なななクッキング
上がるのは産声。流れるのは神の血。生まれた理由なら、既にこの身に刻まれている。主を敵から守り抜く為に。それだけの為に、ここにいる。
他には何も考えない。考える頭がない。心がない。プログラミングされた行動だけを頼りに、それは動く。
「成功だな」
「ああ」と、白衣の男が答える。彼の目には深い隈が出来ており、髪の毛もぼさぼさであった。しかし、瞳だけは爛々とした光を宿している。体の内から沸き上がる歓喜を堪えきれないのか、口元は歪んでいた。
「これで完成したのは二体目になるな。老人を黙らせるには充分だろう」
「さて、あの人は研究室にこもりきりだ。何を作ろうとしているか見当もつかんよ。……また、妙なベッドを作っているんじゃあないか?」
くつくつと、もう一人の男も笑う。二人ともが似たような顔をしており、ぎらついた光を瞳に宿していた。
薄暗い室内には電源の点いた大型のコンピュータが数台。どこに繋がっているか分からないほどに長く、絡まり合ったケーブルが床、壁を問わず所々に根を張っている。
「ああ、乗った瞬間に拘束されるって言うあのベッドか。全く、予算を無駄に遣う事に掛けては、うちの部署は天下一品だな」
「違いない。しかし、汚名を着せられるのも今日までだ。試作七号機が成果を上げている中、こいつのお陰で、また彼女を援護出来る」
「実験は今のところオールクリアだ。何一つ問題ない。くっくっ、七号様様じゃないか」
「起動実験は明日に回すとして」
男は様々な器具が並んだ棚から、缶のビールを二つ手に取った。
「今は、俺たちの娘に乾杯だ」
「……いまひとつしまらないがな」
缶の中身を呷る二人は気付いていない。自分たちが丹精を込めて作り上げ、祈りをもって生み出したモノが人々に仇なす事を。そして、起動していない筈のそれの目に見つめられている事を。
ゴルゴンが駒台から、この世から消えた翌日。時刻は午後の十二時を回った頃、一は自室で目を覚ました。
「…………う」
体を起こそうとして、断念する。頭が重く、体の節々が痛い。極め付けに熱っぽい。早い話が、一は風邪を引いているのであった。彼は昨夜の行為を思い出して、当然と言えば当然かと自身に言い聞かせる。
湿った布団から這い出して、こたつの電源を入れた。何もしたくなくて、一はこたつに足を突っ込み、畳に顔をくっつける。
昨夜に起きた事はあまり覚えていなかった。ゴルゴンと戦い、メドゥーサが答えた。力が発動してソレは石に成り果てる。北とガーゴイルを巻き込まなかったところまでは辛うじて記憶に残っていた。
そこから、今目覚めたところまでの記憶が抜け落ちている。
「……あ、いや……」
推察するに、どうやら自分は気を失っていたのだろう。記憶が抜け落ちたのではなく、そもそも何も記憶していなかったのだ。そう気付いた一は、今になって、今更になって安堵の息を吐く。
あの後、一体何が起こったのだろう。何も起こらないで、誰も酷い目に遭わないで済んだのだろうか。
そんな事を考えていると、ドアをノックする音が聞こえた。一が答える前に、ドアノブがえげつない勢いで回され、ドアが開け放たれる。
「おっはよう! 今日はええ天気やで、師匠、ほらほら、カタツムリみたいにひきこもっとらんと外に出た方がええで」
部屋に入ってきたのは階下の住人、歌代チアキである。彼女はジャケットを脱ぎ捨てて、一を指差して笑った。
「あー、やっぱ風邪引いとる。あはは、弱ってる師匠やー」
「……てめえ、病人見て笑うか普通」
チアキは一の顔の近くに座り込み、卓の上に置いてあったみかんに手を伸ばす。
「元気そうやから、ま、大丈夫やろ。少しは心配してたけど、その分ならまだまだ死なへんやろなあ」
「……死んで欲しいのかよ」
「やーん、冗談に決まってるやんか。ほい師匠、口開けて」
一は言われるがままに口を開けた。弱っているせいか、今なら何でも聞き入れてしまいそうで恐い。
