ごめんなさいが言えなくて
「何と言うか、良くやるよ。馬鹿だなあ。本当に馬鹿だ。僕にはとてもじゃないが真似出来ないね」
「楽しそうですね」
「いやいや、僕は内心怒っているんだよ? 命を粗末にしちゃいけないってね」
言葉とは裏腹に、旅の表情は明るいものであった。
「随分と時間が掛かりましたが、とにかく終わりましたね。……ふう、少しばかり生きた心地がしませんでしたよ」
「あれあれ? いっつもクールな木麻君にしては珍しい台詞だね」
「たまには、です。それよりも旅さん、一たちはどうやってゲデを倒したのですか?」
木麻の問いに、旅は首を傾げる。
「倒したと言うか、騙したと言うか。……ゲデが実体に戻るには一君たちが死ぬ必要があったんだ。春風君を追い詰めたかったからね」
「それは分かっています」
「だったら答えは簡単さ」
ちっちっ、と、旅は軽快に指を振った。
「……死んだフリ、ですか。しかし、まさか死神がそんな方法に引っ掛かる筈が……」
「確かに、普通ならね。でも、ゲデは大分参っていたし、冷静さを欠いていた筈だよ。そして、普通の死んだフリじゃあない。アイギスで三森君を止めていたのなら、そう簡単には見破れないと思うよ」
だが、偶然ではない。あの結果は奇跡ではない。一たちが必死にしがみ付き、引き寄せたものなのである。
「……まだ、生きてるんですか?」
ゲデの体には炎が未だ燻っていた。その光景に目を背けながら、一は三森に尋ねる。
「まだ生かしてンだよ。こいつをヤるのは私じゃねェ」
三森はジャージのポケットからナイフを取り出した。
「それは、私の……」
「ああ、さっき投げられた時に一本借りといたぜ。――やりな」
動けない春風にナイフを握らせると、三森は煙草に火を点ける。
春風は最後の力を振り絞り、ナイフの柄を杖代わりにして立ち上がった。彼女の体はふらつき、今にも倒れてしまいそうである。瞳の奥に宿った憎悪だけが春風を動かしていた。
「何年待ったと思ってる。この為だろうがよ、一番美味しいところ譲ってやるって言ってンだ。どうした、やれよ」
「……私は」
だが、春風はその場から動かない。ゲデを見下ろしたまま動かない。
「この期に及ンでガタガタ抜かすんじゃねェぞ。そいつがどれだけの人間殺したと思ってやがる。あ、いや、殺したとこで、死んじまった奴は帰ってこねえってのは分かってる。けどよ、生かしとく理由はねェだろ?」
「ああ、その通りだ」
「だったら!」
「だが、私は背負いたくない。もう、嫌なんだ。これ以上こんなのに縛られるのは……」
うな垂れる春風に、初めから関わり合いにもなれない一はおろか、三森でさえ何も言えないでいる。
だから、気付かなかったのだ。
「ンン……」
時に感傷は、同情は取り返しのつかない悪夢を産むと言う事に。
ゲデは片腕と片足を失っていた。だが、腐っても、焼かれていたとしても神は神なのである。三森たちはその事実を失念していた訳ではないが、弛緩し切っていた。
「――――っ!」
「しまった……!」
自身でも理解している。もう、先は長くないと。だから、だからこそ道連れが欲しい。神の執念、怨念。ゲデが選んだのは、選べたのは一番近くにいた一であった。
触れた瞬間、火花が残っていた視界に降り注ぐ。
霊体に変化してもダメージは癒えない。死は免れない。だが、最後に残った力で地獄の王に贄を供するのも悪くはない。
一の中は、ゲデが思っていたよりも心地が良かった。
ゲデの、体を乗っ取る行為と言うのは、自身を霊体に変化させ、対象の精神と自身の精神を同居させるようなものである。だが、あくまで主導権はゲデにあるのだ。乗っ取られたものはただ、そこにいるだけである。何も出来ない。何も言えないのだ。
そして、ゲデは対象者の記憶を探る。探ると言っても、記憶は脳に蓄積されている。体を動かす権利はゲデが握っているのだから、自由自在に記憶を引き出せる寸法なのだ。
――さて、と。
記憶を探ると、一番最初に現れたのはゲデ本人の姿である。一の記憶の中では一番新しく、一番感情に訴え掛けたモノなのだろう。だが、ゲデは自分の姿など今更見たくはなかった。もっと違うものが見たい。彼の弱さを知りたい。弱みを握りたい。一が抱く他者への嫉妬を、憎悪を、憤怒を。泥のように臭く、血のように甘く、どこまでも薄汚れた感情が見たい。
ゲデは深く、記憶の海へ潜っていく。
名前、性別、年齢、身長、体重、誕生日、星座、血液型、趣味、特技、職業……。
流れる情報に目を通していく。取捨選択の果て、ゲデは一つの風景と出会った。
――ンン、これは?
