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24時間戦う人たち  作者: 竹内すくね
サンダーバード
177/328

墓石すら鼾をする頃に



 時は来たれり。

 彼女は手荷物を纏めて、世話になった人間に別れを告げる。ジェーンたちには悪いが、自分だってそろそろ我慢の限界なのだ。基本、寝たきりの生活にも嫌気が差していたし、自由に動きたい。

 病院の外に出ると、烏の濡れ羽色をしたセーラー服に、太陽の日差しが降り注いだ。実に心地が良く、伸びをすると、今までの入院生活が嘘だったかのように錯覚する。

「自由って素晴らしいね!」

「……楽しそうで何よりだよ」

 満面の笑みを浮かべる立花の隣を、彼女と同じく、退院した神野が歩いていた。彼の表情は立花とは対照的に暗いものであったのだが。

「けん君は退院嬉しくないの?」

「いや、嬉しいっちゃ嬉しいけどさ。……帰ったら、妹がうるさいんだろうなって思ったらなあ」

「ひめちゃんだって嬉しいに決まってるよ」

「どうだか。見舞いに来た時だって、憎まれ口叩いて帰りやがったからな。……なあ、立花はこの後予定、あるか。なかったら、そんで良かったら、どっか寄り道しないか?」

 立ち止まり、ううんと唸ってから立花は何も考えていなさそうに良いよと返答する。

「何か食べようよ。ボク、病院のご飯は飽きちゃっててさ」

「菓子食いまくってたくせによく言うぜ」

「そっ、それとこれとは話が別だもん。それに……」

 言い掛けるが、結局、立花は何も言わなかった。

「まあ良いか、んじゃ駅前まで行こう」

 頷き、二人は再び歩き始める。駒台を自由に動けるという幸せを噛み締める事もないままに。



 自分の体は思っていたよりも丈夫なのだと確認して、布団を退ける。熱はなく、喉も痛くない。だるさは薄れて心なしか疲れも取れているように感じた。

「ふ、あ……」

 大きなあくびをして、一は身を起こす。空っぽだと訴える腹をなだめすかして身仕度を終えると、彼は食料を求めて外へ出た。目的地は階下の住人、歌代チアキの部屋である。

 一は階段を軽快に駆け下りると、チアキの部屋の前に立ち、一切の躊躇を見せずにドアノブを捻った。

「ん?」

 しかし扉は開かない。一は諦めずに何度も何度もノブを回し続ける。がちゃがちゃと耳障りな音を立てながら、彼はチアキの名を呼んだ。

「おらっ、出てこいよ歌代! 一様が来てやったぞ!」

「……何をなさっておられるのでしょう」

 振り向くと、そこには一と同じアパートに住むアイネがいた。瓶底眼鏡に青いジャージ。だらりと流したゴールデンブロンドは美しかったが、彼女の野暮ったい格好で相殺されている。アイネは朝っぱらから楽しげにしている一に訝しげな視線を注いでいた。

