いい日神断ち
アルバイトを辞めるのは短絡的な考えだったかもしれない。それでも、後には引けない部分もあった。一はアパートまでの道すがら、どうしようもない後悔に苛まれていた。
時間が時間なので、一はアパートの階段をゆっくりと上る。もうとっくに糸原も眠りに就いているだろう。自宅の鍵を鍵穴に差込み、音がしないように回した。
「遅い」
「ひいっ!」
「ひいっとは何よ! ひいって!」
部屋の明かりも消えていたし、物音一つしなかったので、てっきり一は糸原が寝ていると思っていたのである。扉を開けたすぐそこに彼女の顔があったのだから、彼としては叫ぶしかない。
「…………起きてたんですか?」
とりあえず電気を点け、一はこたつの前に座った。人心地が付けたとは言い難かったが。
「さっき起きたのよ。なんか、あんたが帰ってきそうな気がしたから」
「へえ、女の勘って奴ですか?」
「結構当たるわよ、これ」
言ってから、糸原は愉しげに口角をつり上げる。
「何の話してたの? あ、またシフト交替しろとかそういう話?」
「ええ、まあそんなところです。断って帰ってきましたけどね」
真実を話すかどうか、一は少しでも迷ってしまった。だから、黙っておこうと判断する。
「その割には、時間が掛かってたみたいね」
「店長がしつこかったんですよ。逆らったらすぐに時給下げるとか言いますし」
「あははは、私も言われた事ある。あの人の口癖なのかもね」
糸原は一頻り笑った後、流し台からマグカップを二つ手に取った。
「一、何か飲む?」
「ああ、良いですよ、俺がやります」
「座ってなさいってば。何しようかな、ココアの、ほら、素になる粉とかないの?」
「そっちの棚の方に……あー、右です、右」
悪戦苦闘する糸原は珍しい。たまにはこういう光景も良いかと思い、一はこたつのスイッチを入れる。
少し時間が経つと、疲れが溜まっていたのか彼の瞼が下がってきた。死神ゲデ。春風の過去。三森との仲違い。頭痛の種を抱え込んで、もはや限界に近い。
「起きなさい」
「うっ……!」
首筋に痛みを感じ、一はこたつの卓に突っ伏した。
「何、するんですか」
「私が作ったココアが無駄になるじゃない。ほらほら、冷めない内に飲んじゃいなさい」
マグカップから立ち上る湯気と、仄かに漂う甘い香りが意識を覚醒させる。
「うあ、すっげえダマ出来てる。ちゃんと掻き混ぜたんですか?」
「……あんたねえ、私が他人にものを作ったりあげたりすんのがどんだけレアな事か分かってんの? 光栄に思いなさいよね、光栄に。おら、ダマがなんだ。黙って呷れ罰当たり」
煽られて、仕方なくココアめいた液体を口に運ぶ。
「超美味しいでしょ? 美味しいわよね? 美味しいと言いなさい」
市販のものを使っていたので味はそこそこだった。が、何よりも暖かかった。
「ええ、美味しいです」
「へっへっへー、どんなもんよ。私だって料理くらい作れるんだかんねー」
満足げに微笑む糸原を見て、一の頬は自然と緩んだ。
「あ、そうだ。あんたに言いたい事があったんだ」
「なんですか?」
「これよ、これ。押入れの奥から出てきたのよ」
彼女が差し出したのは、ソフトタイプの煙草である。一は思わず目を見張った。
「あんた、禁煙してるんじゃなかったっけ?」
「ああ、それは――」
その、煙草は。春風から受け取った、彼女の弟の――。
「俺のじゃないです。もらい物ですよ。実際、俺は吸ってないですし、ほら、最近は臭いもしないって言ってたじゃないですか」
「ふーん。じゃ、捨てても良いわよね?」
「ええ、別に……」
