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24時間戦う人たち  作者: 竹内すくね
サンダーバード
180/328

稚児の剣法、彼の一分



 一度家に戻り、大学へ行く用意をしてから家を出る。だが、頭の中を占めるのは立花の事だ。今日の夕方、自分と神野と立花とで顔を合わせるのだが、それまではどうしようもない。そして、もしも彼女が真実を語り、最悪の結果を聞かされたとしたら――――。

 一は頭を振り、今は忘れろと自分に言い聞かせる。

「おお、先輩ではないか!」

 大学までの坂道の途中、一は後ろから声を掛けられた。振り向くと、向日葵のような笑顔を向ける小柄な少女と、仏頂面をした少女が見える。後輩の早田と、座敷童子の槐だ。

 槐は早田に無理矢理手を引かれて、よたよたと歩いている。対照的に、早田は酷く楽しそうで、嬉しそうだった。

「こんなところで会うとは奇遇だな先輩。運命を感じる! 赤い糸とやらの存在、信じざるを得ないようだ!」

「こんなところも何も、学校までの道だろうが。それに、講義同じの入れてんだから時間だってそりゃ合うだろ」

「はっはっは! 先輩は恥ずかしがり屋さんだなあ、セックスしよう!」

 通り過ぎていく学生の視線にはもう慣れている。一は溜め息を吐く事すら煩わしくなって、彼女を見返した。

「……(はじめ)、助けてくれ」

「俺の台詞だ」と槐に返し、一は改めて彼女らを観察するように見つめる。

「早田はともかく、どうして槐がここにいるんだよ?」

「うむ、槐ちゃんがこの近くを歩いていたのでな、私が連れてきた。まるで仲睦まじい姉妹のようだろう」

「幼女拉致監禁って感じだよ。学校に連れて行ってもしょうがねえだろ、放してやれよ」

 槐は何度も頷いた。

「いや、それは出来ない」

「何故じゃあ!?」

「槐ちゃんが可愛いのだから仕方がない。私は、このキュートな槐ちゃんを大講義室で大勢の人に見せびらかしてやりたいのだ。ふふふ、この子に触れて良いのは私だけなのだと、な」

「はじめぇ……」

 がっくりとうな垂れる槐に、一は掛ける言葉を知らない。

「あー、その、アレだ、槐が嫌がってんだろ」

「その顔もまたオツなものだ。これだけで十回はイケる」

「何が……いや、やっぱ良い。それより、槐にも用事があるんだろうからさ」

「ん? いや、わしは暇だったから適当にぶらついておっただけじゃぞ。特に用事はない」

 助け舟を自らの手で潰す者を見た。一は馬鹿らしくなり、早田たちに背中を向けて歩き出す。

「先輩先輩、置いていかないでくれ。寂しくて枕を……いや、股を濡らしてしまうではないか」

「言い直すな!」

「股を濡らしてしまうではないか」

「繰り返すな!」

「濡れるッ!」

「そこだけ言うな!」

 槐は力を抜き、流れに身を任せるのを決意した。



 夕方のシフトまで休憩をもらった神野は、一度家に戻ると告げ、店を出た。とは言え、家には妹の姫がいる。彼女は、神野が退院した昨日の今日でアルバイトに行くのを頑なに拒み、責めていた。戻れば、また叱責され冷たい視線を浴びせられる破目になるのだろうと、彼は憂鬱な気分に陥る。

「はあ……」

「もし」

 溜め息を吐いた瞬間に声を掛けられてしまい、神野の体が強張った。

「あの、一つお尋ねしたい事があるのですが」

「え、ええと」

 振り向いた神野は思わず目を見開く。和装の喪服を着た女性は、少なくとも自分の周りにいるタイプの人間ではない。彼女を綺麗だと認識した途端、しどろもどろになって、頭の中が真っ白になった。

