別れを告げるなら麗らかな日和に
「はあ?」
聞き返す、と言うよりも相手を小ばかにしたような口調で一は尋ねた。
「だから、台風一家は台風一家で合ってんのって聞いてんの!」
「いや、まあ、台風一過は台風一過だろ。合ってんじゃねえの?」
「やっぱりっ、やっぱり! だろうと思った! 私は馬鹿じゃない、馬鹿じゃないぞー!」
「うん、そうだね」
一は缶コーヒーを啜りながら適当に聞き流す。
そして、溜め息を吐いた。アルバイトのシフトまで一時間以上はあったが、一はつい先日まで病院のベッドで眠っていたので、体の感覚を取り戻す為に店まで散歩がてら、遠回りで行こうと思っていたのだが、だが。
「さっすが、私ってばモテカワスリムで乙女気質の愛されガール♪」
運悪く、南駒台店の勤務外店員、シルトに絡まれてしまった。どうにかして撒こうとしたのだが、彼女は今もしつこく付きまとってきている。
「その喋り方やめろ、無性に腹が立つ」
「はああ? あんたに言われる筋合いないんですけどー? ブサメンのくせに指図しないでよねー、あー、ウザ、朝から気分悪い」
「……絡んできたのはそっちじゃねえかよ」
「そんなん知らないし、あーお腹空いたー」
もしも自分に力があれば、せめて目の前の女をぶちのめせる力があれば、一はそう夢想した。
「ねー、私お腹空いたからお・ご・っ・て?」
「こんな時間まで遊び回ってるからだろ。家帰って何か食べれば?」
「ケチ臭……なーんかファッションセンスも絶望的だし、基本的恋愛権すら持ってなさそうだし。あ、ドーテー?」
ちょっとコンビニ寄って良い? みたいな気軽さで男の尊厳を傷つけられた。一はまだ中身が少し残っている缶コーヒーをシルトの足元に落とす。
「うきゃあっ! なっ、ちょっ、ちょい待ちなよ! 靴に掛かったんだけど、ベンショーしてよね、ベンショー」
「ごめんごめん手が滑っただけだから気にしないで」
シルトは中身の零れ切った缶を蹴り飛ばす。
「絶対わざとじゃん! 図星言い当てられたからキレたんでしょ!?」
「ちっ、違う」
「ドーテー! ドーテー! ドーテードーテードーテードーテードーテードーテー!」
「どどどどどど童貞ちゃうわ!」
顔を真っ赤にしてどもりながら反論しても、むしろ逆効果だった。
「はいはい、ドーテー君は大人しく黙っときましょうねー」
好事家のようにニヤニヤと笑うシルト。
「……ハゲのくせに」
「はああああぁぁ!? 意味分かんねーし、意味分かんねーし! ハゲてないっつーの、見なよすっごいキューティクルなん生えてるから!」
シルトはニット帽を取ると、一へ見せ付けるようにずいっと距離を詰める。
「やめてー、そんなの見たら眩しくて目が潰れちゃうよー」
「キショイから目ぇ瞑らないでよ! ちゃんとこっち見ろ!」
一はわざとらしく両手で顔を覆い隠していた。シルトは彼の手を引き剥がそうとしてしばし揉み合いになる。
「見ろって言ってんじゃんか、素直にこっち見ろっつーの。それとも、あれ、照れてんの?」
「……あ、本当に生えてる」
「タンパクな反応……もっとなんかないの? きれいな髪だねーとかさ」
一は改めてシルトの毛髪に目を遣る。やっと人に見せられるレベルまで伸びてきたのだろう、ずっと前に見た彼女の髪型とはかなり違っていたが、とりあえず髪型と呼べるところまでは復活していた。
「真っ茶だなあ。俺、髪染めてるのって好きじゃないんだよな」
「は? 抹茶? つーか趣味なんて聞いてないしー、別にお前なんかに喜んでもらおうなんて思ってないから」
「なあ、ヒルデさんって地毛だよな。染めたりしてないよな?」
「ん? あー、そう言われれば。ヒルデさん、髪染めたりとかイヤリングとか、あんまり興味ないの」
一は内心でガッツポーズを作る。
「あー、ヒルデさん最高だわ。やっぱどこぞの馬鹿女とは違うな」
「は? はぁ? 何それ、もしかして私の事言ってんの?」
「さあ、バイト頑張るか」
「うぜー! 超うぜー、無視すんなよ馬鹿じゃねーの!?」
