雨が降ってきたような気がする
雨が降りそうだ。曇り空を見上げながら一は思う。だが、足を速めようとは思えなかった。何せこれから彼が向かうのは戦場に成り得るかもしれない場所なのだ。
「……っ」
そんな筈はないのだが、すれ違う人たちが皆全てを知っているかのような疑心に苛まれる。向こうから歩いてくる者は、向こうへ歩く自分を笑っているのではないかと、そう思ってしまう。
益体もない考えは、通行人が減るにつれて消えていった。店長から聞いていた役に立たない現場までの道のりだったが、勤務外としての勘か、それとももっと別の何かに呼ばれているのか、それでも何となく一には分かっている。少なくとも彼はそんな気がしている。立ち止まる事はしない。一歩一歩、少しずつ目的地に向かっているのだと言う感覚はあった。進むにつれ、少しずつ人とすれ違わなくなり、出会わなくなる。そうして歩き続けていると、頭の上に何かが当たった。
雨が降ってきたのである。まだ小降りだが、この先はどうなるか分からない。一は小走りになりながら雨宿り出来そうな場所を探す。
「と……」
吸い込まれるように、そうでなければ、本当に吸い込まれていたのかもしれない。屋根を探しながら、一は長くくねった路地を進んでいく。表に出れば幾らでも雨を凌げる場所はあった。だが、彼はそうしない。ソレがいるかもしれない。他者を巻き込みたくない。何よりも、囁くのだ。頭の中から、進んで、と。声がし続ける。一を導き続ける。
「まるで……」
曲がりくねった道は、まるで――――。
いつしか、一の頭からは雨宿りの事など消え去っていた。ただ、進むだけだ。声に従い、道から道へ、路地から路地へ進んでいく。
「あら」
「あら」
声が聞こえた。
「まさか」
「まさか」
影も見えた。目を凝らせば、その、声の正体が二人の女だった事に一は気付く。
「あなたが」
「あなたが」
二人共が声を発している筈なのに、一には一人分の声にしか聞こえない。
「勤務外なの?」
「勤務外なの?」
地面にまで垂れてしまいそうなほど長い黒髪。病的なまでに透き通った白い肌。瑞々しい肌が雨を弾く。薄暗く、薄汚れた路地裏にその存在は浮き過ぎる。毒とも言える。陳腐極まりないが、彼女らには美しいと言う言葉が似合っていた。いや、彼女らにこそ、その言葉が相応しいと言うべきか。同性、異性問わず屈服するであろうその美に、一は、
「あ、う……」
逃げ出した。
みっともなく喚きながら、背を向けて走り出す。
何も、彼女らの足元に血を流した男が転がっているのが見えた訳ではない。もっと別の恐怖を感じたのだ。
「あら」
「あら」
二人の女は顔を合わせた後、ちろりと赤い舌を突き出す。
「逃げちゃったわね」
「逃げちゃったわね」
そう言って、一の背中を追って歩き始めた。
――――嘘だ。
全部、嘘だ。恐怖に押し潰されないよう喚きながら、一は涙を堪えた。
「ソレが……いたじゃねえかよ!」
一目見て分かったのである。あんなに綺麗なモノは、人間ではないと。
様子見だけで済むと思っていた。店長の口振りから、そう思わざるを得なかった。彼女は自分を騙したのだ。何よりも、許せないのは自分である。
覚悟していた、筈だった。
誰かの盾になれるのならと、皆を守れるのならと、そう思っていた。
嘘だった。全部、何もかも。ソレの存在を実感した瞬間、理解する。何もないまま戦う事がどれだけ恐ろしく、馬鹿げた事なのか。
何かが追ってくる。確かにやってくる。気配を感じながら、一は必死で大通りを目指した。
「あら」
「あら」
声が出ない。
一は振り向く事すら出来ず、肩を掴んでいる腕を払い除けられず固まった。
「捕まえちゃったわ」
「捕まえちゃったわ」
――――嫌だ。
全てが嘘で、全てが嫌になる。戦うのも、死ぬのも、何もかも。
「がああああああああああああああ!」
理性では太刀打ち出来ない状況に、一の喉は彼の意思とは無関係に震える。大声を上げて、握り締めていた袋から得物を取り出した。
「あら」
「あら」
その大声に驚いたのか、女二人は一の肩から手を離す。
刀どころか、まともな武器すら握った事のない一である。だが、使うしかなかった。死なない為には、こうするしかない。
「おおおおおおおおおおおっ!」
正しい刀の握り方、振り方ではない。一は力任せ、がむしゃらにそれを振り回すだけだ。
「あらあら」
「あらあら」
同じタイミング、同じ動作で女は後ろへ下がる。一の攻撃を回避したのではない。下がっただけだ。そも、彼のそれは攻撃とは呼べるものではなく、今の状況は戦いとは似て非なるものなのだから。
