くる!
「確認しておくぞ、糸原は蜘蛛を仕留める。一は店内で一般業務。お前らは蜘蛛出現と同時に支部から出来るだけ離れる。分かったか?」
バックルームに集められたメンバーを一人ずつ見ながら、店長が声を掛けていき、一同はその発言に頷く。
時刻は既に午後六時を回っていた。
「ま、今更確認するまでも無いコトだと思うけどー」
髪を弄りながら、糸原が軽そうに言う。
「俺も中に居ときゃ問題無いですし」
一が糸原に意見を合わせた。店長が二人をジト目で見る。
ふう、と息をつき、梟が発言した。
「頼むわね、蜘蛛の気配も近づいて来たわ。ギリギリまで引き寄せて、私たちが逃げられる様にね」
ハイハイ、と糸原が手で返事をする。
「それと。何度も言うようだが、今回支部の援護は受けられん。下手すりゃ邪魔される可能性もある。手早くな」
店長が糸原に念を押す。
梟にした様に、糸原が店長にも適当そうにジェスチャーを送った。
「……今更だけど、彼女一人で大丈夫なのかしら?」
糸原の後姿を見ながら、梟が誰に言うでもなく口を開く。
「どういう意味だ?」
梟の独り言じみた物に、店長が疑問を抱いた。
「相手は土蜘蛛一匹だろう。現に糸原は今朝一体を仕留めているんだ。大丈夫も何も無いだろう」
「ニンゲン一人じゃ安心出来ないのよ」
「今更ですね」と、一が苦言を呈する。
グルリ、と梟の顔が回転し、一を睨みつけた。そして徐に嘴を開ける。
「考えがあるのだけど」
「……何ですか?」
「あなた、勤務外にならない?」
突然の言葉に、一が絶句した。この鳥が何を言っているのか、訳が分からない。その手の種類の感情を顔に張り付かせたまま凍りつく。
「おい」「ちょっと」
店長と糸原が同時に声を発した。二人が顔を見合わせ、店長が頭を手で押さえたまま続ける。
「そいつは一般だ。勤務外にさせる訳にはいかない」
「それなら、彼女はどうなのかしら? 話を聞けば、勤務外と一般、両方こなすらしいじゃない」
糸原が梟を鋭く、視線で射抜いた。
「カンケー無いでしょ」
バックルームに気持ちの悪い空気が張り詰めていく。
戦闘前の緊張感の様な、異質と言った空気が濃さを増していく。いや、それはもはや戦場の物ではないだろうか。
やがて、息苦しさに耐え切れなくなった一が口を開く。
「……そもそも、俺にそんな心算は無いですから。ソレと戦うなんて考えただけで体が震えますよ。冗談は止めて下さい」
そう言って、一は苦笑した。
一の引き攣った様にも見える顔を、梟が冷ややかに眺めている。
「そうかしら? 本当は興味有るんじゃなくて?」
「いい加減にしろ、それ以上ウチのバイトにちょっかい掛けるんじゃない」
そう言うと、店長が一歩踏み出した。火の点いている煙草を持ち、梟を見下ろす。
「そうね。それに私が力をあげる時間も無い様だしね」
「何?」
店長が梟を訝しげに見つめる。
刹那、仮眠室の扉が音を立て、盛大に開け放たれた。
店長を除く全員がそちらに視線を遣る。
「くる!」
そう叫んで現れたのは少女。酷く落ち着かない様子で、面々を見上げる。
「そう。なら行かなきゃね、準備は?」
梟が優しく、愚図っている赤ん坊をあやす様に声を掛けた。
母親の様な存在に、「できた」と、少女が誇らしげに返す。
その様子を見て、糸原が椅子に掛けていたスーツの上着を掴み取った。
袖を通しながら、「近いの?」と梟に聞く。
「この街には今来たらしいわ。ここに来るまで時間は掛かると思うけどね」
その言葉を聞き、糸原がグローブを右手、次に左手に装着する。
部屋の照明を受け、糸原の得物が嫌らしく光った。
「んじゃ、行ってきますか」
「ああ、相手は一体だが気を付けろよ」
口を開いた店長に対して頷くと、次に糸原は一を睨む様な視線で見つめだした。
「何ですか?」と、一が声を掛けると、「何でも」とぶっきら棒に返事が来る。
ふと、糸原の挙動を凝視していた梟が興味深そうに尋ねた。
「あなた、珍しいモノを使うのね。何処で手に入れたのかしら?」
「んー?」と、糸原が指をこめかみに当て、思案する。やがて、「へへー」と間の抜けた笑い。当てていた指を床に向けて。
「地獄よ」
一言。
「へぇ、成る程。レージングかしら? 何にせよ良い物を持ってるのね」
「心配無いでしょ? じゃねっ」
そう言うと、バックルームから糸原が駆け出していく。
店内に軽い足音が響く。それが数回聞こえると、店の戸が開く音も聞こえた。
「行ったか。ま、何とかなるだろう」
「そうかしらね」と、店長に梟が意地悪く返す。
またもや、異様にバックルームが静まり返った。
