白い嘘吐き
何度見てもこの手の光景は慣れないものだと、情報部の木麻は溜め息を吐いた。彼女は旅の直属の部下で、何も知らない者からは彼の秘書だと思われている。実際には木麻も現場に出る事もあるのだが、その事実を知る人間は少ない。
「やはり、酷いですね」
「うん」
正直、木麻は辟易としていた。自宅で寛いでいるところに旅からの呼び出しを受けて支部に戻ると、これである。
まず、信じられなかった。オンリーワンの内部で起こった事件もその一つならば、起こった事件が殺人なのである。それも、殺害方法は極めて残酷だ。
部屋中に飛び散る臓物と血液。充満したおぞましい臭い。壁にこびり付いた肉が血の跡を引きながらずり落ちていくのを見て、これはついさっき起こった事なのだと木麻は改めて実感する。
「爆弾でも投げ込まれたのでしょうか」
「いや、それはないよ。……気付いてるんでしょ、木麻君」
言ってみただけなのだが、上司の旅には相変わらずこの手の冗談が通じない。
「例の死神ですね」
「うん。手口は一貫してるね。体内に侵入、あるいは憑依と呼ぶのかもしれないけど、とにかく体の内に入る。一体どんな原理でこうなったのかは知らない。だけど、こうなる」
木麻は過去に二度、今回と同じような惨状を目撃している。そのどちらもが、死神と呼ばれるソレの引き起こしたものだ。
「あながち爆弾というのも間違いではないかもね。手段はどうあれ、ここまでバラバラになるんだから。うん、これはむしろ……」
「むしろ、破裂ですか。人体の形成を維持するのに不可能なレベルまで膨張、耐え切れなくなり、やがて……」
木麻は室内を見回した。凄惨さ、残酷さがやけに目立っているが、やり方としては実に派手で、見事である。オンリーワンに侵入するだけでなく、内部の人間を殺害、更にここから逃げおおせるだけの手腕。ただのソレに出来るとは思えない。
「やられたのは……うちの二課、漣君か」
「しかし、彼はどうしてここに? 二課は今日非番になっていたと思いますが」
「……さあね。僕には分からないよ」
旅の歯切れは悪かったが大した問題でもない。殺されたのが情報部の漣と分かればそれで良い。問題なのは被害者よりも容疑者だ。
「窓が開いているね」
「犯人はここから逃げたんでしょうか」
「多分、違うだろうね」
「では、やはりここから逃げたのは春風になりますね」
「だろうね」
理由は分からない。しかし死神が狙うのは春風なのだ。ここに死神らしきソレが現われたのなら、ここに春風がいなければならない。
「旅さん、春風はここにいたのですか?」
「うん、間違いないね」
旅がそう言うのならば、春風はここにいたのだろう。そして、彼女は消えた。死神も消えた。残ったのは哀れな死体だけである。
「では、春風が犯人であるケースも視野に入れましょう」
「どうしてだい?」
こんな時だけは旅のとぼけた表情が気に入らない。それでも、木麻は僅かな憤りすら殺して無表情を努める。
「過去二件で春風は現場に残っていました。死神が犯人だと、そうも言いました。我々も人間には難しい犯行だと判断して彼女を容疑から外しました。しかし、今回に限っては違うでしょう。どうして、春風はここから姿を隠したのですか」
「死神に連れ去られたのかもしれないよ」
「違うかもしれません。春風が犯人でないとも言い切れないでしょう」
「ただ、死神から逃げたかもしれないね」
「連絡もなしに、わざわざオンリーワンの外へですか?」
「そんな暇がなかったりして」
「……理由はどうであれ、何が起こっているのであれ、春風がここにいないのは事実です」
これは旅が意地悪く木麻の意見を否定している訳ではない。彼はこれから成すべき事を理解しており、それを彼女に分かって欲しいだけなのだ。意見を戦わせるというより、お遊び程度の論議なのである。
「その通り。なら木麻君、君ならどうする?」
その事が分かっているから木麻も嫌な顔をしない。情報部としての職務を全うするべく動くだけだ。
「最優先事項は春風の捜索、保護でしょう。次に死神の位置確認、及び確保。最後に、この部屋の後片付けを」
「うん、僕もそれで良いと思う。だけど春風君の居所には当てがあるんだ。多分北駒台店だろうね」
「確か、あそこには三森がいましたか。なるほど、可能性としては一番高いですね」
