I Need Somebody
時間が経つにつれ、雨はやがて篠突くようなものに変わっていく。
「なあ! なあ!」
「なんですか?」
「聞こえないってばもっとはっきりおっきな声で話してくれよう!」
「はあ……」
こんな雨では会話すらままならない。ガーゴイルは暴れ回るシルフを横目に、雲の流れを見つめていた。
「雨は、上がりそうにありませんね」
「えーっ!? なんか言ったか? なんか言ったのか?」
明けない夜はない。止まない雨はない。だが、人の心はどうなるのだろう。時の経過は傷を癒す。傷を負った事件を忘れさせる。しかし傷を負ったと言う事実が消える事はない。癒され、忘れたところで消えはしない。いつまでも残り続けるのだ。
「……どう、転びますかね」
「だーかーらーっ!」
仮眠室の扉が開いた。店長は様子を窺う事もせず、悠然として煙草に火を点ける。
「店長」
「話なら……」
「五分だけ寝ました」
店長はゆっくりと煙を吐く。屁理屈をこねられるのは好きではない。が、駄々をこねられるよりよっぽど可愛らしいと感じた。
「楽しい話ではなさそうだが、聞こうか」
「辞めます」
「即答だな。そんなに私が嫌いか」
一は眉根を寄せ、店長を睨み付ける。
「ええ。でも、それ以上に俺は死ぬのが嫌いです。戦うのも、苦しい目に遭うのも嫌いなんです」
「好き好んでいる人間はいないだろうがな」
「……嘘を吐きましたね」
「何……?」
思わず噴出してしまいそうになるのを堪え、店長は驚いた風に声を出した。
「何が様子見ですか。あなたは、俺を殺すつもりだったんですか?」
「まさか」
「ソレが、いたんですよ? 俺は本当なら死んでた」
だろうな、と。店長は同意する。シルフとガーゴイルがいなければ一は確実に死んでいただろう。
「ソレはどうなった?」
「知りませんよっ」
自分の問い掛けを無視され、一は声を荒らげた。
「ならば、お前はソレを無視し、逃走した。そう捉えても良いんだな」
「勝手にしたらどうですか。あなたはいつだってそうしてきた筈だ」
「いつだって、とは、まるで私の伴侶のような口振りだな。驕った口を利くのは良いが、忘れてはいないだろうな」
「何を?」
店長は煙草の煙を一に吹き掛ける。彼が目を瞑って咳き込んだ隙を見計らい、襟元を掴んで壁に叩き付けた。一の瞳を覗き込むと、驚愕から恐怖、そして、憤怒へと変化していく様子が見て取れた。
「お前は一体何様のつもりだ。忘れるなよ、お前ら勤務外は金をもらって化け物を殺す人外でしかない。人を外れない為に化生を殺し、人でい続ける為に異形と対峙する異常者だ。お前ら勤務外は、私たちのお陰で生きていられる」
「あんたは……っ!」
壁に押し付けられたままの状態で一が手を伸ばす。店長はその手を見送り、自らの襟元を差し出してやった。
「様子見をしろと言ったのは事実だ。だが、その後の行動は全てお前の責任だと知れ。お前の尻を拭く者は、お前以外にはこの世に存在しないと理解しろ。てめえのミスを私に押し付けるなと言っている」
「俺に、俺にどうしろって言うんだ! 分かってただろうがっ、俺にはもうアイギスはないんだぞ!? どうやってソレとやり合えってんだ!」
「武器を渡したぞ」
「あんなもん使えるかよ!」
「は、だろうな」
制服を破かんばかりの勢いで一が力を込める。
「……ぶっ殺してやる」
「無駄だ。そうやって脅しても、お前に人を殺した経験がない限り、全くの無駄だ。犬が吠えているのと何も変わらんぞ」
「今じゃなくても良い。いつか必ず、殺してやる」
「……ああ、想像しただけでゾクゾクするよ」
店長は一から手を離し、彼もまた、彼女から手を離した。
「だが、その為にはお前は生き延びねばならんな。さて、どうする? ソレを無視するか? 生きる為に、他の命を犠牲にするか?」
一は押し黙る。彼は他人より、少しばかり賢しいが為に、少しばかり空気を読めるが為に、己に課せられた役割を理解していた。
