一人一途
ナナによって、支部の床へと横にされた技術部の男が顔を上げた。彼の目に映るのは、ソレと相対し、自由自在に場を駆ける男である。
「彼が、アイギスの……」
「あっ、こら無理はしない」
炉辺が男の傍にしゃがみ込み、指を一本立てた。
「……はじめちゃん、来てくれたんだ」
「僕たちは……」
男は一をじっと見つめる。勤務外と一言で言うのは易い。それが彼らの仕事であり、存在理由だと断ずるのはあまりにも容易い。しかし、彼は見てしまった。改めて理解したのだ、自分たちを守っていたのは、あんなにも小さく、若い人間だと。
「無駄だったみたいだ」
勤務外が来ると知っていれば、自分たちの代わりをやってくれると分かっていれば、怪我などしなくても済んだのだろうか。ナナの足を引っ張らずに済んだのだろうか。考えると、惨めで空しくて、知らずの内に涙が出てきてしまう。
「無駄じゃないよ。無茶だったかもしれないけど、きっと、ナナちゃんだって分かってくれる」
「……慰めるのが上手いですね」
炉辺が何を言ったところで、自分たちの行為が良い結果を招くとは言い難い。男は目を瞑り、ゆっくりと頭を床に置いた。
「私はホントの事を言っただけだよ」
やはり、慰めるのが上手いではないか。男は苦笑し、風の精霊を味方にする一に、後を託すと決める。
「……皆、無事ですか?」
「うん、怪我はしてるけどね」
それだけを聞くと、男は両手を伸ばす。何も得られず、何も掴めなかった腕を見遣り、嗚咽した。
そこらに散らばった空薬莢。抉れた地面。戦いの跡を認め、一は息を吐いた。
「ニンゲン、邪魔な奴らはいなくなったぞ。みぃんな、あいつが連れてった」
シルフはつまらなさそうに周囲を見回して、ソレに鋭い視線を向ける。
「何も出来ないなら、最初から出てこなきゃ良いのにな」
「あの盾、見ろよ」
「何さ?」
一が指差しているのは、四つに砕けたライオットシールドである。
「アレはアイギスみたいな盾とは違う。もっと、かっこいいものなんだ」
「……どこが。オマエの持ってるヤツのがすげえじゃん」
「こんな、でたらめなものとは違うんだよ。アレは人間だけが持てる、良いものなんだ」
シルフには、一が何を言いたいかが分からない。
「あの人たちは俺とは違う。人間のままでソレに向かっていったんだ」
「だから、何さ」
「羨ましいのさ」
アイギスの力は素晴らしい。これを持っているから、勤務外でいられる。しかし、アイギスを持つ以上はただの人間ではいられない。人を外れるのを望み、自ら手にした力なのだから、一は既に諦めている。だからこそ、技術部の者たちが羨ましい。
「気付いたよ、俺は卑怯者なんだって」
「オマエはそういうんじゃない。今だって、しんどいのに戦ってる」
「アイギスで身を隠して、避けるのはお前に任して。それでも、戦ってるって言えるのかな」
今更だ。それでも頼り、縋るしかない。こうしないと、自分一人ですら守れないのだ。
「……悪い。面白くないよな、こんなのは」
「何だよ、ニンゲンなんて、そんな良いものじゃないぜ」
「かもな」
なら、どうしてシルフは自分を助けてくれる。一は疑問を呑み込み、瞬きを繰り返した。何もかも、今更過ぎる。歩んできた道が、選んできた答えが全て正しいとは思っていない。だが、退かない。間違っていたとして、後戻りは出来ないのだから。自分に出来るのは、技術部の思いを、人であろうとした彼らの願いを繋ぐ事である。一は決意し、長い息を吐き出した。
「昨日は頑張ったよな、俺。でも、今日の主役はナナなんだよ」
「ふん、シルフ様はあいつ、嫌いだけどな」
シルフは一の体をぎゅっと抱き締める。
「あいつからは風を感じない。生きてるって感じがしないんだ」
「それは……」