シルトは一に掴み掛かる勢いである。
「朝っぱらから欝陶しい奴だな。もう俺を見掛けても声掛けてくるなよ。誰かに知り合いと思われたら嫌だからな」
「じゃあそっちだってシカトしろよなっ。あ、いや、お前見つけたらぜってー声掛ける。死ぬほど付きまとってやるもん」
悪戯っぽく、小悪魔的(笑)に笑うと、シルトはくるりと一に背を向けた。
「じゃあね、北駒台」
「あ、そうだ。こないだの野球はありがとな、マジで助かった」
「…………べっ、別に? ヒルデさんが行くって言ったからだし?」
「ま、何にせよ助かったんだ。ありがとう、そしてさようなら南駒台」
「……っ、うっせー、うぜー死ね馬鹿」
午前六時から午前九時までが、オンリーワン北駒台店の早朝勤務の時間帯である。
「お疲れさまでーす」
この日この時間、一に相方はいない。早朝で仕事も少ないだろうから、そもそもこんな時間に入ってくれる人員もいない事から、こんな寂しいシフトになっているのであった。
「一、新しく入った惣菜パンはどうだ?」
「売り上げですか? 味ですか?」
「両方だ」
「芳しくありませんね、両方」
だから、仕事が終わった一をバックルームで迎えてくれるのも店長だけで、
「じゃ、お疲れさまです」
「最近はとみに寒くなってきたな。カイロぐらい持っているのか?」
「持ってなかったらくれるんですか?」
「良かったな、在庫が余ってるから今は一つ三十八円だ」
仕事の終わった一をバックルームから送り出してくれるのも店長だけだった。
その筈なのだが、一は突如伸びてきた手によって仮眠室へ引きずり込まれてしまう。
「えっ、な、何が起こったんですか?」
「ガタガタうるせェ奴だな、男だったらもっとビッとしやがれ」
一を引きずり込んだのは三森である。
「あれ、いつの間に来てたんですか?」
「さっきだ」
「シフト、入ってましたっけ?」
「変わったンだよ。うっせェ奴だな」
三森がついさっき店に来たのは理解出来る。シフトを交替してやって来たのも理解出来る。だが、どうして仮眠室に呼ばれたのかが一には理解出来なかった。
「あ、そうだったんですか。じゃあ俺は帰りますね」
そそくさと立ち去ろうとする一だが、彼の肩を三森は掴む。逃がさないように、しっかりと。
「あ、あの?」
「……お前さ、そ、その、朝飯とか食った、か?」
一は首を横に振る。今朝は早く起きて家を出たが、面倒な奴に時間を取られていたのだ。食事どころか、遅刻ぎりぎりだったのである。
「そ、そっか。そりゃ良かった。あ、のさ、腹減ってるか?」
「減ってます、けど」
「……じゃ、や、やるよ」
三森は後ろ手に持っていたものを一に渡そうとする。
「これは?」
「う、あ、その、これはだな」
これ。花柄のナフキンに、箱状の何かが包まれていた。一見すると、まるで。
一はまさかとは思いつつ、中身を確認すべく包みを開く。
「って、うわ馬鹿、今開けンなよ!」
もう遅かった。現れたのはやはり小さな箱である。
「これって……」
「……っ、あ、朝飯だ」
しばらくは、何が自分の身に起こったのかが信じられなかった。
つまり、三森がお弁当を持ってきてくれたのである。他ならぬ、一に。その事実が飲み込めた瞬間、彼は感動のあまり弁当箱を三森に突き返した。
「……あ?」
「あ、その、つい」
動揺している。一はとりあえずソファに座ってテレビの電源を入れた。
「これ、本当に俺に?」
「あァ、そうだよ」
「手作り、ですか?」
「……悪いかよ」
「三森さんが、俺の為に、手作りのお弁当を?」
「…………るっせェな」
自然と溢れてくる笑みを誤魔化すのに一は必死である。
「今食べて良いですよね?」
「う。い、今か? 今じゃないと駄目か?」
家に持って帰ると糸原に食べられてしまうかもしれないので、一は頷いた。
「……分かった。分かったけど、その」
「あ、箸がないです」
「カウンターから取ってくりゃ良いじゃねェか」
「取ってきてください」
