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24時間戦う人たち  作者: 竹内すくね
ゴルゴン
163/328

このままここで



 雨は未だ強く。風は更に激しく。

「ニンゲン、跳ぶぞ。文句は言わせないからな」

 一は、アイギスではない、店から持ってきていたビニール傘を投げ捨てた。この状況、傘を差せるほど悠長なものではないと彼も認識している。

「頼む。こっちが先に見つけるぞ。図書館まで来させちゃあまずい」

「一さん、見つけた後はどうするのですか?」

「……注意を引き付けて図書館から引き離す。とりあえず、戻るしかないな」

 まだ人がいるであろう街の中心部にソレを近付けたくはない。しかし、英雄に会わなくてはならないのだ。何かヒントを得るには人と会わざるを得ないのだと一は思っている。それに、狙われるのはアイギス、あるいはその中にいるメドゥーサなのだ。自分にさえ注意を引き付ければ、ソレは関係のない人間を襲わないだろう。そう考えれば、罪悪感もある程度は薄れてしまう。自信はない。所詮は自身の行動を正当化する為の言い訳、詭弁でしかないのだ。

「行ってくれ、シルフ」

「任せろよニンゲン」

 シルフは口の端をつり上げ、悪戯っぽく笑む。瞬間、彼らの周囲に降り注ぐ雨が飛び散った。遅れて、風がびゅうと唸りを上げる。一は手で顔を覆い、目を瞑った。

「ふむ、これは……」

 ガーゴイルが低く呟く。一が目を開けた時には、彼は彼女に変わっていた。

「跳ぶんならこれでなくっちゃな。なあ、ニンゲン? オマエだってこっちのがイイんだろう?」

 一は頭を掻いて視線を逸らす。やはり、気恥ずかしいのだ。さっきまでぶかぶかだったTシャツは、今は彼女の体型にぴったりとフィットして、胸元を強調させている。シルフは柳のように細い手足がぱたぱたと動かした。

