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24時間戦う人たち  作者: 竹内すくね
ゴルゴン
165/328

Advice



「英雄ねえ」

 一たちから粗方の話を聞き終わると、北は立ち上がって頭を掻いた。

「お前ら、英雄を探してるのか」

「……ええ、まあ」

 一は頷くが、探し物はほぼ見付かったのである。十中八九、北こそが自分たちの捜し求めていた人物なのだと。

 前々から一は思っていた、北は異質なのではないか、と。チアキが中内荘に引っ越して来た時もそうだが、彼は勤務外に対して、異質なモノに対してあまりにも普通過ぎたのである。警戒して然るべき、嫌悪して、侮蔑して当然の自分たちにどうして溶け込めたのか。中にはそういう一般の者もいるが、北は勤務外だけでなく、シルフたちを見ても大して驚かなかった。

 ――――あるいは、そういう人なのかもしれないけど。

「馬鹿らしい話じゃねえか。坊主、止めとけ。英雄なんて都合の良いもんはな、この世に居やしねえんだ」

 北は立ち上がり、一たちに背中を向ける。

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ!」

「待たねえ」

 北が英雄である証拠などない。彼が本当に一般人ならば、この状況はどうしようもなく邪魔でしかない。しかし、一はここで北を引き止めなければならない気がしていた。

「お願いです、もう少し、せめて話だけでも聞いてください、聞かせてください」

「だからよ、悪いが俺は何も知らねえんだ。てめえだって言ってたろ、俺はただのおっさんなんだ。他、当たってくれや」

「けどっ」

 一を見遣った後、北は頭を掻いて歩き出す。

 が、

「おお?」

 ガーゴイルが彼の進路を塞いだ。

「何だ、やるってのか?」

「北さんと仰いましたね。わたしたちは英雄を探しているのです。そして、残された時間は殆どありません」

「だから、何だってんだ?」

「はっきりと仰ってください。あなたが英雄なのか、そうでないのかを」

 一にはガーゴイルの言っている意味が理解出来ない。北がこの場を立ち去りたいと思うのなら、英雄だと答える筈がないのだ。

 しかし、北はすぐに答えない。黙ったまま、ガーゴイルを強く見据え付けるだけ、である。

「あなたが一度でも英雄と呼ばれた者ならば答えられる筈です。一度でもその身に賞賛を浴びたのなら、弱き者を守り、強き者を挫くと決意したのなら、答えられる。違いますか?」

 ガーゴイルの口調はいつになく強い。責めるような、そんな厳しさと激しさが声音に含まれていた。

「北、さん……?」

「話だけだ」

 北はその場にどっかりと座り込み、一を睨み付ける。

「話を聞くだけだからな。おら、言えよ坊主。てめえは今、どういう状況に置かれてやがるんだ。どうして、英雄なんてクソみたいなモンを探してんだよ」

 心変わりした理由は、一には分からない。

「やっぱり、北さんは?」

「いえ」

 一の言葉を遮ったのは北本人ではなく、ガーゴイルだった。

「北さんは否定しませんでした。が、まだ認めてもいません。話を聞くと言っただけで英雄だと決め付けるのは早計。あるいは乱暴だと、わたしはそう見ます」

「そういう訳だ。で、今この街で何が起こってんだ?」

「……さっきはぼかして言いましたけど、今までの事、包み隠さず話します」

 雨はまだ降り止まない。

 この話は長くなりそうだと、この場にいる者が――――

「うーん、うーん……」

 ――――シルフ以外は、そう思っていた。



 それは神代の物語。

 ギリシャ神話、アルゴス王には見目麗しい娘、ダナエがいた。しかし、王には息子がいなかったのである。

 世継ぎを望んだ王は使者を遣わして神託を求めた。

『息子は産まれず、王は孫に殺される』

 恐ろしい神託に王は慄き、それならばとダナエを部屋に閉じ込めてしまう。しかし、彼女の元に黄金の雨が現れた。ダナエはその雨と関係を持ち、やがて時が経ち、息子、ペルセウスを産んだダナエは、自ら娘と孫を手に掛けるのは忍びないと、そう思った父の手によって箱に閉じ込められ、海に流された。

