No Surrender
ペルセウスがメドゥーサの首をキビシスに入れて飛行していると、波が押し寄せている岩場に縛り付けられている女性を見つけた。
その女性の名は、アンドロメダ。彼女はエチオピアの王女であるが、母、カッシオペイアが自らの美しさは神にも勝ると豪語し、海神ポセイドンの怒りを買った為に怪物の生贄とされかかっていたのだ。
見捨ててはおけないと、ペルセウスはハルペーを使って海の怪物を倒そうと試みる。長い戦いの末、力尽きた怪物は海にゆっくりと沈んでいった。
ペルセウスはアンドロメダを救い、彼女と婚姻の儀を結ぶ。
一方で、ポリュデクテスはペルセウスがいない間にダナエに乱暴しようとしていたが、彼女はディクトゥスと共に祭壇へと逃れていた。
焦れたポリュデクテスは不可侵の掟を破って神殿を包囲する。絶体絶命のその時、ペルセウスが天から現れた。状況を理解したペルセウスはキビシスからメドゥーサの首を取り出す。
『これが約束の品だ』
メドゥーサの視線を浴びたポリュデクテスは成す術もなく石と化した。
ペルセウスは恩義あるディクトゥスを新たな領主に据えると、ダナエとアンドロメダを連れて故郷、アルゴスへと戻ったのである。
その報を受けたアルゴス王アクリシオスはペルセウスを恐れて国外へと逃亡し、ペルセウスは晴れてアルゴスの王となった。
ある時、ペルセウスはラリサの街で競技会に出場する。種目は円盤投げ、彼がえいやと円盤を投げたところ、その円盤は老人に当たってしまった。その老人こそ、前アルゴス王であり、ペルセウスの祖父でもあるアクリシオスだった。こうして、神託は現実のものとなったのである。
ペルセウスは殺してしまった祖父の国土を継承するのを恥じ、ティリンスの王メガペンテースを説得して国土の交換を行った。
そして、死後、ペルセウスはアテナによって天に上げられペルセウス座となる。
これで良かったのだろうか。
あれで正しかったのだろうか。
自分は、英雄と呼ばれても良かったのだろうか。
メドゥーサの首を刈ったのは、母親を救う為だったのだろうか。
海の怪物を倒したのは、アンドロメダを救う為だったのだろうか。
ポリュデクテスにメドゥーサの首を向けたのは?
祖父を殺した時、自分は本当に恥じていたのか?
「……くだらねえ」
そこに私情を挟まなかったか?
名声を得たいと思わなかったか?
賞賛を浴びたいと思わなかったか?
「くだらねえ」
一体、自分はどの口で偉そうに語っていたのだろう。一に掛けた言葉は自分にもそのまま返ってくると言うのに、だ。
ペルセウスは英雄ではない。
この世界にはソレがいる。怪物と呼ばれ、妖怪と蔑まれ、幻獣だと畏怖され、神様だと非難されるモノがいる。
しかし、何もしてこなかったのだ。何かから逃げるように、安っぽいアパートで酒を呷り、紫煙に酔う。得体の知れないモノから逃れる為に賭け事にのめり込む。ただ、それだけを繰り返す。
この世界にはダナエがいない。アンドロメダがいない。家族がいなければ、恩を受けた人間もいない。
だから、どうした?
