Last Holiday
「映画はお好きですか?」
「ああ、好きだよ。少なくともお前よりかはな」
「……クソみたいな映画がお好きなあなたなら知っているとは思いますが、むやみやたらに人が死ぬ映画、あったでしょう。ああ、この映画を作っている人たちはどうして死ぬのかよりも、どうやって死ぬのかを楽しんでやっているんだろうなあって映画」
「そんな映画は山ほど見たからな。お前がどれを指しているか分からないし、これ以上話を続ける気も……」
「あの、3Dメガネを掛けて見る奴ですよ」
「ああ、アレな! アレはさー、どうかと思うんだよね俺は。だってメガネとか邪魔じゃん。立体的に見られるのはちょっと、いや、かなり心惹かれるんだけど。メガネって邪魔じゃん」
「あたしに喧嘩を売ってるんですか?」
「その前までの三つは全部見たけどさ、ありゃホラーっつーかコメディだよなあ。んでさ、俺は2が好きなんだよ、2が。一人一人が死ぬのもパズルっぽくて良いけどさ、その前の白昼夢で派手に事故が起きる方が好きなんだよね。丸太がぶわーって落っこちてくるところとかマジに大爆笑」
「……あの映画で笑える人の神経を疑いますね」
「バーカ、あの手の映画の楽しみ方ってのはな、登場人物に感情移入するんじゃないの。例えば、そうだな、プテラノドンが暴れ回るって映画があるとするだろ?」
「実際にありますよ」
「え、あんの!? うわー、すっげー見てえ!」
「この間先輩と一緒に見たんですけど、ストーリーも、肝心のプテラノドンのCGも全てが雑で荒かったですね。レンタルとは言え、あんな映画にお金を払ったのが非常に悔しいです」
「は? プテラノドンが動き回って人食ったりして好き放題暴れ回ってる姿を見られるんだぞ? 俺なら一万まで出すね。大体さ、そんなもんタイトルで中身も分かるじゃん。ごちゃごちゃと意味分からない事言うな」
「悪趣味」
「誰にも迷惑掛けてねえんだから良いだろ」
「それで? あなたの大好きなお馬鹿映画を楽しむコツというのは?」
「ああ、それね。だからさ、ボッコボコにやられちまう人間じゃなくて、暴れ回る化け物の視点で映画を見るんだ」
「……やっぱり悪趣味じゃないですか」
「お前だって見てるじゃんか。そんなに俺のムービーセンスを貶そうとするならさ、おすすめの映画ってのを教えてくれよ、ああ?」
「あたし、映画ってそもそも好きじゃないんですよね。ただ、じっと眺めるしか出来ませんから。やはり本が一番です」
「本だって眺めてるだけじゃねえか」
「本は自分の手で読み進められます。気になればページを繰れば良い。嫌なら、それ以上を拒むのなら本を閉じれば良いんです」
「そうかあ? 映画だって同じだろ。嫌になれば目を瞑って、耳を塞いで、何なら映画館から出れば良いんだしさ」
「うるさいですね。ごちゃごちゃとあたしに楯突かないでください。あなたはあたしの母親ですか? 違いますよね。だったら、そんな事をしないでください。あなたに話し掛けられるぐらいなら、虫と酢を合わせたモノを飲む方がマシなくらいあなたの事が嫌いです」
「俺はさ、世界中の人間を味方に回してもお前だけは敵に回したい」
「その一言にあなたの人となりが集約されていると言っても過言ではありませんね。唇が紫な小学生もびっくりするぐらいの卑怯者……っ」
「おい、大丈夫か? どっか痛むのか? つーか、幾らなんでも喋り過ぎじゃないか?」
「……あなたみたいなゲス相手でも、話をしていれば少しは気が紛れるんです。良いから大人しく不細工な声を聞かせてくださいよ」
「やだね。俺はもう眠い。寝るからお前も大人しくしてろよ」
「まさか、あたしを心配しているだなんて気、持ち、悪い事言うつもりじゃないでしょうね」
「誰が言うか。あと、気持ち悪いを分けて言うな。俺は純粋に眠いんだ」
「ふん、そこまで言うのならもう話し掛けてあげません。ああ、そうです、良く眠れるように歌って差し上げましょう」