「時期はどうあれ、遅かれ早かれ死神もそちらに出向くだろうね。春風君は北に任せるとして、一先ず、ここを片付けなきゃ」
「それなら明日にでも係の者を呼びましょう」
まさか、この部屋を情報部の長である旅に掃除させる訳にはいかない。そう思い、木麻はよかれと発言したのだが、
「いや、僕がやるよ」
旅は頭を振る。
「失礼ですが、このような些事をあなたには回せません」
「些事じゃない。漣君は僕の部下だ。それに、彼には身寄りがない。誰も引き取ってはくれない。まともな式にだってならないよ。だから、僕がやる」
旅のセンチメンタリズムは情報部には似合わない。木麻は常々そう思っていた。
「では、お任せします」
「木麻君、君も悼んでいくんだ。仲間が死んだんだよ」
時間は金にも代えられない。何物にも変え難く、何をもってしても買えない。しかし、上司には逆らえない。木麻は心ない黙祷を捧げてから旅を見遣る。
――今、殺してしまおうか。
小さな体躯。あどけない笑顔。部下思いの優しい優しいお人好し。情報部には相応しくない。木麻の思い描く理想的な職場、自分が取って代わってしまえば、夢は現と成り代わるのだろうか。
「木麻君」
「……次はなんですか。線香でも買ってきましょうか?」
「僕にその手の冗談は通じないよ。春風君が情報部や戦闘部に連絡せず逃げた理由だけどね、少し見えたんだ」
「早いですね。お聞かせ願えますか」
「うん。近畿支部には内通者、スパイがいるよ」
「内通者、ですか。それが春風の逃亡とどう繋がるのでしょう」
旅はしゃがみ込み、床に落ちている肉片を愛しげに撫でた。
「死神を見た者はいるのかい? 春風君はここの人間を疑っているのさ。支部にソレが侵入しただけでも拍手喝采なのに、誰にも見られずに漣君を殺して逃げ去るなんて、ちょっと信じられないな」
「単純に姿を隠せる能力、もしくは他者の視界、認識を妨害遮断する能力を持つソレなら可能です」
「僕が言いたいのはそういう事じゃない。仮に、死神にその手の力があったとしてだ。わざわざオンリーワンに来る意味が分からない。だってそうだろ、春風君を狙うならここじゃなくても構わない。事実、今までは彼女の自宅で事件が起きているんだ」
鋭いと言うべきか目敏いと言うべきか。木麻は素直に感心しておいた。
「つまり、死神を手引きした者がいると。そしてオンリーワンへ手引きする理由があると。そう言いたいのですか?」
「まあね。そうでもないと納得出来ないよ。ここには優秀な人たちがたくさんいるんだから。でもね、理由は分かるよ。これは明らかに挑発だよね」
「挑発ですか。我々に真っ向から喧嘩を売る者がいると?」
「いるだろうね。ま、問題はスパイがどこに通じているかだよ。誰が、僕たちに挑戦状を送り付けたのか、だ。木麻君、そこを踏まえて色々とよろしくね」
木麻は頷き、耐え難い臭気の立ち込める部屋を辞するべくドアノブに手を掛ける。
「ああ木麻君。一つだけ伝えておくよ」
「なんでしょうか」
「僕は裏切り者には寛容なんだ。だけど、部下を殺す奴には容赦しない」
「……聞き届けました」
どこまでも冷酷な声。旅の顔は見えないが、木麻には分かる。彼はきっと、楽しくて楽しくて仕方なくて、笑っているのだ。
「糸原さんって基本的に嫌らしいですよね」
「はあ? ちゃんと手加減してやってんじゃないの」
「これ、このなんか、端から抜けられないんですけど。ああっ、今ガードしてましたよ俺!」
「今の中段だからしゃがんでたらガード出来ないわよ。あと、抜けれるから。バッタみたいに飛んでるから落とされんのよ」
「飛ばなきゃ抜けられないじゃないですか!」
深夜の中内荘に一の悲痛な叫びがこだまする。彼と糸原は、彼女がポーカーで北から巻き上げたゲームで対戦していた。携帯型のゲーム機は知っていたが、テレビに繋げる据え置き型のゲーム機が来た事に一は痛く感動していたのである。
が、楽しかった筈のゲームもいざ対戦が始まると糸原の狡猾さが目立ってきた。最初こそ、お互いがゲームについて何も理解していないから勝負は拮抗していたのだが、糸原がコツを掴むと、後はもう。
「やばー、もう十連勝じゃん。一、なんか賭けない?」
「ハンデくださいよ、ハンデ。三十秒動かないでください」
「イヤよ。それよりほら、何賭ける? 金? 金ね、良いわよ、俄然乗ってきた」
