あなたはきっとムシュフシュのように首を長くして
「何度言ったら分かるんですか? あなたは馬鹿ですか? 違いますよね? あれ、馬鹿でしたっけ? 仕方ありません、不出来で世話の掛かる人は死ぬほど、殺したいほど嫌いなのですがもう一度だけ教えてあげましょう。ムシュフシュとは、つまりオリエント圏のキメラなんですよ。ここまでは理解出来ましたよね。では一さん、ムシュフシュの登場する、バビロニア神話における創世記叙事詩の名前をお聞かせ願えますか?」
「……エヌマエリシュ」
「はいっ、良く出来ました! 偉いですねえ、賢いですねえ、あ、飴食べます? ふーん、そうですか。では次にいきましょう。ムシュフシュの身体的特徴を述べなさい。述べなさいと言っているんです。早く、考える時間はさっきから山ほど沢山しこたまあげているでしょう?」
「……蛇の頭に……」
「遅いっ、スロウリィ! そんな事では陽が暮れてしまいます。良いですか、速さとは時に全てを凌駕します。だからあたしは新聞の編集者を尊敬しているんです。分かりますか? 月刊、週刊よりも日刊です。あの人たちは毎日毎日締め切りに追われながら生活しているんです。あなたのような愚鈍極まりない方には向いていませんね。つまり、あたしはあなたを絶対に尊敬などしないという事になりますねえ、はっ。それではムシュフシュの話に戻りましょう。ムシュフシュは時代とともに姿を変えてきた珍しいソレと言えます。そも、このソレに関する伝承は多く残されておらず、色々とあやふや且つ適当な部分があったんですね。ですから、最初期は蛇の頭ではなく獅子の頭を持っていたんです。また、翼や角、尻尾に関しても文献によってはバラバラです。生えている場合もあればその逆もしかり。なるほど、やはりキマイラ的なソレではありますね」
一は帰りたくて仕方がなかった。時刻は三時を回ったところ、図書館に着いてから一時間しか経っていなかったのだが、彼はその小一時間足らずで人格を否定されるような暴言を何度も浴びせ掛けられている。
「なあ、もう勘弁してくれないかな……?」
「勘弁、とは? あたしはこれから戦う敵の事について懇切丁寧に説明してあげているんですよ。なのに、勘弁? 正直な話あなたの態度に勘弁です。話を続けます。ムシュフシュを産んだ神様の名を答えてください。さん、にぃ、いち、はいざんねーん、超遅いです。正解はティアマト、ですね。彼女がマルドゥクとの戦いの為に生み出した十一の怪物の一体がムシュフシュだったのは覚えていますか? 覚えてないんですか? 覚えてないんですね、この愚図がっ」
「ああもうっ、うるさいな! 覚えてるって!」
「でしたら、十一の怪物を全て答えてください」
ナコトはニヤニヤとした笑みを隠し切れていない。彼女が、司書の先輩に怒られた鬱憤を一で晴らそうとしているのは誰にだって分かった。
「……えーと、まず、えーと」
「はあ、もう良いです。あなたにはがっくり残念失望です。七岐の大蛇ムシュマッヘ。竜、ウシュムガル。毒蛇ウシュム。蠍尾竜ムシュフシュ。海魔ラハム。獅子ウガルルム。狂犬ウリディシム。蠍人間ギルタブリル。嵐の魔物ウム・ダブルチュ。魚人クルール。有翼の牡牛クサリク。しかし、この十一体に限らず諸説はあるようですがね。さて、覚えました?」
覚える気もない。一はあくびを噛み殺し、嵐が過ぎ去るのを待つ。
「しかし、戦いを生き延びたのは十一の中でムシュフシュ一体のみです。他の怪物は全て殺されてしまいます」
「……ムシュフシュだけ助かったのか?」
「そこが面白いところではありますね。ムシュフシュはただの怪物とは違う風に伝えられているんですよ」
少しばかり興味が湧いたので、一は楽しげに喋るナコトへと向き直った。