「いらんわ。……なあ、今更だけどさ、どうして映画の話なんか振ったんだ?」
「映画と言いますか、人間が呆気なく大量に死んでいくような作品なら何でも良かったんですけどね。ふと、思ってしまったんですよ」
「何を?」
「映画や漫画の中で呆気なく、見せ場もなく意味もなく、何もなく殺され、死んでいく脇役にもならないモブキャラクターたち。まるで、あたしたちみたいだなって」
「……ああ、そういう事」
「あたしたちは主役にも脇役にもなれない背景なんですよ。こうして生きていられるのが不思議なくらい。そう、思いませんか?」
病院のベッドで眠るのはもう何度目だろう。
一はぼんやりとした意識の中で、そんな事を考えていた。何しろ、他にやる事がないのだから仕方ない。横になって、取り留めのない事を考えるぐらいしかないのだ。
寝返りを打つと、隣のベッドの住人である黄衣ナコトがハードカバーのSF小説を読み耽っているのが見える。
「……はあ」
三日前の事を思い出し、一は溜め息を吐いた。
あの日、北駒台店全員でムシュフシュを倒した後、突如として現れた正体不明の少女に全員が倒された。何も出来ないままに、呆気なく、見せ場もなく、意味もなく、倒された。意識を失っていた彼が目覚めると、ここ、即ち病室にいたという次第である。
そして、襲撃を受けたのが自分たちだけではないと気付いた。ベッドが足りないから相部屋に回してしまったと、そう謝る看護士に尋ねるより先、彼は横たわるナコトの存在に気付いたのだ。
伝え聞く限り、勤務外以外にも『元』だろうが関係なく、駒台にいたフリーランスは軒並み襲われていたらしい。『図書館』黄衣ナコト、『神社』山田栞、『貴族主義』アイネ=クライネ=ナハトムジーク。彼女らの名を聞いた時、一の気は遠くなったのだが、幸い、皆命に関わるような事態は免れたそうだ。
勤務外にも重傷者は出ていないようだが、すぐには退院出来ないとも一は聞いている。
「溜め息が鬱陶しいです」
「だったらカーテンを閉めろ。前から言ってるだろうが。第一だな、俺までカーテンを開けろってなどういう事だよ」
「こっそり怪しい行為に耽られていてはたまったものじゃないですからね。監視ですよ、監視」
舌打ちをしてから、一は再度寝返りを打った。
店はちゃんと回っているだろうか。いや、アルバイトが全員病院送りになったのだ。あの店長と堀だけでは回るまい。どうしようもない事しか浮かんでこない。
「そんなに心配でしたらお見舞いに行けば良いじゃないですか。皆さんここに入院しているんでしょう?」
「あー、いや、まあそうなんだけどさ」
ナナだけはオンリーワン近畿支部の技術部に預けられている。面会謝絶というほどでもない。誰かに会おうと思えば昨日の内にでも会いに行けた筈なのだ。
「多分、会うのが怖いんだよ」
「皆さんに会うのが? 何故ですか、生還出来た喜びを噛み締め合うべきだと思いますがね」
「会って喋ったら、あの時を思い出しちまうかもしれない」
あの、赤い少女を。何も出来ずに失神させられた屈辱を。暴虐の化身に蹂躙された恐怖を思い出すかもしれない。傷を舐め合うならマシだ。だが、傷が余計に広がる可能性も充分に考えられる。
もう、戦いたくない。
もう、勤務外でいられない。
そんな言葉を誰かから聞くのはごめんだった。
「正直な、俺はもう嫌になってるんだよ。綱渡りだったけどよ、今までは何とかやってこれた。生き延びてこれた。けど、けどさ、あんな化け物ともう一度やり合えなんて無理だ。それに、もう……」
一はベッドの下を見ようとして視線を落とす。
「アイギスは、帰ってこない」
言葉にして初めて、今が絶望的な状況なのだと確認出来た。
ギリシャ神話、世界でも最高にして最も硬い盾。何者をも阻み、何者でさえも抜く事は叶わない。女神の遣わした勇者の盾。それが、正体不明のモノに砕かれた。抜かれた。大きく穴を開けられた。
