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24時間戦う人たち  作者: 竹内すくね
ゴルゴン
162/328

Come on, monster



 九十九からタオルを借り、シルフとガーゴイルの体を拭ってやり、図書館に入ったところで一は気付いた。どうして明かりが点いていたのだろう。どうして九十九がいたのだろう、と。

「開いているとは、正直思ってなかったんですけどね」

 その言葉を聞いて九十九は笑う。

「許可なく踏み入るつもりだったか?」

「事後承諾ってホントにドキドキしますよね」

「たわけが」

「それより、先生こそこんな時間にどうして……」

 一が言い掛けた時、室内だと言うのに彼のすぐ傍を一陣の風が吹き抜けた。

「すっげー! 本がいっぱいじゃん! 漫画ないの!? 漫画!?」

「し、シルフさん、勝手に飛び回っては……」

 シルフが階段を使わずに二階まで飛んでいく。そのすぐ後をガーゴイルが追い掛けていった。

「……すいません」

「気にする事はない。が、しまったな」

「しまった?」

 一拍置いて、

「きゃあああああああああああああああっ!?」

 女性の悲鳴が館内にこだまする。九十九は禿頭をぽりぽりと指で掻き、困った風な顔を見せた。

「紹介が遅れてしまったな。上には司書の公口がいる。実は、私たちは調べものをしていたんだが」

「あー……」

「仕方ない。一服したかったのだが後回しだな」

 公口にとっては今までにない緊急事態だろうに、九十九は落ち着いた様子で階段を一段ずつ上っていく。

「戦前生まれはすげえわ」

 一は呟き、九十九の背を追った。



「紹介しよう。一、彼女は公口由梨。うちの職員で、司書をやってもらっている」

「あ、えっと、どうも」

 一はとりあえず頭を下げる。

「こっ、こちら、こそ? あの、公口です。ええと、一君、だよね?」

 一は改めて公口を見遣ったが、髪の毛はぼさぼさ。眼鏡の下には大きな隈が出来ている。以前にも何度か見た事がある黄衣の先輩だ。厳しそうで、怖い司書。しかし、今は見る影もない。彼女は疲れを隠し切れず、ソレに遭った驚きを隠し切れず、人見知りの童女のようにおどおどとしていた。

「ええ、何度かお世話になっていたと思います」

「あ、ああっ、ええと、あの時は怒鳴っちゃってごめんなさい」

「いや、悪いのは俺と黄衣ですから」

 と、言い終わってから気付いてしまう。今この場で、つくも図書館の面々に対しての黄衣はタブーなのではないか。一は九十九の様子を盗み見るが、彼は表情一つ変えずに目を瞑ったままである。

「うーん? なーに黙り合ってんのさ。それよりさ、ダメニンゲン。漫画ないの、漫画?」

「ダ、メ……? え、それって、もしかして私の事?」

 シルフに指差された公口が、改めて自身を指差した。

「見た感じそれっぽいじゃん」

「…………漫画なら、後で読ませてあげる」

 公口が溜め息を吐いて顔を伏せる。

「えー? 今で良いじゃん良いじゃん」

「シルフ、ちょっと黙っててくれないか」

「はーっ!? なんだよ良いじゃん、バカ。ケチ。バカ」

 見かねた一が助け舟を出した。シルフは膨れっ面を大いに見せ付けてから天井付近に陣取る。

「ねえ、アレって、本当に精霊なの?」

「ええ、まあ」

「ふうん。案外普通って言うか、人間っぽいのね」

 公口はぼんやりとシルフを眺めていた。一にとっては、実に有難い展開である。正直な話、人間の子供らしい外見のシルフはともかく、ガーゴイルを見た彼女が錯乱しないか心配だったのだ。シルフとガーゴイルが人を襲わないと分かっている者ならばともかく、一般人の公口にとっては、ソレを間近で目にするなんて経験は初めてだったに違いないだろうから。

