暴君
ソレの叫びが轟き渡る。炸裂した銃弾によってムシュフシュの眼球は破裂し、周囲に飛び散っていた。苦痛から逃れようと頭を振るが、ジェーンは情けを掛けない。容赦しない。乾いた音の後、残っていた眼球も血と一緒に飛沫を上げた。
視力を失ったムシュフシュは前へ前へと走り出す。前方にはジェーンがいたが、彼女の前に一が割り込んだ。
「お、おおおおおおおおっ!」
広げたアイギスにソレの爪が、腕が襲い掛かる。その全てを弾き返しながらも、しつこい攻撃に少しずつ一は押され始めた。体重差があり過ぎる。
「――――――ッッ!」
ムシュフシュの顔が更なる苦悶により歪んだ。ソレの背中に、ナナが再び降り立ったのだ。
「一さん、私は頭を押さえます」
「……頼むっ……!」
ナナは躊躇せずソレの頭を自分の両手で掴み、その後頭部に自分の右膝を押し付ける。押し付けたまま前に飛び、ムシュフシュの頭を地面に叩き付けた。
ムシュフシュは尚も暴れ続ける。
「このままじゃ……」
他のメンバーが攻撃に移れない。視界は塞いだ筈だが、闇雲に動き回られては厄介だった。
一は覚悟を決める。
時間は掛けない。ここで終わらせる。
握り締めたアイギスが光を帯びる。
「止まれ、ムシュフシュっ!」
光が周囲を包み込んだ次の瞬間、ムシュフシュは嘘のようにその動きを止めてしまっていた。
否、メドゥーサによって止められていたのだ。
「一さん、これが……」
ナナの瞳が揺れ動く。
これがアイギス。
これがメドゥーサ。
これが、一。
「お願いします!」
「待ちくたびれたわ」
一の呼び掛けにまずは糸原が答えた。彼女の伸ばした糸はソレの右足に絡み付く。糸原の真っ白い指が僅かに動き、ムシュフシュの足が両断された。がくん、と、支えを失ったソレの体が崩れ落ちる。
「よっしゃあ!」
既に炎を作り上げていた三森が走りより、ソレの尾を掴み上げた。彼女の拳から赤い光がちろちろと覗く。風に煽られ火の粉が飛び散る。熱が運ばれ、一の髪を生暖かい風が揺らした。彼が見上げた時にはもう、尾はこの世から消えてなくなっている。
続いて、立花と神野が刀を振るった。動けなくなったムシュフシュの翼を切り上げ、切り下ろす。
――限界だ。
「皆、離れて!」
一が叫び、仕事を終えた全員がソレから離れていった。
「――――――ッッッッ!」
メドゥーサの制限時間が過ぎ、時間を取り戻したソレは悲痛な叫びを上げる。切断された箇所からは鮮血が噴出し、辺り一面朱に染めていく。噴水のように上がる血を見ると一は思うのだ。
「……アイギスが傘で良かった」
「何か仰いましたか?」
「いや、何も」
血塗れになったナナから目を反らし、一はゆっくりと力を抜いていく。もう、ムシュフシュからも力が抜けつつあったのだ。
「一さん、止めはどなたが?」
ナナに問われ、一は思わず三森の姿を探してしまう。
「なるほど。跡形もなく燃やしてしまおうという事ですね」
そうではなく、本当はただ、一はあの炎を見たかったのだが曖昧に頷いておいた。
「三森さん、止めを」
「げ、私かよ。……ま、良いや。リーダーのご指名ならしょうがねェ」
三森は煙を燻らせながら一歩一歩進んでいく。
敵を捉える両目を失い、敵に近付く翼を失い、敵に追い付く脚を失い、敵を仕留める尾を失ったソレに止めを刺す為に。
勤務外たちがムシュフシュと出遭う一時間前、つくも図書館の司書である公口由梨は後輩の司書である黄衣ナコトを探していた。
少し目を離していた隙に彼女が仕事場からいなくなっていたのだ。ナコトと公口はまだ短い付き合いではあったが、ナコトが理由もなしに、しかも無断で職務を放棄する人間だとは思えなかった。