もう戦えない。
もう勤務外でいられない。
一は目覚めた瞬間から気付いていたのだ。自分には優れた身体能力など備わっていない。アイギスを持って初めて戦える。アイギスを以って初めて勤務外でいられるのだ、と。
「無理ですよ。どれだけ威力のある武器を持っていても、どれだけ厚い防具を以ってしても戦えません。アレは、あたしたちの次元とは違う域にあるモノなんですから」
ナコトは枕元に本を置き、ゆっくりと横になる。
「あなたは地震や雷と戦えますか? 無理でしょう。アレは、災害と同じレベルなんです。ただ、結果だけを残してどこかに行ってしまう。出遭ってしまえば、巻き込まれてしまえば後は祈るのみです。アレが過ぎ去った後、生きているか死んでいるかは運任せ。あたしたちが介入する余地はないんですよ」
「俺たちは運が良かったのかな……」
「さあ、どうでしょうね。あの時殺されていればこんな風に悩まなくても、考えなくても良かった。苦しむ必要なんかなかった。案外、運が良かったとは言えないかもしれません」
一は布団を頭から被り、強く目を瞑った。
爪を噛もうとして、咄嗟に手を引っ込めた。悪い癖だと言われ続けていたのを思い出して、店長は代わりに缶の中身を呷る。
「三日か」
「……ええ、三日経ちましたね。まだ三日なのか、もう三日なのか、私には分かりかねますが」
傍らにいた堀が答えた。彼はいつものようなにこやかな表情を作ってはいたが、髪はぼさぼさで目の下には薄っすらと隈も出来ている。昨晩からほぼ休みなしにフロアに立ち続けていた。アルバイト全員が病院送りになったせいで、堀の負担は計り知れないほどに大きい。
「皆さん、重傷ではないと聞いていたのですが」
「重症なんだよ。怪我も大した事はなかった。体に受けたダメージはとっくに治っているだろうさ」
「問題は心、ですか。いやあ、何ともセンチメンタルな話ですねえ」
笑って言う堀だが、彼の表情には翳りが見え始めていた。
「突然現れたガキに何もさせてもらえないまま全員がボコボコにされた。そして、そいつはまだ生きている。この街のどこかに潜んでいる。次に遭えば、今度はどうなるか分からん。そんな状況下に望んで進みたがる奴はいない」
「何者なんでしょうね。勤務外でもない。オンリーワンの社員でもない。フリーランス、と言う可能性はありますが、『図書館』も『神社』も、『貴族主義』でさえも正体を知らなかったと聞いています」
「ならばソレ、か? いや、違う気がするな」
「人間とは思えない戦闘能力だと思いますよ。仮に、その少女が人間だとしたら笑い話ですけどね」
店長は缶コーヒーをゴミ箱に投げ捨てて煙草に火を点ける。
「確かに笑えるな」
「いやあ、実際この後どうするかって話ですよ。幸い、ムシュフシュ以降は街も大人しくなりましたが、次にいつソレが現れるか分からないですからね」
アルバイトの面々には充分に休息を取らせたつもりだが、聊かその時間が長過ぎたのかもしれない。いっそ、考える時間を与えなければ良かった。店長はどうしようもない事に頭を悩ませ、不味そうに紫煙を吐き出す。
「いつまでも本部に頼る訳にもいかないな。と言うか、あいつらがいると息が詰まる。はっきり言うと邪魔だ」
店長は防犯カメラに移る人影を睨み付けた。今、フロアには増援としてやってきた社員が立っている。助かったとは思うのだが、感謝はしていない。
「では、誰かを呼び戻すと?」
「適任は一だな。あいつが一番ダメージが少ない。逆に、三森と糸原、ゴーウェストはまだ駄目だ。下手に粘ったか知らんが、他のメンバーよりも傷が深い」
「確かに一君になら一人でもフロアを任せられます。しかし、彼の戦闘能力は……」
堀は眼鏡の位置を直し、言いよどんだ。彼が何を言おうとしているのか、店長にも分かっている。