そこは、公園だった。
滑り台。ブランコ。シーソー。ベンチ。広場に点在する遊具。
太陽は青空の天辺に位置し、蝉が鳴いていた。その鳴き声に、公園の傍を通りかかる人々は皆耳を手で塞ぎ、顔を顰めている。全ての人へと平等に降りかかる容赦のない光。
雑草と石が散りばめられた広場。
そこで子供たちが声を張り上げて草野球に興じている。体の大きさや顔付きからして、せいぜい小学校は低学年ぐらいの年頃だろう。流れる汗や、襲い掛かる紫外線など物ともせずに、彼らはただただ白い球を追いかけている。
しっかりしろよ、そんな声が外野、内野問わず上がっていた。
子供の人数は、そう多くない。野球本来の九対九でなく、その半分ほどだろうか。
ゲデはしばし、その光景に目を奪われる。彼はいつの間にか一の記憶の中の風景の、一登場人物として実体化していた。
――少し、楽しむとしようかナ。
やがて試合も進み、どうやら終盤に差し掛かった頃、一人の少年がバッターボックスに立った。一球目、二球目ともに空振り。
三球目。ゲデが目を離した瞬間、高い音が響く。見ると、金属バットがボールを捉えていた。真っ直ぐな打球が外野に飛んでいく。
ベンチからは歓声。
ピッチャーは溜息。
バッターは叫んだ。
叫んで、喜びを体全体で表現するかのように、大きく飛び跳ね、塁を回る。打球の行方を外野が追うが、それも無駄な徒労に終わるだろう。公園の一番端、低い並木が連ねる公園のフェンスの、更に向こうへとボールは消えた。
一方で、生還したランナーをベンチの子供達がホームベース上で迎え入れている。未だ響き渡る歓声に応えるように、小さな英雄が大きく手を掲げた。
刹那、ゲデの視界が暗転、反転する。
真夏、真昼の公園は姿を消し、真っ青だった空は夕闇の曇天に覆われた。遊具は辛うじて原型を留める程度にまで変わり果て、広場にはぽっかりと、大きな穴が穿たれている。
――これが。
周囲の景色も一変していた。傍に立っていたマンションは鉄筋を残すのみで、瓦礫の山を築き上げている。野球をしていた子供たちも、彼らを見守っていた人たちも、誰も彼もが姿を消していた。
ここには、もう何もない。
――これが、一一の記憶……!
