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24時間戦う人たち  作者: 竹内すくね
ムシュフシュ
152/328

鵺の鳴く日は

各話ごとに前書きをやたらめったら挿入するのはどうなんだろうと思わないでもないですが、章が変わった時や、終わった時ぐらいは良いですよね。


今回から新しい章に入ります。ご感想、ご意見、ご苦情などございましたら、気兼ねなく感想欄、もしくはメッセージにお寄せください。初めての方もどうかご心配なく、僕の感想欄は良い意味で変態さんばかりです。


 上にある天は名付けられておらず、下にある地にもまた名がなかった時の事。

 甘い水を体現する神があり、全てが生まれ出た。

 混沌を表す、苦い水を意味する原初の女神もまた、全てを生み出す母であった。

 水は互いに混ざり合っており、野は形がなく、湿った場所も見られなかった。

 神々の中で、生まれているものは誰もいなかった。

 やがて知恵の神、その兄弟など様々な神々が女神の体から生まれ出る。が、原初の、二人の神にとっては聊か騒がし過ぎたのだ。なまじ、静かな時間が長過ぎた。

 甘い水を意味する神は知恵の神をはじめ、彼らを滅ぼそうと企てるも、計画は露呈し、滅ぼすべきだった筈の知恵の神によって自らが滅ぼされた。

 知恵の神は神々の王となり、妃との間に自身よりも強大な一子をもうける。この子は戯れ程度に嵐を呼び、その嵐は原初の女神、塩水の体を掻き回した。彼女の中に棲む神々には眠れない日々が続く。

 後、女神は伴侶の死への復讐の意を胸に、知恵の神々へと立ち向かった。女神はその時十一の怪物を創造し、戦いに臨む。

 だが、勝利したのは知恵の神であった。原初の女神を打ち破ったのは、知恵の神の子であった。

 勝利者である知恵の神の子は、世界創造の為に原初の女神の体を利用した。

 彼女の上半身は押し上げられて天空に。

 残った半身は地下の水を隔てる大地に。

 彼女の両眼はチグリスとユーフラテスと呼ばれる二大河川に。

 そして最後に残った尾の部分は天の結び目に繋がれた。

 この後、知恵の神の子は一年の十二の月に名を与え、それぞれに三つ星座を置いて神々の居場所を作った。天の内側には時を刻む為の月神を置き、夜を飾った。

 天地創造の後、子は神々の労役を肩代わりさせる者を生み出す。原初の女神に味方した悪神の血液と土をこね合わせ、人間と呼ばれる者を生み出した。

 人々は神の指示に従い、多くの神殿とジッグラトを完成させる。

 神は、そこをバーブ・イル――神の門(バビロン)と名付けて信仰の中心地とした。

 

 この物語は世界最古の神話、バビロニア神話における創世記叙事詩である。

 文献の名を、そのとき上に(エヌマエリシュ)と呼んだ。


 世界は神によって天と地、地下の水界との間にはっきりとした境界を生じさせられた。復讐に狂った原初の女神は遺骸と成り果てた。神々は人間を生み、安穏とした日々を送る。

 だが、本当に原初の女神はこの世界から消え失せたのだろうか。

 無論、彼女の体は世界の基盤となっている。だが、それだけだ。もう、動かない。動けない。

 しかし、女神の意思はまだどこかに残っているのではないか。彼女自身が動けないとして、遺志は受け継がれたのではないだろうか。そして、残っていたとするなら、その意思は、その遺志は、この世界を許そうと思うのだろうか。



 夏は暑く、冬は寒い。

 火は熱く、水は冷たい。

 冬場の水仕事は誰もが忌避したがる仕事の内の一つだろう。

「じゃんけんにしよう」

 オンリーワン北駒台店。ここには、日々、人類を脅かすソレの対処に明け暮れる者――勤務外――が集う。

 ソレを殺し、ソレに殺され、ソレを死なせ、ソレに死なされる人外どもの巣窟である。

「……はじめ君がやってくれないの?」

「俺はね、立花さんに意地悪してるつもりはないんだ。君に成長してもらいたいから、決して自分が逃げようとしている訳じゃないんだ。だからここは、公平にじゃんけんでいこう」

