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されど男爵は風と踊る



 一陣の風が吹く。

「ああああっ!」

 その風よりも速く、強い風が吹いていた。

 河川敷グラウンドにて、死神が舞う。満面の笑みを顔面に貼り付けて、風に弄ばれる。それでも尚、死神は笑うのだ。

「ああああっ、最高だ! たまらないヨ! その顔! その顔! その顔が僕を昂ぶらせるんだ!」

 春風の狙いは一つ。一撃でゲデを仕留める事である。霊体を持つゲデは自分の身に危機が迫ると実体から霊体に変化する。そうなれば、物理的な攻撃は一切届かない。通らない。

「くっ……!」

 一方、死神の狙いも一つ。春風の体に乗り移り、彼女を壊す事だ。

 死神が人間に乗り移る方法はいたって単純である。対象の体に触れさえすれば良いのだ。ただし、剥き出しの素肌に限る。衣類越しでは能力を発揮出来ないのだ。それでも、接近さえすれば幾らでもチャンスはある。出来る。あるいは対象の方から触れに来ても構わない。

 つまり、ゲデはほぼ、いつでも春風を壊せる。そうしないのは勿体ない、愉しいからだ。彼女をぎりぎりまで甚振って、痛め抜いて、苦痛と絶望を堪能させてから仕留める。

「ウララッ、ウララアッッ!」

 まるで、ダンス。ステップをくるくると踏みながらゲデは動く。春風もそれに合わせて動く。本人たちが真剣であれ、傍から見れば、仲の良い男女が頭の悪い行為に耽っているようにしか見えない。



 ――さて、どうなるだろうか。

 河川敷グラウンドを見渡せる鉄塔の上に木麻は立っていた。とても、不機嫌そうな顔で。

「来たね、死神」

「そうですね」

 隣で笑む旅本人にその気はないのだろうが、どうしても能天気な発言に聞こえてしまう。

「春風は死神を殺し切るでしょうか。いいえ、殺し切れるでしょうか」

 木麻には、どう贔屓目に見ても春風が遊ばれているようにしか見えない。今の状況は戦闘ではない。遊戯なのだ。死神の掌で、彼女はただ踊らされているだけ。

「春風は情報部です。実働に戦闘部ほどの能力はありません。旅さんはどう考えているんですか?」

「確かに、このままだと死神のおもちゃになって殺される。けどあの子、快足の靴(タラリア)を使う気だね」

「タラリアを……」

 ――タラリア。情報部の人間が所持を許されている神具である。一言で表すなら、『空を飛ぶ』概念を仕込んだ靴だ。その出自はギリシャ神話のとある神が持つ、履けば空を飛翔し得るサンダルだ。情報部の持つタラリアはいわばレプリカ。一一の持つアイギスに近い。しかし、オンリーワン技術部が総力を上げ、血道を上げて作り上げた贋作である。オリジナルには及ばないまでも、充分な性能を持っていた。

「許可は下りているのですか?」

「ううん、と言うかだね、許可を求められてもいない」

 だが、コピーと言えど神の持ち物を模したもの、タラリアを容易くは使用出来ない。情報部は部長である旅に許可を取らなければならないのだ。何故か。不完全だから、である。不安定と言い換えても大差はない。あくまで、情報部がタラリアを似せて作ったモノなのだ。元の設計図もなければ、オリジナルの材料もない。完全なスペックを再現出来る筈がない。となれば、何が起こるか分からない。ここぞという時に故障するかもしれない。そんな粗悪品を使わせる訳にはいかないというのが旅の意見だった。

「謹慎ものですね」

「それだけ必死なのさ。あの子の気持ちは分かるよ。だから重い処分は下せない」

「処分は下すのですね」

「示しがつかないからね。トイレ掃除か、お茶汲みでもやらせようか」

 それも春風が無事に、五体満足で帰ってくればの話である。

「不完全ですが、タラリアのスペックを最大限に引き出せば、あるいは……」

 タラリアの能力は一つではない。まず、脚部の強化だ。その為に情報部の人間は人間離れした動きが可能になる。例えばビルからビルへの跳躍だ。そしてもう一つ、加速、である。しかし、こちらの能力を発揮するには不安が残る。人体に影響を及ぼすのだ。自身の能力以上の速度を加えるから加速、つまり、重力が掛かる。本来生活する上では決して掛からない重力だ。加速によって足の筋が切れたり、血管が破れたりするのは当たり前。それだけならまだマシだ。鍛えた者ならば外側の皮、肉を破損、欠損するだけに留まる場合もあるが、ろくに体を動かさない者が使用すれば、まず臓器の破裂は免れないだろう。

