あなたの為なら死ねる
オンリーワン北駒台店のメンバーが店長の無茶なシフトから解放されたのは、午後の十時を回ってからだった。
「……酷い目に遭った。いや、遭わされた」
「お兄ちゃんにはヤクビョーのゴッドでも憑いてるんじゃないノ?」
「死神とかな、あっはっはっ」
一はジェーンと帰路を供にしていた。と言うのも、最後まで残っていたのがこの二人だったからである。
「神野君たちは良いけどさ、三森さんと糸原さんは最低だよな。一時間経たないで逃げたんだぜ」
「アタシは構わないケド。だって、お兄ちゃんと二人っきりになれたんだもん」
屈託なく笑うジェーンに腕を絡められては、邪険に振り払う事も出来ない。一は彼女の好きにさせてやる事にした。
「あ、一つ思い出したワ」
「へ、何が? 忘れ物か?」
「デス、デス。シニガミのコト。ここって、毎年出るんだって言ってたよ?」
「出るって、死神が?」
元気いっぱいに頷くジェーンを見て、一は頭を掻く。
「死神って、黒いマントに鎌持ってる骸骨みたいな奴だよな? え、アレが出んの?」
「お兄ちゃん、シニガミと言ってもカラーカラーあるんダカラね」
「……カラーカラー? ああ、色々ね。最初からそう言えよ」
「アメリケンスピリットを忘れたくないの」
アメリカ人が大いに誤解されそうだった。
「死神ねえ、この街に……毎年出んの? 去年も出てたのか?」
「YES! 近畿支部じゃ有名な話なんだって」
「じゃあ、毎年誰かが死神に殺されてんのか?」
「ンー、狙われてるのは一人だけって聞いたよ?」
死神に狙われるのは一人だけ。一にとっては殺されずに済むので嬉しい話ではあるが、おかしな話だとも思う。
「なあ、なんでそんな話知ってんだ?」
「狙われてるのはオンリーワンの社員らしいカラ。だから、この話は社員しか知らないノ」
「……狙われてるって、そんなのどうして分かるんだよ」
「さあ? アタシ、こっちに来たばかりだからたくさんは知らナイ。知りたいならホリに聞けばいいんじゃないカシラ」
別段、一はそれ以上を自ら望んで知りたい訳ではない。話題が話題なだけに、軽々と振れるものでもないだろう。
「ま、気が向いたらな。でもさ、毎年来るって分かってんならどうにかしようと思わないのかな」
「ムリ、だったって聞いたよ。ソレが来ると分かってても、どうしても」
「そんな強い奴なのか?」
「分かんナイ。バット、近畿支部がシニガミにハンドを焼いているのは本当」
ふと、一は妙案を思い付く。
「その、狙われてるって奴をクビにしちゃえば良いんじゃねえの? どっか島にでも流しちまえば、死神だってそっちに行くだろ」
「アタシもそう思うケド、狙われてるって人はベリーベリーユーノーなんだって。アイランドに流しちゃもったいないって」
「ふーん、なるほどね」
ジェーンの手前、汚い事を言うつもりはなかったが、その人物は死神とやらを誘き寄せる餌なのではないかと一は思っていた。幾ら有能と言えど、死神を連れているような人間である。それこそ疫病神を傍に置いておこうと誰が思うのか。
「それ、誰の事なんだろうな」
「ンー、アタシはここまで。あとはホリに聞けば分かるかも」
「堀さんかあ……」
一は堀の顔を思い出してみた。温和を絵に描いたような人物ではあるが、いつも笑顔なので逆に恐い。何か裏があるのではと邪推してしまう。
と、ジェーンが愉しげに笑った。一の逡巡を見透かしたかのような、強かな笑顔である。
「お兄ちゃん、ホリが苦手なんでしょ」
「……別に苦手じゃねえよ」
「それとも、コンプレックス? ホリ、笑顔がキュートだし、背も高いし、何よりクールよね。クールクール、ビークール!」
「コンプレックスなんかねえって!」
しかし、一は自分で思っていたよりも大きな声を出してしまう。ジェーンはまた、いらぬ誤解を受けて笑みを深めていた。
「アア、お兄ちゃんラブリー、あいらぶゆー。んふふー、すねてるんでしょー」
「うるさい」
「アタシはお兄ちゃんヒトスジ、ストレートだからダイジョーブダイジョーブ、見捨てたりしないってば」