 ダナエらの乗った箱は運良くセリポス島に漂着し、母子は漁師のディクテュスに救われて平穏な暮らしを送る。

 ペルセウスはセリポス島で順調に成長したのだが、一つ、問題があった。

 ディクテュスの兄であり、セリポス島の領主であるポリュデクテスの存在である。

 ポリュデクテスはダナエに恋慕の情を抱いていたのだが、当の彼女にその気はなかった。また、ペルセウスも母の手助けをし、ポリュデクテスから邪魔者扱いされていたのである。

 そこでポリュデクテスはピーサの王女ヒッポダメイアに求婚すると称し、贈物として馬を寄付するよう呼び掛けた。が、ペルセウスにだけは馬ではなく、ゴルゴンの首を持ってくるように命じたのである。明らかに罠であった。ペルセウスをダナエから遠ざけ、その間に彼女をどうにかしようとしているのは明らかであり、あわよくばペルセウスを亡き者にしようとも思っていたに違いない。しかし、ペルセウスは逆らえない。この場で噛み付いてしまえば、ポリュデクテスは領主と言う立場を無理矢理に使い、母を手篭めにするだろうと思われたのだ。

 ゴルゴン三姉妹のメドゥーサは見た者を石に変える力を持っており、彼女らを退治しようとした者はいたのだが、戻ってきた者は一人たりともいなかった。

 誰の目にも、ペルセウスが死んでしまうのは明らかであった。

 だが、彼はただの人間ではない。そも、ある意味人間ではなかったのである。母、ダナエを孕ませた黄金の雨と言うのがギリシャ神話の最高神、雷を意のままに操るゼウスであったからだ。

 ゼウスは死地に行こうとするペルセウスを助けるべく、アテナ、ヘルメスの二神を彼の元に送ったのである。

 アテナからは盾と助言を。ヘルメスからは翼の付いた靴と、鎌のように湾曲し、弧を描いた刀身の内側に刃を持つ刀、それ以外にも多くの道具を受け取った。

 こうして神々の助力を得たペルセウスは、アテナに案内されながら、ゴルゴンの居場所を知ると言うグライアイの住処に向かう。

 グライアイ三姉妹はゴルゴンの妹にあたる老婆だ。彼女らだけがゴルゴンの居場所を知っており、ペルセウスは力で脅して情報を手に入れ、ゴルゴンの住処に辿り着いた。

 ゴルゴン三姉妹の内、長女と次女は不死身であったが、三女のメドゥーサだけが不死身ではなかったので、ペルセウスは彼女に標的を定める。

 ペルセウスは自分の姿を隠すハデスの兜を被ってゴルゴンに近付き、青銅の盾にメドゥーサを映して確認すると、ヘルメスから受け取った三日月のような形をした刀で彼女の首を切り落とした。その首を袋に入れると、彼は空飛ぶ靴で脱出し、無事にセリポス島へと戻ったのである。



 話を終えた北は煙草に火を点け、ゆっくりと煙を吐いていく。

 一たちは暫くの間口を開けなかった。まるで自分の事について話すような北の口振りに心を奪われていたのである。

「ゴルゴンを倒した英雄の話ってのはこんなところだ。何か、聞きたい事はあるか?」

「あ、えと、その後ペルセウスはどうなったんですか」

「ポリュデクテスを殺して、恩のあった弟の方を領主に据えた。ペルセウスはアルゴスに戻り、その噂を聞いた王は逃亡した。ペルセウスは王になり、幸せに暮らしましたと、さ」

 投げ遣りな口調に一は戸惑った。

「北さん、その……」

「……あ、悪い。部屋から煙草持ってくるわ」

 立ち上がった北は、至極面倒くさそうに歩き始める。その後姿を見届け、一はガーゴイルに視線を遣った。

「今の話ってさ」

「ペルセウス、星になった英雄ですか。ふむ、少し思い出しましたよ」

「思い出した?」

 ガーゴイルは頷く。

「こう見えてわたしは長く生きていますから。物忘れも酷いのですよ。……北さんはペルセウスについて全てを語ってはいませんでしたね」

「全て?」

「ええ、所々を隠していたような、そんな印象が見受けられました」

「ガーゴイルがそう言うなら、そうなのかもな」

 見る事に掛けて、ガーゴイルほどの能力を持っているモノはいないだろうと一は考えていた。しかし、北が語ろうとしなかった事を聞きたいとは思わない。

「そういうのはさ、本人が言いたくないから言わなかったんだと思う。だから、やっぱり聞くのやめとく」

「ふむ、そうですか。ではやめておきましょう」

「ああ、そうしてくれ」

 エレンの言っていた英雄とは北で間違いない。そして、その英雄の正体とはペルセウスで間違いないのだろう。だが、一は口にしない。そうなのだろうとは言えなかった。

「おう、待たせたな。つっても、これ以上何か話せるとは限らねえけどよ」

 戻ってきた北の手には缶ビールが収まっている。素面ではいられないと判断したのだろうか、などと、一はくだらない考えを断ち切った。そして、聞きたい事がないのだと気付く。英雄にさえ会えれば、後は上手くいくとだけ思っていたのだ。