一瞬だけ、春風の寂しそうな横顔が脳裏を過ぎった。過ぎったが、どうしようもない。どうしろと言うのだと、一は内心で自嘲する。
「あんたさ、かなり疲れてるわよね。ほら、目の下にすっごい隈出来てるわよ」
「え?」
触っても分かる訳がないと、糸原はくすくすと笑った。
「あんな仕事じゃストレスとか、疲れとか溜まるに決まってるもんね。たまにはゆっくりしたら?」
「ゆっくりったって、簡単にはいきませんよ」
「どっか行きたいわねー。北海道とか、沖縄とか、遠いとこが良いなー。あ、沖縄は鬱陶しい奴がいるんだっけ?」
声を出す事は、何とか堪える。偶々だろうが、タイミングと察しの良過ぎる一言に一の心臓は飛び跳ねた。
「あはは、旅行なんてもっと無理ですよ」
「ねえ、本当は何があったの?」
「いや、だからシフトの話ですってば」
「……あんたさ、家を出る前と比べると全然違ってんの。分かる?」
糸原はじとりと一を睨み付ける。
「心配掛けたくないとか、舐めた事抜かしたらどうなるか分かってるわよね?」
「えーと」
一は思わず頬に手を遣った。
「言いなさい」
「いや、だから、シフトの……」
「言・い・な・さ・い」
「あー、そのー……」
死ぬほど睨まれる。
だが、言えない。今回に限っては自分の事だけじゃない。春風の事も話さなければならなくなる。
「……あれ?」
「は? 何よ?」
どうして、彼女の事を考えたのだろう。自分でも良く分からない感情と思考に、一は考えを巡らせる。
「ちょっと、話聞いてんの!?」
店だって辞めた。もう、オンリーワンの人間と関わる必要も、理由もない。なのに、胸の内に引っ掛かっているものがある。
「…………っ」
――復讐だろうがなんであろうが
「ちょっと、一?」
――人を殺してのうのうと生きるモノを私は許せん。
「――そうか」
「一?」
春風は、嫌いだ。その感情に間違いはない。家族を殺されたのに同情は出来る。でも、嫌いだ。今後もその気持ちは変わらないだろう。
それでも、通じる部分はあったのだ。
復讐は何も生まない。彼女は言っていた。人間として生きるなら、人間として生きたいのなら、人間である以上、法を破ってはならない、と。その通りだと一も思う。しかし、しかしとも思うのだ。復讐する相手が、人間でなかったならば。家族を殺した相手が、人間でなかったならば。そもそも、最初から法など関係のないモノが相手だったならば。
「許せねえよなあ……」
「あのさ、一? 頭大丈夫? 疲れておかしくなったの?」
――復讐、したいよなあ。
気持ちが薄れていた。暖かさに包まれて、鈍くなっていた。
「糸原さん、やっぱり俺、シフト変わってきます」
「えー? 何言ってんのよ、あん、た……」
「何か?」
糸原は一の顔を見て、薄く微笑む。
「なんか、吹っ切れた? 結構良い顔になってるけど」
「分かりません」
一度コートを羽織ったが、これから先に起こる事を予想して、一は動きやすいジャージに着替え直した。
「帰ってきたら、ちゃんと教えなさいよね」
「はい。あの、糸原さん」
「良いから。早くしなさいよ。ったく、ホントにさー、こんな良い女待たせるとか何様なのって感じなんだけどー」
着替えが終わり、ジャージのポケットに煙草を突っ込み靴を履く。多分、もう始まっている。
「一、気ぃ付けてね」
「ええ」
「いってらっしゃい」
一瞬、言葉に詰まった。
「……いってきます」
この幸せを奪ったモノを、許せそうにはない。
携帯電話をスーツの内ポケットにしまい込むと、春風は深い溜め息を吐いた。