三森は何か言い掛けたが、結局立ち上がる。
「あ、ついでに何か飲み物もお願いします。でも、出来ればお茶が良いなあ」
「取ってくりゃ良いンだろ!」
「ちゃんとレジ通してきてくださいね」
ドアを乱暴に開け放つと、三森はわざとらしく足音を立てながらフロアへと向かっていく。
手持ち無沙汰になった一は何気なく弁当箱の蓋を開けてみた。
「おお……」
意外にもちゃんとしたものが入っていたので驚く。
ご飯とおかずは味が移らないように仕切りで分けられて、鶏の唐揚げ、玉子焼き、アスパラのベーコン巻き、ミートボール、コロッケなどなど定番のメニューが並んでいた。
「すげえ、ウインナーがタコになってる」
しかも八本足。凝ってるなあ、などと思いつつ、一はじろじろと弁当を眺める。
「悪ィ、待たせ――勝手に開けてンじゃねーよ!」
三森は持っていた割り箸とペットボトルのお茶をテーブルに置くと、一の頭を叩いた。
「どうせ開けるんだから良いじゃないですか……」
「うっ、うるせェ! 私が駄目って言ってンだから駄目に決まってんだろ!」
面倒くさい人だと思いながら、一は割り箸を二つに割る。
「じゃ、いただきます」
「あ、あのよ。なンか、思ったりしねェ?」
「……思う?」
「べっ、弁当を見てだよ」
一は改めて手作りの弁当を眺めてみた。
「どのおかずも均等に焦げてます。いや、でも特に玉子焼きが良い感じに黒くなってて……」
三森は無言で一の手から箸を取り上げる。その箸を、彼の目に、突き刺す。
「ぎゃああああ!」
「不器用で悪かったな」
「いや、悪くないですけど……三森さんって、体から火を出したり口から火を噴いたりするのに火加減とか分からないんですか?」
箸は何とか瞼で挟んでいたので致命傷にはならなかった。一は割り箸を改めて持ち直し、玉子焼きを口に入れる。少し焦げていたが、程よく甘い。口触りも存外悪くなかった。有り体に言えば、美味しかった。
「火ィ噴いた事なンてねーよ、ボケ。アレだよ、加減ってのがさっぱりだ。ほら、その、私って大雑把っつーか、燃やせば良いだろ? みたいな感じでやってっからさ」
「ああ、確かに確かに」
「……否定しろよ」
「ふぁい?」
コロッケを口に含んだまま返事して、三森に嫌な顔をされる。
「ま、そンだけ食ってくれりゃあ感想はいらねェな」
「感想? ああ、味ですか? 焦げてるけどすごく美味しいですよ」
「ぐ……そういう事スパッと言うンじゃねェっつーの」
三森は髪の毛をくしゃくしゃと掻き、ソファにダイブして顔を埋めた。
「いや、自分以外の手作りの料理って久しぶりに食べたんですよ。だから、余計に美味しく感じられました」
「あいつは? あのデカ女は料理作らねェのか?」
「糸原さんは料理どころか家事全般からっきしなんで。お米を洗ってと頼んだらクリーニングに持っていこうとするぐらいのダメットさんですよ」
「そっか。……そっか」
呟き、三森はもう一度ソファに顔を埋める。足をばたばたさせている彼女は何だか不気味だと一は思った。最後に残った玉子焼きとご飯を口に入れると、弁当箱は綺麗さっぱり空っぽになる。
「ごちそうさまでした。美味しかったです。それと、容器は洗って返した方が良いですか?」
「いや、良い。その辺置いとけ」
「あの、ところでどうしてまたお弁当を?」
食べ終わってもまだ、それだけが気掛かりだった。不気味と言うか、何か裏があるようで恐ろしい。
「……悪かったな」
「え?」
急に罰の悪そうな顔になり、決まりが悪そうに口を開く三森に一は少しだけ驚いた。彼女の殊勝な態度はいつ見ても気持ちがおかしくなる。
「こないだの事だよ。その、今まで、私はお前を変な目で見てたかもしンねェ。春風の弟に似てるってので、こいつだけは守らなきゃ駄目だって、そう思ってた」
一はぐっと息を呑む。失望はしなかった。やはり、そうなのだろうと確認するだけ。
「でも、これからはっつーか、今からは違う」
三森は一度言葉を区切り、照れくさそうに視線を反らした。
