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24時間戦う人たち  作者: 竹内すくね
ムシュフシュ
153/328

キマイラ的な彼女


 ナコトが逃げ帰ってくる数十分前の事――。

 立花、ナコト両名はまともに会話を交わさないまま、ソレが出たという駒台の駅前にまで辿り着いていた。

 ソレが現れた。だと言うのに、駅前は音をなくしてしまったかのように静まり返っている。

「……いない……?」

「あるいは、もう終わってしまったのかもしれませんね」

「そんなっ……」。

「ですが、特に何かがあった跡は見受けられませんね」

 ナコトは周囲を注意深く見回しながら呟く。ソレが出現したならば、犠牲者も出る。しかし、この場に血痕など虐殺の跡は見られない。

「キマイラか鵺。なら、痕跡を気にして獲物を丸呑みにはしないでしょう」

「じゃあ、まだ何も起こってないのかな」

「さあ、どうでしょうね」

 良かったとは思わない。犠牲が何人出ようが関係ない。ナコトは肩透かしを食らったのだから。

 彼女には勝算があったのだ。立花にも、ソレにも。現れたのがキマイラか鵺なら、対処法は知っている。ナコトは以前それらと対峙し、退治した経験があるのだ。二体とも、凡そ知性と呼べるものは備わっていない。獲物を前にすればただ引き裂き、ただ切り裂き、ただ食らうだけ。

 だからこそ、この状況は想定外であった。駒台の一般人がよほど危機回避能力に長けているか、あるいはソレが愚鈍だったのか。

「……おいしいところを頂く予定だったんですが……」

「え? ナコトちゃん、何か言った?」

「いいえ、何も。……しかし、これではオンリーワンの情報部を疑うしかないですね。本当に信用出来るのですか?」

「うーん、ボクは良く分からないんだけど、今まではこんな事なかったかな」

 ガセを掴まされた。騙された。ナコトがそんな思いに囚われ始めた、その時である。

「――っ!」

 物陰、彼女らの死角から何かが飛び出してきたのは。

 何かは立花、ナコトの間に飛び込んだ。二人は相手の正体を確かめる事も出来ないまま、咄嗟にその場から退き、ようやくになってそれぞれの獲物を構える。

「――――――ッッ!」

 咆哮。感情のこもっていない目玉が立花を捉えていた。

 その姿、確かに形容し難かった。一見すれば馬ほどの体躯を持つ巨大なトカゲだが、所々何かが違う。鱗に覆われた胴体に、前脚は獣のようで、後脚は鳥のようであった。背中には翼が生え、尾の先端は鋭く尖り、まるでサソリのそれを思わせる。

「出たなっ」

 だが、怯まない。立花は刀を鞘から抜き、ソレと睨み合う。そして、仕掛けた。ソレの武器が前足の爪による攻撃だと判断して、一足で踏み込む。

「くっ……」

 近付いたものへと反射的に出した攻撃なのだろう。ソレの繰り出した爪は立花の艶掛かった髪を数本持っていく。

 彼女の筋肉が強張り、寸暇ながら動きが鈍った。予想よりも早い反応に立花は恐怖する。

「う、ああああっ」

 予想より少し早い。その程度ならば止まらない。頭を下げたまま、彼女は刀の切っ先をソレの腹部目掛けて突き刺す。相手は自分よりも大きい、それだけでなく人間ではない。目に見えて分かりやすい急所より、まずは徐々にダメージを奪い、戦意を削いでいく。

「――そんな!?」

 しかし、ソレは立花の攻撃を意に介さず再び爪を振り上げた。堪らず、彼女は今一度距離を取る。

「……甘いですね。自分よりも巨大な相手に長期戦を挑むとは。素直に目でも狙っておけば有利になれたのに」

 何もしていなかったナコトの口は達者だった。彼女は鎖をくるくる回しながら、立花を馬鹿にしたような目付きで見遣る。

「だったらナコトちゃんがやりなよ。言うは易し、なんだから」

「そのつもりです。役立たずは引っ込んでいてください」

「なっ……!」

 ナコトは立花の刀を指差して冷笑を浮かべる。

「刃が欠けていますよ」

 立花は弾かれるように箇所に視線を遣った。確かに、切っ先が欠けている。ソレの体を貫いた感触はなかったが、まさか刀を駄目にされるとは思っていなかった。

「点ではなく面を攻める。斬撃より打撃。硬い相手には一点を狙って貫くよりも、装甲の上から衝撃を与えるのが賢いやり方です。脳筋には難しい話でしたか?」

「……うるさいな」

 ナコトは心底愉しげに口角をつり上げると、鎖の先端に付いた分銅を回転させる。回るごとに、風が切り裂かれ、圧が掛かっていく。

 それを脅威と感じたのか、様子を窺っていたソレがナコトに向かって駆けた。後ろ足がコンクリートを踏みならし、爪が浅く食い込む。飛び散る破片は進行に影響を及ばさない。ソレはただ、向かうのみだ。

