冬ざれた街に
語るに落ちるという素晴らしい言葉があります。
今回のお話、本当は野球の描写にもっと力を割きたかったのですが、予想していたよりも長く、長くなっちゃいまして。何かもうこれだけで話が作れるんじゃねーの? ぐらいに、です。
と言う訳で泣く泣く削ってみたのですが、ああ、もう良いや。もう良いです。
月が影を照らす。二つの影が、駒台の夜を抜けていく。誰の目に止まる事も、写る事もなく、影たちはただ自由に街を飛び回る。
「春風さん、聞きたい事があるのですが」
「言ってみろ」
やがて、ビルの屋上に影が降り立った。その正体はオンリーワンの情報部である春風と、彼女の部下、漣の両名である。
漣は屋上のフェンスに背をもたれて深く、ゆっくりとした呼吸を繰り返した。
「どうして、一一と接触を取ったんですか? そんな命令は受けていないでしょう」
詰問しているかのような漣の強い口調にも、春風は顔色を変えない。
「漣、お前は自殺しろと命令を受ければ死ぬのか? 命令には従うものだが、縛られるものではない」
「詭弁です。俺たちは組織人なんですから、余計な事をするメリットはありません」
「私は北駒台が草野球を出来るようにと指示を受けた。一一と接触を取って何が悪い」
上司の発言とはいえ、幾らなんでもわがままが過ぎる。春風の我が強い事に漣は配属当初から気付いていたが、彼女は諫言を聞く耳を持ち合わせていなかった。
「あなたはいつだってそうだ。俺の事なんかお構いなしに一人で勝手に消えちまう。上からの面倒事は全部俺任せ、あなたは風の向くまま自由に飛び回る。俺の気持ちも知らないままにっ」
「構って欲しいのか?」
「違いますっ、俺は……!」
いつからか、振り回される自分に違和を感じなくなっていた。
春風の事は人間として尊敬出来ないが、上司としては情報部部長の旅よりも尊敬している。彼女はわがままだが、少なからず我を通せる分には有能なのだ。
「俺はっ……!」
いつからか、漣は春風に対して上司以上の感情を抱き始めていた。風のように、あるいは風よりも自由に飛び回る彼女に憧れた。何物にも縛られず、何者にも囚われない。自分では思う事も、描く事も、ましてや手など伸ばそうともしなかった生き方に、強い嫉妬すら覚えている。
だから、好きなのだ。
「……漣、お前も情報部ならば感情に任せて話そうとするな。可能な限り断て。切れ。我々はそういった生きものなのだからな」
「春風さんみたいに、ですか?」
「気に入らないなら部長を見習うと良い。あれもまた、一つの成れの果てだろうからな」
「いいえ、俺は春風さんが好きですから」
「そうか」
振り絞った勇気は功を奏さない。漣は溜め息を吐き、眼下に広がる街を見渡した。
オンリーワンに入ってから、ろくな目に遭っていない。最近ではそうでもないが上司に振り回され、ソレに追い回され、だというのにスポットライトの当たる表には出られない。報われたものが一つだって見当たらない。
「漣、辛いなら弱音を吐く前にオンリーワンを辞めろ」
「辞めませんよ。確かに辛いですけどね。でも情報部に入って良かったと思える事が一つ、あるんです」
「居場所を見つけられた事か?」
漣は緩やかに首を振り、街を指差す。
「それもありますが、これ、ですよ」
「……駒台の街がどうかしたのか」
「こんな眺めを見られるなら、少しくらい辛くても良いかなと、そう思えるんです」
「私にはいつもと同じにしか見えない。漣、お前は随分と感傷的だな」
春風はフェンスの縁に足を下ろすと、右から左へと町並みを見遣った。
「綺麗かどうかは分かりませんけど、なんかこう、良いでしょ?」
「曖昧だな。だが、悪くはない。そんな気がしてきた」
その時、漣には春風の変化が理解出来た。生まれて初めてと言っても差し支えない衝撃が走る。ああ、そうか、と。
「春風さん、今笑いましたか? 笑いましたよね?」
「……かもしれないな」
それきり、お互いから言葉が出る事はなかったが、漣はとてつもない充足感を得られた。
河川敷グラウンドにちらほらと人が集まり始めていた。時刻は試合の始まる一時間前、十二時である。