「み、道、ですか?」

「いいえ、尋ねたいのは人ですの」

 女性は優しげに目を細めると、

「オンリーワンの勤務外、神野剣、と言う方を」

 白々しい笑みと、言葉を神野に向けた。



 講義が終わると、学生の殆どが教室を出て行く。出入り口に群がる者たちを見てから、一は机の上に突っ伏した。

「む、どうした先輩、お疲れのように見えるが。何なら揉んでやろうか、肩とか」

「……肩だけで良い」

「遠慮しないで良い。ほら、チャックを……」

 一は跳ね起き、早田の額を小突く。彼女はにやにやとした笑みを隠さなかった。

「全く、ぬしらは元気じゃのう。わしはもう、何だか疲れた」

 早田の膝の上に座っていた槐は息を吐き出して、彼女の背中に頭を預ける。

「疲れたのか。良し槐ちゃん、ベッドに行こう。お姉さんが優しく、時には淫らな娼婦のように体を弄繰り回してあげよう」

「ベッドなんかねえよ」

 一は立ち上がり、肩に鞄を掛けた。

「一、早くわしを助けんか」

 がっちりロックされている槐を見遣って、一は諦めろと呟く。

「なっ、わしの純潔が散らされても良いと言うのか! 見損なったぞ一、不幸になってしまえ!」

「くそ、お前に言われるとシャレじゃ済まないんだよ……」

 一は犯罪者一歩手前である後輩の頭を叩き、槐を魔の手から救出した。彼女は早田の膝を踏み台代わりに跳躍。机を飛び越えて、一の足元に縋り付く。

「ああっ、良いなあ先輩、私もそういう風に槐ちゃんに懐かれたい」

「だったらもっと可愛がってやれよ」

「愛を注いだつもりだ!」

「……ぬしら、わしはペットではないぞ。まあ良い、一、途中まで送っていけ」

 槐は一のズボンの裾をぐいぐいと引っ張った。

「なら、先輩の忠実なイヌである私もお供しよう。ワンワンっ、先輩、雌犬とお呼びください!」

「お前は部活があるだろうが」

「あんなもん先輩と一緒に帰宅出来る幸せに比べればカスだ」

 言い放ち、早田は机に手を掛けて、跳躍する。彼女は一の隣に降り立ち、どうだとでも言いたそうな表情を浮かべた。

「さあ先輩、二人の愛の巣へ行こうではないか!」

「一人で行ってろ」

「あああぁぁぁ……そんなっ、やっ、一人でイッてろなんて……」

 その場にへたり込む早田を無視して、一と槐は講義室を出て行く。彼らの表情には凡そ感情と呼べるような色がなかった。



 坂道を下っている途中、一は上ってくる学生、通り過ぎていく人々の注目の的だった。原因は分かり切っている。隣を歩く槐の存在がそうさせているのだ。

「はあ、もっと考えるべきだった」

「む、どうしたのじゃ?」

「分からないなら分からないで良いよ」

「ぬしの年で子持ちと言うのは珍しくないと思うがの。まあ、最近では授かり婚だとかまたにてぃうぇでぃんぐと呼ぶらしいではないか。あまり気にするでない」

「てめえ、分かってんじゃねえか」

 一は槐を睨み付けるが、彼女はわざとらしい素振りで視線を逸らす。

「ぬしだって、わしみたいな可愛い座敷童子と逢い引き出来て嬉しい。じゃろ?」

 悪戯っぽい笑みを浮かべて、槐は一を見上げた。

「人目は忍んでないけどな。それより、どこまで送ってけば気が済むんだよ」

「無論、家まで。と、言いたいところじゃが、ぬしにはあるばいととやらがあったか。うむ、坂を下るまでで良い」

「そんなとこまでで良いのか? 別に、急いでないから送ってってやるぞ」

「……ぬしは、相変わらず優しいのかそうでないのか分からんな。全く、そんなだから早紀も勘違いするんじゃ。もっと自分の言動には気をつけい」

 溜め息を吐き、一は大袈裟に肩をすくめる。

「そういうつもりはないんだけどな」

「たらし、め。いつか痛い目を見るぞ、一」

「どうして俺が痛い目を見なきゃならねえんだよ。そんなつもりねえってば。第一、俺がたらしならもっと幸せに暮らしてるね」

 むしろ、女性に振り回されているのは自分なのだ。一はまた溜め息を吐き、槐に脛を小突かれる。

「幾らわしが隣にいてやってもな、そうやって溜め息を吐いてばかりでは幸せが逃げてしまうぞ」

「ご心配なく、幸せならもうどっかに行っちまったよ。ひらひらーっとね」

「馬鹿者。今の生活を幸福と呼ばないで何を幸福と呼ぶのじゃ。少なくとも、わしのような美少女の隣を歩けるだけでも有難く思わんか」

「自分で美少女って言っちゃう奴の隣ねえ。あ、しかもお前少女じゃないし。幼女じゃん」

