自動人形は未来のイブとなり得るか?
人間と触れ合い、彼らを知った。
人間になりたい、彼らを羨んだ。
人間でありたいと望んだ。彼らに近付きたいと、そう望んだのは嘘ではない。だが、人形である自分が笑えたとして、泣けたとして、結局のところ何も変わらない。模倣でしかなく、ある種その行為は彼らに対する冒涜でしかない。
――――それでも、私は。
せめて、心を。
心を欲する事が叶わぬと言うのなら、この身には適わぬ思いだと言うのなら、せめて、心を知りたい。人間を知りたい。そうさせたのは、彼だ。
「いつまでもっ、私を足蹴には……!」
ソレの体が浮き上がり始めた。ナナは両腕に先よりも力を込め、圧し掛かった足を体全体で押し上げる。
「ウウうウっ、オまエ……」
「この身を自由に出来るのはあなたではありません!」
跳ね上げたソレの足を掴み、ナナは体を捻る。
「これが私のっ、ドラゴンスクリューです!」
腹の底まで響く轟音。ソレは地に這い蹲り、腕を上げた。その仕草はまるで、誰かに助けを求めているようにも見える。
ナナは立ち上がり、スカートに付いた埃を払った。眼鏡の位置を直そうとした指が、所在なさげに空を切る。彼女は目を細めて支部の様子を見遣った。どうやら、死傷者は出ていないらしい。その事に安堵し、両手を上げて構える。
「七号っ!」
「……?」
ナナが振り向くと、支部からは技術部の男たちが姿を覗かせていた。何故か、彼らは物々しい装備に身を包んでいる。とは言え、大層なものではない。自分やソレに比べれば、同情してしまうほどに貧相なものではあるが、彼女の目を引くのは全員が手にした大きな盾だ。
「ライオットシールド……? 何故、ですか」
「七号、君は支部に戻るんだ!」
「ここは俺たちが引き受けるから!」
どこを誰が引き受けられる。
「そんな、駄目。駄目です、早く戻ってくださいっ」
技術部が走る。既に彼らの目はナナを捉えていない。熱に浮かされた彼らが見ているのは、ソレだけだ。
「何をやっているんですか!?」
ナナには理解出来ない。正真正銘、ただの人間である技術部が何人集まろうと、犠牲者を増やす事にしかならない。ソレと戦える筈がない。
なのに、彼らは走る。
一目散に死へと。一直線に終わりへと。
死ぬのは恐い。穴蔵のような地下にこもり続けていたせいか、この世全てが敵に思えて仕方がなかった。陽光に目を細め、睨み返して突き進む。盾に身を隠しながらソレに向かう。
「あ、あア、しんにュうしャ、いっパイ……」
「やめてっ、やめてください!」
彼女をこんな目に遭わせているのは自分たちだ。救いのない世界に産み落とし、代わりに死ねと強要した。許されないと知っていながら、知っているからこそ、
「おおおぉぉお! 押さえろうっ!」
走る。
立ち上がったソレは腕を払った。それだけで、盾もろとも弾き飛ばされる。
倒れ、吹き飛び、転がる仲間に声を掛けずに目もくれずに、追い付いた者たちはソレに食らい付く。持ち上がった腕に怯える事はない。
「がああああぁっ!」
数人掛かりで盾をかざす。ソレの攻撃を受け切れずに、また一人弾かれる。その穴を埋めるかのように後続の者が盾をかざして割り込んだ。
「七号! 君は支部にっ、主任のところに戻れ!」
「置いていけません!」
ナナはソレの腕を蹴り上げ、技術部を援護する。が、彼らはそれを求めていない。
「主任は待ってる! 君に与えられる最後の武器を持っているんだ!」
「それでは本末転倒でしょう。ソレから皆さんを守るのが私の役目です」
ソレが両腕を振り回す。近くにいた者から、呆気なく吹き飛んだ。中には盾の壊れた者もいる。血を流し、動かない者もいる。
「違う! お前の役目はソレを破壊する事だっ、僕たちは気にするんじゃあない!」
ナナはソレの右腕を押さえ、残った者たちが必死になって左腕を押し止めた。
「君が行かなきゃ意味がないんだぞ!」