「ニンゲンじゃないんだもんな。知ってるよ。けど、やっぱり、ヤダ」
一には、ナナを嫌いにならないでくれ、好きになってくれとは言えなかった。もともと、彼女とシルフは相容れない存在なのである。
「ナナが、人形だからか?」
「違うよ。ニンゲンとかニンゲンじゃないとか関係ない。なんつーか、あー、ううん……嫌いなものは嫌いなの!」
一が戦っている。全員を支部に運び終えたナナは、彼の姿を確認した。
「七号っ、どこに……」
「一さんを放ってはおけません」
技術部の男に答えると、ナナは関節の動きを確かめる。
「主任が呼んでる。タロウを破壊するには、今の七号の装備では無理なんだよ」
「把握しています」
「だったら……!」
「だったら、何ですか」
「……七号?」
ナナの態度に違和を感じた男は、不思議そうに彼女を見つめた。
「一さんではソレから逃げ回るのでやっとでしょう。私が行かなければならないのです」
「でも、ソレは倒せないよ。二人して逃げ回るのか?」
「一さんを安全な場所に送り届けてから、私だけで戦えば済む話です」
「戦ったところでタロウを破壊出来なければっ」
「優先すべきは一さんの救出でしょう。破壊出来るかどうか、それから考えても問題ないのでは?」
ナナは頑として言い分を聞かない。今まででは考えられなかった彼女の非合理的な言葉に、男は困惑した。
「何もないのでしたら、私は行きます」
「七号……」
ナナを止められる力も、言葉も持ち合わせていない。男は彼女の服を掴もうとして、
「待ちたまえ七号」
振り向く。
そこには息を切らした天津がおり、ナナをじっと見据えていた。
「今、君が行っても仕方がないんだ。新しい武器を用意している。彼を助けたいと望むなら、こちらに来るんだ」
「……ですが、時間が」
「そうだね、こうして話している間にもあの青年は危機に晒されている。無駄だと思うなら、僕の言う事を聞くんだ」
ナナは床に視線を落とし、縋るように天津を見つめる。行かせてくれと、訴えていた。
「人形、だからですか?」
「……何だって?」
「私が人形だから、そう仰るのですか?」
しん、と、ロビーが静まり返る。ナナの口から発せられた悲痛な音が突き刺さり、天津以下、技術部の人間は口をつぐんだ。
「私たちが心を持ってはいけないから、意思を以て動いてはいけないから、だから、天津さんは……」
天津はしばし声を失う。確かに、彼女が自我を持つのを待ち望んでいた。人間よりも人間らしく、そうあれと願っていた。
「七号、それは違う。違うんだよ。……僕たちは君を人形のように扱おうなんて思っちゃいない」
「私にはそう見えません。言葉を尽くし、重ねたところで私が人形だと言う事実は消えないのですから」
「……その通りだ。だが、君は、僕たちの子供なんだよ。皆、娘のように思っている」
ナナは顔をしかめた。天津の言葉が信じられず、ただ、彼の続きを待つ。
「七号、君は不満を口にせず僕たちのわがままを聞き続けてくれたね。手の掛からない、本当に、良い子だ。そんな君が、ああ、そうか。僕たちを無視して一一君を助けたいと。うん、君が口にした、生まれて初めてのお願いなんだ」
「お願い……?」
「ああ」と、天津は首肯する。
「合理的じゃない、凡そ人形らしくない、わがままな願いだよ」
ふっと微笑み、天津は皆を見回した。
「仮に、それが私の願いだとして、いけない事なのでしょうか?」
「まさか。今日は技術部にとって悪夢のような、最悪の一日になると思っていたが、全部帳消しにしてくれる喜ばしい出来事があったのだから」
「何をおっしゃって……」
「おめでとう七号、君はもう人形なんかじゃない。そしてありがとう、君は僕たちが作った……いや、生み出した中でも最高の、娘だ」