 その筈なのだが、ここの店員である一一と立花真は、とある仕事を前にして、お互いがどうにかして相手にその仕事をなすり付けようと思案を続けていた。

 その仕事とは、おでんの鍋の洗い物、である。

 今は冬。つまり、水仕事が辛い時期なのだ。

「……やってくれないの?」

「駄目。駄目だよ、そんなに目をうるうるさせても駄目だから」

 一は立花に背を向けて腰に両手を当てる。

「じゃんけん、一回勝負だよ」

「けん君はやってくれたのに」

 思わず笑みが零れた。確かに、立花が必死に哀願している表情を見てしまえばお願いには逆らえないだろう。神野はまだ甘い。だが、自分は違う。こうして彼女から視線を外していれば、少なくともまだ戦えるのだ。一は萎えていく気持ちを奮い立たせて心を鬼にしようと決心する。

「じゃんけんなら文句はないでしょ。さあ、勝負だ」

「あ、後出しは駄目だからね」

「勿論っ」

 一はくるりと振り返った。

「ちなみに、俺はパーを出すから」

「え?」

「パーを、出すから」

「え? え、え?」

 立花は瞳を忙しなく動かして一の顔を何度も見返す。

「それじゃ、やろうか。じゃーんけーん……」

「わっ、わっ、待って待って待って!」

 にやりと、一の口角が嫌らしくつり上がった。

「ぱ、パーを出すんだよね? じゃあ、ボクはチョキを出せば勝てるんだよね?」

「俺が嘘を吐いていなければね」

「はじめ君、嘘を吐いてるの……?」

 一は何も言わず、ただ黙って微笑む。

「うっ、嘘吐きは泥棒の始まりだよっ、閻魔様に舌を抜かれちゃうんだよ!」

 泥棒と罵られようが、舌を抜かれようが、手がかじかまずに済むなら安いものだと、一は内心でせせら笑った。

 立花はどうにかして彼の真意を読み取ろうとするのだが、いかんせん年季が違う。違い過ぎる。彼女はソレとの戦闘に関しては一と比べるまでもなく強い。が、こういった心理戦、駆け引きに関してはずぶの素人も裸足で追い掛けてくるほどに弱い。慣れていない。純真無垢な立花では、日夜糸原に遊ばれながらも鍛えられている一相手では勝ち目がない。つまりカモ。

