RUSH
ソレがいる。ここは戦場で、自分は戦士だ。戦うモノなのだと理解している。自覚している。
しかし、彼は違う。違う筈なのだ。一には戦場など似合わない。戦士とは程遠い。レジ打ちが良く似合い、このような場所で戦ってはいけない種類の人間である。
「……全く」
では、送ったのは誰だと自問する。一を戦場に送り出したのは店長かもしれない。彼を戦士にしたのはアラクネが遠因だったのかもしれない。だが、あえて悪だと断じるのならば、何よりも、誰よりも悪いのは自分たちなのだろう。堀は歯噛みし、ゆっくりと息を吐き出していく。
堀は起き上がろうとするゴルゴンを見下げた。
「さて、ゴルゴンだとお見受けします。あなた方に戦意はまだ残っていますか?」
ステンノとエウリュアレは答えない。立ち上がり、堀の、その先に虚ろな視線を向けるだけだ。
「……狙いは一君の持つアイギスですか。それはあなた方の意思ですか? それとも、円卓の目的なのですか?」
返答はない。ゴルゴンは足並みを揃えて進み始める。声を揃えて敵意を、殺意を明確にする。
「邪魔をしないで」
「邪魔をしないで」
彼女らの髪の毛が生命を持ったかのように蠢いていた。それらは中空に向かって伸びていき、絡み合っていく。細い毛髪は縄のように太く、厚く、形を変貌させた。
「鼠は」
「丸呑みに」
撃ち出された毛髪は毒々しい色の蛇と化している。口を開け、牙を覗かせて敵を威圧する。
「……なるほど」
堀は呟き、腕だけを動かした。風切り音が鳴り終わらぬ間に、彼の目前まで迫った蛇の頭が槍の先端で串刺しにされている。
「児戯にも等しい攻撃ですね。時間を稼げるのは願ってもない事ですが、まさか、今ので終わりだとは言いませんよね?」
堀はにこやかに笑み、穂先に突き刺さった蛇を払う。ゴルゴンは表情一つ変えずに再び歩き始めた。
同時に、十を超える数の蛇が堀に飛来する。その全てを、彼は槍で突き刺していった。自身の得物をくるりと回転させ、蛇を抜き取る。返り血は雨が拭ってくれるだろうと、堀は他愛のない事を思った。
「次は何をしますか?」
右手に槍を持ち、左手で眼鏡の位置を押し上げる。強い雨で視界は塞がれていた。が、彼は決して眼鏡を外さない。
「あなた」
「あなた」
「強いのね」
「強いのね」
「でも」
「それだけじゃなさそうね」
ようやくこちらを見たかと、堀は喉の奥で笑った。僅かながらもこちらに興味を示したのなら、簡単には一を追わないだろう。自分を逃がしはしないだろう。彼は、これで役割を果たせると歓喜した。これで戦えるのだと心中で喝采を上げた。
「先に言っておきます。生憎と、私は女性の扱いには不慣れなものでして。申し訳ありませんが、紳士的に振る舞う事を期待しないでください」
「あら」
「あら」
ゴルゴンは両手を広げて堀に近付く。どこからどう見ても無防備な様子だが、堀は手を出さなかった。
「それじゃあ」
「それじゃあ」
「あなたは獣のように」
「あなたは獣のように」
「求めてくれるの?」
「求めてくれるの?」
望むと言うのなら獣にもなろう。望んでいるのだから獣にもなれる。時間稼ぎとは言わない。ここで、ソレを確実に殺してみせる。
堀が槍を向けた瞬間、エウリュアレが消えた。彼は突き出した槍を咄嗟に引っ込める。
――――ブラフだ。
これがゴルゴンの戦法なのだと堀は気付く。双子ならではのコンビネーション。エウリュアレが機動力を生かして、攻撃の糸口を無理矢理に作り出す。
消えたように見えたのはエウリュアレの飛翔によるものだ。
「あら」
「あら」
飛翔したエウリュアレに気を取られている隙にステンノが潜り込む。が、堀はステンノの足を狙って槍を突き出していた。彼女は立ち止まり、薄く微笑む。初めて見せたその表情は、酷く愉快そうだった。
「素敵ね、あなた」
「素敵ね、あなた」
上方からエウリュアレが降下してくるのが見えている。空中では逃げられない。堀は迷わずに得物を突き上げた。