グラウンドはしっかりと均されており、ベースも置いてあった。スコアボードも、両軍の使用するベンチも真新しいものになっている。
「おはようございます」
ベンチに座る店長へ声を掛けたのは、ジャージ姿の一だ。
「早いな、一。お前が一番だ。最終的に何番になるかはしらんがな」
「あー、それがですね。実は……」
一も昨日は遅くまで粘ったのだが、結局九人揃える事が出来なかったのである。だが、その事を店長には今の今まで言えなかった。言える筈がなかった。
「ああ、そうだ。もしも人数が足りていなかったらの話なんだがな」
「はい?」
「戦闘部が一人有能な人材を欲しがっているらしい。ああ、確か、死に辛い実験台が欲しいとか言っていたな」
「まさか……」
「いや、別にさっきの話とは何一つ繋がりはない。ところで一君、まだ君以外のメンバーが姿を見せていないようだが」
一の背筋に冷たい汗が流れる。
「まさか、九人揃えられなかったなんて事はないだろうな」
「……あはは、嫌だなあ。集めたに決まってるじゃないですか。それじゃ俺はトイレに――」
「――駄目だ。いや、私はお前を信用してはいるがな。万が一があっては遅きに失する。そうは思わないか、一」
読まれている。一の行動は完全に読み切られていた。
「あの、実は……」
もう覚悟を決めるしかない。一は泣きそうになるのを我慢しながら口を開いた。
「先輩、待たせてしまってすまない」
「ん?」
訝しげにする店長の視線の先には、ユニフォーム姿の女と男がいる。彼らの着ている、野球チームのそれと思わしきユニフォームには、一LOVEと、でかでかと刺繍されていた。
「おや先輩、そちらの方は?」
「……なあ早田」
「なんだ先輩?」
「そのユニフォーム、超ダサいぞ」
早田と楯列が到着した後、アイネ、山田、シルフと、一の元には続々とメンバーがやってきていた。
アイネは昨日と変わらないジャージ姿で、山田はいつもと変わらない巫女服で、シルフはいつかの時と同じく成人女性の姿とはアンバランスな、小さな男の子の格好で。
「見事にバラバラだな」
「そうですね」
どこからか、今日ここで野球の試合が行われると聞きつけたのだろう。河川敷の近くには野次馬が集まり始めている。
その中に、スーツ姿の男女が二人。オンリーワン近畿支部情報部の、春風と漣の姿があった。
「どうやら、我々の情報操作も上手くいったようだな」
「しかし、どうしてわざわざ一般を集めたんですか?」
漣に問いに、春風はしばし沈思黙考する。
「……上からの指示だからな。しかし、私が思うにこれはオンリーワンの、ひいては勤務外の印象を良くしようとする為ではないか?」
「勤務外の? 野球の試合なんかで、ですか?」
「相手は駒台の草野球チームだそうだ。勿論、一般のな。彼らと球技を通して、勤務外でも普通の事が出来ると、そう思わせたいのだろう」
「そう上手くいきますかね。だって、北駒台店ですよ」
フォローする気はないのだろう。春風は黙って、両軍の選手の集まりに目を向け始めた。
「面白い事にはなりそうだがな」
「面白い事になってきたな。そうは思わないか、一?」
「一生思いません」
店長が面白いと指差す先には、野球の試合、その相手チームがいた。
「どうして、こんな事になってるんでしょうかね」
「さあな」
面白くもなんともない。これは悪夢だと、一は思い込む。悪夢。その相手チームに、見知った顔がいたからだ。
「あいつら、私の誘いを断ったかと思えば、まさか向こうのチームに手を貸していたとは……」
三森冬。糸原四乃。ジェーン=ゴーウェスト。立花真。神野剣。ナナ。堀。オンリーワン北駒台店の勤務外、一を除いた全員が相手チームに参加していたのである。
「おまけに、北さんまでいやがる」
「八人がお前の知り合いか。とんだ疫病神だな」
「七人は店長の知り合いでもありますよね。けど、まさか堀さんまで参加している、と、は……?」
「どうした?」
「……気付かないんですか、店長。ここに、北駒台の皆がいるって事は……」
「ああ、今頃店は空っぽだろうな」
つまりも何もないのだが、結果から言ってしまえば、全員が店をサボって野球に興じているらしかった。
「ジェーンまでが店をサボるとは。いや、でも、何か理由があるのかも」