「俺がどうすれば良いのか、あなたは知っているんでしょうね」
「お前がどうしたいのかなら知っている。だが、教えん。そして何より、お前は私の教えを請わない」
「……シルフとガーゴイルは?」
「外にいる。そうだな、まずは礼でも言ってみたらどうだ。こんなお前でも助けてくれたんだからな」
店長は椅子に座り、一を外へ行くように促す。彼はこれ以上この場に留まりたくなかったのか、
「そうします」
短く答え、バックルームを後にした。
どうしたいのか。どうなりたいのか。
答えはとっくに出ている。腹ならば、もう括れている。
「……ガーゴイル?」
外は酷い雨だった。ただでさえ少ない客足も遠のいている事だろうと、一は溜め息を吐く。
バックルームから持ち出した傘を差し、屋根を見上げてみると、そこには同じく傘を差したガーゴイルと、
「お、おう! もう体は大丈夫なのかニンゲン!」
嬉しそうにこちらへ飛び寄ってくるシルフが見えた。
「うん。ありがとうな」
「ま、お前が死んだらお菓子もらえなくなっちゃうからな。良いか、シルフ様はお前みたいな奴を心配したんじゃないぞ。お菓子の心配をしてお前を助けてやったんだからな!」
「分かってるよ。ガーゴイルも、ありがとう。本当、助かった」
「お気になさらずに」
ガーゴイルは傘を手放さないように気を付けながら、一の傍に降り立つ。
「本当に体の調子は?」
「ああ、問題ないよ」
問題があるのは、体ではないのだから。
「では一さん、これからどうするのか、何か考えていますか?」
「これから、ね」
考える事は、考えなくてはならない事は色々とある。だが、ガーゴイルが指しているのはただ一つ。先ほど接触したソレに関してについて、だろう。
「正直、逃げ出したいよ」
「でしょうね。しかし、あなたはそうしないのだとわたしは見ていますよ」
「……は、はっはっは。はあ」
一は溜め息を吐いた後、空を睨んだ。
「相手の正体が知りたいな」
「ほう、正体ですか」
ソレの正体を知ったところで、今の一にとって大した意味はない。アイギスを失った彼が敵の情報を得たところで何かに活かせるとは限らない。
「店長は蛇だとか言ってたっけ」
それでも、出来る事はこれぐらいしか思い付かないのだ。
「それも双子。双子の蛇ではないかと見ます」
「ガーゴイル、心当たりはないか?」
「いえ、何も思い付きませんね。もっと別の視点からの意見があれば、あるいは……」
一はシルフを見遣るが、溜め息を吐くだけに留まる。精霊とはいえ、所詮は風の精霊。気紛れで、子供っぽく飽きっぽい。シルフには期待しないでおこうと判断した。
「一さんはアレをどうにかしたいのでしょう。なら、その為には準備が必要な筈だと見ます」
武器もない。知識もない。自分以外の戦力もない。
「……もう一つ、心当たりがあった」
だが、一は受け取っている。彼は確かに知っていた。
「北の英雄だ」
地下深く、塵と荒野の闇の中、そこに住まう女からの言葉を。
雨は止むどころか、勢いが強くなってきていた。弾く、と言うよりかはむしろ穿つような鋭さで一の傘に突き刺さる。
「この雨だ、まともに打たれりゃ目上の人間に殺すだなんて抜かすスッカスカな頭も冷えるだろう」
「もう冷えてますよ」
一は店長の嫌味を受け流し、皮肉っぽく笑ってみせる。
「何も持っていかないのか?」
「え?」
一が持つのは穴の空いた傘と、本当にただのビニール傘。傘が二つ。それだけである。それ以外には何も、何もない。
「立花の刀はまだあるが」
「ああ、あんなんじゃ駄目なんです。ただの付け焼き刃にもならない。良く分かりましたよ。俺には結局のところ、これしかないんです」
「使えるかどうかも分からんのにか。いや、しかし戦場では使い慣れた武具が物を言うのかもな」
使った。触った。握った。広げた。拾った。頼った。