「死にたくねえけど、無駄死にすんのはもっとやだからな!」
「……せめて、動けない方を連れていくだけでも」
「動けない奴なんかいないっ、早く戻ってくれ七号!」
血を流していた者の足はふらついていて。それでも爛々とした瞳でソレを強く見据えている。とても、戦える状態ではなかった。それどころかまともに動けるようにも見えない。
「ここまでする必要性を感じられません。私一人でも……」
「無理だよ。七号、君が一番分かっている筈さ」
「無理ではありません」
蛮声が四方から上がる。ソレは首を巡らして、盾を構えた男たちを認めた。
「押し問答をするつもりはないぞ。七号、僕らは君の親なんだ。親の言う事は聞くものだろう」
ナナの傍まで来た男はそう言って、陣に加わった。瞬間、また誰かが崩れ落ちる。
「全員で掛かるな! 五人ずつで回してくんだっ」
「……っ、どうして人間たちが出張るのですか!」
ナナの隣に盾が並ぶ。彼女を押し退けようとしているのだ。一人、また一人、無謀にもソレに力比べを挑んでいく。
「退いてください、危険だと分からないのですか!」
しかし、退かない。
技術部の者たちは倒されても立ち上がり、盾を失えば別の者に手を貸した。押し負けそうになれば手の空いた者が割り込み、再び押し返そうとする。決して倒せはしないのに、いつか必ず破綻する状況を継続させようとしていた。
「ぼっ、僕たちを死なせたくないんなら、早く主任のところに……」
全ては喜劇。彼らの行為は勇猛ではなく勇敢でもなく滑稽でしかない。
「私が抜ければっ、数秒と持たないんです! 第一、あなた方がここに来る必要なんて!」
――――ない。
全員が己の浅はかさ、無力さを良く知っていた。必要はない。ただ、ここに来たかっただけなのである。責任を取る為だと誤魔化して、命を捨てようとしているだけだ。
「……七号、済まなかった」
「俺たちは、君に何もかも押し付けようとしている」
「それが私の作られた理由ですっ」
今更謝るな。多くの者にはそう聞こえた。
「頼む……! こいつをやれるのはお前だけなんだ……」
「無理です!」
「わがままな……」
「わがままを言ってるのはそちらじゃないですかっ」
ああ、と、シルフは呟いた。ぼんやりと思った。
風を感じられる自分には分かる。風が運んでくる空気の肌ざわり、重さが変わった。この街に来てから何度も触れた種類のそれである。
「ん、シルフ、どうした?」
「何でもないよ」
戦場の臭いが鼻を突いていた。果たして、万全でない一をそこに連れていっても良いのだろうかと、彼女は柄にもないと自覚しながら悩む。
「おーいスピード落ちてんぞ」
「うるさいな馬鹿。……なあ、オマエはさ、どうして戦うのさ」
「言わなかったっけ?」
「シルフ様、聞いてない」
「ああ、そう」と呟き、一は暫くの間、口を閉ざした。
「首を、さ」
やがて、一はぽつりと漏らす。何を喋って良いのか分からないのだと、彼の口調から、シルフはそのように捉えた。
「首を突っ込み過ぎたんだと思う。駄目なんだよな、やっぱり。人間だからさ、世捨て人や仙人みたいには生きられないんだ」
「良く分かんない」
「今になって思えば、寂しかったんだよ。一人が嫌だから、誰かと関わりたくて。で、失敗した。欲張っちまった」
「良く分かんない」
もっと分かりやすく言え、と。シルフは一をじっと見つめるが、彼がその視線に気付く事はない。
「俺たち勤務外がボッコボコにやられたの、知ってるだろ」
「ああ、オマエらみぃんな、チビにやられたんだってな」
「そん時思ったんだよ。『うわ、絶対死にたくねえ』って。そんで、『誰にも死んで欲しくない』って思った」
「そりゃ無理だろ。オマエらはニンゲンなんだし」
「分かってるよ」と、一は拗ねた風に言い放つ。
「でもさ、じゃあせめて、俺がどうにか出来る範囲で誰かが助かるなら、何とかしたいって、そうも思ったんだ」