「あ? 何もないのかよ?」

「いや、会う事だけを考えていましたから」

「いやいや、俺が英雄だと決まった訳じゃないぜ。ただの神話好きのおっさんって可能性も捨てるんじゃねえぞ」

 北は皮肉っぽく笑い、缶の中身を呷る。

「なあ坊主、英雄に会ったところで何も変わらないぜ。ソレをどうにかするのは別の奴でも良いんじゃねえか? この街にゃ化け物ばかりじゃねえかよ、勤務外、フリーランスなんでもござれってなもんだ」

「でも、俺にだってやれる事がある筈なんです」

「へえ、例えば?」

 一は唾を飲み込み、北を見据える。

「皆を守れます。英雄になれるとは思ってない、けど、盾にはなれます」

「てめえを犠牲にしてでもか?」

「……はいっ」

「じゃあ駄目だな。坊主、お前は何も出来ないし、何にもなれねえよ」

 空いた缶を名残惜しそうに見つめ、北は煙草に火を点けた。

「何も分かってねえんだ。何も見ていないし、知ってもいない。英雄なんかくだらねえぜ。ならなくて良いし、なれなくて充分だ。出来るなら、なりたくないってな感じだよな」

「俺は確かに、まだまだ未熟です。けど、俺は……」

 死ぬのは恐い。戦うのは嫌だ。しかし、後ろで臥せっている者を捨てて逃げ出すのはそれ以上に嫌だった。

「皆を守りたいってか。良いねえ、ヒロイズム。だがよ、皆って誰だ? 守るにしても、ソレと戦うより先に出来る事があるんじゃねえか?」

 答えられない一を知ってか知らずか、北は話を続ける。

「守りたいって奴らは坊主が守らなきゃならないぐらい弱いのか? 俺には何一つ分からねえんだ。なあ、誰を守る? 何の前に立つ? 守りたいのはこの世界か? 星か? 国か? 街の奴らか? ただ守るって言いやがる、坊主が何をしたいのかが俺には分からねえのさ」

「……俺は」

 何を守りたかったのだろう。本当は誰を守りたかったのだろう。戯言にしか聞こえない言葉を繰り返して、盲目的に自己犠牲を唱えて。

「もっと視野を狭くしろよ。俺たちは、結局どこまでいってもそうなんだ。神様なんかにゃなれねえ。地球上全部の命守ろうなんて気概は捨てるのが分相応だろ。秤に掛けても良い。どっちかを見捨ててどっちかを拾い上げる方がらしいじゃねえか。坊主はよ、ちっとばかり綺麗過ぎるわな」

 北は笑い、尚も続ける。

「盾になるとも言ったけどよ、それじゃあ英雄止まりなのさ。英雄じゃあいけねえ。坊主は人間だ。だろ? だったら死ぬまで人間でいなくちゃ駄目だ。誰かを助ける為に自分が死んでちゃしょうがねえ」

 一はただ、眼前の男の話に聞き入っていた。口を挟もうとは、到底思えない。

「坊主が死んだら残された奴はどうなる? 人間はな、自分が思ってる以上によ、誰かに大切に思われてるもんだ。だからよ、英雄だの盾になるだのってのは止めとけ。心構えとしちゃあ、まあ悪くないかもしれないけどよ」