一はぐっと力を込める。掴んだ柄は、刀のそれとは比べものにならないくらいにしっくりときていた。
「……北の英雄か。心当たりはあるのか? 残念だが、私にはない。英雄なんて呼ばれている奴なんか知らないぞ」
「俺にもありませんよ」
だが、彼女は言ったのだ。北の英雄に会えと。ならばここにいる筈だ。そして、アイギスはまだ壊れていない。否、壊れないとも。
生きている、生きている。
「でも、探します」
蛇は動く。刻限などない。約束など出来ようもない。彼女らはあるがままに人を喰らう。ならば、一刻を争う状況には違いない。望みは薄く、敵は強大だ。味方はなく、好材料は殆どない。
だが、生きている。
最後の勤務外、ソレに対する力は生きている。精一杯あがき、もがき、それでも軽く吹き飛ぶ紙のような存在が。
一切の音が掻き消されてしまいそうな雨の中、
「一さん」
悪魔じみた低い声が聞こえた。
一は立ち止まり、振り返る。
「ガーゴイル、どうしたんだよ?」
「お供しましょう。先程の蛇と戦うのでしたら、少しでも頭数が欲しいのでは、と見ます」
「……いや、でもな」
気持ちは嬉しかった。不安に押し潰されそうで、恐怖から逃げ出してしまいそうで、背負ったものを分け合えるのならばと、そう思った。
「わたしに戦闘能力はありません」
言わんとした事をその当人に取られてしまい、一は黙り込む。全く、その通りだった。ガーゴイルは悪魔を模した姿をしているが、中身はまるで聖人とも言うべき穏やかさで、彼が苛烈に戦う場面など、とてもではないが想像出来ない。
「しかし、一さんの盾にはなれると見ます。こう見えてわたしは頑丈に作られていますからね」
「……第三者でいるんじゃあなかったのか?」
ガーゴイルは見上げる。空を、雲を、雨を、その更に上を。
「いつものわたしなら、ここにいなかったのだろうと見ます。一さん、わたしが第三者でいられるのには色々と理由があるのです」
「理由?」
「わたしが表には出ない事が、です。わたし以外の何かを見るのがわたしですから。だから、第三者以外のモノがなくなってしまっては困るのです。何より、あなたのお陰なんですよ。あなたがいなければ、わたしはフリーランスにこの首を刎ねられていたと見ます」
まさか、ある意味自分以上の日和見主義から繰り出された台詞だとは思えず、一はしばし言葉をなくす。
「わたしはこの街が好きだと、そう見ていますから。今までタダで見せてもらっていたのです。だから、たまには体を張っても良いでしょう」
「……ま、そこまで言うなら、な。でも良いか、俺はお前が思ってるよりも弱いぞ。正直言っちまえば俺は自分以外を守れるとは思わねえからな。だから、やばくなったら勝手に逃げてくれ」
ガーゴイルは喉の奥で笑い、頷いた。
「ふーん、話はまとまったみたいだな。それじゃ行くぞっ、シルフ様に付いて来いっ」
水が中空で跳ね、風が緩やかに流れていく。一はつまらなさそうにそれを見つめた。
「なんだ、シルフもいたのか」
「なんだとはなんなのさ! シルフ様だって付いていくからなっ、第一、風のせーれー様はすごい強いぞ! 強いんだぞ!」
「……まあ、そうだけどなあ」
確かに、シルフは人の領域を軽々と越え、その遥か彼方に位置している存在である。自分よりも、ガーゴイルよりも高次の何かであるのには違いないのだが、どうにも信用しきれない部分もあった。が、四の五のわがままを言っている状況ではないのも確かではある。
「さっきも言ったけど、自分の事は自分で何とかしてくれよ」
「わーかってるってー。要はさ、さっきの奴らを吹っ飛ばしちゃえば良いんだろ? 任せろよニンゲン」
「は、任せたぞ精霊。じゃ、とりあえずは情報収集といこう」
一は歩き出すが、ガーゴイルは首を傾げて立ち止まったままである。
「行くとは?」
「考えたんだけど、図書館しかないな」