漣が、死んだ。木麻から届いたメールの文面を思い出し、少しだけ、心が痛む。予想はしていた。あの状況下では、死神から逃げるのは不可能に近い。なのに、彼を置いていった。見殺しにしたのと変わらない。
「馬鹿な男だ」
死を悼む資格は、ない。漣も分かっていた筈だ。自分のような女を逃がす為に、生かす為に犬のような、豚のような死を選んだのである。
両親が殺されて一年、弟が殺されて一年、自分は何をしていたのだろう。倒せない。逃げても、追ってくる。だから、だからなんだと言うのだ。手をこまねく事すらせず、ただ、時が移り行くのを待っていただけ。もしかしたら、死神は来ないかもしれない。薄汚い期待を胸に秘め、日々を無為に過ごしていた。
「……馬鹿な女だ」
馬鹿な女を救おうとして、馬鹿な男が一人死ぬ。馬鹿にはお似合いの末路だ。だから、悲しまない。心はもう痛まない。死は悼まない。謝罪はしない。
もっと早くに死を選べていれば、家族の元に逝けただろうか。どうして、死なないでいたのか。ちらつく死の影に怯えながら、それでも生を望んでいる。生きる意味が、どこにある。
仲の良かった友達も、世話を焼いてくれた人たちも、以前と同じような関係には戻れない。他ならぬ、自分から拒んだのだから。悔いがあるとするなら、多分そこなのだろう。謝って、許されたかったのだろう。いや、何より自分を縛っているのは、愛した人の面影を持つ、彼なのかもしれない。
一、一。
どうして、似ているのだろう。
どうして、出会ってしまったのだろう。
どうして、彼は死んで、彼は生きているのだろう。
どうして、どうして、どうして、あの声で、あの顔で、あの雰囲気で。
聞かせて欲しくない。見せて欲しくない。感じさせて欲しくない。
もう割り切った筈なのに、忘れ去った筈なのに、気付けば、自分から彼の元へと足を運んでいる。重ねて、いたのだろう。今となっては、いや、今になっても彼にとっては迷惑な話で、自分は迷惑な女なのだ。
それでも、諦められなかった。構って欲しくて、構いたくて。声を聞きたくて、聞かせたくて、顔を見たくて、見て欲しくて、自分の存在を感じて欲しくて、彼を通して弟の存在を感じたくて。
別人だとは分かっている。一一と春風夏樹は、似ているだけで、同じじゃない。でも、似ているのだ。死なせたくない。彼だけでなく、もう、自分と関わった全ての人間に死んで欲しくない。
本当に、馬鹿な女だ。痛いくらいに分かっているのに、止められなかった。今更になって気付いてしまった。だから、ちゃんとケリを付けよう。ケジメを付けよう。この身、この命で、三年目の罪を贖おう。
「やあ、ウララ」
「……死神」
背中越しに伝わる死。ゲデからは殺気を感じない。当然だ、彼は喜色満面で人を殺す存在なのだから。
震えを堪えて、精一杯強がる。どうしても、恐怖や不安が払拭出来ない。
「僕を待っていてくれたのかナ? だとしたら、とても嬉しいヨ」
「そうか」
振り返るな。振り向くな。決して、奴の顔を見るな。
――願わくば……。
警鐘を打ち鳴らす体の内を無視して、春風は死神と向き合った。自然、冷たい汗が額を伝う。
「ンン、良い顔だ。ウララ、キミは本当に素晴らしい。素晴らしい人間だヨ」
「そうか」
ゲデは持っていた酒瓶を一息に呷り、投げ捨てた。かしゃん、と、辺りに酒気を滴らせた硝子片が散らばる。
「僕はネ、永遠の交差点から色々な人間を見てきた。僕が壊した人間も、そうでない人間も。でもネ、キミは特別面白いんだヨ。家族を壊されて、恋人を壊されて、でもキミは壊れなかった」
――願わくば……っ!