「……ナコトちゃん」
公口は今年が二十代最後の年である。来年から自他共に認めざるを得ない三十路になる。だから、とは決して言わないが、ナコトに対してちょっとしたコンプレックスを抱いていた。
それでも、彼女には決して酷い事をしなかった。むしろ年の離れた妹が出来たと喜び、手作りのお菓子を振舞うなどして可愛がっている。そのナコトが良く分からない男を連れてきたのが気に入らなかったのかもしれない。仕事の時間に遅れて、更に神聖な図書館で大きな声を上げたナコトを怒鳴りつけてしまった。
「拗ねちゃったのかしら……」
今日は館長である九十九の帰りが遅い。その為、いつもより早くに図書館を閉めても良いと言われていたのだ。ナコトはここに住まわせてもらっているが、公口は別に自宅がある。家事の危ういナコトに晩御飯を作ってから帰宅しようと思っていたのだが、彼女は一体どこに行ってしまったのだろう。
と。
公口は図書館の入り口から妙な気配を感じた。肌寒くなるような、気味の悪い空気が流れてきたような、そんな錯覚を覚える。
「ナコトちゃん?」
心細くなり、探し人の名を高く呼ぶ。館内にいた人間は全て帰っていた。しかし、いつもより早い時間に『閉館』のプレートを提げているので、誰かが入り口で困っているのかもしれない。そう思うのだが、不安な気持ちは一向に拭えない。
一歩、また一歩と近付くにつれて足取りは重くなる。
「…………ナコトちゃん?」
意を決して覗いてみると、入り口のガラス戸が割れていた。肌寒かったのはこのせいだと思いたかった。
その、割れたガラスに突き刺さっていたものを見て、公口は腰を抜かし、その場にへたり込む。
勤務外たちがムシュフシュと出遭う一時間前、オンリーワン南駒台店勤務外店員のヒルデはとある人物を駅前の喫茶店で待っていた。
「遅いっすね、あいつ。ヒルデさーん、もう帰っちゃいましょうよー」
「……ん、私は待つよ」
「シルト、お前だけ帰れば良いじゃないか」
「はあ? 何言ってんのシュー。帰りたいなら帰れば良いじゃん。ヒルデさんがここに残るんなら私だって残るに決まってるし」
「…………二人とも、静かにした方が良いと思う」
ヒルデは溜め息を吐く。
彼女の待つとある人物とはフリーランス『神社』、山田栞であった。山田は今日、退院する筈だったので、その快気祝いをしようとヒルデは持ち掛けていたのである。
が、もう約束の時間から三十分は過ぎていた。山田は豪快且つ男勝りでがさつではあるが、決して約束を破らない性質だ。だからこそヒルデはこうして待ち続けているのだが。
「あー、ウザ。ヒルデさん待たせるとかあのゴリラマジに意味わかんねーっつーの。様子見に行ったルルからも連絡こねーしさー」
「病院に連絡を入れた方が良いかもしれないな。シルト、電話を貸してくれ」
「はあ!? はああ!? 馬鹿、あんた馬鹿? なんで私のケータイ使わなきゃなんないのよ、自分の使えば良いじゃん」
「充電が切れ掛けている。見ろ、あと一本しかない」
「……うっざいなあ、もう」
言いつつ、シルトはテーブルに置いていた携帯に手を伸ばす。
「ん」
と、騒がしいメロディが店内に響き渡った。
「あー、ルルからだ」
「…………早く出た方が良いと思うよ」
ヒルデは他の客の視線から逃れる為、顔を真っ赤にしながら俯く。
「マナーモードにしておけとアレほど言っていたじゃないか」
「あー、おっそーい。早く連絡入れてよ、え、何? 何よ? 何々、聞こえないってば。は、何それジョーダンでしょ?」
「…………シルト?」
少しシルトの様子がおかしい。ヒルデは不安になって顔を上げてみる。