「……ヒルデさんと遊びたかったなあ」
糸原の耳が僅かに動く。
「ヒルデって、あのぼけーっとした女?」
「淑やかでおしとやかで可愛い女性です。失礼な事言わないでくださいよ」
「あっそ。へえ、あんたってああいうのが好みなんだ」
「ヒルデさんはハメたり無限コンボしませんからね」
「これハメじゃないわよ。あんたが下手だからよ」
「あー、そうですか」
室内にはお互いの声はなく、コントローラのボタンを叩く音だけが響いていた。その音が、一には酷く乾燥したものに思える。
「……ちっ」
「あんた今舌打ちしたでしょ」
「してないですよ」
糸原は無言で一の頭を叩いた。一も糸原の足に蹴りを入れ返す。
「バグっすかね、画面端から逃げられないんですけど」
「そうね」
「……逃がしてくださいよ」
「ヤ。絶対に逃がさないから」
――足を、絡めるな。
一は溜め息を吐いた。文句を言ってやろうと思ったが、どうせ何をしても自分の負けは動かない。
不躾な電話の音が鳴ったのは、一たちがゲームに飽き、布団を敷いてうとうとしていた頃だった。
「……糸原さん、電話」
「すかー」
寝たふりである。これでは何を言っても糸原は動かない。一は諦めて、重くなりつつある体を引きずっていく。
「もしもし……?」
『私だ』
「……切りますよ店長」
『これだから最近の若い奴は嫌いなんだ。キレる十代、ああ、恐ろしい。恐ろしくキレやすい』
キレるの意味が違うし自分は十代でもない。一は受話器を掴む手を持ち替えて頭を掻いた。
「シフトの交替ですか? ちなみに今、俺は寝ようとしていたところです」
『おはよう。一、今から店に来い』
「俺の話聞いてました? いーやーでーすー」
『何を勘違いしているかは知らないが、お前の命に関わるぞ。これは善意の通報だ。そこを踏まえてもう一度聞く。店に来い』
深夜、突然の呼び出しに応じるほど一は寛容ではない。しかし、命が関わっていると、それも自分のものならば話は違ってくる。
「……分かりました。すぐに行きます。俺一人で良いですよね」
『ん、ああ。そうだな、寝かせといてやれ』
何が起こっているのか、一にはおおよその見当が付いている。店に行けば、奴がいる。
嫌な予感は当たるものだと、一は改めて思った。
店のバックルームには店長と三森、それと、春風がいる。彼女の姿を見て、一は少なからず驚いていた。情報部である春風が、三森を嫌っている春風がここにいるからではない。無感情、無表情を常としていた彼女が俯き、今にも死にそうな体でいたからだ。
「……店長、どういう事ですか?」
店長は少しばかり憂欝そうに一を見遣り、煙草に火を点けた。
「何を説明して欲しい? お前が呼ばれた理由か? 春風がここにいる理由か?」
「多分、関係あるんでしょう? 俺がここにいるのと、春風がここにいる事は」
「そうなるな」
漂う紫煙に一を顔をしかめる。つい最近まで自分も吸っていた筈なのに、今はとても汚いものに感じられた。
「単刀直入に言ってしまえばだ。春風は死神と呼ばれるソレに狙われていて、その死神はお前も狙っている」
「……俺が、死神に?」
「意外と冷静だな。もっと取り乱すかと思っていたが」
こうして一が落ち着いていられるのは、ジェーンに死神の話を聞いていたからなのだが、その事について彼は黙っておく。
「まあ、俺もソレには慣れてきましたからね」
「魔女に、死神か。次はなんだろうな、天使と悪魔か?」
「次があれば、ですけどね」
その通りだと、店長は喉の奥でくつくつと笑った。
「一、助かりたいなら私の言う通りに動け」
助かるのなら何でもする。一は迷わずに頷いた。
「俺は何をすれば良いんですか?」
「実行出来そうな方法は二つある。一つは、駒台から離れる事だ」
「死神から逃げるって事ですか。上手くいくんですかね」
「無論だ。もう一つは簡単だ、何より手っ取り早い。死神を倒す、だ」
確かに、言うだけなら簡単だ。だが、一は知っている。今までに死神をどうにか出来た者がいない事を。なら、逃げるしかない。
「聞いても良いですよね。どうして、俺が狙われているんですか?」
一の問いに店長は黙り込む。今はこれ以上話す事がないと言わんばかり、そんな態度だった。
「私が話す」
代わりに口を開いたのは三森である。