「お前がビビるような思いは二度とさせねェ。私が全部何とかする。――お前だけを守る。だから、その……」
「――――っ」
それは、いつか聞いた言葉。
あの時の言葉は一の胸を強く打った。
そしてまた、彼女の言葉は一を――。
「弁当なンかで許してくれとは言わねェ。不器用だからって言い訳もしたくねェ。でも、私にはこれぐらいしか思い浮かばなくてさ、ごめんな」
三森は誤魔化すような笑みを浮かべる。その事が一には許せなかった。
「……俺も、守ります」
弾かれるように三森が一の方へと向き直る。彼女は火を点けようとしていた煙草を取り落として、目を丸くさせた。
「俺なんかじゃ頼りにならないと思います。けど、あの時の、ソレに怯えていただけの俺じゃなくなりました。三森さんと肩を並べて戦うのは無理だけど、でも、あなたの背中なら守れます」
「くっ、ははっ、バーカ」
蛙の潰れたような声が一の口から零れる。
「カッコ付けてンじゃねェよ。……ありがとな、愛してンぜ」
「……俺もです」
やっぱり、三森にはそれが良く似合っていた。一の小さな悩みなど、この世全てのしがらみなど全て吹き飛ばしてしまいそうな、屈託のない笑顔が。
お腹も満たされて心も満たされて。一は久しぶりに充足感を感じていた。最近の流行歌など知らないが、何か歌でも口ずさみながら歩きたい気分に陥っている。
「随分とご機嫌のようだな、一一」
「ひっ……!」
突然耳元に息を吹き掛けられて一の力が抜けた。
「何か良い事でもあったらしいな」
「くっ、てめえは毎度毎度人の死角からきやがって……」
一は耳を押さえたまま振り返り、彼女を睨み付ける。
「元気そうじゃねえかよ、春風」
「まあな」
そう答えるのは春風麗だ。
折れそうなほど長い手足。腰まで届いた髪の毛は飾り気もなく垂れ下がっている。ダークスーツに身を包むのは、一の知る限り彼女の常であった。
が、いつもと違うところもある。春風はその細い腕に不釣合いな、大きな鞄を抱えていた。
「……旅行にでも行くのか?」
春風は抱えた鞄に目を落としてから頷く。
「有給が溜まっているんだ、上司から早く使えと。ちょうど、良いとも思っていたしな」
「一区切り付いたってところか。羨ましい限りだよ」
旅行なんてもう何年も行っていない。いや、それよりも一は春風の立ち直りの早さが羨ましかった。あんな事があったというのに、彼女はいつもと変わらない様子である。
それとも、春風は強がっているのだろうか。何にせよ一には判断が付かなかった。
「で、どこに行くんだ?」
「決めていない」
春風は鞄を抱え直して、まっすぐに一を見つめた。
「……時に一一、貴様はどこか行ってみたいところはあるのか?」
「えー、いきなり言われてもなあ、うーん」
一は電信柱に背を預けて腕を組む。
「どっか遠く。どうせ行くならここからは離れた、美味いものがあるところに行きたいかな。桃源郷みたいな感じの」
「ふ、桃源郷か。案外、電車に乗って行ける距離にあるかも知れないぞ」
「かもな」
「ああ、そうだとも」
それから、春風は言葉一つ話すのにも考える素振りを見せた。無駄口を叩くのが好きな彼女にしては珍しい間、である。
春風は考えなければならなかった。
一には迷惑を掛けた。償いきれない事をしてしまった。自分が彼と会うのはお互いの為にならない。終わったとはいえ、一度は死神に憑かれた女なのだ。だから、今、この時が、一と話す最後の機会になると決めている。そして長々と会話を続ける気はなかった。未練は、ここで断ち切る。
彼は、言葉を待っている。自分の謝罪を待っている。
「一一、済まなかった」
だから、まずは何を話すにしても謝ろうと思った。
「え、何……?」
しかし、一は不思議そうにこちらを見つめている。
「先日の……いや、初めて会った時からの事を含めて、済まないと思っている」
「あー、まさか本当に謝ってくれるとは思ってなかった。ま、あれだ、そんな気にすんなよ」