「もう良いかな? じゃーんけーん……」

「まっ、待って! 待って……ボクは、チョキを出すよ」

 ピースサインを作り、立花は意味ありげに笑った。

「分かった。それじゃ、じゃーん……」

「もっと反応してくれても良いじゃないかあっ! ボクがチョキを出したらはじめ君は負けちゃうんだよ? もっと考えた方が良いんじゃないかな?」

「考えた。じゃーんけーん」

「う、ううっ、もうっ」

 ぽーん。一の気の抜けた声のすぐ後、立花が大きな溜め息を吐いた。



「冷たい、冷たいよぅ。水も、はじめ君も冷たいよぅ」

 立花の泣き言は黙殺して、一は箒とちりとりを持って店の外に出た。気温こそ低いが、風はない。陽が照っている為か過ごしやすいように彼は感じる。

 一つ伸びをして、周囲の掃除を始めた。と言っても、目立ったごみを拾うぐらいで他にやる事はない。立花を一人店に残すのが不安でもあり、いつもより清掃の範囲を狭める。

 足元に目を遣りながら歩いていると、

「おや、珍奇な歩き方。小銭でも探しているんですか? 尤も、あなたには冒涜的なまでにお似合いの格好ですけれど」

 声を掛けられた。と言うか悪口だった。

「……話し掛けるんじゃねえよ」

 一は声の主を見ずに呟く。掃除の手は止めず、足早にその場を立ち去ろうと試みた。

「そんな事を言って良いんですか? その制服は伊達ではないでしょう。本部にちくりますよ。北駒台店のペド店員の態度が悪い、と」

「誰がペドだ!」

 そうして、一はつい顔を上げてしまう。視線の先には白い眼帯を付けた少女。彼女はセーラー服の上にダッフルコートを羽織っていた。

「見ないでください。純白で清廉なあたしの体が汚れてしまいます」

 慇懃無礼な彼女――黄衣ナコトは一の視線に気が付くと、被っているハンチング帽の位置を直した。

「……分かったから。用事があるなら言え、ないなら帰れよ。つーか店に戻らせてくれ」

「用事がなければあなたに会えないんですか?」

「お前に言われても一ミリも嬉しくない」

 一は空き缶を拾い上げ、ちりとりの上へと器用に乗せる。

「あたしみたいな可愛らしい女の子が折角フラグを立てに来てあげたと言うのに、どうしてあなたはつれないんでしょうか」

「自分で可愛いってんなら世話ないな。んな奴のフラグなんかいらねえよ」

「フラグと言っても死亡フラグなんですけどね……この中に犯人がいるかもしれないんだろ! 殺人犯と一緒に寝られるか、俺は部屋に戻る! みたいな」

「尚更いらんわ」

 そのパターンだと密室殺人にまで発展しそうだった。

「……つーか、本当に何しに来たんだよ。図書館の仕事は? わざわざバス乗ってここまで来たのか?」

「今はお昼休みです。あたしはさしずめ、餌を求めて人里に下りてきた子ぐまですかね」

「子ぐまねえ……」

「がおー、餌をください。具体的に言うとお昼ご飯をおごってください。あ、そんなに高いものでなくて結構ですよ」

 一は無視して店内に戻る。

「あ、おかえりはじめ君」

「ただいまー」

 ナコトは彼の後ろにぴったりと付いてきていた。

「い、いらっしゃいませー」

「付いてくんじゃねえよ!」

 立花が一の大声にびくりと体を震わせる。

「ああ、可哀相に。罪のないいたいけな女子を恐がらせてしまうとは。本当、あなたは根っからの鬼畜ですね」

「たっ、立花さん違うからね! 俺はこっちのチビに言っただけだから!」

「う、うん……」

「あなたも他人を小さいと呼べるほど大きくないでしょう。むしろ成人男性の平均身長より低いのではないですか、チビ?」

 ナコトは雑誌に目を通しながら、さらりと言い放つ。

「ちっ」

 すぐ傍にいるナコトに聞こえるように舌打ちをすると、一は一旦掃除道具を片付けにバックルームへ戻った。

 時間にして、一分も経っていない。が、その短い時間でフロアの空気は目に見えて悪くなっていた。

 原因は分かり切っている。睨み合う立花とナコトのせいだった。

 一は何が何だか分からず、事態の行く末を見守る事にした。人はそれを臆病と呼ぶ。

「……先程からメンチ切ってくれていらっしゃいますが、何かあたしにご用ですか? なければ視線を外してください。欝陶しいです」

 口火を切ったのはナコトだ。彼女の方が立花より背は低いのだが、視線だけは他者を見下す怜悧なそれである。

「よ、用ならあるよ。はじめ君をいじめないで。君は、意地悪だ」

「いじめてません。あたしなりの愛情表現です」

 立花は短く呻いた後、顔を真っ赤にして反論する。

「あっ、あ、愛なんかじゃないよっ、はじめ君は嫌がってたじゃないか!」

「嫌がってません。一さんなりの照れ隠しです」

「はじめ君は嫌がってるもん、君の事を合法的万引き犯だって言ってたもん」

「何を根拠に……」

 言ってました言いました。一は心中で立花に同意する。

「とにかく帰ってよ、君は、その、嫌いだ」

「……嫌です。あなたはあたしの嗜虐心に火を点けました。誰かに尽くそうとする犬みたいな獣臭さが鼻に付きます」

「なっ、ナコトちゃんの馬鹿っ! 酷いや、ボク犬じゃないし臭くないもん」

「あなたがあたしを嫌いなように、あたしもあなたが嫌いです」