チアキは一の口にみかんを一房入れる。彼はもごもごと口を動かして、目を瞑った。
「皮、剥かなくて良かったのに」
「へ? 師匠、これこのまま食べんの?」
「違う。ほら、その白い皮だよ」
「こんなんどっちでもええやんか。取らんかったら、何や気色悪いし」
言って、チアキは残りのみかんを自分の口に押し込む。一はそれを見て低く呻いた。
「俺にももう少しくれよ。……つーか俺んちのじゃねえか」
「んー」と、チアキは一に唇を近付けていく。彼は寝たままの体勢で容赦なく彼女の頬を叩いた。小気味よい音が部屋に響く。
「んんんん!?」
チアキは立ち上がって流し台に顔を向けた。吐き出すか吐き出さないか迷って、プライドを選んだ。彼女は目の端に涙を浮かべて口内に入っていたものを飲み下す。
「なっ、なっ……何すんねん! ドアホ! アホ! 師匠のアホ! アホの師匠!」
「お前が変な事するからだろ」
「はああ? 変な事ちゃうやろ、ご褒美やん、ご褒美」
一は眉根を寄せた。不愉快だと、そう言わんばかりの雰囲気を漲らせている。
「ご褒美、だあ?」
「せや、北のおっちゃんから聞いたで。師匠、なんや、ごっつカッコ良かったらしいやん。やから、ご褒美あげよ思てな」
「罰ゲームの間違いだろ」
「死んでしまえばええんや」
「みかん食わせてくれたら死んでも良い」
チアキは一の額を叩き、先ほどと同じ位置に腰を下ろした。
「ほい、口開けて」
「丸ごと入れようとするのは良いけど、せめて皮は剥いてくれ」
「なー、ししょー」
「語尾は伸ばすな。で、何だよ?」
「……んー、やっぱええわ」と、チアキは笑って誤魔化す。
「ふうん? あ、そうだ。昨日の事さ、何か聞いてないか?」
「あんまし聞いとらん。北さんも、朝はように出掛けてもうたしな」
一はみかんを頬張りながら、北について考えた。ギリシャ神話の英雄について思いを馳せる。
「ゴルフバッグを二つも抱えて、こそこそっと。別に、気にする奴なんかおれへんのになあ」
ゴルフバッグを、二つ。その中には恐らく、ドライバーやサンドウェッジは入っていない。中身について察しの付いた一だが、北が石化したゴルゴンをどこに持っていくのかまでは分からなかった。
「あ、つーか歌代さ、お前何しに来たの?」
「見舞いに決まってるやんか。師匠の部屋なんかな、よっぽどな理由がないと行かへんし」
「じゃあもう帰れよ」
「帰ってええの?」
「もう少しだけ……」と、一は情けない声を漏らす。
「くふふ、しゃあないなあ。けど、ウチもそろそろ行かなアカンねん」
「牛乳切れ掛かってたから買っといてくれ」
「買い物ちゃうわ。アイネが退院するから、迎えに行くの」
それは実に喜ばしい。が、一は置いていかれる事に対して不安になった。
「……俺の世話は誰がするんだよ」
チアキは何も言わずに微笑を浮かべる。彼女は立ち上がってジャケットを羽織ると、
「帰ってきたら相手したるわ。それまでは大人しくええ子にしときや、師匠」
愉しげに笑い、一の部屋を後にした。
オンリーワン北駒台店、この店のバックルームには、技術部から戻ってきたナナと、不味そうに煙草を吹かす店長がいた。
「では、本日より通常業務、及び勤務外に復帰します」
ヴィクトリアンスタイルのメイド服に身を包んだ自動人形が、綺麗な角度で頭を下げる。
「ああ、よろしく頼む。何せ、今この店にはお前しかいないんだからな」
顔を上げたナナは小首を傾げた。
「二ノ美屋店長もいらっしゃいますが」
「私は働かないからな。労働力はナナ、お前しかいない」
「はあ……」
ナナは壁に貼り付けられた手書きのシフト表を見遣る。このシフト表は一が作ったものだが、まともに機能していた時期がない。勝手にシフトを書き換えられ、誰も予定通りに動かなかったのである。ただ、一とナナだけがシフト表通りに動いていた。
「一さんが正午から来ている筈ですけれど」