「おはよう、アイネ」

「えっ、ええ、おはようございます、ウーノ」

「買い物へ行ってたのか?」

「ええ、退院して家に帰ってみれば、殆どの食材が傷んでおりましたの。まことに残念だと存じます」

 どうやら、アイネが提げているビニール袋の中には食べ物が詰まっているらしい。とは言え、彼女にたかるのはどうかと悩み、一は卑しい考えを頭の外に追い出した。

「ところで、朝食はもう召し上がって?」

「いや、まだだよ。だから歌代にたかろうと思って」

「……さようでございますの。あの、よろしければ、私が……」

 アイネは恥ずかしそうに俯き、ぼそぼそと呟く。が、一は聞き逃していない。

「ありがとうアイネ様! 是非っ、ご馳走になります!」

「そ、その、様、などと。わ、私とウーノの仲ではありませんか。あなたも、そうは存じませんこと?」

「うんうん、その通りっ。で、早速なんだけど、何を召し上がらせていただけるのでしょうか、アイネ嬢」

「では、水炊きを」

 一はがくりとうな垂れる。アイネは彼の様子を見て、不思議そうに首を傾げた。

「簡単で、安価。お鍋はこれ以上なく素晴らしいものだと存じます」

「まあ、そうなんだけどさ。でも折角だから、こう、もっと良いもんが……」

「さようでございますか。……ウーノは私の素晴らしいお友達。で、あれば、あなたの頼みを無下に断るのはよろしくありませんね」

「おおっ、良いのか?」

「ふふ、よろしくってよ。では、ウーノの部屋に参りましょう」

 アイネは先んじて階段に向かうが、

「なんやねん、もう。人の部屋の前でぶつぶつと……」

 ドアを開けたチアキが顔を覗かせる。

「師匠、ウチの事が好きなんは分かってんねんけどー、ちょっとうっさい」

「あ?」

「うわ、ちょっ、マジに睨まんといてや!」

「朝からうるせえ奴だな。何か食べさせろ」

「もうちょい考えて喋った方がええと思うで」チアキは呆れた風に肩をすくめて、寝癖の付いた頭に手を置いた。

「ん。あ、おはようさん、アイネ」

「……ごきげんよう」

 声を掛けられたアイネは少し躊躇ってから返答する。

「ありゃ、どないしたん? なんや、機嫌が悪ぅ見えるような。ま、ええか。腹でも膨れたら機嫌だってようなるわ」

「さようでございますね」と、アイネは不機嫌そうに口を開いた。



 お腹がいっぱいになったので、幸せになりました。めでたし。

 そんな単純な話があっても良い。一はそう思いつつ、チアキのベッドの上にごろりと寝転がる。

「勝手に使うなやドアホ!」

「余は眠い。そして満腹である。アイネ、褒めてつかわすぞ」

「まことにありがとう存じます」

「お礼なんて言わんでええねんて、あの人ちょっと頭がアレなトコあるから」

 ここでズボンを脱いでやろうか。

「んじゃ、部屋に戻るかな」

「はよ行けボケ、師匠」

「語尾に師匠を付ければ許してもらえると思うなよ。……アイネはこの後、どうするんだ?」

「この後は、特には何もございませんの」

 一はベッドから下りて、チアキの尻を軽く蹴飛ばしてから靴を履く。

「じゃ、俺の部屋でお茶でも飲んでいかないか」

「ええ、いただきます」

「えー、ウチも行くー」

「ん。じゃあなチアキ、お前は散らかった部屋の片付けでもしとけよ」

「散らかしたんは師匠やろ!」

 無視して、一とアイネは部屋を出た。二階に上がるための階段に差し掛かったところで、

「『アレ』についてお聞きになりたいのでしょう?」

 彼女は寂しげに笑む。

「半分は。もう半分は心からアイネとお茶を飲みたかったんだよ。ま、うちで出せる茶ぁなんて知れてるけど」

「さようでございますか。ところで、ウーノ」

「ん?」 部屋の前に着いたところで、アイネは警戒した様子で、扉を睨み付けた。

「少々無用心かと存じますが。鍵は掛けない主義でいらっしゃるのですか?」

 一は眉根を寄せる。鍵なら掛けてきた筈で、鍵なら今も手の中に収まっているのだ。汗ばんだ手でノブを握ると、

「……おかしいな」

 それは抵抗を見せずにゆっくりと回り始める。

「何者かが潜んでいる。そう考えるのが自然だと存じます」

