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24時間戦う人たち  作者: 竹内すくね
トリフィド
139/328

それが義務だと言うならば

 燃え盛る炎の中、飛び散る血の中、アイネは確かに見た。

『――――――!』

 父が死んでいく様を、しっかりと、見届けた。



 男は世界の終末を望んでいた。女は世界の終末を望んだ。

 だから、男は女に付いていったのである。自分では成し得なかった夢を目の前にぶら下げられて、ふらふらと付き従った。

 その先に、何が待ち受けているのかも知らないで。否、知っていたとして、男は――。



 一の言い付け通りに振り向いたアイネは、レイピアを手から落とした。からん、と、乾いた音を立てて地面に落ちたそれに目もくれず、彼女の視線は。

「ちゃんと見ろよ。綺麗だとか、そんな感想はいらないんだ」

 彼女の視線は街に向けられている。眼下に広がる駒台の街には、そこかしこから(ともしび)が立ち上っていた。押し迫る闇に立ち向かうかの如く、家路を急ぐ者を導くが如く。現世的なネオンライトが、アイネには酷く崇高なものに思える。

「綺麗です。それ以外に何を申し上げればよろしいんですの?」

「だから、上っ面で返事すんなって。アレを見てさ、もっとこう根本的な……」

「根本的?」

「欲しくないか、アレ?」

 一が指差す先にも街がある。しかし、先刻とは違うものに見えた。人が波なら街は海、アイネは夜の海を連想する。さしずめ、海に点いた明かりは、夜空を瞬く幾万の星を映し出している鏡、と言ったところだろうか。

「……欲しい、ですか?」

「うん、欲しいと思う。つーか、俺たちはアレが欲しいんだ」

 そうに決まってる。一はそう言い足して、言い切った。

「私も、アレが?」

 人々が行き交う街の灯。誰かの帰りを待ち、団欒を共にする家々の灯。日常の灯。普通の、灯。

「駒台について何か知ってるか?」

 アイネは何も知らない子供のように首を振った。

「あそこにはソレがいる。ソレがいるって事は勤務外もいる。フリーランスも一般人も、そうじゃない奴もたくさんいる。住んでてこんな事言うのはどうかと思うけど、おかしいよな、やっぱり」

 屋根の上に座っている二人は、次から次に明滅する街の灯に目を細める。

「でも、あそこにいる人たちはそう思ってない。まあ、少しぐらいは色々あるけど、皆、それが普通になってるんだ。当たり前みたいに生活してる。ソレも、勤務外も、フリーランスも、そこそこに、だけど確かに生きていられるんだ」

「本当に、あなたは普通やそこそこ、それだけをお求めになりますの?」

 もっと上を見ようとは、先へ進もうとは思わないのだろうか。

「普通ってのは意外と難しいんだよ。そんでも、お前が思ってるよりも簡単に手が届く」

「私でも……?」

「ああ。あそこなら、駒台なら受け入れてくれる」

 こんな自分でも、こんなに汚れた自分でも。

 途端、アイネの目から涙が溢れた。嬉しいからではない。悲しいからでもない。

「俺たちみたいなのはさ、きっと皆、あそこみたいに、ああいう風に混ざりたいんだ。一緒に、普通になりたい。だから、人外が多いんだと思う。寂しいから、仲間がいるからついつい寄っていっちゃうんだよ」

「私も、あの街で明かりを灯せるのでしょうか?」

「……え?」

 世界に絶望していた。世界を憎悪していた。でも、本心では、心のもっと深いところでは期待していた。見知らぬ誰かが手を差し伸べてくれるのを待っていた。誰でも良い、救い上げて欲しかった。この世界で裏切られ、手酷く扱われても尚、期待していた。

「……私、本当はあなたの事を存じ上げておりました」

「俺を?」

「フリーランスとしてやってきた時、この街の勤務外について色々と……その。それで、あの、誠に勝手な話だとはお思いになられるでしょうけど、あなたは、私と良く似ていらっしゃる、と」