「来たっ」

「回転は充分に稼ぎましたっ!」

 弾き出された鉄塊が空気の壁を切り裂きながら突き進む。ナコトの放った一撃は、勢いを殺さぬまま、真っ正面を向いたソレの鼻先にぶち当たり、そしてあっけなく砕けた。

「――――ッッッッ!」

 僅かな抵抗にすら怒りを覚えたのか、ソレは天に向かって息を迸らせる。

「ぎゃあああああああ!」

 女子とは思えない叫びを上げ、ナコトは逃げ出した。

「ちょ、ちょっと! 置いてかないでったら!」

 続いて、戦意を喪失した立花が彼女の後を追い掛ける。

「付いてこないでっ、あなたはアレと戦っていれば良いでしょう!」



「……と言うお話だったのさ」

「おい」

 おでんのダシを飲み干したナコトが妙に悟ったような口調で言い放った。

「いや、霊験あらたかなお話でしたね。しかし本当に危なかった。九死に一生を得ましたよ」

 一は制服から私服に着替えながら溜め息を吐く。ナコトが生きて戻ったのは喜ばしい事だが、立花はまだ戻らない。へたれのワリを食った形なのだろうが。

「一、とっととそいつを追い出せ。バックルームは部外者立入禁止だぞ」

「おやおや、協力者にそんな口を利いても良いんですかー?」

「黙れ獅子身中の虫め」

 露骨に煙たがる店長を軽くあしらい、ナコトはおでんのお代わりを要求する。

「辛子多めで。あ、それとピザまん一つ」

「信じらんねえ。厚顔無恥にもほどがあるぞお前」

「労働に見合う対価を要求して何が悪いんですか。あなたはぬくぬくとした店内で突っ立っていただけだというのに、そんな口を利かないでください。あなたはあたしの雇用主ですか? 違いますよね?」

「俺だってお前を雇ったつもりはねえよ」

 一はロッカーを乱暴に閉めると、パイプ椅子にふんぞり返っているナコトの頭を叩いた。

「痛いっ、訴えますよ。そして勝ちますよ」

「おい、立花さんは無事なんだろうな。あの子に何かあったら許さねえぞ」

 ナコトは面白くなさそうに割り箸を折ると、帽子を被り直す。

「知りませんよ。あたしは後ろを見ないで必死に逃げてきましたから」

「お前が見た限り怪我とかはしてなかったんだな?」

「……ええ。刀は折れちゃいましたけどね」

 一は髪の毛を掻き、店長に視線を注ぐ。こうなっては彼女の指示を仰ぐしかない。

「そうイラつくな。見てるこっちがイラついてくる。立花だって死ぬほど馬鹿じゃない。武器がないなら退くだろう。大人しく待つんだな」

「そうは言っても……」

「だったら何か、立花と黄衣を以てしてもどうにもならない相手に、お前一人で立ち向かうつもりか?」

 一は黙った。

「家に帰るのももうしばらく様子見だ。ソレの正体と出方が分からない以上、住民への避難勧告も出し辛い。この街にはまだ化け物が潜んでやがる。良いか、絶対に勝手な真似はやめろ」