「ああ、そうか。まだ伝えていなかったな。あいつは休みだ」
「お風邪でも召されたのでしょうか」
「上半身裸で雨に打たれていれば、誰だって風邪を引く」
店長は忌々しげに呟く。短くなった煙草を灰皿に押し付けて、椅子に座ったまま体を伸ばした。
「知りませんでした。一さんは心の病に罹っておられたのですね」
「……奴をフォローするつもりはないが、昨日、ソレが出た。一はソレと戦っていただけだ」
「何と、そうでしたか。上半身裸になるほどまでに追い詰められたのですか。申し訳ございません、調整さえ終わっていれば助けに馳せ参じたものを……」
「いや、裸になったのは一の趣味だ。ソレは……大した怪物でもなかったからな。あいつが倒せる程度のソレなんて知れている。だろう?」
これ以上助け舟を出す気がなかったので、店長は適当に笑っておいた。
「趣味、でしたか」と、ナナは眼鏡の位置を指で押し上げる。
「人間とは難しいものですね」
「度し難いだけだ。……ああ、そうだ。ナナ、納品が終わって暇になったら、一の様子を見に行ってはくれないか?」
「畏まりました。しかし、様子を見に行くだけでよろしいのですか?」
「いや、そこはTPOに合わせてだな……」
言い掛けた店長だが、ナナに期待するのは間違いだと気付いた。彼女はソレとの戦闘や勤務外業務においてならば殆ど問題がない。北駒台店でも屈指のスペシャリストなのである。が、それ以外の事に関しては問題点しか見当たらない。
「……メモを書いておく。それを持っていって対応してくれ」
「承りました」
ナナは頷き、ダスタークロスを持ってフロアに出て行った。
「あ、お忙しいところすいません、一と申しますけれど、あの、九十九先生はいらっしゃいますか?」
『………………』
「……あの?」
チアキが出て行った後、一は体を休めなくてはとも思ったのだが、今しがた起きたばかりではどうにも眠れない。暇潰し、ではないのだが、昨日の顛末について九十九に説明しようと思い立った。以前、九十九からもらった図書館の電話番号に掛けてみたのだが、
「あのー」
電話に出た何者かは何も答えない。掛け間違えたのかと不安になっていた時、
『……先に言うべき事があると思うんですけど』
やけに不機嫌な声が一の耳に届く。その声は九十九のものではない。つくも図書館の司書、公口由梨のものであった。
「おはよう、ございます?」
『違うでしょう!』
きいんと、鼓膜が震えて耳が痛くなる。
「え、えっと……?」
『昨日、あの後! 何があったんですか! 一君は無事なんですか!?』
「ぶ、無事、です。あ、はは、今は風邪引いて寝てますけど」
『ああ、だから声が。でもそれぐらいなら良かったですね』
全然良くねえよと、一は内心で呟いた。
『確かに、先に館長に説明しなきゃって、そう思う気持ちは分かります。でも、私だって巻き込まれていたんですし、君の事を心配だってしていたんですよ? 何も蔑ろにしなくたって良いじゃないですか』
「いや、そういうつもりは……」
『なかったと言い切れますか? 館長と私、同じ説明するのは二度手間だなあ、って、一度でも思いませんでしたか?』
「思いました」
『オブラートに!』
ペースを握られてしまっている。ナコトを思い出させる公口のゴリ押しに一は戦慄した。
『それで、何があったんですか?』
「えーっと、それは、ですね」
何を言えと、どう説明しろと言うのだろう。一は軽いパニックを起こしていた。
「だ、大団円です。大団円でした」
『はあ、もう結構です。説明する気はないんですね。一君ってそんな人だったんだ、不誠実』
「……話せるような事を覚えていないんですよ。ただ、誰も怪我をしていないですし、襲ってきたソレについては心配いりません。だから、その」
長い沈黙の後、電話口から短い溜め息が聞こえてくる。
『一君が無事なら、それで良いです』