が、当たらない。掠りもしていない。エウリュアレは空中で強引に旋回し、軌道を変える。彼女はそのままステンノの隣に降り立ち、今一度距離を取った。
「……そういうのもアリですか」
苦笑し、堀は槍を引く。彼はゴルゴンをただの怪物だと思っていたのだが、こと戦闘に関しては知恵が回るらしい。相手を甘く見ていた自分を強く恥じ、思考を切り替える。
数の上ではこちらが不利。ペースを握らせてしまっては泥沼に入り込んでしまう。ならばと、堀は自ら仕掛けた。
狙うべきは片目の女、ステンノ。ゴルゴンのコンビネーションから察するに、エウリュアレに機動力はあれど一撃で戦況を変えるほどの打撃力はないと見極める。勝負を掛けるのは、変えるのはあくまでステンノの膂力なのだ。
「あら」
「あら」
腕を突き出し風を切る。
ステンノの笑みを横目に、堀は舌打ちして槍を引き戻した。エウリュアレが飛ぶのが見えるが、今は無視する。得物を持っている分リーチの差ではこちらが有利と判断しつつ、こんな、ただの槍ではいつか折られてしまう。壊されてしまうとも彼は認識していた。
「早いのね」
「どうも」
短く答え、ステンノの喉を目掛けて突きを繰り出す。彼女は右手で穂先を払い、一歩踏み出した。堀は体を回転させながら槍を横に薙ぐ。今度は柄の部分を左手で弾かれた。ステンノから視線を外さないまま後退し、上空から拳を繰り出していたエウリュアレの奇襲を回避する。
目の前のコンクリートがエウリュアレによって抉られ、砕かれて破片が舞い上がった。
しまった、と、堀は認識の甘さを噛み締める。膂力があるのはステンノだけではない。エウリュアレにも備わっていたのだ。
逃がすまいと攻撃を放つが、舞い上がっている破片に遮られて突きの速度が充分には達しない。エウリュアレは悠々と退避し、ステンノの隣に舞い戻る。
「あなたの力はそこまでなの?」
「あなたの力はそこまでなの?」
堀は挑発的な言葉に面食らい、髪をかき上げた。
「まさか」と呟き、堀は両手を高く上げて槍を回す。風を切り、雨を弾きながら彼は前進していく。
「故あって全力を出せない身ではありますが、もう暫く私の相手をしてもらいます」
「あら」
「あら」
ゴルゴンは揃って薄い笑みを浮かべ、
「素敵ね、あなた」
「素敵ね、あなた」
揃って、足を踏み出した。
何も考えなかった。
何も考えられなかった。
堀に全てを預けて、あの場から逃げ出した。ガーゴイルと合流した後も、まともな会話は出来なかった。
一はシルフに抱えられたまま、風雨に打たれているしか出来なかった。
「おい、どこに行けば良いのさ?」
シルフが苛立たしげに声を掛けるが、一は暫くの間何も答えられないでいる。
「おいってば!」
「……アパート」
「アパート? ああ、オマエの住んでるとこだな」
アパートに戻ると言っても、一には何も考えがなかった。雨に打たれてぐしゃぐしゃに濡れた服を変えたかっただけである。
「一さん、大丈夫ですか?」
前を飛ぶガーゴイルが心配そうに声を掛けてきた。何が大丈夫なのだろうかと、大丈夫な事があるのだろうかと、一は視線を虚空に向ける。
結局のところ、何も変わらない。堀が来なければ自分は死んでいた。
死んでいた。
シルフが来なければ、ガーゴイルが来なければ、死んでいた。
つくづく無力だと思い知らされながらも、前に進まなければならないのだと知っている。その手に握るアイギスを伊達には出来ない。唯一無二、自分にしか扱えない盾なのだ。ならば、前に進み、前に出て、後ろにいる者を守らなければならない。
「おい、ここで良いんだろ?」
「あ、ああ。降ろしてくれ、そう、あの部屋の前」
「では、わたしは屋根の上にいます。あの出入口からでは入れないと見ますから」
ガーゴイルを残し、一は鍵を使って扉を開けた。びしょ濡れの体で畳の上に行くのを躊躇い、彼は玄関でコートを脱ぎ、シャツを脱ぎ捨てる。そしてジーンズに手を掛けたところで、
「……おい」
「ん、何さ?」
シルフの存在に気が付いた。
「出ろ」
「は、なんでさ?」
「俺は今から着替えるんだよ」
「着替えたら良いじゃん」