 正直に話すのが恐い。一は見ず知らずの自分を親切にしてくれた。彼を裏切るのが、アイネにはどんな事よりも恐ろしく感じてしまう。

「あー、まあ、俺は気にしないけど。俺たちが似てるってのは何となく分かるんだし」

「本当に、ごめん、なさい……」

 興味の湧いた相手を付け狙うなんて、変質者か偏執狂の領域である。自らを深く恥じ、浅ましくも、出来るならば許されたいと思った。

「あー、ちなみにさ、いつから俺を? もしかしてヤマタノオロチが駒台に出た時から?」

「え、ええ。その通りですわ」

「……やっぱり」

「やっぱり?」

「あ、ああ、そんぐらいから人が増えたからさ。時期としてはやっぱりそこかなあって」

 あからさまに取り繕った笑みを見せる一だが、アイネは、嫌っている相手に笑顔は見せない筈だ、だから大丈夫、きっと自分を許してくれている! と、結論を出すので精一杯だったのである。

「深くは考えないようにしとくよ。だからアイネも気にしないでくれると助かる」

 言われるまでもない。何度も頷き、人知れず安堵の息を吐く。

「……良し、それじゃあ帰ろうぜ」

 帰る? どこに帰ると言うのか? アイネは立ち上がれず、一を見上げた。

「今日は俺の知り合いんちに泊まれば良いよ。そうだな、明日から住むところを探そうか」

 ――駒台に住む。

 アイネにとって、人外にとっては願ってもみない、願いすらしない、魅力的な提案だった。一つどころに落ち着ける希望が、降って湧いたのである。

「……あ、あの、でも」

「ああっ、知り合いっつってもノーマルな女の子だから平気だよ。がらがら声で、変な喋り方するけどさ」

「そういった事ではないのです。私、本当にあの街で暮らしても良いのでしょうか……」

「じゃあ、誰に許可を取るつもりだよ? 良いんだよ、普通に生きてくだけなんだから。誰にも文句言わせないし、誰も気にしないって」

「本当、に? 本当に私だけが幸せになっても……?」

 復讐を誓った。父に、母に、死んでいった者たちに、他ならぬ自分自身に。

 家族を焼かれ、故郷を焼かれ、尊厳は犯され、憎悪に身を焦がした。

 死んでしまう。消えてしまえ。こんな世界、終わらせてやる。

 そう思ったのは事実だ。紛れもない、誤魔化しの利かない厳然たる、確固たる思いは今でも胸の内にある。

 同時に、救われたいとも思っていた。否、今も思っている。復讐するべき相手もおらず、ただただ暗い感情に身を任せてきた。心は磨り減り、体は『貴族』として暮らしていた時期に比べれば著しく変貌した。人を外れた身に堕ち、人々からはフリーランスと――『貴族主義』と罵られる。

「……でも、でもっ」

 一人で世界の悪意と向き合うには、アイネはまだ幼過ぎた。彼女が苦汁を舐め続けて来たのは――。

「でも、お父様はソレの牙で五体を噛み砕かれました! お母様はソレの爪に四肢を引き裂かれたっ! あいつら(・・・・)がっ、あいつらが戦えと言うから!」

 今でも思い出せる。まだ焼き付いている。アイネ=クライネ=ナハトムジークが終わってしまったあの日を。

「何よりも、誰よりも許せないのはっ、私なのです! 皆、皆皆皆っ、皆が私を逃がす為に戦った事が許せないっ、私だけが幸せに生きていけるなんて、思うだけでも許されてはいけないのです!」

 惨たらしく殺された。呪いを吐き続けながら食い殺された。生きながら、死をまざまざと見せ付けられた。頭を割られた。胸を貫かれた。足をもがれた。腕を引き千切られた。顔を抉られた。肉を焼かれ、骨を燃やされた。何度も助けを求めた。祈りを捧げた。しかし神は降り立たず、悪魔だけが街に足跡と爪痕を残した。食い、飲み、大いに楽しみ、宴に興じていた。関係なかった。家族も、友人も、自分を犯し抜いた者たちも、ただ、そこにいただけで命を奪われた。

 なのに、自分だけはまだ死なないでいる。何もないのに、おめおめと生き長らえている。

 そこにいた誰よりも多くの生を見届けながら、死を見ていながら、憎悪を受けながら、それでも死にきれないでいる。

「あの日から、私が今日まで生き恥を晒し続けてきたのはっ、未練がましくも世界にこだわり続けたのはっ、悪魔の采配なのです! 神はどこにもおられません、どこにも降り立ちません。私は、復讐の悪魔(ディアブロ)によって生かされました。世界の終末を成し遂げられなかった今、この身と魂を悪魔に捧げるしかないのです」

 やはり、自分は生きていてはいけないモノなのだ。アイネは一に向き直り、ゆっくりと言葉を紡いでいく。

「私を殺して」

 一時でも、ほんの一瞬でも幸せなど望んではいけなかった。望む事すら許されなかった。

「違うよ。いや、神様なんかいないってのには賛同するけど、悪魔がアイネを生かしたなんて、俺は認めない」

「……殺してと申し上げた筈です」

「アイネ、お前はさっき自分で言ったじゃないかよ。生かしてくれたのは誰なのかってさ」

 ――やめて!