「常人がタラリアを使えばどうなるか分からない」

「しかし、加速を使えば死神を打倒出来るかもしれません。タラリアで一点に力を集中させれば、春風でも……」

 使用者の身体を守る為、タラリアにはリミッターが掛かっている。リミッターを外さない限りは、人体に悪影響を及ぼさない程度の能力を発揮出来るのだ。しかし、一度外せば後はもう、神のみぞ知る、だ。

「分が悪いね。せめて彼女に協力者がいれば……一人、いや、少なくとも二人」

 この場で木麻が手を貸すのは簡単だが、彼女に戦闘能力はない。春風の足を引っ張るのがオチだろう。それが分かっているから、木麻は何も言わない。

「木麻君、情報部の責務を忘れてはいけないよ」

「分かっています。……旅さん、やはりあなたが手を貸す事は?」

 旅は複雑な表情を浮かべる。

「僕が介入出来たら、一番話は早いんだけどね。ごめんよ」

「いえ、今の私の発言は忘れてください」

 木麻は眼下の春風と死神に目を向ける。

 タラリアを使えば、死神を倒せるかもしれない。だが、やはり勝ちは薄い。賭ける価値はない。十中八九、春風は死ぬだろう。自分に出来るのはただ、事態の推移を見守るだけだと、木麻は目を瞑った。



 攻撃が当たらない。こちらの行動は全て読み切られている。だが、悲観はしていない。一対一ならば死神の独壇場。そんな事にはとっくに気付いている。

 ――精々甘く見ろ。

 遊ばれているように見えながらも、春風は布石を敷いていた。攻撃を紙一重で躱し続ける死神に、彼女は薄く微笑み掛ける。

 初見ならば、死神に恐れをなしていただろう。焦りを感じ、自滅していただろう。しかし、これでゲデとの交戦は三度目なのである。三度目の正直などと言う気はないが、付け入るべき隙は見つけていた。隙は、ある。

 紙一重で躱し続ける。紙一重で、だ。死神は恐らく観察力に長けているのだと、春風はそう推測する。自分の挙動、速度を上手く見切り、ぎりぎりで回避しているのだと。死神が危険を冒すのは愉しいからだろう。壊したいと言った。だから、こうして遊んでいる。自分への絶望を出来るだけ長引かせたいのだろう。

 ――下種め。

 だが、今この時ばかりは感謝する。死神は愉悦を追求するが為、自らの性根の悪さで死に至るのだから。

「ンン、ウララ、ウララ、それじゃあ僕には届かない。届かないんだヨ! 思いを届けたいなら、もっと、もっと、もっと!」

 知っている。むしろ、届かせる気はなかった。中途半端な攻撃では自らを死地に追い込むだけ。死神には最も強く、最も速い一撃、それだけで良い。

 死神がこちらを舐め切っている間にワンパターンな連係を繰り返して、目を慣れさせておく。充分引き付けたところでタラリアのリミッターを外し、渾身の蹴りを叩き込めば――。

 春風は動きが速くならないよう、遅くならないよう、細心の注意を払いながら攻撃を繰り出していた。

「ウララ、ああ愉しい。愉しいヨ、愉しいよ!」

 しかし、本当に上手くいくのか。疑問と不安が心に、少しずつ染み込んでいく。上手くいく。そう思っても心は沈み、重くなる一方だった。死神は自分の考えなど全て見通していて、その上で付き合っているのではないか。上手くいかなければ、もう打つ手はない。本当に絶望を味わうのだ。そうなれば、もう、本当に。

「はははははははっ、キミは? キミはどうなんだい、愉しんでいるのかい?」

 まだ体まで鈍くはなっていない。まだ一定の速度を保てている。しかし、春風はどうすれば良いのか分からなくなりつつあった。いつ仕掛ければ死神を倒せるのか、タイミングを計り兼ねて、無駄な体力を消費し続ける。