ナナは目を見開き、天津を見つめる。ふと、周囲にも目を向けると、誰も彼もが彼女を見つめていた。嬉しそうに、慈愛に満ちたそれを。
「人間でありたいと望むのなら、時には合理的でない選択にも迷うだろう。当然だ、人間ってのはいつだって迷って、間違って、苦しんで、諦めてしまう生き物なんだから」
言葉を尽くしても、重ねても、所詮は言葉。口先だけで、聞き心地の良いものでしかない。しかし、それに救われる者もいる。時には、思いのひとかけら程度は伝わるのだ。
「でも、人間は最後の最後まで諦めない生き物でもある。誰だって苦しむだけじゃ終われない。彼だって、諦めようとしてソレに立ち向かっている訳じゃないんだ。七号、僕たちはまだ終われない、諦めたくない。君に、助けて欲しい」
「天津さん、私は……」
「恨んで良い。妬んで良い。羨んで良い。呪って良い。いつか、僕を、僕たち人間を殺してやりたいと願い、思い、実行に移してくれても構わない。だけど、君も人間になりたいと、そうありたいと望むのならお願いだ。こっちに来てくれ。……歩いて、くれ」
「私は、皆さんの娘だと思っても良いんですか。人間のようになりたいと思っても、許されるのですか?」
絞り出すような声を、ナナは聞き届けた。彼女はソレの攻撃を避ける一を見た後、低頭する。
「お父様、私に力をください」
「……ああ、ああっ、勿論だ。先に研究室へ行ってくれ」
ナナはお辞儀して、駆けた。振り向かずに、真っすぐに。彼女の後ろ姿が消えるのを見届け、天津は炉辺に視線を遣る。
「……後を、お願いします」
「天津君、私は止めるからね」
「構いません」
天津は横たわる部下たちの真ん中に立ち、ソレを見つめた。彼に倣い、技術部全員がソレに視線を向ける。
「君たち、聞いたね?」
「ええ、当たり前です」
「ではいざという時には……」
「死ねば良いんでしょう。全く、何が喜ばしい事なんだか」
「うん、僕も死ぬのは嫌だ。あれだけ覚悟どうのと口にしていたのにね。見てくれ、震えが止まらない」
苦笑し、天津は自分の膝を強く叩いた。
「しかし、可愛い娘の頼みを聞かない訳にはいかない。何せ僕たちはお父さまなのだから」
「あの勤務外を死なせたら、俺たち七号に顔向け出来ないな」
技術部の男たちは笑い合い、一人、また一人と怪我を押して体を起こす。
「僕は七号に装備を渡さなきゃいけない。済まないが、その時が来たら君たちから死んでくれ」
「しゅにーん、後を追ってくれるんですか?」
天津は笑って誤魔化し、彼らに背を向けた。
一には、人間が人形の為に命を投げ出せるとは思えない。だから、技術部の人間はナナを人形とは思っておらず、また、自分だってそうなのだ。彼女は誰よりも人間なのである。
「っ、とっ……」
躱し損ねたソレの拳が頭上を通り過ぎていった。懐に飛び込んだところで堅固な装甲を貫けるとは思えない。一はソレの股を抜け、シルフは彼の意を汲み中空に舞い上がる。
「……頭ぁ痛くなってきた」
「じゃ、帰って甘いもの食べようよ。シルフ様、パフェ食べたい。いーっぱいクリーム乗ったヤツ」
「虫歯になるぞ」
「はっはー、せーれーは虫歯になんかならないもんねー」
ソレはコンクリートの破片を掴み、一に向かって投げ付ける。彼は広げておいたアイギスで破片を防ぎ、息を吐いた。
「揺れる……」
「つーか、いつまで付き合えば良いのさ? あのデカイの、懲りないのかよ」
「懲りないんじゃなくて諦めてねえんだろ」
アレはどちらかが死ぬまで侵入者を狙い続ける。もはや、自動人形とも言えない。虫や幽鬼に近い存在と成り果てたのだ。
「仕事終わるまでは帰らねえんだ。誰かさんに見習って欲しいところだよ」
