緋緋色コミュニケイション
命令を下されて戦う。
命令がなくても分かる。戦えと言われている。
自分が自分である為に。
主人の命を、主人の命令を守る為に。
彼女と彼は、自分を守る為に戦っている。
でも、どっちも人形なんだろう?
オンリーワン近畿支部、正面玄関前の地面には、ナナが使った多数の武器、装備が散らばっていた。そのどれもが、ソレには通じていない。そも、通じる筈がなかったのである。
ソレは、正確を記するならばソレではない。オンリーワン近畿支部の技術部が作り上げた自動人形なのだ。ナナと同スペックの装甲を有しているのだから、彼女に通じない武器が通じないのは当然とも言える。
ナナに取れる手段と言えば、玉砕覚悟の肉弾戦しかなかった。腕を一本持っていかれたとして、相手の腕をもぎ取れば良い。足をやる代わりに足をもらう。四肢をねじ切るのだから、四肢をちぎられるのも構わない。どうせ自分は人形なのだ。悲愴感を覚えるのすら馬鹿らしくなる。彼女は眼鏡越しにソレを睨み付けた。
ソレは首を不自然に巡らせて、両腕をだらりと下げている。白目の割合が多い眼球でナナを見つめていた。そして、動く。彼に装備はない。拳を振り上げ足を振り下ろすだけだ。
「壊れていただきますっ」
ナナは確信する。ハードが同じでもソフトは違うのだ。生まれたばかりの自動人形と、多少なりとも経験を積んできた自分とでは差があり過ぎる。
「お、ぼ……」
装甲に同じ素材が使われていても、自分とソレで体格が違うのだから、重量にも違いが生じる筈だ。まずは足場を切り崩す。ナナはそう判断して、ソレの攻撃を斜めに受け流した。そのまま、強く地面を踏み締める。コンクリートにひびが入り、小さなクレーターが出来上がった。彼女はそこにソレの体を押し込む。が、まだ足りない。一つや二つ程度の穴ではソレのバランスを崩すに至らない。鈍い動きのソレは、まだ体を動かすのに慣れていないのだ。後、穴だらけの道路は修理費も掛かるし外観も損なわれてしまうが、誰だって命には換えられまい。
――――人間は生きるのが好きな生きものですから。
「たああっ!」
ソレの攻撃を回避しながら、ナナは周囲の地面に穴を開けていく。
やがて、ナナの目論み通りにソレの足が、彼女の開けた穴に引っ掛かった。
「ぼ、く。は……」
ソレが低い呻き声を上げる。何か意味を持ったような声であったが、ナナは無視して敵の背中に回り込んだ。前のめりになったソレの背に飛び乗り、体重を掛けて蹴り飛ばす。ソレは空いた両手を受け身に使うでもなく、顔面から地面に倒れた。
どこを狙うのか考えるまでもない。最初に頭を潰す。それでも動こうとするなら足を。次に腕を潰す。ナナは両腕を組み、ソレの頭部に振り下ろした。金属同士がぶつかって、鈍く、それでいて甲高い音が周囲に響き渡る。しかし派手なのは音だけで、ソレの頭部は先と何も変わっていない。両腕部と頭部との交換なら充分お釣りがくる。一発で駄目なら二発三発続けてぶち込むだけだと、彼女は再度腕を振り上げた。
「……ここで見ているだけで良いんでしょうか?」
ぽつりと漏れた誰かの言葉に、天津は酷く胸を打たれた。
「オートマータは対ソレとの戦闘に関して、並の勤務外とは比較にならないぐらいの性能を誇るんだ。人間以上の思考を持ち、痛みを感じないから獣と同程度の無茶も効く。言わば、化け物だよ」
天津は言葉を区切り、座り込む部下たちを見遣った。
「化け物同士の戦いに、勤務外でも戦闘部でもない僕たちが首を突っ込んだところで、何が出来るって言うんだい」
「しかし主任、今回の件は全て我々技術部に責があるのでは? ……何も出来ないのは分かっています。正直、何もしたくないって気持ちもあります」
「では君は、全員でときの声を上げて突っ込みたいのかな?」
「…………あの子の助けになると言うのなら」
馬鹿なと、天津は長い息を吐く。