「イシュタル門をご存知ですか?」
「いしゅ……いや、知らない」
ナコトはこれ見よがしに溜め息を吐く。実にわざとらしく、鼻に付く所作であった。
「イシュタルとは古代メソポタミアにおいて戦、金星、性愛の女神として広く崇拝された有名な神です。シュメール語ではイナンナとも呼びますが、やっぱり中身は殆ど同じですね。イシュタルについてはギルガメシュ叙事詩など大いに語るべき、語りたいところがありますが長くなるので割愛しましょう。あ、今ホッとしましたね?」
「してねえよ」
一はホッとしていた。
「イシュタル門とはイシュタルやドラゴンなどの浅浮き彫りなどが描かれており、重要な場所として見られています。ま、崇拝地としての機能を備えていたのではないでしょうか」
「……あのさ、ムシュフシュとイシュタル門とどう繋がるんだよ。関係ない話ばっかしてんじゃねえっつーの」
「話は最後まで聞いてください。そのイシュタル門にムシュフシュが描かれているんですよ。これがどういう意味なのか、分かりますよね?」
「いや、ちっとも」
「馬鹿っ」
急に怒鳴られた。さっきからナコトはこんな調子なので、一はさして驚きもしなかったのだが。
「ヤマタノオロチの時もそうでしたが、あなたはもっと考える事を覚えるべきです。成り行き任せ風任せではいつか破綻しますよ。さ、考えてみてください。怪物の筈のムシュフシュが何故イシュタル門に描かれているのかを」
「うーん、気分だったんじゃねえ? ほら、怪物なんて見栄えが良いしさ。彫ってる奴も気分転換になるんじゃ――ってうおおお! 辞書投げんじゃねえよ!」
辞書は一のすぐ後の本棚に激突する。
「本好きの、と言うか人間の風上にも置けない行動だな」
「そこの辞書の出版社は好きじゃないんですよ。しかし、意外と良いところを突いていますね」
「だったら投げるな!」
「ムシュフシュはただの怪物、魔物じゃないんです。こいつは守護獣としての側面も持ち合わせているんですよ」
「急に話を――って、え、守護……? でも、こいつ人を襲うんじゃねえの? 魔物として生み出されたんだろ?」
ナコトは自分で投げた辞書を拾い直しに行き、その埃を叩く。
「確かにそうです。が、ムシュフシュはティアマト討伐後、マルドゥクに下り、彼の乗り物として仕えるようになるんです。更にムシュフシュはティシュパク、ニンギシュジダ、アヌなど名立たる神の下を渡り歩きます」
「世渡りの上手い奴だな」
「獣以下の人生を送っているあなたは見習ったらどうですか?」
一は何も言わず目だけで訴えた。勘弁してくれ、と。
「マルドゥクの乗獣となってから、ムシュフシュはただの怪物から守護者としての属性に変わったんでしょうね。はい、ではここでもう一度問いましょう。どうして、ムシュフシュはイシュタル門に描かれているんですか?」
そこまでヒント、どころか答えが出ている状況では一にも分かる。
「門番って事か?」
「…………ああ、うん、正解です」
「正解したんだからさあ! もっと嬉しそうに言えよ!」
ナコトは長く、大きく息を吐いた。
「いえ、あなたが嬉しそうにしているのを見たら、ついサディズムが。ま、良いでしょう。正解です。ぱちぱち」
「口で拍手するな。けどさ、さっきも言ったけど守護する奴にしては怖過ぎるよな」
「はい馬鹿はっけーん。門番が怖くなくてどうするんですか。チワワのいる家とドーベルマンのいる家。いつものあなたならどちらの家へ盗みに入りますか?」
「黄衣さん、その言い方だと一さんがいつもいつもどなたかのお宅へ盗みに入っているように聞こえますよ」
訂正を暗に求めたが、軽々と無視されてしまう。
「言いたい事は分かったよ。ムシュフシュってのは怪物から、守護者としての役割になっていったソレなんだな」