ゲデは笑った。
そうだ。そうだとも。
ゲデは一の記憶を辿っていったが釈然としないものを感じていたのである。思い出は全てここ数年、一が駒台に来てからのものが殆どだ。いや、それしかないと言っても良い。それ以前のものがない。楽しい、嬉しい感情でだけ占められたアルバムは、ゲデの心に黒く、暗い影を落とす。どうにも彼の経歴、記憶はうそ臭い。胡散臭い。真実を奥底に隠している。その読みは当たっていた。
この先に何かがある。
手を伸ばせば、すぐそこにある。
ゲデが意識を集中したところで、背後から気配を感じた。振り返れば髪の長い女がいる。どうやら一の記憶に残る女らしい。廃墟に佇む女をこれ以上気にも留めず、ゲデは一の記憶を掘り起こそうと試みた。
「あなたは誰なの?」
「――――!」
ゲデの背筋が凍る。声の主、背後の女は彼の肩に手を置いていた。
本来なら有り得ない。この女はあくまで記憶の筈で、ゲデは実体化しているが、一の記憶上には存在しない筈なのだ。言わば、一の記憶は映画、ゲデは観客で、女はスクリーンの女優である。観客が女優に触れられるなど、また、その逆も有り得ない。有り得てはいけない。
「おっ、お前は……!?」
ゲデは女の手を振り払い、穴の開いた公園へと逃げ込んだ。
「あなたは、主さまの友達なの?」
「何なんだっ、誰なんだお前は!? どうして僕に触れられるっ!?」
女は答えない。ゲデへと一歩ずつ近付いていく。歩く度、彼女の輪郭が周囲の景色と同化し、曖昧となっていく。
「そう……違うのね」
髪の長い女は悲しそうに、寂しそうに呟いた。
「こっちへ、こっちへ来るんじゃあない!」
「違うのなら、あなたは主の敵なのね? そうなのね?」
恐怖が加速していく。ゲデの心臓は破裂しそうなほど高鳴り、冷や汗が全身から噴き出ていた。死神、神ともあろう存在が、である。
「うっ、うおおおおおおおお!」
「じゃあ――止まってちょうだい?」
死ぬ。本当に死んでしまう。ここに留まっていれば死ぬ。だが、一の体から出ても死ぬ。なら、どちらかを選ぶしかない。
ゲデは――。
ゲデが選んだのは、一の体から抜け出す事であった。
得体の知れない髪の長い女の、あの目。あの目と目が合う寸前でゲデは脱出を選んだ。選ばざるを得なかったのである。
「……くっ、そぉ……」
だが、どうやら間に合わなかったらしい。
残っていた腕と足が全く動かない。どうにか顔を動かして確認すると、
「くそおおお……!」
体が、石になっていた。辛うじて動くのは膝から上の一部分だけである。何が起こったのか、起こっているのか理解出来ない。どうして、記憶の中の人間にこんな真似が出来るのか皆目見当が付かない。が、はっきりと分かった事もある。
自分はもう、逃げられない。
「……やってくれるじゃねェか」
ゲデに振り向く余力は残っていなかった。絡み付く殺意。背後から堪え切れない熱を感じる。直接見なくても分かっていた。
迫るのは三森冬。彼女の全身からは火炎が立ち上っている。
だが、その炎はどこか異様だった。三森から発せられている炎は一定の高度以上には上らない。どろりと、粘性のある水のように地面へと流れ落ちていく。しかし決して触れたものを焦がさない。溶かさない。意思を持たない火である筈なのに、まるで燃焼させるものを選別しているのかのような――。
「てめェはよ、やっちゃなンねー事をやったんだよ。私の目の前でな」
三森が歩く度、彼女の足元に溜まった火も移動を開始し始めた。ゆっくりと、しかし確実に。意思を持っているかの如く進んでいく。
やがて、散らばっていた炎はひとりでに集まり、何かの形を成すかのように蠢き、作り変わっていく。
「てめェだけは跡形も残さねェ」