「何者かって、何だよ? 自慢じゃないが、家に金目のものなんかないぞ」

「……本人にお聞きになるのが一番かと」

 そう言うと、アイネは一の手に自分の手を添えて、一息にノブを回す。開ききったドアから体を滑り込ませると、彼女は侵入者を認めた。

 その、侵入者は、はたきを持ったまま一の部屋を興味深そうに歩き回っている。ヴィクトリアンスタイルのメイド服という珍妙な格好で、である。

「お帰りなさいませ、マスター」

「マスター……?」

 アイネは不審そうに彼女を見据えた。一は頭を抱えていた。

「どうして、俺の部屋にいるんだ……」

「メイドですから」と、何事もない風に断言したのはナナである。彼女は笑顔を絶やさぬまま一に駆け寄った。

「お召し物をお預かりします」

「いや、ないから。っておい脱がそうとすんじゃねえよ!」

「……ウーノ、この方は?」

「あー」と、一は心底面倒くさそうに息を吐く。

「初めまして、私はマスターのメイドです」

 一が何か言う前にナナは自ら頭を下げた。そして、アイネを見て不敵に笑う。

「どうぞお引取りください」

「なっ、あなた、メイドの分際で……! 私はウーノのお誘いを受けて……」

「ナナはあなたがいらっしゃるなどと聞いておりませんから。それよりマスター、今日はシフトに入っているのをお忘れですか?」

「忘れてないけど、まだ時間はあるじゃないか。大体だな、俺はナナが来るってのを聞いてないぞ」

「私がマスターの傍にいる。そんな当たり前の事をわざわざ申し上げる必要はないと判断しました」

 お腹がいっぱいどころか胸焼けがしてきた。一は靴を脱ぎ、部屋の中央で胡坐をかく。

「どうやって部屋に入った?」

「勿論、鍵を使ってですが」

「鍵はここにあるんだけど……?」

「ナナも持っています」

 ナナはポケットから鍵を取り出した。一は目を丸くさせる。

「マスターの部屋の鍵穴の形状など、全て把握しておりましたので、技術部の皆さんに頼んで合鍵を作ってもらいました」

「もっとマシなもん作れよ!」

「では、この次はマスターと私の家を建ててもらいましょうか」

「ふざけんな!」

「失礼致しました。今のは冗談です」

 ナナはお辞儀をしてから、はたきをアイネに突きつけた。

「それよりも。アポイントメントがない方を、マスターと会わせる訳にはいきません」

「だーかーらー、アイネを誘ったのは俺なの。んで、俺はナナを家に上げた覚えはない。言いたい事が分かるか?」

「申し訳ございませんマスター。ナナには何も分かりません」

「ウーノ、このメイドは一刻も早く解雇なさるのをお勧めしますわ」

 雇った覚えはない。一は溜め息を吐くのも面倒くさくなって、大の字になって寝転がった。



 結局、アイネとは話が出来ないままで終わった。一はナナに半ば無理矢理に連れられて、アルバイトの始まる三十分も前に店へ到着してしまっている。

『どうせなら働け』

 店長にそう告げられ、一は仕方なしにカウンターに立っている訳であった。

「さあマスター、今日も元気に働きましょう」

「マスターを働かせるメイドってのはどうなんだろうな……」

 ナナは楽しそうにカウンター周りの消耗品の補充を始めている。

「マスターはおでんの鍋を洗ってくださいね」

「俺がっ!? ……いや、まあ洗うけどさ」

 文句を言いつつも、一は袖をまくって電気式のおでん鍋の電源を落とした。流し台に置いてあるボールにざるを重ねて持ち、トングを使って具を放り込んでいく。

「玉子が残ってんなあ。思い切って次は減らしちまうか」

「そう言えば、デイリーの発注はマスターでしたね」

「デイリーどころか殆どが俺だよ。ナナ、何か一つぐらい受け持ってくれないかな」

「しかし、私にはまだその手のノウハウがありません。私がマスターの後任では、不安材料が残るのでは?」

 一は具を詰め込んだボールの上にキッチンペーパーを被せた。

「そういうのは経験だよ。最初は難しくて時間も掛かるけど、慣れれば大丈夫。困ったら俺に聞いてくれれば良いし」

「マスターがそうおっしゃるのなら。では、ナナは何を担当すれば良いでしょうか」

「煙草とお酒が簡単で良いかな」