シルフは息を吐き、一から視線を外した。
「だから、戦うのか?」
「俺がでしゃばって、誰かが助かるんなら」
「弱いくせに」
「アイギスがあるんだから、まあ何とかなるよ。それに、お前がいるしな。俺は弱いけど、痛い攻撃にさえ当たらなけりゃ良いんだし、最悪、こいつで防げる」
アイギスを示して、一は笑う。作り笑いだとシルフは見抜いた。
「シルフ様をあてにし過ぎじゃないのか。良いのかよ、風ってのは気紛れなんだぜ。オマエに飽きたら、どっかに行っちゃうかもしんないぞ」
「その時はその時」
「……その時が来たら、オマエはどうすんのさ」
「その時は、まあ、気長に待つよ。また風が吹くのを」
思わず、笑む。シルフは緩んだ頬を戻そうとして、無理に難しそうな顔を作った。
『私だ』
「ああ、お前か」
私物の携帯電話を持ち替えて、店長は煙草に火を点けた。
「元気でやっているようだな。安心したよ」
『ほう、二ノ美屋店長の口からそのような言葉が聞けるとは』
「安心しろ、社交辞令だ。それよりも何か用か?」
『せせこましい日本に腰を落ち着かせる気分はどうかと尋ねたくなったもので』
「そうか。案外、悪くないぞ。時間に追われるのも、尻の軽い女だと思われるよりは幾分かマシだ」
通話口からくぐもった笑い声が聞こえてくる。久しぶりに耳にした彼女のそれに、店長は少しだけ安堵した。
「今はどこにいるんだ」
『暑くて、うるさい街だ。スーツでは流石に辛い。が、休暇と言うのも悪くないな』
「鈍るぞ」
『それも悪くない。何かから解放されたのは久方ぶりなんだ』
こちらは困る。紫煙を吐き出し、店長は眉根を寄せた。
『……平和な街も、まだあったのだな。離れてみると、駒台は悉くどうしようもないところなのだと思い知らされる』
「帰りたくない、か?」
『まさか。私を誰だと思っているつもりか。オンリーワン近畿支部……』
店長は携帯電話を机上に置き、ぼんやりと煙を眺める。声が途絶えたのを確認してから、再び電話を手に取った。
「で、掛けてきた本当の理由は?」
『ホームシックだ。少しだけ、駒台の人間と話したくなった』
「……私の立場を知っていての発言だろうな。忙しいんだよ、私は。三森に相手してもらえ」
『毎日電話を掛けていたので、飽きた。いや、と言うか奴は電話に出なくなった』
そら出なくなるわ。三森の嫌そうな顔を想像し、店長の口角がつり上がる。
『三森冬には対人コミュニケーション能力が著しく欠如しているらしい。二ノ美屋店長、人の上に立つ者ならば、下の者はしっかりと教育するべきだぞ』
「全く、くだらん」
『ああ尤もだ。……良くない話を聞いた。何でも、北駒台の勤務外が腹を抱えて笑えるぐらい叩きのめされたという話だ』
「どこから仕入れてくるんだ」
『私を誰だと思っている。オンリーワン……』
心から思う。面倒臭いと。そして三森の口の軽さを恨む。
『む、聞いているのか二ノ美屋店長』
「ああ、聞いている。で、そうか、なるほど。お前は一の容体を知りたいらしいな」
『何故そうなる』
「知りたくないなら良いが」
『いや待ってくれ。私は一一に借りがある。恩を返せないまま奴が死ぬのはつまらない。そうは思わないか?』
店長は少し楽しくなってきている。
「まあ、一に何かあったなら三森の反応で分かるだろう。特に何もないし、何も聞いていないんだろう?」
『では、無事なんだな。いや、そうか、つまらないトリビアを聞かせてもらった。何せ、三森冬は一一の話題になると、要領を得ない話し方になり、挙句話を逸らそうとするのでな』
「心配しなくても今は無事だよ」
『今は? ……そうか、ソレが出たのか』
「そうだ」と言い放ち、店長は短くなった煙草を灰皿に押し付けた。
『二ノ美屋店長から見て、今回のソレは一一で対処出来そうなのか?』