「まるで鼠ね」
「まるで鼠ね」
雨が強くなる。天水と濡れた髪が視界を塞ぐが、一は構わず刀を振り回す。時折壁に当たって自身が振り回されるが、その都度叫び、また振り回した。
「鼠には」
「鼠には」
女が手を伸ばすと、暴れ回っていた刀が止まる。
女が手を伸ばすと、暴れ回っていた刀が折れる。
「うっ、ああああああああああああああああ!」
「丸呑みがお似合いかしら」
「丸呑みがお似合いかしら」
女が手を伸ばす。一を掴む為に。
女が手を伸ばす。一を壊す為に。
戦意、意思は最初から存在しない。尚も、武器を失い、命を失おうとしている。分かっていながら、一は動けなかった。刀身を失った鞘を握り締めて女の顔を見つめるだけである。
「それじゃ」
「それじゃ」
「いただきます」
「いただきます」
そして、一は失った。
少々と言うか、かなり荒療治だったかもしれない。なんて思いつつ、店長は椅子に座ったままで伸びをした。肩からは疲れを感じさせる音が鳴り、彼女は肩に手を遣ろうとして、反射的に引っ込める。
「……まだババアじゃないぞ」
言い聞かせるように。
店長は煙草に火を点け、一の顔を思い出してみた。あの、情けない顔を。
口車に乗せられ、情報の真偽すら確かめようとせず、自分の甘言に乗った一。馬鹿だなあと、哀れに思うと同時、妙に可愛い奴だとも思った。
一に言ったのは、殆どが嘘だった。
ソレは確実に出ている。人の仕業ではない死体だって転がっている。現場に残っていた蛇とは痕跡ではない。ソレ、そのものを指しているのだ。おまけに、店長には正体について心当たりがある。無論、一とソレが出遭う事も織り込み済みだ。様子見など有り得ない。目と目が合えば敵同士、殺し合うだけである。そうしてもらわなければ困るのだ。
「早かった、か?」
あの日の采配を間違いだとは思わない。ムシュフシュを殺し切ったのは確かなのだ。ただ、イレギュラーの存在を予想出来ていなかっただけ。それだけなのである。イレギュラーの出現する可能性を想像していなかった訳ではない。問題はあの少女が強過ぎた事にある。強過ぎた。勤務外の武器を折り、骨を折り、心を折った。彼らが回復するまでに新たな敵が出ない、筈がない。ソレは出る。現れる。こちらの都合などお構いなしに好き勝手暴れ回るのだ。そして、勤務外が回復し退院したとして、彼らが勤務外を続けるとは限らない。むしろ今まで逃げ出さず、投げ出さなかった方が奇跡に近いのだ。
では、どうする。どうすれば、勤務外を逃がさずに済む。答えはない。が、鍵は見つけてあった。他ならぬ、あの情けない男の存在である。
ナナが北駒台店のメンバーとして加入した後、幾度かミーティングと称したお遊びを開いた。勤務外同士の結束を高めるのも狙いの一つではあったが、店長にはもっと重要な狙いがあった。
誰が、中心になっているのか、である。
人心を掴むに必要なのはソレを燃やし尽くす圧倒的な力ではなかった。
他者を騙し切る強かさでもなければ、甘い声と幼い容姿でもない。
他者の保護欲に付け込む雰囲気でもなければ、勇気ある若者でもない。まして、人形には心を掴む事は不可能だろう。
必要なのは無能さだ。
力はいらない。技術も声も、何もいらない。そこそこの常識と、そこそこの欠点を持つ力のない者こそが勤務外――――人外どもを束ねられる。一に何かがないからこそ、中心に立っていられる。そして何よりその事が彼の異常さを雄弁と物語っていた。
実に素晴らしい。勤務外、フリーランス、ソレ。店長は、アレらを掌握する一の愚鈍さを手放しで賞賛したい気分だった。だが、足りない。物足りない。足りている。足り過ぎている。もっと力を削ぎ落とせば、何かを根こそぎ殺いでいけば、一はもっと、壊れてくれるのだ。彼にはもっと苦しんでもらわなければならない。辛い思いを味わってもらわなければならない。生きる事を悩み、嘆き、諦めてもらいたい。どうしようもない絶望を認識してもらいたい。
ソレと一人きりで相対する。
言わばテストだ。因縁のあるソレと出遭った一がどうしてくれるのか。取って置きの、これ以上ないシチュエーションではないか。店長はくつくつと喉の奥で笑った。
「馬鹿め」
それから、自身を精一杯恥じる。殺してやりたいとも思う。だが、決してそうはしない。命など、誰にもやるものか。あいつ以外にやるものか。
殆ど、嘘だ。嘘しか言っていない。
