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アリとキリギリスと

 死者はどこに行くのか。

 命をテーマとした話は幾度となく、いつの時代でも取り交わされてきた議論だろう。尤も、結論が出たためしはない。それでもだ、国や宗教によって死についての理解、死後の世界についての差はあれど、死者は死後、どこかには行くと、多くの者が信じている。信じてはいなくとも、そうあるのだと流されている。

 日本では古代、黄泉の国である彼岸に行くとされ、西欧、キリスト教において死とは、天国に行くことだとされ、古代インドのヴェーダ聖典においては、人間の肉体は死によって消滅するが、魂は不滅だとされている。ウパニシャッドでは、肉体が死んだ後、魂の前には二つの道があり、一方はブラフマン――即ち、世界の魂――に至る道であり、もう一方は地上で肉体を得て再生する道であるとされた。宗派によって考え方は違えども、仏教では馴染み深い、輪廻転生と呼ばれる概念である。

 死は全てのものに等しく訪れ、酷く平等だ。しかし、だ。おかしな話ではあるが、国によって、宗教によって、死者が死後、どこでどうなるかは違うのだ。

 


「野球ぅ!?」

 青天の霹靂とはこの事か。

 オンリーワン北駒台店バックルームにて、(にのまえ)はそんな事を思いながら、それでもこの状況に対応する為、とりあえず大声を上げた。

「なんだ、野球を知らんのか、一」

 一の大声に、店長は耳を塞いで顔をしかめる。彼女は口に銜えていた煙草を床に吐き捨て、出来の悪い生徒を見るような目付きで一を見遣った。

「野球とはな、棒切れで球を打つくだらん遊びの事だよ」

「野球を馬鹿にしないでください。俺が聞きたいのは、どうして野球をしなきゃいけないのかって事ですよ」

 仕事が終わって、後は帰って眠るだけだった筈なのに。一は溜め息を吐きながらも、店長の表情から、彼女の意図を探ってみる。

「良いから、やれ」

 無理だった。

「あの、とりあえず一から説明してもらえませんか?」

「まあ、お前が頭を下げて頼むのなら仕方がないな。説明してやっても、やぶさかじゃあない」

 つまり、頭を下げろと店長は言っている。

「……お願いします」

「角度が足らんが、ま、及第点だな」

 店長は口の端をつり上げて、新しい煙草に火を点けた。

「三日前の事だ。私は夜道を歩いていた」

「……店長って歩いたりするんですね。俺はもう椅子とお尻が合体しているんじゃないかと」

「度胸のある男は嫌いじゃない。お前は嫌いだがな。で、あー、なんだ、私はどこまで話していた」

「夜道を歩いていた、までです」

 店長はそうかと頷き、それきり口を開かない。

「あの、続きは……?」

「推して知れ」

「あそこからどう推せってんですか。まあ、誰にだってそんな調子ならいざこざの一つや二つ起こりますか……喧嘩の相手は誰ですか?」

 どうせ見知らぬ酔っ払いくらいのものだろう。そもそも、一にはこの店長に喧嘩を売れる人間が想像出来ない。

「いや、覚えていない」

「ああ!?」

 相手も分からない、覚えていないのに、何を偉そうに。一の語気もいささか荒くなる。

「目上の人間にああはないだろうが、ああ?」

「ああああっっっっちぃ!」

 店長はおもむろに立ち上がり、吸い掛けの煙草を一の首筋に近付けた。