「公口さんやばいですよ、今凄くヒロインっぽいです」
『私もそんな気がしていました。けど、その役目はナコトちゃんに譲りましょう』
「ええ、あんなのに譲らないでくださいよ」
『風邪が治ったら、ナコトちゃんのお見舞いに行ってあげてくださいね。あの子、寂しがり屋さんだから』
一にはそうは思えない。が、病院にはナコトだけでなく他のメンバーもいるのだ。苦しい戦いを生き抜いたのを自慢するのも悪くない。皆に会うのも悪くはない。そう思い、彼の頬は僅かに緩んだ。
『お返事は?』
「行ったら行ったですげえ暴言吐かれると思うんですけど」
『それはナコトちゃんの照れ隠しです』
「本当ですか?」
返事はなかった。
『さて、この時期は忙しくなりますから。そろそろ電話切りますね』
「へー知らなかった。図書館も忙しくなる時期ってあったんですね。で、先生はいないんですか?」
『館長は大学で講義を……って、一君はどうせ館長のいない時間を狙っていたんでしょう?』
「はてさて、何の事だかさっぱり」
『ナコトちゃんがこないだ口を滑らしていましたよ。トリプルアクセルを決めそうな勢いで』
「満面の笑みで告げ口していた訳ですね」
ナコトを絶対に許さない。そして一は当分の間、ゼミに顔を出すのは止めようと誓っておく。
「やっぱり見舞いに行くのは考えさせてもらいます」
『館長に言い付けますよ』
「黄衣もそうですけど、切り札的な感じで先生を持ち出すのはどうかと思いますよ。第一、俺はそこまで先生に脅威を感じていませんからね」
『では、言い付けておいても?』
「いや、それとこれとは話が別で……お見舞いの件は前向きに善処します」
『政治家的な。いけません、男の子ならイエスかノーか半分かで答えないと』
「子供って変なところで小賢しいですよね」
ごほんと、わざとらしい咳払いが聞こえた。
『ああ、いけない。暇だったからついつい口が軽くなってしまいます』
「……忙しいって言ってませんでしたっけ?」
『え、言ってませんよ。それより、そろそろ飽きて……忙しいので失礼しますね。館長にも、色々と伝えておきますので安心してください』
「あ、ちょ……!」
一にとっては全然安心出来ない言葉を吐いた後、公口は電話を切ってしまう。
「俺、どうして電話なんかしたんだろ」
時刻は、午後の一時前。一は時計を見て、腹を摩った。みかんだけでは満たされない空腹感が喉元まで押し寄せていたのである。何か食べたい。しっかりしたものが食べたい。けれど動きたくない。わがままな欲求だけが悶々と彼の内を駆け巡っている。いやそもそも欲求とはわがままなものではなかろうか、なんて事を考えながら一は枕に顔を埋めた。
「歌代帰ってこねえかなー」
しかしチアキが帰ってくると言う事は、同時にアイネも帰ってくると言う事である。つまり、面倒。満腹感と更なる心労、疲労を手に入れるのか、それともこのまま空腹を覚え続けるのか。
「究極の選択だ……」
更に言えば、一に選択肢はない。自分から動かない限り、ただ、ここで誰かが来るのを待つだけなのである。
「腹減ったなあ」
「肉食いてえなあ、柔らかいの」
「頭いてえなあ」
「働かなくても金が欲しいなあ」
「学校に行かなくても単位が欲しいなあ」
「雨の日は学校行かなくても良いって法律出来ないかなあ」
「留年したらやばいよなあ」
「こんな事してたら駄目だよなあ」
独り言が増えてきた一は布団の上を転がり、天井を見上げた。
「……いーち、にい、さん、よん、ごー、ろく……」
天井の染みを数えながら、自分は何をやっているんだろうとは思わない。思考能力が低下しているのである。
「なな、はち、きゅー……」
と、誰かがアパートの階段を上る音が聞こえてきた。やる事のない一は耳を済ませて、その足音がどこで止まるのかを確認する。
「……?」
足音は、ここで止まった。一の部屋の前に、何者かが立っている。彼は頭を上げて、訝しげな視線をそこに送った。瞬間、ドアがけたたましい音を立ててノックされる。