「…………じゃあ、どうするつもりですか? 一人ずつ行っても殺されるかもしれない。そんな相手に、誰がどうやって対処しろって言うんですか?」

「それを今から考えるんだ」

 一は頭を抱えてナコトの隣に腰を下ろす。

「黄衣、ソレの正体は分かるか?」

「……あたしは初めて見るソレでした。ただ、やはり系統的には鵺やキマイラと似ていましたね」

「そうか……」

「せめて、名前さえ分かればアイギスを使えるのに、ですか?」

 思わず息を呑み、目を見開いた。一は内心を言い当てられた動揺を隠そうとして無理に笑う。

「いや、正体さえ分かれば打つ手もあんだろってな」

「あたしには隠さなくて良いんですよ?」

「はっ、隠すって何を?」

「い、ろ、い、ろ、です」

 悪戯っぽく微笑むと、ナコトは椅子から立ち上がった。

 と、同時、バックルームの扉が開け放たれる。けたたましい音を立て、扉が壁にぶつかってゆらゆら揺れた。

 入ってきたのは立花である。彼女は汗で髪を濡らし、息も絶え絶えといった有様だ。

「はっ、は、はじめくぅーん!」

「おっと」

 飛び掛かってきた立花を躱すと、一はとりあえず胸を撫で下ろす。この様子だと、彼女はどうやら怪我をしていないらしい。

 一方、立花はパイプ椅子に顔を埋めてめそめそと泣いていた。

「ひっ、ひどい。ひどいやはじめ君。ボクはあんな辛い思いをしてきたのに……ナコトちゃんはボクを置いて逃げちゃうし……恐かった、恐かったよぅ……」

「あー、ごめんごめん。びっくりしちゃって、つい。許して、ね?」

「……じゃあ、慰めて」

「は?」

 立花は椅子から顔を上げて駄々をこね始める。

「慰めて慰めて慰めてくれなきゃやだーっ、もうやだーっ」

「落ち着きなよ、ほら、鼻かんで。女の子が鼻水垂らすのはどうかと思うんだ」

 一の差し出したティッシュペーパーを受け取ると、立花はちーんっと豪快に鼻をかむ。その光景を見て、ナコトは盛大に笑っていた。

「ほらほらー、痛いの痛いのとんでけー」

「ボクは子供じゃないよ!」

「鼻垂らしてた人がどの口ほざきますか。と言いますか、あなたはアレが仕事でしょう。タラタラタラタラ文句言う筋合いがどこにあると?」

「うるさいなあっ、ナコトちゃんは何もしなかったのに! ゆうきゃんに戦ったボクに口出ししないでよ!」

「は? は? 今何と? ゆう、きゃん? 勇敢の間違いではありませんか? つーか噛んでる! 一さん、この人噛んでますよー! ゆうきゃんゆうきゃん、ゆうきゃんふらーい!」

「うわあああああっ」

 立花はナコトに襲い掛かるが、簡単に避けられて再びパイプ椅子に顔を埋める始末だった。

「おいクソガキども、お遊びはそこまでだ」

「だったらここからボク本気出すからっ!」

「黙れ」

 顔を上げた立花を三度沈めると、店長は深く息を吐いた。

「立花、黄衣、ソレの正体は本当に分からなかったんだな?」

「何度も言わせないでください。あなたはボケてるんですか? 違いますよね? だったらあたしに……」

「いや、その人ボケ掛かってるから」

「殺すぞ一」

 店長は煙草に火を点け、胸いっぱい紫煙を吸い込む。

「ならば話は早い。相手の正体も、殆ど何も分からないなら搦め手は通用しないだろう。力比べだ。要はどっちが強いか、それだけの話だろう」

「い、いや、ちょっと待ってください。立花さんでも無理なら、誰が行くってんですか?」

「……一、戦いにおける力とはな、何も腕力や膂力だけを指している訳じゃない。数だ。個々の質で敵わないなら量を増やせば良い」

「えーと、つまり?」

 店長は嫌らしい笑みを浮かべる。

「今回は『魔女』の時とは違う。相手は罠を仕掛けるだけの頭を持たないただの獣だ。つまりだな、北駒台店の勤務外全員で袋叩きって話だよ」

 そう言うと、店長は美味そうに煙を吸い込んだ。



 仕掛けるのは午後五時。作戦――と呼べるかどうか怪しい――開始まで数時間。

 一はナコトを送るついでに、図書館まで足を伸ばしていた。何か、ソレに関するものが得られるのではないかと、そう思ったのである。

「……平和だよなあ」

 バスから見える街並には、ソレに怯えているような気配が欠片もない。人々はいつもと変わらぬ一日を過ごしている。

 目を車内に向けると空席が目立っていた。乗客は一とナコト以外には一人、二人しかいない。

「駅前から離れたといっても、ソレの脅威がなくなった訳ではないんですけどね」

「一般の人たちはさ、最低限の事しか教えられてないんだよ。俺だって勤務外になる前はそうだったしな」

「危険に慣れているのか、よほど平和ボケしているのか。後者なら、凄く腹が立ちますけど。あたしたちが死ぬ思いをしている間、こいつらはのほほんとしているんですからね」

 ナコトの言い分も理解出来るつもりだが、一は、何も知らない者に対しては特に強く何も思わなかった。知らなくて良い事の方が世の中には沢山ある。ソレに関してなどその際たるものだ。知らなくて済むのなら、知らないまま終わるのなら、それで――。