「……わざわざ女にならなくても良いじゃないかよ」

「でっかくなると疲れるんだけどさー、やっぱしチビん時よりこっちのが良いじゃん」

 風の精霊であるシルフには年齢がない。姿、性別などが不定なのだ。男の子の姿をしているのが常なのだが、シルフはこうやって女性にも姿を変えられる。

「ははあ、驚きましたね。精霊というのは、やはりわたしなどでは想像も付かない事をやってのけるのだと見ます」

「へっへー、だろ? そうだろ? うんうん、そいじゃあ気分も乗ったところで跳ぶとしようかな」

 シルフはぴょんと跳ねると、一の背後に回った。そして、一切の躊躇を見せずに彼を抱きすくめる。

「……っ! あ、あのな、シルフ……」

「ごちゃごちゃ言うなよ、時間はないんだろ」

 一は溜め息を吐いた。決して嬉しくない、事はない。しかし、どうしたって恥ずかしいのである。

「どうせ飛んでいくんならガーゴイルに乗せてもらいたいんだけど」

「オマエ、ニンゲンのくせにシルフ様を裏切るのか?」

 シルフは更に一を抱き、締めた。彼女が風の精霊というのもあって、彼はシルフの体重を殆ど感じていない。が、距離は断然近くなる。

「これ以上はやめろっ、なあ、ガーゴイル?」

 助けてくれと言外に訴えられているようで、ガーゴイルは困ってしまった。

「……一さん、勿論、わたしの背に乗せても構わないのですが、一つ問題があるのです」

 まるで人間みたいに咳払いをしてから、ガーゴイルは申し訳なさそうに口を開く。

「わたしはあまり早く動けないので、やはり、シルフさんに助けてもらった方がよろしいかと」

「こいつ無茶苦茶しやがるんだよ。酔って戦いどころじゃなくなったらどうすんだっての」

「安心しろニンゲン、こないだのでコツは覚えたから。良いからもう、勝手に行くぞ」

「は? あ、おい、お、ちょ、ちょ……」



 風邪を引かないだろうかと、一はぼんやりと考えた。強い風、強い雨。彼の全身に隈なく容赦なく降り掛かっている。

「まだ見えないか」

「近いとは思う。さっきよりもヤな感じがしてきてるからな」

 情けない格好だと一は思った。線の細い女性の姿となったシルフに後ろから抱き締められ、空を跳んでいる。

「一さん、ゴルゴンを見つけたらどうするのですか? 注意を引き付けるとは仰っていましたが、具体的には」

「……ガーゴイルは降りずに見といてくれ。逃げる事になるだろうから、俺らとはなるべく距離を取るようにな。注意を引き付けるのは、まあ、何とかなるだろ」

 アイギスを持っている限り、必ずこちらに向かってくる。一はそう信じている。

「一さん、あなたは何かを分かっていますね」

「何かって、何をだよ?」

「何かです」

 要領を得ない質問だったので一は答えなかった。しかし、ガーゴイルが敵の正体だけでなく、一の持つアイギスとメドゥーサについて疑問を抱いているのを感じる。

 しばらくの間、慣れない浮遊感に身を委ねていると、見えた。

「見えましたね」

 ガーゴイルが呟き、一が頷く。

 だだっ広い道路の真ん中を、傘も差さずに悠然と歩く二人の女を一は捉えた。

「……狂ってやがる」

 初めて出遭った時は極度の興奮状態に陥っていて分からなかったのだが、彼女らは服と呼べるようなものを纏ってはいない。惜しげもなく自らの肌を露出させていた。辛うじて、下着のような、そんな頼りない布切れで局部を隠しているだけである。

「おい、ニンゲン?」

 人間の常識を理解し、弁えようとする素振りすら見せていない。そんなモノに、今から声を掛けようと言うのだ。

「やれるさ」

 震えない方が、どうかしている。

「ガーゴイル、捕まるなよ」

「一さんたちこそ。これ以上なく、お気を付けて」

 互いに頷き合い、一の体が少しずつ降下していく。シルフは降り立つ場所、距離を測りかねているらしく、彼女にしては慎重な立ち回りであった。

「いつでも逃げられるような位置にしとけよ」

「誰に指図してんのさ。このままオマエだけ叩き落とすぞ」

 軽口を叩くシルフだが、その表情はやはり固い。

 少しずつ距離を詰めていくと、ソレが立ち止まるのが見えた。ゴルゴン、彼女らも一を捉えたのである。

 距離にして、五メートル。そこがシルフの限界だった。

「あら」

「あら」

 ソレが揃って首を傾げる。

「やっぱり、そこにいたのね」

「やっぱり、そこにいたのね」

 ソレの声が揃って聞こえる。

「会いたかったわ」

「会いたかったわ」

 ソレの視線が一に向く。会いたかったと、絶世の美女からそう言われても彼はちっとも嬉しくなかった。彼女らの視線は、正確には一でなく、彼の持つアイギスのみに注がれている。あの美しさは毒であると、この世に存在してはならないものだと一は思った。