エレンがもう一度ヒントをくれるとは思えない。他の人間も皆病院で、余計な負担や心配を掛けたくなかった。しかし、一がぎりぎりの瀬戸際で唯一頼れる者が一人いる。
「俺の先生だ。つくも図書館まで行くぞ」
図書館は駒台の郊外に位置している。平時ならばバスを利用するのだが、今の時間では流石に動いていない。
「なあ、なあニンゲン。飛んでった方が早くないかあ?」
なので、徒歩である。シルフとガーゴイルは飛んだ方が早いと主張したのだが、一は反対した。夜間とは言え、人の目はどこにあるか分からない。目立ちたくなかった。材料がないままでソレに見つかりたくなかったのだ。
「道は何となく覚えてるけど、バスから見た景色だからなあ」
「ふむ。ではわたしたちが先に向かいましょうか。その上で一さんを誘導する。いかがでしょう?」
「そうだな……」
目立ちたくないと言うのなら、今ですら危うい。何せ動く悪魔の銅像と、宙に浮く子供を引き連れているのだから。
「頼む。けど、くれぐれも目立つなよ」
一が自分でも無理とは思う注文に、ガーゴイルは頷いた。
「図書館ってアレだろ。本がいっぱいあるところを見つければ良いんだな?」
「外からは見えねえよ」
「シルフ様にバンジー任せろっ、行くぞガーゴイル!」
風が吹き荒れ、シルフの周囲から雨が弾き出される。凄まじい速度で上方へと飛び出すと、あっという間にその姿は見えなくなった。
「追い付けますかね……」
「中身はガキだからな。しっかり手綱握っといてくれよ」
「その前に綱すら掛けられないと見ますが」
言いながら、ガーゴイルも翼を広げて飛び立った。残った一はゆっくりとした動作で歩き始める。
ソレが出現した。その知らせを堀が耳にしたのは、支部の仮眠室から数時間ぶりに出たところであった。彼は自分の持ち場である戦闘部へと戻る途中で話を聞き、その戦闘部にて顔見知りを見つけた瞬間、叫んでいた。
「藤原さん!」
「おーう、起きてきたのか」
「駒台にソレが現れたのは本当なんですか?」
堀に詰め寄られた不精髭で中年の男、藤原はたじろぎ、尚も迫る彼を手で制す。
「ああ、それも二匹だ。北駒台店には連絡を入れた筈って情報部が言っていたし、お前もそう聞いてるんじゃないのか」
「寝て、ましたから」
「……まあ、最近は忙しかったしな。気にするな、堀。お前の責任じゃない。つーか、誰かが負うべき責任なんてどこにもないんだよ」
藤原は書類や雑誌で散らかっているデスクに寝そべり、そのままの体勢で堀を手招きする。
「まあ、食えや。腹減ってるだろ? ん?」
「いえ。今はそれよりも、どうなっているかを教えてください」
「ああー? 先輩のポテチが食えないってのか」
堀はちらりと、藤原の太鼓腹を見遣った。逡巡して、彼が差し出したスナック菓子の袋に渋々と手を伸ばす。藤原は決して悪い人間ではないのだが、少しばかり押しが強いのと、少しばかり自分に甘い。そこが堀にとっては気に入らなくて、同時に、羨ましいとも思えた。
「どうだ、美味いか?」
「ええ、まあ」
愛想笑いもオンリーワンに来てから上手くなった。そう、堀は自覚している。
「そうかあ? 俺はこれ嫌いだわ。たこ焼き味なんて言ってるけどよ、見てみろよ裏。原材料にたこ入ってないんだぜ。ただのソース味のポテトチップスじゃねえかよ。お前味覚おかしいんじゃねえか?」
ただ、どこでどう笑えば良いのか。そして藤原に対してどう接すれば良いのかはまだ分からなかった。
「出現したソレと言うのは?」
「……かってえ野郎だな。あー、その、何だ。まだ分かっていないそうだ。けどよ、俺の読みじゃあ大物だな」
「大物、ですか」
「ああ、大物だ。こりゃあオフレコにしといて欲しいんだがよ、円卓じゃねえかって踏んでる奴もいるらしい」
円卓。その言葉を聞き、堀の背筋に嫌なものが走った。今、駒台にいる勤務外は一しかいない。幾らなんでも彼には荷が重過ぎる。そうでなくても一の生命線であるアイギスは今、不安定だ。もしも一とソレが出遭ってしまえば――。