だからどうしたと頭を抱えた時期もあった。だから、何もしないのか、と。普通の人間より力はある筈なのだ。武器もある。ハルペーも、キビシスも、タラリアも、ハデスの兜も持っている。なのに、何もしなかった。戦いから逃げ続けてきた。確かに、誰かと戦う義理も誰かを助ける理由もない。誰に頼まれた訳でもなければ、強要された覚えもない。
それでも一度は英雄と呼ばれた存在なのだ。
――――アイギスだけが、なかった。
戦わなかったのは、逃げ続けてきたのは、きっと、そうなのだ。アテナはここに降り立たず、一の元へと降り立ったのである。自分にではなく、彼にアイギスを授けたのだ。この街には、ペルセウスがいたのにも関わらず、女神は英雄にではなく、ただの人間にアイギスを与えたのである。屈辱だった。しかし同時に安堵もした。もう、縛られずに済むのかと。
『英雄を――――』
まっすぐな目で見つめられた。
久しぶりに、気持ちが良かった。血が滾ったのも確かである。自分にはまだ、出来る事があるのではないかと。その為に、ここにいたのではないかとも思った。
「くだらねえってんだ」
煙草に火を点けた瞬間、火種が雨に打たれて飛び散った。
「これ、何なんだろうな」
差し出されたのだから受け取らない訳にもいかないだろう。そう思っていた一だったが、これはどうしても邪魔でしかなかった。
北から受け取ったのは黒いニット帽、唐草模様の布、それと、
「しっかし、随分物騒なもん渡してくれたな」
三日月型の刀、である。
一はそれらを抱えたまま、シルフに後ろから抱きすくめられ空に浮いていた。
「恐らく、ペルセウスが使っていたと言う道具ではないかと見ます」
「これが、かあ?」
刀はともかく、他の二つはただの帽子と布にしか見えない。
「がらくたを押し付けるような事はしないと見ますよ。その帽子は、ハデスの兜なのではないでしょうか」
「ただのニット帽じゃ……被った奴の姿を隠すってものだっけか」
一は言い掛けて止める。これがただのニット帽なら、今まで自分はただのビニール傘を持って戦っていた事になるのだ。
「そちらの布はキビシスだと見ます。メドゥーサの首を包む為のものでしょう」
「包むだけなら何でも良いと思うけどな」
「お忘れですか。メドゥーサの視線には見た者を石に変えてしまう魔力が宿っていたのですよ。たとえ死んで首だけになってしまったとしても、力は失われなかった筈です」
一らの隣を飛ぶガーゴイルは背後に視線を移す。
「更に言えば、血でしょうね。メドゥーサの血は毒と同じです。ただの布だとあっという間に腐り落ちてしまうのだと見ます」
「……マジかよ」
「他にも、メドゥーサの血にはこんな話がありますね。メドゥーサの首から滴り落ちた血が海に落ちて赤い珊瑚となり、砂漠に落ちた血はサソリとなった、と。ご存知でしたか?」
「ご存じなかった。へえ、じゃあ、この剣は?」
「ハルペーでしょう。これでゴルゴンの首を刈れますね」
気軽に言うが、実行するのは一なのだ。彼は今日何度目になるか分からない溜め息を吐いて眼下の建物を見遣る。
「着いたぞニンゲン」
オンリーワン北駒台店。
北はアイギスを手に入れた場所に戻れと言った。代用品を手に入れる為に、ここに戻れと。
ここは一にとっては始まりの場所なのだ。女神と出会い、アイギスを手に入れ、勤務外となった場所なのである。
「ソレはどうした?」
店に入ると店長がフロアにいた。珍しい事もあるものだと、一はぼんやりと思った。
「こっちに向かってます」
短く答えて、一は出入口付近に並べてあったビニール傘を一本掴む。
「何を言っているかさっぱり分からんな。ソレがここに来るのか?」
店長はレジ前の什器を開けて肉まんを一つ取り出した。噛り付き、眉根を寄せる。
「……おい、傘をどうするつもりだ。まさか、今更濡れるのが嫌だなんて言わないだろうな」
「言いませんよ」
一は新しい傘を触ったり、睨んだり、振ったりして遊んでいた。少なくとも店長にはそう見える。
「今、何がどうなっているんだ。どうしてここに戻ってきた?」
「英雄にそう言われたんですよ」
「……見つけたのか」
「ええ、まあ」
一は閉じたままの傘を店長に向ける。何の真似だと彼女が口を開くより先、
「これはアイギスです」
間の抜けた声で頭の悪い事を言われた。
「店長、これはアイギスなんです」