「性質だけでなく、時とともに姿も変化していった稀有なソレです」
ここまでの話は納得出来た。が、一つだけ一には分からない事がある。
「でもさ、そんな良いモンがどうして人を襲うソレになってんだ?」
「……さあ、そこまでは。ただ、これはあたしの見解になるんですけど、ムシュフシュはあくまで神に仕える聖なる獣。あたしたち人間に対してはかなりどうでも良く思っているのではないでしょうか?」
「そうかあ?」
「さあ?」
ナコトの対応はかなり適当だった。そろそろ喋るのにも飽きてきているのだろう。
「ふうん、いや、でもタメになったよ。それじゃ、そろそろ弱点とか教えてくれよ」
「……そうですね。しかし、ムシュフシュですか。百獣の王の前足。猛禽類の中でも最強との呼び声が高い大空の雄、鷲の後ろ足、そして翼。サソリの毒を持ち合わせた凶悪なスペックのソレ。まるで『ぼくが考えたさいきょうのモンスター』ですね」
ナコトは他人事のように呟き、手近な本を開いた。
「でも、そういうのに限ってつまらない弱点があるもんだろ? 脛が弱いとか、熱に弱いとかさ」
「いえ、ないですね」
すっぱりきっぱりさっぱりざっくり。
「おい、おいおいちょっと待てよ。冗談きついぜ、そりゃねえだろ、こっちは弱点が教えてもらえると思ってお前のつまんない話我慢して黙って聞いてたんだぞ」
「なっ……! つ、つ、つ、つまらないですって……!?」
「話長いんだもん」
「話の長さは話の面白さと関係ないでしょう!」
「ご尤も。だけどこの時間は苦痛だったと言っておく。良いか黄衣、人間には飴と鞭が必要なんだ。弱点という飴がもらえなかった俺は、ただお前の長い話という鞭をひたすらに受けていたに過ぎないんだよ!」
一は立ち上がり、肩を回して体を伸ばした。
「あー、疲れた」
「くっ、本当に腹の立つ方ですね。こっちが大人しく下手に出ていればいい気になって……」
「いつお前が下手に出てたよ!? 嘘吐いてたくせに図に乗ってんじゃねえ!」
「あーはいはい分かりました分かりましたよ。弱点を教えれば良いんでしょう。あのですね、ムシュフシュの弱点は肩の後ろの二本の角の真ん中のとさかの下の鱗の右でーす。はい、これで良いんですか?」
「絶対嘘だ!」
結局、これといった成果を得られぬまま一は北駒台店に戻った。
オンリーワン北駒台店、前。
陽は既に暮れ掛け、ここに佇む勤務外たちの横顔を淡く照らしていた。
「十六時五十二分。全員、集まったな」
捲くっていた袖を戻してから、店長が集まっている勤務外に視線を向ける。一一、三森冬、糸原四乃、ジェーン=ゴーウェスト、立花真、神野剣、ナナ。勤務外、その数七名。北駒台店が保有する戦力が全て、今ここに集結していた。
「やる事は一つだ。馬鹿なお前らには丁度良い数だろう。ソレを叩いて砕け。それだけだ。質問はあるか?」
「はーい。足はどうするんですかー?」
糸原がきょろきょろと視線を動かす。現場に向かう為の車がない事を不思議がっているのだろう。
「何を言っている。そこに付いてるだろう。自分たちで歩いていけ」
「はああ!? ソレと戦うまでに疲れさせてどうするつもりなのよ」
「知らん。ウォーミングアップとでも思え」
「糸原さん、諦めましょう」
「うるさい。あー、もうやる気なくなっちゃったなー」
その場にへたり込むと、糸原は一の靴紐を解き始めた。
「ボス、確認ネ。ターゲットはムシュフシュってので間違いナイのかしら?」
「ああ、間違いない。そうだな、一?」
一は糸原を払い除けて首肯する。
「ついでに言うと、ムシュフシュは聖獣、守護獣としての役割も持っているそうです」
