かいのビルを見る。
「全部で何人いるんだっけ?」
「調べたところでは、十名ですね。『道場』の主導権は中山が握っているようです」
「……いや、十一人いる」
「そんな筈は」と、ディルは『道場』の者たちを凝視した。もう一度数えなおすと、確かに十一人、そこにいる。ビルの一室が刀を持った男たちに埋め尽くされている。
「相手はルーキーかもしれないけど、舐めてかかり過ぎなんじゃないのかな、ディル君?」
「……これは、面目ないですね」
素直に頭を下げるディルを茶化すように笑っていた少年だったが、すぐに表情を変える。
「どうしました?」
「……いや、今度は減ってる。八人になってるよ」
「何ですって?」
ディルは弾かれるように頭を上げ、向かいのビルに目を向けた。
「ソレが出た」
電話を取りに行った店長は、フロアに戻ってくるなり苦々しい顔つきで口を開いた。
何となくではあるが、予想がついていたので一は驚かない。
「あら、それは良い事を聞きましたわ」
「……ヤマタノオロチが出た場所は覚えているな? 駒台商店街を抜けた先の、廃ビルが連なった地区だ。そこにソレはいる」
店長が、部外者の新がこの場にいるのに話をしたのは時間を惜しんでいるからだろう。一はそう判断して口を開く。
「ソレの種類と、被害はどうなっていますか?」
「犠牲者は既に出ている。が、殺されたのはフリーランスだ。最近作られた『道場』と呼ばれる集団らしい。気に病む必要はないな、言わば自殺なのだから」
店長は新を一瞥して、更に話を続ける。
「『道場』についての情報はほぼない。ただ、属する者の全員が全員、刀を武器にしているらしい」
「まあ、剣客集団とは。少し興味がありますわね」
新は嬉しそうに微笑み、扇子を広げて口元を覆った。
「尤も、今頃どうなっているかまでは知らん。群れていた連中が図に乗ってフリーランスを名乗ったようなレベルでは、全滅していてもおかしくはない」
「……現れたソレってのは?」
気の毒な話だが、一には同情している暇はない。店で暴れ回り、騒ぎを起こした神野は気を失っていたままで、立花はどうにも危うい。だから、店長は自分に行けと命じるだろうと思ったのだ。
「分からん。少なくとも駒台で初めて目撃されたタイプのソレだ」
「まさか、また蛇の化け物じゃあないでしょうね」
「一応は人の姿をしていたらしい。しかし、その力は軽々と人を外れている。……同時に、葬儀屋殺しの新しい容疑者が増えたそうだ」
「……? ええと、つまり、葬儀屋を殺したのが『道場』だと?」
店長は首を横に振り、胸ボケットに手を遣った。彼女は慣れた手つきで煙草を取り出す。
「プラスアルファ、出現したソレにも疑いが掛かっている。ロングソードを得物に、真っ赤な着流しを着た金髪の侍がな」
「侍? そいつがソレだって言うんですか?」
「何もおかしくはないだろう。ゴルゴンだって人の形をしていた。要は、そいつがどれだけイカれてるかって事に尽きる。何にせよ、まともじゃないのが相手だ」
煙草に火を点けようとした店長だが、彼女の銜えていた煙草に、扇が突き付けられる。
「……何のつもりだ、退治屋」
「腕は」
新は扇子を突き付けたままで、幾分か興奮した様子で言った。
「現れたソレと言うのは、隻腕の男でしたか?」
「ああ、そうだ。しかし、何故お前が知っている」
「縁、ですわ。失礼ながら、私どもはお暇させていただきます。……真っ」
立花は僅かに身を竦ませて、それでも新に返事をした。店の外へ出ようとした彼女らだったが、店長が立花親子に声を掛ける。
「立花はウチの勤務外で、まだシフトの途中でもある。母親だろうが何だろうが、勝手に連れていく事は許さん」
「結構、あなたの許可など不要です」
「まあ待て、立花。どうせ、最初からお前に行かせるつもりだったんだ。きっちり始末してこい」