「あー、分かったから黙れ。さっきから頭が痛い」
「だから、一つお願いがあります」
日本語を学び直せと言いたかったが、一は真剣だった。決してふざけている訳ではないのだと分かると、店長は腕を組んで彼を見据える。
「高くつくぞ」
「立花さんの刀、まだ残ってましたよね。そいつで、こいつを突き刺してください」
「何……?」
何がやりたいのかが理解出来ない。確かに刀はまだ残っているが、一が持っているのは本当に、ただのビニール傘なのだ。わざわざそんな事をしなくても結果は見えている。
「意味はあるのか?」
「俺は正常ですよ。時間がないんです。お願いします」
迷ったが、店長はバックルームに戻って刀を持ち出してきた。彼女は鞘を抜き、剥き出しになった凶器を一に見せ付ける。
「前にも言ったような気がするが、私は刀なんか使った事はない。失敗しても恨むなよ」
「失敗するほど難しい事じゃあないですよ」
一は傘を広げて前方に突き出した。
「ここに刀を突き刺していってください。出来れば、ゆっくりと」
「分かった」
店長は刀の切っ先を傘に向ける。構えも握りも無茶苦茶だったが、一は少しだけ気圧されていた。
「いくぞ」
信じれば、応えてくれる。信じていれば、それはアイギスとなる。
ビニールに刀が触れた瞬間、一は信じ切る事が出来なかった。女神を、アイギスを、何よりも自分を。彼が持っているのは、ただのビニール傘でしかない。
「売り物を駄目にしてまでやりたかったのは、これか?」
店長は刺すような視線を一に浴びせる。彼は押し黙り、傘を畳んだ。
「……買い取ります」
「別に構わん。どうしてもと言うのなら勝手にしろ。なあ一、何か理由があったんだろう?」
頷き、一は外に目を向ける。時間はない。もうすぐゴルゴンがここに来る。それまでにアイギスを万全なものと取り替えておきたかったのだが、それは失敗に終わった。一が信じられなかったから、アイギスは応えてくれなかったのだ。
「……一、客だぞ」
振り返ると、扉をノックしているシルフが見える。一は扉を開けて何事かと尋ねた。
「来た。あいつらだ」
どくんと、大きく心臓が跳ねる。新しいアイギスはまだ手に入っていない。穴の開いた不完全なものしかないのである。
「……来た? ソレが来たのか?」
「ソレは俺を狙っています。店長、出てこないでください」
「お前を、か?」
「俺をです」
アイギスを握り、一は雨を睨んだ。この雨を裂いて、風を切って、この空の向こうからソレはやってくる。
――――アイギスを渡せば。
ゴルゴンはアイギスを、メドゥーサを狙っている。それを渡せば、どこかへ大人しく消えてくれるのではないかと期待した。しかし、アイギスは一の中にある。渡したくても渡し方が分からない。仮にそうでなくとも、自分はアイギスを手放さないのだろうという確信もあった。これがなければ、勤務外ではなくなってしまう。言わばアイギスとは彼にとっての存在理由なのだ。自分を手放すような真似を誰がするものか。一は一層強く降る雨を、その向こうからやってくるであろうソレを睨み付ける。
「ニンゲン、どうするんだよ?」
未だアイギスを信じられないまま、不死であるゴルゴンを相手に戦うのか、それとも逃げ出すのか。
「……予定通りにいく。頼むぜ」
シルフは心配そうな表情を浮かべていたが、一の言葉を聞いて満面の笑みを浮かべる。
「オマエの為なら」
「ありがとな。……店長、店の前でやり合います。被害は最小限に抑えたいんですが」
「分かった、情報部にそう伝えておく」
一は頷き、店を出た。その後ろ姿を見届けた店長はバックルームに引っ込んで電話を掛ける。コールが止んだ瞬間には口から言葉が溢れ出ていた。
「あら」
「あら」
どんなに遠くへ離れても、姉妹の絆は途切れない。
どんなものに姿を変えても、姉妹の絆は壊れない。
「やっと見つけたわ」
「やっと見つけたわ」
腕を組んで自分たちを迎える男を見て、ステンノとエウリュアレは薄く笑った。彼の後ろには風の精霊がいて、こちらを強くねめつけている。
しつこい鼠だと、彼女らは思った。鼠には丸呑みが似合っている。黒々とした口の中、赤々とした舌の上で、きいきい鳴くのが最高に素晴らしい。美しい蛇に抵抗するなど以ての外なのだ。小汚い手でメドゥーサを掴むモノとは、これで三度目の出会いになる。一度目と二度目では途中で邪魔が入ったが、今度は逃がさない。追い立てるのにも飽いている。