「……あー、分かった分かった。伝えとくから。とりあえず、弾丸そっちに行っから」
「シルト、何かあったのか?」
「んー」
シルトは過度にデコレーションされた携帯電話をテーブルに置くと、クリームソーダを飲み干した。
「ヒルデさん、今から病院に行かなきゃなんないみたいです」
「……え?」
「なんか、あのゴリラが怪我して病院に運ばれたって言ってました」
勤務外たちがムシュフシュと出遭う一時間前、中内荘の住人である歌代チアキは買い物袋を両手に提げてとぼとぼと歩いていた。
彼女は時折舌打ちしながら罪のない通行人を睨み付けていく。完全に八つ当たりだった。
「重……」
この荷物はチアキのものだけではない。ついでにと、一たちの分も頼まれていたのである。安請け合いしてしまったのは自分だが、それでも彼女は他者に怒りの矛先を向けてしまうのだ。
しかし、この苦行ももうすぐ終わる。目の前の角を曲がれば、もうすぐ我が家に辿り着く。帰ったらテレビを点けて、お気に入りのCDを聴いて、一たちの帰りを待ちながら鼻歌でも口ずさもう。
楽しげな想像で荷物の重さを気を紛らわせ、チアキは歩く。
と。
彼女は不穏な気配を感じた。尤も、チアキに特別な力は宿っていない。せいぜい、彼女には歌が上手い程度の能力しか備わっていないのだ。だから、あくまで予感。目に見えない何かに急かされるようにしてチアキは走る。角を曲がり、中内荘の敷地内に辿り着く。
「アイネ!」
チアキは荷物を投げ出して倒れている人物へと走りよる。
アイネ=クライネ=ナハトムジーク。
アイネはチアキたちと同じく中内荘に住むフリーランス『貴族主義』であり、チアキの隣人、友人でもある。
「おいコラしっかりしぃや!」
嫌な予感は当たっていた。アイネが自室の前で倒れている理由は分からないが、とにかく救急車、医者を呼ばなければならない。
「……う、く……」
「気ぃ付いたんか? おい、こら、おーい」
チアキはアイネの頬っぺたをぺしぺしと叩く。抓る。引っ張る。その内にアイネは意識を取り戻していった。
「……たい」
「お。起きよった」
「痛い、です……」
アイネの背をドアに預けると、チアキは置いていった荷物のところまで走り、また戻ってくる。
「ほら、水」
「……ありがとう存じます」
アイネは蓋の開いたミネラルウォーターを受け取ると、躊躇う様子も見せずに頭から引っ被った。
「うわ、冷たないん?」
「冷たいなどと。私は、悔しいのです。あんな、あんな失態を……」
彼女が何を言っているのかチアキには分からなかったが、とにかくアイネが無事で良かったと、胸を撫で下ろし、ずぶ濡れになった彼女の隣に腰を下ろす。
「濡れてしまいますわ」
「ん、せやな」
すぐ近くにいるからだろう、アイネの震えがチアキに伝わる。寒いからだろうか、恐かったのだろうか。本当に、悔しいのだろうか。分からないから、ただ、隣に座る。
「……なあ、誰にやられたん? 一応、あんたもフリーランスやん。そこらの奴には負けへんやろ、普通」
アイネは俯き、唇を噛み締めていた。加減を知らないのか、皮の裂けた唇からは血が溢れている。
「アレは人間ではなかったように存じます。少なくとも、私にはそう……」
「まさか、ソレにやられたん?」
「いいえ、アレは、アレは――」
ぱちぱちと、ごうごうと、火の粉が弾けて獣が燃える。少しずつ、少しずつ灰になっていく。風に舞い上げられたそれは煙と一緒に天へと上る。帰ろうとしているのかもしれなかった。溶け往く肉と血液は母なる大地へ。灰になった体は母なる天空へ。