「ストレートと言えば、お前さ、お腹大丈夫か?」
野球の試合――にはなっていなかったが――で、ジェーンが脇腹に死球を喰らっていたのを一は思い出す。何しろ、普通に生活している分には見ないであろう速球だったのだ。
「痛いって言ったら、キスしてくれる?」
「いや、しない」
「……してよ」
「しないってば」
宥めようとして、一はジェーンの頭に手を乗せる。子供扱いされているようで気に食わないのか、彼女はその手を振り払い、膨れっ面を作って見せた。
「そういうのがガキっぽいんだよ」
「ガキで良いから、キスして」
「駄目だってば」
一応、一にはそういう事をしてはならない理由、制約があるのだが、彼はその事実をジェーンに伝える気はない。
「……Well、抱っこして」
「はあ? 痛いのは腹だろ?」
「抱っこして」
涙を浮かべて見つめるジェーンに、一はこれ以上の抵抗は出来ないと観念した。しかし、抱っこは恥ずかしい。もう文句は言わせたくない一心で彼女を背に負ぶう。
「これで勘弁してくれ」
「……次はちゃんとやってね」
「泣く子と地頭には勝てないよな」
「ジトーって? ムービースター?」
しかし、このままどこまで行けば良いのだろう。死神より何より、一はその事に恐怖した。
翌日、夕方からのアルバイトの為、一は店に向かった。
店に着いて、開いた口が塞がらず、塞がれば今度は閉口した。
「……なんですか、これは」
夢のようである。但し悪い方の。店内には、一がここで働き出してから今までに見た事のない数の客がいたのである。
「まるで夢のようだな」
「あ、抓っても痛い」
バックルームで煙草を吹かす店長は幸せそうだった。
「どうやら、昨日の野球が良い方に転がってくれたようだな」
「えー……」
「大方、怖いもの見たさで来たのだろうが、まあ良い。売り上げに貢献してくれるなら何でも良い。この際、毎日河川敷で乱闘するか」
絶対に嫌である。しかし、店長ならやりかねないと一はどこかで覚悟していた。
「はじめくぅん、ボク、あんなの無理だよう……」
立花はフロアに出る前から半泣きである。足は震えて、スカートの裾をぎゅっと握り締めていた。
「でも、シフトに入ってるんだし。頑張ろうよ」
「無理……」
その場に座り込むと、立花は鼻をすんすんと鳴らす。
「じゃ、レジ片方閉めよう。立花さんは手伝ってくれるだけで良いからさ」
「おい一、勝手な真似はするな。客の回転が鈍くなるだろう」
「一人も捌けないよりマシでしょう。それとも、店長が手伝ってくれるんですか?」
「勝手にしろ」
店長の決断は早かった。
許可をもらったなら、後はやるだけである。一はぐずる立花を引きずって、長蛇の列を作る客を片端から処理していった。
「なあ、あの赤いねーちゃんはいねえのか?」
精算が終わっても居残る客もいたが、殆どの客が店から出て行く。一時間も経つと、立ち読み客を一人残して北駒台店はいつもの風景を取り戻した。
「見事にガラッガラだなあ」
立花は憔悴し切っていて、口も開けない。ただ頷き、危なっかしい足取りでふらふらとカウンターをさ迷う。
「……これで、終わったんだよね?」
「あー」
夕飯時になると、手軽なコンビニ弁当を求めてサラリーマンやOLの集団がやって来るのだが、
「うん、終わったよ。ああ、掃除は俺がやっとくから、立花さんは少し休憩してても良いよ」
「良いの? やった、ありがとう!」
一は嘘を吐いた。罪悪感からか、掃除も買って出た。
「さて、と」
一はバックルームからダスタークロスとモップを持ち出し、床の清掃に取り掛かる。が、雑誌のコーナーに行くと立ち読み客が邪魔になっていた。
しかし、こんな事はコンビニで働く者にとって日常茶飯事である。余程迷惑でなければ、声を掛ける事も滅多にない。注意して癇癪を起こされても堪らないし、変な噂を流されるのも厄介だ。一々目くじらを立てていても、良い事なんて一つもないのである。
「仕事熱心だな」
「……はあ」
しかし、客からこうやって労いの言葉を掛けられるのも滅多にない事だった。一は掃除の手を止めずに下を向いたまま素っ気なく答えるが、内心は嬉しくて仕方がなかった。