立花は頷き掛けたが、店長の目を見返すだけに留まる。
「お話はそれだけですの、店長さん」
「それから、立花、お前はウチの勤務外だ。……その意味を良く理解しておけ」
「……行くわよ」
立花は新に連れられて、店を出ていってしまう。彼女らの姿が見えなくなった頃、一は口を開いた。
「結局、訳が分からないまま行っちゃいましたね。立花さん、何も言わずに」
「下手すりゃ穴が開くな、シフトに」
紫煙を吐き出す店長は、何でもない風に言ってのけた。
「しかし、上手い具合に踊ってくれたものだ。縁とか言っていたが、やりやすくて助かったな」
「何の話ですか?」
「『立花』だよ。ウチの代わりに、ソレを殺しに行ってくれて助かった。正直、今回の相手はやばそうだからな」
「ああ、だから、あの人がいるのに居場所だのどうのベラベラ喋っていたんですね」
「剣士に興味があると言っていたからな。おあつらえ向きの相手で何よりだよ。ま、立花は死ぬかもしれんが」
何となくではあるが予想していたので、一は特に驚かない。
「出現したソレって、もしかして、円卓のメンバーだったりしますか」
「恐らくは、な。何にせよ、ウチからぶつけられるのは立花しかいない訳だが」
「どうして何も言わなかったんですか。そんな、あの子を切り捨てるような真似……」
「確かめたかったんだよ。お前も不安には思っていただろう、立花の変貌ぶりを。店を無茶苦茶にされただけじゃない。それが刀でなかったにせよ、お前にも神野にも躊躇なく得物を振るいやがった。この先、あいつを預かっておいても平気なのかどうか、確かめるには今しかない」
そう言われては黙るしかなかった。一はカウンターに体を預けて、息を一つ吐く。
「どうするんですか、マジで」
「どうもこうもない。結果待ちだ。だが、あいつの様子がおかしくなった、母親が来てからってのはどう見たって分かる。それしかない。それが事実なんだ」
「あの人がいなくならない以上、立花さんはあのままって事ですか」
「その言い方もどうだかな。そもそも、今までの立花が嘘だったに過ぎない。アレが、奴の本当なんだろう」
新の意のままに動く、人形のような立花こそが、彼女の真実。一はあまりにも悲しい気がして、それでも、口出しは出来ないのだと諦めている。
「私たちは所詮、部外者だ。家族の問題で片付けられればそれでおしまい。どうしたって、子は子で親は親。子にとって、親という存在は絶対。親からすれば絶対でなくてはならんものだ」
「……じゃあ、やっぱり何も出来ないんですね。いや、しちゃいけないのか」
「さて、どうだかな。……一、お前はどうしたい?」
問われて、一は押し黙る。どうしたいもこうしたいもない問題なのだと言った傍から聞かれたもので、彼はすぐには何も答えられなかった。
「確かに私たちは部外者だ。立花に対して、容易には口出し出来ないだろう。しかしだ、説明ぐらいはあっても良いんじゃないか?」
店長は短くなった煙草を床に捨てて、靴の裏で思い切り踏み付ける。何度も、何度も。
「どうしてこうなった。どうしてそうなった。どうしてああなった。ここまでされておいて、なあ。それぐらい聞く権利はあるだろう。そう、思うよな?」
「えーと……」
「私は寛容だからな、言い訳ぐらいは聞いてやるさ。納得出来るかどうかはさておき、私にも、お前にも、話を聞く権利くらいはあるだろう」
頷けよ。そう言われた気がして、一は観念するかのようにゆっくりと首を動かした。
「……神野、とっくに目が覚めているんだろう。罰だ。罰を与える。お前は留守番だ、一人でこの有様をどうにかしろ。その間、傍でねちねちと責め抜いてやる」
神野は何も言わずに、ただ、済まなさそうに首肯した。
「それと、言い訳ぐらいなら聞いてやる。何、時間なら死ぬほどあるんだ。なあ、私を納得させてみろよ。ん?」