「……乱暴な奴だな」
無用心かもしれないが、鍵なら開けていた。
「はい、今開けますよ」
だるそうに起き上がり、一は頭を掻きながらドアを開ける。
「お」と、一は思わず声を漏らした。珍しい来客者に、暫くの間目が点になる。
「おはようございます」
そう言ってお辞儀をするのは、北駒台店の勤務外、一の同僚のナナだった。
割と元気そうだ。少なくとも、起き上がれるくらいには体調が回復しているらしい。一の様子を見て、そう判断したナナはポケットからメモ用紙を取り出した。
「えっと、どうしたんだ? 何か、用?」
メモ用紙には店長の手書きの字が所狭しと並んでいる。ナナに与えられた指示はフローチャート式になっていた。
「一さん、元気ですか?」
「……はっ? いや、まあ、風邪引いてんだけど……」
「では、元気ではないのですか?」
「少しくらいは元気だけどさ。いや、ナナ? あの、何しに来たんだよ」
割と元気から少し元気に情報を修正して、メモを見直す。
「一さん」
「ん?」
「働いてください」
「……ん?」
一の顔がひきつった。
「ですから、働いてください」
「俺、風邪引いてるんだけど」
「元気ではないのですか?」
「働けるほど元気じゃあないんだよ」
ナナは再びメモに目を落とした。
「なあ、ナナ、その紙は?」
誤差を加えて情報を更に修正。
「では休んでいてください」
「最初からそのつもりだったんですけど……」
「さ、早く横になってください」
言われるがまま、一はこたつに入って横になる。
「いけません一さん、そんなところでお休みになると風邪を引いてしまいますよ」
「もう引いてるよ。……何か、やっぱり変じゃないか?」
「何が、でしょう?」
一はこたつから這い出ると、ナナを指差した。
「私は正常です。メンテナンスも済んでいますし、パーツにだって不備はありません」
「第一、何しに来たんだ?」
「二ノ美屋店長から、一さんの様子を見に行くようにと命令を承りましたので。ナナは現在任務遂行中なのです」
「ああ、見舞いに来てくれた訳ね。俺は大丈夫だから帰って良いよ」
「しかし、私はまだ何も……」
「何かやる前に帰って欲しいんだけど」
ナナは探るような目付きで一を見つめる。
「一さんは私に期待していないご様子。良いでしょう、少々お待ちいただけますか」
一の返答は待たずに、ナナはメモに目を通した。彼を見舞うと言うのなら、彼に尽くさなければなるまい。根幹に埋め込まれたプログラムに後押しされ、彼女は一つの結論に辿り着く。
「お粥を作ります」
ナナは握り拳を作って宣言した。
「……お粥ぅ?」
「別のものが召し上がりたいのでしたらリクエストを承りますが」
「じゃなくて、作れるのかなあって」
「失敬な」と、ナナはフルリムの眼鏡のつるに指を添える。
「私は完全に、完璧に、完膚なきまでにメイドなのです。主人が望むならこの場で生きた牛を捌き、こんがりと焼いて差し上げる事も厭わないでしょう」
「それ料理なの? ……まあ、とにかく、いや信用してない訳じゃあないけどさ、遠慮しとくよ」
「……そうですか」と、ナナは悲しそうに俯いた。
「差し出がましい真似をして申し訳ございません、マスター」
頭を下げ、ナナは一をじっと見つめる。その瞳はまるで、許しを乞うかのように媚びた色を秘めていた。
「…………え、何だって?」
「申し訳ございません、マスター」
「マスター……」
一は目を泳がせて、それを隠す為に両手で顔を覆った。
「いかがなさいました、マスター」
「マスターって、俺が……?」
「仕えるべき主人なれば、そうお呼びするのは当然かと」
「ナナ、もっぺん言って」
ナナは立ち上がり、スカートの裾を摘みながらお辞儀する。
「失礼いたしました。マスターにお許しをいただけるまで、私は頭を下げ続ける次第です。どうかお許しを、マスター」