「ふむ。全員の紹介は済んだか。……公口、茶でも煎れてきてはくれないか?」

「あ、はい、分かりました。えっと、皆さん何かリクエストはあります?」

「シルフ様コーラが良い!」

 いの一番にシルフが発言するが、公口は苦笑いで返していた。

「わたしは結構です。像ですから」

「は、はあ……。一君は?」

「俺は何でも良いですよ」

「分かりました。それじゃあ、少し待っててくださいね」

 九十九は公口が階段を下りていくのを確認すると、重々しく口を開く。

「調べものをしていたと言ったな。アレはな、黄衣を襲った者の事についてだ」

 やはりそうだったか、と。一は内心で得心し、話の続きを待つ。

「うちの職員が襲われた。目には目を、と言う話ではないが、犯人ぐらいは割り出したいと思ってな。しかし……」

「犯人は、人間ではないのかもしれない、ですか」

「その通りだ。だからこそ、警察に頼らずここで、自分たちで調べている。黄衣も以前は命をやり取りする場に身を置いていた者だ。並の人間では彼女に傷を付ける事すら難しいだろう。それに、だ。一、どうやら、お前たちも手酷く痛め付けられてしまったらしいな」

 どうして知っているのか、とは問わない。目の前の男ならば、自分のほくろの位置を全て言い当ててもおかしくはないと一は思っている。

「お前が何をやっているのか、何者なのかなどとは問うまい。だが、正直私の方も手詰まりでな。実際に出遭った者の口から聞いておきたい。糸口のようなものさえ欲しいのが現状だ」

 勤務外を病院送りにしたモノについて、勤務外の口から聞きたい。直接的ではないが、九十九は一にそう聞いている。

 ばれてしまったか。あるいは、とっくにばれていたか、だ。一は頭を掻き、天井を見上げた。

「申し訳ないですけど、そいつの正体については一切分かってないんです。出来る事なら、俺が知りたいぐらいですよ」

「……それは、部外者の私には話せないという意味か?」

 見えない何かが肩にずしりと圧し掛かった。そんな気がして、一は首の骨を鳴らす。

「違います。第一、先生は勤務外について勘違いしていますね。ぶっちゃけてしまえば、あいつら(・・・・)はただのコンビニのアルバイト店員なんですよ。下っ端の下っ端。現場の人間には最低限の情報しか与えられないってのが本当のところです」

「ふ、そうか。仕方あるまい。ただし、何か分かったら私にも教えろ。良いな? それから、ぶっちゃけは止めろ」

「……はい」

 何も解決していないのだが、一は安心した。黄衣には帰られる場所がある。ちゃんと心配されているのだ。

「では、そちらの番だな」

「はい?」

「用事もなく、こんな時間に、こんな辺鄙な場所に来る者がいるか。一、お前は何を求めて図書館にやって来たのだ」

「それは……」

 ここに来て一は迷う。巻き込みたくない。しかし、巻き込もうとしたのは自分なのだ。悪い癖だとは思いつつも、彼は心の中で答えの出ない自問自答を繰り返す。

「一、私たちの事なら気にするな。自分の身ぐらい、自分で守る。お前が気にするような事は一つもない。第一、そうしないと駒台が危ないのではないか、んん?」

「……です、か。うん、そうですね。実は、蛇の怪物について知りたいんです。それも、双子の蛇について」

「双子の蛇か。一、一応聞いておくのだが、これはまた別件のソレなのか?」

「ええ、別件です。その、残念ながら」

 九十九は額に手を当てて唸った。

「う、すまん。今はどうしても気になってしまってな。……話を戻すが、双子の蛇、蛇か。蛇だけならば思い当たるモノは、あり過ぎるくらいなんだがな」

「あり過ぎるくらい、ですか」

「蛇と言うのはな……」

 多分、この話は長い。そう思った一は、

「あ、蛇が神聖視されている事についてなら、以前黄衣から聞きましたよ」

 勇気を振り絞った。

「……そうか。ならば説明を省くが、蛇の怪物は多い。それこそ枚挙に暇がない。清姫、やまたのおろち、ヨルムンガンド、バジリスク、エキドナ、ウロボロス、七歩蛇、ククルカン、ラミア、虹蛇、ああ、沼御前もいたか。それに……」