一は知っている。シルフに性別はない。羞恥心の欠片だって見当たらない。しかし、目の前にいるのは確かに女性の形をした何かなのだ。
「頼むから出てくれよ」
「あー、やだなー、そんな言い方されたら出る気なくしちゃうよな。絶対やだ。オマエの着替えを見てやる」
「だったら見ろ! 絶対に見ろよ! 俺の着替えをっ、俺の裸体を余すところなくじっくりとな!」
「何怒ってんのさ」
それは一にも分からなかった。
彼は息を吐いてジーンズを脱ぎ捨てる。玄関には既に小さな水溜まりが出来ていた。一は生まれたままの姿ギリギリ、パンツのみで部屋をうろついてタオルを頭から被る。
「……どこ行くのさ?」
「トイレ」
やっぱり、恥ずかしい。
一はトイレで手早く着替えを済ませると、何食わぬ顔でシルフの前に現れた。
「どうせまた濡れるのに。ニンゲンってのは面倒な生きものだよな」
うるさい黙れボケナスと反論しようとしたところで一は気付いてしまう。もう嫌だと彼は嘆いた。
「……何さ?」
「分かってて聞くんだけどさ、お前って服とかどうしてんの?」
「もらった」
「代え、あるか?」
「ない」
一は頭を抱えてその場に座り込む。
「別に服ぐらい良いだろ。そんなに気になるなら脱ぐし」
「ノー! ……分かった。今度買ってやる。だから、何とかならないか?」
「だから、何がさ」
「お前、下着付けてないだろ」
シルフはきょとんとした顔で頷き、それの何が悪いとふんぞり返る。一からすれば、その体勢も止めて欲しかった。目の毒と言う他ない。
部屋から現れた二人を見遣り、ガーゴイルは楽しげに口を開いた。
「お着替えは済んだと見ますね」
「どっかの犬よりてこずらせてくれたよ」
「シルフ様をバカにしてるのか?」
一は長袖のシャツとジーンズ、だけである。シルフの意見を認めるのに抵抗はあったが、どうせ濡れてしまうのだ。彼はファーの付いた焦げ茶色のコートをシルフに貸し与えている。と言うか、無理矢理羽織らせた。
「シルフ様が着ても意味ないと思うんだけどな。まあ、どうしてもってんだから仕方ない。着てやる」
「そりゃどうも」
一の顔は引きつっている。
「では一さん、次はどこに参りますか?」
「うーん、英雄のいそうな場所」
「コロッセオにでも向かいますか?」
全く思い当たらない。が、エレンの言葉を嘘だとは思えなかった。彼女の言葉にしか頼れないのなら、嘘だとは思いたくなかった。
「闇雲に動いても仕方がない。少し考えるか」
「ふむ。一さん、堀と仰る御方は信用出来るのですか? 具体的に、どの程度ゴルゴンを足止め出来る力量をお持ちなのでしょうか」
「その点に関しちゃ心配ない。足止めどころか、今頃は倒しちゃってるかもしんないぐらいだ」
「しかし、考える時間はあっても何か浮かぶとは……」
「痛いところを突いてくるね、ガーゴイル君」
実際、その通りである。時間はあってもエレンの言っていたモノと出会えるかどうかは分からない。もしかしたら駒台にはいないのかもしれないし、そもそもこの世に存在するかどうかあやふやなのだ。
「支部に行くとかな。少なくとも、俺らよりは何か持ってるだろ」
と、一たちがああだこうだと話し合っていた時、扉の軋む音が聞こえた。はっとした時にはもう遅い。彼らは失念していたのである。ここは既に街で、自分たち以外にも誰かがいるという事に。
「あー? 坊主、帰ってたのか?」
「……まずい、北さんだ」
一は視線をさ迷わせた。このままではシルフたちが見つかってしまう。彼女だけなら誤魔化せるかもしれないが、一般人相手にガーゴイルの存在を説明するのは困難に思われた。
「ちょうど良いや、おい、酒持ってねえか? なかったら金を貸してくれ」
かんかんと、北は軽快に階段を上がってくる。
「かっ、隠れろ」
「隠れるってどこにさ?」
「ふむ、間に合わないと見ます」
「だっ、駄目です北さんこっちに来たら!」
「……お?」
目が合った。
目が合った。
目が合ってしまった。
北は、一、シルフ、ガーゴイルを確かに見遣り、ぽりぽりと頭を掻く。