 もう一度聞くぞと前置きしてから、北は一を見つめる。

「坊主、お前は何を守る?」

「……俺の好きな人だけを」

「守る為にはどうするべきだ?」

「まずは、自分を守る事から考えます」

「まあまあだ」と、北は頷き、一の傍に置いてあったアイギスを掴む。春風がアイギスに触れた時の事を思い出し、一はあっと声を上げるが、何も起こらなかった。

「ソレを何とかしたいか?」

 その為に雨に打たれ、死ぬような目にも遭った。一も二もなく一は頷く。

「一つ聞いとくけどよ、まさか英雄様に戦えだなんて言わないよな?」

「俺の代わりに戦ってくれるなら、そりゃ願ってもない事ですけどね」

「殊勝だねえ、ペルセウスも喜ぶと思うぜ」

 アイギスを一に返すと、北は空き缶に吸い殻を入れた。彼は頭を掻き、何か言おうとしては口を閉ざす。やがて意を決したのか、

「まあ、ペルセウスは弱いんだけどな。弱いから、坊主の力にはなれねえよ」

 そんな事を言い放った。

 が、一には信じられない。ペルセウスは話を伝え聞く限り英雄で、実際にゴルゴンの討伐に成功しているのだ。そのような傑物が弱いなどと、まかり間違っても口にしてはならないのではないか。

「確かに半分は神の血を引いていて、普通の人間よりかは力もあったろうな。だがよ、それとこれと話は別なんだ。第一な、ペルセウスはゴルゴンを殺しちゃいねえ」

「いや、メドゥーサの首を刈ったんでしょう?」

「だけ、だ。三姉妹の内、残り二匹からは命からがら逃げ出したって感じなんだよ。俺が……あ、いや、ペルセウスが殺したのはメドゥーサだけで、しかも身を隠して策を弄した意地汚い奇襲だよ」

 ヤマタノオロチを殺したスサノオだって似たようなものだがなと北は言う。しかし、一にとっては奇襲だろうが不意打ちだろうが何だろうが、それをやってのけただけでも称賛されて然るべき行為なのだと思えた。

「俺の知る英雄ってのはもっとこう、かっこ良いんだよな。てめえの力だけで怪物と戦う。武器も数は持たないで、信頼に足るもの一つ、それを相棒代わりに難行を成し遂げちまう。理由なんざ端からねえ、親兄弟じゃなくても、誰かが困っていれば体が動いちまう。きっとな、そんな奴が英雄になれるのさ」

「……ペルセウスは違ったんですか? 彼だって、母親を助ける為にゴルゴンへ挑んだんじゃあないんですか?」

 一の問いに北は目を丸くして、誤魔化すように俯いた。

「さあ、どうだろうな。本人にでも聞かない限り、そりゃ永遠の謎ってもんだぜ」

「はぐらかしますね」

「知らないもんは仕方ねえだろ。……坊主、お前の武器はそれだけか?」

 北の視線の先にはアイギスがある。一は頷き、申し訳なさそうな笑みを作った。

「少ないですかね」

「いや、武器は一つありゃあ良い。多いに越した事はないって奴もいるだろうが、そりゃあそいつの力量が高ければって話だ。いざ戦闘になっちまえば、選択肢があるってのは恐い。迷えば、その隙を衝かれちまうからな。たった一つ、どんな場面でもこれなら何とかなるってものを磨いちまえば良い」

「はあ……」

 気のない返事に北の力が抜けていく。

「坊主よう、もうちっとやる気出せや」

「いや、だって、まさか北さんの口からそんな真面目な言葉が聞けるとは思っていませんでしたから」

 口を開けば酒。顔を合わせば煙草。何かにつけては賭博。それが一の知る北の全てであった。

「どういう意味だ。いや、やっぱ良い。ああ、だからよ、その点で言えばペルセウスってのは駄目だ。まるで駄目、てんで弱い。何たって道具に頼っていたからな」

「別に構わないんじゃ? 道具に頼ってもやる事やってれば良いんですし」

「ペルセウスは……アイギスに頼り、ハルペーに頼み、ハデスの兜を過信した。キビシスに溺れて、タラリアに飲まれちまったのさ」

「……ガーゴイル、あの人何言ってんだ?」

「今出た固有名詞は、ペルセウスが借り受けたアイテムの名前だと見ます」

「目の前にいるのに『あの』はねえだろ。せめて『この』にしとけ」

 魔を退ける盾アイギス。メドゥーサの首を刈ったハルペー。被った者の姿を隠すハデスの兜。メドゥーサの首を運ぶ為の袋キビシス。履けば空を駆ける事が可能な靴タラリア。

「五つも武器と言うか、道具を持ってたんですね」

「ああ、最低だろ。挙句道具に飲まれちまったんだ。坊主、人間ってのは弱いよな」

「弱い、ですかね」

「ああ、弱い」

 断言して、北は続けた。

「だが、聡い。てめえらが弱いってのを知っているからな。人間ってのは本当すげえよ、酒も煙草もギャンブルも、全部作っちまった。さっき言ってた道具はまた別だがよ、人間は色々な武具を作ってきた。弱いのを知ってるから、だよ。弱いから道具で補うのさ」