 槐は一の向こう脛を思い切り蹴飛ばした。彼は声にならない声を発して、その場にしゃがみ込む。恨みがましい目付きを彼女に向けて、一は歯を食い縛った。

「おうおう、恐ろしい顔じゃなあ。そんな顔をしていては女子も寄っては来ないのう」

「……お前がさせたんだろうが……」

「まあ、そうなったらわしが責任を取ってやろう。ふふん、喜べ。ぬしと祝言を挙げてやっても良いぞ」

「何ぃ……?」

「そう照れるでない。わしがいれば家内安全無病息災、学業成就に心身健全大漁満足と来たものじゃ」

 一の肩を叩き、槐はころころと笑う。本気か冗談なのか、彼には判断出来なくて、少しだけ戸惑ってしまった。

「結婚するなら楯列としてやれよ」

「あやつは弟のようなものじゃ。そういった感情は、あやつに対して持ち合わせておらんよ」

「あいつを義兄さんと呼ぶなんてごめんだ。そうでなくても、お前みたいなちんちくりんと結婚したら陰口を叩かれるに決まってる」

「……ほう? 何と叩かれるのじゃ?」

「決まってんだろ、ペドフィリアだ」

「せめてロリコンにせんか!」

「どっちでも変わんねえよ!」



「ん、どうした一、ズボンの裾が破れているぞ。何かあったのか?」

「いえ、別に」

 むすっとした顔でバックルームに入ってきた一を見て、店長は訝しげな顔をした。

「それより、先に言う事があるんじゃあないのか」

「……おはようございます」

「それもそうだが、遅れてすみません、だろう。言い訳してみろ、納得いくような説明なら見逃してやっても良い」

 一は少しだけ考え、

「座敷童子と喧嘩してたら、遅くなりました」

 正直に告げる。馬鹿正直とはこの事だと、内心で思った。

「言い訳するならもっとマシな事を言え」

「本当ですってば。ほら、ここが破けてるのは……」

「言い訳するなっ、私は遅刻した事について怒ってるんじゃない。お前が嘘を吐いた事に対して怒っているんだ!」

「横暴だ!」

「良いから、ほら、さっさとフロアに出ろ。立花と神野が待ってるぞ」

 一は制服に着替えて、店長をじっと見つめた。

「何だ、私に惚れたのか?」

「生憎と視力は良い方なんで。そうじゃなくて、立花さん、どうなったのかなって」

「あー……」店長はつむじの辺りを指でかき、罰が悪そうな顔を作る。

「本人に聞いてみろ」

「人を殺したかって? 冗談でしょう」

「話せば分かる。……分からん事がな」

 遂にボケたか。一は店長を可哀相なものを見るような目付きで一瞥してからフロアに出た。

「あっ、遅いよはじめ君!」

 駆け寄ってきた立花に、一は面食らってしまう。彼女は人懐こい笑みを浮かべて、飼い主の帰宅を喜ぶ子犬のように、彼の腕を掴んだ。

「えっ、あ、うん。その、ごめん」

 一には何が何だか分からない。昨夜の出来事が嘘だったかのように、立花は無邪気に笑うのだ。

「はじめ君がいない間、ボクとけん君で頑張ってたんだよー」

「ごめんごめん」言いつつ、一はカウンター前で所在なげに立っていた神野に視線を送る。神野は何も言わず、首を横に振った後で申し訳なさそうに俯いた。

「どこまで終わったの?」

「えっとねー、掃除でしょ、フェイスアップでしょ、それからっ、えーと……」

「仮点検は?」

「それは、はじめ君のお仕事っ」

「……はいはい。それじゃ、少しの間、レジは任せたよ。毎回言ってるけど、間に合わないと思ったり、お客さんがたくさん並んだ時は呼んでね。大声出すんじゃなくて、レジについてるボタンを……」

「もうっ、大丈夫、ボクはちゃんと分かってるよう……」

「じゃ、よろしくね。あ、立花さん、雑誌が少し乱れてる」そう言って、一は立花を雑誌コーナーに向かわせる。彼はカウンターに入り、仮点検を行なう為にレジを止めてドロワーを抜いた。

「……来てからあんな感じ?」

「……はい。あいつ、普段と何も変わってないですよ」

 一と神野は声を潜めて、本人には気付かれないように立花を見た。彼女は鼻歌を歌いながら、乱れていた週刊誌の列を整えていく。

「うーん、まあ、それならそれで、何もないなら良かったよ」

「……ですね」

「……? じゃ、少し中に入ってるから」

 立花に対する疑いの念は晴れたというのに、神野の表情は曇っている。しかし、一は何も言わずにバックルームへ入っていった。彼は休憩室の机で作業しようと思ったのだが、店長に手招きされて、仕方なく彼女の隣の椅子を引く。