「あ、あの。さっきのレージングって何ですか?」
またもや、空気に耐え切れず一が発言を試みる。
「魔法よ。魔法のロープね」
魔法。
飛び出してきた言葉は何とも、非日常で、非常識な物だった。
平生では、滅多に聞かない単語に一が自分の耳を疑った。
「えっと、魔法ですか? 映画とか、漫画で杖振ったりして炎が出てくる、アレ、ですか?」
「あなた、中々偏ってるわね。まあ、今じゃそういう風に伝えられてるから仕方の無い事だけど。魔法といっても、種類はあるのよ」
一は自分の知識を総動員して話したが、何だか馬鹿にされただけで終わった気がした。
いつに無く、偉そうに梟が話を続ける。
「彼女の持っていたのは、私の見たところ……北欧のレージングと呼ばれる物ね。使い方は、多分間違ってるけど」
「使い方、と言うか形すら分からないんですけど……」
一が学校で先生に質問する様に手を上げた。
「レージングは本来、魔を拘束する魔の紐なのよ。何故か彼女の持っていたのは、それより細かったけどね、まるで糸みたい。今朝見させて貰ったけど、それで彼女は蜘蛛を切り裂いていたわ」
「へえ、糸」
そう呟いた一の脳裏に、細切れになったソレの姿が思い浮かぶ。
初めて糸原に付き纏われた日の事。夜道に犬の姿をしたソレに襲われた事。ソレを糸原がどうにかした事。
そして「ああ」と納得したように独りごちた。
「御高説はそこまでだ。一、そろそろ仕事に出ろ」
店長が煙草を指で挟みながら、扉を指した。
「あ、はい……」
ダスタークロスとモップを掴み、一が店内に出て行く。
後姿を見届け、店長が煙を吐いた。
「そんなに彼が大事なの?」
梟が少し、ほんの少しだけ愉快そうに、店長に声を掛ける。
答えずに、店長が淀みない動きで自分の席に着いた。
「お前らも行け。良い頃合だろう」
「そうね。それじゃ、お世話になったわ、と言って置こうかしら?」
梟が羽ばたく。
その姿を少女が追い掛け、追いつき、店へと通じる扉に手を掛け、開く。開いた扉を梟が抜け、最後に少女が店長に向かって小さくお辞儀をした。
そのまま、少女と梟がレジ前のカウンターまでやって来る。
何もせずボケッと突っ立っていた一に、梟がまた声を掛けた。
「本当に良いのね?」
その言葉の意味を理解できずに、一が「何がです?」と梟に言う。
「勤務外の話よ」
「その話したら店長や糸原さん、何か怒ってたし。大体、ソレと戦うなんて俺には無理ですよ。正直、時給が上がるのは魅力的ですけどね」
一が身振り手振りを交えて梟に意見を伝えた。
「私はね、あなたには素質が有ると思ってるの」
「はあ、それはどうも」
と、一が曖昧に返す。
「信じてないわね。無理も無いわ、確かにあなたは生まれつき普通のニンゲンだもの」
「……じゃあ何で?」
そんな事を言うのか、場を荒らしたかっただけじゃないのか、と一が言おうとする。
「あなたは後天的な、もっと別のモノを持っているのよ」
一が言葉を詰らせた。
――俺が? 勤務外になれるモノを持ってる?
「冗談は止めて下さい」
「嘘じゃないわ。私はニンゲンがあまり好きじゃないの、けど勇ましいニンゲンは好きよ。勇者には嘘をつかないわ。例えば勤務外みたいな、ね。あなたには勤務外の素質が有るわ。私が保証する」
梟は尚も、詰め寄る様に一に話を続ける。
「私が居なくなれば、そういう機会はもう来ないでしょうね。私の力も無限では無いから、今だけよ? 力をニンゲンに与えるなんて事は」
「何で俺に?」
「気に入ったからよ、あなたが」
簡潔に、梟が答えた。
「力を、くれるんですか?」
ええ、と梟が頷く。
力。ソレと対等になれる力。
一の目の前の梟はそれをくれると言っている。
あまりにも甘く、美しい誘惑だった。
意味も無いのに、一は白い梟に手を伸ばそうとする。
ふと、一の脳裏に握り拳が浮かんだ。
一よりも小さくて、傷だらけの。
その拳が自分の頬に減り込むイメージが一を襲った。
身震いして、一が伸ばした手の動きを止める。
「……一瞬、欲しいと思っちゃいました。けど、俺には必要無い物です。何だか勿体無い気もしますが、お断りしておきます」
その手を隠す様に、ズボンのポケットに一は仕舞った。
「本当にね」
そう呟くと、梟と少女は一に背を向ける。扉に向かって片方は羽ばたき、片方は歩き出した。
――やっと行ってくれるか……。
「まって」
突然の少女の一言で、梟が動きを止め、脆く壊れそうな程小さい肩に爪を置いた。
「どうしたの?」
「きた。たくさん」
「たくさん?」
一が少女に近づいていく。