 自分でも気付かぬ内に、一はアイギスを強く握り締めていた。

「武器さえあれば自分よりも大きな獣とだって戦える。だがよ、道具に溺れちゃ仕方ねえ。道具は人を強くさせる。が、弱くもさせちまうんだ」

「弱くも、ですか?」

「武器さえあれば、防具さえあれば。じゃあ、なくなったら? 武器がなけりゃ、防具がなけりゃ何とも戦えなくなる。目の前の戦いから逃げ続けなくちゃならねえのさ」

 ――――きっと、彼は。

「青臭い話になっちまうがな、結局のところ大事なのは気持ちなんだ。それさえありゃ、誰にだって誰とだって立ち向かえる。戦うのは道具じゃねえ。道具を使う人間だ。それさえ分かってりゃ、どんな奴が相手だって問題ねえさ」

 一は全て見透かされて、何もかも言い当てられた気がした。自分が勤務外を続けるには、戦う者であり続けるにはアイギスが必要なのだと、そう信じていたのである。

「……でも、俺のアイギスは、もう……」

「壊れねえよ。アイギスは壊れないんだ。何があったか知らないけどよ、それだけは有り得ねえな」

 拳一つで穴が開いた。その事実は変わらない。捻じ曲げられない。

「……坊主、何か勘違いしてるぜ。それもかなり根本的な部分でな」

 北は一からアイギスを奪い取り、広げた。

「ああ、こりゃあ確かに使い物にならねえわな。こんな傘捨てちまうに限る。……坊主、理解しろよ。これはな、アイギスじゃない。穴が開いた傘でしかねえのさ」

「は?」

 一はアイギスを注視する。誰が何を言おうと、これは神代の盾、アイギスでしかない。彼はこれで自らを救い、誰かを救ってきたのである。

「だからよ、これはアイギスじゃねえって。坊主、女神様から話を聞いてなかったのか?」

「聞いたと、思います」

「記憶が抜け落ちてるとしか思えねえぞ。そもそもだな、アイギスってのは何なのか答えてみろ」

 天地がひっくり返っていくような事態に困惑しながらも、一は答えた。それは盾だと、自らの武器だと。

「違う。アイギスは盾じゃねえ」

「じゃあ、何だって言うんですか。盾じゃないなら鎧、とでも言うんですか?」

「鎧じゃない。兜でもない。篭手でもなけりゃ具足でも胸当てでもない」

 身を守る道具でなければ何だと言うのだ。一は北の発言に眉根を寄せて不信感を露わにさせる。

「アイギスってのは言わば概念なんだ。現れる時代、所持者によって形を変えちまう。盾や胸当てってのはその一部に過ぎねえ」

「がい、ねん? いや、でも、俺には傘が……」

「坊主よ、守ると聞いてお前は何を思い浮べた? 傘を思い浮べたんじゃないのか?」

 正直なところ、一はアテナからアイギスを受け取った際の記憶を殆ど覚えていない。笑えてしまうほどに真っ白い世界。戦装束に身を包んだ女神。それと、二三尋ねられた事についてしか思い出せないのだ。

「アイギスは何かを守るって概念、思いなのさ。女神様は坊主の思いを分かりやすく形にしただけなんだよ」

「それが、傘?」

「ま、この時代の人間じゃあ盾なんか出てこないだろうからな」

 身を守る。

 雨から、空から降るものに対しての防衛本能でも働いたのだろうか。それとも、あの日をまだ引きずっているのだろうかと、一はアイギスを見つめて、思う。

「その傘はアイギスの力を持っている。けどな、あくまで代用品でしかない。本物が壊れる筈ねえんだ。アイギスは坊主の中にあるんだからよ。壊れるってんなら、そりゃあ坊主が死ぬ時ぐらいさ」

 溜め息を吐く一を見て、北は笑う。

「まだ信じられねえか?」

「混乱はしていますよ。今のがただのおっさんの話なら、信じないんですけどね」

「まあ、先達の言う事にゃ耳を貸しとくべきだと思うぜ」

 星になった英雄。その正体はアパートに住んでいただらしない中年の男、北だった。彼はまだ否定も肯定もしていないが、半ば以上ペルセウスと呼ばれる英雄であるのだ。神々の助けを受け、様々な道具を扱い、強大な力を持つゴルゴン三姉妹のメドゥーサを打倒してみせた。紛れもなく、エレンが言った英雄なのだろう。