「あたしにはバスの外の世界が、あなたとあたし以外の周囲の空気が遠いものに感じられて仕方がないんです。まるで、異世界に迷い込んでいるみたいな、そんな気がしています」

「知らないか、知っているか、違いってのは多分、それだけだよ。どうせ辛い目にも死ぬような目にも遭うのに変わりはないんだ」

「でも、率先して死ぬのはあなたじゃないですか。悔しいとか、憎いとか思わないんですか? どうして俺だけなんだよって、そうは思わないんですか?」

 今日のナコトはいつもより気が立っている。一は彼女を無理に宥めようとして、やはり止めておいた。

「早いか遅いか、それだけだよ。俺はさ、嫌いなもんは先に食べるタイプなんだ」

「……うわ、ここに馬鹿がいますね」

「馬鹿じゃねえよ」

「いいえ、馬鹿です」

 やがてバスは目的の停留所に停まる。一たちは口喧嘩を中断し、バスを降りた。



 つくも図書館。ここは一の所属するゼミの教授である九十九敬太郎が私財を投げ打ってまで開設した私立の図書館で、ナコトの職場兼家でもある。

 その入り口まで来たところで、一の足は止まっていた。

「どうしたんですか、顔だけでなく頭やお腹まで悪くなってしまったんですか?」

「……あのさ、今日、先生いる?」

「はい?」

 ナコトのハンチング帽が心なしかずり落ちる。

「いや、俺さ、こないだもまたゼミ休んじゃったんだよね」

「ゼミ、とは、大学の?」

 一は首肯で答えた。ぎこちない動きであった。

「で、もし先生がいたら絶対に何か言われるじゃん?」

「じゃん? じゃありません。自業自得ではないですか。むしろ怒られた方が良いんじゃないんですか?」

「それが嫌だからお前に聞いてんだろ!?」

「しかも怒ってるし。救いようがないと言いますか、ゲスの極みと言いますか……」

 本当にこの男は自分よりも年上なのだろうかとナコトは呆れてしまう。

「なあ、どうなんだ?」

「……安心してください。館長は帰りが遅いようです。何でも、出張で県外の大学まで行くとか」

「良し、行くか」

「急に勇ましく……」

 と言うか厚かましかった。

「なんかさ、親が出掛けてて今はいないって言う彼女の家にこっそり上がり込む気分だぜ」

「かの、じょ?」

 今度はナコトの足が止まる。

「あの、つかぬ事をお聞きするんですけど。あなたには異性と付き合った経験がおありなのですか?」

「は? おいおい、俺だってもう二十歳なんだよ? 良い大人を捕まえて付き合った事があるんですかーなんてお笑い種だぜ黄衣ナコト」

「では、答えはイエスだと?」

「教えない」

 一は一言一句区切って言うと、一足先に館内へと足を踏み入れた。

「……っ、いい気にならないでくださいよ。何か勘違いなさっているようですが、今のは単に興味が湧いたから、あなたを弄る材料を増やしたかったから聞いただけなんですからね」