「それはないな。一、糸原の腕を見てみろ」
「見えません」
見ろと言われても距離が離れている為に、一には糸原の腕どころか、彼女の輪郭すらぼやけて見えているのだ。
「良く見ろ。奴はこれ見よがしにスーツの袖をまくっている。理由は一つ、新しい時計を見せびらかしたいのだろう」
「まさか、皆も何かに釣られて……」
「その可能性が高いな。そして相手のユニフォームを見ろ。アレは駒台ブラックタイガースのものだ」
「なっ……! 近畿地区でもトップレベルの、あの!?」
駒台ブラックタイガース。今年で創立二十周年の強豪チームである。名前の由来は設立時のメンバーが『強そう』との理由でブラックとタイガーを組み合わせたのだ。余談になるが、彼らは後に同じ名前の海老がいる事に気付き、気付いた今でもそんな海老は知らないと押し通している。
「そこに勤務外どもの力が加われば、どうなるか……」
「ああ、恐ろしい事になるな」
「面白く、実に恐ろしい事になるだろうな」
「何が、ですか?」
春風が幾分か愉しげに呟くので、漣は思わず聞き返していた。
「この試合、いや、恐らくは試合にならないだろうな。今日はもうこれで終わりだ」
「……どういう意味ですか?」
「勤務外がいるのだぞ、どうもこうもならない。結果から言えば、試合は始まらない」
「えっと、だから、どうしてですか?」
両チームともメンバーはきっちり揃っている。北駒台店側に少々の遅れがあって、更に何故か南駒台店の戦乙女が三人も参加している事には驚いたが、試合をするには何ら問題はないとも思える。
「北駒台店の勤務外には欠落している部分があるからだ」
「欠落、ですか。多過ぎて見当が付かないですね」
「チームワークだ。チームプレーとはまた別物だが、奴らにはそれもない。協調性がない。協力しようという心がない。誰かと背中を預け合うつもりもない。北駒台店は集団であって、組織ではない」
そもそも、漣にはチームワークとチームプレーの違いすら分からないのだが、春風の言いたい事だけは何となく理解出来た。
「個人個人が力を持ち過ぎている。事実、三森冬は近畿地区でも最強との呼び声が高い勤務外だ。他のメンバーもジェーン=ゴーウェスト、立花真と、三森冬と比べても遜色はない。だからこそ、我も強い。今まで一人でソレと戦い、一人でソレを殺してきたような連中ばかりだからな」
「他人に背中を見せる事を知らない、と?」
「北駒台店において、徒党を組んでの戦闘は致命的なものになりかねん。他のどこよりも、誰よりも質の高いスタンドプレーでソレを殺し切る事があったとしても、傍に誰かがいては足を引っ張られかねない。奴らにとって、一足す一はやはり二にしかならない。まあ、例外もいるがな」
何か聞こえた気がしたが、その続きは漣にとって面白くないものになりそうだったので、彼は黙殺する。
「しかし、本当にチームなんてものが必要なんでしょうか。北駒台店が個人主義だとして、実際に戦果を上げているじゃないですか」
「では、どうして南駒台店が出来る? 漣、南の戦闘は何度か見た事があったな。アレをどう思う」
どう思うと言われても。ただただ、凄いとしか言えなかった。
「戦乙女、野獣、凶戦士。彼らはそれぞれ四人から二人一組で動いている。そして役割もハッキリさせようとしている。北とは明らかに違う人員構成だ。そして、南はアラクネ以降に作られた組織だ。何を意味するか、分かるか?」
「戦力の増強、ですか?」
「増強か。確かに現段階ではそうなるな。しかしだ、アラクネが我々オンリーワンにあるものをもたらした。警告と、変化だ。意図的に群れて現れるソレが出現したのは今までに有り得なかった。今後、アラクネと同じような、アラクネよりも手強いソレが現れないと、どうして言い切れる」
「……円卓の騎士。南駒台店は奴らに向けての戦力という事になるんですか」
アラクネ以後浮上した、正体不明の集団。彼らについて分かっている事は皆無に等しい。ただ、ソレを使って世界に何かしらの害を与えようとしているのは確かだ。
「今後、散発的なソレの出現は減少すると上層部は見ている。代わりに、アラクネのような集団戦が増加するだろう。その事を見越して、南が作られた」