 ナナは顎に指を当てて、考えるような素振りを見せる。

「かしこまりました。では、ナナがそちらを担当しましょう。マスターにはご迷惑をおかけしてしまうかもしれませんが……」

「新人は迷惑を掛けるのが仕事なんだよ。ま、俺もどうこう言えないし、迷惑掛けちゃうと思うけど。だから、アレだ。お互い様って奴だな」

「ふふ、マスターは優しいですね」

 自分は優しくない。だから、一は照れた振りをしてはにかんだ。

「んじゃ、コレをウォークにしまってくるから」

「はい、いってらっしゃいませ」

「……お客さんがいる時にはしないでね、それ」



 店内に戻った一は我が目を疑った。彼は、一度心を落ち着かせようと、もう一度バックルームに戻る。

「おい一、何をやっている。早く仕事をしろ」

 俄かには信じられない。気付くと頬は緩み、口元はにやけてしまう。一は気合を入れ直して、再び店内に戻った。

「いらっしゃいませー」

 いつもより、声を大きく。願わくは、この声が彼女に届くのを期待して。

「お帰りなさいませ、マスター」

「ああ、ただいま」

 カウンターへと戻ってきた一にナナが挨拶をするが、彼はどこか落ち着かない様子で視線をうろうろとさせていた。

「あの、マスター?」

「ん?」 返事だけはするが、一の視線は決してナナを捉えようとしない。彼の視線は、店内を興味深そうに見て回る女性のみに注がれていた。

「店長と何かあったのですか? その、ご気分が優れないように見えます」

 むしろ一の気分は良かった。と言うより確実に良い。この世に生を受けてから、初めての高揚を味わっているのかもしれないのである。

「店長に何かされたのでしたら隠さずにおっしゃってください。マスターを傷付けた報いは、きっちりと、それはもう完全に、完璧に、完膚なきまでに受けていただきますから」

「いや、その心配はいらないよ」

 一がじっと見つめているのは、和装の喪服を着た女性だ。妙齢の女性にも見えるが、落ち着いた佇まい、物憂げな横顔は若い者が出せる雰囲気ではないと彼は判断する。彼女は布製の鞄を片腕で抱きながら、カウンターの方へ歩いてきた。

「ん、んんっ」

「マスター?」

 咳払いを始めた一を怪訝そうに見遣るナナだが、客が商品をカウンターに置いたので、それ以上は何も聞かなかった。

「――――いらっしゃいませ」

 三森か糸原がいれば失笑していたかもしれない。作った一の声に女性は気付いておらず、ナナは誰にもばれないように眉根を寄せる。いつもよりも気の入った彼の接客態度が妙に腹立たしく思え、彼女は死角になったところで拳を握り込んだ。



「ありがとうございました」

「……もっと声を張られてはいかがでしょうか」

「え? ナナ、何か言った?」

「いえ、何も」

 心なしか、ぶすっとした顔のナナを不思議に思ったが、一は深く追求しなかった。今現在、彼の心を占めているのは先ほどの美女の事である。

 シニヨンでまとめた落ち着いた髪形。そこから僅かに覗く、雪のように白い――――

「うなじ」

「マスター、今何とおっしゃられましたか」

「うなじ」

「何と言う事でしょう。マスターがトチ狂ってしまわれました」

 言いつつ、ナナは表情を変えない。

「そう言えばマスター、お聞きになりましたか?」

「いや、お聞きになってない」

「今日、立花さんと神野さんが退院されたようですよ。下手をすれば、明日から復帰なさるかもしれません」

 何か引っ掛かる言い方ではあったが、一は聞き流しておいた。

「へえ、そりゃ助かるな。俺たち二人だけじゃあどうしようもなかったし」

「何をおっしゃいますかマスター。私たちだけで充分です。私もマスターも二十四時間休憩なしで働ける逸材ではありませんか」

「無理。無理だから。お前はともかく、俺は普通の人間なんだよ」

「まあ酷いっ、それではまるで、私が普通の人間ではないと言っているようなものではありませんか!」

「ふってぶてしい……」

 初めて会った時と比べれば、微笑ましいくらいに変わったものだと一は苦笑する。良い傾向か、悪い傾向なのかどうかは分からない。それでも、悪くない。彼はそう思い、頭をかいた。