「覚えていないものは仕方ないだろう。何しろあの日はしこたま飲んでいた……筈だからな」

 あやふやな答えだった。

「火傷したらどうするつもりだったんですかっ!」

「責任を持って楽にしてやるから心配するな」

「弁護士を――医者を呼んで欲しいです」

「分かった分かった、もう良いから黙れ。とにかく、野球で勝負だと言われたんで受けて立った。簡単だ、そうは思わんか、一」

 口答えは意味を成さない。まだ店長の指の間に火の点いた煙草が挟まれている以上、一は首を縦に振るしか出来ないのである。

「はあ、しかし野球とはなんでまた」

「さあな。好きなんだろうよ、野球が」

「日時や場所は決まっているんですか?」

「明日、河川敷グラウンドで午後一時からだ」

 呆れてものも言えないとはこの事なんじゃないかなと、一は壊れつつある思考回路でもって、辛うじてそう思った。

「無視しましょうよ。どうせ相手なんか来ていませんって。今からじゃ人数揃わないだろうし」

「そうもいかん。オンリーワンがたかが野球の勝負から逃げたとなれば、一般にも、上からも叩かれる。私は痛いのが嫌いだからな」

「だったらその性格直しゃ良いのに」

 睨まれて、目を逸らして押し黙る。

「一般のギャラリーも来るだろう。無様には戦えないな」

「……逆らうのも馬鹿らしくなってきました。で、人数は揃ってるんですか? 野球って九人対九人でやるゲームなんですよ」

「知っている。一、あまり大人を舐めない方が良い」

「はあ、なら、俺を入れて何人集まったんですか?」

 店長は灰皿に視線を落とし続けたまま、指を二本立てた。

「……あと、二人?」

「私とお前で二人。残りは八人だな」

「計算が合ってないんですけど。俺と店長、二人いるなら、残りは七人でしょ」

 頭が痛い。気が重い。

「何を言っている。私が体を動かす筈がないだろう。一、お前が残りの選手を集めろ。これは監督命令だ」

 血を吐くルール。

「……八人って。ん、あれ、三森さんたちには声掛けたんですか?」

「ああ、聞いた。だがな、あいつら酷いぞ。一も二もなく断りやがった。くそ、時給下げてやる。一時間三百円で働かせてやる」

「あの、俺も断りたくなってきたんですけど」

 つまり、北駒台店で馬鹿げた事に参加するのは自分しかいないのである。モチベーションも何もなかった。

「断ったら毎日耳元で愛してると囁いてやる」

「いっそ殺して」

「どこまで失礼な奴なんだお前は。まあ、良い。とにかくオンリーワンの面目を保つ為にも八人集めてこい」

「明日の昼までに、ですよね?」

 一はバックルームに掛かった時計に目を向ける。現在、時刻は午後一時過ぎ。おおよそ、残り二十四時間で草野球の面子を揃えなければならない。

「もし集まらなかったら……?」

「やる前から不安を口にするな。だが、まあ、そうだな。九人揃わなければクビにでもするか」

「……誰を、ですか?」

「聞きたいか?」

 アルバイト、探そう。

 一は私服に着替え、店を飛び出した。彼の目尻からはきらきらしたものが光っていたという。



 野球。ベースボール。

 ここで多くを説明するまでもなく、広く知れ渡っている球技である。さて、野球には細かいルールや巧みな戦術、試合を引っ繰り返す豪快な一発、打って走って守ってと、様々な魅力が詰まっている、の、だが。大前提として、最低でも一チーム九名の選手が必要なのだ。