一は呟き、地面に降りるようシルフに指示する。彼は着地と同時にふらついた足を見て、誤魔化すように笑った。
天津よりも一足先に彼の研究室へ到着したナナは、部屋の中央の机に置かれたモノを認めた。
それは、巨大な銃に見える。が、そうではない。銃身の先からは金属製の長い杭、のようなものが飛び出している。見た事のない武器に、ナナは眉根を寄せた。
「銃剣……? いえ、これは……」
「全長二千ミリ。重量は三十キロ。アンチマテリアルライフルを改造した、技術部最後の希望だよ」
部屋に入ってきた天津に目を向け、ナナは再びそれを見つめる。
「銃、なのですか?」
「銃ではない。これは、そうだな、浪漫だよ。男のね」
「浪漫、ですか」
「浪漫だ」と、天津は頷いた。
「仕組みとしては単純だ。この、金属製の杭を液体火薬によって高速射出し、相手の装甲を打ち抜く近接用の武装だよ。勿論、威力は申し分ない」
天津は机の上の武器を見て、苦笑する。
「尤も、使いどころは殆どないけどね」
「そうなのですか?」
「ああ。……微妙過ぎるんだよ、これ。そもそも、こいつには元ネタがあってね。ああ、いや、それは良いんだけど。んん、これは対個人に使うような兵器じゃなく、普通の人間には扱えない代物なんだ」
「……では、どなたが扱う筈だったのですか?」
ナナの問いに困ったような顔を浮かべ、天津は髪の毛を掻いた。
「誰も使えないから、今まで陽の目を見なかったんだよ。近接用の武装だから射程は短い。だが、実は威力はそこまで高くないんだ。さっき言ったと思うけど、この武器を使う目的は『相手の装甲を貫く』って一点にある。相手の装甲によって威力は変わるだろうけど、つまり、装甲を貫ける程度の威力しかないって事にもなるんだ」
「それでは意味がありません。ソレを破壊出来なければ……」
「ああ、その点については問題ないよ。こいつに限っては威力だけを重視し、火力だけに特化させたガラクタだからね。だから、浪漫なのさ」
自虐的に笑むと、天津はナナに目を向ける。
「このアタッチメント、信用出来るのですか?」
「勿論。……と、言いたいところだけど、あくまで試作。使い手がいなかったと言え、一度も試し打ちしていないんだ」
「……しかし使えれば必殺に成り得ると。天津さん、実際、私たちはコレに頼らざるを得ませんよ」
「だから調整さ。少し時間は掛かるが、火薬の量、杭の重量、君が持った際の反応、運動をシミュレートしてから……」
ナナは首を振り、話を遮った。
「調整は不要です。間に合いませんから。一さんは今も戦っているのです」
「だが、不安定なものに賭ける訳にはいかないよ。僕にもプライドがある。自分でも良く分からないものを無理に使うなんて、許されない」
「ですから、間に合わないと言っているのです。構いません、可能な限り最大の火薬を。考えられる限り最高の威力を期待出来るようにセットしてください」
「いや、だからね」
「――――お願いします」
とても、お願いしているような目付きではない。ナナは天津をじっと見据えて、掌をゆっくり閉じ、開く。
「試作品と言うのなら私も同じです。お父さまにとっては、命運を託すには足らないかも知れませんが」
「……君は」
思わず言葉に詰まった。天津はナナから視線を逸らし、俯く。
「お願いします。……早くしないと、一さんが死んじゃう。もしそうなったら、私は……」
あなたたちを許さない。そう言われた気がして、天津は、諦めた。
「今は、無理をする場面だったか」
彼は机の引き出しからケースを取り出す。蓋を開け、中に入っていたものをナナに手渡した。
「天津さん、時間がないんです」
「七号、僕たちのモットーは?」
「……常に全力。完全に、完璧に、完膚なきまでに」