「ええと、数が多いのは分かりました。けど、双子って言うと……」

 九十九は再び唸る。

「アンフィスバエナと呼ばれる怪物がいる。ギリシャ語で両方を意味するアンフィス。行くを意味するバイネインを組み合わせたのが名前の由来だ。体の両端に蛇、竜のような頭が二つ付いている。近いのはこれぐらいしか思い付かんな」

 近いが、遠い。一が遭ったそれは蛇の頭をしていたのでもなければ、竜の体を持っていたのでもない。彼女らは人間の形をしていたのである。

「具体的に言うと、蛇のような双子、かもしれませんね」

「ふむ。そうだな、少し調べてみようか。……その前に一息入れてはどうだ?」

 九十九の視線の先を追うと、危なっかしい足取りでトレイを運んでくる公口が見えた。

「図書館は飲食禁止なのだが、館長の私が率先して茶を欲しがったのだから良かろう。何、気後れする事はない。アダムとイヴの林檎然り、禁忌と言うのは実に美味いものだと思うぞ」

「皆さん、お待たせしましたー」

「……高そうな皿ですね」

 机の上に置かれたカップとソーサーを見て、一はぼんやりと呟いてしまう。

「ふふっ、高そうじゃなくて、高いのよ、それ」

「あ、はは、そ、ですか」

 恥ずかしくなって目を逸らした。一は紅茶の香りを楽しもうともせず、一息で飲み干す。体が温まったのは、紅茶のせいではない筈だと思った。

「し、シルフ君? それとも、シルフちゃん?」

「うーん、別にどっちでも良いよ。それよりダメニンゲン、それ、コーラじゃないぞ」

「えーと、コーチャ?」

「言い方だろそれ! もう良いよ! 何かそれもおいしそうだし!」

 公口はどうやらシルフが苦手らしい。本当なら弛緩出来るような状況ではないのだろうが、他愛もない事を考え、一は少しだけ余裕を持てた気がした。

「はい、あなたもどうぞ」

「……?」

 差し出されたカップを見てガーゴイルは首を捻る。

「わたしは飲めないのですが」

「気分、気分。ほら、一人だけ用意しないって言うのも嫌じゃない。ここに置いとくから、そうね、飲んだ気分だけでも味わってちょうだい」

「……ありがとうございます」

 微笑み、公口は席に座った。彼女が紅茶を一口飲んだのを確認してから、一は口を開く。

「あの、公口さん」

「ん、何かな?」

「双子の蛇について何か知りませんか? もしくは、蛇のような双子、とか」

「んんん?」

 何を聞いているのか判然としない質問だとは一も分かっていた。それでも、公口は何か考えていてくれているようである。

 しばらくして、

「ゴルゴン、じゃないかしら」

 ぽつりと、彼女は呟いた。

「ゴルゴン……?」

「ええ、ギリシャ神話に登場する、三姉妹から成る魔物よ。長女のステンノ、次女のエウリュアレ、三女のメドゥーサ。グライアイ三姉妹の姉に当たり、毒牙を持ち、髪の毛の代わりに頭からは蛇が生えているって怪物」

 ――――メドゥーサ……!

「うん、流石にゴルゴンは有名だからね、知っていたかしら。ただ、ホメロスのオデュッセイアではゴルゴンは下界の魔物とされ、ヘシオドスの神統記では海神の娘たちとされているの」

「作品によって全く違うモノになっているんですね」

「最終的には神統記のゴルゴンも魔物になっちゃうんだけどね。姉妹の三女、メドゥーサが『私の髪は女神よりも美しい』なんて言っちゃうもんだから、オリュンポス十二神のアテナによって醜い魔物に姿を変えられてしまったの」