「アイギスはもう、ない。知っているさ、一には戦う力がないって事はな。それでも、戻ってもらう」
「ですが、ソレが出現した場合はどうするんですか。まさか、一君を戦場に送り出すなんて事はしないでしょうね」
場合によっては、無力と化した一にもソレと相対してもらうつもりだ。アイギスを失ったと言えど、彼には今まで培った経験がある。暇を見つけて新たな武器でも持たせ、使い方を覚えさせれば良い。精々盾にはなるだろう。
「状況によるが、私だって死ぬと決まっている人間を送りはしないさ」
だが、正直に胸の内を明かすほど店長も馬鹿ではない。ここでそんな事を言えば堀の逆鱗に触れてしまうのは、火を見るよりも明らかだ。
「その言葉、信じていますよ」
「ああ、そうしてくれ。心配するな、一を戻した後は立花と神野も呼ぶ。あの二人は比較的ダメージが軽い。ナナも調整が済み次第戻ってくる。そうだな、あいつには一日、長くても二日乗り切ってもらえば済む話だ」
「……見舞いには行きましたか?」
「ん? ああ、あいつらのか。いや、行っていないな。堀、お前は行ったのか?」
堀は少しだけ店長を見据えた後、気を取り直したかのように視線を反らす。
「ええ、ナナさんには会えませんでしたが」
「そうか。……それで、何が言いたいんだ?」
「少々、甘く見てはいないでしょうか」
煙草を灰皿に強く押し付けると、店長は堀の表情を観察し始めた。彼の感情を察すると同時、ああ、と。思わず息を漏らしそうになる。
「あなたは上に立つ者としては悪くない資質をお持ちだ。だが、少しばかり他人を、人間を見下しているきらいがある。将として、兵を駒と見る考え方は実に素晴らしく思います」
「だが、時代にそぐわない。勤務外といえどあいつらをもっと人間らしく扱え、か?」
「分かっているなら、どうして改めないのですかっ? 彼らは人間だ。年端も行かない子供らも預かっていると、あなたはもっと自覚すべきなんです。彼らにも意思がある、感情がある。駒じゃなく人間なんだ、あなたは、本当に分かっているのですか……?」
言われずとも。今更言われなくても分かっている。だから彼女は――。
「一を呼び戻すぞ」
ナコトが眠ってしまい、話し相手がいなくなった。退屈になった一はベッドから下り、売店で雑誌でも買おうかと思い付く。思い立ったが吉日。シャツの上にジャージとコートを羽織り、スリッパで床をぺたぺたと鳴らしながら病室をこっそりと抜け出した。廊下に出ると、薄っすらと消毒剤の臭いが鼻を突く。後、どれだけこの臭いと付き合わなければいけないのだろう。少しばかり気が重くなりながらも、彼はゆっくりと歩き出した。
勝手知ったる、とまではいかないがもう何度も来た事のある建物である。さして迷う事もなく、彼は売店まで辿り着いた。
「……あ」
「あ……」
雑誌の立ち読みをしていた人物と目が合う。その人物は、いつものスーツではなくジャージを着ていた。服装こそ野暮ったいのだが、背が高いのと、スタイルが良い事もあってか周りの注目を集めている。
「その、お久しぶりです」
「ん、ご無沙汰」
糸原四乃。
彼女はぎこちない笑みを浮かべると、雑誌を元の位置に戻した。
「買わないんですか?」
「んん、じゃ、買おうかな。ちょい待ってて」
一は頷き、売店の外に出る。髪の毛をくしゃくしゃと掻き、失敗したなと内心で呟いた。
何の準備も出来ないまま、出会ってしまった。気の利いた事を言える性質ではないと自分で分かってはいるのだが、もっとまともな事は言えなかっただろうかと煩悶する。
「何頭抱えてんのよ」
「……いえ、別に」
「ふーん? それより、はい。熱いから早く持ってよ」
差し出された缶コーヒーを受け取ると、一は微妙な表情を浮かべた。
「あんたって甘いのが好きなんじゃなかったっけ?」
「好きですけど、その、おごり、ですか? 糸原さんがおごってくれるんですか?」
「どういう意味よ」