「仮面を貼り付けて、心を奥に閉じ込めて、実に、実に嘆かわしく、愉しい存在だヨ。キミは、壊れなかった。だから僕を怒らせた」
「そうか」
「その、凍り付いた顔を、徹底的に壊してあげたいんだ。その為なら、僕は何だってするよ。キミの為なら、僕は何にだってなれるんだ。分かるかい、この気持ちが? いや、分からないだろうナア。分からないんだろうナア。僕が、どれだけキミに心を蕩かされ、砕かれているのかなんて」
ゲデは饒舌に語り出す。その声を、その言葉を、一言一句逃さないつもりになって春風は聞いた。
「ゲデ」
聞いた上で、
「ンン、まだ話は終わっていないヨ?」
「死ねなどと都合の良い事は言わん。――共に、死のう」
「ンンンン! ウララ、最高だヨ!」
やはり、こいつだけは許せないと再確認出来た。
煙草を吸い始めてから、これを美味いと思った事も、不味いと思った事も滅多にない。が、過去に何度か、特別不味いと思った事はあった。
「……ふう」
自分以外誰もいなくなったバックルームで、店長は今、久しぶりに煙草を特別不味いと思っている。
日に日にソレの脅威が増していく現況で、一がいなくなった。辞めてしまった。だが、仕方がないとも思う。誰だって見知らぬ他人と比べられ、重ねられたくはない。その相手がアルバイトの同僚、時には戦場で背中を預け合う間柄ならば――――彼の気持ちは、分かる。分かるから、やり切れない。一方で、一と春風の弟を重ねて見ていたであろう三森たちの気持ちも分かるのだ。なまじ、彼女たちと長い付き合いなのがいけなかった。知らず知らずの内に、三森に、春風に肩入れしてしまっていたのである。一の、気持ちを考えないで。
その三森も、恐らくは帰ってこない。仮に死神との戦闘で生き残ったとしても、ここへは戻らないのだろうと確信している。彼女は死ぬつもりなのだ。自らの命を捧げてまで、春風に謝りたいのだ。
止めたい。止めたかった。そんな事をしても、もうどうにもならない。失われた命は戻らないのだ。誰がどう足掻こうと、もう、遅い。しかし、三森の決意は並々ならぬものだった。何も、言えなかった。
「どこまで、持つかな」
オンリーワン上層部の見解では、どこから仕入れてきたのか、年内に大きな戦闘が起こるとの事である、と。円卓の騎士とやらが動いているのだから、年内との読みは妥当なところだろう。だが、三森がいなくなれば、単純に北駒台店の戦力はがた落ちする。一が消えれば、糸原とジェーンは抜けるかもしれない。彼に懐いている立花も、神野の意気も下がるだろう。
崩壊は目に見えていた。戦力と戦意を欠いたまま、全員が生き残れる筈がない。
――大きな戦闘、だと?
「それは戦争と言うんだ、クソが」
不味い。不味い。不味い。しかし止められない。片時も手放したくない。そんな効果はないと分かっていても、煙草を吸っていないと、苛立ちも、恐怖から来る焦りも何もかもが際限なく溢れ出てくる。止められない気がするのだ。
どうしてあの二人を止めなかったのだろう。彼らがいないと、明日の朝日を拝めない、そんな日がいつか必ずやって来る。先が見えていながら、どうして引き留めなかった。泣いて喚けば、頭を下げて縋れば、一も、三森もここに残ったかもしれない。根気良く話し合えば、分かってもらえたかもしれない。
――そんな時間はなかった。死神はもう目の前にいるんだぞ。
自分が間違った事をしたとは思わない。今までに、大きなミスは犯さなかった。だが、本当に正しい行いをしたとは言い切れない。ただ、現状を維持してきただけに過ぎない。
――どうしろと、どうすれば良かった……!
現状を維持するのに精一杯だった。維持出来ただけでも、跳梁が跋扈する今の世では拍手喝采だろう。だが、足りない。それでは、それだけでは足りないのだ。
「ああああああああああああっ!」
立ち上がり、椅子を蹴飛ばす。荒くなった息遣いが、自分のものだと気付くのに数秒を要した。物に当たっていても何も変わらない。だが、何もせずにはいられなかった。物にぐらい、当たりたかったのである。このまま、全て壊してやろうか。外へ出て、気の向くままに誰か殺してやろうか。目に付くもの全てを、全てを――。
「何か、良い事でもあったんですか?」
いつの間に、そこにいたのだろう。
「お久しぶりですね、店長」
一つ、この先へ繋げられる可能性があるとすれば、こいつしかいない。一一にしか、望みを託せない。
「……部外者は立ち入り禁止だ」
「レジに誰も立ってないから、わざわざ呼びに来てやったんですよ」
この憎まれ口も、今だけは許そうと思った。
「で、何をしに来た? お前はもう辞めた人間だろう」
尤もな意見だが、さっきまでの店長の様子を見ていたので、一の気持ちは落ち着いていた。