「それで七号が喜ぶとでも?」
「いいえ」と、また、誰かが首を振った。
「七号は俺たちが何をしたところで喜ばないし、何をしても悲しみませんよ。人形、ですからね」
「責任は、技術部にある。だから自己満足で死ぬと言うのかい?」
「主任、あなたは本当に、七号にタロウが破壊出来ると思っているんですか?」
天津は不思議そうに、発言した者を見る。主任である彼は別の現場に掛かり切りだったので、タロウについては殆ど何も知らない。しかし、話を聞く限りタロウとナナとのスペックに違いはないのである。だからこそ、彼女にソレを破壊するよう伝えた。責任を、押し付けた。
「まさか、タロウにはまだ何か武装があるのかい?」
「……そういう事ではないんですよ、主任。七号には自我が芽生え掛けてる。北駒台店に送って、そこで僕たちの目論み通り、いえ、あるいは幸か不幸か、彼女は人間を知ったんです。感情を、心を。あなたは起動実験以来七号を見ていなかった。でも、僕たちはあの子を見てきたんです。あの子が変わっていくのを、より人間に近く、成長していくのをっ」
喉の奥から絞り出すような声を聞き、天津は暫くの間、何も言えなかった。
「全部、僕たちが悪い。そんなの分かってます。でも七号の相手は自動人形なんですよ? あの子は自分以外にも人形が作られているのを知っていた。けど、生まれて初めて見た筈だ。自分と同じモノを。人間ではなく、ソレでもなく、他ならない、オートマータを」
「……では、七号はタロウを破壊するのを躊躇うと、そう言いたいのかい?」
「躊躇ってもおかしくはないでしょう。それどころか、タロウに同調したっておかしくないんです。何が起こるか分からないし、何が起こっても不思議じゃないんです」
天津は短く呻いた。頭を抱えたくなったが、示しというものがあるので何とか堪える。
「お忘れですか、主任」
「何をだい」
「オートマータを作ったのは僕たちじゃない。……神様からもたらされた技術が、いや、神様が僕たちに作らせたんですよ。最初から、僕たちは良く分からないモノを作っていたんです」
「……それは」
それは良く分かっていた。何故なら、神の技術を受け入れ、神の存在を受け入れ、神を引き入れたのは他ならぬ天津、彼自身なのだから。
「……それでも、僕たちは技術部だ。他人の知識に頼ったとして、実際に七号を作ったのは僕たちなんだ。だからっ」
しん、と。ロビーが静まり返る。全員が押し黙る。皆、分かり始めていたのだ。責任を取るのは自分たちなのだと。ここでじっとしている為にナナを呼んだのではない、と。
入院とは思っていたよりも退屈ではない。体調が回復するにつれ、病院の敷地内という制限はあるが、自由に歩き回れる。売店の品揃えも良く、退屈はしない。だが今一つ物足りない。一人、ここに足りない。
「……足りナイ」
「えっ? ジェーンちゃん、まだお菓子食べたいの?」
「ノウッ、そうじゃなくて、足りナイの。お兄ちゃんが」
ジェーンと立花は同じ病室に入院している。二人とも入院着に身を包み、ベッドの上で仲の良い姉妹のようにくっ付いていた。
「近いッ」
「わああ!?」
ジェーンに押されて、立花はベッドの上から転がり落ちる。
「ハア、お兄ちゃん、オミマイに来てくれなかったナア……」
「ジェーンちゃん、い、今のボクには、けっ、獣が宿っているかもしれないんだけれど!?」
「ドッグ?」
「違うよっ。いきなり何するんだよ、酷いじゃないか!」
立花は起き上がり、その場に座り込んだ。
「だって近かったんだモノ。それよりタチバナ、マサカお兄ちゃん、アナタのところには行ってないでしょうネ?」
「来てないよ。……残念だけど」
「それはグッドニュースね。ハア、タッチしたい。なめマワしたい。スイートバイトしたい」
「スイー……? 何それ?」
「やっぱりお兄ちゃんじゃないとハリアイないワ」