「……はっ、関係ねェよンなもん。相手が神様だろーがなんだろーが、ヤレってンならヤるだけだ」
「三森さんの仰る通りです。殺せと言うなら殺す。私たちはそういうモノとしてここにいるのですから」
「血の気の多い人たちだなあ……」
神野は持っていた竹刀で肩を叩くと、苦笑を浮かべた。
「はじめ君、聖なるって良い子だって事だよね?」
「ん? ああ、まあ、そうなるの、かな」
「じゃあボク、一つ気になってる事があるんだけど……」
立花が何か言い掛けた時、飛行機が真上を飛ぶ。声はより大きな音に掻き消され、彼女は恥ずかしそうに頬を朱に染めた。
「えっと、立花さん何か言った?」
「う、ううん! 良いんだ、また後で言うよ」
「それより立花、来てもらってこんな事を言うのはアレだが、いけるのか?」
店長は恐らく、数時間前の失態について言っている。ソレを前にして逃げ帰り、文字通り歯が立たなかった立花がまた戦えるのかどうか聞いているのだ。
「……う、えっと……」
「正直に言ってしまえばだな、私はお前の心配をしているつもりはない。他の奴の足を引っ張るぐらいならここに残れと、そう言っている」
立花は俯き、肩を震わせる。
「店長、何もそこまで」
「一、お前は立花に甘過ぎる。お前らも忘れるな、いつかどこかで弱者を切り捨てる時が来る。必ずだ。今日がその時かもしれんな。……良いか、その時になってから迷うな」
誰もが予想していて、誰もが口に出さなかった事を平然と言ってのける店長が、一には気に食わない。
「何も今言う事じゃないでしょう。俺たちは今から戦いに行くんですよ」
「それがどうした。一、何ならお前も残るか?」
「――っ、どうしてあなたは……!」
一が店長を睨み付けたその時、立花が彼の袖をぎゅっと握り締める。
「……立花さん?」
「ごめん、はじめ君。ごめんなさい店長さん。ボク、ちゃんと戦えるから」
「戦えるんだな?」
「か、刀は折れちゃったけど、他にもいっぱい持ってるし、その、ボク……」
店長は煙を吐き出し、短くなった煙草を指で弾き飛ばした。
「戦えるんだな?」
立花は息を呑み、一の袖から手を離す。
「――戦えるよ」
店長は喉の奥でくつくつと笑い、二本目の煙草に火を点け始めた。
「現場での指揮はゴーウェストが執れ。ここに残る私ではどうしようもないからな」
「Yes,sir。全員きっちりアタシに従いなさいよネ」
「てめェなンかに務まるのかよ?」
「三森、お前が他人に指図出来るタマか? 大人しく駒になって暴れておけ」
「へーへー、分かりました。ンじゃま、そろそろ行こうぜ」
「ちょっと! アタシのオーダーなしに動かないでヨ!」
がなるジェーンを無視し、三森はだらだらとした動作で歩く。彼女に続き、他のメンバーも進み始めた。
「ヘイ! ヘイ! 先頭はアタシなんだってば!」
「……遠足にでも行く気か。ああ、一、ちょっと待て」
最後尾の一を手招きして呼び寄せると、店長は少しばかり声を潜める。
「なんですか?」
「そう拗ねるな。一、もしもの話だがな、ゴーウェストが指揮を取れない状況に追い遣られた場合はお前が代わりを果たせ」
「……俺が?」
あのメンバーを纏めなければならない事を考え、一の気持ちは深く沈んだ。のみならず、ジェーンにもしもの事があるなんて考えたくもない。
「三森は他人に目を配れるがそれだけだ。率先して人を使おうとはしない。そもそも、あいつには誰かと一緒に戦った経験がないからな。柄じゃないとでも言って笑い飛ばされるのがオチだ。同じような理由で糸原にも頼み辛い」
「立花さんや神野君ならどうなんですか?」
「馬鹿か。お前は高校生に責任を押し付ける気か」
「じゃあ、ナナは……」
言い掛けて、一は今自分が死ぬほど格好悪い奴だと気付く。