「すぐに助けてあげるから」
「すぐに助けてあげるから」
「もう少しだけ我慢しててね」
「もう少しだけ我慢しててね」
ゴルゴンが地を蹴った。
どういう事だと、一は我が目を疑った。ステンノは片目を失っていた筈なのに、今の彼女にはそれがある。不死の意味とはこれなのかとも思ったが、ステンノの胸には穴が開いていた。雨のせいで血は流れていたが、肌には僅かに跡が残っている。不死とは言えど怪我はする。血も流れる。
堀が与えた傷だろう。彼はきっちりと仕事をこなしてくれたのだ。が、ゴルゴンがここにいる事実が一を不安にさせる。堀は無事なのかが気掛かりだった。
と。一が目を逸らした瞬間、ゴルゴンはコンクリートを砕かんばかりの勢いで飛び出している。
「シルフっ」
シルフは一の体を浮かせるが、それよりもステンノが早い。
「わああああああっ!?」
広げていたアイギスにステンノの拳は阻まれる。しかし衝撃は凄まじかった。シルフの集めていた風が散らばり、彼らの体を上方へと押し上げる。
バランスを保てず、錐揉みになって回転する一たち目掛けてエウリュアレが飛翔した。彼女は毛髪を蛇に変えて放つ。
「こうなったらぁ!」
シルフは風を下に向けて放った。体勢こそどうしようもなく無茶苦茶ではあったが、更に上へと逃げる事によって蛇を躱す事に成功する。彼女は歯を食い縛りながら、両足に風を収束させて空中で立ち止まった。
「……あっぶなー。あ、ニンゲン大丈夫か?」
「………………おう」
サムズアップする一の顔面は蒼白である。ついでに言うなら、鼻水と涙でぐちゃぐちゃになっていた。
「……我ながら、アイギスを離さなかった事を讃えてやりたい」
「シルフ様だってオマエを離さなかったぞ」
「オマエが離したら俺が死んでるわ!」
一は長く息を吐き、眼下を睨み付ける。
「二回目までとは動きが違うな。なりふり構わずって感じだ」
「みたいだな」
呟き、シルフがゆっくりと降下を始めた。一はアイギスを畳んで接近戦に備える。エウリュアレが飛び上がってくるのが見えたのだ。
「付き合うのか?」
「ここならお前に分があるからな」
不敵に笑う一に倣い、シルフも、にいいと愉しそうに口の端をつり上げる。
エウリュアレの撃ち出した蛇を確認し、シルフは風を纏った。
「正面突破だ。ニンゲン、面倒なのはオマエに任せるからな」
一の返事を待たずに、シルフがエウリュアレに向かってまっ逆さまに落ちていく。一はアイギスを広げて、眼前に迫る蛇を弾き返した。
「あら」
蛇の雨を抜け、エウリュアレに迫る。一はアイギスを畳み、ソレを睨み付けた。風が吹き荒ぶ中空で、飛翔の名を冠するモノと風の精霊が交差する。
シルフは縦横無尽に空を疾駆し、エウリュアレを捉えようとしていた。
エウリュアレは蛇を放ちながら距離を保ち、隙を見つけては一の持つアイギスに手を伸ばす。
速度ではシルフに軍配が上がったが、放たれる蛇のせいで上手く近付けない。
「面倒だぞ!」
一は何もないところに視線を遣った後、
「じゃあ、始めるか」
独りごちてアイギスを真上に放り投げる。
「あら?」
エウリュアレがアイギスに注意を向けた瞬間、シルフは彼女に向かって全速で迫っていた。
「しっかりやれよニンゲンっ」
一はエウリュアレの髪の毛を片手で掴み、自由になっているもう片方の手をシルフに向けてみせる。シルフはコートのポケットから唐草模様の布を取り出して、彼の手に握らせた。
エウリュアレは逃れようと体をくねらせるが、一に掴まれ、落下していく風の衝撃で上手くいかなかった。彼女は一の肩を鷲掴んで力を込める。
「っのヤロ……!」
一の顔が苦痛に歪んだ。エウリュアレは髪の毛を蛇に変質させていく。
「ニンゲンっ」
「分かってら!」
唐草模様の布をエウリュアレの頭部を覆い隠すように広げると、今まで蠢いた彼女の髪の毛の動きが止まる。一は布を被せたままエウリュアレの髪を掴み直した。
「しっかり捕まってろよ蛇女」
逃れられず、蛇も出せず。エウリュアレは成す術なく急降下していく。
「おお……っ!」
一は彼女の頭を地面に叩き付けた。霧散し、吹き抜けていく風の音が、骨の砕ける音に被さって聞こえる。彼が手を離すと、エウリュアレは頭だけで地面に逆立ちになったような体勢の後、ゆっくりと崩れ落ちた。