「机の上、片付けてくださいよ」

「あいよ」と、店長は書類やファイル、筆記用具や封筒などを机の隅に積み上げていった。

「どうだ、綺麗になったろう」

「……どうも」

 一は机の上にドロワーを置き、引き出しから電卓と、コインカウンターを取り出す。

「店長の言った通り、分からない事が分かりましたよ」

「ああ、立花に不審な点は見受けられん。見えん。と言うか、読めん。正直、何を考えているのかが分からん」

 店長は背もたれに体重を預けて、不安定な体勢で伸びをした。一は気にせず、札を慎重に数え始める。

「まあ、疑いが晴れて良かったじゃないですか」

「疑いが晴れた? 何を言ってるんだ一、分からないからこそ疑う必要がある。言っておくが、理由もなく人を殺す奴なんかウチにはいらない。欲しいのは腕の良い剣士だ。別に、そいつが泣き虫でも仕事が出来なくても構わん」

「俺は信じてますよ」

 かなり、際どいラインではあるが、とは付け足さない。

「そうか。なら、お前は信じてやれ」

「店長は信じてあげないんですか?」

「私の仕事は最悪の事態を避ける為に疑う事だ。……憎まれ役は一人で良い。だろう?」

「時々、あなたが良い人に見えます」

「言ってろ」

 店長は煙草に火を点けて、コインカウンターに百円玉を並べていた一へ煙を吹き掛けた。



 ドロワーを持ってフロアに出ると、一の背筋がぞわりと冷えた。見ると、カウンターの傍に見覚えのある女性が立っている。和装の喪服を着た、三十代後半程度の年齢であろう女性だ。

「あら、こんにちは、店員さん」

 彼女に笑い掛けられて、一はただ、頷いて返す。それから、何をしにきたんだと、強く見据える事で訴えた。

 神野はどうしていいのか戸惑っている様子で、立花は昨夜と同じく、俯いて黙っている。一は大袈裟に足音を立てながらカウンターに入り、レジを開けてドロワーを元の位置に戻した。

「お話、聞いていると思いますけれど」

「話……?」

 静かに微笑む新を見遣り、一は不審そうに眉根を寄せる。

「聞いていないのですか、そちらの方にはお伝えした筈なのですけど。ねえ、神野さん」

 びくりと、神野の肩が僅かに震えた。彼は一言「すみません」とだけ発する。一か新か、どちらに向けた言葉なのか、定かではなかったが。

「俺は何も聞いてません。それよりも、そこにいられると迷惑なんですけど」

「他にお客さまは見えていないようですけれど」

「……減らず口を」

「あなたこそ、お客に対する口の利き方がなっていないようですね。まあ、良いでしょう」

 新は抱いていた鞄から扇子を取出す。片手で器用に広げてから、それで口元を隠した。

「百聞は一見に如かず。あなた方の実力、とくと拝見しましょう」

「何を言ってるんですか?」

「少々荒っぽいかもしれませんが、芦屋が死んだ事で焦っていますの。お許しになってね。……真、やりなさい」

「はい」頷いた立花が、カウンターの奥に立て掛けていた箒を握る。

「……ちょっと、立花さん……?」

「一さん、すみません。けどっ、俺……!」

 謝りながらも、神野はカウンターの下に隠しておいた竹刀を手にしていた。一には何が起ころうとしているのか分からない。否、分かりかけているからこそ、この状況が分からないのだ。

「真剣でないから真剣にはなれないという事はありません。生死のやり取りにはなりえませんが、『立花』の力を肌で知る良い機会でしょう。さあ、お二方、どうか私の期待に応えてくださいな」

 立花がカウンターに足を掛けて、フロアに向かって跳躍する。神野もその後を追い掛けるようにして、足を踏み出した。一は暫くの間放心していたが、すぐに気を取り直す。

「いきませんの?」

「あんたって人は……! 店長っ、店長!」

 一はバックルームに通じる呼び出しブザーを連打し、新を睨み付ける。

「あなたは、あの子の婿になりたくはないのですか?」

「まさか……!」

 全て理解した。神野の様子がおかしかったのは、新に何か吹き込まれたからなのだと一の直感が働く。そうだ、自分が今まで気付かなかったのが悪い。彼はきっと、立花を――――。