 ――九。

 人間とは、七以上の数をパッと見て認識出来ない生物である。八以降は九でも良いし、たくさんと形容しても良いのだ。

 つまり、一が集めなければならないのは休日の麗らかな昼下がりから、相手すらも分からない草野球に興じてくれる人間である。たくさんの馬鹿を集めなければならないのだ。

「無理やな」

「ちっとは考えてくれよ」

 とりあえず、一は一度アパートに帰った。そこで、何故か彼の自室で寛いでいた半同居人、歌代チアキを勧誘してみたのだが、

「無理ったら無理。幾らししょーの頼みでも聞かれへんもんは聞かれへん」

 けんもほろろに断られてしまう。

「なあ、頼むって。八人集めなきゃクビになっちまうんだよ」

「ふーん。そしたら二人で商売でも始めよか」

「商売?」

「くふふ、ラーメンの屋台でも引こか」

「……楽しそうだけど、却下な。つーか駄目なら駄目で理由ぐらい聞かせろよ」

 チアキはこたつに寝そべりながら剥いたみかんを口に運ぶ。

「んー、明日日曜日やん」

「ああ、そうだな、日曜日だな」

「なんで休みの日に昼から起きんといかんの?」

「てめぇ、毎日が日曜日のくせに!」

「馬鹿にすんなや! まだ曜日の感覚ぐらい残っとるわ!」

「ギリギリじゃねえか!」

 しかし、一にも彼女の気持ちが痛いほど分かっていた。休日に、いや、休日でなくとも好きでもない事の為に体を動かしたい筈もない。

「野球、嫌いなのか?」

「好きやで。けど、うちが好きなんは見る方やからなあ。見てるのと実際にやる好きってまたちゃうやんか」

「じゃあ、野球経験は?」

「あらへん。やろうとも思わへん。いやー、師匠残念やったなー、うちがエースで四番やったら助けたんのにぃ」

 チアキはへらへらと笑って一の肩に手を乗せる。

「弟子とかもう言ってるだけだよな。師匠の危機に駆け付けない奴は破門だ破門」

「せやかて師匠、最近おもろい事言うてくれへんやん。師匠やったら弟子に稽古ぐらい付けてくれてもええんとちゃう?」

 確かに。最近はチアキを放置していたかもしれない。一は腕を組み、咳払いをしてからおもむろに口を開いた。

「うむ。では一つ聞かせてやろう。これは俺の友人から聞いた話なのだが……」

「師匠って友だちおったっけ?」

「話の腰折るんじゃねえよ。リアルで折るぞ馬鹿弟子が」

 もう一度咳払い、一は気を取り直して話を再開する。

「どうやら、関西人はオチのある話を好む傾向にあるらしい。と言うより、オチのない話を許さないらしい」

「なっ……! そんなん無理に決まってるやろ!」

「ああ、どんだけストック用意してんだって話だよな。だが――事実だ」

 チアキの息を呑む音が部屋に響いた。その音を合図に、一は再び口を開く。

「俺の友人、便宜上Aとしておこう。Aは生まれも育ちも関東で、Aの友人、そうだな、便宜上Bにしておこう。Bは関西出身だった。彼らは顔を合わせては会話に花を咲かせるのだが、主導権はもっぱらBが握ってたらしい」

「ふんふん」

「ある日、Bが聞き役ばかりのAに話を振れと言ったそうだ。Aは突然のネタ振りに困ったが、最近犬を飼った話、学校に遅刻してしまった話など、身近に起こった事を一生懸命話した」

「ええ子やん」

「しかし、Bはその話を気に入らなかった。Aが話し終わった後、Bは冷たい口振りでこう言ったそうだ。『で、オチは?』 と」

「ふーん」

「おい、反応が薄いぞ」

 チアキは一に背中を向け、みかんを頬張りながらテレビを見ていた。

「師匠が話をしてやったってのにその態度はなんだ!」

 が、彼女は悪びれる様子もない。激昂して立ち上がった一を見る彼女の視線は、見上げている筈なのにどうしてだか、遥か高みから見下しているような、冷たい瞳である。そして一言。

「で、オチは?」

「え?」

「オ・チ・は?」

「……今ので、終わりです」

 チアキは鼻で笑い飛ばすと、みかんの皮を一の顔に投げ付けた。

「腕が落ちたなあ、なあ師匠?」

「返す言葉もございません……」

「まあ、ええわええわ、かまへんよ。おっしゃ、じゃあ一、たこ焼きとミックスジュース買うてこい」

 泣いてない。きっと、みかんの汁が目に沁みただけだ。



 野球のメンバーの確保は出来ず、弟子(みたいな存在)であるチアキにも叱責を受け、一は意気消沈した様子で部屋を飛び出していた。

「ごきげんよう。今日はたいそう暖かですね」

「え?」

 アパートを出ようとした時、一は後ろから声を掛けられる。

 振り返ると、上下黒のジャージを着た女性がいた。買い物帰りなのであろう、スーパーの袋をぶら下げている女性の容姿こそ、決して悪くはないのだが、化粧をしておらず、腰まで届く長い髪の毛を縛る事なく、更に、瓶底眼鏡が野暮ったい印象を醸し出していた。有体に言ってしまえば、勿体ない。