問われ、店長は考える。技術部の自動人形が相手なのだ、一では到底敵うまい。尤も、今回に限って言えば、彼はあくまでおまけなのだ。目には目を。ナナが先行しているのだから、彼女に任せるのが上策である。そして、ナナでも暴走した自動人形を倒せないのなら、その時は諦めるしかなかった。
「いや、無理だな」
『なっ……! 二ノ美屋店長、あなたは一一を殺す気なのか?』
うんと頷いてやろうとも思ったが、相当面倒な事になりそうだったので、店長は堪える。
「問題ない。一はそもそも蚊帳の外だし、何とか首を突っ込めたとしてナナの援護ぐらいしかする事がないからな」
『ならば良し。では切るぞ』
「おい」幾らなんでも分かりやす過ぎて自分勝手過ぎる。
『どうしたのだ二ノ美屋店長、私は忙しい』
「切るのは構わんが、一つだけ質問に答えてくれ」
『む、まあ、良いだろう』
何だか無性に腹が立ったので、一が戻ってきたら弄ってやろうと店長は思った。
「人間と人形に違いはあると思うか?」
『……無論、ある。あって当然だと思うが。それは、私と三森冬に違いはあるかと聞いているのに等しい』
「うん、そうだな。人間は人間、人形は人形だ。人形は、人間になれない」
『人間は人形になれるがな。そも、興味のない話題だ。もっと言えば意味などない。人間同士ですらそうなのだから、人間と人形との間に差異があるのは当たり前だ』
新しい煙草に火を点けようとして、店長は動きを止める。
『人間よりも人間らしい人形がいて、人形よりも人形らしい人間だっているんだ。神魔が入り交じり、人とそうでないモノの境界線が曖昧になってきた世界だぞ、二ノ美屋店長。今更過ぎる話だとは思わないか』
「そうだな。すまん、余計な時間を取らせた」
『む、素直なあなたは気持ちが悪いな。まあ、良い。息災でな。私はもう暫く、一人でいるのを楽しむ事にする』
通話が切れ、店長は携帯電話を机の上に戻した。
地鳴りのような声がナナに届く。びりびりと、彼女の体は芯から震わされた。しかし退く理由にはならない。同様に、技術部の者たちも。
「退くなっ、死ぬまで退くな!」
「盾が壊れたらっ、体で止めるんだよ!」
――――無理だ。
ナナは彼らを見ながら、そう思った。もう持たない。今までに死人が出ていないのが奇跡なのである。それも時間の問題だ。半数は地に伏したままで動かない。彼女がソレの片腕を押さえてはいるが、もう片方を押さえる人間の数は減り始めている。かと言って、ナナは自由に動けない。彼女がここを放棄すれば、総崩れになってしまうのだ。
「……私は、どうして……」
ソレを倒せず、人間を守れず、人形としての責務を果たせないまま、終わる。
人間の、せいで。
人間がそうあれと望んでおいて邪魔をする。余計な手出しも、気遣いも、この身には過ぎたもので酷く煩わしいのだ。
「うっ、く……」
ナナは目を開く。眼前のソレを、周囲の人間を、自分以外の世界を睨み付ける為に。
「ああああぁぁああぁぁっ!」
吠えたところで込めるものも、乗せるものも、届けるに値するものもない。ナナの口から発せられるのは声ではなく、音なのだ。
誰に届くでもなく、音は鳴り続ける。しかし彼女は叫び続けた。
誰にも届かない。どこにも届かない。
ただ、ナナが思っている以上に世界と言うものは広く、圧倒的に、狭い。彼女の世界に隣り合うモノは確かにあって、歩み寄ろうとするモノは確かにいる。届かない。意味を為さない一方通行の音を聞き届ける者だっている。彼女のそれを自分勝手に都合良く解釈する者だっているのだ。
ソレが両腕を引き戻し、再度振り下ろす。ナナは辛うじて堪え、受け止めたが、人間にはあまりにも重過ぎる攻撃だった。彼らは散り散りになって、紙のように葉のように吹き飛ばされていく。
「あ……」
ぼろぼろになった彼らを風が撫でた。優しく、しかし少しずつ強く、鮮烈な。
もう駄目だと覚悟したナナの髪をふわりと揺らし、ぞわりと巻き上げる。