「裏があるんじゃないかと思って」
糸原は無言で一を叩く。
「やっぱ、あんたの頭は良い音を奏でてくれるわね。中身空っぽなせいかしら」
「頭空っぽの方が夢を……と、外は寒そうですね。俺か、糸原さん、どっちの病室で話します?」
「私んとこは嫌よ。ヤンキーとの相部屋だかんね」
こっちだって、あのナコトとの相部屋なのだ。一は考えに窮し、中庭に視線を遣る。
「ああ、でも良い天気ですね。散歩してる人もいるし、あそこのベンチなら陽が当たっていますし」
「し? 何よ。言いたい事があるなら早く言いなさい。言ってみなさい。言えるものならね」
「外で話しませんか――――ってうおおお!」
言った瞬間、一の顔のすぐ傍を雑誌が通り抜けた。
「何するんですかっ!?」
「座り込んでないで中庭に行くわよ。ほら、皆さんのご迷惑になるじゃないの」
「行くんなら本投げなくても良いでしょうに……」
「あ、その本拾っといてー」
拒否すれば次は何が飛んでくるか分からない。一は渋々雑誌を拾い上げ、糸原の元まで持っていく。
彼女と並んで少し歩き、中庭へと通じる扉を開けた。風は冷たいが、我慢出来ないほどでもない。口から出任せ程度の発言だったのだが、外は存外に暖かかった。
「あーーっ、空気が美味い!」
「そうですか?」
「だって、病院って独特の臭いがするんだもん。しかも病人ばっかりだしさ、あれじゃあ何しに病院に来てるか分からないわ。病気になりに行くようなもんよ」
それはそうなのだが、何も声を大きくして言う事ではないだろうと、ちくちくと刺さる視線を気にしながら一は思う。
「ま、まずはあれよね」
糸原はベンチに腰掛けると、自身の隣をぽんぽんと叩いた。
「元気してた?」
「……どう見えますか?」
一は彼女の隣に座り、缶のプルタブを押し開ける。
「思ってたよりかは元気そう、かな」
「糸原さんは元気そうですね。もっと大人しくしてくれた方が助かりました」
「あら、そう? でも、こう見えて結構へこんでんのよ、私」
微笑を浮かべると、糸原は雑誌を膝の上に乗せた。それに視線を向け、少し声を落とす。
「どれくらいかって言うと、もう、勤務外なんて辞めようかなーって思ってるぐらい」
予想はしていた。彼女と顔を合わせて、彼女が口を開けば、こうなる事ぐらいは。愚痴と弱音なら幾らでも聞ける。聞こうと思う。しかし、つられてしまうのが怖い。
「冗談でしょう」
「は、その台詞が冗談だっつーの。あんたって死にたがりな訳?」
一は首を振る。望んで死のうだなんて、誰が思うのか。
「私だってね、あんたとは比べ物になんないぐらいの、そりゃもうやばいってぐらいの死線を潜ってきたわ。フリーランスになって、勤務外になって、ソレや同業者ともやり合った。死んじゃうかもって、そう思った事も何度かあったわ。けど、アレは別物よ」
手に持った缶コーヒーが少しずつ冷えていく。
「分かる? 今私はこう思ってる。どうしてまだ生きてるんだろうってね。……化け物の相手なら幾らでもしてやるわよ。それこそ、土蜘蛛何千匹とだって。けど、アレは嫌。アレだけは嫌なの。あんなのと戦うくらいなら、ソレの群れん中に突き飛ばされる方がよっぽどマシ」
一にはあの少女の恐ろしさがはっきりと分かっていない。だが、自分よりも経験豊富且つ、力のある糸原がこうまで言い切り、こうまで怯えているのだ。
「……本当に、辞めちゃうんですか」
「むしろ、今まで続けてこれたのが奇跡ね」
そう言って糸原は雑誌に手を伸ばす。一は何も言えず、彼女がページを繰るのを暫くの間眺めるしかなかった。
「面白いですか?」
「全然。何でもかんでも頭にヤングって付けりゃあ良いってもんじゃないわよね。後で読む?」
「面白くないって断言したのを薦めますか普通」
「あ、ちょっとコーヒー取って」
「……? はあ、良いですけど」
糸原の缶コーヒーは彼女の手元に近い。しかし、自分で取れと一には言えないので、彼は手を伸ばして缶を掴んだ。