だが、店長は一に対して、一つだけ本心から真実を口にしていた。
今の一には何もない。何も、期待していない、と。
逆境を乗り越えた人間は強くなる。吐き気を催すほどの修羅場を潜れば潜るほど、人間は強くなる。
いつしか、一は本当に強くなるのだろう。壊れたまま、抱えたまま、背負ったままで。惜しむらくは時間だ。時間さえあれば、彼にはもっと別のやり方で辿り着いて欲しかった。だが、時間はない。血反吐をぶちまけるぐらいしなければ、ここまでは来れない。自分の許までは上って来られない。
「……嫌だなあ」
そんな日が来なければ良い。どうせなら、出会わなければ良かった。店長は溜め息を吐くと、目を閉じて、祈る。そんなモノはいないと信じているのに。分かっているのに。
『呼んでください』
「あらあらあら」
「あらあらあら」
悔しそうな、口惜しそうな、そんな印象は全く抱かせない。
「逃げられてしまったわ」
「逃げられてしまったわ」
何故なら、人を襲い、一を襲った女たちには凡そ感情と呼べるようなものがなかったからである。彼女らは降りしきる雨を気にせず、一が飛んでいった方角を見つめ続けていた。
獲物に逃げられるのは大した事ではない。彼女らにとって重要なのは、逃げられたのが目当てのモノだったかもしれない、と言う一点だ。
「さっきの風」
「さっきの魔」
「アレは何なのかしら」
「アレは何なのかしら」
一は自らの意思、自らの能力で先の状況を脱した訳ではない。女の指が掛かる寸前に吹いた強風と、彼を抱えて飛び去っていった悪魔のような影に救われたに過ぎないのだ。
「あら」
「あら」
「目が」
「目が」
ずるりと、右側にいた女が自らの眼球に指を突き入れる。
「そう言えば」
「さっきのが刺さったままだったわ」
何も考えずに砕いた刀の破片が、女の柔らかなそこに突き刺さっていたのだ。だと言うのに、二人からは何の動揺も見られない。邪魔だったから、使えなくなったから。そのような理由で女は目玉を引き抜いたのだ。
「かわいそうな妹」
「かわいそうな私」
妹と、そう呼ばれた方の女は右の瞼を何度も擦る。
「でも」
「でも」
「あの子はもっとかわいそう」
「あの子はもっとかわいそう」
「早く助けてあげなくちゃ」
「早く助けてあげなくちゃ」
「だから、新しいのを探さなきゃ」
「だから、新しいのを探さなきゃ」
何事もなかったかのように、女は同じタイミング、同じスピードで人通りのある道に向かって歩き始めた。
駒台の空に雨が降る。
駒台の空に風が吹く。
駒台の空に何かいる。
「やってしまいましたね」
「ああしなきゃ、こいつは死んだぞ」
空を飛んでいるのはシルフと、一を背に乗せたガーゴイルだ。彼らが、一を助けたのである。
「そうだろうと見ていますよ」
あの場面で自分たちが手を出さなければ、間違いなく、問題なく一は死んでいただろう。殺されていただろう。
ガーゴイルは、迷っていた。恐らく、シルフが突っ込んで行かなければガーゴイルは動かなかっただろう。彼の死を見届けていただろう。
「しかし、わたしたちはソレです」
「知ってる」
一を見殺しにはしたくない。だが、手を貸したと言う事は、あのソレと敵対した事になる。ずっとそうだった。誰かの味方にも、敵にも回りたくない。だから傍観者でい続け、自分さえも客観的に眺め続けていたのである。
「一さんを助けた。一さんの味方になったと言う事は、あのソレの敵に回ったと言えるんですよ」
「じゃあ、お前はこいつを見捨てろって言うのか? シルフ様はそんな事しない。良いさ、アレを敵に回したって」
「しかし……」
シルフはくるりと振り向き、ガーゴイルの目を見つめた。強く、見据えた。
「お前はこいつがキライか?」
「……いいえ」
「じゃあ、こいつが死んでも良かったのか?」
そこが分からない。一の事は嫌いではない。だが、死は誰にでも訪れる。好悪も、善悪も関係ない。人間である以上、一でさえ例外ではない。必ず、死ぬ。
「殺されても良かったと思ってるのか?」
「それは、わたしは……」
それが分からない。他者の死、運命に介入した。自らの意思を以って。意思を持って。
「……う」
「っ! おい、ニンゲン!」
温度は感じない。無機物で出来た体では、温かみを感じられない。それでも、雨に濡れる一の体からは今も熱が失われ続けている。
「急ぎましょうか」
「急ぐって、アテはあるのか?」
「わたしはそこ以外に一さんを運べる場所はないと見ています」
「……よし、任せたぞ」
道案内を?