 その内に、このまま仕掛けずにいれば生きていられるのではと考えてしまっていた。もし看破されていたなら、仕掛けた瞬間壊される。体を乗っ取られ、憐れ地面に四散する。だが、このまま何もせずにいれば、少なくとも死神の気が変わるまでは生きていられるのではないか。そう、思ってしまう。

 気付いた時、春風の思考は完全に止まった。



 死神はにいいと口の端をつり上げる。

「捕まえたヨ、ウララ」

 声が出なかった。春風は目を落とす。

 肩に、手が置かれていた。

「捕まえたヨ、ウララ」

「……う、あ」

 何が起こったのか、最初は理解出来なかった。呆然として視線をさ迷わせる。死神と目が合って、ようやく事態が飲み込めた。自分の負けである、と。

「安心しなヨ、ウララ。まだ(・・)壊さないから、もっと愉しもうじゃないか。僕は三年も待ったんだ、ラストダンスにはまだ早い。そう思うだろう?」

「う、あああああっ!」

 迷っていられない。春風は遮二無二死神の手を払い、靴の踵を地面に打ち付ける。タラリアのリミッターを外したのだ。仕掛けるならもう今しかない。

「ンン!?」

 春風は打ち付けた反動をそのまま利用する。膝を前に突き出し、死神の顔面を狙った。が、ゲデは尻餅を付いて回避する。

「あ、ああっ、凄いじゃないカ! これなら届くっ、僕に届くヨ!」

 無論、攻勢を維持する。勢いが付いた春風は地面を滑りながら少しずつ速度を緩め、死神の背面から飛び出した。高く飛び上がった彼女に、死神の目は届いていない。

 空中で体を回転させ、死神の頭を強く睨み付ける。落下の速度も相まって、当たればソレといえどただでは済むまい。

 放つは一蹴。放てば一撃。

 春風のボディースーツが徐々に剥がれていく。身を突き刺すのは加速の衝撃、冬の寒風。痛みに顔をしかめ、それでも目を見開いて彼女は標的を定めた。

「ンンンっ! そこにぃ!?」

 死神が見上げた時にはもう遅い。

「――独楽割(こまわり)

 春風麗渾身の踵落としが炸裂した。

「カ――っ、あっ……」

 ただの打撃ではない。リミッターを外したタラリアの加速により、破壊力、殺傷力は格段に上がっている。

 事実、死神は頭部の破損を免れたものの、立ち上がれていない。地に尻を付いたまま、だらりと四肢を伸ばしている。

 春風は短く息を刻み、肩を何度も上下させる。タラリアのリミッターを外したせいか、やけに体が重い。神経が何本か切れているのだ、その程度だと言い聞かせて、倒れこむのだけは堪える。

 手応えはあった。だが、拭いきれない不安はまだ胸の内にしこりを作っている。本当に仕留めたのか。確かめに行くのが恐くて、春風はその場に立ち尽くす。

「う……っ」

 口内に血が溢れ始めた。どうやら、臓器を傷めてしまったらしい。溜まった血を吐き捨て、問題のありそうな箇所を擦る。一度違和感を覚えてしまうと、もう駄目だった。激しく咳き込み、地面に手を付けて四つん這いになる。呼吸すらままならず、流れる冷や汗を拭う事も出来ず、不快感に囚われた。

「はっ、はっ、はっ……」

 息を吸い込む度、喉に鋭い痛みを覚える。苦しくてたまらない。これで死神を倒せなかったら、全く無駄な代償を支払った事になる。春風は顔を上げ、死神を確認した。

 ――そうか。

 死神はいなかった。諦めは付いた。

「いや、いやいや驚いた。驚いたヨ、ウララ」

 自分では駄目だったのだと、彼女は目を瞑る。

「頭がひしゃげた時は驚いたけど、残念だったネ。僕を殺すにはそれじゃ駄目なんだ。それだけじゃあ駄目なんだ」

「…………そう、か」

 髪の毛を引っ張り上げられて、春風は弱々しく呻いた。

「今から壊すけど、何か言っておきたい事はあるカナ? ああ、面白い事を言ってくれれば少しは長引かせてあげるヨ」

 死神を喜ばせる気は毛頭ない。ここで命を繋いだとして、自分には打つ手がないのだ。最後の最期ぐらい、矜持を貫く。

「殺せ」

「……つまらないナア」



 春風に会ったところで何を話せば良いのか分からなかった。もう、二人して笑い合えたあの頃には戻れない。自分で招いた結果なのだから、仕方ないと言えば仕方がない。自分に出来る事と言えば、精一杯頭を下げて、命を以って贖う事だけだ。