もしも、もしもこの世界が原初の女神ティアマトの遺骸から創られていたならば、子であるムシュフシュにとっては当然にして必然の帰還なのかもしれない。
ただ、子が母の許に帰るだけ。そんな光景を勤務外たちはぼんやりと眺めていた。ある者は地面に大の字になって、座り込んで、放心した様子で立ち尽くして。
「俺たち、勝ったんですよね」
神野の声は裏返っていた。彼は刀を握ったまま、ずっと離せないでいる。
「こっちは全員生きてて、ソレはこんがり焼き上がった、と。これが勝ちじゃなかったら私人間をやめてやるわ」
「……あー、疲れた。早く帰って寝たい」
「でも、ボクもう動けないかも」
一と立花は背中を向け合ってへたり込んでいる。
「皆さんお疲れさまでした。これにて本日の作戦行動は終了になります。一刻も早く店に戻り、報告を終えましょう」
「ムリー、ナナァ、アタシだけでもおんぶして帰ってヨ」
「汚ェぞチビ!」
疲れ切って誰も動けない。それでも、彼らは確かな充足を感じていた。いつもと変わらぬ賑わいの中、立花は一に体重を預ける。
「へへー、疲れたねー」
「今までで一番しんどかったかもね。いや、本当お疲れさま」
「ボク、頑張ったかな?」
「うん。頑張った頑張った」
立花は戦えていたが、彼女一人が貢献した訳ではない。全員がきっちり仕事をこなしたのである。誰か一人でも欠けていれば、こうして笑い合う事は叶わなかったかもしれない。
「ずっとこうだったら良いね」
「こう、って?」
「うん。皆でこうやって戦って、皆揃って笑うんだ。辛いし、苦しいけど、ボクは皆と一緒に、最後には笑いたい」
「……うん、そうだね。そりゃ良いや」
そうなったなら、どんなに素晴らしいか。
「あ、そういえば立花さんさ、出掛けに何か言おうとしてなかった? ほら、飛行機に邪魔されたけどさ」
「あ、と、えと、大した事じゃないんだけどね。お昼にソレと遭った時、あのムシュフシュってそんなに悪い子じゃないのかもって思ったんだ」
「……人を襲うのに?」
「で、でも、子供を襲わなかったんだ。……ナコトちゃんに置いてかれた後、駅前に女の子が出てきちゃったんだけど、あのソレは何もしないで逃げたんだよ」
聖なる獣。神の門を守護する竜。殺戮の為に産み出されながら、様々な神に仕え属性を変えたソレ。
「ま、良い奴ほど早く死んじゃうもんだよ」
「そ、そうなの? そんなのやだな。はじめ君、早く死んじゃうじゃないか」
「あ、はは……」
一は苦笑する。多分、長生きは出来ないし、するつもりもなかった。無論、自分が良い奴だとも思っちゃいない。
「さ、帰ろう。長居しちゃ風邪引いちゃうよ」
「……もう少しだけ、こうしてようよ」
「寒くない?」
「あ、温かいよ?」
立ち上がろうとしていた一は仕方なく座り直す。ふと顔を上げれば、ナナにしがみ付くジェーンが見えた。
その奥、一番向こうにいる神野の更に奥、小さな人影が目に入る。
「あーっ!」
こんな時、こんな場所に一体誰だろうと一が思うより先、立花が大声を出して立ち上がった。その声に全員の目が彼女に向く。
「知り合い?」
「ほら、ボクが言ってた女の子だよ! ソレに遭っても助かった子!」
「そうなの? いや、運が良いのか悪いのか……」
日に二度もこんな場面に出くわしてしまった女の子に一は同情する。
「迷子かも。ボク、行ってくるね」
立花は女の子に向かって駆け出した。背中越しに感じていた温もりを失い、一はしばし立ち尽くす。
「……あの少女、何者でしょうか」
「おわっ、びっくりした。て、え、何?」
背後から現れたナナに身構えつつ、一は彼女の発言を聞き返した。
「ですから、あの少女です」