否、シルフに任されたのは、きっと彼の命だろう。理解出来たから、ガーゴイルは確かに頷いて返した。
虫の知らせを信じてはいない。虫に知らされる程度の事など高が知れているし、知らされてもきっと無視するだろう。だから、これはきっと自分の意思で、自らを信じたからこその行動だ。
店長が重い腰を上げて、客のいないフロアに出たのは何者かの意思が介在したからではない。全て、自分で選んだからだ。
「お前らは……」
出入り口のドアは開け放たれ、滑り止めのマットに倒れこんでいる一。自力で帰ってきたのかと思えばそうではない。彼を心配そうに見つめる瞳が二対、ある。
「シルフと、ガーゴイル、か?」
「……あなたが店長だと見ます。一さんを、よろしくお願いします」
そう言って頭を下げたのはガーゴイルだ。店長は決して鈍くない。状況こそ不可解極まりないが、彼女は理解した。一を助け、ここまで連れてきたのはシルフとガーゴイルなのだと。
「無論、うちの従業員をよろしくするのは私の仕事だ。やぶさかではない。が、お前らは何故ここにいる? 何故ここに来た? ここがどういう場所なのか、まさか理解していない筈はない。だろう?」
「勿論です。しかし、わたしたちのような存在が思い付くのはここしかなかったんです」
店長は息を吐き、煙草に火を点ける。
ここが、どういう場所なのか。ここはオンリーワンで、言わば勤務外の巣窟だ。ソレを殺す為、殺される為に集まる場所なのである。そんな場所に、ソレがいる。ソレが来る。
「殺されても構わないのか?」
「そんな訳ないだろ! お前らが何かするってんならシルフ様はテイコーするぞ! テッテーコーセンだ! どうだ、強そうだろう!」
「シルフさん落ち着いてください。今は、一さんが心配です」
尚も収まらないのかシルフは中空で地団駄を踏んでいた。が、一が心配なのはガーゴイルと同じ気持ちなのだろう。やがて、シルフは店長をじっとりとねめつけるだけに留まる。
「……早くそいつを持ってけ」
「言われなくてもそうするさ。こんなところに倒れられちゃ客が寄ってこない。おい、起きろ。私の制服を濡らす気か」
店長は気を失っている一の頬を何度も叩く。何度も叩く。
「お、おい、やり過ぎじゃないのか?」
「早く起きろ愚図が」
一向に一は目覚める気配を見せない。仕方なく、店長は彼の襟元を掴んだ。
「つかぬ事をお聞きしますが、まさかあなた、一さんを引きずっていくつもりでは……」
「言われなくてもそうするさ」
ずりずりと、店長はバックルームまで一を引きずっていく。
「うわあ……」
彼女は足でドアを開けると、開きっ放しの仮眠室へ一を放り込んだ。
「タオルはどこにあったかな……」
床に散らばったままの雑誌を蹴飛ばしながら店長は部屋中を歩き始める。
「ああ、あったあった」
見つけたタオルをソファの上でうつ伏せになった一の頭に掛けてやると、彼女は少しだけ考え、フロアに戻った。
「おい、あいつは無事なのか? 無事なんだろうな?」
「心配するな、気絶してるだけだ。もう暫くすれば目を覚ますだろう」
シルフに答えると、店長はレジ前のホットケースから缶コーヒーを一本取り出す。次に入り口の近くに陳列してあったビニール傘を抜き取り、包装を乱暴に取り払った。
「……何、それ?」
シルフは差し出された缶と傘、それと店長の顔を交互に見遣る。
「缶コーヒーとビニール傘だ。知らないのか?」
「知ってるよ! シルフ様はどうしてそいつをくれるのかって聞いてんだ!」
「さあな。要らないならその辺に捨てるぞ、重くてしょうがないんだ」
「すっ、捨てるくらいならもらってやる。でも良いか、シルフ様は風のせーれーなんだ。ニンゲンごときの施しでシルフ様をどうにかしようなんて事は……熱いっ!」
うるさいので、店長は缶コーヒーをシルフにさっさと押し付けた。
「ほら、お前も使え。その体、錆びてしまうには惜しそうだ」
「ありがとうございます」
「いや、礼を言う必要はない。何故なら、私はお前らに対して絶対に礼を言わないからだ。一を助けろと頼んだ覚えもないしな、全てお前らが勝手にやった事だ」
言い放つと、店長は開いていたドアに背を預ける。
「では、傘を譲ってくれたのは?」