「俺はまだ酔っ払ってるらしいな」
風切り音が鳴り止まない。
一撃たりとも当たらない。
三者は攻撃を繰り出し、避け、あるいは防ぐ。ゴルゴンと堀、二対一の攻防は既に十分以上経過していた。疲労を感じていないのか、彼らの一挙手一投足に翳りは見られない。戦闘が始まった頃と変わらぬ動きを見せている。ゴルゴンがギリシャ神話の怪物ならば、彼女らに付いていく堀もまた怪物なのだろう。無表情だったゴルゴンからは、溢れんばかりの殺意が見え隠れしている。
しかし、決して焦らない。ステンノもエウリュアレもペースを崩さない。
自身の力量を見切られているのだと堀は気付いていた。ソレはこちらが焦れ、崩れた隙を見計らっている。それまでは不毛とも思えるような戦いが続くのだ。
「全く、困りますね」
時間は稼いでいる。それとも稼がされていると言うべきか。ともかく、堀は現状に満足していない。
――――ひりつくような。
「あら」
「あら」
ゴルゴンの動きが鈍る。否、止まる。彼女らは視線を一点に注いでいた。
一が戻ってきたのかと堀は思ったが、その予想は外れていたらしい。ちかちかと、闇に光が明滅している。排気音を巻き上げ、濡れた路面を厭わずやってくるモノが堀にも見えた。
あの車種には見覚えがある。知った者が乗っている。
「堀ぃぃぃぃ! そいつを止めろっ!」
「藤原さんっ」
ブレーキを掛けずに突っ込んでくる藤原を見て、無茶をするなと苦笑いしつつ、他人の事は言えないなと堀は自戒した。
考えている時間は残されていない。空に逃げたエウリュアレを無視して、堀はステンノ一人に的を絞る。
車に気を取られていたステンノの背に槍を突き立てると、
「失礼っ」
穂先を抉るように回転させ、胸を貫いた。ステンノの青白い肌に鮮血が滴り落ちていく。苦悶の声があったところで気には病むまい。
堀はステンノに刺した槍に体重を掛けて地を蹴った。彼女の体は崩れ落ち、うつ伏せに倒れる。反動を使って槍を引き抜き、転がるように横っ飛び。瞬間、倒れているステンノに大型の四輪駆動車が一切の躊躇を見せずに衝突した。
「はっはーっ!」
藤原は窓から身を乗り出してガッツポーズを作る。
「あら、鼠が増えたわ」
「堀ぃ、蝿は任せたぞ!」
言われる前に堀は飛び出していた。上空を旋回していたエウリュアレは降下を始めている。ステンノの援護に向かうつもりなのだろう。そうはさせないと、彼はコンクリートの破片を槍で弾く。当たりはしないが、彼女の動作が僅かに鈍った。
「おお……っ!」
その隙に距離を詰め、堀はエウリュアレの真下へ滑り込む。狙いを付けて槍を放つと、彼女は顎を仰け反らせてそれを回避した。顛末を見届けないで、堀はまたもや走り出す。向かった先は自分が乗り捨てたワゴン車だ。トランクを開け、目的の得物を取り出す。
穿たれて土が剥き出しになった箇所に槍を刺す。また刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。
計十二本の槍が堀の周囲に突き刺さった。彼は再び降下してくるエウリュアレを見据え、両手に槍を握る。回避されるのを見越して一本を投擲し、案の定こちらに軌道を変えて接近してくるエウリュアレの喉を狙い、突く。避けられ、もう一本牽制として放った。
「う、おおっ!?」
藤原が上げた叫び声に振り向くと、自動車が浮いているのが見えた。
いや、持ち上げられていたのである。藤原が轢いた筈のステンノが、その膂力を以て車体を持ち上げていた。前輪は空回りを続け、情けない悲鳴を上げ続けている。
「藤原さん、降りてください!」
「車検通ったばっかなんだぞ!?」
しかし命には換えられまい。藤原は奇声を上げて運転席から飛び降りた。彼が地面に立つと同時、主を失った自動車が、完全に宙に浮く。
ステンノは藤原を見遣り、薄く微笑んだ。
「……てめえ、まさか……」
――――愛車だった。
彼女とはもう何年の付き合いになるだろう。五年、十年、生まれてからずっと傍で寄り添っていてくれていた気もしている。少しでも汚れが気になれば丁寧に洗車をして、調子が悪くなれば自らの手で修理を繰り返した。