「確証はあるのですか?」
「んなもんねえよ。俺もお前と一緒でフィーリングで動くからな。勘だよ、勘」
藤原はおどけて言うが、堀は彼の実力を認めている。ソレと戦うべく創立されたオンリーワン。ここはその第一線である戦闘部なのだ。伊達に勤まる筈もない。
「……なるほど、ありがとうございます」
杞憂かもしれない。だが、過ぎてしまっては遅いのだ。堀は藤原に頭を下げ、彼から背を向ける。
「おい、堀」
「なんですか?」
「北駒台はお前の担当だったな。確か、今は一ってガキしかいないんだっけか」
「……ええ」
分かっていて聞いているのだろう。気付いていて、引き止めているのだろう。
「やめとけ。相手がマジに円卓だったらどうするんだよ。それこそ、英雄でも連れてこないと勝ち目なんてねえぞ」
「英雄、ですか」
「あ? 何か俺変な事言ったか?」
「いえ。確かにそうですね、英雄と呼ばれるような存在でなければ、神話級のソレは殺し切れないでしょう。ですが、今、この世界に英雄はいません。違いますか?」
堀は振り向き、にこやかに笑う。
「違わないわな。じゃあ分かってんだろ。勤務外一人、高が知れてるじゃねえか。大体、今のご時世人間一人を助けたってしょうがねえぞ。何をしたって死んじまう奴は死んじまうし、何もしなくても図太く生き延びる奴だっていやがるんだからな」
「藤原さんは合理的なのかそうでないのか、分かりませんね」
「てめえ、そりゃ俺の腹ぁ見て言ってんのか? いや、言ったよな?」
「さあ? ……それでも放ってはおけない。そう言ったら、止めますか?」
藤原はスナック菓子を頬張り、ばりばりと音を立てて噛み砕いた。
「止めねえ。これ以上は面倒だしな。ま、頑張れや。精々死なないようにな。残された奴がケツ拭かなきゃいけねえんだからよ」
「恩に着ます」
「着るんじゃねえよ。あ、でも帰りに何か買って来いよな」
「たこ焼き味のスナック菓子でも構いませんか?」
「ふざけんじゃねえぞ!」
藤原の扱い方を覚えられたような気がして、堀は笑った。
足音も、呼吸する音も聞こえない。ただ、水の弾ける音だけが一の耳に届いていた。それ以外には何も聞こえず、その音に耳を傾けていると、次第に自分が雨と一緒になっていくかのような奇妙な一体感を覚え始める。
そうしている内、声が聞こえ始めた。外からではない。一の、自分自身の内から響く声である。自分から、自分ではないモノの声が聞こえる。気持ち悪いと言う感情があってもおかしくはないのだが、何故か彼はそう思わなかった。まるで昔からそうあるのが当たり前だったかのように、声は体の中に深深と染み渡っていく。
『会いたい』
何度も、何度だって繰り返される言葉。誰に会いたいのかと問うても、声はそれしかものを知らないのか、ひたすらに一を無視した。
『会いたい』
ならば会わせてやりたい。声がうるさいからではなく、一は本心からそうしてやりたいと思う。そうなれば良いのにと願う。
きっと、声の主には何度も助けられたのだろうから。これからも助けられるのだろうから、少しぐらいの恩を、それも自分のような人間に返せるようなものならば、返してやりたい。
「一さん、見つけましたよ」
「……ん、あ、ああ」
ガーゴイルが一の傍に降り立ち、成果を告げる。少しの間その意味が分からなくて、彼は頭を振った。
「方角はこのままで問題ありません。道も複雑には分かれていませんから、一さんの足なら十分掛かるか掛からないぐらいだろうと見ます」
「あいつは?」
「シルフさんなら図書館の周りを飛んでいますよ。見張りだとか何とか……」
余計な真似は止めて欲しかった。
「急ごうか」
「ええ」
声に応えたいが、何をすれば良いのか分からない。出来る事を一つ一つ積み重ねるしかないのだと、一は自分に言い聞かせた。