「……げ」
立ち読み客の顔を見るまでは。
「精が出るな、一一。いや、実に見上げた勤労魂だ」
一はどうして、今まで気付かなかったのだろう。週刊の少年誌を無表情で読み続ける、オンリーワンの情報部、春風に。
「どうしてここに……」
「私を誰だと思っている? オンリーワン近畿支部情報部二課実働所属春風麗に投げ掛ける質問だとは思えんな」
「掃除の邪魔だから失せろ」
「私は客としてここに来ている。お前は店員としてここにいる。立ち読みの邪魔をするな」
そう言うと、春風は一に背を向けて雑誌のページをめくる。
「……お客様、立ち読みはご遠慮願えますか?」
「くっ、また休載か。しかし、このとぼけた犬が可愛くて怒るに怒れん」
「話聞けよっ、買い物もしないなら出てけ! つーか仕事しろよ!」
「今日は休みだ。一一、貴様にとやかく言われる筋合いはない。折角の休日だ、邪魔をするな」
一はダスタークロスを掛ける手を止め、物珍しそうに春風を見遣る。
「折角の休日にコンビニで立ち読みねえ。いやいや、満喫してるじゃないか」
「漫画喫茶にも行ってきたしな」
「その満喫じゃねえよ」
「私としても降って湧いた休日だからな、何をして良いか分からないところもある」
一緒に遊ぶ友達も少なさそうだし。とは口に出すまい。一は心中で春風を嘲り溜飲を下げる。
「時に一一、貴様に休日はないのか?」
「んー、あんまりない。学校あるし。シフトは無茶苦茶だし。あ、けど明日は休みだな」
「では旅をすると良い。目的地はなくても構わん。どこに行くのかも問わん。が、ここから遠ければ遠いほど好都合だ」
急に旅をしろと言われても、一には困る事しか出来ない。
「いや、そんな金ねえし、次の日は朝からバイトだ。午後からは大学も行くしな。つーか、計画も何もしてないし」
「思い立ったが吉日だ。良い日旅立ちとも言うだろう。明日は全国的に晴れらしい。味噌カツでも食べに行くのはどうだ?」
「お前が行けよ。嫌だよ、あそこには味噌としゃちほこしかないんだもん」
「牛タンはどうだ?」
「遠くなってるわボケ。だから、旅行するほど金も時間も余ってねえっつーの」
すると、春風は懐から茶封筒を取り出した。
「やけに分厚いな」
「とりあえず二百万ある。これで楽しんでくると良い。ああ、足りないのなら今言え、ATMで卸してくる」
単純に、気持ち悪い。一は鳥肌が立った二の腕を擦り、封筒から顔を背ける。
「……何のつもりだ?」
「他意はない。日夜勤労と勉学に励む青年にささやかなボーナスを、と言ったところだ」
とてもじゃないが一にはささやかとは呼べない、正気の沙汰を易々と飛び越えた金額である。
「お前から金を受け取る理由はない。ましてや、こんな金額なんてな。言え、何を隠してやがる」
「他意はないと言ったろう。しかし、そうだな、あえて理由付けするならば。一一、私が貴様に好意を抱いているから、だ」
「もっと嘘臭い。良いから正直に言えよ」
「……そうか」
春風は相変わらずの無表情なので、一には彼女が何を考えているのか読めない。しかし、何故だかこの時、春風が哀しんでいるように見えた。
「あー、とにかくさ、ちゃんとした理由がないと受け取れないって」
「本当に、どこかへ行く気はないんだな?」
「だから、ねえよ」
「そうか。ふん、随分と駒台が気に入っているようだな」
「ああ?」
次の瞬間、春風はもう一の視界から消えている。どうしようもない気持ちの行き場はもう、ない。彼は仕方なく掃除を再開した。
「金、だァ?」
「ええ、何か心当たりはありませんか?」
シフトの交替でやってきた三森に、一は先刻の話をしてみた。春風が、二百万もの大金を無償で渡そうとした事についてである。
「つーか、なんで私に聞くンだよ?」
「え、だって、三森さんって春風と仲良いでしょ」
「だっ、断定すンじゃねェよ! 誰と誰の仲が良いって言いやがった!?」
一は無言で三森を指差し、次に天井を指した。
「上にいンのか!?」
「いや、そんなの知りませんけど」