「なら、北駒台店はどうなるんですか?」
「何も変わらんさ。だが、集団戦闘になれば北の生存率は格段に下がる。二ノ美屋店長が動かない限り、北は近い内に潰れる。ふ、誰もが思っている事だろうがな」
北駒台店が潰れる。即ち、一一も、何かしらの害を被る。不謹慎かもしれないが、漣の胸は童子のように躍った。
「春風さん、要するに北駒台店の奴らは野球が出来ないぐらい協調性がないって事で良いんですよね?」
「ああ、その、通りだ……」
「? 顔色、悪いですよ」
「……かもしれんな」
春風は辺りに視線を遣った後、深く息を吐く。
「漣、私は先に戻る。試合の結果は後で聞かせてくれるか?」
「え、ええ。その、お大事に」
漣がそう言うと、春風の姿が掻き消えた。
こんな事は、彼女の部下になってから初めてだったので、漣は暫くの間放心していた。何かがあったのだろう。そう捉えるぐらいしか、今の彼には出来なかったのである。
試合は荒れ模様だった。
ボールとバット、グローブや一塁ベースなどがグラウンドを飛び交い、両軍の選手が入り乱れて、殴り合っている。
始まりは、一回の表、駒台ブラックタイガースの攻撃からだった。一番バッターはジェーン。北駒台店チームからは山田がピッチャーとして登板したのである。
山田の球は速かった。試合中だと言うのに、ブラックタイガースからスカウトが来たぐらいである。が、絶望的に、致命的なまでに山田のコントロールは悪かった。二球目に投げた渾身のストレートは、ジェーンの脇腹に突き刺さったのである。間を空けず、ブラックタイガースのメンバーがベンチから文字通り飛び出した。
そして、こうなった。
人知を超えた乱闘を眺める一の瞳から生気が感じられない。
「全員クビだな」
店長が苛立たしそうに言うが、一の耳には入ってこなかった。
この日、実に両チーム合わせて十数名の負傷者が出たのである。勿論試合は無効になった。更に言えば、駒台ブラックタイガースはこの年以降、この件がトラウマになって強豪の名を捨てる事になる。
「うーん、人間はやはり、実に面白いネ」
見物人の中に、一際目立つ影があった。黒い山高帽と燕尾服を着た、紳士然とした装いの男である。
「あの子も見つかったし、やはりこの国は言う事がないネ。堪らないヨ」
だが、紳士と呼ぶにはいささか早計かもしれない。彼の燕尾服は古ぼけ、擦り切れ、破れていた。右手には葉巻を持ち、左手に持った瓶の酒を呷る。
「しかし、当たり前と言えば当たり前なんだけど、やはりここは人間臭いナ。ああ、腹立たしい。苛立たしい。さっさと退散するとしよう」
言葉とは裏腹に、男は愉悦の色に表情を染めてその場を立ち去った。
彼はこの世全ての黒を塗り固めたのような、死神めいた男であった。
オンリーワン北駒台店、バックルーム。
「申し開きをしてもらおうか。文字通り、腹を割ってな」
からん、と。一人だけ椅子に座る店長が、フロアに正座する面々に果物ナイフを投げ付ける。
「……店長、どうして俺まで?」
「一、連帯責任という素晴らしく美しい言葉を知っているか? これはお前の教育が足りなかったから起こった、悲しい事件なんだ」
「俺がいつ、この人たちを教育しなきゃいけない立場になったんですか」
店長は答えない。
「おい、なんで私らが正座なンかしなきゃなんねーんだよ」
「三森、お前から答えてもらおう。どうして私を裏切ったのか、その理由をだ」
「あァ? 理由なンかねーよ。私はただ、こいつらに誘われてだな……」
「嘘ね」
きっぱりと、三森の言葉を遮ったのは糸原である。
「『面白いじゃねェの。店長が困ったところ見た事ねーんだよな。ぎゃはは、一回見てみよーぜ!』 とか言ってたじゃない。これは立派な背信行為よね」
「てめーだって物に釣られてたじゃねェか!」
「私は無実よ。罰を受けるのは私以外の奴にしといて」
店長は無駄なあがきだと言わんばかりに溜め息を吐いてみせる。
「ナナ、君はどうしてだ?」
「皆さんが行くとおっしゃいましたから。人間とはより多数の意見に流される生き物らしいではないですか。ならば、人間よりも人間らしいを追求する私も行かない訳には参りませんでした」