今ならはっきりと言える。愛していた。
「うおおおぉぉおおぉっ!」
叫びながら藤原は走る。現実から背を向けて走る。背後で聞こえてはならない音が聞こえた。
昨日も丹念に磨いたボディは肌だ。パーツは骨。ガソリンは血。その全てがみしりと砕け、垂れ流され、壊れていく。
ステンノはスクラップと成り果てた自動車を両手で持ち上げ、ぞんざいに放り投げた。
潰れる。音。
藤原を狙ったその一投、彼には当たらなかったが、彼の心は深く、痛く傷付いている。
何かしらの部品を撒き散らしながら地面を転がり、乾いた音を立てて尚も損壊していくそれは、もはや原型を留めていなかった。
「俺のランクル……」
藤原は見るも無残に変わり果てた愛車の骸にふらふらと近付いていく。
「いけない!」
堀が叫ぶと、車からは破裂音、爆発音がした。次いで煙が上がり、とどめだと言わんばかりに炎も上がっていく。雨が降っているから大事にはならないだろう。
「俺のランクルがああああああああああぁぁぁぁあっ!」
藤原の慟哭が雨音を掻き消さんと響き渡る。
「あら」
「あら」
「少し重かったわ」
「少し重かった?」
ステンノはエウリュアレと背中を合わせ、くすくすと愉快そうに笑っている。
「許さねえ……」
「藤原さん……?」
藤原は車の残骸から、それを拾っていた。
手甲、である。
中世の騎士が身に着けていたような洗練されたものではない。金属を張り合わせ繋ぎ合わせた少々不恰好で、それでいて威圧的でもある無骨な手甲だ。
藤原はスーツを脱ぎ捨てて、自身の得物を、目の前の獲物を狩る為の武具を装着し、
「てめえらああああ!」
「一人で!?」
堀が止めるのも聞かずに、ゴルゴン目掛けて走り出した。
「堀ぃ、援護しろ!」
走る前に言って欲しい。堀は藤原に当たらないでくれと祈り、槍を投げまくる。
「あら」
「あら」
「勇ましいのね」
「勇ましいのね」
ゴルゴンは踊るように槍を避け、誘うように笑んだ。
「砕けやがれぇ!」
藤原はその体格に見合わないスピードの持ち主であった。堀の投げた槍を牽制代わりに、あっという間にステンノの眼前に踏み込み、拳を放つ。
「大……胆ね」
避けられてしまったが気にしてはいない。当たるまで放つだけだと一心不乱に拳を振り回す。
右を打つと回り込み、左を打つと後ろに下がる。
前に出ると前に出て、後ろに下がると前に出る。
変幻自在好き放題なステンノの動きに戸惑いながらも、
「そこしかねえだろ!」
捉えた。
藤原は倒れ込むような姿勢で、回り込んだステンノの脛を裏拳で叩く。次いで腹に一撃、顎に一撃。彼女の長い髪の毛を引っ掴んで地面に押し倒した。
「今だやれ!」
エウリュアレが藤原に襲い掛かるも、堀の投げた槍が邪魔をする。
残りは二本。堀は投擲を止め、槍を両手に持って地面を蹴った。柄を長く持っている為に穂先がコンクリートを削っていく。
「その首、貰い受けました!」
掬い上げるような軌跡を描いた堀の槍は、ステンノの首をいとも容易く切断させていた。彼女の首は中空を舞い、雨に打たれ、風に吹かれて地に落ちる。ころころと転がり、やがて、止まった。
「はっはーっ! 仇は討ったぜマミコーっ!」
藤原は立ち上がり、天に向かって吠える。
「……誰ですか、その方は」
「俺の愛車だ!」
これで残っているのはエウリュアレのみである。空中で飛び回られては手の出しようがないが、全く無理と言う話ではない。あちらが肉弾戦に頼るなら降りてきたところを捕まえれば良いのだし、蛇を飛ばされたところで脅威にはなり得ない。必要ならば援軍を待てば良い。時間さえ掛ければ打倒し得る。
が、あまりにも簡単過ぎる。
「しかしよ、奴ら何者だ?」
「ゴルゴン、だそうですよ」
「ギリシャの……? にしては、案外あっけなかったじゃねえか」
「面白い話ではありませんが、本気ではなかったのでしょう。遊ばれていた、とまでは言いませんが、彼女らには別に目的があるようですからね」