 だが、河川敷グラウンドに辿り着き、彼女の姿を見た瞬間全てが吹き飛ぶ。

「春風――!」

 春風がいる。死神がいない。まだ始まっていないのか、それとも終わってしまったのか。

「……おい、春風」

 返事はない。春風は中空を見つめたまま動かないのである。焦れた三森は彼女に駆け寄り肩を揺さ振った。

「野郎はどうした? 返事しろって、おいっ」

「……三森、冬か」

 少しずつ、春風の瞳に焦点が合い始める。彼女は三森を見遣り、ぽつりと呟いた。

「何があった?」

「いや、何もない。正確にはまだ何も起こっていないと言うべきか」

 その割には、春風の様子はどこかおかしい。表情こそいつもと変わらないが、彼女のボディースーツは所々が破れている。

「……なンか、お前変わってねェか? いや、その、何もおかしなとこはないと思うんだけどよ、なンつーか、中身がっつーの?」

「ふ、寒さで頭がおかしくなったか」

「ンだとォ!?」

「冗談だ。それよりも三森冬、一一はどうなった?」

 三森は頭を掻き、言い難そうに視線を反らした。

「辞めたよ。明日の今頃は汽車の中か、飛行機の中ってところじゃねェの」

「残念だ」

「あ?」

「別れの言葉でもやろうと思っていたのだがな」

 その発言に三森は苦笑する。

「似合わねェよ。気にすンな、私だってまともにゃあ挨拶出来なかったし、そもそもあいつは私らを嫌ってる」

「……そうか。では、一度戻るとしよう」

 春風はゆっくりと体を伸ばした。まるで、一つ一つの動作を確かめるかのように。

「戻る? どこにだよ」

「北駒台店だ」

「……戻るにしても、死神をぶっ殺してからだ」

「いや、その必要はないだろう」

 三森は目を丸くさせた。いよいよ、春風の意図が理解出来ない。

「てめェ、ケツ割ろうなンて思ってねーだろうな? 何の為に三年待った。あいつを地獄の底までぶち込む為だろうがよ」

「ここに死神は現れない」

「奴は場所を選ばねェ。家も外も関係ねーよ。てめーがいるとこが戦場だ。そうだろうが」

「いや、そうだな……」

 春風は俯き、何か考えている素振りを見せる。

「……疲れた、か。頭が痛くてな、少し休みたい」

 春風は頭を押さえ、申し訳なさそうな表情を浮かべる。

「……へェ、マジに辛そうだな」

「ああ、辛い」

 仕方ねェなと呟き、三森はポケットから煙草を取り出した。

「三森冬、一服する時間も惜しいのだがな」

「急かすンじゃねェよ。……なあ、お前はあいつをどう思ってた?」

「あいつ? ああ、一一の事か?」

 三森は軽く頷いた。

「どう、と言われてもな。ただ、そうだな、やはり夏樹に似ていた。今にして思えば、弟と一一を重ねて見ていたのも仕方なかった」

「そうじゃなくてよ、もっとシンプルに言えってンだ。好きか、嫌いか。どっちだ?」

「ふん、らしくないな。貴様こそ、こんな会話は似合わないぞ」

「へっ、そうかよ」

 煙を吸い込み、吐き出す。何度か同じ動作を繰り返した後、三森は短くなった煙草を握り締め、手の中で燃やし尽くした。

「なンか、前に戻った気分だぜ。初めて私らが会った、あン時によ」