「があーっ! ムシャクシャすンなァもう! 殴らせろよてめー!」
「そんなガキ大将じゃあるまいし」
「うるせェ!」
三森は一の背中に蹴りを入れると、荒々しい足取りでフロアに飛び出していく。
「……馬鹿力なんだから……」
「ちょっかい掛けるからだ。三森はああ見えて繊細だからな」
二人のやり取りが終わったのを見計らい、店長がつまらなさそうに口を開いた。
「繊細? 人の背中にあんなに良いのをかます人が?」
「あいつなりの照れ隠しだな。それより一、さっきの話は本当か?」
「春風の話ですか? ええ、マジですよ。いや、今更ながらに惜しくなってきましたね」
あの金さえあれば、アルバイトなんか当分しなくて良いのに。一は息を吐き、あの封筒の厚みを思い出す。
「旅行なんて行かせんからな」
「……行きませんよ」
「ならば良し。……一、春風とは仲が良いのか?」
「あんなのと仲が良いなんて、口が裂けても言いたくありませんね」
一の答えを聞き、店長は喉の奥でくつくつと笑った。
「そうか、まあ、何よりだ」
「含みのある言い方はよしてくださいよ。店長は何か知ってるんですか?」
「何かとは?」
「あいつの奇行についてですよ」
一は春風を常からしておかしな奴だと思ってはいたが、まさかあんな行動に出るとまでは思っていなかった。
「お前は気にするな。それよりも早く帰れ。ほら、外はもう暗いぞ」
「言われなくても帰ります。へっへーん、用事がなけりゃこんなとこにいる理由ねえしなー」
「いや、実に実に査定に響くなあ、その発言は。良し、時給をたっぷり下げてやろう」
「店長、愛してます」
「ああ、私もお前を愛している」
店長は一を見ず棒読みで返事する。
「……言ってて歯が浮くどころか腐りそうになりますね」
「お前もう(打ち)クビ(獄門)な」
ソレと初めて出会った時、オンリーワンに入った時。どちらでもない、漣は今日確信した。勝負は、この日この時になるのだと。
「……っし!」
「あれ? 気合い入ってるねー、えーと、漣君?」
「え、あ、はっ、た、旅部長……!?」
漣は今、オンリーワン近畿支部の廊下にいるのだから誰かと擦れ違うのは珍しい話ではない。ただ、その相手が所属する部署の長なら話は別であった。
「確か、君と顔を合わせるのは二回目だったね」
「お、覚えていてくれたんですか?」
親しげな態度で漣に話し掛けるのはオンリーワン近畿支部の情報部部長、旅である。
彼はサンダルに半ズボン、半袖と、威厳があるとはとても言えない服装をしていた。まるで子供のような、と言うより、旅の背格好はそのまま子供なのである。
それでも、漣は小学校高学年程度の姿をした旅に畏敬の念を禁じ得ない。彼こそが、オンリーワン近畿支部、情報部を纏めるただ一人の男なのだから。
「ふっふーん、タキシードに、紅い薔薇ね」
「おっ、おかしいでしょうか」
「そんな事はないよ。ただ、随分と古典的だね。それじゃあ弄ってくれって言ってるのと同じだと思うけど。それで、デートのお相手は?」
「え、えーと……」
漣はどうやって誤魔化そうかと考えてみるが、相手は情報部を統括する旅である。全て見透かされたような笑みを浮かべられては、観念するしかない。
「ま、あの子にはこれぐらいが丁度良いかもね。なんせ鈍いと言うか、薄いから」
「……どうか内密にお願いします」
「あっはっは、ここをどこだと思ってるんだい。多分、明日には情報部の皆にばれてるよ。って、そんな顔しないでよ。よしよし、結果はどうあれ僕は君を応援しよう。そうそう、あの手のタイプにはガンガン行った方が吉だからね。最近じゃ草食系がどうのとか言ってるけど、やっぱり男は肉を食べなきゃ」
「は、はあ、どうもです」
アドバイスは素直に嬉しいのだが、自分と別れた後、旅はこの事を誰かに話すのだろうなと、漣は肩を落とす。
「ん、頑張りなよー」
ひらひらと手を振る旅に別れを告げ、漣は目の前の扉をノックした。返事がないのはいつも通りなのでドアノブを握る。掌が汗で湿っていたのに気付き、彼は苦笑した。
「失礼します」