三森がゲデを睨み付けて低く呟いた瞬間、火勢が激しさを増した。炎はどろどろとした形状を保ったまま移動を始める。
「……三森冬、それは……」
その、炎の意味を理解した春風が声を震わせた。
液状のようだった炎は一つの形に生まれ変わる。
「うっ、くっ、ああああっ……」
怯え、情けない声を上げるゲデにはその正体が掴めない。
三森の炎から産声を上げるモノが見えていない。
――トカゲの姿をした炎がまるで見えていない。
四つの足で地を焦がし、溶かし、眼前の障害を悉く嘗め尽くす暴虐が見えていない。
見えないからこそ恐ろしい。恐怖は意思を止め、萎えさせる。
ゲデは必死に逃走を試みていた。
しかし、
「『舐めろ』」
「うぎいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっっっっ!?」
石化していた足が掴まれてしまう。石化していた為、直接の部位からは痛みが伝わらない。だが、熱はすぐに信号として全身に駆け巡る。
トカゲの姿をした炎は苦しみ悶えるゲデを気にする筈もなく、淡々と己の職務をこなそうとしていた。三森の怒りを具現化した存在は、ただ標的を焼き尽くさんと紅蓮の舌をゲデに這わす。
「ひ、やめっ、やめてっ、やめてくれええええええええっ!」
炎の触れた部位から溶け始め、数秒と掛からない内に焼け爛れる。血液は沸騰して体内からゲデの体を痛め抜く。骨は炎に舐められると、一瞬でこの世から姿を消した。
ゲデに残ったのはもはや胸から上だけの部位になっている。それでも、意識があるのだ。痛みを感じれば、恐怖から叫ぶ事も出来る。気が狂う事も許されず、少しずつ己の体が溶かされていくのを感じなければならない。
「あああああああああっ、あつ、あつっ、あつい! お、おおお願い! 頼むからもう殺して、殺してくれ殺して殺してころし――」
気の遠くなるような責め苦の果て、遂に悲鳴が消えた。そして、まだ終わってはいない。まだ、ゲデの発声器官が焼かれただけなのだから。
木麻は常々思っていた。異を唱えていた。
勤務外で最も強いのは三森冬。そう、誰もが口を揃えて言う。納得が出来なかったのだ。そも、強いとは何を以って指すのか。確たる判断材料もなく、皆が盲目的に述べる事実を信じられなかった。
「……これが、三森の力ですか」
しかし、アレを見ては信じざるを得ない。
圧倒的な暴力。絶対的な暴虐。全てを燃やし、焦がし、溶かし、舐め尽す業火。力強く、何よりこの世のものとは思えないほどに美しい。
火鼠。蜥蜴人間。赤鬼。そのどれもが戦闘部時代の三森を指す二つ名である。そう呼ばれるほどに彼女は強かった。
その意味を、木麻はようやく理解する。
「と言うより、彼女に宿った――巣食ったモノの力だよ」
旅がつまらなさそうに口を開いた。
「これで本当に決着だね。ゲデはもう、どこにもいない。多分天国にも地獄にも、煉獄にもいないだろうね。この世から、完全に消えて失せたのさ」
「旅さん、どこへ?」
「漣君に報告してくるよ。彼は、この世のどこかにはいるだろうからね。うん、ま、いるのなら天国が良いな。好きな子を守ったんだ。神様だって分かってくれてるよ」
鉄塔から飛び降りようとする旅を木麻は引き止めなかった。
確かに皆の言う通りである。三森は強く、そして恐ろしい。
だが、木麻は何故だろうか、三森より一の方が気になっていた。あの時、ゲデは一の体を乗っ取った筈。しかし、すぐにほうほうの体で抜け出してきた。何か、恐ろしいモノでも見たかのような、そんな表情で。
全てが終わったと気付いたのは、雲間から覗いた月に照らし出された時である。
一は重くなった体を上半身だけ起こし、空を見上げた。
「……あー」