「ゴルゴンって言うんだってな、あんたら」

 言葉はきっと届かない。分かっていたが、何かしていないと気が触れてしまいそうだった。

「どっちがステンノで、どっちがエウリュアレなのか教えてくれよ」

「待っててね」

「姉さんたちが」

「あなたを」

「救ってあげるから」

 ふと、一は前回とは違うところに気が付く。ゴルゴンの片割れ、彼から向かって右側に立つ女には片目がなかったのだ。

「なあ、シルフ。あいつはどうして片目なんだ?」

「覚えてないのかよ。アレはオマエがやったようなもんだぜ。ほら、剣でさ、こうグサーっと」

「俺すげえ! いつの間にそんな事を……」

「アホだなオマエ。あいつらに折られた破片が勝手に突き刺さってただけだよ」

 そんな事だろうとは思った。が、これで見分けが付く。アイギスがまだ壊れておらず、ソレの名前さえ確認出来れば、一にも勝機が見えてくる。

「はーいステンノさんは手ぇ上げてー」

「あら」

「あら」

 ソレが同時に足を踏み出した。

「忘れていたわ」

「忘れていたわ」

「鼠はまだ」

「生きていたのね」

 飛べ。一がそう指示するより早くシルフは地面を蹴っている。風が舞い上がり、雨が弾け飛ぶ。

「ガーゴイルっ!」

 既にガーゴイルは一たちよりも離れたところを飛んでいた。

 とてもじゃないが、戦おうなんて気は起きない。ソレの注意を自分に向けて図書館から引き離す。ひとまずの目的は果たしたのだ。今はここで満足しておかなければならないだろうと判断する。

「あら」

「あら」

 距離は離した。一たちは飛んでいる。空中は彼らにとって安全な場所だ。

「逃がさないわよ」

「逃がさないわよ」

 だと言うのに、一はアイギスをソレに向けている。距離を離して、ソレの手が届かない場所にいたところで少しも安心出来ないのだ。どちらがステンノで、どちらがエウリュアレか判断は付かない。それでも、アイギスが生きているのなら、どちらかの動きは止まる筈なのだ。

「ステンノ、止まれ!」

 雨が降り、風が吹いている為にいつもよりも声を張り上げて宣言する。

「ニンゲン、オマエさあ」

 しかし、アイギスは一切の反応を見せなかった。

「バカ?」

 アイギスを何とかしてくれるなら馬鹿でも良い。一は諦め、それでも、今となっては穴の空いた安っぽい傘に成り下がったアイギスを手放そうとは思わなかった。

 一はうな垂れ、眼下に立つゴルゴンに視線を向ける。彼女らは微動だにせず、視線だけを送り返してきた。

「ニンゲン、とりあえず街に戻れば良いんだな?」

「ん、ああ。そうだな、まずはガーゴイルと……」

 目を離した一瞬の隙だった。ゴルゴンが、いない。その片割れが消えていたのだ。一は何事か叫び、シルフは風を集めて速度を上げる。何が何だか分からないまま、彼らはただ、恐怖と焦燥に駆られて逃げた。

「どうなってんだよ!?」

「シルフ様が知るもんか! それより、何だかまずいぞ」

 落とさないようにアイギスを握り込み、一は振り返る。

 ソレが、いた。翼のない、人型のソレが空を飛んでいる。当たり前のように、一らの後ろにぴったりと付けていた。

「……嘘だろ」

「漫画みたいだな」

 自身を棚に上げて、シルフが気楽そうに呟く。

「気のせいか、向こうの方が速い気がするんだが」

「こっちは二人乗りみたいなもんだからしょうがないじゃん。シルフ様だけだったらあんなのブッチギリさ」

 このままでは追い付かれてしまう。一の読みは完全に狂った。彼は、飛行している限りは安全で、のらりくらりと時間を稼げると踏んでいたのである。

 アイギスは力を発揮しない。敵の正体、名前を知ったところでそれだけではどうしようもない。

「……武器がなさ過ぎる」

「うわあああっ、やばいやばいやばいなあもうシルフ様だけでも逃げて良いだろ!?」

 目を瞑り、覚悟する。

「一さんっ」

 自分を呼ぶ声が聞こえ、一は弾かれるように顔を上げた。再度振り向いた瞬間、真っ黒な影が目前に迫っていたソレを中空で踏み潰す。

「逃げてください!」

「ガーゴイルっ!」

 シルフが片手を伸ばすが、その手をガーゴイルは掴まなかった。ソレを足蹴にしたまま、凄まじい速度で落下していく。

 一は迷った。ガーゴイルはシルフよりも足が遅い。彼を守る為に飛んでいては、いずれはソレに追い付かれてしまう。ならば、どこかで決断しなければならない。ガーゴイルを切り捨てて逃げるのか、ソレと戦うのか、そのどちらかを。