 復讐すら、何かを憎む事すら満足に出来なかったこの身など必要ない。

「殺して」

「お前は悪魔に助けられたんじゃない。家族に助けてもらったんだ」

「殺して、殺してっ」

 ――もうやめて!

「皆、意味もなく殺された訳じゃない。理由もなく、誰かに何か言われただけで死にに行く筈がない」

「殺してっ! 殺してよ!」

「皆お前を助けたかったんだ。皆が皆死んだとしても、お前だけは生かしてやりたかった。なのに、お前は殺してくれって言うのか? 繋いでもらった命を捨てるって言うのか?」

「ああああああああああっ! 殺してっ、殺して殺して殺して! もう殺してくださいっ、お願いだから!」

「……っ、親はっ!」

 これ以上は聞きたくない。アイネは耳を塞いで絶叫するも、一は冷酷なまでに続ける。

「子供には生きて欲しいと思うに決まってんだ! 生きてるだけでも良い、出来るなら幸せになって欲しいって願うんだ!」

「あああああああっ!」

「そう思うのは、願うのはっ、子供を産んだ事に対する責任なんだ! だから、生かされたお前は生きなきゃならないんだよ! どうしてそんな事が分かんないんだよ!」

 死んだ。たくさん死んだ。たくさん殺された。一の言葉は綺麗事でしかない。アレを一度でも見てしまえば、綺麗ではいられないのに。

「お前の親はこんなの望んでない!」

 生きる目的も、意味も、貴族としてのプライドも失った。

「だったら! だったらどうすれば良かったの!? 私はこうするしかなかった、こうしないと生きていられなかった!」

 それでも尚、世界にしがみ付いていたのは、『貴族』の名を捨てられなかったのは――。


『――――生きろ』


 今でも、覚えている。忘れられる筈もない。

「死んだ奴が復讐してくれって言ったのかよ、親が苦しんで生きろって、そう頼んだのかよ。違うだろ」


『――――生きろ!』


 何も言わなかった。誰も頼まなかった。自分勝手に、その場の感情に任せて解釈しただけだ。生きろと、その一言を捻じ曲げた。そうしないと、悲しみで潰れてしまいそうだったから。

 アイネは気付く。今まで、自分は世界を憎んでいたのではない。逃げていたのだ。目を逸らし、耳を塞ぎ、心を閉じていたのである。――世界の、中で。

「でも死ぬしかないの! 私にはもう何もないっ、誰も助けてくれない! 全部、全部遅過ぎたんだからぁっ!」

「アイネ、俺と友達になろう」

「…………な、何、を?」

 差し伸べられた手に、アイネは戸惑う。

「死にたくなかったんだよな? 世界なんて本当は終わらせたくなかったんだよな? 誰かに、傍にいて欲しかったんじゃないのか? だったら、まだ遅くないよ」

「……わ、私、私は」

「あ、同情とかで言ってるんじゃないからな。俺が、アイネと友達になりたいから言ってるんだからな」

 今までアイネが生きてきたのは、自分勝手に解釈した、父の遺した言葉に縛られていたからだ。『貴族』を捨てきれなかったのは、父の見せた背中のような、貴族としての高貴な生き方に憧れていたからだ。