少しの間意識が飛んでいたようだが、何とか生きている。自分はまだ生きている。しかし、大した実感は湧かなかった。体中の力が抜けたようにだるく、気持ちが悪い。
三森と春風も生きていてくれた。ひとまず、一は安堵の息を吐く。後はこの二人に心の底から謝ってもらえば、今日はもう終わるのだ。
だが、どうにもそんな話題を切り出せる雰囲気ではない。折角生き延びたと言うのに、女性二人はお互い向かい合って座り込み、陰鬱とした見えないモノを纏っている。
巻き込まれたくない。
そう思い、一は再び寝転んだ。このまま寝たふりでもしていれば、話が自動的に進んでくれるのではないかと期待して。
「……終わったンだよな」
「ああ、終わったらしいな」
「はっ、だよな。ンじゃま、やってくれや」
三森が笑った。それでも、張り詰めた空気はそのままである。
「こんなものを握らせて、私に何をやらせるつもりだ。三森冬、貴様も疲れただろう。帰って休んでおけ」
「春風、てめェはさっきから何を抜かしてやがンだよ。今、目の前に身内の仇がいるんだぜ。そいつが殺せって言ってンだ。だったらやらねェでどうするよ?」
「……やめろ。私は貴様を殺す資格などない。むしろ三森冬、貴様が私を殺したい筈だ」
春風は握らされていたナイフを三森の傍に放る。
「死神に乗り移られていたとは言え、私が貴様を殺そうとしたのは事実だ。そして、私自身そんな気持ちがなかったとは言い切れん」
「だから続きをやれってンだ。もう、良いんだよ。良いじゃねェか。私を殺せば、お前の復讐は終わりだ。もうしんどい思いしなくて済む。違うのかよ」
「違うっ、死ぬのは私だけで良い。貴様ら北駒台には、私怨で迷惑を掛けた。関係のない一一も、部下も巻き込んだ。だから、だからっ」
寝たふりすら出来ない。一の耳をつんざくのは悲痛な声だ。可哀相で可哀相で仕方がない。
そして、馬鹿だと思う。
殺してくれ、殺してくれ。三森も春風も口では言っているが、とてもそうには聞こえなかった。
二人とも意地を張っている。少なくとも一にはそう思えた。
助けてと、許してと、少なくとも一にはそう聞こえている。
「あのー……」
しかし、本人たちに真っ向から真っ正直に馬鹿だと言い出すのは躊躇われた。一はとりあえず遠慮がちに声を掛けてみる。
「黙ってろ」
「一一、貴様には関係ない」
予想通り冷たい反応が返ってきた。だが、一は挫けない。
「ヤ、です。俺は二人に死なれちゃ困るんです。と言う訳で、一旦帰りませんか?」
「……口出しすンじゃねェよ。お前なんかに私らの何が分かるってンだ」
「じゃあ、早く死ねば良いじゃないですか」
一は保険としてアイギスを拾っておいた。
「あァ?」
「聞いてて苛々するから早く死ねって言ってるんですよ」
三森が敵意を剥き出しにして一を見据え付ける。
「関係ねェってンだ。引っ込みやがれ下っ端が」
「死にたいならお互いがとっとと自殺でもしたらどうです? 結局口だけなんだ。あなたたちは死にたいと思っていない。まして殺されたいとも思っていない」
「……好き放題言ってくれるじゃねェかよ。そこまでご大層に吠えたンだ。覚悟は出来てンだろーな?」
「何の覚悟ですかね。野良犬にでも噛まれる覚悟ですか?」
「上等じゃねェか!」
立ち上がる三森だったが、彼女は春風に制される。
「邪魔すンな。てめェだってこいつに好き勝手言われてんだぞ」
「やめろ。一一の言う通りだ」
「なっ、てめェ!?」
春風は済まなさそうに一を見つめ、やがて躊躇いがちに言葉を紡ぐ。
「一一、よもや貴様に見抜かれるとはな。落ちたよ、私も。私は……許されたかったんだ。三森冬を恨みはした。だが、殺したいなどと思えなかったんだ……」
一は何も言わず、ただ続きを待った。彼女たちの、続きを。
「――っ、でもっ、私はお前の弟を!」