 ガーゴイルもその事を理解していたのだろう。理解しているからこそ、ああやって行動に移した。彼は、一たちの足枷になりたくなかったのである。

 だから、選ばなければならない。

「ニンゲンっ、どうすんのさぁ!?」

 答えはとうに出ていた。一は、

「……っ、決まってんだろ」

 借りは返す主義なのだから。



 路面を砕く音と女の短い呻き声を聞きながら、ガーゴイルは空を見上げた。まだ迷っているようだが、一たちには逃げてもらわなければならない。自分ではこれ以上はやれないのだ。ここまでが限界で、この場所で最後なのだと分かっている。こうなるのは分かっていた。分かっていて、一に付いていった。

 街を守りたい。

 そんなぼんやりとした思いではあったが、第三者の立場を貫いてきた自分にしては大いなる変化だろうとガーゴイルは納得している。この結末を見届けられない為に、満足していると言えば嘘になるが、一を逃がせたのならそれで構わない。この街を守るのは自分ではない。彼なのだ。少し頼りなく、あまりにも普通過ぎる彼こそが――――。

「あら、あら」

「……もう起き上がりますか。流石はゴルゴン、ギリシャ神話の蛇神だと見ますね」

「上からだなんて、そんな……」

 容赦など、躊躇など出来ない。相手はガーゴイルよりも遥かに格上で、神にも近しい存在なのだ。奇襲が成功したのは正しく奇跡。だからこそ逃す訳にはいかない。例えこの身が粉々に打ち砕かれようとも、一分、一秒、それより短い時間でも稼いでやる。そう決意し、血の通わない脚に力を込めた。

「魔が、魔に歯向かうのね」

「見てくれだけで判断されるのには慣れています。が、自らを魔と誇称するあなたよりは……っ」

「あの子の元へ行かないと」

 砕けたコンクリートに、更にひびが入っていく。踏み付け、起き上がる。相反する力と力の余波は周囲の地面にも影響を与えていた。

「早く、行かないと」

 行かせるつもりはない。一秒でも長く、この魔をここに留め続けてやるのだと、ガーゴイルは低く唸りながら耐えていた。

「……あ、ああ」

「むう……?」

 空気が変わる。無表情だったソレが顔を明るくさせて、何かを見ようと首を巡らせた。

「会いたかった……」

 絞り出すような声。縋るようなソレの視線の先には、

「退けえガーゴイル!」

 逃がした筈の、逃げた筈の一がいた。



 きっと、ガーゴイルは落胆するだろう。決意と行動を無駄にされたと激昂するかもしれない。

「うおおおぉっ!」

 それでも、彼を見捨てる訳にはいかなかった。ガーゴイルはあの時自分を助けてくれたのだ。第一、友人の犠牲から成り立つ生還には興味がない。

 だから、一はアイギスを突き立てる。急降下した風は砕けていたコンクリートを巻き上げた。

「あああっ……」

 風が止み、巻き上げられたものは落下物となって辺りに降り注ぐ。ソレは長い息を吐き、背に掛かる衝撃を受け入れていた。

「一さん、どうしてっ」

「話は……」

 アイギスに向かって伸ばされていた、抜け目のないソレの腕を弾く。

「後だ!」

 強い衝撃を感じて、折れてしまったかと思われたアイギスはまだ顕在していた。この世に、その力を顕現させたままである。

「ああ、触れさせて」

 ソレが立ち上がり、再び手を伸ばす。一は彼女の骨を砕くつもりで払った。衝撃はある。だが、確信した。相手を止める能力こそ失われたものの、ギリシャ神話にて讃えられた最硬の盾としての力は残っているのだと。