「弄びやがって」

「選んだのは神野さん自身、ですわよ?」

 激しい物音がした方へ目を向けると、棚のスナック菓子が天井近くを舞っていた。

 商品棚を挟んで立花と神野が向かい合う。彼女は無言で箒の柄を突き出し、神野は竹刀でそれを払った。その度に、菓子の袋が棚から零れ落ち、跳ね上がる。

 彼らは無言で得物を交えていた。剣に触れた者が持つせいか、一には、箒や竹刀もそれと変わらないように見える。

 遊びの延長線上のようでいて、ある種滑稽とも思える光景だが、二人の目は真剣そのものだった。切っ先を避け、突きを繰り出す。棚の一番上にある商品を薙ぎ倒し、足を運んでいく。二人はドリンクコーナーの前の開けた空間で立ち止まり、相手の出方を窺っていた。

 そこに、店長が現れる。バックルームから姿を見せた彼女は神野たちを瞥見して、一の方へと歩きだした。

「止めさせろ」

 店長は銜えていた煙草を吐き捨てて、新を強く睨み付ける。

「あら、どうしてかしら?」

 新が扇子を閉じる。瞬間、立花は大きな掛け声を上げて突きを繰り出した。神野は竹刀で受け、その一撃を真横に流す。と、流れた箒の柄が、ドリンク棚のガラスにぶち当たった。割れこそしなかったが、けたたましい音に店長は苛立つ。

「お前ら店を潰す気か!」

「……そういう問題じゃあ……」

「そういう問題だ!」

 店長は新に詰め寄り、彼女に顔を近付ける。間近で睨まれていると言うのに、新の表情は涼しげなものであった。

「どこのどいつか知らんが、けしかけたのはお前だな?」

「あなた、お客さまに対して失礼ではなくて?」

「客なら何をしても良い訳ないだろう。免罪符代わりに客だ客だと抜かしやがって、恥を知らないらしいな。……客商売をやってるがな、こちらとしても売られた喧嘩は買わせてもらうぞ」

「まるで、鷹の目。凄まじいわね。あなた、女でいるのが勿体ないわ」

 店長は新から視線を外さないで、一に告げる。

「一、あの二人を止めろ」

 告げられた一は露骨に嫌そうな顔を作り、首を横に振った。

「無理っす」

「止めろ。何を使っても、何をやっても構わん。正直、私は腹が立っている。三人まとめて病院送りにしてやれ」

「……三人って?」

「言わなきゃ分からんか?」

「乱暴な方ねえ」

 逃げ出したいが、逃げ出せない。店長の殺気と迫力に脅され、一はカウンターを出る。

「店員さん、あなたの力を見させてもらうわよ」

「言ってろい」

 一は入り口近くに陳列してあるビニール傘を一本抜き取った。彼は包装を破り捨て、店長に顔を向ける。

「どうなっても知らないですよ」

「やれ」

 一は目の前の攻防を観察した。

 週刊誌は床に散らばり、トイレのドアには穴が開いている。神野たちは雑誌を踏み付けながら互いの隙を狙っていた。

「ふっ……!」 息を吐き、立花が一歩踏み込む。神野は彼女の頭部を目掛けて竹刀を振るっていた。立花は床へと沈み込むように身を低くし、彼の足元へ箒を薙ぐ。

 神野の竹刀は床を叩き、立花の攻撃は彼の脛へと食い込んだ。彼女は神野の背後へと回って背中に肘鉄を二発食らわせる。ぐっと痛みを堪え、彼は立花の髪を掴もうと腕を伸ばした。

「こっ……の!」

 しかし、その腕は空を切る。立花は神野のこめかみを掌で押し、雑誌の詰まった棚へと強引に突き飛ばした。体勢を崩した彼は武器を手放してしまい、両手両足で踏張ろうとする。が、叶わない。咄嗟に両腕を交差して庇ったものの、立花が振り下ろす容赦のない攻撃に歯を食い縛る。

「やり過ぎだってば!」

 割って入る余地などなかったが、これ以上は黙っていられない。一は立花を止めるべく彼女の元へと駆け寄った。しかし、彼の存在に気が付いた立花は箒の柄を向けて、彼を冷たい瞳で見据え付ける。