「ふむ、博識だな公口。だが一が探しているのは双子の蛇。蛇のような双子であって三姉妹ではないぞ」

 九十九の指摘を受け、公口は顎に指を置く。

「そもそも、その前提が間違っているかもしれないですね。一君が見たのは双子ではなく、二人だった。本当は三人なんだけど一人足りていなかった、とか」


『会いたい』


「双子ではなく三姉妹。ならば、ゴルゴンは一の探しているソレに当てはまるか」

 多分、いや、確実にそいつなのだと、一は直観的に理解した。

「公口さん、ゴルゴンについてもっと教えてくれませんか?」

「良いけど、良いのかな?」

 公口はシルフとガーゴイルを見遣る。

「あー、シルフならもう寝てます」

「あ、そう?」

「わたしについてもどうかお気になさらず。退屈だからではなく、口を挟もうと思えないくらいに興味深い話でしたから」

「そっ、そう? じゃあ、お姉さんもうちょっと頑張っちゃおうかな」

 ソレに煽てられて喜ぶ女がいた。

「……えーと、まず長女のステンノなんだけど。彼女の名前の由来は『強い女』。力をイメージしているんだと思う。次女のエウリュアレは『広く彷徨う』ね。長女と次女に関して私が教えられる事はこれぐらい。けど、メドゥーサは凄いわよ」

「凄い、ですか」

「そりゃ、超有名だからね。一君だってそこそこは知っているんじゃないの?」

「いや、俺はそういうのに疎くて」

「え、そうなの?」

 公口は思わず九十九に視線を遣った。彼は咳払いを一つ。

「公口、君が詳し過ぎる。まあ、助けにはなるだろう。その調子で頼む。私は、当分の間黙っているとしよう」

「は、はいっ、任されました。それじゃあ一君、どんな事が知りたい?」

 そう聞かれても、一はメドゥーサについて名前程度しか把握していないのである。

「任せます。どんな事でも構わないので」

「うーん、それじゃあ、まずはメドゥーサの名前、その由来についてからだね。実はね、メドゥーサはギリシャ神話に組み込まれる前、その前身となったモノがあるの」

 公口はこほんと喉の調子を整える。

「メドゥーサの語源は『女王』、『女支配者』って感じね。大抵の人が知っているメドゥーサは怪物だけど、ギリシャ神話に組み込まれるまでは神様として、ええと、地母神って言うんだけどね。ギリシャの先住民族に崇められていたの」

「神様、だったんですか?」

「神話って遠い遠い昔から、色んな人たちが作ってきたからね。齟齬とか矛盾とか、色々と出来てしまうものなんだと思うわ」

 一は足元のアイギスに目を向けた。何度も助けられたのに、その相手の事を知らないのは不実なのだと思い直す。

「それでね、メドゥーサってのは一言では言い表せないぐらい複雑な神様だったのよ。色々と語りたいって部分はあるんだけど、えーと、時間はなさそうだよね。うん、とにかくすごい神様だったの」

「……はあ」

「古代の人にとって蛇とは再生であったり、女性であったり、海を象徴していたの。ほら、何度も脱皮するでしょ? アレが昔の人には意味が分からなかったんじゃないのかな。だから蛇は、再生、不死、季節が循環していくってのを表す生き物になってたんだと思う。それがまた大地や地下と結び付く。不死の象徴ってのが今度は女性と関係してくるの」

「へえ、どうしてですか?」

「ほら、け、経血。不死ってところがアレとちょっと似てるの。傷もないし、痛みもないのに血が出るし、月の満ち欠けと同時進行するから、あ、はは、男の人たちにとっては怖かったんじゃないのかな。そ、それでね、ここからがメドゥーサが怪物になる重要なところなんだけど」

 流石黄衣の先輩と言うところか、公口は淀みなく、説明するのが楽しくて仕方ないと言った様子で話を続けていた。一は感心、納得し、ここに来て良かったかもしれないと改めて思う。

「メドゥーサはアテナの怒りを買ったから怪物に変えられたんじゃないの。噛み砕いて言えば、ギリシャ人がメドゥーサを怪物に変えてしまったのよ」

「人が、メドゥーサを?」

「ええ。先住民たちは、後から来たギリシャ人によって飲み込まれてしまったの。それは人だけではなく、土地も、文化も、信仰していた対象だって例外ではなかったわ。それまで世界は聖なる母、女神から誕生していたんだけど、ギリシャの父権制が始まる事によって状況は一変するの。父権制ってのは、言っちゃえばザ・男尊女卑の社会ね。そんな社会、世界になっちゃうと、メドゥーサの立場はどうなると思う?」