「はい、どうぞ」
「ん」
と、糸原が手を伸ばして缶を受け取ろうとした時、彼女の手から雑誌が落ちる。
「あーあー、何やってんですか」
「あ……ごめ――――」
「うおっ」
からん、と。乾いた音が響いた。缶はコンクリートの上を転がり、まだ中身の入ったそれは地面を濡らしながら回り続ける。
「……嫌がらせですか?」
「えへへー。好きな子の気を惹きたくて意地悪する小学生みたい?」
「馬鹿じゃねえの」
一は転がった缶と雑誌を拾い、缶をゴミ箱に捨てた。
「本、まだ読みますか?」
「ん、いい。読まない」
何か、糸原の様子がおかしい。失礼かもしれないと思いつつ、一は注意深く彼女を観察し始めた。
「なーに見てんのよ。目の保養でもしたいのかしら。そうね、何ならポーズでも付けた方が良い?」
「結構です」
どうして気付かなかったのだろう。
「……糸原さん」
今日は、今は寒い訳ではない。そう、手が小刻みに震えるほど冷たい事はない筈だ。ならばと一は自身に問い掛ける。
「何よ」
「そんなに寒いですか」
「……っ」
糸原は何食わぬ顔で両手を引っ込めた。ジャージの袖を伸ばし、一からは見えないようにする。
「あー、ちょい寒いかな。ん、そろそろ戻ろっか」
「隠さないでください。何が、あったんですか?」
「シンナーとか吸いまくった。ひっひっひっ、マジにぶっ飛びそうだぜぇー、髪型をモヒカンにしそうなくらいに飛びそうだぁー」
「嘘吐け!」
けらけらと笑い、糸原はベンチに寝転がる。
「バレたからには仕方ない。つーか、まあ、言おうとは思ってたんだけどね」
「手の事をですか?」
「それもあるかな。……この手さ、意識してなきゃずっと震えてるのよ。は、みっともない話ね」
彼女はまた笑ったが、どうにもぎこちないそれだった。一は立ち尽くしたまま動けない。
「あの日目覚めてから、ずっと」
「どうして、医者は何か言わなかったんですか?」
「さあ? ま、多分こいつはビビってんのよ。もう糸なんか握りたくないよー、戦いたくなんかないよーってね。全身ガタガタ震えるよかマシだと思うけど」
ごくりと唾を飲む。
「治るんですか?」
「……私の手はチアキの喉と同じなんですって。特に、指。先っぽに行けば行くほど言う事を聞いてくんないの」
「そんな……」
崩れ落ちそうになり、一は必死で踏み止まった。
チアキの喉はあの事件以来未だ完治していない。その兆しすら見せていない。炉辺が言うには外傷こそ治ったが、心にはまだ傷が残っている。問題は、重要なのは精神にあるのだと。いつ癒えるか、癒えるのかどうかすら定かではない。
しかし彼女の場合、日常生活には支障をきたさない。だが、糸原は違う。手なのだ。現に雑誌や缶コーヒーすら落としてしまう有様である。
少なくとも、今までと同じようには過ごせない。生きていけない。
「……捨てないでね」
一の肩がびくりと震える。
「捨てるってそんな、犬猫の話をしているんじゃないんですよ。俺を、俺を馬鹿にしないでください」
「ごめん。ごめん。でも、それぐらい不安なのよ。だって、もう……」
「言いましたよね、糸原さん。俺たちは確かに歪だけど、家族なんです。俺は、家族を見捨てない」
彼女の弱音が突き刺さる。多分、当分は耳から離れないだろうと確信していた。
「ご飯食べさせてくれんの?」
「勿論です」
「必然的にあーんって体勢になるけど、本当に良いの? ファミレスとかでもあーんってしてくれる?」
「……勿論です」
自信はあまりなかったが。
正直、一は勤務外を辞めたかった。逃げたかった。ここからいなくなりたかった。だが、続けなければならない理由もある。
「……ねえ、前にした話覚えてる? 一緒にどこかへ行こうって奴」
「ええ、覚えてますよ」
嫌なタイミングで切り出されたものだと、一は頭に手を遣る。今となっては、その話が酷く魅力的だった。