ソレは頭を上げ、吹き荒れるそれを見た。
状況は分からない。誰がどうして、何がどうなっているのかは理解出来ない。
「行くぞ」
「ん、頼む」
風が荒れ、集まり、高く鳴いた。真下に向かい、落ちていく。
――――泣いてた。
彼女が泣いていた。自分の良く知る者が助けを求めている。
自分勝手、自己満足で構わない。好きにやると決めたのだから、理由ならそれで充分である。それだけで一は、ソレの拳を受け止められる。
「ニンゲンっ、こいつが!」
アイギスが一に衝撃を伝えた。強く、重い一撃。彼は堪えられずに後方に吹き飛ぶ。
「一さん!」
シルフは足で地面を叩いて風を集める。一は彼女の動きに合わせて力を抜いた。シルフは衝撃を逃がし、飛翔する。ぐるりと中空で弧を描き、
「……うえぇ」
一は吐き気を催した。
「何してんのさ!」
「だって……」
空中からソレを見下ろし、一は眉根を寄せる。
ソレは空いた手で地面に指を突き刺していた。引き抜かれた五指にはコンクリートの塊が張り付いている。
「何してんだ、あいつ?」
瞬間、ソレが腕を振りかぶった。
「マジっ、かよ」
「吐くなよっ」
急旋回。一の体は引き上げられる。強い風のせいで目が開けられない。彼は音だけで、何か大きなものがすぐ横を抜けていくのを感じた。
「野郎あんな真似も出来んのかよ」
「でっかいくせに器用な奴だな」
「言ってる場合じゃねえぞ」
一たちはソレの腕を掻い潜って再び降下する。地に足を着けたと同時、一はアイギスをかざした。
何も変わらず、何も起こらず、つまりアイギスは発動せず、状況は依然として動かず。
「楽はさせてくれねえなあ」
「一さん、あなたは何を!」
「ナナ、あの人たちを避難させよう」
ナナはソレの腕を離し、掌底で敵の腹部を叩いた。甲高い音が鳴り、衝撃の波が辺りを揺らす。ソレは膝から崩れ落ち、ぐらぐらと首を揺らした。
「勝手な事を言わないでくださいっ、早く一さんも逃げて!」
「怪我人逃がすのが先だろ。俺が注意を引き付ける。ナナは……」
「どうしてここにいるのですか!?」
「え、うおっ」
一に詰め寄ったナナは彼の顔に指を突き付けた。驚いたシルフは、素知らぬ顔で逃げてしまう。
「……店長から聞いたんだよ。それより……」
「いいえいけませんっ、危険です。病み上がりの一さんでは役に立ちません。そうでなくともあなたは北駒台で一番弱い勤務外なのですから」
「だから、言ってる場合じゃないって。早く運んでやれよ」
「一さんが逃げてからです」
「そりゃ、無理だ。ナナの言う事は聞けない」
腰は引いていたが、一は決してナナから視線を外さない。
「何故ですか! ……私が人形だからですか?」
「はあ? 何言ってんだよ、こんな時に」
「私が人形だから人間の一さんは言う事を聞いてくれないんですね」
早口でまくし立てるナナに、一はうんざりした。
「お前は人間だよ。少なくともその辺の奴よりもな。心配してもらったって借りがある。ここは退かないぞ」
「配る心など私にはありませんから」
「店長から話を聞いたって言ったろ。気ぃ遣ってくれて、ありがとな」
「……一さんが感謝する事なんかありません」
「あるね」
アイギスをソレに向けて、一は断言する。
「あるんだよ。ナナ、どっちにしろ今はやばいんだろ。こんな状況じゃあ戦えない」
起き上がろうとするソレを認め、一はシルフを呼んだ。彼女に後ろから抱えられ、彼はナナに目を向ける。
「話はこいつを倒した後でも遅くない筈だ」
「ですがっ」
「ナナに一度は拾ってもらった命だ。簡単には捨てないよ。それに、俺は弱いし臆病なんだ。いざとなりゃ尻尾巻いて逃げるよ」
「……その言葉を信用してもよろしいのですか?」
「よろしいよ」一は頷き、笑顔を作った。
ナナは一とソレを見比べた後、近くに倒れていた技術部の男を抱える。
「皆さんを支部まで逃がすまで、この場をお願いします」
「任せろ」