 そうして、二人の少女は再び睨み合う。

 胃が痛くなってきたので、一は彼女らの間に入った。

「もうその辺にしときなよ。お互い年も近いんだし、喧嘩なんか……」

 やめた方が良いと言おうとしたところで、一は二対の視線に晒される。

「はじめ君は――」

「あなたは……」

「――黙っててよ」

「……黙っていてください」

 一はもう頷くしかなかった。

 一触即発。触れれば割れる。取り扱いを誤れば爆発する。

 が、その時バックルームから店長が姿を見せる。彼女はフロアの様子を見て何か言いたげだったが、すぐに気を取り直して煙草に火を点けた。

「店長、ここは禁煙です」

「立花、仕事だぞ」

「ふぇ?」

 立花がきょとんと小首を傾げる。

「ボク、もうお仕事してるんだけど」

「そうじゃなくてだな、ソレが出た。真昼間からお盛んな事だ。……立花、すぐにでも現場に向かってくれ」

 ソレ。

 不穏な単語に人外たちしかいないフロアの空気が固まった。特に、一の肩にそれは重く圧し掛かる。

「うん、分かった。店長さん、相手と場所は?」

「分からん。駅前で目撃されたらしいがな」

「ちょっと待ってください。分からないって、どういう事ですか?」

 一が疑問を口にする。情報部が動いている筈なのに、敵の正体はおろか場所さえも掴めていないのは、現場に向かう勤務外にとっては死活問題だ。

「仕方ないだろう。今、二課はまともに機能していないからな。春風ほど有能な人材もそうはいないと言う事だ」

「……あー」

 オンリーワン近畿支部情報部二課実働所属春風麗、ただいま休暇をお楽しみ中である。

「しかし、駅前ですか。もしかして犠牲者も出てるんじゃあ……?」

「いや、今のところは出ていない。が、時間の問題だろうな。それよりも相手の正体だが、現場にいた情報部の話によると、どうにも見た事のない、訳が分からない生物だったらしい」

「見た事が、ない?」

「恐らく、キマイラか鵺。合成獣の類だろうな」

 そう言われても、一には何が何だか分からない。

「とにかく行ってみなければ始まらん。立花、準備をしてこい」

 立花は頷くと、バックルームへと足早に駆けていく。

「大変な事になりましたね」

「ん、ああ、まあな」

 さっきまで沈黙を守っていたナコトが、心底どうでも良さそうに口を開いた。

「店長、俺は行かなくて良いんですよね?」

「敵の正体が掴めていない以上、お前は足手纏いだからな。念の為にナナを呼んでおく。二人で留守番しておけ」

 一の持つアイギスは相手、対象の動きを止める能力を持つ。しかし、能力を発動するには幾つかの条件、制限をクリアしていなければならない。その内の一つ、動きを止めたい対象の名前を知っている事が、今回はクリアされていない。彼を行かせないのは、それを見越した上での店長の判断だった。

「はーい」

 やる気なさげに一が手を上げる。

「んじゃま、黄衣。お前も帰った方が良いんじゃないか。つーか、帰れよ」

「……いえ、あたしも行きます」

「は?」

「あたしもソレと戦いに行きます」

 ナコトはコートから自前の得物を取り出した。じゃらり、と、無骨な鉄鎖が鈍く光る。

「いや、だから、何でだよ。お前がソレと戦う理由なんかないじゃんか」

 一がそう言うと、ナコトは帽子を深く被り直して咳払いを一つ。

「彼女に負けたくありませんから。腐ってもあたしは『図書館』です。所詮勤務外、戦いにおける年季の違いを思い知らせてやりましょう。……それに最近、負け癖が付いていますからね」

「まあ、『魔女』の時も良いところあんまりなかったし、アイネにはボロカスに負けてたもんな」

「……認めざるを得ない発言ですが、死ぬほど癇に障ります。特に、あなたに言われると」

 ざまあみろだ。一はナコトに一杯食わせた事を内心で死ぬほど喜んでいた。

「ま、良いところ、見せたいですしね」

「誰に?」

「ふふん、内緒です」

「……? ま、無理すんなよな。立花さんは強いから心配いらないけど、こう、なんつーかお前は不安だ」

 元ではあるが、ナコトもフリーランスとして活動していた。が、一には彼女の実力が心もとなく感じている。そもそも、ナコトの『図書館』での役割は既に無力化した相手にとどめを刺す事だったのだ。

 それでも、少なくとも自分よりも戦えるだろうと思い、一はこれ以上の口出しを控える。ソレと戦うのなら戦力は多いに越した事はない。

「心配は無用です。危ないと思ったら全てをかなぐり捨ててでも逃げ出しますから」

「その時捨てられるのは立花さんだよな?」

「命とは投げ捨てるもの……」

「馬鹿じゃねえのお前? 店長、こいつはこう言ってますけど、良いんですか?」

 店長はナコトに一瞥をくれた後、

「黄衣はうちの人間ではないからな。行くな、行けなどと強制は出来ん。素直に戦力か、盾が増えたのを喜ばしいと思うべきだろう」

 大した興味も無さそうに言い放つ。

「まあ、俺にも何とも言えないんですけど」

「と言うか、あなたに何か言われる筋合いはありませんから」

「……じゃあ勝手にしろよ」

「ええ、勝手にします」

 