「慌てていらっしゃるように見えますが、お出かけになられるのですか?」

 しかし、一はこの女性を知っていない。完全に初対面で、紛う事なき見知らぬ人物。親しげに話し掛けられるような間柄ではないのである。

「……えーと」

 もしかして、同じアパートの住人だろうかとも考えるのだが、ここ中内荘に部屋を借りてから数年、初めて目にする人物である。

「どうかなさいました?」

「ああ、いえ……」

 警戒するも、盗人にしてはやけに丁寧だ。だがしかし、分からないモノからは逃げるが上策。一はひとまず、この場から立ち去ろうと決意する。

「少し急いでいますから」

「そうでしたの。ごめんあそばせ、引き留めてしまいましたね。では、いってらっしゃい、ウーノ」

「うーの?」

「お気に召しませんでしたか? にのまえはじめとは日本語で一とお書きになるんでしょう? その、お、お友達になるのでしたら、あだ名が必要だと……」

「ああ、数字のウーノ。イタリアでした――」

 言い掛けて一は気付いた。どうして女性は自分の名前を知っているのだろう。いつの間にあだ名で呼び合う関係になっているのだろうか、と。

「――じゃなくて、俺、自己紹介しましたっけ?」

「……? はい、お互いに」

「ええっと、それはいつ頃のお話でしょうか……」

「つい先日の事ではありませんか。それともあなた、私をからかっていらして?」

 誰だこいつ。育ちの良さそうな言葉遣いに野暮ったい格好。そんな女性に一切の心当たり、一にはない。

「からかってるのはそっちじゃないんですか?」

「……先に仕掛けたのはあなたでしょう。卑しい方、敬語なんかお使いになって。私の反応をご覧になるおつもりだったのではなくって?」

「なっ、なっ、なあっ!? 初対面なんですよ!? 失礼とは思わないんですかっ」

「しょっ……!?」

 女性の顔色が青くなり、みるみる内に赤くなっていく。

「ふ、ふふ……」

 そして、笑う。彼女から得体の知れない凄味を感じ、一は後退さった。

「初対面、初対面、初対面! なんと甘美な響きなのでしょう! ええ、ええ、よくってよ、よくってよ!」

「なっ、何がっ」

「私はまた裏切られたのですねっ、ああっ、あなただけは私のお友達と信じていましたのに!」

「……あれ?」

 ふと、一は既視を感じた。前にも似たような事があったような。そんな気がしてならない。

 泣き崩れる寸前の女性にも、覚えらしきものがある。姿こそ違えど、言葉遣い、滲み出る上品な佇まい。何よりも、彼女の根暗な思考回路が誰かを彷彿とさせた。

「……あのさ、もしかしてお前、アイネ?」

 ぱああっ。女性は音が聞こえてきそうなくらいの笑みを満面に浮かべると、涙をジャージの袖で拭った。

「やっとお気付きになられましたか。そう、私は、私こそが、もしかしなくてもあなたのお友達、アイネですわ」

「ああ、やっぱり……」

 女性の名はアイネ。アイネ=クライネ=ナハトムジーク。フリーランス『貴族主義』であり、破滅主義者であり、ちょっとネガティブな一の友人でもある。

「ああ、ああ、これがお友達同士のやり取りなのですね! マンネリを打破する為のウィットに富んだご挨拶! 文化とは本当に素晴らしいですわっ」

「いや、普通に分からなかったんだけど」

 出来の悪いミュージカルの、出来の悪い役者よろしくクルクル回っていたアイネの動きが止まった。

「だって格好が違い過ぎるじゃねえか。ほら、前はドレス着てたし、なんつーの? こう、髪型はくるくるって天元突破しそうなドリル頭で……」

