それが義務だと言うならば
燃え盛る炎の中、飛び散る血の中、アイネは確かに見た。
『――――――!』
父が死んでいく様を、しっかりと、見届けた。
男は世界の終末を望んでいた。女は世界の終末を望んだ。
だから、男は女に付いていったのである。自分では成し得なかった夢を目の前にぶら下げられて、ふらふらと付き従った。
その先に、何が待ち受けているのかも知らないで。否、知っていたとして、男は――。
一の言い付け通りに振り向いたアイネは、レイピアを手から落とした。からん、と、乾いた音を立てて地面に落ちたそれに目もくれず、彼女の視線は。
「ちゃんと見ろよ。綺麗だとか、そんな感想はいらないんだ」
彼女の視線は街に向けられている。眼下に広がる駒台の街には、そこかしこから灯が立ち上っていた。押し迫る闇に立ち向かうかの如く、家路を急ぐ者を導くが如く。現世的なネオンライトが、アイネには酷く崇高なものに思える。
「綺麗です。それ以外に何を申し上げればよろしいんですの?」
「だから、上っ面で返事すんなって。アレを見てさ、もっとこう根本的な……」
「根本的?」
「欲しくないか、アレ?」
一が指差す先にも街がある。しかし、先刻とは違うものに見えた。人が波なら街は海、アイネは夜の海を連想する。さしずめ、海に点いた明かりは、夜空を瞬く幾万の星を映し出している鏡、と言ったところだろうか。
「……欲しい、ですか?」
「うん、欲しいと思う。つーか、俺たちはアレが欲しいんだ」
そうに決まってる。一はそう言い足して、言い切った。
「私も、アレが?」
人々が行き交う街の灯。誰かの帰りを待ち、団欒を共にする家々の灯。日常の灯。普通の、灯。
「駒台について何か知ってるか?」
アイネは何も知らない子供のように首を振った。
「あそこにはソレがいる。ソレがいるって事は勤務外もいる。フリーランスも一般人も、そうじゃない奴もたくさんいる。住んでてこんな事言うのはどうかと思うけど、おかしいよな、やっぱり」
屋根の上に座っている二人は、次から次に明滅する街の灯に目を細める。
「でも、あそこにいる人たちはそう思ってない。まあ、少しぐらいは色々あるけど、皆、それが普通になってるんだ。当たり前みたいに生活してる。ソレも、勤務外も、フリーランスも、そこそこに、だけど確かに生きていられるんだ」
「本当に、あなたは普通やそこそこ、それだけをお求めになりますの?」
もっと上を見ようとは、先へ進もうとは思わないのだろうか。
「普通ってのは意外と難しいんだよ。そんでも、お前が思ってるよりも簡単に手が届く」
「私でも……?」
「ああ。あそこなら、駒台なら受け入れてくれる」
こんな自分でも、こんなに汚れた自分でも。
途端、アイネの目から涙が溢れた。嬉しいからではない。悲しいからでもない。
「俺たちみたいなのはさ、きっと皆、あそこみたいに、ああいう風に混ざりたいんだ。一緒に、普通になりたい。だから、人外が多いんだと思う。寂しいから、仲間がいるからついつい寄っていっちゃうんだよ」
「私も、あの街で明かりを灯せるのでしょうか?」
「……え?」
世界に絶望していた。世界を憎悪していた。でも、本心では、心のもっと深いところでは期待していた。見知らぬ誰かが手を差し伸べてくれるのを待っていた。誰でも良い、救い上げて欲しかった。この世界で裏切られ、手酷く扱われても尚、期待していた。
「……私、本当はあなたの事を存じ上げておりました」
「俺を?」
「フリーランスとしてやってきた時、この街の勤務外について色々と……その。それで、あの、誠に勝手な話だとはお思いになられるでしょうけど、あなたは、私と良く似ていらっしゃる、と」
正直に話すのが恐い。一は見ず知らずの自分を親切にしてくれた。彼を裏切るのが、アイネにはどんな事よりも恐ろしく感じてしまう。
「あー、まあ、俺は気にしないけど。俺たちが似てるってのは何となく分かるんだし」
「本当に、ごめん、なさい……」
興味の湧いた相手を付け狙うなんて、変質者か偏執狂の領域である。自らを深く恥じ、浅ましくも、出来るならば許されたいと思った。
「あー、ちなみにさ、いつから俺を? もしかしてヤマタノオロチが駒台に出た時から?」
「え、ええ。その通りですわ」
「……やっぱり」
「やっぱり?」
「あ、ああ、そんぐらいから人が増えたからさ。時期としてはやっぱりそこかなあって」