目当ての人物は、そこにいてくれた。それだけで漣の鼓動は早くなる。
「どうした?」
「あ、その、春風さんこそ、どうして……」
「暇だったからな」
漣の目当ての女性、春風はいつもと変わらないスーツ姿で漫画に読み耽っていた。
「暇だから、ここに?」
知っていた。春風がここにいると分かっていた。一言、それだけ言えば済むのに口は無駄に空回る。
「折角の休日に仕事場で漫画を読む、か。ふ、情けないな」
「そっ、そんな! 俺は良いと思いますよ!」
「そうか。それよりも漣、その格好はどうした。パーティにでも出席するつもりか?」
心臓が高鳴る。
「あ、っと、その……」
漣の喉は既にからからだ。断られたらどうしよう。やっぱり変な格好だろうか。頭の中はぐちゃぐちゃに撹拌され、必死に言葉を探し求める。
「春風、さん。あの、俺、伝えたい事があるんです」
「携帯では駄目なのか?」
春風の視線は漫画に釘付けだ。でも、構わない。漣はありったけの唾を飲み込み、なけなしの勇気を振り絞る。
「駄目なんです。直接、言わせてください」
「そうか。では言ってくれ」
「……俺は」
言ってしまえば、もう後戻りは出来ない。成功しても失敗しても以前のような関係には戻れない。
「あなたの事が――」
それでも、漣は口を開くのだ。届くかどうかも分からない思いを吐き出す為に。
「ああ、駄目だヨ」
「――っ!?」
部屋中に張り巡らされる殺意。室温が下がったように感じられ、空気は淀んでいく。実際に寒くはなっていないのだが、漣の背中からは冷や汗が止まらない。指一本たりとも自由に動かせない。
「キミ、誰だい? 何を言おうとしていたんだい? いけないナあ、人のモノに手を出しちゃ」
「……お、まえっ……」
漣の声は悲しくなるほど小さく、震えていた。無理もない、ここはソレに対抗、対処する為のオンリーワン近畿支部。そこに、今、何がいる。想像すらしなかった。出来なかった。
「口の利き方がなっていないネ、キミ」
不機嫌な様子を隠そうともしない。黒い山高帽と燕尾服に身を包んだ、一見すると紳士然とした男はまるで無警戒に漣に近付いていく。
「く、るなっ……」
「ん? 聞こえないナ。もっと大きな声でお願いするヨ」
男は漣の肩に手を置くと、春風に視線を送る。それだけで、彼女は恐怖に目を見開いて体を震わせた。
「火を」
男は葉巻を銜えると春風に再度視線を送る。
「……春風さん……?」
漣には信じられなかった。春風がこんなに怯えて感情を剥き出しにしている事も、ソレが支部に入り込んでいる事も、
「…………はい」
彼女がソレの、他者の言う事に従い、唯々諾々と動いている事も、何もかも。
「んん、やっぱりイイ。イイネえ」
葉巻に火が点く。室内を紫煙が満たしていく。
「くっ……」
見ていられない。春風の、尊敬している上司の泣き出しそうな顔なんて、見たくない。漣は目を瞑り、これからどうなるのかを考えた。今日は春風に思いを伝えて、そこからは、そこからは――。
「ウララ、彼は誰だい? キミとはどんな関係にあるのかナ?」
「う、あ……」
春風の視線が辛い。漣は許しを乞われているような、そんな気がしている。
「……ただの、部下だ」
「んん、そうかい」
正直、漣はほっとした。当たる前に砕けるというのは、こんなにも気が楽になれるものなのかと、内心で笑う。
「じゃあ、今年は誰を壊せば良いんだろうネ。ウララには家族がいないし、そこの彼とは何でもないらしいからナあ。うーん、良かったネ、そこのキミ、優先順位は下の方だヨ」
このふざけた男は何を言っているのだろう。得体の知れない怒りが、漣の体内から沸き上がる。
「……ってる」
「ん? もっと大きな声で頼むヨ」
確信した。与太だと笑っていた話だったが、確度の低い情報がオンリーワンに、ましてや情報部にはびこる筈はない。駒台に現れる死神とはこの男の事で、
「漣、漣、動くな……」
死神に狙われているのは、この人なのだと。
「春風さんが嫌がってるじゃないか!」
「んん!?」