 黄衣ナコト。九十九敬太郎。公口由梨。つくも図書館の面々には、正直言って勝てないと一は気付いた。この面子とは相性が悪過ぎるだろ、と。

「えーと……」

「少し難しかったかな? メドゥーサは、言わば女性の知恵と力を象徴するものだったのに、男性社会になってしまったら、彼女の存在はちょっとズレてるよね。実際、メドゥーサを奉ったモノは殆ど壊され、汚され、切り開かれてしまったわ」

「だから、怪物にしたんですか」

「……古代の宗教には特徴があってね、新しい信者を取り込めるように、その土地の、えーと、土着信仰を取り入れるのが当たり前だったの。やっぱり、メドゥーサほど大きな存在のモノを簡単に失くす訳にはいかなかったのね」

 元々、メドゥーサは神であった。その土地に住む住人の変化、権力の推移。様々な要因が絡み合い、彼女は神の座から落ちた。髪の毛を掴まれ、叩き落とされたのだ。

「でも、メドゥーサをそのまま神として扱うのは難しかった。ほら、ギリシャ神話には他にもたくさんいるでしょ。ヘラとか、アルテミス、アテナ。有り体に言えば、メドゥーサとは被っちゃうんだよね。でも、その名は残したい。だから、メドゥーサは怪物になった。怪物として、ギリシャ神話に組み入れられてしまったの。メドゥーサだけじゃないわ。エキドナ、スフィンクス、パイア、デルピュネ、キマイラ、スキュラ、セイレーン、ハーピー、ラミア……ね、ギリシャの怪物には女性が多いでしょ? 男性が女性を支配する。その為には男の英雄と女の怪物を用意して、分かりやすく『どうだ、男の方が強いだろ。女は黙って支配されるのだー』って言いたかったのよ」

 何故だか、一は男である事に申し訳なくなってしまった。

「極め付けはメドゥーサの討伐ね。彼女は首を狩られ、殺された。メドゥーサほどの存在が英雄的存在の男性に殺害される事で、男性が全女性を支配、屈服させたのを示したのね。……こんなところかしら。どう、少しは参考になったかな?」