「その通り。君はオートマータである事に誇りを持ち、メイドである事に拘りを持つのを忘れては駄目だ。……さあ、掛けてくれ。それで君は完璧なのだから」
ナナは言われた通りに、渡されたフルリムの眼鏡を装着する。視界に変化はないが、何か、身が引き締まる思いを感じた。
「七号、こいつにはまだ名前がない」
「はい」
「どんな事になるか分からない。途中で銃身が砕け、反動で君自身が砕けるかもしれない」
「はい」
「しかし、必ず無事に帰ってきなさい。そして、こいつに名前を付けてやってくれ。分かったね?」
「了解しました」
「……うん。持っていきなさい、使い方は分かるかい?」
ナナは頷き、新たな力に手を伸ばす。重量はあるが、彼女にとって大した問題にはならない。
「正直、君がそう言うと思ってセッティングはしておいた。さあ、行っておいで」
「行って参ります」
またもナナの背中を見送り、天津は机の上に腰を下ろす。
「……お父様、か」
果たして、本心から出た言葉なのか、取り繕い誤魔化す為に口にしたのか。しかし、どちらでも構わない。重要なのはナナがそう言ったのだと、それだけなのである。
「一一、彼が、変えたんだね」
親鳥が雛を見送るような、あるいは、父親が娘を嫁にやるような、複雑な感情に胸を支配されて、天津は頭を掻いた。
攻撃を避けるのは簡単だ。そして、大して面白みもない。昨日のゴルゴンの方が早く、重く、恐ろしい相手だったのだとシルフは思う。
どうにも、つまらない。一はと言えば逃げ回る指示しか出さない。積極的に戦おうとしないのだ。何よりも気に入らないのは、彼がナナの為にここへ来た事である。
人間は弱く、脆い。ネズミのように数を増やして放っておけばいつの間にか死んでいる。攻撃を食らえば怪我もするし雨に打たれれば病気にもなり、やはり死んでしまうか弱い生き物なのだ。それでも、シルフは人間を毛嫌いはしていないし、構って欲しいと思う時もある。
一は人間で、ナナは人間ではない。なのに、彼は人間よりも強く、怪我もせず、病にもかからない頑丈な彼女の盾になろうとしている。シルフにはこれっぽっちも理解出来ない行動だった。
そして、シルフはナナが嫌いである。単純な理由だ。ナナからは風を感じない。生きている以上、人間である以上は何らかの動作を伴う。歩き、走り、食べ、眠る時でさえも、風の精霊であるシルフは、それらの動きから風を感じるのだ。激しく、静かに、時には凪いで。個人差はあれ、必ず風はある。しかし、ナナからは何も感じないのだ。シルフにとってはソレが気味悪く、恐ろしく感じる。
「……そろそろやべえな」
ソレの攻撃を受けた一がふらつき、アイギスを手放してしまう。彼の顔面は蒼白で、今にも倒れてしまいそうだった。シルフは風を集めて空中に逃れようとしたが、ソレがコンクリートの破片を掴むのを見て躊躇う。
空中に行ってしまえば、ソレはコンクリートを投げ付けてくるだろう。シルフとてそれを躱す自信はあったが万が一も有り得る。アイギスを持たない一では、雑な攻撃ですら致命傷になりかねないのだ。
「拾えよバカっ」
一は手を伸ばそうとするが、がくりと膝を着き、申し訳なさそうな表情を作る。
「……っ、そんな顔すんなよ!」
ソレは一たちを見下ろし、腕を振り上げた。
瞬間、シルフは弾かれたように支部に向き直る。
「風が、吹いてる」
彼女にしか感じられない風、まっすぐなそれが吹いていた。
ナナは走る。真っすぐに、自分の思いを伝える為に。
研究室を飛び出し、廊下を抜けてロビーに躍り出る。誰もが彼女に視線を送り、声を送った。頑張れと、負けるなと、声は波のようにナナへと押し寄せる。
彼女は駆けた。思いを貫く為に。その為の武器は持っている。迷う事はもうなかった。床を踏み締め、砕き、支部の外へ飛び出す。