自分が言われた訳じゃないのに一はぞっとした。
「一、すぐにあいつらを追い掛けろ。店の事は気にしなくて良い。ソレの事も考えなくて良い。お前は、立花を捕まえて口を割らせろ」
「……はーい」
素直じゃないなと思いつつ、店長がぶち切れているのも本当なのである。一は逆らわず、準備を整える為、バックルームへと逃げるように引っ込んだ。
足音を立てる事なく、十名の人間にその気配すら感じ取らせず、それはそこにいた。
「何だ……?」
当たり前のようにそこに立っていた真っ赤な着流しを羽織る外国人に、『道場』の首魁、中山は視線を送る。何者だと尋ねる前に、高く、音が鳴った。
中山を囲んでいた男たちが声を上げる前に、二つの首が宙を舞う。遅れて、血飛沫が立ち上った。埃っぽい室内に、錆びた鉄を粉々に砕いて撒いたような臭気が立ち込める。首をなくした『道場』の剣士二名はコンクリートに倒れ込む。何が起こったのか、彼には分からなかった。
「中山殿っ!」
メンバーの一人に呼び掛けられて、中山はようやく我に返る。その間にも、また一人誰かが悲鳴を上げて死んでいた。
「貴君らの剣力、堪能させてもらう、で、ござる」
いつの間に抜いていたのか、着流しの男がロングソードを鞘に収めて、柄に手を掛ける。抜け、と、中山は声を張り上げたが、その叫びはひきつれていた。
残った七名の剣士は着流しの男を取り囲むように移動を開始する。誰もが、まだ今の状況を完全には理解出来ないまま、半ば自動的に動いていた。その中で、七人の視線を一身に受ける着流しの男だけが口元に笑みを浮かべている。
今になって、中山は気付いた。血の香を引き連れてきた目の前の男と自分たちの力量は恐ろしいほどに、比較しようとも思わないほどに開いている。良く観察すると、彼は隻腕であり、それでも、付け入る隙など一欠けらも見せなかった。
「おおっ」
「はああっ」
ぐるぐると円を描くように動き続ける『道場』の面々を見回して、中山は息を止める。呼気を鼻腔から僅かに押し出し、勝機を探った。個人としての力なら、着流しの男に並ぶ筈もない。しかし、残った者全員で掛かればどうにかなるだろう。
――――それでも、一人残れば良い方だ。
「おおおっ!」
だが、血気に逸ったか恐怖に駆られたか、一人の男が先走る。
「っ、続け!」
誰かの声に反応して、残りの六人が着流しの男に切り掛かった。
白刃が閃く。
最初に切り掛かった男の両腕が寸断された。
六つの刃全てが空を切る。そこにいた筈の男が消えたと『道場』の全員が認識した瞬間、新たな断末魔が上がった。三人が胴を薙がれた者に視線を遣り、二人が顔面を裂かれて絶命する。背中を向けて逃げ出した者は両足を切断されて頭から床に突っ込んだ。
残ったのは二人で、彼らはその間、着流しの男の太刀筋どころか姿さえも視認出来ないでいる。
「数に頼めば腕は自然と鈍るもの」
「何者かあっ」
声のした方に中山が顔を向けた。足を切られた者の傍に着流しの男がぼうと立っている。真っ赤なそれが、彼の目に焼き付いたようになって離れない。
「心構えが足りなかったでござるな」
「名乗らんかあっ」
半狂乱になって中山は叫ぶ。着流しの男は傍に倒れていた男の首に剣を突き立てて、彼を見据えた。
「貴君ら、サムラァイには程遠い。弱き者を切り捨てる趣味など持たぬが、拙者、それを持つ者には容赦出来ぬ性質にて」
目の前の景色が歪んだと認識した次の瞬間、中山の隣にいた男の首は断たれている。
中山は怒声を張り上げながら走り、壁を背にして刀を構える。
「せめて一太刀っ、無傷では帰さぬぞ!」
「心意気は見事なり、でござる」
「おお――――!」
声を放ち、眼前に現れた敵に向かって刀を振り下ろした。がきん、と甲高い音が響き、ずぶりと鈍く低い音が鳴る。中山の口からはごぽりと血が泡立ち、着流しの男はかちりと納刀を終えていた。