「参考になり過ぎて、ちょっと頭が付いていかないって言うか……」

「ちょっと熱が入っちゃったかも。ごめんね、最近はこういうのに凝ってるんだ。あ、何か聞いておきたい事、あるかな?」

「……それじゃあ、メドゥーサを殺したって英雄について聞かせてもらえますか?」

「うん、お安い御用だよ。えっとね――」

 公口が話を始めた瞬間、先ほどまで目を瞑り、微動だにしなかったシルフが跳ね起きる。

「う、え、え?」

「シルフ、急にどうしたんだよ?」

 シルフは窓の外を見遣り、不安げな表情を浮かべた。

「風が、嫌な感じになった」

「……風? おいシルフ、意味分かんない事言ってないで……」

 一は立ち上がり、何の気なしにアイギスを拾い上げる。

 刹那、ここにいてはいけないと気付いた。アイギスが鳴いている。メドゥーサが呼んでいるのだ。

「二人ともどうしたと言うんだ。一、座れ。事情を説明しろ」

 まともに説明している時間などない。

「先生たちは隠れててください」

「え、一君どうしたの?」

「ソレが来ます」

 シルフとガーゴイルは既に階下へと降り立っていた。一も後を追うが、彼の肩を九十九が掴む。

「このタイミング、計っていたとしか思えんな。メドゥーサか?」

「その姉ちゃんですよ。先生、絶対に出てこないでください。俺たちが引き付けて、どこかに誘導します」

 だから、早く行かせて欲しい。ソレを連れてきてしまったのは一の、彼の持つアイギスなのだから。

「……公口、館長室へ行くぞ。あそこの扉は厚くしてある。何かあってもしばらくは持ち堪えられる筈だ」

 ソレ相手では何の気休めにもならない。公口だってそれぐらいは理解している。しかし、彼女はただ頷き、階段を下りる前に一を見て、頭を下げた。

「一、勝算はあるのか?」

「ソレを倒す勝算ですか?」

「違う。五体満足で生還出来るかどうかだ。……怪我でもしてこれ以上欠席すれば、確実に落第だぞ」

 一は階段を下り始め、九十九もその後を追った。

「逃げるだけですから、心配ないですよ」

 言ってやりたかった。怒鳴り散らしてやりたかった。何も知らない部外者が口を出すんじゃない、と。ソレとの戦いに赴く中で、勝算があった例など一度だってなかった。絶対など信じられず、偶然にだけ助けられてきたのである。

「ふむ、気を付けると良い。外は雨が降っている。滑るなよ」

「……先生こそ」

 だが、満足な礼も出来なかった。巻き込んでしまった事に対して、詫びすら入れられなかった。だから、必ず戻ってこようと思う。握ったアイギスは妙に軽くて、しかしそれを恐ろしいとは感じなかった。



「行っちゃいましたね」

「慌ただしい事だ。若さと勢い、やはり私は老いてしまったようだな」

 明かりの落ちたつくも図書館。九十九たちは館長室にこもり、スタンドライトの僅かな照明だけを頼りに紅茶を飲んでいた。

「あの、館長。私たちも外に逃げた方が良い気がするんですけど」

「公口、こういった場面ではな、策もなく、案もなく、恐怖に駆られて下手に動いた者から死ぬ。果報は寝て待て。待てば海路の日和ありとも言うだろう」

「先手必勝だとも言いますが」

「ぬうう、口が減らなくなってきたな。黄衣の影響か?」

「かもしれないですね。……彼、大丈夫でしょうか」

 公口はカップを取ろうとしたが諦めてしまう。手が震えてしまい、しっかりと握れなかったのだ。

「無論だ。私たちが死ねば黄衣の居場所はなくなってしまう。が、一が死んでも黄衣は居場所を失う。ならば、我々が死ぬ道理はなかろう」

「でも、現れたソレが本当にゴルゴンだったら……そんな怪物をどうにかするなんて考えられないです」

「信じるしかあるまい。一は、ああやってソレをどうにかして来た筈だ。生き抜き、勝ち抜き、ここにいた。何も知らない我々が口を挟むべき問題ではなかったのだろう」

 九十九は平然とした様子で茶を飲んでいる。いつもと変わらぬ上司の様子を見て、公口も少しずつ落ち着きを取り戻し始めた。

「蛇、か。確か、一はメドゥーサの首を刈ったモノを聞こうとしていたな」

「あ、はい。一君は何か思い付いていたのでしょうか」

「あるいは何かを思い付く為に尋ねたか、だ。ふむ、折角の機会だ。公口、蛇の女王を殺し切った英雄について聞かせてもらおうか」

「わっ、私が館長に、ですか?」

「私とて森羅万象を知り尽くしている訳ではない。君のような若者から教えられる事は広大無辺だ。知恵を授けてはくれんか」

 若者。その言を確認した途端、公口の頬がだらしなく緩む。

「えっとですね、メドゥーサの首刈りと言うのは……」

「そこは先程も聞いた。……そうだな、英雄英雄と言っておったが、彼の名を教えてもらおうか。ふむ、私でも知っている名前かね?」

「勿論です。名前だけなら誰だって知っていると思いますよ。見たものを石に変えてしまう邪眼を有する怪物。その首を刈るのは何よりも困難で、誰よりも勇敢な者にしか勤まりません」

 公口はカップを手に取り、窓の外に目を向けた。

「メドゥーサを討伐した英雄の名は、ペルセウス。ほら、星座の名前になっていますから」

「ペルセウス、か。そうか、なるほどな。よもや一が英雄になれるとは思えんが……」

「……どうして、英雄はいないんでしょう。世界にはこんなにも、あんなにも怪物がいると言うのに」

 九十九は、その問いに答える事が出来なかった。

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