一は軽く告げた。これでも意を決して、それこそ清水の舞台から飛び降りる気分で頭を下げたのだから、もっと気にしてくれても良かったのにと春風は思う。
「お前の泣いてる顔なんか滅多に見れないだろうしな。はっはっは、これで喜怒哀楽の内、喜以外は見られたな」
「下種め。同じ事を三森冬にも言ったのか?」
「こんな事言ったら殴られちまうよ」
苦笑して、一は頭を掻いた。
目に焼き付けておこう。春風は一に気付かれないように何度も瞬きを繰り返す。彼の顔はもう二度と見られない。彼の声は二度と聞けない。だから、最後に。
「精々仲良くしてやれ。あいつはああ見えて寂しがりなんだ」
春風は一に背を向けて歩き出す。
「あ? もう行くのか?」
「ああ」
「んじゃ、ちょっと待ってくれ」
仕方なく春風は足を止めた。追い掛けてきた一の顔をなるべく見ないようにして。
「荷物増やすようで悪いんだけどさ、これだけは返しときたかったんだ」
「……っ」
一がポケットから取り出したのは煙草の箱だった。
「それは夏樹の……」
「あ、ライターはもらっといたぜ」
「まだ、持っていたのか」
「お前が忘れていったんだろうが」
本当は一に対する嫌がらせと、この銘柄を吸っている彼を見たかったからわざと置いていったのだが。流石に面と向かっては言えない。
「……なあ、お前の弟と俺って本当に似てたのか?」
「ああ。最初に貴様を見た時は驚いた。正直に言うと、嬉しかった。同時に、自分を責めた。嫌悪した」
「どうして?」
春風は一度鞄を地面に下ろす。肉体的だけでなく、精神的にも荷が下りた気分だった。
「夏樹が死んで、一度は割り切った筈だったからだ。割り切り、忘れ去り、もう終わったと諦めていた。だから、夏樹の面影がある貴様を見て、喜んでしまった自分が許せなかったんだ」
「そんな事しなくても良いじゃん」
「貴様は……」
あっけらかんと言い放つ一が無性に憎い。無表情かもしれない。無感情かもしれない。それでも自分は必死だったのだ。必死で割り切ろうと、忘れ去ろうと、諦めようとしたのだ。
「家族の事だろ。一生付いて回る問題だ。割り切ったり、忘れようとしたりしても無駄だと思うけど、つーか、完全に忘れんのは無理だよ」
「まるで自分が経験したかのような口振りだな」
「さあ、どうだろうな」
一ははぐらかそうとしているのか、曖昧に答えを返す。
「ま、誰かと重ねられんのはごめんだけど」
「一一、貴様は意地の悪い奴だ。ふ、まあ良い。許してもらおうとは思っていないからな」
「ああ、お前の事は嫌いだよ。一生嫌いだ。死ぬまで嫌ってやる」
それで良い。それが良い。期待はしない。とっくに諦めている。自分は他者に好かれるような人間ではない。いてはならない。一の言った事が嘘でも本心でも構わない。本心だと、真実だと自分が思えば、それで終わるのだ。
「ところで、どこに行くのかは決めたのか?」
「さて、な」
春風のもらった有給は一週間。本来なら年末年始までゆっくりと過ごせるぐらい溜まっていたのだが、年末が忙しいとの事で一週間しか受理されなかったのだ。尤も、その気になれば仕事なんて忘れて、この街なんて投げ出して、目の前の男なんて二度と思い出さなくて良いようになるまで、好きに世界を回ろうとも思っている。
そして、出来うる限り遠くへ。可能な限り駒台へは戻りたくなかった。
「ブラジルにでも行こうかと思っている」
「日本とは真逆だな。良いんじゃねえの? 当分はお前の顔見なくて済みそうだし」
一は笑う。本当に気付いていないのだろうか。
本当は笑って欲しくなんてないのに。
本当は引き留めて欲しいのに。
本当は嫌いじゃないと、行かないでくれと、嘘でも良いから言って欲しいのに。
「それはこちらの台詞だ。一一、貴様の顔を見ないで済むのだと思うと嬉しくて涙が出てくる」
「は、そうかよ」
これで、最後。いつもと変わらない話をして、それでおしまい。