一にソレが迫っているのを確認したナナは、叫んだ。それはもはや音ではない。自らの意志を届ける為の声となり、同時に、彼女が人間であるのを望み、人間に近付いたのを証明する産声となっている。
――――名前を。
思いを込め、貫く。自分の気持ちを伝えてくれる力。名前なら、既に決まっている。
「一さんからっ、離れろ!」
地面を蹴り、ソレに肉薄する。一はこちらに顔を向けて安心したように目を瞑った。
ナナはソレの腹部に杭を突き立てる。装甲にひびが入り、ソレの顔が歪んだ。苦痛からではない。その表情からは困惑の色が見て取れる。
「ナガま、なノに……」
確かに、オートマータ同士通じる部分はあった。だが、同じモノだからと言って仲間になれるとは限らないのである。
「一緒にしないでください!」
一度では貫けないならと、ナナは再度杭を打ち込む。
シルフは一の体を抱いて真上に飛び立った。ナナがそれを確認してからレバーを引くと、耳をつんざくような爆発音が轟く。甚大な負荷、想像を絶する反動が彼女の外部内部問わず痛め付けた。最初に両肩から火花が散り、発生した風圧によって装甲が剥がれて飛んでいく。
火薬が炸裂した際の力で、杭が打ち出される。銃身は焼け焦げ砕け散っていた。ナナから、彼女の周囲からも蒸気のような、熱を持った煙が立ち上る。彼女のメイド服は大半が弾け飛び、焼けてしまっていた。
「お、あ、アあッ……」
打ち込まれた杭はソレの腹に風穴を開け、遥か後方に着弾し、砕けている。
ソレの腹からは琥珀色の液体がとめどなく流れていた。彼に埋め込まれた管から、惜し気もなく。それは、命だ。ただの金属の塊を自動人形に足らしめたモノが、だくだくと溢れている。地面に流れ、水溜まりを形成していく。
「……ぼっ、ボくの、のっ」
ソレは開いた腹を両手で押さえた。しかし、意味はない。むしろ、液体が落ちていくペースは上がっていく。ナナはその光景をじっと見つめていた。バッテリーが上がり、ショート寸前の彼女はもう動けないのである。ただ、一つの終わりを見るしか出来ないでいた。
その筈だった。しかし、ナナは動こうとする。機能が停止しかけている足を引きずり、熱の残る腕を上げ、拳を握り込んだ。ヴィクトリアンスタイルのメイド服はぼろ切れ同然に成り果てて、彼女の肌を晒している。フルリムの眼鏡は歪み、レンズは割れてフレームのみとなっていた。ナナが眼鏡の位置を押し上げようとすると、どろりと溶けてしまう。
ナナはゆっくりと顔を上げて、疲弊しきっている一を見遣った。
「……完全に」
人形でも構わない。人間の意のままに動くだけの存在でも構わなかった。
「完璧に」
だが、いつからか彼女も人間である事を望んだ。
――――きっと、あなたのせいだと思います。
全てが新鮮に映り、眩しく見えたのは錯覚ではない。短い時間ではあるが、北駒台店の勤務外として、駒台の住人として得たものは多く、今にして思えば何と素晴らしい日々なのだろう。
「完膚なきまでに」
放った拳はソレの腹部を突き上げ、中にあった管を掴む。残った力を振り絞り、ナナは管をねじ切り、引きずり出した。
僅かな残滓すら許されず、神の血は人形から全て垂れ流された。ソレは異常な速度で瞬きを繰り返しながらナナを見る。やがて、瞬きは緩やかになり、止まった。その瞼はもう二度と開く事はなく、その瞳はもう何も捉える事は出来ない。
「……きっと、きっと……」
ナナはゆっくりと腕を下ろし、動きを止める。
――――きっと、良い名前だと言ってくれますよね?
砕けた武器を見下ろして、ナナを目を瞑った。ありがとうと感謝を込めて。また会いましょうと再会を願って。
「…………いち、ず」
彼女は自らが付けた武器の名を呼び、満足そうに微笑んだ。