「……線だ」
「線?」
店長は店の中と外を指差した。
「お前らは決して店に入ろうとしなかったな。……ソレであるお前らは、オンリーワンの領域には入らなかったな。それは、お前らが弁えているからではないのか?」
ガーゴイルはシルフに傘を広げてもらい、その柄をしっかりと指で包み込む。
「仰る通りだと、わたしは見ます。我々は一さんを助けた。一さんの味方に回ったのでしょう。しかし、我々はあくまで一さんの側にいるだけです」
「他の勤務外、他の人間の味方に回った訳ではないと?」
「それだけではなく、逆もまたしかりでしょう。我々が一さんの味方だとして、あなたまで我々の味方ではない。わたしたちはソレで、あなたはソレじゃない」
だから、ここが線なのだ。
敵と味方。
ソレと人間。
殺すモノと殺されるモノ。
死なされるモノと死なすモノ。
店の外と中は、そこを分かつ最後の境界線なのである。
「分かっているじゃあないかガーゴイル。その傘は礼ではなく褒美として受け取っておけ」
「褒美、ですか」
「ああ。出来る子にはご褒美を与えるものだろう?」
ガーゴイルは笑った。
「わたしたちを子供扱いするニンゲンがいるとは、いや全く、世界とはまだまだ広いものだと見ますね」
「お前らが何を話してるか分からないけど、やい偉そうなニンゲン、あのニンゲンはいつになったら目を覚ますんだ」
「偉そうじゃなくて、私は偉いんだ。一がいつ目を覚ますかなんて知らん。心配ならその辺で待っておけば良いだろう」
「しかし、それでは他のお客の迷惑になるのでは?」
店長は店内を見回し、店の外にも一瞥をくれる。客どころか、人一人さえ周囲にはいない様子であった。
「なら屋根の上ででも待っているんだな。くれぐれも大人しく、騒いだりするなよ」
「シルフ様を馬鹿にするなっ、大人しく待つさ! それより、目ぇ覚ましたらちゃんと教えろよ」
そう言うと、シルフはガーゴイルよりも一足先に上へと飛んでいく。
「どうした、行かないのか?」
「……一つだけお尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「良いだろう。一つだけならな」
「何故、あなたは我々を見逃すのですか? 我々はソレで、あなた方は勤務外です。なのに、どうしてですか?」
「なんだ、そんな事か。簡単だ、殺す理由がないからな。オンリーワンの見解ではシルフ、ガーゴイル共に無害と判断している。私らは正義だのなんだの振りかざすつもりはない。上から命令が来ない限り……つまりお前らが何かやらかさない限り、こちらがお前らに手出しする事はない」
嘘ではない。店長が言ったのは全て本当の事だ。
「ま、他の勤務外が相手だとどうなるかは分からんかったがな。だが安心しろ、そもそも、私にはお前らを殺せるような力はない」
「ほう……?」
「意外だったか? それより質問がないならそろそろ行ってくれ。こんなところを支部の奴らに見つかれば減俸じゃ済まないからな。ほら、こんな雨の夜なんだ。今夜はガーゴイル冥利に尽きる、だろう?」
「仰る通りで」
ガーゴイルは翼をはためかせ、店長の視界から姿を消す。少ししてから、彼女は店のドアを閉めた。
「さて、と」
仮眠室のドアを閉め、店長は一の対面にあるソファに腰掛けた。
「私は熊じゃないが聖人君子でもない。死んだふり寝たふりは止めておけ。それから、戦場でそういう真似はするなよ。私なら嬉々として殴りまくるからな」
タオルが動く。
「……鬼ですか」
「鬼とはまた、随分と可愛らしい表現をしてくれるじゃないか」
一はゆっくりと体を起こし、タオルを頭に被せた。髪の毛も体も、服も濡れていたが、拭く気にはなれなかった。
「店長、俺……」
言いたい事がある。もう駄目だと、もう無理だと、もう嫌だと告げたい事がある。
「疲れたか?」
「は? ええ、まあ」
「そうか、邪魔したな。少し休め、ソレはまだこの街にいるのだからな」
また、戦えと。まだ、戦えと。
「俺はっ」
「眠れ。話を聞くのは、それからだ」
「……っ」
店長はソファから立ち上がると、仮眠室を出て扉を閉める。取り残された一は眠る事すら出来ず、ただ、歯を食い縛って蹲るしかする事を知らなかった。