「……は、何だよ」

「ニンゲン、オマエはあいつの攻撃だけに集中しろ! 避けるのはシルフ様がやってやる!」

「一さん、飛行していた事から見ても、彼女は恐らく飛翔のエウリュアレでしょう。ステンノが来る前に離脱を!」

 エウリュアレが覚束ない足取りで一に迫る。

「何だよ、おい」

 人知れず、一は笑っていた。嬉しくて嬉しくて、ソレと対等に渡り合えるのが楽しくてしょうがない。

「使えるじゃねえかよ」

 喜悦を殺し切れないで、思わず噴き出してしまう。

「こうだよなあっ、やっぱこうだよ! アイギスっ、今まで何やってたんだ俺はさあ!」

 ソレが考えなしに伸ばす手を、シルフが風を使って回避し、一が真っ向から防いで反撃する。

「しっかり使えてるんじゃねえかよう!」

「ああ、ああ、邪魔。鼠は邪魔」

 エウリュアレは攻防に焦れたのか、予備動作もなく、ふわりと宙に浮いた。瞬間、彼女の長い毛髪が蠢く。まるで生きているかのように――――否、それは確かに生きていた。絡み合い、細い髪は段々と太くなっていく。やがてエウリュアレは、生命を得たかの如く蠢く毛髪を一に向けた。

 それは、毒々しい色の蛇である。黄と赤の警戒色で表皮を覆った蛇。彼女は自らの髪を蛇へと変化させたのだ。

「鼠は丸呑みにしなくちゃ駄目!」

 二十センチほどもある五匹の蛇が大口を開け、牙を見せ付ける。ちろちろと覗く二俣に分かれた舌が獲物を捉えていた。

「してみろってんだよ!」

 一はアイギスを広げて身を防ぐ。降下してくる蛇の内、三匹を弾き返した。穴の空いた箇所からの侵入を試みた残り二匹はシルフの風に吹き飛ばされる。

「一さん、このまま戦っても!」

「いや、いける。シルフ、頼んだ」

「頼まれた!」

 (ごう)と、風が唸った。シルフは一を抱きすくめたままで高く飛び上がる。飛翔(エウリュアレ)は毛髪から蛇を生み出して、彼らを迎え撃った。

 シルフは向かってくる蛇を全て吹き飛ばして上昇していく。

「雑魚はどけどけーっ!」

「鬱陶しい風……」

 エウリュアレの真上を取った一は、アイギスを彼女の後頭部に振り下ろした。捻りのない攻撃をエウリュアレは苦もなく避ける。空中では踏張れず、バランスを崩した一の体が斜め下方向に流れてしまった。

「もう一度っ」

 エウリュアレの右腕を跳ね除けると、一は再びシルフの風によって上昇していく。

 戦える。

 対等に戦えているではないか。尚も笑みを堪えられずに笑う。

「一さん、まずいです!」

 ガーゴイルの悲鳴じみた声に、何事かと一の動きが止まった。

「ステンノが来ました!」

「あら、お姉さま」

 エウリュアレが怪しげに微笑むその先には、片目の潰れた、彼女に瓜二つの女がいる。

「やばいぞ、どうするのさニンゲン。追い付かれちまった」

 二対一では分が悪い。注意を引き付ける事には充分成功している。十全とはいかずとも、アイギスが使える事実も判明した。仕事ならとっくに終わっている。そう判断した一はガーゴイルに視線を向けた。

「シルフ、退くぞ」

 一の意図を察し、ガーゴイルは既にこの場からの逃走を図っている。

 エウリュアレはステンノを見つめたままだ。今の内にと、シルフは自らの両足に風を集め始める。

「あら」

「あら」

「どこへ行くのかしら」

「どこへ行くのかしら」

「あの子を連れて」

「駆け落ちかしら」

「それはとっても」

「素敵な事ね」

 まだ全開とはいかなかったが、シルフは今、この場から少しでも早く、少しでも遠くへの離脱を試みた。

「う、わっ」

 が、何かが絡み付くような感触に驚いて足がもつれてしまう。彼女の動きを封じたのはエウリュアレの撃ち出した蛇だったが、気付けたところでどうしようもない。中空で崩したバランスは中々立て直せず、シルフは地面に激突する寸前になってようやく体勢を整える。