あからさまに取り繕った笑みを見せる一だが、アイネは、嫌っている相手に笑顔は見せない筈だ、だから大丈夫、きっと自分を許してくれている! と、結論を出すので精一杯だったのである。
「深くは考えないようにしとくよ。だからアイネも気にしないでくれると助かる」
言われるまでもない。何度も頷き、人知れず安堵の息を吐く。
「……良し、それじゃあ帰ろうぜ」
帰る? どこに帰ると言うのか? アイネは立ち上がれず、一を見上げた。
「今日は俺の知り合いんちに泊まれば良いよ。そうだな、明日から住むところを探そうか」
――駒台に住む。
アイネにとって、人外にとっては願ってもみない、願いすらしない、魅力的な提案だった。一つどころに落ち着ける希望が、降って湧いたのである。
「……あ、あの、でも」
「ああっ、知り合いっつってもノーマルな女の子だから平気だよ。がらがら声で、変な喋り方するけどさ」
「そういった事ではないのです。私、本当にあの街で暮らしても良いのでしょうか……」
「じゃあ、誰に許可を取るつもりだよ? 良いんだよ、普通に生きてくだけなんだから。誰にも文句言わせないし、誰も気にしないって」
「本当、に? 本当に私だけが幸せになっても……?」
復讐を誓った。父に、母に、死んでいった者たちに、他ならぬ自分自身に。
家族を焼かれ、故郷を焼かれ、尊厳は犯され、憎悪に身を焦がした。
死んでしまう。消えてしまえ。こんな世界、終わらせてやる。
そう思ったのは事実だ。紛れもない、誤魔化しの利かない厳然たる、確固たる思いは今でも胸の内にある。
同時に、救われたいとも思っていた。否、今も思っている。復讐するべき相手もおらず、ただただ暗い感情に身を任せてきた。心は磨り減り、体は『貴族』として暮らしていた時期に比べれば著しく変貌した。人を外れた身に堕ち、人々からはフリーランスと――『貴族主義』と罵られる。
「……でも、でもっ」
一人で世界の悪意と向き合うには、アイネはまだ幼過ぎた。彼女が苦汁を舐め続けて来たのは――。
「でも、お父様はソレの牙で五体を噛み砕かれました! お母様はソレの爪に四肢を引き裂かれたっ! あいつらがっ、あいつらが戦えと言うから!」
今でも思い出せる。まだ焼き付いている。アイネ=クライネ=ナハトムジークが終わってしまったあの日を。
「何よりも、誰よりも許せないのはっ、私なのです! 皆、皆皆皆っ、皆が私を逃がす為に戦った事が許せないっ、私だけが幸せに生きていけるなんて、思うだけでも許されてはいけないのです!」
惨たらしく殺された。呪いを吐き続けながら食い殺された。生きながら、死をまざまざと見せ付けられた。頭を割られた。胸を貫かれた。足をもがれた。腕を引き千切られた。顔を抉られた。肉を焼かれ、骨を燃やされた。何度も助けを求めた。祈りを捧げた。しかし神は降り立たず、悪魔だけが街に足跡と爪痕を残した。食い、飲み、大いに楽しみ、宴に興じていた。関係なかった。家族も、友人も、自分を犯し抜いた者たちも、ただ、そこにいただけで命を奪われた。
なのに、自分だけはまだ死なないでいる。何もないのに、おめおめと生き長らえている。
そこにいた誰よりも多くの生を見届けながら、死を見ていながら、憎悪を受けながら、それでも死にきれないでいる。
「あの日から、私が今日まで生き恥を晒し続けてきたのはっ、未練がましくも世界にこだわり続けたのはっ、悪魔の采配なのです! 神はどこにもおられません、どこにも降り立ちません。私は、復讐の悪魔によって生かされました。世界の終末を成し遂げられなかった今、この身と魂を悪魔に捧げるしかないのです」
やはり、自分は生きていてはいけないモノなのだ。アイネは一に向き直り、ゆっくりと言葉を紡いでいく。
「私を殺して」
一時でも、ほんの一瞬でも幸せなど望んではいけなかった。望む事すら許されなかった。
「違うよ。いや、神様なんかいないってのには賛同するけど、悪魔がアイネを生かしたなんて、俺は認めない」
「……殺してと申し上げた筈です」
「アイネ、お前はさっき自分で言ったじゃないかよ。生かしてくれたのは誰なのかってさ」
――やめて!
復讐すら、何かを憎む事すら満足に出来なかったこの身など必要ない。
「殺して」
「お前は悪魔に助けられたんじゃない。家族に助けてもらったんだ」
「殺して、殺してっ」
――もうやめて!