最初は意味が分からなかった。事態の把握には、一が図書館に着いてからそれを見て、たっぷり一分は要しただろう。
「一さん、あれは……」
ガーゴイルも戸惑っていた。それも仕方ない。あるいは当然である。
「はーなーせーっ、離せったら離せって言ってんじゃんか!」
「親はどこにいる? 連絡先を言いなさい。子供が一人で出歩いても良い時間ではないぞ」
まさか、自分たちよりも遥か高みにいるような存在が、甚平を着流す老人に頭から鷲掴みにされてもがいているとは、夢にも思わなかっただろうから。
「……警察を呼ぶしかないか」
「ちょっ、ちょっと待ってください!」
慌てて一が走り寄る。彼の声を受け、シルフを掴んだままで老人――九十九敬太郎――が振り返った。
「一、か? こんな時間にお前までどうした。いかんぞ、まだ学生の身分だろう。学校にも来ないで夜遊びと言うのはな」
「いや、それには理由があって……」
「おおおお遅い! ニンゲンの分際でいつまでシルフ様を待たせるのさ!?」
一を認めた瞬間にがなり出すシルフを見遣り、九十九は不審そうに眉根を寄せる。
「……どうやら、お前は知らない間にグローバルな交友関係を展開していたらしいな。なるほど、並の講師ではお前の興味を引く事は適わんか。これでは大学に顔を出さないのも無理からぬ事だ」
「えー、と。いや、あの、先生……」
「何、私はソレと付き合うな、などと言うほど固い頭を持っておらんよ。一、お前が選んだ友人だ。黄衣もそうだが、人を見る目はあるようだからな。あるいは、お前自身が出来た者に見初められたか、か」
九十九は皆まで言うなと言わんばかりな様子で頷いていた。
「わたしたちが恐くはないんですか?」
「君は? 私は九十九敬太郎。駒台大学に教授、講師として籍を置く者だ。そこにいる一を指導する立場にある」
ガーゴイルに臆するどころか、九十九は朗々とした声で、むしろ誇るように自己紹介を始める。
「は、はあ。ご丁寧な挨拶、痛み入ります。わたしはガーゴイル。あなたたちがソレと呼ぶモノで、そうですね、一さんの友人だと名乗っておきましょう」
「結構、礼儀正しくて何よりだ。……ガーゴイル、恐怖を感じるのはどんな時だと思うね? 私は、生命の危機に瀕した時がそれではないかと考えている。私以外の大多数の者もまずはそう思うだろう。では、こちらからも尋ねよう。私は、今現在生命の危機に瀕しているか?」
ガーゴイルは首を横に振り、否定の意を示した。
「しかし、わたしの見てくれがこう、ですから。大多数の方は恐怖するのではないでしょうか」
「かもしれん。だがな、老いとは怖いものだ。パッと見ただけでその人物の何たるかを判断出来てしまうほど、感覚が鋭くなくなってしまったのだよ。それに、一の友人なのだろう? ならば問題はない。私とて一を全面的に信頼している訳ではないが、こやつが何か悪さをしようと企むだけの度量がない事を信頼している」
「先生、それは信頼と呼ぶのでしょうか?」
「かっかっか。さて、ではこちらの者にも挨拶願おうか」
一を無視して、九十九はシルフに目を向ける。
「な、なんだ? やっ、やるか?」
「やらん。私は九十九敬太郎と言う。君の名前も聞かせてくれたまえ」
シルフは九十九を睨み付けていたが、やがて、根負けした。
「……シルフだ。風のせーれー、シルフ様だよ」
「風の……?」
「あ、先生。実はですね」
「いや、まあ待て。話が長くなりそうだ。雨で体も冷えているだろう。何か拭くものでも持ってくる。その後で中に入ると良い」
九十九はシルフから手を離し、図書館の中へと入っていく。一たちは呆気にとられ、その後姿を眺めるしか出来なかった。
「なんつーか、あいつとんでもないニンゲンだな」
「わたしたちに驚くどころか、まさかこちらが驚く破目になるとは……」
「俺も今更ながらびっくりだよ」