「迷子じゃないのか?」
一は目を凝らして前方の女の子を観察する。
小さい。ジェーンよりも背が低く、小学校に入ったばかりか、もしくはそれ以下の年齢にしか見えない。猫のような耳の付いたニット帽を目深に被り、赤いダウンジャケットは丈が合わず袖から手が出ていなかった。それだけでなく、ジャケットが大き過ぎて足も殆ど見えていない。
「ただのガキだろ」
「ただの子供がこんなところに居合わせますか? 夜遊びするには早い年頃だと思います」
「最近の子はませてるぜ。俺なんかよりよっぽど……」
その続きは言えないまま終わる。
「一さん!」
ナナが叫び、何事かと一が思った瞬間だった。
「タチバナ!」
女の子に近付いた立花の体が崩れ落ちる。彼女は四肢を投げ出して地に伏した。その事実を全員が受け止め、頭の中で反芻するより先、呻き声と共に大きな衝撃音が響く。神野がビルの壁に叩き付けられていた。彼は身動き一つ取れないままに、ゆっくりと、倒れる。
「一さん敵です!」
「……敵って、そんな……」
ムシュフシュを倒した今、一たちの敵になるようなモノは――
「誰が……」
「しっかりしてください!」
――あの、少女だけだ。
「散れっ、あのガキ消えやがっ――」
三森が背後から強烈な一撃を食らった。見えない敵によってコンクリートに叩き付けられ、尚も威力が余ったのか、彼女はスーパーボールのようにバウンドし、やがて動かなくなる。
「うそ、だろ」
「アイギスを、握ってください!」
一の手から落ちたアイギスを拾い、ナナは彼の前に立った。
「お兄ちゃん、どうすればいいの!?」
「固まったらやばいわ、一人ずつやられる!」
「一さん退きましょう! 相手の正体が見えないままではどうにも出来ません!」
どうしろと言うのならこっちが聞きたかった。立花、神野、三森。瞬く間に三人もの勤務外がやられてしまったのである。何も分からないまま、何も出来ないままに、だ。
残った四人は戦々恐々としながら四方向を確認する。だが、敵は見つからない。どこにもいない。何も見えやしなかった。ただ、不様に伸びた三人が見えるだけ。
「糸で網を張るわ。あいつが引っ掛かって方向が割れたら教える。ちっちゃいの、そしたらその鉛玉撃ち込んで」
「……効くノ? ホントに、ダイジョーブ、なの?」
「っ、知らないわよ!」
「糸原さん、落ち着いてください」
「落ち着ける訳ないでしょうが!」
怒鳴り散らす糸原の気持ちは一も良く分かる。彼がこうして黙っているのは冷静になれたからではない。事態に頭が付いていかず、ただただ茫然としているだけなのだ。
糸原の指がぴくりと跳ねる。
「――っ、右!」
刹那、彼女の体が宙に浮いた。
「なっ……!」
「きゃ……あ、あっ」
仕掛けていた糸を何かに引っ張られている。それも、人間一人を浮かせるほどの力で。糸原は必死に抵抗するがもう遅い。
「糸原さん!」
糸原はレージングを掴んで落ちないでいるのに精一杯だった。
「――ひ、やっ……!」
そして、やはり地面に叩き落とされる。彼女は肩から墜落し、その衝撃で遂にレージングを手放した。
糸原や他のメンバーが生きているのか、死んでいるのか、確かめに行く勇気は誰にもなかった。動けば、次にああなるのは自分かもしれないのだ。
「……一さん、やはり一度退いた方が良いと思います」
一は思わず頷きかける。その意見には賛成である。が、倒れている者を見捨ててまでは逃げたくなかった。
「つーか、逃げられるんなら逃げたいけどな」
「エスケープは、させてくれないでしょうネ」