「忘れ物を取りに来たんですよ」
「ここにお前の持ち物はない」
「ありますよ。そこの、傘が」
ロッカーに目を向ける一を、店長は強く見据える。
「アレは勤務外のものだ。お前個人のものではない」
「いいえ、俺のです。俺が女神様から個人的にもらったものですから」
「……減らず口を」
一はふっとバックルームを見回し、声の調子を落とした。
「三森さんがいませんね。仕事もせずどこに行ったんですか? それとも、仕事をしに行ったんですかね?」
「お前には関係ない。もう良いだろう、用事がないなら帰れ」
「用事ってのは、三森さんたちの事ですよ」
「だから、うちの人間について部外者には話せんな」
店長は紫煙を吐き出し、美味そうに目を細める。
「死神はどこですか?」
「言えんな。言えば、お前はそこに行くだろう? 死神の待つ場所へ、だ。いかんな、一般人をみすみす殺すような真似は出来ないなあ」
「……さっきの発言、取り消しても良いですか?」
その言葉を聞いて、店長は思わず笑みを零しそうになった。
「もし聞き入れてもらえないなら、俺はあなたを止めてでも行きます」
「最近な、物覚えが悪くなったよ」
「え?」
「一、お前は何故死神と会おうとする? 行けば、死ぬかもしれない。いや、死にに行くようなものだ。シフトにも入っていないお前は、家で眠っていれば良い。何故だ?」
問われ、一は改めて考える。自分は何をしたいのか、何をしようとしているのか。
「俺は春風が嫌いです。あいつが死神に狙われているからなんて、そんなの関係ない」
「では、何故動く?」
「……嫌いだからですよ。俺は今まであいつに、一方的に嫌な目を見させられてきた。だから、あいつが死んじまったら気が済まない。それだけです」
「嫌いか」
長い息を吐くと、店長は椅子に深く座り直す。
「死神に家族を皆殺しにされ、関わる者全てを狙われ、感情を殺さざるを得なくなった彼女を嫌いだと?」
「ええ」
「……春風はあまり感情を表に出すタイプではなかったが、嬉しい時には笑い、悲しい時には泣ける人間だった。何故、ああなったのかお前には分かるのか?」
分かりたくもない。一は沈黙を選び、話の続きを待った。
「家族を目の前で殺され、ショックで心を閉ざしたんじゃない。死神から狙われないよう、周囲の人間を守る為にああなったんだ」
店長は一を見つめたまま、続ける。
「他人に対して何を思ってもいけない。何か思われてはいけない。喜怒哀楽を捨て、己を殺さなければ壊れてしまうんだよ。春風は、優しい奴なんだ。一、お前はそれでも奴を嫌うのか?」
「……中途半端なんですよ」
「何がだ」
「やる事なす事、全部。本当に周囲を守りたけりゃ、誰もいない山にでも引きこもれば、いっそ死んじまえば良かったんです。事実、俺はあいつのせいで狙われてるんだ」
今更、本当に何を今更。可哀相だから春風を助けろと言うのか。一は歯を食い縛って耐える。
「どうして、あいつがここに残ったのか、生き残ったのか、店長には分かっているんですか」
「さあな」
「分かっていて、春風が可哀相なんて言ったんですか?」
「可哀相? 私がいつ、そう口にした」
――言ったんだよ!
「春風は決して他人に優しい人間じゃない。分かっているんでしょう。あいつが残ったのは、むざむざと生きていたのは、誰かに助けて欲しかったからだ。自分はこんなに可哀相だろうと訴えて、哀れまれたかったんだ」
「言うじゃないか、一」
「本当は家族の仇を討ちたい。だけど相手が悪いから諦めて、でも、最後の最後まで諦めきれはしなかった。……感情なんて、簡単には殺せないんです」
「嫌いだと言う割には、良く分かっている風な発言だな」
店長はくつくつと、喉の奥で笑う。もう、彼女は押さえ切れなかった。
「欝陶しいんですよ。あいつは誰かの手を払い除けるか、掴んで離さなけりゃ良かった。それをしないでいたのは、可哀相な自分に酔ってたとしか俺には思えない」
「それで、どうしたい。お前はあいつに何をしてやりたい?」
今までからかわれてきた借りを返したい。弟と自分を重ねてきたのを三森共々謝ってもらいたい。だが、一が動いたのは彼女だけが原因ではないのだ。
「……店長、家族はいますか?」
「両親共に生きている。兄弟はいない、私は一人っ子だからな」
「いってきますと、そう言える相手がいないってのがどんなに辛いか知っていますか」
店長は言葉を返さない。いや、返せなかった。一が春風の事だけを言っているのではないと気付いたからである。
「どうせなら、最初から何も知らなければ幸せなんでしょうね。でも、あいつは知ってるんだ。誰かと交わす何気ない挨拶の有り難みを」
「一、お前は……」
「俺は春風が嫌いです。あいつを可哀相だと思いません」
――そうだ、俺は……!