「皆、意味もなく殺された訳じゃない。理由もなく、誰かに何か言われただけで死にに行く筈がない」
「殺してっ! 殺してよ!」
「皆お前を助けたかったんだ。皆が皆死んだとしても、お前だけは生かしてやりたかった。なのに、お前は殺してくれって言うのか? 繋いでもらった命を捨てるって言うのか?」
「ああああああああああっ! 殺してっ、殺して殺して殺して! もう殺してくださいっ、お願いだから!」
「……っ、親はっ!」
これ以上は聞きたくない。アイネは耳を塞いで絶叫するも、一は冷酷なまでに続ける。
「子供には生きて欲しいと思うに決まってんだ! 生きてるだけでも良い、出来るなら幸せになって欲しいって願うんだ!」
「あああああああっ!」
「そう思うのは、願うのはっ、子供を産んだ事に対する責任なんだ! だから、生かされたお前は生きなきゃならないんだよ! どうしてそんな事が分かんないんだよ!」
死んだ。たくさん死んだ。たくさん殺された。一の言葉は綺麗事でしかない。アレを一度でも見てしまえば、綺麗ではいられないのに。
「お前の親はこんなの望んでない!」
生きる目的も、意味も、貴族としてのプライドも失った。
「だったら! だったらどうすれば良かったの!? 私はこうするしかなかった、こうしないと生きていられなかった!」
それでも尚、世界にしがみ付いていたのは、『貴族』の名を捨てられなかったのは――。
『――――生きろ』
今でも、覚えている。忘れられる筈もない。
「死んだ奴が復讐してくれって言ったのかよ、親が苦しんで生きろって、そう頼んだのかよ。違うだろ」
『――――生きろ!』
何も言わなかった。誰も頼まなかった。自分勝手に、その場の感情に任せて解釈しただけだ。生きろと、その一言を捻じ曲げた。そうしないと、悲しみで潰れてしまいそうだったから。
アイネは気付く。今まで、自分は世界を憎んでいたのではない。逃げていたのだ。目を逸らし、耳を塞ぎ、心を閉じていたのである。――世界の、中で。
「でも死ぬしかないの! 私にはもう何もないっ、誰も助けてくれない! 全部、全部遅過ぎたんだからぁっ!」
「アイネ、俺と友達になろう」
「…………な、何、を?」
差し伸べられた手に、アイネは戸惑う。
「死にたくなかったんだよな? 世界なんて本当は終わらせたくなかったんだよな? 誰かに、傍にいて欲しかったんじゃないのか? だったら、まだ遅くないよ」
「……わ、私、私は」
「あ、同情とかで言ってるんじゃないからな。俺が、アイネと友達になりたいから言ってるんだからな」
今までアイネが生きてきたのは、自分勝手に解釈した、父の遺した言葉に縛られていたからだ。『貴族』を捨てきれなかったのは、父の見せた背中のような、貴族としての高貴な生き方に憧れていたからだ。
「私、は……」
世界にしがみ付いていたのは、もう一度――友達が欲しかったからだ。
こんなに簡単な事から目を逸らし続けてきた。だから、幸せを掴んでも良いのだろうかと、中途半端に伸ばした手が、宙をさ迷う。
「……私みたいな、こんな女が……」
「普通に生きるのが、遺された人の義務なんだよ」
一はその手を強引に握り締めた。久しく感じていなかった温もりに、アイネの涙腺がまた緩む。
「あなたと友人になって、この街で生きるのが、私の義務?」
「まあ、高貴な、とは言えないけどさ。駄目、かな、俺が相手じゃあ」
「いいえ、いいえっ。それが、それが義務だと言うならば」
世界が終わる。アイネ=クライネ=ナハトムジークの世界は今宵、終わった。明日からは、彼女にとって新たな世界が始まる。
これもまた、一つの終末なのだろう。
街の灯も少なくなった頃、屋根の上には、人影がまだ一つ残っていた。
「お疲れさまでした、と、私は見ます」
その影に重なるように降り立ったシルエット。
「よう、今日は悪いな。ここ、借りてたよ」
そう言って笑うのは一、
「今日はここからの眺めよりも、もっと素晴らしいものを見られたと、わたしはそう見ます」
彼に答えるのは、駒台に居着いているガーゴイルと呼ばれるソレだ。
「……あー、どこから見てたんだ?」
「ずっとですが」
「ずっと、か?」
「ええ、ずっとです」
しばらくの間、両者から声が出ることはなかった。
「ところで一さん、アイネさんはどちらへ行かれたのですか?」