ステンノは一たちが地上に着いたタイミングを見計らって駆け出している。
だが、繰り出した拳は何も掴めずに、誰も砕けずに終わった。ステンノの上から見えない何かが圧し掛かっているかのように、彼女は身動きを取れないで地面に縫い付けられている。
息を吐いて、一はシルフから三日月の形をした剣を受け取った。彼は動けないステンノに近寄り、躊躇なく彼女の首を切り落とす。血飛沫が一の顔を濡らしたが、彼はただ、首のなくなったステンノを見つめていた。
「やりましたね、一さん」
「ああ、とりあえずはな」
何もないところから悪魔のように低い声がする。だが、一はそれに驚かないで当たり前のように返事をした。
「シルフ、アイギスを拾っといてくれ」
「シルフ様がぁ? ……まあ良いや、さっきのオマエ、少しかっこよかったぞ。漫画の主人公みたいだった」
「ふむ、わたしもそう見ますね」
「ガーゴイル、お前も漫画見るのか?」
「当然です」と、ステンノの近くから声がした。
一は頭を掻いて何もない筈の空間に手を伸ばす。しかし、彼の手には固い感触があり、そろそろと、掌を上の方へずらしていくと毛糸のようなものに触れた。
「まさか、こんな上手くいくとはな」
呟き、一はそれを引っ張り上げる。瞬間、何もなかったところからガーゴイルが現れた。
何の事はない。道具と、それを扱うモノが揃っていただけの話なのだ。
一がアイギスとキビシス、それからハルペーを。ガーゴイルがハデスの兜を被り、姿を隠して隙を衝いただけの話なのである。が、ゴルゴンには通用した。そも、北から預かった道具はメドゥーサ討伐の際に使用したものである。彼女の姉妹に通用しない筈がないのだ。
一はシルフからアイギスを受け取り、キビシスとハルペーを彼女に返した。
「これで終わりなら良いんですけどね」
「今の内にこいつらどっか捨てちゃおうよ。シルフ様が遠くまで運んでやるぞ」
「いや、駄目だ」
一は首を横に振り、横たわったゴルゴンを見下げる。
「完璧に殺しとかなきゃ、こいつらは死ぬまで俺を……いや、アイギスを追い掛けてくる」
「その通りだ」
振り向くと、傘を差した店長が煙草を吸っているのが見えた。彼女は一たちの傍まで歩き、短くなった煙草をステンノに向けて、指で弾き飛ばす。
「店長、出てこないでって言ったじゃないですか」
「堀から連絡があった。車は壊れたが、奴は何とか無事だそうだ」
一は胸を撫で下ろした。安心したが、その場にへたり込みそうになるのを堪える。
「ソレを逃がしてしまって申し訳ない、とも言っていた。それから……」
店長が何か言おうとした瞬間、二つの影がゆらりと立ち上る。一たちは武器を構えて振り向いた。
「……それから、ソレは強い再生能力を持っているらしい。確かに伝えたぞ」
「意味ないけどな!」
起き上がったゴルゴンの五体は満足に揃っていた。二度と起き上がられなくて当然のダメージを負っていたのが、まるで嘘のように。
「あら」
「あら」
「それを見たのは久しぶりね」
「それを見たのは久しぶりね」
ゴルゴンは揃って足を踏み出して、
「本当に」
「本当に」
声を揃えてアイギスへと手を伸ばす。
「憎らしい」
「憎らしい」
「来るぞ!」
一はハデスの兜をガーゴイルに被せる。シルフが一を抱えて上空に飛んだ。向かってきたステンノは標的を失う。
「姉さん、任せてちょうだい」
「あら、お願いするわ」
エウリュアレは上昇して一たちを追い掛けた。残ったステンノと店長の目が合うが、
「私は関係ないからな」
店長は煙草に火を点けて言い放つ。ステンノは暫くの間、物珍しそうに紫煙を見つめていた。
首を折っても、首を狩っても立ち上がる。強い再生能力を持っているのは知っていた。不死のソレを相手に何をやっても無意味だとは気付いている。いっそ、ゴルゴンの五体を徹底的に切り刻んでやろうとも考えたが、徒労に終わりそうなので実行には移すまい。一は撃ち出される蛇をアイギスで弾きながら考える。何をすれば良いのか。どうすればソレを殺せるのか。
「……違うか」
分かっていても、出来るとは限らない。アイギスは応えてくれるが、さっきまでうるさいくらいだったメドゥーサは黙ったままである。
「もっぺん叩き落としてやるのか?」