だから、これで最後だと思ってしまったら、一つだけ欲が出てきてしまった。もう二度と会わないのならば、もう二度と――。
「一一、私と貴様は当分顔を合わせない事になる」
「ん? ああ、まあ、そうなるな」
「だから、一つ頼みがある」
「はあ?」
一は露骨に嫌な顔をする。だが、春風は見ていないふりをして続けた。
「一度だけだ。一度だけで良い。『姉さん』と、呼んではくれないだろうか?」
「……お前、お前さあ……」
こめかみに指を当て、一は心底呆れたように溜め息を吐く。
「春風さん、あなたさっき俺に謝りましたよね?」
「分かっている。分かっている上で頼んでいる。言ってくれれば、もう、本当に全部忘れられるんだ。だから……」
「嫌だ」
一言一句区切るように、言い聞かせるように一ははっきりと言い切った。
「いい加減にしろよ。俺はお前に喜んでもらう為にこんな顔で産まれてきたんじゃねえんだ。誰が、好き好んでてめえの知らない奴と似ようなんて思うかよ」
全く以ってその通り。言い返す事など出来る筈もなく、春風はただただ俯いて黙り込む。
「ちっ、折角良い気分だったのによ。全部台無しにされちまった」
「……済まない」
「マジで済まねえよ。良いよもう馬鹿。馬鹿。さっさと旅行行って楽しんでくりゃ良いだろ」
最後の最後で怒らせてしまった。もう、何もかも嫌になる。
「さっきも言ったじゃねえかよ。無理なんだって。割り切るとか、忘れるとかさ」
否定は出来ない。だが、割り切りたいのだ。忘れたい、諦めたいのだ。そうじゃないと、辛くて辛くて仕方がない。
「やっぱりムカつくんだよな、お前。……お前だけが、三森さんに……」
「え?」
「何でもねえよ」
これ以上この場に留まり続けても、何も起こらない。終わったのだ。
一一と、春風麗の関係は終わった。
春風はそうやって割り切り、忘れ去りたいと思い、無理矢理諦めようと自身を納得させる。
「ふ、まあ良い。ではな、一一」
「ああ、じゃあな」
「精々息災でいろ」
鞄がやけに重かった。両腕では抱え切れないくらいに、重い。
歩き出そうとするが、さっきまでとは違って足が重く感じられる。
「おい、土産は食べ物にしろよ」
「――っ」
もう、帰ってこないと、戻ってこないと、会わないと思ったばかりなのに。
一はこちらの事を何も考えず、ある種無神経に言い放つのだ。
「……黙れ。貴様には何もやらん」
その、彼女の背中があまりにも侘しく、寂しいものに見えたのだろうか。
「いってらっしゃい。……気ぃ付けろよ、姉ちゃん」
一の同情だったのかもしれない。『姉さん』と言ってくれなかったのは、彼の嫌がらせだったのかもしれない。
だが、春風には充分だった。未練を一つ断ち切るには、未練を一つ、増やすには充分だったのである。
旅は、楽しいものになるだろうと春風は思った。
一への土産を考えるだけで、彼の反応を想像するだけで、
――夏樹、漣、済まない。今は、済まない。今は……。
「ああ、いってくる」
残しておいた、飛び切りの笑顔を見せ付けるのを思うだけで。
ゲデ編、終わりです。
色々と思うところがあるかもしれませんが、終わりです。
もう一度言います、終わりです。
今回のお話では、死神を悪い奴として扱わせていただきました。
皆さん死神に対してあまり良くないイメージをお持ちだと思います。やれ不吉だとか、不安だとか、不審だとか。
が、本編でも少し触れたように、死神には『最高神に仕える農夫』という異名もあります。この場合の死神は、死を迎える予定の人物が魂のみの姿で現世に彷徨い続け悪霊化するのを防ぐ為、冥府へと導いていくという役目を持っている、とされます。
つまり意外と良い奴なんですね。
宣伝になってしまいますが、僕のもう一つの「そこにカイロスはいるか?」 でも死神は登場します。快楽主義の楽しい人です。
皆さん、死神は実は気の良い奴なんですよ。そんなに怖がらずに、もっと親しみを持って接しましょう。人類皆友達。
まあ、僕のところには絶対に来て欲しくないですけどね、死神。