「……ナナ、人間のゲスいところまで真似なくても良い」
「と、言いますと?」
「つまりだな、まあ、こいつらを参考にするな」
小首を傾げるナナに毒気を抜かれたのか、店長はそれ以上の叱責を諦めた。
「堀、お前まで裏切るとはな」
「いやあ、私も少しばかり興味がありましたからね」
「ほう、何に、だ? 言ってみろ」
堀は眼鏡の位置を直して、人懐こい笑みを浮かべる。
「あなたの困った顔に、ですよ。店長、あなたとは長年の付き合いになりますが、いつも自信満々と言いますか、ネガティブな表情をあまり見ていませんから」
「それはお互い様だ。私こそ、お前の顔には変化がなくて飽きていた頃だからな」
「いやあ、根っから穏やかなものでして」
「は、良く回るものだ」
次に、店長は笑顔の堀から視線を外し、こちらと決して目を合わせようとしない二人に声を掛けた。
「神野、立花。どうした、顔を上げろ。目を合わせないと話も出来ないぞ」
立花の肩が分かりやすく震える。
「あ、あああの、ボク、ボク、ちっ、違うんだ。ボクは店長さんに恨みがあるんじゃなくて……」
「では、なんだと?」
「あっ、あっ、あっ、あの、あのね、え、映画のチケットをあげるって言われて、そいでボク、ちょうど見たい映画があ、あって」
「物に釣られたんだな?」
「う、うえ? えっと、あの、ボク、ボク、映画なんて見た事がなかったから……」
「物に、釣られたんだな?」
「…………うん」
「本来なら切腹ものだが、少し可哀想だな。見逃してやる。……ゴーウェスト、お前はどうして裏切った?」
一人だけ正座をせず、あぐらをかいていたジェーンに視線が集まった。
「えー、だってお兄ちゃんをくれるって言うんだもん」
「誰がだよ!?」
「声が大きいぞ一。で、ゴーウェスト。そう言われたから私を裏切ったのか?」
「オウ、ソーリーボス」
舌を出してけらけらと笑うジェーン。
「神野は……まあ、良いか」
「それはそれで複雑なんすけど」
「ならば判決だ。全員、今後私の決めたシフトに逆らわない事」
はーい、と、全員が声を揃えて答えた。
「ああ、時給は発生しないからな」
えー、と、ジェーンと堀を除いたアルバイト全員が声を揃えて不満を訴える。
「判決は覆らん。絶対に覆らん。悪いのは私に逆らったお前らだ。悔い改めて心を入れ換えて、可能ならば頭を床に擦り付けて許しを乞え。目溢しをくれてやらん事もない」
「すいませんでしたあっ!」
店長の言葉に一だけが反応して、素早く動いた。綺麗な土下座だった。
「……お兄ちゃん、プライドは?」
「ねえよ!」
走っても走っても、いつまでいっても、どこまで行っても、この感覚は拭えない。追われている感覚は、何をしても消え去らない。あの姿を、あの顔を見た瞬間から呼吸は荒くなったままだ。冷たい汗は止まらない。鼓動は早くなる一方だ。吐き気と寒気が全身を突き抜け、恐怖が、心を犯し始める。
『――久しぶりだネ』
「ひっ……」
優しく、溶かされていく。囁かれた耳元には、彼の好む安い酒の残り香があった。離れない。あの声が、離れてくれない。抱き締められた感触も、愛を囁かれた瞬間も、あの男の温もり、その残滓までもが女を苦しめる。
「くっ、あああああああっ……」
忘れようとしていた。事実、忘れ掛けていた。影は女から去ろうとしていたのである。
『今度は誰にしようか、ウララ。ああ、アア、家族はもう、いないんだったネ』
止めてくれ。止めてください。誰か止めて、誰か助けてください。あの声を聞かせないで。あの姿を見せないで。あの時を、あの瞬間を思い出させないで。どうか、どうにかなりそうで、誰かにどうにかして欲しくて。
けれど、口から漏れるのは痛みを堪える喘ぎと、意味を為さない叫びだけで。
「……っ、は、はっ、はぁ……」
目を瞑っても、脳裏には、記憶には焼き付いている。忘れたかった。おぼろげだった影は、今や輪郭を保ち、一つのモノになろうとしている。
『良い顔だネ。次はウララのお友達を殺す事にしようか』
そう言って愉しげに笑う男は、まるで紳士のようで、
『さあ、誰から壊してあげようかナ』
まるで、死神のような男で。