「どういう意味?」と、なるべく優しく一が声を掛けた。
肩を震わせた少女が、怯えた様に声を上げる。
「くもがここにくるの! たくさん!」
そんな分かりきった事に少女は今更何を怯えているのか。
「あいつが来るって、もう知ってたじゃない? どうしたの?」
梟が少女を気遣うが、全く効果は無かった。
少女の声に悲壮感が増していく。
「ひとつじゃないの! たくさんくるの!」
一は声も出なかった。
と言うより、一の声は誰の耳にも届かなかった。
一が驚きのあまり出そうとした声より先、少女の甲高い声が店内に響いたからだ。
その叫びに意味は無い。言葉にはなっていない。
理性を保ち、意味の有る言葉を伝えるより先に、少女の感情の何かが、理性をいともたやすく崩壊させたのだろう。
それは恐らく、恐怖ではないか。
怖いから泣いているのではないかと、一は考えた。
「何が来るの? 何が怖いの? 何で泣いているの?」
問いかけた言葉は、少女の喚きに掻き消されていく。
「……不味いわ! 敵は群れだったのよ、少なくとも一体じゃない!」
掻き消されない様、声を張り上げ梟が叫んだ。
少女の叫びと、梟の叫び。
――気持ち悪ぃ……。
恐怖と焦燥に塗り潰された叫喚の中、彼女らの声の間を縫う様に電話の着信音が店内に響いた。間違いなく、ソレを探知したオンリーワン支部、情報部からの物だろう。
この異常事態に店長が現れないのは、その電話の応対をしている為だと、一般の一でも分かった。分かってしまった。
やがて、店内に店長が駆け込んでくる。
駆け込んでくるなり、怒声。
「どういう事だ! 蜘蛛は一体じゃないぞ!」
「店長、どうするんですか?」
「黙ってろ!」と、一に対して声を荒げ、店長が泣き叫ぶ少女の襟元を掴んだ。
掴んだ襟元をきつく握り締める。
「お前ら、嵌めやがったな……」
尚も少女は泣き止まない。
「やめて! 私たちも今知ったのよ!」
梟が羽を広げながら発言する。
「うるさい! クソッお前らなんか助けようとするんじゃなかった! 信用なんかするんじゃなかった! やっぱりお前らは私たちの敵だ!」
梟が止めようとするが、店長は言う事を聞かずに、まるで子供の様に叫び続ける。
その光景を見ていた一が店長に歩み寄っていく。
「店長」
「黙れ!」
一が何を思ったか、店長の肩を思い切り掴み、体を無理矢理自分のほうに向けさせた。
「落ち着いて下さい」
そして気持ちの悪いくらい静かに告げた。
視線は店長の瞳を見据えたまま、睨むでもなく、見下すでもなく。
ただ見るだけ。
そんな一に気圧されたのか、店長が仕方なくと言った風に少女の体を解放する。
「この人たちは嘘を言ってないと思います」
「……どうでも良い」
舌打ちして、店長はそう吐き捨てた。
「それより、さっきの電話……」
「……支部からだ。蜘蛛が駒台に確認されたらしい、数十匹もな」
数十。その言葉を聴き、一の思考が完全に止まる。
「どうするんですか?」
一がそれだけ、恐る恐る店長に尋ねる。
「退却だ。正直今の戦力じゃ手に負えん。支部からの応援も期待出来ん」
「え、なんでですか? もうこの子たちを助けるとか言ってる場合じゃないんですよ?」
「支部の戦力も殆ど出払ってるらしい。別件で大物が入ったなんて言ってやがった」
店長が声を震わせながら言った。
その声に一は、不安感を覚えてしまう。
今までの、過剰な程自信のある口ぶりだった店長。
腹が立つ位のいつもの店長。今、声を震わせていた人物からは、ついさっきまでの彼女とは欠片も結びつかなかった。
「何とかならないんですか?」
「……今、支部から駒台に投入できる戦力は無い。居たとしても下っ端だ。土蜘蛛の群れに突っ込んで、帰って来れるレベルの奴はいない」
店長はそう言って、カウンターに背中を預けた。
「……糸原さんは?」
一がそう言った瞬間、少女が嘘の様にピタリと泣き止んだ。
梟が驚きを隠せないまま、少女の顔を覗き込む。
「どうしたの?」
「とまった。くもがとまった。たくさんとまったよ」
はっきりと、そう言って少女は口を閉ざした。
「止まった?」
一が不思議そうに梟に尋ねた。
「……確かに、蜘蛛の気配が近くも、遠くもなってない。止まってるのよ、そして、それは多分……」
梟が言葉を濁す。
その様子を見て、一の全身が一気に総毛だった。
寒いモノが体中を一気に走り抜ける。
鳥肌も立ち、知らず知らずのうち、背中に汗が流れた。
店長が何事か喚きながら菓子を積んでいたカートを蹴り飛ばす。
恐らく。
大群の蜘蛛が止まった理由。
それは。