ジェーンはスナック菓子を口の中に流し込み、つまらなさそうに立花を見つめる。
「早くココから出たい……」
「あれ、ジェーンちゃんはまだ出られないの?」
「ダカラ、何?」
「う、や、やだなあ、そんな目で見ないでよ。あ、そ、それよりさ、他の皆はどうしたのかな?」
露骨に話題を変えようとする立花だが、ジェーンは気にしなかった。彼女は、手玉に取れる年上が可愛くて仕方ないのである。
「ミツモリは元気そうだったカシラ。あ、ナナはリペアが終わったって聞いたワ。ンー、イトハラは一回も見てないケド」
「けん君も元気だよ。ボクたちは、明日か明後日には退院出来るんだって。えへへ、はじめ君に会いに行こうかなあ……いたっ! どうして叩くのっ!?」
「モスキートがいたのヨ」
「あー、そっかあ。ありがとジェーンちゃん」
ジェーンは口の端をつり上げて、意地悪そうに笑った。
「うーん、そしたら、ボクたち皆元気だね。良かった良かった、また皆で一緒に働いたり、遊んだり出来るよ。やったねジェーンちゃん!」
「Not for me、アナタたちは死ぬまでベッドの上にいればいいノ」
「いやだよっ、退屈なんだもん。あ、そう言えば、フリーランスの人たちも入院してるって聞いたよ?」
「ダレから?」
「おとめちゃん」
「おと……アア、ロバタね」
そう言って、ジェーンは渋い顔を作る。
「フリーランスって、『神社』とか、カシラ?」
「『図書館』のナコトちゃんや、『貴族主義』のアイネちゃんも入院してたんだって! あ、でも、アイネちゃんはついさっき退院したって聞いたかも」
「……フゥン。ま、どーでも良いケド」
ジェーンは四肢を伸ばして、憂鬱そうに息を吐いた。
コレはもはや、人形ではない。
今、自分が攻撃を加えているモノはソレなのだ。人類に害を及ぼす敵なのである。
命令を無視して、己がままに動くオートマータなど、破壊されてしかるべきなのだ。
「ぼ、く、ぼく……」
では、自分はどうなのだ?
自分も、いつかこうなるのか?
命令を無視すれば、破棄されるのか。処分されてしまうのか。そう言えばと、ナナは思い出す。店長の命令に従わなかった事を。ならば、明日は我が身か?
ナナは恐怖したのではない。ただ、疑問に思っただけだ。自身とは、人形とは何なのか、と。それだけで僅かに動きが鈍くなる。攻撃の手を緩めてしまう。
「ま、スター、ど……して?」
同時に、今まで無視していた声を捉えてしまった。
「マスたー、ぼ、く、は、ここを……」
「マスター……?」
「まも、マ、マモらなきゃ」
「何を……っ!」
振り上げた拳がソレの頭部に食い込む。しかし、ソレは体を揺すり、両手を振り回して暴れた。ナナはその抵抗を肩に食らってしまい、後方に吹き飛ぶ。
「しまっ……」
強かに背部を打ち付けて、ナナは目を丸くさせた。ソレの位置を確認しようと顔を上げた瞬間、痛烈な強打を顔面にもらってしまう。
突き刺さったソレの膝。ナナの掛けている眼鏡のフレームが歪み、折れる。レンズが砕け、破片が散らばった。
「ぼクはぁぁぁ、マスたーにぃぃい」
「この……っ」
ナナはソレの膝を両腕で掴み、一息に押し上げる。僅かに出来た空間に体を肩から押し込み、
「あなたはぁっ!」
ソレの体を引っ繰り返した。不様にも腹を見せるソレを見下ろし、ナナは自身の目の辺りを確かめる。
「マスターなどと、妄言を……」
「ぼ、ぼくばぁ……」
思考が追い付かない。ノイズが入り交じり、ナナの頭を苛んでいる。どうしても、正常に機能しない。
「あなたにマスターはいません。これ以上の抵抗は無意味です」
言葉は通じない。ソレはぶつぶつと何事かを呟き、体を起こそうとした。が、ナナが阻む。彼女は起き上がったソレの上半身を蹴り飛ばして、再び元の体勢を取らせた。
何度も、何度も。ソレが起き上がろうとする度に攻撃を加える。お互い、愚直に。学習能力のないソレは何度倒されようとも起き上がるのを諦めない。……諦めるのを知らないのである。ナナは何も思わず、考えなかった。