「ああ、殺したよ。ゲデに体を乗っ取られ、助かる見込みがなかったとはいえ、貴様は夏樹を殺した。殺した。殺したんだ。だから私は、貴様とは距離を取り、二ノ美屋店長にも迷惑を掛けた。……だけど、だけど、恨める筈がないじゃないか、殺したいなんて、思える筈ないじゃないか……!」
「どうしてだよ!? 恨めよ! 呪えよ! 憎いって思えよ、殺したいって言ってくれよっ! じゃねェと、私っ、私がっ」
「出来ないっ、だって、だって私たちは友達じゃないか……!」
一も、三森も言葉を失った。春風の声には確かな感情が込められている。無感情とは程遠い、聞いた者の胸を張り裂かんばかりの悲痛な叫びだった。
「冬は言ってくれたじゃないかっ、私とは年が違うけど、友達になろうって! 嬉しかったのに、なのに、そんなの嫌だっ、私は冬を殺したくなんかない!」
そして、無表情とも程遠い。春風は顔をくしゃくしゃにして泣いている。大粒の涙を零し、駄々をこねる子供のように泣き喚く。
「それとも、もっ、もう冬は私を友達だと、思ってはくれないのか?」
嗚咽混じりの声は、確かに三森の耳朶を打ったらしい。彼女は力が抜けたのかその場に座り込む。
「……あ、ちっ、違う、私、私は……くそっ、なンだよ、なんだよもうっ」
感極まった三森の目からも涙が止め処なく溢れていた。幾ら袖で拭っても、次から次へ温かな雫は流れ落ちる。
「くそっ、いきなり泣いてンじゃねェぞ。ずりィじゃねーかよ、私だって恨んじゃいねェ。う、麗と、その、仲直りしたかったよ……」
一は照れ臭くなって背中を向けた。
彼女たちの事情を知ってから、遅かれ早かれこうなるだろうと予測していたのである。そもそも、両者共にソレとの戦闘能力を有している化け物なのだ。もしもどちらかが、本当に誰かを殺したいと思えば実行に移すのは容易い。そうしなかったのは法だとか、罪だとか、倫理だとか、高尚な理由ではない。ただ単に殺したいなんて思っていなかった。もっとシンプルに、仲直りしたかったのだ。
ただ、三年の間距離を開けてしまった。どちらもずっと謝れなかった。何も話そうとしなかった。時間がお互いの溝を広げ、傷跡を治りにくくしていたのである。出来たかさぶたを剥がすのに、後もう少しだった。喧嘩を覚えたばかりの子供のような、馬鹿げた意地の張り合いはもう終わる。
自分はもう邪魔な存在だと一は気付いた。もう少し休みたかったが、不粋な真似はしたくない。
ただ、最後に一つだけ。
三森も春風も強い人間だ。力に物を言わせる類の喧嘩では普通の人間では彼女らに勝てないだろう。だが、そうではない場合もある。
今が、その時だ。
時には言葉が力よりもモノを言う時もある。一は三森たちより弱い。だからこそ、術を知っている。
「……仲直りしたいなら、先にやる事があるでしょう」
一はなるべく三森たちを見ずに言い放った。
「また知ったような口を利きやがって」
「それだけです。俺がいたら邪魔でしょうからね」
「なっ、お、おいこら!」
三森の顔は一切見ずに。彼女の泣き顔はもう忘れようと努めて。一はその場を立ち去った。立ち去るだけで精一杯だった。
店までの途中、一は電信柱にもたれ掛かって息を吐いた。もう一歩たりとも歩きたくない。
「……はあ」
今日を振り返れば溜め息しか出てこない。
異常に憑かれ、非常に疲れ。結局、一が今日やったのは三森と春風の仲直りを手伝った事である。
とんだ道化だ。とんだ狂言回しだ。とんだ役回りだ。
だが、一はいつもと変わらない事に気付いて苦笑する。思えば、いつだって自分のやる事はこんなものだ。何か成し遂げたとは言い難く、何をしたのかと問われれば答えに窮する。
「ま、それもアリか?」
握ったアイギスは、相変わらず何も答えてはくれなかった。