「悪くないが、ナナはまだ経験が足りていない。ソレを殺す事になら上手くお前らを扱うだろうがな、全員が生きて帰れるかどうかは別問題だぞ。良いか、適役なのはお前なんだ。お前しかいない」
「消去法でしょうに」
「消去法も立派な方法だ。ほら、置いていかれるぞ。早く行け」
呼び止めたのはそっちだろう。とは一には言えなかった。彼は渋々走り出す。
戦場へ。戦場へ。戦場へ。
敵の待つ戦場へ。死が香る戦場へ。命を終わらせる為に、あるいは、命を終えさせられる為の戦場へ。
深い深い地の底の、暗い暗い闇の中。一筋の光も届かない、ひとさじの希望も存在しない世界。
ここを奈落と呼ぶ。
ソレに関する犯罪者、あるいはソレそのものが収容されているとされる刑務所、のようなものだ。
らしい。される。ようなもの。
何せ、タルタロスに関してはっきりとした、確固とした事実を知っている、持っている者が少ないのだからしょうがない。タルタロスの存在すら知らない者が殆どで、知っている者は、その名程度しか知っていない。誰も、何も知らない。
誰もがあやふやなまま、曖昧なまま、その存在を誤魔化したままにして過ごしている。
一方で、タルタロスに関わる者も地上の事について同様であった。
誰もがあやふやなまま、曖昧なまま、地上への知識、意味、意義、その全てを誤魔化したままにして過ごしている。
深遠にして深淵。奈落と称されるほどの広大な世界にて女が一人。世界の隅っこの小さな部屋で、一人で女性向けの雑誌を読んでいた。誰も知らない。知る必要などなかった。彼女はただ、常にこうして時を刻んでいる。
「……このモデル鼻大きいわね」
そう言って独りを楽しむのは、室内だと言うのにフードを深く被った――以前、一にエレンと名乗った――女だ。黒いローブを身に纏っている彼女の顔も、表情も確認出来ない。閉ざされた空間に何を思うのか、荒れ果てた空間に何を考えるのか、何も分からない。フードからは、鮮やかな赤で彩られた唇だけが薄っすらとそれを覗かせている。
透き通るように白く、細い指がページを繰った。男を誘うような、強かな手付きでもある。
「あら?」
エレンが雑誌から顔を上げた。その刹那、赤錆びたドアが重い音を立てて開く。現れたのは、右腕に仰々しいばかりの包帯を巻いた女性であった。
「今日は誰も招いていないのだけれど」
「客ってのは、大体が招かれざるモノよ」
包帯の女性はエレンの対面の椅子を引くと、乱暴にそこへ腰掛ける。
「何か用でもあるのかしら。私は今、雑誌に目を通すので忙しいの」
「その本、あの子が持ってきたって奴? 男を落とす肉食系女子へ、ねえ。へえ、人間の男のくせに分かってるじゃない。あんたにはお似合いよ、それ」
「……私は構わないけれどね、この場にいないあの子を馬鹿にするのはやめにして頂戴。底が知れるわよ。私は構わないけれど」
エレンはくすりと笑い、雑誌を机の上に置いた。
「話がないのなら出て行って」
「あるわよ。飛びっきりのつまらない話がね」
「やっぱり帰って頂戴」
風も吹いていないのに、独りでに扉が開く。その事実に女性二人は驚く様子すら見せなかった。
「駄目よ、駄目駄目。嫌いなものばかり遠ざけて好きなものに囲まれていちゃあ駄目よ。そりゃあ気持ちの良い生活になるでしょうけど、毎日毎日イイ事ばかり経験していたらいつか麻痺しちゃうわよ」
「結構よ。嫌いなものに近付くくらいなら死んだ方がマシだもの」
「人生を面白くするのに必要なのは一握りのスパイスよ。たまには不味いものを食べるのも良いんじゃない?」
そう言ってから包帯の女は椅子に深く座り直す。本題に入るつもりなのだろう。
「あなたの嗜好はともかくとして。ムシュフシュが地上に現れたらしいわ」