やがて、ソレの動きが先よりもずっと緩慢としたものになる。好機だと判断したナナが力を込めて拳を振り上げた。刹那、彼女に埋め込まれたセンサーが異常を察知する。
「……これは……!?」
周囲の気温が緩やかに上昇していく。コンクリートが焼けていく。ソレの体が真っ赤になっている事に気付いたナナが、一も二もなくその場から飛び退いた。
「あのオートマータの武装ですか」
「ぼくが、ぼくボクボクが、ますターを……」
「熱を操作する……? いえ、もっと単純な、自身の装甲を発熱させる機能ですか」
ナナはソレとの距離を離していく。発熱。能力としてはシンプルだが効果はあった。ソレの状態を見る限り、ソレ自身の装甲を溶かすほどの熱は発せられていない。だが、こちらは危うい。接近、捕獲されて長時間あの熱を当てられればオートマータとはいえひとたまりもない。外側は平気でも、熱暴走を起こして内側から壊されてしまう。不用意に近付いて捕まっては勝ち目がない。そして、ナナには策がない。
その事を知ってか知らずか、ソレはナナに近付いてくる。彼女は距離を離して、隙を見つけようと必死になっていた。
「……隙だらけ、ですね」
ソレの動きは鈍い。攻撃を加えようと思えばいつでも当てにいける。だが、生半可な飛び道具は通用しない。手持ちの装備ではダメージはおろか装甲に傷を付けるので精一杯なのだ。つまり肉弾戦。拳一つで立ち向かうしかない。しかし近付けば捕まり、近付いたとして厚い装甲を抜ける一撃は望めなかった。八方塞がり手詰まりの状況にナナは初めて焦りを覚える。命令を完遂出来なければ、自分だって目の前のモノと変わらない存在なのである。
そして、思った。
あのオートマータは、命令を遂行しようとしているだけなのだ、と。彼は決して命令に背き、マスターに逆らっている訳ではない。恐らくは、技術部によって根幹に組み込まれたプログラムを忠実に実行しているだけなのだ。ソレになろうとは思っていない筈で、彼もまた、己に課せられた責を果たそうと、人形としての役を守ろうとしているに過ぎない。
「……あ」
そう悟った時、ナナは動きを止めた。アレもまた、自分なのである、と。遠い未来、いつか必ず訪れる場面なのだ。あのオートマータは自分よりも少し早く、ああなっただけなのだ。
「マズ、タァっ……!」
ソレの一撃を避けようともせず、防ごうともせず、ナナは腹部にアッパー気味のパンチを受けて中空を舞い上がる。
ソレは中空に浮いたナナの足を掴み、地面に叩きつけた。彼女の体からは火花が上がり、凄まじい衝撃音が響き、握られた箇所には熱が伝わる。それでも尚、ナナはぴくりともしない。人形としての運命を呪うでもなく、助けを求めるでもなく、ただ、動かない。
「ますた、ボく、ぼっ、やっだ、やっだ」
「七号に当てるな!」
支部の入り口から聞こえた声にソレが反応する。彼はナナを捕まえたまま、首を動かした。
「建物の外には出るなっ、良し、撃て、撃てっ!」
弾丸ならある。武器ならある。人員も揃っている。万が一に備えて医療部も呼んでいる。後は、前に踏み出す勇気だけ。
「外に出なければ襲われません。タロウは、そういう風に出来ていますから」
「主任、やはり、俺たちも何かすべきだと思うんです。役に立たなくても、それでも動きましょう」
注がれる視線を一身に受けて、天津は息を呑んだ。
ナナが、技術部が生み出した娘だと言うのなら、タロウだって技術部の息子なのである。自分たちの都合で作り、必要がなくなれば壊す。身勝手だとは知っていた。それでも、
「それでも……」
それでも、戦う。
作り上げたのが自分たちなら、壊すのも自分たちでなければならないのだ。責任の所在を突き止めていながら、そして親である自分たちに責任があるなら、娘だけに全てを背負わせてはならない。