「うん、知ってる知ってる」

「調子に乗るな!」

 図書館ではお静かにのフレーズがこだまするのは、これから一分と経たない先の事である。



「いや、あの人怖かったなあ……」

 一は本を抱えたままきょろきょろと視線を動かす。

「ああ、どうしよう、先輩を怒らせてしまった……」

 とっくに昼休みの終わっていたナコトは、先輩の司書に急かされ、どやされ、エプロン姿に着替えて机に突っ伏していた。

「さーて、んじゃ早速調べていこうかな」

「あなたのせいですからね」

「何がだよ」

 ナコトは顔を上げると、恨みがましい目付きで一を睨む。

「あたしが先輩に怒られたのが、です。どうしてくれるんですか、明日から三時のおやつが抜きになってしまったら……! ああ、想像しただけでも胸が張り裂けそう」

「知るかよ。騒いでたお前が悪い。遅れてきたお前が悪い」

「誰のせいだと思っているんですかっ」

「だから、全部お前が好き勝手にやってたせいだろ」

 一は彼女に取り合わず本に視線を落とした。

「とにかくさ、仕事だって言ってここに座ってんだからちょっとは手伝えよ。こんな量、俺だけじゃ追い付かねえって」

「ああ、明日は先輩お手製のカップケーキだったのに……」

「うるせえなあ、もう良いよ。邪魔すんだったらどっか行け」

「嫌です。せめて邪魔してやる。どーだー」

 ナコトは両手を机一杯に広げる。彼女の目は死んでいた。

「後で謝っとけば済む話だろうが」

「一緒に来てくれますか?」

「死んでも嫌だ」

「じゃあ死んでくださいよ!」

「うっぜー……お、こいつが鵺か」

 一は本を持ち直して顔を近付ける。

「あたしが見たのは鵺じゃないですし、キマイラでもありませんよ」

「そんな事言ったって他にヒントがないんだからしょうがねえだろ。なあ、本当にコレじゃなかったのか? 見間違えってのは有り得ないか?」

「有り得ませんね」

「逃げるのに必死で間違ってましたーってのは?」

「有り得ません。あなたがスーパーで万引きをしなかった時ぐらい有り得ません」

 本を閉じる。

「おい、それじゃあ俺がいつもいつも万引きしてるみたいじゃねえか。つーか、した事ねえよ!」

「おやおや、必死になって否定しちゃって。知っていますか、蜘蛛の糸はもがけばもがくほど絡まって取れなくなるんですよ」

「必死にもなるわ!」

 もう警察のお世話になるのはごめんだった。

「いつまで拗ねてんだよ、ガキじゃねえんだから仕事だけはきっちりやれよな。自分だって立花さんにそう言ってただろ」

「また……立花さん立花さんと、あなたは立花村の出身ですか」

「はあ? お前さ、マジで何言ってんの?」

 見得を切って逃げ帰る。先輩に怒られる。ショックが大き過ぎて、ナコトが遂におかしくなってしまったのかと一は心配になった。

「べっつにー?」

「キャラ崩壊起こすんじゃねえよ。なあ、お前の力が必要なんだって」

「……あたしの力が?」

「そうそう、何て言ったっけ、腸炎マニアの実力を……」

「そっちのビブリオじゃありません!」

 ナコトは席を立ち上がった後、乱暴に椅子へ座り直す。そして、一の読んでいた本を横合いから掻っ攫った。

「あなたはそこでゆっくり違う本でも読んでおいてください。ほら、これなんかおすすめですよ」

 彼女が差し出したのは分厚いハードカバーの本である。一はその本を手に取り、表紙を確認した。

「『猿でも分かる』……お前、このシリーズ好きだよな」

「ええ、しっかり読み込んで勉強してください。『猿でも分かる! 上司への謝り方編』を」

「お前が読めよ」

 言いながら、一はその本を読み始める。ナコトが情報を収集してくれるというのなら、彼女に全て任せた方が上手くいくと思ったのだ。

 窓の外を何となく見遣れば、晴れ。耳を澄ませば、階下で本を探しているであろう子供たちの声が聞こえる。ありきたりだが、やはり平和だと素直に思えた。

「あ、これです」

「ん?」

 ナコトがページを捲る手を止めたので、一の注意は彼女に向く。

「これって、何が?」

「あたしが見たソレ――つまり、あなたたちが戦うべき相手が、です」

「本当か?」

 一は席を立ち上がり、ナコトの見ている本に顔を寄せた。彼女はその顔に平手を喰らわせる。

「なんでっ!?」

「あ、ごめんなさい、つい……」

「ついで殴られちゃ堪んねえぞ」

 仕方なく、一は元の位置に戻った。

「で、見つかったのは本当か?」

「ええ、こいつです」

 ナコトは本を広げ、机の上に載せる。本は挿絵付きの解説書のようで、彼女はその中の一枚を指差していた。

「こいつが……?」

「間違いありません。蛇の頭、獅子の前足、鷲の後ろ足、サソリの尻尾、鱗に覆われた胴体には翼が生えている。あたしが見たソレは、こいつです」

 一は改めて挿絵に目を通す。彼の見る限り、確かに鵺やキマイラと良く似ていた。そして何より、恐ろしい。この絵を描いた者の技量が高いのか、あるいはこの怪物自体が端からこうなのかは分からないが、見る者に威圧感を与える、グロテスクなものであった。