「ああ、俺の住んでるアパートまで、一人で行ったよ」
「お一人で?」
「一人にしてくれってさ。なんか、泣いてる顔を殿方に見せるのはどーたらこーたら言ってた」
今更気にする事はないのにと、一はぼんやり思う。
「ま、今日は本当ありがとな。ガーゴイルのお陰で助かったよ」
「ストーカーの正体、ですか」
一は頷く。
彼は以前から、具体的にはヤマタノオロチが駒台から消えた時期から、得体の知れない視線、気配に悩まされていたのだ。最初は勘違いだと思っていたし、自意識過剰と笑われたくはなかったから、ストーカーがいると大っぴらには出来ないでいたのである。
それでも、ふとした時、何かに見られている感覚は拭えなかった。眠る時でさえ、安らかな気持ちにはなれなかった。
事態が進展したのは数日前、ガーゴイルから「ずっと前から、知らない人があなたの後ろにいます」と言われてからである。勘違いではなかった、本当に誰かが見ていたのだと安堵する反面、正体を突き止める事に対して恐怖を覚えた。しかし、このままでは何も解決はしない。相手には気取られないようガーゴイルに調査を頼み、遂に、ストーカーが誰なのかが判明した。
アイネ=クライネ=ナハトムジーク。フリーランス『貴族主義』。
彼女こそ、ここ最近一の精神を磨耗してきたストーカーだったのである。
『訴えてやる、そして勝ってやる!』
しかし、一が駆け込んだ警察署員の反応は冷ややかなものだった。挙句、男が調子に乗るなだの、ストーキングされるような顔じゃないだのと(この文章には誇張表現が含まれております)人格を否定され、彼は大いに傷付いたのである。ここに至っては、もはや自身でどうにかするしかない。向こうがこちらを調べているならばと、一もガーゴイルの力を借りてアイネの事を調べあげた。
『あらん限りの、必要以上の弱みを握ってこの街から追い出してやるぜ、がはは』
一の下種な企みは、彼女の過去に触れた瞬間霧消したのである。ああ、似過ぎていた。アイネは自分と、同じだった。昔の自分を見ているようで、一は久しぶりに嘔吐した。
「あんな可愛い子だとは思ってなかったけどな」
「一さんも男なら、冥利に尽きると見ますがね」
「……正直に白状すりゃ、うん、ちょっと嬉しかった」
相手の正体が分かったとはいえ、アイネは人外魔性のフリーランス。どうやって接触すれば良いのか、そもそもこちらの話を聞いてくれるのかすら怪しい。
「まさか向こうから来るとは思ってなかったよ」
「手間が省けたのでは?」
「結果的には、だけどな。今朝アイネの顔見た時、死ぬかと思ったぜ。いや、今日はビクビクしっ放しだったな」
偶然の産物か、神の悪戯か、もしくは悪魔の采配か。何はともあれ機会を逃す訳にもいかず、かと言って話も切り出せず、ただアイネに従うがまま街中を歩き回っていたのである。
「失せろストーカーだとか、次は警察に行こうとか、とっとと言えば良かったんだけど」
「楽しそうに見えましたよ、一さん」
「途中からはね」
似ていると、そう実感してからは違った。アイネから感情を引き出したいと――助けてやりたいと思い始めたのである。
「あいつさ、少し前までの俺とそっくりだったんだよな」
「そっくりと言うと?」
「一人が嫌なくせに近付くなってオーラ出してたり、友達や仲間が欲しいのに、手を差し出されてもパーンって弾きそうなところ」
「ほほう、流行りのツンデレって奴ですね」
「いやー、もう下火じゃねえの?」
「では、今は何が流行っていると一さんは見ますか?」
「…………喪服、かな」
また会話が止まった。
「ああ、忘れるところでした。一さん、例の種を見せてもらえますか?」
一はアイネから受け取った布袋の口を開け、掌に種を乗せる。
「これだ。黄衣も見た事ない種類のだから、もしかしたらとは思うんだけど」
「……ふうむ」
ガーゴイルは鈍色に輝く翼を振り、様々な角度から種に視線を送った。
「手に取れば?」
「感触に重きを置いていないですから。やはり、物事を判断するには何よりも、見るのが一番だと、わたしは見ます」
「そういうもんか。んで、どうだ?」
「長くこの世界を見てきましたが、こんな種は見た事がありませんね」
「そっか。お前が知らないってんなら、マジでトリフィドかもな」