「皆、今日、この事はオンリーワン近畿支部技術部の責任だよ。良いかい、僕たちは一生忘れちゃあ駄目なんだ」
低い声、高い声が入り交じる。そのどれもが、今日を恥じていた。
「タロウを作ったのは僕たちだ。殺すのも僕たちだ。僕たちは理由なく子を殺す。僕たちは畜生以下だと心するんだっ」
後ろには医療部の長、炉辺が控えている。彼女は痛ましい表情を浮かべ、何か言いたげな様子であった。
天津は一度目を伏せ、
「構えてくれ」
技術部の面々を見回して、告げる。
「七号には当てちゃ駄目だ。良いね?」
すっと手を上げ、天津は電源の落とされた自動ドアを開けた。彼は射線軸から退き、タロウを見つめる。幾ら謝っても、済まない。そも、彼は謝られる意味にすら気付かないのだから、全ての言葉は無駄にしかならない。
「撃て」
瞬間、天津の視界を光が覆い、聴覚は一種類の音だけを捉えた。炸裂する火薬、放たれる弾丸、床を叩く空薬莢。
「ダメージは通らないっ、ソレの目を狙って七号を助けるんだ! 怯ませろっ」
技術部の人間も射撃訓練は受けている。玄関からソレまでの距離は五メートル。放たれた弾丸の命中率は七割を超えているように天津には見えた。
しかし、幾ら弾が当たろうが、ソレの装甲を弾くだけに留まっている。拳銃程度では効果はない。しかし牽制にはなり、ソレの注意を引き付ける事は可能だ。何より、これは本命ではない。
撃たれているソレは煩わしそうに、空いている手をめちゃくちゃに振った。そして、天津と目が合う。彼は決して目を逸らさなかった。
「……くっ」
ソレは何故自分が攻撃を受けているのか分からないといった様子で、戸惑いの表情を見せる。
「主任、七号が動きません!」
「……強く叩きつけられたから、どこかやられたのかもしれないな」
「どうするんですかっ?」
天津は目を瞑って考える。衝撃はあったが、動けないほどの攻撃をもらったとは思えない。まだナナの機能は停止していない筈なのだ。彼女は、自分たち技術部が脱出の隙を作ろうとしているのも分かっている。
「自我、か」
動けないのではなく、動かないのだ。そう結論づけた天津は手を上げる。
「撃ち続けてくれ、直に準備も終わる」
ソレの注意はこちらに向いていた。支部の中からの銃撃を不思議がっている。守るべき筈の者たちから攻撃を受けているのかが分かっていないのだろう。逃げるなら今だ。しかし、ナナはずっと動かない。
「準備って、やっぱりアレを出すんですか?」
「それしかないだろう。七号を除けば、アレは僕たちの持ち得る最強の武器なんだから。情報部に周囲二キロの人払いをやってもらっているところだ。後、少し」
「お遊びが過ぎると怒鳴られましたが、役に立つ機会が巡ってきて良かったですね」
「良くないよっ、あんなの持ち出すなんて、とんでもなくやばい機会じゃないか」
やはり、気になる。どうしてナナは自分の前に姿を見せたのか、何かがある。何かが起こっている。そう決め付けた一は布団を跳ね除けて、電話までのろのろと這っていった。
「店の番号は……」
電話の傍に置いたメモ帳を捲り、北駒台店の電話番号を確認し、掛ける。
「……出ねえし」
一はもう一度、いや、出るまで掛け続けてやると思い直し、再度電話番号をプッシュした。三度目のコールで、
『あー、オンリーワン北駒台店、です』
不機嫌そうな声が受話器から漏れる。
「俺が客だったらどうするつもりだったんですか」
『ん、ああ、何だ、一か。くそ、敬語なんか使って損したな』
一は溜め息を吐き、受話器を持ち直した。
「店長、聞きたい事があるんですけど」
『今忙しいんだ、後にしろ』
「えっ、そうなんですか?」
『すまん、嘘を吐いた』
店長は全然申し訳なさそうである。と言うか笑っていた。
『一、今、家にいるのか?』
「そうですけど、えと、何か?」
『は、なるほど。お前がそこにいると言う事は……いや、なるほどな』