 家にまでついてくると言い出したナナを説得するのは骨が折れた。彼女は全く納得していない様子であったが、一は半ばナナを撒くつもりで店を出た。気疲れした彼はまっすぐ家に帰ろうとせず、駅前にまで足を伸ばしている。アパートとは逆方向ではあるが、向こうに着けば着いたらで不機嫌なアイネが待ち受けているのは容易に想像が付いた。

「ふう……」

 缶コーヒーを一口飲むと、急に口寂しくなってくる。鳴りを潜めていた欲求が鎌首をもたげ始めた。分かりやすく言うならば、煙草が吸いたい、である。とんとんと、自分の膝を何度も叩くと、一は強く目を瞑った。

「あれっ?」

 間の抜けた声に目を開けると、一の顔を覗き込もうとしている者がいる。彼は少しだけ驚き、その事実を隠そうとして何事もなかった風に缶の縁に口をつけた。

「や、久しぶり」

「う、うん」

 その人物は、立花真。彼女は一が最後に見た姿のままでそこに立っている。立花は烏の濡れ羽色をしたセーラー服を身に纏い、長い竹刀袋を携えていた。

「ほっ、本当に、久しぶりだね。あ、あのさはじめ君! そこ、ボクも座って良い?」

「うん、勿論」

「ありがとうっ」

 立花は一の隣へ、飛び込むように座る。木製のベンチが少し揺れて、彼は顔をしかめた。彼女の嬉しそうな顔を見ては、何も言えなかったのである。

「えへへ、あのさ、元気にしてた?」

「何とかね。立花さんこそ、今日退院したばかりだって聞いたけど、どこかへ行ってたの?」

「お散歩。何だかずーっと寝てばっかりだったから、とにかく歩きたくて仕方がなかったの」

 ぎゅっと握り締めた竹刀袋の先端が一の頭を小突いた。

「あっ、ごめんね。その、何だか今日は、持ってないと落ち着かないんだ」

「良いよ良いよ、別に気にしてな……」言い掛けた一だが、彼の頬に再び袋の先が押し当てられる。

「……気にしてないから」

「ごっ、ごごごごごめん!」

「そう言えば、神野君は元気だった?」

 話題を変えようとして、一は当たり障りのない事を尋ねる。

「うんっ、あ、でも、帰ったらひめちゃんに怒られるかもって言ってた」

「ひめちゃん? ……ああ、神野君の妹さん、だったっけ」

 うん、と、立花は勢い良く首肯した。ぶん、と、彼女のポニーテールが揺れる。

「早く会いたいなあ、皆と。学校、始まってくれないかな」

「そう、だね」

 一は立花の顔を見られなかった。

 学校が始まれば良いだなんて、どの口が言ったのだろう。本当に、学校が始まっても良いのだろうか。彼女は、始まると、元通りになると思っているのだろうか。あの惨劇を見なかった生徒も、見た生徒も総じて理解している。惨劇があった事を。あの場所で、友人が、教師が死んだのを知っている。知っていて、そこに行きたいと思う者は、願う者は果たしているのだろうか。いたとして、それは、果たして――――。

「ねえねえはじめ君、この後、暇っ、かな?」

 問われて考えてみるが、一にはこの後の予定などない。強いて言えば、寂しくなった冷蔵庫の中身を埋める為にスーパーへ買い出しに行く程度だろうか。彼は静かに微笑み、素直に答える。