「そうだな、こんな日が来るとは思っていなかった」

「だからよ、てめェは殺したいくらいにムカつくが、マジに少しくらいは感謝してンだぜ」

「……三森冬、貴様何を……?」

「死神ってのはよ、人間に乗り移るンだ。じゃあ、乗り移られた奴はどうやって見分ける?」

 春風は答えない。答えられない。口の端をつり上げるだけだ。

「今後の参考になるかもしれん。聞かせてもらおうか」

「――勘だ」

「……っ!?」

 三森は炎を纏わせた拳を振り下ろす。炎は春風の鼻先を掠め、僅かに皮膚を焦がした。

「貴様、気でも違ったか?」

 バック宙で距離を取った春風は、親の仇を見据えるような視線で三森を射抜く。

「なンかこうさ、違うんだよなァ」

「三森冬! 貴様っ!」

「こう、あいつがさ、私に弱み見せんのも変な気がしたし、何よりさァ楽しかったンだよなあ。んなの、もう有り得ないってのによ……」

「私は春風だっ、春風麗だ!」

「だからさ、違うンだよ」

 三森は一歩ずつ春風に近付いていく。

「何が違う!?」

「なンかだよ」

 今自分と話しているのは春風の姿をした何かだ。三森は深く溜め息を吐き、掌を打ち合わせる。

「やっと会えたぜ、死神」

「……キミは」

 声に濁りが混じった。春風の声に重なって、男の声が聞こえてくる。聞き覚えのある声だった。

「覚えているヨ。ウララのお友達だネ」

 独特の口調、イントネーション。やはり、死神。春風はもう乗り移られてしまっている。

「友達だった、だ。間違えンなよ。そいつの中にいるって事ァ、全部分かってんだろうが」

「存外に賢しいネ。概ねその通り、今のは僕の趣味だヨ。気を悪くしたかい? ならば嬉しいネ」

 笑う。死神は、春風の顔で笑う。彼女の無表情な顔は醜く歪み、どうしようもない悦に染まっていた。

「馴染むヨ、ウララと僕の相性はよっぽど良いんだろうナア。早く壊したくて堪らない、ああ、堪らない」

「……やってみろ。そン時ゃ、てめェは即黒焦げだ」

「強がりはやめたまえヨ、お嬢さん。僕がこの体を乗っ取ったなら、ウララは帰ってこない。僕が何もせずウララの中から出ていけば、助かるのカナ?」

 その通りだった。この状況に陥ったなら、もう春風が助かる方法はない。死神の気紛れ、気分一つに賭けるしかない。だが、その可能性は那由多の彼方よりも低いだろう。

 だから、殺すしかない。三森がこの場を丸く収めるには、最小限の被害で済ませるには、死神を春風の体毎殺すしかない。よしんば逃がしたとして春風は確実に殺せる。彼女が死ねば、執着の対象を失った死神は駒台に現れないだろう。

 話は簡単だった。やるべき事は単純だった。勤務外としての仕事をすれば良い。

「……てめェはそこから退かねーだろうよ」

「良く分かってるじゃあナイか。そうだヨ、僕は待った。ウララを最高の状態に仕上げる時をネ」

「最高……?」

「そう!」

 春風――死神は両手を合わせて嬉しそうに微笑んだ。

「ウララに残されたものは少ない。家族を殺され、友人を失った。でも、ウララはまだキミに未練を持っている。腹立たしい事極まりナイ。だから、ウララの手でキミを壊す事にしたんだ」