「ふうん、そうなの」
ムシュフシュと聞いた瞬間、僅かにエレンの声音が強張った。思うところがあるのか、彼女は苛立たしげに指で机を叩く。
「へえ、あの女が……」
「ふふ、早く続きを話せって顔してるわよ?」
「分かっているのなら早く話した方が身の為よ」
「ついさっきの話ね。オンリーワンの情報部がムシュフシュを捉えたそうよ」
エレンは唇を強く噛み締めていた。
「……殺したの?」
「いいえ、まだ。尤も、勤務外が動いているらしいけどね。何でも、今までにないくらいの戦力で挑むらしいわ。そ、あなたのお気に入りの坊やも一緒に」
包帯を巻いた女はけらけらと笑う。
「きっと殺されちゃうわね。流石に相手が悪いもの。きっと殺されちゃうわ、あの子たち」
「私、あなたの事は好きじゃないのよ」
「……何ですって?」
開いていた扉が独りでに閉まる。けたたましく音を立て、言い知れぬ余韻が室内をじわじわと満たしていく。
「あなたもここを束ねる神であり、女王なのでしょうけれど私には敵わない。ここをクルヌギアに変えられたくないのならもっと頭を使う事ね」
「面白い事を言うじゃない。本当に、あなた風情が私に勝てるとでも?」
「試してみても良いのよ。その時には、あなたは骨を通り越して塵になっているでしょうけれど」
刺すような沈黙が包帯の女を襲う。彼女は視線だけは反らさないでいられたが、結局それ以上の事はしなかった。出来なかったと言い換えても良い。彼女とエレンは似たような立場ではあるが、力の差が歴然としていたのである。
「ま、仲間同士でやり合うのも面白くないわね」
包帯を巻いた女は興味を失った風に装って軽く言い捨てた。
「私はそう思っていないわ。あくまで同じ土地に住んでいるってだけ。領土は隅の方で充分だから、必要以上に干渉して欲しくないのよね」
「同郷の誼と思いなさいよ。それとも、私以外の、ここの全てを敵に回せるとでも思っているのかしら?」
それは脅しだった。包帯の女は意趣返しのつもりだったのだろうが、しかしエレンは薄く笑むだけである。
「あら、私は別に気にしないけれど? あなたたちを敵に回しても構わなくてよ」
「……っ! 敵に回しても、五体満足で済むとは思っていないでしょうね。思い上がるのもいい加減にした方が身の為よ?」
「そう? では、大人しくするとしましょう。あなたたちの身が心配だもの」
くすくすと笑い続けるエレンに、女は苛立ちを覚えた。力では敵わない。ならば言い負かすぐらいは遣って退けたい。そう思ったのが間違いであった。
「あなたがそんなだから、妹さんにも嫌われてしまったのではないのかしらね」
女がそう言って扉を開けようとした瞬間、右腕に鋭い痛みが走る。
「――ッッ!?」
痛みに耐えかね膝を着いた女の傍に、エレンが近付いた。
「その腕、レージングの女にやられたのですってね。どうかしら、まだ、痛むのかしら?」
「あなた、こんな事をして……!」
睨み付けるも涼しげに受け流されてしまう。エレンは躊躇せず、痛々しげな女の右腕を愛しげに摩った。
「あら、責任を押し付ける気? 忌まわしい獣の名を出されただけでも私は腹に据えかねていたの。そんな折、あの子の事を出されたら……ねえ、どうなると思うのかしら? あなたは、どうなっても良いと思ったのかしら?」
右腕を締め付ける力は増すばかりである。このままでは本当に千切れてしまう。それを恐れ、女はただひたすらに謝った。
「塵になる代償を腕一本で払えると言うのにね。良いわ、この場は助けておきましょう。あなたの声、とても耳障りだもの」
エレンは愉しげに笑ってから、女の耳元に顔を近付ける。
「それにしてもあなた、イイ声で鳴くのね」
囁いたそれは、硝子のように脆く、美しい声であった。