「一人で納得しないでくださいよ。あの、何があったんですか?」
一の言葉を聞いた店長は喉の奥でくつくつと笑う。人の神経を逆撫でする、不快な笑い声だった。
『何か、じゃあなくて、何が、か。何だ一、エスパーにでもなったつもりか』
「茶化さないでくださいよ」
『ふん、口だけは達者のくせして。今日は随分と可哀想な声をしているじゃあないか』
「そう思うんなら余計な事喋らせないでくださいよ」
一はわざとらしく咳き込んでみせる。それを聞いて、店長はまた笑った。
『ソレが出たんだ。お前は昨日頑張ったからな。ウチで使える勤務外はナナしかいない』
「ナナを……? ソレはいつ出たんですか?」
『ついさっきだ』
「……ついさっき、ナナが俺のところに来たんですよ」
『ああ、私が頼んだからな』と、店長は何でもない風に言い放つ。
風邪のせいでめぐりの悪くなっている思考が、更に混沌としてきた。一はこめかみに指を当てて、鈍痛を噛み殺す。
「頼んだって、お見舞いを、ですか?」
『見舞いと言うか様子見だがな。動けそうなら店に連れて来るように伝えていた』
「鬼ですか」
『そこに悪魔を足しても良い』
それだけじゃ足らんわと、一はばれないように舌打ちした。
「じゃあ、二回目は?」
『ん、二回目? 二回もナナが来たのか?』
どうやら、何か話が噛み合っていないらしい。一は頭を掻き、目を瞑った。
「ええ、けど、何もしないで帰っちゃいました」
『ん、確かに、私はナナに一を連れてくるように頼んだな。……一度ナナが帰ってきてな、その後ソレが出たんだ。そして、もう一度お前を連れてくるように頼んだ』
「は? いや、だって、ナナは一度目で風邪を引いた俺を見てる訳ですし、あっ、つーか店長だって俺が風邪だって知ってたでしょう」
『ああ』
一、思わず歯軋り。
『レジ打ちくらいは出来るだろうと思ってな。状態を見て、いけそうならナナの盾代わりにでもしてやろうと』
「ろくな死に方しませんよ」
『私は死なないから大丈夫だ。それより一、ナナが二度も来たと言うのは本当なのか?』
「本当ですよ。俺は糸原さんじゃないんですから、つまらない嘘を吐きません」
『……では、何故お前はそこにいる』
「何故と言われても、いるからいるんでしょうに」
『ナナは、お前のところに行ったんだろう?』
遂に店長はボケてしまったのだろうかと、一は不安になる。
『お前、何かくだらない事を考えているだろう。違うぞ、良いか、私が、ナナに頼んだんだ。命令を下した。一を店に連れて来いとな』
「それが、何か?」
『気付かんのか。二度目は有無を言わさず連れて来いと言ったんだ。お前が風邪だろうが何だろうが。しかし、お前は今も部屋にいる。店に来ていない。ナナは、私の命令を無視したんだ』
「命令を……?」
決してそんな事はしないが、自分が命令して無視されるならまだしも、今までの経験から言ってナナが店長の命令を無視するとは考え難い。一は最後に見た彼女の姿、顔を思い出す。何か言いたげな、けれどその全てを押し殺して笑んだ彼女を。
『こういう言い方は好きではないが、ナナは人形だ、人間じゃない。だから、今までに彼女が、マスターである私の指示に従わなかった事はない。そう、定められているし、そう作られている。……なあ一、どうしてだろうな?』
そんな事は、一が聞きたかった。どうして、自分を連れて行かなかったのか。ナナなら、力ずくで部屋から引きずり出すのも不可能ではなかった筈である。
「店長、今からそっちに行きます」
『風邪だろう、休んでなくて良いのか?』
「何を今更……」
『レジでも打ってくれるのか?』
まさかと、一は内心で呟く。吐き捨てるように、強く。
「傘はそっちにありますから」
『今日も雨が降るんだっけか』
「いいえ、すこぶる良い天気らしいですよ」
『は、そうか。頭のおかしな奴だ』
全くだと、一は喉の奥でくつくつと笑った。