少しは堀の力に興味を持っていたようだが、ゴルゴンの狙いは最初から最後まで一の持つアイギスにあったらしい。そうでもなければ、藤原と二人掛りであっても一分持つか、持たないかと言ったところだった。
「仕留めたのはこっちだ。自業自得ってもんじゃねえかよ」
「そうですね。……っ!」
「おいおい、逃げられてんじゃねえか」
藤原は髪の毛を掻きながら退屈そうに言ってのける。飛び去っていくエウリュアレを追い掛ける気力は残っていないのか、彼はその場にしゃがみ込んだ。
「車とスーツでソレ一匹か。ギリギリ割に合わねえ」
「……いや、ギリギリではありませんね」
「あ?」
堀は槍を持ち上げる。先端にはステンノの首、だったものが刺さっていた。
「何だあ、こりゃ?」
首だった。そこに血は通っておらず肉も付いていない。今はただの皮と成り果てている。
「上手く逃げられましたね。人の形をしていたので忘れていましたが、アレもまた蛇だったと言う事ですか」
「あー、つまり、俺らは二匹とも逃がしちまったのか?」
「いやあ、脱皮ですか。あるいはトカゲの尻尾きり。してやられましたね」
藤原は未だ煙を上げて燻っている車と、使い物にならないくらい濡れているスーツに視線を遣った。
「割に合わねえ」
力が抜けたのか、藤原は地面に両手を付いて嘆いた。
「あとは一君に任せますか」
三十分程度は稼いだだろうか。出来るならば片方だけでも仕留めておきたかったのだが、過ぎた事は仕方がない。
流石に、神話級の怪物を相手にするのは疲れる。堀は槍を杖代わりにして、溜め息を吐いた。
「あー、これはー、そのー」
北は廊下に座り込み、興味深そうにガーゴイルを眺めていた。
「はあー、驚いたなこりゃ。こういうもんには関わらないと決めてたんだがよ」
「いや、実はそいつは銅像でして……」
一は何とか誤魔化そうとしているが、その努力は既に水泡に帰している。
「坊主の知り合いなんだろ? なあ、お前ら別に俺を取って食おうって訳じゃなさそうだしな」
「わたしは物を食べません」
「シルフ様もおっさんには興味なーい」
「は、だってよ?」
北は笑い、煙草に火を点けた。流れた煙は雨に打たれて消えていく。
「しかし何だ、随分と忙しそうじゃねえか。駄目だぜ坊主、金策に走り回っているようじゃあな。チャンスってのはダラダラと寝て待つもんだ」
「金策じゃありませんよ。はあ、まずったなあ、もう」
「だったらこんな天気の日に楽しそうに遊び回ってんのか? 若いってのはずるいよな、俺にも分けてくれよ」
「……ところで一さん、この御方は一体どなたなのでしょう?」
一は北を見遣る。よれよれのシャツと薄汚れたズボンを着た中年。不精髭を生やした、ただのおっさんだ。紹介する価値は、意味は、時間はあるのだろうかと自問する。
「この人は俺と同じ、ここに住んでるおっさんだよ。酒飲みで煙草吸って勝てない博打を繰り返す。それ以上でも以下でもない」
「てめえ本人目の前にしてよくもまあ口が回るじゃねえか」
真実なのだから仕方ないだろう。
「ははあ、そうでしたか。ふむ、お名前を伺っても?」
北は短くなった煙草を階下の中庭に投げ捨てる。
「俺の名前は北英雄だ」
彼の名を聞いたガーゴイルは低く唸った。
「どうしたんだよ、ガーゴイル?」
「一さん、もしかして。もしかして、なのですが」
「だから、どうした?」
「わたしたちが探していた英雄と言うのは、まさか……」
「……え、あ、いや、まさか?」
そんな、馬鹿な。
だとすれば、一はとんでもない遠回りをしていた事になる。初めから答えを知っていたのに、分からないと嘆いて答えを出すのを先延ばしていたのだ。
「…………きた、ひでお」
「呼び捨てにすんじゃねえ」
北の英雄。北英雄。
考えてみれば、正解であれ不正解であれもっと早くに彼へ行き着いていても不思議ではなかったのだ。
「良く分からないけどよ、何か面白そうだなお前ら」
話に付いていけない北は二本目の煙草に火を点けて、不機嫌そうに煙を吐き出した。