そも、逃がしてもらえるとは思っていない。到底思えない。先程の戦闘とは打って変わって、狩る側から狩られる側になってしまった。ここはもう戦場ではなく、あの少女の狩場に成り果てている。
「あの子は、何なんだ? ソレなのか?」
「分かりかねます。ただ、あのようなソレは私のデータベースには記録されていませ……いました!」
ナナが咄嗟に身構えた。
赤いダウンジャケットの少女は、ビルの壁面に足を着けていたのである。
「まるでシノビね」
「……俺が前に出る。心底嫌だけど」
一はアイギスを広げ、ビニール越しに少女を睨み付けた。目を反らせば死ぬ。体の内から押し寄せる強迫観念に囚われて、今は瞬きすら恐ろしい。
「来ます」
難攻不落。不壊の盾にして抜く事も貫く事も不能な絶対防御。アイギスが破られない限り、身に危険は及ばない。
「……あ?」
油断はなかった。
「お兄ちゃんどいて!」
放たれた矢のように、打ち出された弾丸のように、身を貫く疾風のように。少女が拳を振り上げて、傘にずぶりと穴が開く。女神の盾が、壊れゆく。
「ぐが、あっ……!」
一の肩に鈍く、尾を引く痛みが走った。彼は絶対の自信と絶大な武器を失った事に気付かないまま意識を閉ざす。
「コイツっ、よくも!」
「いけませんっ」
銃口は震え、狙いが定まっていない。それでもジェーンは眼前の敵に向かって引き金を――。
「ジェーンさん、くっ……」
引けなかった。
彼女が指を置くよりも少女の方が素早かったのである。腹部にアッパー気味のパンチを叩き込まれ、ジェーンは声すら出せず失神した。
残ったのは、ナナ一人。最後まで逃げようと訴えていた彼女だが、ことここに来てそういう訳にはいかないのだと判断する。
「……排除します」
ナナがスカートを翻すと、その中から何かが転がった。少女は意に介さず突っ込んでくるが、強烈な閃光と爆音が襲い掛かる。
スタングレネードの効果に紛れ、ナナは腕に仕込んでいたブレードで切り掛かる。が、手応えはない。背後から気配を感じ、地面を思い切り踏み付ける。半身になり、後方へと肩からぶつかった。確かに何かが触れるのを感じて、彼女は勝利を確信する。
「これが私の全力全開、鉄山靠です」
ムシュフシュの体躯すら吹き飛ばした渾身の一撃だった。これ以上なく力を込めた。エネルギーは予備含め全て使い果たしてしまった。肩からはショートしたパーツが火花を起こしている。
それでも尚、ターゲットは立っていた。少女は微動だにせず、ナナを見上げている。
「……真っ向から受け止められましたか」
ナナの口調には諦めが混じっていた。
立花や神野は刀を抜く暇すら与えられず、三森は炎を放つよりも早くに止められてしまった。少女は糸原よりも強かで、ジェーンの銃よりも早く、一の盾すらも軽々と砕く。
「……っ、機能、てい、し……」
そして、ナナの一撃を受け止めて返す。
勤務外は数でソレに挑んだ。戦いでは数が物を言う。事実、彼らはムシュフシュに勝利した。だが、この世には道理を蹂躙する、理不尽を具現化したようなモノも存在する。
例えその数が七ではなく百、千、万であっても関係なく、たった一つの質で押し返すモノも存在する。
力で、力で、力だけで全ての矛を打ち砕き、全ての盾を引き裂いてしまうようなモノも存在する。
少女こそが、正しくそれなのだ。
勤務外ではなく、ソレでもない。
最硬、最高、最巧、最大、最速、最優、最知、最悪、最長、最重。
どれも彼女には敵わない、及ばない、届かない、通じない、足りない、太刀打ち出来ない、歯が立たない、勝負にならない、手も足も出ない、どうしようもない。何よりも、圧倒的に似合わない。
そう、この少女には正しく最強こそが相応しい。