シルフが問い掛けるが、一は答えに窮した。同じ手が通じるとは思えないし、通じたところで結果は同じなのである。何度殺したところで、ゴルゴンは何度も甦る筈なのだから。
「このまま黙って……なんてのはナシだからな、ニンゲン」
「けどなあ……」
一はエウリュアレを改めて見遣った。本当に、先程の彼女らと何一つ変わらない動きに戦慄する。せめて再生する度にリスクを負っていればと思うのだが、そんな様子は見られなかった。
中空に漂い、時には走る。シルフはエウリュアレへの接近を試みるが、先刻よりも蛇の数が多い。一だけでは全てを防げず、その場を離脱しなければ攻撃を受けてしまうのだ。そうして、いつまで経っても近付けない。
「ガーゴイルに頼るか。いや、でも片方だけ仕留めたところで……」
思考は堂々巡りに。一の迷いがシルフにも嫌な形で伝わったのか、彼女の動きも鈍くなる。集めた風を上手く使えず、移動する度にバランスを崩して不安定に揺れるのだ。息遣いも荒く、耳元に掛かるそれを聞いて、一は眉根を寄せる。
風の精霊とはいえ、長時間能力を行使するのは苦しいのだろう。だが、分かったところで一にはどうする事も出来ない。シルフが限界を迎えれば、機動力を失った彼らはそこで人生を終えるのだ。
「……やばいか?」
「やばくない……気にすんなよニンゲン。シルフ様はやりたくてやってるのさ」
「でも」と一が言い掛けるが、シルフは彼の話を遮る。
「なら、シルフ様がもう駄目って言ったらどうするのさ? オマエはこっから地面まで落ちるつもりなのか? あいつらを倒せなくて良いのかよ?」
シルフとてこの状況を理解していた。彼女は深く息を吐き、一をぎゅっと抱き締める。
「ガーゴイルの奴だって、ずっとチャンスを待ってる。シルフ様だってずっと待ってるんだ。だから、オマエだって頑張れよ」
何を待つというのだろう。
チャンスは果たして、本当に訪れるのだろうか。
相手は不死のゴルゴンである。アイギスは破れたままで、メドゥーサは姿を見せない、声を聞かせないどころか力すら発揮してくれない。このまま時間だけを無為に消費して、そして、いつか息絶えるだけなのではないか。
迫る蛇を回避しながら、シルフは空を泳ぐ。髪の毛を変質させて蛇を撃ち出したエウリュアレは、それに紛れて一たちに接近していた。畳んだアイギスを振り回し、必死でソレから逃げ惑う。
――――英雄に会いなさい。
もう会った。会って、話を聞いて、この様なのだ。確かに有益な話は聞けたのだろう。道具も借り受けて、意気も上がった。しかし、ゴルゴンを倒す方法を聞いていない。完璧な状態のアイギスを取り戻すには時間が足りない。覚悟が足りない。
「ニンゲン、逃げてるだけじゃいつまで経っても終わらないぞ」
しかし立ち向かったところで終わるとは限らない。終わるというのなら、自分たちのそれが終わる方が先なのだとしか思えない。
逃げ場所を探した一の目が捉えたのは、隠れていろと言ったのに店の前で煙草を吸う店長だった。彼女はどこも見ていない。ステンノも、エウリュアレも、シルフも、一も。何も見ていない。強いて言うならば、彼女はきっと前だけを見ていて、先の事だけを考えている。
笑えてきた。
自分がこんなにも苦労して、死ぬような目に遭っているのに、彼女はそんな事気にも留めていないのだ。あるいは、心配をしていない。
「……ちっ」
ふっと見上げた冷たい視線が一の視線と交錯する。さっさと終わらせろと、そう言われている気がした。
「あら」
気を取られた一に向かってエウリュアレが飛翔する。彼女は彼の頭に手を伸ばそうとして、その手が、地面に落ちていった。
「あら?」
エウリュアレは失った右手首を見遣り、小首を傾げる。間、髪を入れず、彼女の顔面に一の持つハルペーが突き刺さった。
「あらら?」
血が噴き出して、今も顔面を切り裂かれていると言うのにエウリュアレは動じない。残った左手を一に伸ばそうとしていた。
ハルペーなんて物騒な武器は自分には合わないと思いつつも、何故だかその使い方が分かる。彼は笑いを堪えて、エウリュアレの首を刎ね飛ばした。
「……に、ニンゲン?」
「どうせ死ぬんなら、精一杯足掻かなきゃな。……シルフ、次はステンノだ。いけるか?」
シルフは口の端をつり上げて笑う。きっと、ガーゴイルも笑っているだろう。
「ただじゃくたばってやらねえからな」
そう思い、一はアイギスとハルペーを構えた。