「お友達ですから申し上げますけれど、ウーノ。あなた失礼千万どころか億万に値しますわ」

「誰が見てもドリルだよ」

「ロールですわっ! あれは手間暇掛けて一生懸命に……力作でしたのに」

「面倒ならやらなきゃ良いのに」

 アイネは恨みがましい目付きで一を見遣る。

「殿方とお会いするのですから、恥ずかしくないようにおめかししたのです。私だって、普段からああはならなくってよ」

「なるほどね。で、いつもはそういう格好な訳だ」

「……やはり、おかしいでしょうか?」

「おかしくないよ。別人みたいだったからさ、びっくりしただけ。アイネ、目が悪いのか?」

 一はアイネの掛けた分厚い眼鏡を指差す。

「視力に問題はありませんわ」

「へっ? だったらなんでそんなダサい眼鏡を……あ、いや、ごめん」

 アイネは首を振り、自らの眼鏡に手を遣った。

「構いません。私は重々承知しておりますから。この、お世辞にもファッショナブルとは呼べない眼鏡を」

「理由、聞いて良い?」

「……私が初めてこんな、こんな格好になった時、見てしまったのです」

「何を?」

 諦めたように深い溜め息を吐いた後、アイネはゆっくりと口を動かす。

「鏡、です。そこには貴族の面影一つない、気品など欠片もない、みすぼらしく、卑しい女が映っていました」

「はあ……」

「死のうかと。首を吊ろうかと。手首を切ろうかと。舌を噛み切ろうかと。ですが、私はそうはしませんでした。その代わりに、自分をもっともっと追い詰めようと……」

 自虐的過ぎる。ただでさえ気が重いのに、一の気持ちも彼女につられて重くなってきた。

「あー、話変わるけどさ。アイネ、野球って知ってる?」

「ヤキュウ? ええ、存じ上げておりますが」

「あ、もしかして経験があるとか?」

「さようでございますねえ……私ではお役に立てないかもしれません」

 アイネの口振りからすると、知ってはいるがやった事はない。そんな風に一は捉える。

「それじゃ仕方ないよな。んじゃ、またな」

「あの、何かありましたの? お話をうかがってもよろしいかしら?」

「ああ、実は……」

 折角の機会、誰かにもっと話を聞いてもらいたい。店長の横暴をつまびらかにしてやりたい。一は幾分か表現を誇張して、アイネに事情を説明した。

 彼の話を聞き終えたアイネは暫くの間何か考えていた様子だったのだが、

「たいそうお困りのご様子、よろしくってよ」

 柔らかに微笑む。

「よろしくって、野球やってくれるのか?」

「お友達の危機ですもの。全力を尽くしますわ」

「マジで!? ありがとう、すっげえ助かるよ!」

 メンバーが一人も見つからない事態を避ける事が出来た。一は飛び上がらんばかりに喜び、アイネの手を取って謝辞を述べる。

「……あ、ああああの」

「へ、何?」

「その、手を……」

 真っ赤になって握られた手を見つめるアイネ。一は事情を察し、彼女から急いで手を離した。

「あ、悪い。つい」

「さ、さようで。と、ところでウーノ、ヤキュウをするのにあたって、一つだけお尋ねしてもよろしいですか?」

「ああ、何なりと」

「その、髪を、髪を剃らなくてはならないのでしょうか?」

「はあ?」

 アイネは手を組み合わせて俯く。

「え? ヤキュウ選手は皆さん剃髪なさっているのでは?」

「……そりゃ高校球児とか、少年野球だけだよ。つっても、今頃になってまで坊主頭にしろって強要はしてないだろうけどさ」

「よくお見掛けするのですけれど」