「ただ、死神が憎くて憎くてたまらない……!」
一の瞳はまるで、狼のようにぎらついて。
そうだ、これなのだ。人間が社会的なコミュニティに依り生きる動物である以上、しがらみに囚われて動けなくなるのは当然。だが、人間は動ける。動けるのだ。時には損得勘定抜きに、根源的な、本能的な感情だけで――!
「殺されても良い。ソレを殺せるなら、どうなっても良い。だから教えてください、死神はどこに……!」
「……教える。だが一つだけ約束しろ。一、その顔は止めるんだ」
「え?」
店長は自らの頬に手を当て、それから一を指差す。
「その顔ではソレを殺せても生きては帰れないぞ。忘れるな、我々はソレの殺害を目的としていない。対処するのが仕事だ。戦闘行為は、あくまで手段の内の一つとして捉えておけ」
一に言い聞かせるように、店長は一言一句ゆっくりと喋っていた。
「……店長、俺……」
それからと前置きしてから、店長は火の点いた煙草を灰皿代わりの缶に押し付ける。
「生きて戻れ。三森と、春風を連れてな。二人も消えちまえばな、シフトに穴が開くんだ。分かったな?」
「さりげなく、三森さんの事も心配してるんですね」
「返事はどうした?」
ロッカーからアイギスを掴むと、一は苦笑で返した。
「勿論です。三森さんには借りを返してもらってないんですから」
「……一、ソレへの憎悪を捨て去らなくても良い」
「さっきと言ってる事が……」
「憎悪にこだわるなと言ったんだ。確かに、復讐だとか私怨で動くのは気持ち良いだろう。だが、飲まれるぞ。強過ぎる感情は相手だけでなく、自分も、周囲をも巻き込み、全て滅ぼす。分かったか?」
まともな事を言う店長が珍しくて、一は頷くのを忘れ、ただただ聞き入っていた。
「分かったか?」
「あ……はいっ」
「分かったなら行け。生きて帰れ、やれ。それで、だ。今回に限っては――ソレを生かして帰すな。必ず、殺せ」
言われるまでもない。その為にここへ来たのだ。一はアイギスを握り締め、力強く頷く。
「いってきます」
「……ああ、いってらっしゃい」
不安はあっただろう。恐怖はあっただろう。死神を相手にするだけでも苦しいのに、そんな一に生きて帰れと命令した。それだけでなく、他者の命まで背負わせた。鬼か悪魔の所業だと店長は悔やんでいる。
気休めの言葉一つ掛けなかった。だが、一を弛緩させたくなかったのだ。ソレに対して強い憎悪を抱いた彼を初めて目にし、期待したのである。
ああ、これならば、と。
勤務外の仕事に対して消極的だった一が初めて言ったのだ。ソレが、憎いと。無謀だと思った。誰かが手綱を取ってやらなければ危うい。分かっていながら、最低限の忠告だけを贈った。
見てみたかったのだ。一が、強い感情を以て本気でソレと立ち向かうところを。分の悪い賭けだ。しかも、賭けるのは彼本人の命なのである。それでもだ、店長は年内に起こるであろう戦争に向けて強い駒が欲しかった。強くなれば、本人にとっても悪くはない。生き残れる確率が高まるのだ。
――駒扱いされるのは気に食わないだろうが。
この時期になって新たな人材を育てる余裕はない。現状の戦力だけで年を越す。力を誰に注ぐか、誰を軸に組み立てるか、見極めが大事なのだ。
願わくば、今回の件が彼にとっての踏み台になれるようにと、そう、店長は思っていた。