「結局こうなるんじゃんか……」
シルフが呆れた風に息を吐き、一を半眼で睨んだ。
「時間稼ぎは俺の仕事なんだよ。付き合ってくれ」
一の言葉を鼻で笑い飛ばして、シルフは風を集めた。足元に集約された風が、爆発する。
「知ってるよ!」
一直線にソレへと向かう。反射的に繰り出された攻撃は散漫だ。シルフは中空で急停止、やり過ごしてから、再び加速する。
すれ違いざま、一は畳んでいたアイギスでソレの顔面を振り抜いた。
「かっ……」
が、固い装甲に跳ね返される。アイギスを掴むのに必死の一はソレの行動が見えていない。ソレは技術部が落とした盾の残骸を彼に向けて投げ放っている。
尤も、一が視認していない攻撃というのは殆ど意味はない。彼は全ての回避行動を風の精霊に一任しているのだから。
上昇して、ソレの放った盾を躱す。高度が上がるにつれ、一の顔色は少しずつ悪くなっていた。
「もっと、ゆっくり飛んで、くれって……」
「バッカだなあ! あんなのに当たったら死んじゃうぞ」
ソレに向き直り、一は咄嗟にアイギスを広げた。再度放たれていた盾を防御し、彼は息を吐く。ゴルゴンと比べれば、基本的には鈍いソレの攻撃だ。直撃をもらわない自信はあったが、衝撃だけはどうしようもない。手は痺れ、体に走る振動のせいで頭に鈍痛が走る。
長時間は戦えない。ソレは動き回る一たちに気を取られていて、彼は、ナナが早く戦闘に復帰するのを祈った。
彼女はと言うと、両脇に負傷した者を抱えて、支部とこちらとを行き来している。建物の方に目を遣れば、炉辺が忙しそうに動き、指示を出している姿が見えた。
「……戦ってんだな」
「は? 今更何言ってんのさ」
近付いてくるソレに向けてアイギスを広げる。一は歯を食い縛り、振り下ろされた拳を受け止めた。が、彼の体はゆっくりと中空で後退していく。少しずつ押され、一は舌打ちした。
「今のオマエじゃ無理だな」
見かねたシルフは、一を逃がすべく右に跳躍する。一瞬遅れて、ソレの腕が地面を抉った。
「ありゃ昨日の俺でも無理だよ。死なないだけで精一杯だ」
「……じゃあどうすんのさ。シルフ様はやだぞ、ここまできて逃げ帰るなんてのは」
同感だが、いざとなれば撤退するのも仕方ない。一は鈍くなりつつある頭を働かせ、ソレからは離れた場所に降り立つ。
「俺がやれなくても、ナナがやるさ」
「あいつが? でも、さっきまでやられてたっぽいぞ」
「技術部の人たちがいたからだろ。……多分、何かあるんだ」
人間は弱い。ソレと戦えない。だから道具を作り武器を取り、ようやくソレに立ち向かおうとする気持ちが湧いてくる。それだけでは足りないから、ナナを作った。そんな彼らが、無策にもソレに立ち向かおうとはしない筈である。そう、一は考えていた。
対ソレのスペシャリストであるナナがここにいると言うのに、わざわざ戦場にやってくる理由はない。あるとすれば、自分と同じく、技術部は彼女の代わりにソレの注意を引き付けたかったのだ。
「ナナを支部に戻したかったんじゃないか?」
「なんでさ」と、シルフはソレから視線を外さないまま問い掛ける。
「さあ? 何か作戦とかあるんじゃねえの?」
「……ふーん。じゃ、そこらに転がってる奴らは弱いくせに、邪魔になるってのに出てきたんだ」
確かにそうかもしれない。シルフの言う事は正しく、起こった事は覆せない。技術部の人間はナナにとっては弱者でしかなく、邪魔者でしかない。
「精霊様には分からないと思うけどさ、人間にも意地があるんだよ」
投擲された盾を、アイギスで斜め方向に受け流す。一は痺れた腕を我慢しつつ、柄を握り締めた。
「特に、男にはさ」
「バッカじゃん。知ってるぜ、意地じゃどうにもならないんだ」
「それでも譲れないのが男の意地ってもんなんだ」
身を滅ぼすモノだとは知っている。しかし、時には感情に流され愚策に己を賭けるのが人間なのだ。一はそう、信じている。