 邪魔をするなと言われた気がして、一は箒の柄を傘で退かした。

「もう良いじゃないか。この辺でやめときなよ」

 立花は答えず、退けられた柄を数秒ほど見つめた後、一の右目を狙って、突く。

「……立花さん」

 その攻撃は寸止めではあったが、一瞬の躊躇すら見せなかった彼女の態度に、一は恐怖を覚えた。

「いい加減にしなよ」

 それと、僅かな怒りを。

 言葉は通じない。そも、立花はまともに言葉を交わすつもりがないのだ。そう認識した一は目の前の柄を握り、力を込める。

「俺は君たちについて何も知らない。『立花』に興味だってないしね。けど、理由があったとしても……」

 立花は更に力を込めて無理矢理に突きを放った。

「うおおっ!?」

 一は箒から手を離して尻餅をつく。立花は彼の膝に向けて柄を振るった。ぎゃあと悲鳴を上げ、一は打たれた箇所を押さえてのたうち回る。

「やりやがったなちくしょう!」

 手近にあった化粧品の棚から香水の瓶を掴み、一は立花に向かって投げ付けた。投げてからしまったとも思ったのだが、易々と避けられてその思考も霧散する。瓶は正面のトイレのドアに当たり、物悲しい音を立ててあっけなく割れた。中身は周囲に垂れ流しになり、柑橘系の香りがそこらに漂う。

「一、天引きしとくからな」

「何使っても良いって言った!」

 店長に向かって叫ぶ一だが、歩いてくる立花から逃れる為、ゴキブリのようにかさかさと這って移動する。

 その後を追おうとした立花の肩を神野が掴んだ。彼は彼女を無理矢理引き寄せて、体全体でぶつかっていく。よろけた立花は神野によって位置を入れ替えられてしまった。

「一さんばっかり見てんじゃねえよ」

 呟き、神野は竹刀を向ける。切っ先を柄で退かし、立花は箒の柄を手元に戻さないまま、突きを放った。

 神野が首を捻ってそれを回避したのを確認し、柄を横に薙ぐ。再びかわされた柄は外側に面した窓に激突して砕けた。

「もらった!」

 好機だと言わんばかりに、神野が立花へと肉薄する。彼女は短くなった得物を一瞥し、体をぐるりと捻らせた。回転し、跳び上がって蹴りを放つ。両手で防いだものの、神野はたたらを踏んでしまった。

 一回、二回、三回。立花は踊るように回転し、神野をドリンク棚まで追い遣る。円の力を使い、再び跳躍。跳び上がった際に右足で蹴りを放ち、箒の穂先で彼の顔面を撫でるようにして払った。降り際には左足で彼の足を払い、余った片手を使って着地。手を床にくっ付けた反動を利用して、バランスを崩した神野の顎に掌を打ち込む。ぐらりと崩れ落ちる彼の腹に柄を突き立てた。

 神野はよろよろと後退りして、窓側に後頭部を付けたかと思えば、背中を預けたまま動かなくなる。

「そこまでだっ」

 一瞬の隙を衝き、一が後ろから立花に抱き付いた。彼は彼女の体をドリンク棚に押し遣り、身動きが出来ないような状況に追い込む。

 立花は吐息を漏らし、両腕を自由にさせようとしてもがいた。しかし、腕力だけなら一には敵わない。

「二人とも、今日はきっちり掃除するまでは――――」

 言い掛けて、一は絶句する。

 立花はドリンク棚のガラスに足を置き、面を駆けた。

 上半身は一に抱かれたままで、立花は、だんと、ガラスを蹴り飛ばす。彼女の視界は反転し、真っ黒なスカートが翻った。立花の両足は天井にまで近付き、一の負担が途端に増す。彼は彼女を支え切れなくなり、思わず手を離してしまった。次の瞬間、立花は解放された両手で一の制服の襟を掴み、自身の体を捻らせて狙いを定める。自由落下する一人分の体重が、彼女の両膝を通して一の胸部に圧し掛かった。

「――――っ!」

 満足に声を上げられないで、一は立花に押し倒される。その時に彼は、後頭部を強かにぶつけた。痛みに目を瞑り、開いた次の瞬間には、彼女の顔が間近に迫っている。思わず、唾を飲んだ。

「そこまでで充分でしょう」

 退屈そうに新が言うと、立花は一の上から退いてスカートの埃を払う。

「もう少し楽しませていただけるのかと期待していたのですが、とんだ見込み違いでしたわね」

 新は鞄から真っ黒いケースを取り出して、そこから小さな厚紙を一枚だけ抜き出した。彼女はカウンターの上にそれを置き、何とも言えない表情を浮かべていた店長に笑みを見せる。

「名刺ですわ。『立花』にご用命の際は是非、こちらにお掛け下さいな。ふふ、そうですね、今なら、特別料金で承りますわよ?」

 店長は何か言いたそうにしていたが、無言でそれを受け取った。

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