「お前が死神に狙われてるってのは、マジな話だ。そンで、どうして狙われてんのかって事なンだけどよ」
「ええ、俺はそこを聞いてるんです」
「こいつのせいだ」
三森は溜め息を吐いた後、春風を指差した。指差された春風は身じろぎ一つしなかった。
「……要領を得ませんね。三森さん、順を追って話をしてください」
「あー、長くなンぜ」
「俺は命が掛かってるんです」
「仕方ねェな。あー、じゃあまず、えーと」
三森に会話の主導権を握らせていては埒が開かないと一は判断する。
「じゃあ、俺の質問に答えてください。そもそも死神ってなんなんですか?」
「え? そりゃアレだろ、死の神様だろ。ほら、骸骨で鎌持っててマント着ててよ」
自分は三森と同レベルの想像力だと一は内心で嘆いた。
「俺を狙ってるのもそんな格好してるんですか?」
「あ? 違うに決まってンだろ」
「……だったらおかしな事言わないでくださいよ」
「てめェが聞いたンだろうがよ!」
「もう良い。三森冬、貴様は黙っていろ。私が話す」
まともに会話すら出来ていない二人を見かねたのか、今まで何もしゃべらないでいた春風が口を開く。
「一一、死神とは何かを聞いたな。貴様らが想像した死神のイメージは一般的なものだろう。決して間違いではない。あのおどろおどろしい姿は死の神、死を司るモノに対してのアレゴリーだ」
「本当はそうじゃないってのか?」
「いや、正しい。しかし死神にはまた違った側面もある。ただ恐れられる存在ではないんだ」
一は首を傾げる。その様子を見て春風は何か言いたげだったが、やがて何も言わずに俯いた。
「死神は神に仕える農夫とも呼ばれている。何故だか分かるか?」
「農夫? あー、鎌持ってるし、ほら、魂を刈り取るって奴じゃないのか。刈る、ならやっぱり鎌が似合ってるし」
「では、どうして魂を刈る、なのだ。別に切るでも壊すでも叩くでも構わない筈だろう。更に言えば、鎌である必要はない。戦闘で相手を殺傷するのなら剣や槍の方が理に適っている」
春風に物を教わるのは何とも言えないが、そう言われてみればそうかもしれないと一は思う。
「死神のイメージ、鎌を持った姿には原型がある。ローマ神話の農耕神、サトゥルヌスだ。この神は鎌を持った男の姿で表される事が多い。農耕と死、共通点は刈り取り、収穫だ。作物、稲や麦を収穫する時には鎌を使うだろう。鎌を武器にする勤務外もいるが、そもそも鎌は鍬と同じで農耕具なのだからな」
「ああ、そういう事か。農夫って部分もあるから鎌を持ってんのか」
麦と魂を一緒くたにされているようで、ぞっとしない話だとも彼は思った。
「それに、死神は無差別に殺さない。死期の迫った者の魂を刈るだけだ。そして、その魂が現世で迷わないように死後の世界に連れていく」
「なんだ、良い神様じゃないか」
一は今、見た目の恐い不良っぽい子が捨てられた犬を拾っていた現場を目撃したかのような、温かな気持ちになっていた。
「だが、神なのだ。神は国によって、あるいは宗教によって姿を、性質をも変える」
「えーと?」
「一一、我々を狙っている神は確かに死神だ。そして、死神でしかない。死を司り、死を弄び、死をこよなく愛する、真の意味での死神だ」
不良はやはり不良なのだ。犬を拾ったとはいえプラスにはならない。マイナスに何かを足してもゼロになるか、マイナスのままなのである。
「流石に詳しいんだな。伊達に狙われてはいないって事なのか?」
「……その死神の名は、ゲーデ。バロン・サムディ、バロン・クロア、バロン・シミタールとも呼ばれている。ハイチ、ブードゥーに伝わる死とセックスのロアだともされている」
「ロア?」
「言わば精霊だな。だが一一、そこを気にする必要はない。ゲーデが神であれ精霊であれ、我々に危害を加える存在である事に間違いはない」
――我々、ね。
「何か他に特徴はないのか? 例えば姿とか」
「黒い山高帽と燕尾服を着ている。後は、酒と葉巻を持ち歩いているな」
「格好だけならジェントルマンだな」
「中身は違うがな。非常に、自己中心的だ。粗野と下卑を付け足しても足りないくらいだ」
一の疑心は徐々に膨らんでいく。
「俺が何に狙われてんのかは何となく分かった。けどよ、俺は、どうして狙われてんだ?」
「ゲーデは無差別に人を襲う。理由などない。一一、貴様はたまたま奴に選ばれたのだ」