今、自分が握っているのが世界を終わらせるかもしれない種ならば、世界とはなんて小さなものだろう。掌の微かな重みに、一はそう思わざるを得ない。
「……この種、アイネさんはどこから手に入れたのでしょうね」
「確か、薄汚いジーさんにもらったって言ってた気がする」
「ふうむ。一さんがわたしを頼ってくれるのは嬉しいのですが、実はわたし、植物には明るくないんです」
「え? あれ、そうなのか?」
意外な発言に一は目を丸くする。ガーゴイルなら何でも知っていると思っていたのだ。
「ですから、わたしがこの種を知らないのも仕方がないと見ます」
「じゃあ、これって、何の種なんだろ」
「……一つだけ心当たりが」
「ん、何?」
「梅干しの種です」
「うめっ……!?」
まさか、まさかまさか。一の思考がこんがらがる。日本人ではないアイネが知らなかったのならまだしも、黄衣でさえ知らないと断じ、一自身も見た事のなかった種が、トリフィドではなく、ただの、梅の種。
「……嘘だろ。あ、でも、そう言われたらそんな気がしてきた」
「日頃見ているものを改めて別の視点から見ると、案外違った風に見えがちですからね」
「俺たちは、梅干しの種に踊らされていたのか……」
「梅だけに酸っぱい話ですね」
「別に上手くないからな、今の」
一は軽く溜め息を吐く。
「なんか、どっと疲れたな」
「ええ、そのように見えますね」
夜の海を見ながら、一は頭を掻いて立ち上がった。
「そろそろ帰るわ」
「ああ、一さん。その種、もらっても良いですか?」
ガーゴイルは一の持つ布袋に視線を送っている。
「梅干しだぜ、これ」
「興味がありまして。よろしいですか?」
「まあ、こんなもんで良けりゃ」
「では、翼に結わえ付けてもらえますか?」
一は指示通り、ガーゴイルの翼に袋の紐を結わえ付けた。
「ありがとうございます」
「ん。じゃ、今日は色々とありがとな。お前には借りが出来たな、何かあったら言ってくれ。出来る範囲で力になるよ」
「いえいえ、では一さん、お休みなさい」
「ああ、お休み」
世界が終わる。
一の世界は今宵、終わった。明日からは、彼にとって新たな世界が始まる。
これもまた、一つの終末なのだろう。
街の灯も見えなくなり始めた頃、屋根の上には、影が一つ残っていた。
「さて、そろそろ行くとしましょうか」
翼の生えた影――ガーゴイルは駒台の街並みをしっかりと眼に焼き付ける。当分の間、この景色とはお別れなのだ。一つどころに留まる事など滅多になかったが、どうにもこの街は、彼の心を強く揺さぶる。
ガーゴイルは翼を広げ、一に結わえてもらった袋を見遣った。
「一刻も早く処分したいところです」
とりあえず、人のいない場所を探そうと決意する。差し当たり、海か、山か。長旅になりそうだが、致し方ない。こんなものが芽吹いてしまえば、世界は終わってしまうのだから。
一も、アイネも、黄衣も種の正体を見抜けなかったのは、ガーゴイルにとって、世界にとって僥倖と呼べた。こんな災厄の種を彼が持っていては、今頃世界が終わっていたかもしれない。
どうしてあの場面で嘘を吐いてしまったのか、ガーゴイルには分からない。今まで傍観者として、客観的に、感情を込めずに世界を見続けてきた。自分の意思を挟まずに、決して何とも思わずに。今になって、どうして。
「――ああ」
旅立つ前、もう一度街を見下ろした時に気付く。
自分は、この街が好きなんだと言う事に。
世界が終われば、駒台も終わってしまう。もしかしたら、そんな、人間めいた感傷がガーゴイルを動かしたのかもしれない。
「……では、行くとしますか」
翼をゆっくりと広げ、眼下の街に別れを告げた。それでも、出来る限りゆっくりと飛ぶ。別れを惜しむかのように、ゆっくりと、ゆっくりと。
次に出会うのはどんな街だろうかと思いを馳せ、ガーゴイルは目を瞑った。
月が照らし出す街。雪に埋もれた街。風が吹き荒れる街。
叶うなら、この街のように、良い人で溢れた、良い街でありますように。
闇が街の灯を侵食し切った頃、屋根の上には影一つとして残っていなかった。
ああ、こうしてまた世界が終わる。
ガーゴイルの世界は今宵、終わった。明日からは、彼にとって新たな世界が始まる。
これもまた、一つの終末なのだろう。
だが、誰か気付いていただろうか、ガーゴイルがぶら下げていた布袋に、穴が開いていた事に。