「ムシュフシュと呼ばれるソレ、ですね」

「むしゅふしゅ? 変わった名前だな」

「シュメール語で『怒れる蛇』という意味らしいですね」

 ――蛇。

 その単語に、一の心が少なからず動いた。

「こいつは、有名なソレなのか? 例えば、アラクネとか、ヤマタノオロチぐらい」

「いえ、どうでしょう。少なくとも、日本ではヤマタノオロチよりは知られていないでしょうね。ムシュフシュはバビロニア神話に登場する怪物ですから」

「バビロニア?」

「聞いた事がないんですか? 馬鹿ですか? 死ぬんですか?」

 一は堪える。死ぬつもりはないが、馬鹿については否定出来ない自分がいたからだ。

「言わば世界最古の神話です。一応、今あたしたちが知っている形になるまではシュメール神話、次にアッカド神話が元になっていますね。アッカド神話は大きく分けてバビロニア、アッシリア神話の二つに。これらの神話を総称してメソポタミア神話とも、古代オリエント神話とも呼び…………どうしました?」

「いや、頭が痛くなってきて……分かりやすく説明してくれると助かるんだけど」

 ナコトは用が済んだとばかりに本を閉じる。

「呼び方に差異はあれ、基本的な中身は変わりません。つまり、ムシュフシュは世界最古の神話に登場する、世界でもトップクラスに出自が古い怪物って事です」

「何か、弱点とかないのか?」

「その前に、あなたはエヌマエリシュをご存知ですか?」

 一は天井を仰いで嘆息した。

「なあ、勘弁してくれよ。俺はさ、その、ムーシューって奴の弱点を知りたいだけなんだよ」

「勝手に名前を縮めないでください。ムーシューだと茶目っ気たっぷりの守り神になってしまいます。良いですか? ただ弱点を教えるのは簡単です。けど、あなたには色々と考えてもらいたいんですよ。そうでないと、困ります」

「お前がスパーっと教えてくれりゃあ良いんだよ」

「あたしがいなかったら、いなくなったらどうするつもりですか?」

「……それは……」

 強く射竦められ、一は言葉に詰まってしまう。そんな、考えた事も、出来れば考えたくもない話に、嫌でも思考は止まっていた。

「あたしだってフリーランスを辞めて一線を退いたとはいえ、何が起こるか分かりません。こう見えて、色々と恨みも買っている身なんですよ」

「まあ、そうだろうな」

「否定してくださいよっ」

「面倒な奴だなあ!」

 こほんと咳払いしてナコトは話を戻す。

「もしもの話ですがね。しかし、そうなっては知識面であなたは誰に頼ると言うんですか? 頼れる人なんて、あたし以上に優れた人間なんて殆どいない筈です。あなたは自分一人でどうにかするしかないんですよ?」

「……分かってるよ」

「あたしはこのポジションを悪くないと思っていますけど」

 一は口を挟まず、彼女の続きを待った。

「どう形容すればいいのか、この、駄目探偵の超有能な助手的ポジションと言いますか。週刊少年誌的な、お約束のテンプレート展開と言いますか……」

「えっと、どういう意味?」

「ですから、何か事件が起こって、その事件を解決する為に主人公であるあなたは頼れるあたしのところにやってくる訳です。糸口を掴んだあなたは事件を無事解決! みたいな」

「ああ、なるほどね。俺にとっちゃ地獄のような展開だ」

 何か起こる度にナコトと顔を合わせていては身が持ちそうになかった。

「助かってるっちゃ助かってる。そんで、お前がさっき言った事も分かってたつもりだよ」

「それは何より」

「でも、いなくなるならいなくなるで、せめて一声掛けてくれよな。勝手にどっか行かれちゃムカつくし、少しは寂しくなる」

「…………ふーん、あたしの事、少しは考えたり思ったりしてくれてるんですね」

「ああ、少しな」

「少し、ですか」

 二人は、視線を交わらせなかった。

「それでは授業を始めましょうか」

「えっ? このタイミングで? 俺絶対良い事言ったよな? もうあのまま終わるべきだったよな?」

「はい終わりませーん。それと、自分で良い事言ったとか有り得ませーん」

 遅きに失する。地獄のような展開になっている事に一はようやく気付いたのだ。

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