 立花とナコトが現場に向かった後、一はヘルプとしてやって来たナナと一緒にフロアの掃除を始めていた。

「またソレが出たんですね」

 ナナはドアのガラスを丁寧に拭きながら、傍で雑誌のフェイスを整えていた一に話し掛ける。

「ああ、何か、相手の正体が分からないらしいけどな。訳が分からないっつーか、変な感じだってさ。店長は鵺とか、キマイラかもしれないって言ってたけど」

「なるほど、確かにキマイラですね」

「へ? なるほどって、本当にキマイラなのか?」

「いえ、キマイラとは獅子の頭と山羊の胴体、そして蛇の尻尾を持つ形容し難い怪物です。ですから、訳の分からない物事をキマイラと、そう例える事もあるのです」

 一は得心した。訳が分からないソレが本当にキマイラだとしたら、皮肉っぽく、喜劇っぽくもある。

「ですが、私は安心しました」

「安心?」

 ソレが出た。なのに安心とは全く意味が分からない。一は訝しげにナナを見遣った。

「一さんが出張らなくて済んだようなので、です。やはり一さんにはこうしてお留守番しているのが似合っています。勤務外は、一さんには似合っていません」

 ナナはガラスを拭く手を止めず、淡々と声を発する。

「俺の事を心配してくれてんなら嬉しい台詞なんだけどなあ」

「前にも言いましたが、私には配る心が備わっていませんから」

「まーたそんな事言う。ナナには心があるって。人間より人間らしく、だろ」

 ぴたりと、ナナは掃除の手を止めて一を見据えた。

「……あるのですか?」

「え?」

「私にも、本当に心があるのでしょうか?」

 その、彼女の瞳があまりにも真剣そうなものに見えたから、

「ナナは、あって欲しいと思うのか?」

 一ははっきりとした答えを出してしまうのを恐れた。

 ナナは一の思惑に気付く様子もなく、深刻そうに俯く。眼鏡の位置がずり下がっていくが、彼女は気にするような素振りを見せない。

「私には分かりません。でも、私は心が欲しいと思っているのかもしれません」

「分からないのにか?」

「たまに、なのですが。一さんたちを見ていたら、思考にノイズが走る時があるんです。でも、でも、もしかしたら、私がノイズと捉えているものが……」

 ナナの言い掛けた言葉の続きが、一には分かる。彼女に人間と同じような心があったとして、人間ではない。人形としてのナナが、人間としての心を異物として捉えている。何ら不自然ではなく、むしろ自然な事だと一は思った。

「ま、いきなりは分からないよな」

「一さんは私を馬鹿にしている節があります。私を甘く見ないでもらいたいですね」

「眼鏡、落ちるぞ」

「あ、あっ」

 ずり落ちそうになった眼鏡の位置を慌てて直すと、ナナは髪の毛をかき上げ、何事もなかったかのように振舞う。

「……何か?」

「いや、別に」

 彼女の拳が震えているのを見て、一は週刊誌をきっちりと揃え始めた。ナナは恥ずかしくて震えているのではない。怒りを、今にも彼を殴ってしまいそうになる衝動を必死に堪えるべく震えているのだ。