「何、アレ?」
着流しの男が『道場』を破った顛末を見届けると、少年は苦笑しながら指を差す。
ディルは懐に手を入れて、我知らず得物を握っていた。
「多数を相手にした際、死角死角に回り込むのは常道ですが、それにしたって速過ぎる。動きに付いていくので精一杯ですよ」
「実際、彼を前に剣が抜けるかって話だね」
「どうするんですか?」
「決まってるじゃないか。幾ら何でも相手が悪いよ。にげ――――」
言い掛けて、少年は動きを止める。いつの間にか流れていた冷や汗が、乾いたコンクリートをじっとりと濡らした。
「……見つかったかな?」
「ばっちり、見られてましたね。着流しの彼の方が我々よりも下にいます。ここから下りたところで鉢合わせになるか、背中を捉えられるか。逃げるには厳しい位置ですね」
「冷静じゃないか、ディル」
皮肉っぽく笑い、少年は向かいのビル、着流しの男を見下ろす。彼からは動く気配が見当たらないが、こちらが動けばそれに反応するだろうとは分かった。
「とりあえず、あっちを向くまで睨めっこだね。……全く、あんなのが出るって知ってたら……」
少年はぼそりと漏らし、その場に寝そべった。
剣を振るのは当たり前だった。起きている間も、寝る間だって手放す事はなかった。許されなかったのである。血反吐を吐くまで素振りを強要され、時には自分よりも格上の者と打ち合わされた。胃の中が空になるまで吐き続けても休めなかった。風通しの悪い道場の真ん中、ぎらりと光った目に睨まれるのはいつもと変わらない。少しでも動きが鈍れば母の怒号が鼓膜をつんざき、膝をつくような事があれば無理矢理引き起こされ、頬を叩かれた。それだけを繰り返す。それだけしか知らない。だから、渡されたものを持ち続け、命じられた事に心血を注ぎ続けた。
『真、斬りなさい』
家を出る事は許されなかった。ただ、外を見るのは許されていた。部屋の中から覗く景色はやけに眩しくて、いやに恐ろしく、それでも、近くを通る人の声が新鮮に聞こえたのを覚えている。自室の窓、格子からは腕が出せなくて、隙間からは指だけをそっと外気に晒した。触れた空気は家の中と変わらない筈なのに、妙に暖かった。
『真、斬りなさい』
数えた年が十を超えた頃、彼女の元に新たな家族が現れる。娘の情操教育を心配した父親が連れてきたのは、一匹の犬だった。雌の中型犬で、名をチヨと言い、初めはおっかなびっくりだった少女も、いつしかチヨに対して心を開く事となる。その頃から、少女は少しずつではあるが、周りの者に笑顔を見せ始めた。彼女はどんなに些細な事柄であろうと興味を示し、楽しそうに話を聞いた。水族館。学校。遊園地。会社。動物園。少女が外の世界に考えを巡らせ始めるのは至極当然の帰結だろう。
少女が、もっと普通の家にさえ生まれていれば、それも許されただろう。しかし、彼女には許されない。『立花』として生きるように定められ、生まれてきた少女には何一つ許されないのである。
一切の自由を取り上げられ、刀を手足のように扱えるまで振るのだと強制された。感情は不必要だと叱責を受け、少しでも抵抗の意志を見せようものなら制裁される。眠りに就く寸前まで耳元で囁かれる言葉は、彼女を縛る鎖となり、彼女を殺す楔となり、彼女を蝕む呪となった。
だが、少女には分からなかった。一般的には不幸だとされてしまう己の境遇が、彼女にとっては当たり前だったのである。比較すべき対象もおらず、慰めてくれる者もおらず、それどころか、自分には友人が――――チヨがいるから幸せなのだと、そう信じていた。
『斬りなさい』
少女が十五歳になった翌日、彼女は母親に庭へと呼び出された。刀を渡され、にこりと微笑まれ、母の笑みが夕陽に照らされて凄絶なモノに見えたのを、彼女は忘れないだろう。