「……心底クズだな」

「最後に残った、縋っていた者が死ぬ。その瞬間、僕はウララの体から出るよ。そして、絶望の色に染まったウララを……! ああ、堪らない!」

「そうはならねェし、させねーよ」

 足を踏み出す。三森が歩く度に土は熱を帯び、風は融けた。周囲の景色が陽炎の如く揺らめき、体から発している火は空を舐めようと勢いを増す。

「なるヨ。分かっているのかい? 僕は今、ウララの体を乗っ取っているんだ。キミは、ウララもろとも僕を殺せるのかい?」

 殺す。確実に殺す。そうする事でしか春風を救えないのなら、三森は躊躇なく拳を振り下ろす。振り下ろしてみせる。

「ンン、キミとウララはお友達だろうニ。それでも僕を殺すのカナ?」

「友達だからだよ。てめェなンかにゃ理解出来ねーだろうけどな」

「ンン、それが人間か。少し面白いネ」

 ――もう黙れ。

 これ以上は忍びない。春風の顔を、彼女を好き勝手に弄られて黙っていられるものか。三森は飛び出し、左拳を突き付ける。

「ンンン!」

 躱されたが、何一つ問題はない。炎を纏った一撃はフェイントだった。必要以上に燃え盛った火は死神の視界を隠し、惑わせる。

 本命は右。

 容赦しない。

 躊躇しない。

 後悔しない。

 懺悔しない。

 許しを乞うなら、二人が地獄で見えた時にでも出来る。今はただ、この炎が手向けになると信じて貫くだけだ。



 まだ終わらない。旅はそう確信していた。

「三森が来た、か。旅さん、これなら……」

「いや、これじゃあ死神を落とせない。まだ足りないね」

「どういう意味でしょうか」

「分からないかな。一対一じゃ死神を倒せないんだよ。奴はね、体を乗っ取る。実体から霊体にもなれる。だけど一番厄介で恐ろしいのは、死に敏感な事なんだよ」

 木麻は眉根を寄せる。彼女の様子を見遣った旅は苦笑した。

「死神、ゲデは数えきれない死を見てきたんだろうね。だからとは言わないけど、僕たちより死について理解している筈。特に、自分の死についてはね」

「つまり、自身に及ぶ危害を察知出来る……?」

「うん。ゲデは酷く臆病だ。三年近くもオンリーワンの目から逃れ続けられたのは、彼の力に因るものだ。だからこそ引き際を見誤らない。死神が三森君と対峙しても尚あそこに残っているのは、引く必要がないからだ」

「引く必要がない、ですか。死神は三森に脅威を感じていないと?」

 旅は軽く頷く。

「何か、持っているね」

 恐らく、死神を打倒し得る勤務外はこの世で三森だけだ。旅はそう信じている。実体と霊体を行き来するゲデ。彼を仕留めるには実体の時のみ。そこを狙うしかない。だが、死神は酷く死に敏感だ。

「霊体の死神を殺せるのは、三森君だけなんだよ」

「三森、だけが?」

「木麻君、君は彼女の能力についてどれくらい知っている?」

「……体から炎を発する、ですか?」

「それだけじゃあない」

 木麻は何か言いたげだったが、旅は黙殺する。見ていれば分かると、彼の目はそう訴えていた。



 後少し。ほんの少し。

 拳を三センチでも伸ばせば、届いた。

「……どうした三森冬。私を、殺さないのか?」

 三森の目を真っ直ぐに見つめ、両手を広げていたのは、

「おま、え……」

 死神ではない。春風だった。

 春風は三森に微笑みかけている。その事実が信じられなくて、信じられなくて。

「三森冬、私を殺してくれないんだな。私を、夏樹の許へは行かせてくれないんだな?」

「春風、なのか? 死神はどうしたんだよ……?」

 三森は拳を下ろす。もう、春風からはさっきまでの違和を感じない。彼女は今、間違いなく春風麗なのだ。

「私を殺しては、くれないんだな?」

「おいっ、だから何言ってやが――」

 春風の手が、三森の首へと伸びる。

「――がっ……っる、かぜ……?」

「貴様が私を殺さないのなら、私が貴様を殺そう」

 相変わらずの無表情で、無感情な声で。

「私たちは罪を犯し過ぎた。無関係な者を巻き込み、私たちだけ生き延びてきたんだ。三森冬、今がその時だとは思わないか?」

 何の事か分からない。三森は抵抗を試みるが、相手が春風では本気で抵抗出来ない。死神に囚われていた彼女は助けられない。しかし、今は違う。分からない。春風は本物に思えるのだ。だから、迷う。

「……どういう、意味だ……」

 擦れた声で問い掛ける。

「償う時だ。私と貴様が死ねば、死神はもうここへは来ない。誰も死なない。もう、誰も死なさないで済む」

 春風は続けた。もう、彼女は三森の目を見てはいない。

「三森冬、貴様を殺した後で私も死のう。夏樹のところへ、一緒に逝こう」

「あ、あ……」

 腕に力が入らない。どこにも力が入らない。

「三森冬、私は、貴様を許そう」

 甘い囁きは脳髄に染み渡る。思考を麻痺させ、やがて停止させる。

「だから、死んでくれないか」

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