 そして、ペルセウスの用いた道具にはアイギスも含まれている。一よりも先にアイギスを使っていた彼が言ったのだ。だから、信じるしかない。

「アイギスがそういうモノだって、北さんが言うなら信じます。けど、実際に傘は破れた。アイギスの代用品が壊れたって言うなら、新しい代用品、もしくは本物が欲しいんです」

 道具は多過ぎても仕方がないとは理解出来る。道具は人の強弱を左右するというのも納得した。しかし、今の自分には道具が一つもないのである。

「ああ、そんな事か。じゃあ、そうだな……坊主、この煙草の箱がアイギスだ」

「ふざけてるんですか?」

「睨むんじゃねえよ。いや、実際そういう事なんだって。さっきも言ったが、要は気持ち、心の持ちようって話なんだ」

「……え、つまり、それは?」

 北はぷかあと煙を吐き出し、口の端をつり上げた。

「思い込みだな」

 一の気が遠くなっていく。

「坊主が出来ると思えば、アイギスは応える。信じてみろよ」

「俺が、これをアイギスだって思えば……」

 煙草の箱を掴み、一は息を呑んだ。

「これは、アイギスになる」

「おう、そういうこった。けど、流石にいきなりは無理だよな。坊主、その傘はどこで手に入れた?」

「オンリーワンで売られてるものですけど。あの、それが何か?」

 北は顎鬚を摩り、思案するような素振りを見せる。

「これがアイギスだと、そう思っても最初は怖いに決まってる。敵を目の前にして煙草の箱向けるなんて頼りねえしな。だからよ、ほぼ同じもので代用するんだ。坊主の中じゃあ、そのビニール傘イコールアイギスって図式が出来上がっちまってる」

「ああ、そう言う事ですか。それなら、まあ、何とかなるかな」

「何とかならなくちゃ、何ともならねえ。良いか坊主、お前が相手にしてるのはペルセウスですら倒せなかった怪物なんだ。アイギスを使いこなさなけりゃ無理なんだよ」

 今更になって、一はゴルゴンの恐ろしさを思い知った。稀代の英雄ですら逃げ帰った怪物を相手にしなければならないのである。

「倒せるん、ですかね」

 北は、その問いに答えなかった。

「来たっ!」

「うおおっ!?」

 今まで眠りこけていたシルフが起き上がり、一に飛び付く。

「来たって、ゴルゴンか……?」

「もう街の中にまで入り込んでる。多分、ここもばれてるぞ」

「嬢ちゃん、分かるのか?」

 シルフは胸をどんと叩き、当たり前だろと偉ぶった。

「……坊主、その傘を手に入れた店に戻るんだ。いつまでもゴミを持ってたままじゃ戦えないだろ?」

「でも、戻って、新しいアイギスを手に入れたって、ゴルゴンをどうやって倒せば良いのか……」

「とにかく戻れ。ここには歌代の嬢ちゃんも残ってる。忘れたのか?」

 それはお前の守りたいものだろう。そう言われた気がして、一は立ち上がる。

「風の嬢ちゃんよ、まだ時間はあるか?」

「うーん、分かんない。けど、まだ大丈夫だとは思う」

「よっしゃ。坊主、ちっと待ってろ」

 北は走り出し、階段を足早に下りていく。

「どうして認めてくれないのでしょうか」

「あー。まあ、確かにあそこまで喋っちまえば、もう正体バレバレなんだけどなあ」

「ふむ、何かまだ、自分が英雄だと名乗り出られない理由があるのだと見ます。もしくは、名乗り出たくない、とか」

「む、シルフ様抜きで何話してんのさ!」

「お前には分からない話だよ」

「分かるさ!」

 その内、一たちは北が部屋を出たのを見計らい、手すりから中空に躍り出た。



 持って行けと、そう言って北が手渡したのは三つの道具だった。

「ありがとうございます」

「ああ、早く行け。俺も……」

「……?」

 何とも言えない表情で頭を下げ、一はシルフに抱かれて飛び立っていく。

「俺も、何だってんだ?」

 一人残った北は髪の毛を掻き毟り、天を仰いだ。

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