 瞬間、シルフの集めた風が霧散した。いつの間にか接近していたステンノが彼女を殴り飛ばしたのである。

 同時に、支えと風の力を失った一も成す術なく転がっていった。

「シルフっ」

 一は顔だけを上げてシルフを呼ぶが、彼女の姿はどこにも見えず、返事すらなかった。

「あら」

「く、お、うあああっ!」

 他人の心配をしている暇はない。ステンノが倒れている一の顔を目掛けて緩やかな蹴りを放っている。彼はアイギスを広げられず、その強度だけに頼って咄嗟に前へと突き出した。気味の悪い音が鳴り、衝撃を殺し切れなかった一は背中から吹き飛ぶ。

 アイギスを手放すものかと歯を食い縛る。意識を手放したくても、コンクリートを転がる際の摩擦熱で脳は痛みを訴え、泣き叫ぶ。

「あら」

「あら」

「シルフ! シルフっ!」

 ここから逃れるには彼女の、風の力を借りるしかない。彼は何度も呼ぶのだが、シルフからの反応はなかった。

「ちっくしょう……」

 一は片膝を付き、肩で息を繰り返す。無茶をし過ぎたと悟ったが、そうしたところで体力は戻らない。ただ、ゴルゴンを強く見据えるのみだ。

 この場に留まって戦うしかない。今から背を向けて逃げたとして、捕まるのは自明の理なのだ。幸いにもガーゴイルはこの場を逃げ切ったらしい。人語を解する彼なら助けを求めるのも可能だろう。問題は、誰に助けを求めるのか、求められるような人物が駒台にいるのか、だ。来るかどうか定かではない助けを待つ。どちらにせよ、機動力のない自分ではここらが限界だ。一は深く息を吐き出して、アイギスを構える。ガーゴイルとは先程と立場が逆転してしまったが、彼は嘆かない。

「……シルフは、死んでない」

 勢いを増す雨に打たれ、一の体で濡れていない箇所はなかった。水を吸って重くなっている体で、足を大きく踏み出す。

「精霊だからな。あんたみたいな化け物に殺される筈はないんだ」

「あら?」

「あら?」

 空気が変わったのを感じ、ゴルゴンは首を傾げた。

「来るなら来いよ、化け物。俺が相手してやる。右か、左か、上か、下か、それとも正面か、後ろからか? 来いって言ってんだ。全部、防ぎ切ってみせるからよ」

 一とゴルゴンとの距離は二メートルあるかないか。ソレがその気になれば、一秒掛からず詰められる。

 しかし、動かない。ゴルゴンはまるで、石にでもされたかのように固まっているのだ。空気が変わった。変わっている。それは何も、ここに留まると、覚悟を決めた一が変えたものではない。ゴルゴンが彼に怯えているなど有り得ない。単純に、周囲が冷えているのだ。何かあると、そう見ていたのだろうか。それでもゴルゴンは足を踏み出す。

「――っ!」

「――っ!」

「よくもっ、やりやがったなあああっ!」

 風が憤っているかのように轟いた。一は耳を塞ぎ、目を瞑る。ゴルゴンに対して、真上から叩き付ける暴風が吹いていた。自然界の法則を無視しているようなそれは、風を操り、風を司り、風と共にあるシルフだから成し得る技である。一点に集中した風の勢いはもはや叩くでは生温い。対象を押し潰す勢いで吹き荒れ、歓喜に啼いている。