彼女は忘れないだろう。チヨを斬れと事もなげに告げられた日を。嫌だと喚き首を振り、頬を張られて泣き叫んでも譲らなかった日を。生まれて初めて激昂し、母に逆らい、切り掛かった日を。初めて出来た友人を失った日を彼女は忘れない。
「真、斬りなさい」
はっとして、立花は首肯した。新は彼女を不満そうに見遣る。
「オンリーワンの店長が言っていた事と食い違ってきてはいますが、ここに何かがいるのは事実」
「はい」
「殺してしまっても、死んでしまっても構いません。『立花』に相応しいモノなのかどうか、あなたの目で確かめるのです」
促され、立花は廃ビルへと足を踏み入れた。瞬間、大きな物音が聞こえて、彼女は鯉口を切る。
先に動いたのは意外にも着流しの男であった。目を離したつもりはなかったのだが、少年は彼が消えたのを確認した後、得物を抜いて神経を研ぎ澄ませる。
「駄目だ、やっぱり逃げられない」
「最初から分かっていましたけどね」
ディルは長剣、短剣を一本ずつ抜き、溜め息を吐いた。
「どこで迎え撃ちますか」
「下に開けたとこがあったじゃない? あそこにしよう」言いながら少年は駆け出す。その後ろにディルが続き、二人は階段を駆け下りていった。足音が響いているが、居場所など最初からばれている。彼らは気にせずに戦場を目指した。
「本気で行くんですか?」
「それで勝てるならね。でも厳しいよ、アレは、僕たちとは違う世界に生きてて、違うものを見、感じてる」
ビルの二階、殆どの壁が取り払われた空間に出た後、少年は周囲を確認。ディルに背を預けながら階段を注視する。
「逃げるのを一番に」
「ただし誇りは捨てるな、と」
「こんな寂しいとこで死ぬ訳にはいかないからね」
足音は聞こえない。空気が動く気配すら感じられない。それでも、血の臭いが少年の鼻に届いた。
「来たっ」
叫び、駆け出すと、少年の後方にあった空間が切り裂かれている。ディルは舌打ちし、二刀を構えた。
「流石でござる」
声の聞こえた方向を頼りにはしない。ディルは全神経を研ぎ澄ませると剣を交差させて着流しの男の一撃を受け止める。
少年は出口、階段に向かって走っていた。着流しの男は僅かに眉根を寄せてディルから飛び退く。
「そっちに行きますっ」
「知ってるよう!」
背後から迫るのは自分よりも力量のある剣士だ。少年は見通しが甘かった事を認識させられながらも、生存を諦めない。彼は方向を転換し、コンクリートを滑るように右方向へと走り込む。目の前にあった壁を蹴り、中空へと跳躍した。
「む……!」
着流しの男が足を止め、剣の柄に手を掛ける。彼は寸暇迷って抜剣し、少年の足を狙って得物を振り上げた。が、読まれていたらしく剣同士がぶつかって火花を散らす。ならばと着地の隙を衝こうとするのだが、後ろからディルが迫っていた。着流しの男は追撃を諦めて駆け出し、階段前で反転、二人を確認後、腰を落として構え直す。
少年は着流しの男を見遣り、してやられたとでも言いたげな、自嘲的な笑みを浮かべる。
「早いじゃん」
「それは拙者の台詞でもある。数に頼らぬ姿勢は好ましいが、死合う気が見受けられないのは気のせいでござるか?」
「気のせい気のせい」
「ふむ」
顎に手を遣り、着流しの男は値踏みするような視線を少年とディルに送る。
「逃げの一手を打つほどの腕には見えないでござるが……」
「それは見誤っていますよ。口にするのは気に入りませんが、私たちはあなたの下にいる。逃げたくなるのも当然でしょう」
「謙遜は不要。貴君らはもっと早くなる筈、で、ござる」
答えは返ってこなかったが、着流しの男は気にせずに柄へと手を伸ばした。
「拙者も、もっと早くなる」
「……そりゃ凄いや」
少年は鼻で笑い、手に持った剣の握りを確かめる。感覚は既に麻痺し始めていた。