軽蔑した。落胆した。憤りさえ覚えた。だからこそ、春風を好きだと確認出来た。金縛りから解かれた漣は、男の持っていた葉巻を手で払い、返す刀で頬に拳を打ち込む。
男は簡単に壁まで吹き飛び、背中を強かに打ち付けた。被っていた山高帽はずり落ち、苦しそうに呻いている。
「春風さん、こいつは、こいつが……」
「なっ、何をしているんだ!」
「なっ、何をって……」
「漫画の主人公にでもなったつもりか!? 自惚れるな漣、すぐに逃げろ!」
そんなつもりは毛頭ない。ただ漣は、惚れた女性が困っていたから動けたに過ぎない。
「あなたは嫌がってた!」
理由ならばそれで充分だと割り切っていた。春風が自分を何とも思っていなくても構わなかったのである。
「戦闘部を呼ぶんだ!」
「春風さんも逃げるんですよ!」
「私は……」
漣の覚悟は決まった。春風を残して逃げようとは思わない。彼女がこの場に留まるなら、一時だって目を離したくない。
「じゃあ、戦います」
「無理に決まっているだろう!」
漣にはソレと戦う力はない。ソレから逃げる足やソレを捕捉する目はあっても、ソレを殴る腕はないのだ。残酷な事実だが、漣本人がその事を一番分かっている。戦闘部でもない一社員が死神と対峙出来る筈はない。
「やります。だから、逃げてください。少しくらいなら時間も稼げます」
「……私に逆らうのか?」
「今はお互い勤務中じゃありませんから。ただの男と女、それだけでしょう」
早く、早く消えて欲しい。漣はもうぎりぎりだった。恐怖と不安を押し殺すにも限界がある。春風には醜態を見られたくない。
「春風さん、俺には何が起こっているのか分からない。悔しいけど、俺にはあなたを助けられるかどうか分からない。だけど、あなたはこの状況を望んじゃいない筈だ。だから、格好付けさせてください」
春風は死神に狙われているのだろう。理由は知らないが、確かな真実なのだろう。そして、彼女にこんな顔をさせている奴は目の前にいる。死神も、関与出来ない自分自身も、何もかも、漣には許せなかった。
「あなたはもっと自由に生きるべきだ」
「……しかし」
男はふらふらとしながらも起き上がりつつある。もう迷っている時間はない。
「……それから、やっぱり戦闘部には行かないでください。逃げるなら、外へ」
「え……?」
春風はまだ気付いていないが、漣はオンリーワンの内部にソレが入り込めるとは到底思えなかった。情報部まで誰にも見られずに来られるとも考えにくい。運が良いだけでは済まされない。高い確率で内通者がいるのだ。もしも春風が死神以外にも狙われているのなら、ここはもはや鳥篭に等しい。一刻も早く彼女を逃がさなければならない。
「……北駒台店へ逃げてください」
漣には少なくとも、あの店の連中が陰謀とは無縁に思える。同時に、死神を打倒し得る人材も揃っているのだ。自分では死神を倒せない事も、春風が逃走するまでに充分な時間を稼げない事も漣には分かっている。それでも、やる。
「んん、不意打ちとはいえ効いたヨ効いた。戦闘部じゃなくてもまともなパンチを打てる人間がいるんだネ。いや、参考になったナあ」
死神が立ち上がる。ダメージは受けているが、特に気にした様子はない。
「春風さん、これを」
漣は胸ポケットに挿してあった一輪の薔薇を春風に差出す。
「この後ディナーに行きましょう。美味しいフレンチレストランを予約してあるんです」
「……アナクロな奴だな」
そう言いながらも、春風は薔薇を受け取った。
これで、差し当たって思い残す事はなくなった。漣は春風を背に庇いつつ、窓へ後退りしていく。
「んんん? こらっ、勝手な真似はよしたまえ」
「行ってください!」
冷たい風が体を吹き抜け、部屋中の淀んだ空気を吹き飛ばした。
「すまない」
春風が飛び立つのを横目で確認すると、漣は安堵の息を吐く。
「キミ、ウララが逃げちゃったじゃないか。責任を取ってもらうヨ」
「やっぱ、あの人には空が似合ってる。それも夜の、満天の星空だ」
「んん、分かっているじゃないか。僕もそう思うヨ」
最後に見れた彼女の姿が、あれで良かった。これで、本当に心置きなく死ねる。