頭に血が上っていくが、一は冷静になろうと必死に努める。
「……あの、さ。さっきから皆はぐらかそうとしてるけど、理由がない訳ないだろ」
「ないって言ってンだろうがよ。てめェはとっとと旅行にでも行ってこい。土産は木刀で良いからよ」
「何を隠してるんですか」
「隠してなどいない」
一度息を吐き、吸う。落ち着けと自分に言い聞かせる。
「春風、お前は俺に駒台を出るよう勧めてたよな。お前はあの時点で俺がやばいって知ってたのか?」
「いや、単なる気紛れだ」
「知ってやがったな。言え、お前はどうして俺がやばいと気付いたんだ。死神が狙うのはお前だけなんだろうがよ」
「だから、知らん」
「分かった、分かったよ」
一は諦めた風に装い、自分のロッカーを開ける。
「おい、何してやがる。てめェはこっから失せろ」
「怒らないでくださいよ、三森さん」
「――っ!」
彼の狙いは、ロッカーにしまわれていたアイギスだった。形状こそどこにでもあるビニール傘だが、威力は絶大で、使い手である一本人にも能力の全貌は把握し切れていない。
「動かないでくださいよ。余計な事をしたら、本気で止めにいきます」
「……おい、私は味方だぞ。てめェは何を使うって言ってンだ、ああ?」
「信用出来ないんです。さっきも言ったけど、俺は命が掛かってる。訳の分からない理由で振り回されちゃたまらないんですよ」
「信じろって言ってンだろ!」
「だったら全部話してください。でないと、こいつは下ろせない」
いつのまにか、一は手に汗を握っている。納得出来ないとはいえ、三森を含め三人を敵に回そうとしているのだ。
「……一一、何度も言うが、貴様がゲーデに狙われるのは確かなのだ。だから」
「だからっ、どうして俺が狙われるって分かるんだよ! ゲーデってのは無差別に誰かを襲うんだろ。なら、死神本人でもない限り次は誰がやばいのか知りようがないだろ!」
話が始まってから、春風たちは何かを隠そうとしているのが嫌でも分かる。
「春風、お前は死神について何を知ってんだ。それとも何か、お前は死神とつるんでんのかよ?」
「……違う。私は……」
「――もう良い。見苦しくてかなわん」
心底煩わしそうに口を開いたのは店長である。彼女は火を点けたばかりの煙草を床に捨て、足で強く踏み付けた。
「春風、お前の口から言えるだけの事を全て吐き出せ」
「二ノ美屋店長、しかし、私は……」
「言え」
春風は縋るような視線を店長に送る。
「言え。それで一も納得するだろう」
厳しい言い方だったが、一にはまだ店長が春風の味方をしているように思えて仕方がない。
――お前の口から言えるだけ。
つまり、全ては春風の胸三寸なのだ。今から説明するのは彼女一人だけで、彼女の言いたくない事は言わなくて良い。それでいて一は納得しなければならない。
しかし、聞かない訳にはいかなかった。この話の結果如何によっては、また、アイギスを握る事になるのだから。
彼には知られたくなかった。自分がどれだけ厄介で、汚れていたのかを。もし知られてしまえば、あの人に良く似た顔で罵られてしまう。軽蔑されてしまう。想像するだけでも耐え切れない。想像すらしたくない。
隠そうとしていた気持ち、その事が三森にも店長にもばれているから、気を遣われる。あの日から今まで、ずっと彼女たちを敵として見ていた。だから、余計に情けない。情けなくて、悲しくて、嬉しかった。涙が出そうになっていたが、我慢する必要はない。どうせ流れ尽き、枯れ果てている。出そうとしても出せない筈だ。
――姉ちゃん。
好きな人がいた。全身全霊を掛けて愛していた。届かない、伝えてはいけない思いだったけれど、思うだけで満足していた。
今は戻らない。彼は二度と帰らない。割り切った。振り切った。なのに、それなのに、あの顔で、あの顔で現われた奴がいる。
そうか。自分はあの人を忘れてはいけないんだ。傍にいても気軽には触れられなかった。離れてしまったから諦めた。だというのに、世界とはなんと残酷なんだろう。
「……分かった」
春風は小さな声で短く呟いた。
「話す。だから一一、話を聞いて欲しい。その後なら幾らでも私を罵ってくれて構わない」
「罵る……?」
「聞けば、分かる」
何の事か一には分からない。ただ、話を聞いてしまえばここにいる人間の関係が壊れてしまうような、そんな危うさを感じていた。