「そういや、趣味の方はどう? ほら、前に言ってた溶接、とか」

「すこぶる! すこぶる順調です!」

 水を得た魚。ナナは逃げ場を見つけたと言わんばかりに喜色を満面に湛えて、一の用意した逃げ場所へと飛び込んでいく。

「へえ、順調、なんだ」

「ええ、とても。どうでしょうか、前にも一さんにはおすすめしましたが、この機会に溶接の世界へ飛び込んでみると言うのは?」

「いや、遠慮しとくよ。名前忘れたけどさ、難しそうな感じだし。プラズマサンダー溶接だっけ?」

「それはネオの方の必殺技です。私が前に言ったのはプラズマアーク溶接です。ちなみに、今のトレンドは巡り巡ってはんだ付けですね」

 流石ロボと言うべきなのか。そもそも本当に目の前のメイドはロボなのかどうか、一は疑わしくなってきた。

「溶接は素晴らしいです。心が洗われますよ」

「心がないって言ったばかりじゃないか」

「失敗しました」

 ナナは笑って誤魔化す事などせず、淡々と音を発した。

「私は洗う心を持ち合わせてはおりませんが、一さんが溶接をしたならば、素晴らしい結果を得られると思います」

「ま、洗うほど汚れていないから大丈夫だよ。色々と気に掛けてくれるのは嬉しいけどな」

「……本当にそうでしょうか」

 否定されるのには慣れている。だが、一はナナの呟きに戸惑いを隠せなかった。

「勤務外は肉体的にも精神的にも過酷な仕事です。いつ、どこで現れるかもしれないソレの対処に当たらなくてはなりません。対処と言えばまだ選択肢が残されているように聞こえますが、結局はソレとの交戦が殆どです。一度出勤してしまえば、後は殺すか、殺されるか。何よりも終わりが見えないんです。いつまで、どこまで戦えば良いのか、誰にも分かりません」

「ナナ、そりゃ今更過ぎるよ」

「しかし事実でしょう。一さん、あなたはソレを何匹殺しましたか? 何回殺しましたか? 何度殺され掛けましたか? そのような目に遭って、本当に自分の心が汚れていないと、磨り減っていないと言い切れるのですか?」

 ナナが言ったのは事実だ。それが全てでもある。ソレと戦闘する以上、肉体的な損傷、損害だけでは済まない。重圧は精神をもすり減らし、傷付ける。

「そんなの分かってるよ。けどさ、俺は辞めない」

「何故ですか?」

「やらなきゃならないからだよ。誰かが貧乏くじ引かなきゃ世界は、いや、この街は終わっちまう」

「一さんがやる必要はないと思われます。勤務外の代わりなんて幾らでもいます」

 一はそれでも頷かない。従わない。断固として意志を曲げない。

「勤務外ならな。けど、俺の代わりはいない。悪いけど、俺にはやりたい事がある。それまでは辞めないし、死ぬつもりもないよ」

「……やりたい事とは、そんなに大切なんですか? 体を傷付けて、心をすり減らして、ずたぼろに薄汚れてまで、そんな状態になってでもやりたい事なんですか?」

「いや、好き好んで痛い目に遭いたくないけどさ、多分、そうでもしなきゃ、そこまでやらなきゃ無理な事なんだと思う」

 ナナはドアを押し開け、反対側のガラスを拭き始める。

「良く分かりませんが、一さんみたいな方を世間では馬鹿と呼ぶのでしょうね」

「あれ、もしかしてナナ怒ってる? 腹立ててるムカついてる?」

「一さんが私を怒らせようとしているのは分かります。やっぱり、一さんは意地悪です」

「悪い悪い。まあ、ナナと俺が一緒に戦う時は頼むな」

「頼む、とは?」

 ナナは小首を傾げた。プログラミングされた機能なのだろうが、妙に似合っている。

「俺が死なないよう守ってくれよって事」

「知ってます。今のような発言を虫が良いと言うのでしょうね。……残念ながら、一さんは私のマスターではないので確約しかねます。勿論、努力はしますが」

「ああ、手の空いた時で良いよ」

 そんな、おでんの鍋でも洗っといてくれ、とでも言うような気軽さで一は笑う。ナナは笑わなかった。

「……んん?」

 そうして店内、店外の窓を拭き終えた一は走ってくる人影を認める。その人物には見覚えがあった。

「アレは……私のデータベースに照らし合わせると……どうやら黄衣ナコトさんのようですね」

 やはりかと、一は溜め息を吐いた。

「間違いないよな?」

「私のデータベースは完全、完璧、完膚なきまでに正確です。ふふふ、私の辞書に間違いという文字は載っていませんからね」

「それはそれで欠陥っぽいけどな」

 だが、やはり店に向かって息急き切って駆けてくるのはナコトで間違いなさそうだった。彼女はドアを乱暴に開け放つと、カウンターまで辿り着き、おでんの鍋を指差す。

「がんも一つ」

「…………逃げ帰ってきやがったな、黄衣」

 ナコトの負け癖が治る日は遠い。そう思いながらも、一は客の要求に応えるべくおでんの容器とトングを手に取った。

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