「ニンゲンっ、無事か!?」

 この音の中では何も答えられない。一はアイギスを握っている片手を上げて、返答の代わりとした。

 流石のゴルゴンも自由に動けない様子である。形を持たない風は先刻のガーゴイルとは違い、簡単には退けられないのだ。

「どうしたのさ蛇女! そんなんでシルフ様に喧嘩吹っかけたってのかよ!」

 俄然テンションの上がっているシルフ。高笑いが実に気持ち良さそうである。

 が、この状況がいつまで続くか分からない。風は防げない。返せない。ゴルゴンを地に縫い付けたままだ。しかし、それだけなのだ。ダメージは一切ない。時折、コンクリートの欠片がソレの体に当たるのだが、彼女らがそれを気にした素振りはない。

「ジリ貧だな」

 負けていない。死んでいない。一たちはゴルゴン相手に一歩も退いていない。一方で、勝てない。殺せない。一歩も退かせられない。決定打がないのだ。ソレを打倒し得る一手がない。

「……やるしかないんだろうけど」

「ほらほらニンゲンっ、ぼさっとしてないでオマエも手伝えよ!」

 暴風へ突っ込めと一には聞こえた。しかし、そうでもしなければゴルゴンに痛手を与えられないのではと思い、溜め息を吐く。

「手、か」

 本当に、無力だ。

 勤務外はソレに対抗出来る。打倒し得る。筈なのだ。その筈なのに、やはり、自分一人ではどうしようもない。現に、こうしてシルフやガーゴイルが助けてくれなければ、とっくに死んでいた。殺されていた。

「……?」

 ちかちかと、向こうの闇に映るものがある。

 それは、光だ。光が見えた。

 一が捉えたのは、濡れた路面だと言うのに構わず走る無骨なシルエットである。見覚えのあるそれは爆音を引き連れ、雨と風を切り裂いてこちらに向かってきていた。

「シルフっ、ギリギリまでそいつらを止めるんだ!」

「ぎっ、ギリギリって……?」

 シルフが呟く。その一瞬間後、ワゴン車がゴルゴンを吹き飛ばしていた。

 と言うか思い切り、これでもかと言わんばかりに轢いていた。高速で接近する鉄の塊は、多少なりとも効果があったらしい。ゴルゴンは地面を転がっていき、転がり終わった後も動けないでいる。

「一君、無事ですか?」

 ボンネットが凹んだ事に顔をしかめながら、眼鏡を掛けた優男、堀が運転席から降りて来た。見られないと思っていた顔だけに、堀と対面した一は胸を撫で下ろす。

「ええ、何とか、と言った具合ですけれど」

「命があるなら充分でしょう。……ガーゴイルは先に街の方へ行っています。一君たちも急いでください」

「あの、堀さんがどうして?」

「……ガーゴイルを見掛けましてね」

「は、い?」

 何もありません、と。そう言い切り、堀は車の中から槍を一本持ってくる。

「それより、一君はどうしてこんなところにいるんですか」

「いや、その、実は図書館に」

「図書館? ああ、いえ、なるほど。一君には何か策があるんですね?」

「模索中だったり、します」

 一はえへへと苦笑い。堀はやれやれと、髪の毛を掻いて溜め息を吐いた。

「ちょっとずつ分かり掛けてはいるんですけどね。堀さん、北の英雄について何か心当たりはありませんか?」

「北の……?」

 堀はゴルゴンが倒れているのを確認してから、眼鏡の位置を指で押し上げる。

「イリヤ・ムーロミェツ……いや、違いますか」

「とある人から言われたんです。北の英雄に会えって。それで本当にどうにかなるとは限らないですけど、けど、もうそれしか……」

「一君は、その言葉を――――その人を信じているんですね?」

 一は逡巡する。それでも、はっきりと頷いた。

「では、街に戻ってください。少なくとも、それまでは私がアレを受け持ちます」

「一人で、ですか?」

「ご心配なく」

 堀は慣れた手つきで槍を振り回す。彼は穂先をゴルゴンに向けて、にこやかな笑みを浮かべた。

「こう見えても私、強いんですよ」

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