「うーん。野球って古いからじゃないのかな。上の人たちの頭が固いから。日本って新しいもの好きなのに伝統とか慣習とかさ、変なところで古いものにこだわるんだよ」

「古き良き時代、ですわね」

「老害って言葉もあるけどな。ま、髪の毛は切らなくて良いよ。ほら、プロには髪の毛が長い選手も、染めてる選手もいるだろ」

「まあ、では私たちもプロですのね!」

「ただの草野球だよ……」

 一は疲れてきた。しかし、楽しそうなアイネを見ると強く否定も出来ないし、一度泣かせると宥めるのも面倒そうである。

「とりあえず、簡単なルールだけ覚えておいて欲しいんだけど。アイネ、打ったら一塁に向かって走るんだからな」

「ふふ、お気立てに難のおありな方で」

「ああ、今更だけどさ、アイネ、ここに住むんだ」

 一は中内荘を見上げた。

 寂れた外観。朽ちかけた壁。ここ駒台に、好き好んで住もうなどと考える者は滅多にいないボロアパート。

「本当にここで良いのかよ」

「ここが、良いのですわ」

「ふーん? まあ良いや、じゃあ、よろしくな」

「はい、喜んで」

 アイネの真意に気付ける筈もなく、物好きな奴もいたもんだと一は苦笑する。

「この辺りの店とか、大丈夫か?」

「はい、歌代さまに案内をしていただきましたの」

「そっか。そんで、晩ご飯の材料買ってきたん、だよな?」

「それが何か?」

 一は目を瞑って腕を組んだ。

「……料理、出来るの?」

 アイネは静かに微笑む。

「怒るなよ。だってさ、家事とか似合わなさそうじゃん」

「褒め言葉ですの?」

「そう受け取ってくれれば助かる。で、何々、何作るの?」

「水炊きですわ」

「水……嘘吐け! 水炊きなんて食べる筈ないだろ!」

「ウーノは召し上がりませんの? とっても美味しいのに」

 一だって水炊き自体は決して嫌いではないのだが、アイネの口から水炊きと聞くのに何故だか抵抗があった。

「もっとこう、もっとこうさあ! ブルジョアジーなもん食べてくれよ! 食べてて欲しい訳だよ!」

「ブルジョワ……」

「例えば、例えばキャビアとか! トリュフとか!」

「あの、そういったものは私の口には合わなかったので」

「食った事あんのかよう! 羨ましいなあ良いなあキャビア、一度で良いから見てみたいなあ。せめて匂いだけでも嗅いでみたいなあ。いくらの色が黒くなっただけなのかなあ」

 貧困である。色々と。

「まあ良いけどさー。あ、アイネ、今の話糸原さんにはするなよ。絶対襲われるから」

「……肝に銘じておきますわ」

「はーあ。そいじゃ俺行くわ。最低でも、後七人に声掛けなきゃいけないからさ」

「お忙しいのは良い事だと存じます。ご健闘をお祈りしますわ」



 果たして死者はどこに行くのか。

 果たして死後の世界などあるのか。

 果たして、死とは何を意味するのか。

 生きている以上、死からは決して逃れられないだろう。生きていく上で、死を思考する事は切り離せないだろう。

 しかし、である。国によって、宗教によって死への考え方が違うのなら、死に関しての様々な事柄を信じるも信じないも、人によるのだ。彼が信じていても、彼女は信じていない。この人たちが信じていなくても、あの人たちは信じている。つまりは、そんなもの。

 更に言えば、更に例えるならば、一という男は神を信じていない。三森という女は死後に関して全ての事を信じていない。

 そして、春風麗という女は、死神の存在を信じ切っていた。

 詰まるところ、ただ、それだけの話なのである。

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