一は布団の上を転がり、全身で喜びを噛み締める。生まれてきて良かったと、この日の為に自分は生まれてきたのだと思ったり。
「最初から怒ってなんかなかったけど、もう何もかも許そうじゃないか」
「感謝の極み。ではマスター、改めてお尋ねします。マスターは何を召し上がりたいのでしょうか」
問われて一は唸った。彼は冷蔵庫を一瞥して溜め息を吐く。
「……お粥が食べたい」
「かしこまりました。あの、何を使っても構いませんか?」
「ああ、何をと言うほどウチにはものがないけどね。うん、好きに使ってくれて構わないよ」
「では、調理に取り掛かります」
ナナは眼鏡の位置を押し上げて冷蔵庫の戸を開けた。彼女は中身を見て、暫らくの間は何も言わなかった。言えなかったのである。
「……お買物に出掛けた方がよろしいかと思いますが」
「良いよ勿体ない。あるものを適当にぶち込んでくれれば」
「しかし、それでは栄養に不足が生じますね。体調を崩しておられるのですから、せめて野菜があれば」
「野菜、嫌いなんだ」
「好き嫌いは万病の元ですよ」
「嫌いなものを食うぐらいなら病気になったって良いよ」
一はへらへらと笑い、寝返りを打つ。
「……マスターの意向に沿うのがメイドの役目とは言え、マスターの体に悪影響を及ぼすような命に唯々諾々と従うのは……」
「えー? 俺のメイドさんなら俺の嫌がるような事はしないと思うけどなー」
さりげなく俺のと言っておくあたり、一は今の状況が楽しくて仕方ないのだろう。
「マスター、それは大いなる偏見と言うものです。メイドとは……あ、いえ、何でもありません」
「そう?」
「ええ、そうです。さ、マスターは休んでいてください」
「ありがと、そうさせてもらうよ」
食材を並べながら、ナナは目を瞑った。少し、体が重いような気がしている。
今、自分は何を言おうとしていたのか。何を伝えようとしていたのか。
――――人形。
誰かに、そう言われたのを思い出す。
そう、出来ている。自分は自動人形。メイドだろうが勤務外だろうが、人間ではない。人間にはなれない。人形として紛い物の生を受けたのだから、諦める事を選ぶのすらおこがましい。
人形とは違う。ナナは、一にそう言おうとしていた。メイドたる自分には人形と違って意思がある。愚かにも、そんな言葉を紡ごうとしていた。
「……いけませんね」
人間よりも人間らしく。だが、どこまでいっても最終的には、いつまで経っても究極的には人形なのだ。意思があろうとなかろうと、自動で動こうが、動かなくても、結局は――――。
「えっ、何か失敗したのか?」
「とんでもない。私のデータベースには失敗の二文字、ひらがなにすれば四文字の言葉など登録されておりません。マスターはどうぞ舌鼓を打つ心構えを用意しておいてください」
「あ、そう?」
「そうです」とナナは頷いた。誤魔化し方も、自分にはプログラムされている。頭が回り口からするりと出ていく台詞に、彼女は嫌悪感を抱いた。何もかもが誰かに作られ、自分の意思はここにない。己の内で生まれたものは一つとして存在しない。
「『お粥を作る』後は、ええと……」
店長から渡されたメモ用紙。これがなければ何も出来ない。普通の人間なら、誰かに指示されなくても思った通りに動ける筈だ。人間なら、誰かの指示には従わない。自らの考えを持ち、信念を背負い、心を握り締めている。
「…………ああ」
羨ましいと恨んだのはいつからだろう。人形である自分に疑問を抱いたのは何故だろう。人間になりたいと、そう望んだのは誰のせいだろう。
「ん、どうしたんだ?」
「……いいえ、何もありません」
更新されていく情報が憎い。いっそ、何も知らなければ良かった。何も見なければ、聞かなければ済んだ。思う機能をどうして搭載したのだろうと、ナナは初めて技術部の人間を――――。
「……ナナ?」
――――人間を恨んだ。