「あっ、あのさ、じゃあさ、ボクと一緒に歩かない?」

「でも、そろそろ暗くなってくるよ」

「う、すっ、少しだけだからっ」

「そう言われてもなあ……」

 確かに用事はなかったが、立花を連れて出歩くには遅い時間に思えて、一は返事を躊躇った。が、目に涙を湛えた彼女を見てしまい、

「…………だめ?」

 挙句、止めを刺される。

 一はたっぷり迷って、立花から目を逸らした。

「少しだけだよ。それと、あんまり遠くまでは行かないからね」

「うん! うんっ、やった! えへへ、ありがと、はじめ君」

 オンリーワンでアルバイトを始めてから、女性に振り回されてばかりいる気がする。今更ながらにそう思い、一は溜め息を吐いた。



「ほらほらはじめ君、早くしないと陽が暮れちゃうよー」

 川沿いを歩いている内、一は、大型犬を連れて散歩する子供を見掛けた。自分よりも大きな体の犬に振り回され、引きずられる飼い主をぼんやりと眺めて、何故か自分とダブらせて見てしまう。

 目的地もないのに、意味などないのに、ただ歩くだけであんなにも楽しげに出来るものだろうか。一は半ば呆れ、もう半分は羨ましいという気持ちで立花の背中を追い掛ける。

「公園に、駅前。次はどこに行くの?」

「うーん。あっ、はじめ君の学校に行きたい!」

「俺の学校って、大学の事?」

「そうっ」と、立花は振り向き、満面の笑みを浮かべた。

「いや、流石にそれは。あと、こっからだと結構掛かっちゃうよ」

「えー、じゃあ、はじめ君はどこに行きたいの?」

「そろそろ帰りたい」

「そっ、それは駄目だよ!」

 しかし、一は既に一時間以上も立花に付き合わされている。用事がないのは確かだが、彼は明日も、朝からアルバイトに行かなければならない。出来るなら早く買い物を済ませて、家に帰って家事を終えて早く眠りたいのである。

「結構歩き回ったからお腹も減ったし」

「あ、ボクもお腹空いたかも」

「うん、じゃあ解散!」

「だっ、駄目だってば!」

 何が駄目だと言うのだ。一は立ち止まり、電信柱に背を預けて、流れの緩やかな川を眺める。

「お腹が減ったなら、帰ってご飯を食べるのが一番だと思うけどな」

「……でも、ボク……」

 ああ、と。一は喉元まで込み上げてきた呻きを堪えた。九州で暮らしていた立花は慣れ親しんだ故郷を、親元を離れてここにいる。たった、一人で。

 ――――たった一体の。

 たった一体のソレによって、退治屋『立花』は終わらせられた。

「晩御飯、一緒に食べる?」

「え……?」

「立花さんが良ければ、だけど」

「良いの? ほっ、ホントに?」

 一緒に食事をするだけで、隣を歩いてやるだけで立花の心を埋められるとは思わない。親類を殺され、生まれた地を追い出されるようにして、殆ど何も分からないままここに来て、刀を振るう生活を強要された。彼女が失ったものはあまりにも多く、大きいのだから。それでも、一は彼女の泣き顔が見たくなくて、頷く。

「やったあ! はっじめ君の、手っ料理ー」

 立花は調子外れの、即興で作ったであろう歌を口ずさみながら歩き出した。一は彼女の背中と、揺れる黒髪を見つめる。

「けど、立花さんにも手伝ってもらうよ」

「え、えーと。ぼ、ボクも?」

「料理、出来るようになったんじゃないの? ほら、あの大きなカボチャで」

「あ、あはは。えへへへへ…………駄目でした」

「駄目だったか……」

 一は立花の隣に並び、追い抜いていく。

「じゃ、俺で良ければ教えるよ。まあ、俺だってあんまり得意な方じゃないんだけど」

「本当!? 何だか、今日はすっごく良い日かも」

「そうかなあ」

「退院出来たし、はじめ君と遊べたんだもん」

 剥き出しになった無垢な瞳を向けられて、一は目を逸らしてしまった。彼女のそれはどうにも、まっすぐで、眩し過ぎる。

「ねえねえ、何を作るの?」

「何にしようかなあ。スーパーに行ってから決めようか」

 並んで歩く二人の姿は仲の良い兄妹のようで、しかし、どこかぎこちなかった。

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