「私、は……」

 世界にしがみ付いていたのは、もう一度――友達が欲しかったからだ。

 こんなに簡単な事から目を逸らし続けてきた。だから、幸せを掴んでも良いのだろうかと、中途半端に伸ばした手が、宙をさ迷う。

「……私みたいな、こんな女が……」

「普通に生きるのが、遺された人の義務なんだよ」

 一はその手を強引に握り締めた。久しく感じていなかった温もりに、アイネの涙腺がまた緩む。

「あなたと友人になって、この街で生きるのが、私の義務?」

「まあ、高貴な、とは言えないけどさ。駄目、かな、俺が相手じゃあ」

「いいえ、いいえっ。それが、それが義務だと言うならば」

 世界が終わる。アイネ=クライネ=ナハトムジークの世界は今宵、終わった。明日からは、彼女にとって新たな世界が始まる。

 これもまた、一つの終末なのだろう。



 街の灯も少なくなった頃、屋根の上には、人影がまだ一つ残っていた。

「お疲れさまでした、と、私は見ます」

 その影に重なるように降り立ったシルエット。

「よう、今日は悪いな。ここ、借りてたよ」

 そう言って笑うのは一、

「今日はここからの眺めよりも、もっと素晴らしいものを見られたと、わたしはそう見ます」

 彼に答えるのは、駒台に居着いているガーゴイルと呼ばれるソレだ。

「……あー、どこから見てたんだ?」

「ずっとですが」

「ずっと、か?」

「ええ、ずっとです」

 しばらくの間、両者から声が出ることはなかった。

「ところで一さん、アイネさんはどちらへ行かれたのですか?」

「ああ、俺の住んでるアパートまで、一人で行ったよ」

「お一人で?」

「一人にしてくれってさ。なんか、泣いてる顔を殿方に見せるのはどーたらこーたら言ってた」

 今更気にする事はないのにと、一はぼんやり思う。

「ま、今日は本当ありがとな。ガーゴイルのお陰で助かったよ」

「ストーカーの正体、ですか」

 一は頷く。

 彼は以前から、具体的にはヤマタノオロチが駒台から消えた時期から、得体の知れない視線、気配に悩まされていたのだ。最初は勘違いだと思っていたし、自意識過剰と笑われたくはなかったから、ストーカーがいると大っぴらには出来ないでいたのである。

 それでも、ふとした時、何かに見られている感覚は拭えなかった。眠る時でさえ、安らかな気持ちにはなれなかった。

 事態が進展したのは数日前、ガーゴイルから「ずっと前から、知らない人があなたの後ろにいます」と言われてからである。勘違いではなかった、本当に誰かが見ていたのだと安堵する反面、正体を突き止める事に対して恐怖を覚えた。しかし、このままでは何も解決はしない。相手には気取られないようガーゴイルに調査を頼み、遂に、ストーカーが誰なのかが判明した。

 アイネ=クライネ=ナハトムジーク。フリーランス『貴族主義』。

 彼女こそ、ここ最近一の精神を磨耗してきたストーカーだったのである。

『訴えてやる、そして勝ってやる!』

 しかし、一が駆け込んだ警察署員の反応は冷ややかなものだった。挙句、男が調子に乗るなだの、ストーキングされるような顔じゃないだのと(この文章には誇張表現が含まれております)人格を否定され、彼は大いに傷付いたのである。ここに至っては、もはや自身でどうにかするしかない。向こうがこちらを調べているならばと、一もガーゴイルの力を借りてアイネの事を調べあげた。

『あらん限りの、必要以上の弱みを握ってこの街から追い出してやるぜ、がはは』

 一の下種な企みは、彼女の過去に触れた瞬間霧消したのである。ああ、似過ぎていた。アイネは自分と、同じだった。昔の自分を見ているようで、一は久しぶりに嘔吐した。

「あんな可愛い子だとは思ってなかったけどな」

「一さんも男なら、冥利に尽きると見ますがね」

「……正直に白状すりゃ、うん、ちょっと嬉しかった」

 相手の正体が分かったとはいえ、アイネは人外魔性のフリーランス。どうやって接触すれば良いのか、そもそもこちらの話を聞いてくれるのかすら怪しい。

「まさか向こうから来るとは思ってなかったよ」

「手間が省けたのでは?」

「結果的には、だけどな。今朝アイネの顔見た時、死ぬかと思ったぜ。いや、今日はビクビクしっ放しだったな」

 偶然の産物か、神の悪戯か、もしくは悪魔の采配か。何はともあれ機会を逃す訳にもいかず、かと言って話も切り出せず、ただアイネに従うがまま街中を歩き回っていたのである。

「失せろストーカーだとか、次は警察に行こうとか、とっとと言えば良かったんだけど」

「楽しそうに見えましたよ、一さん」

「途中からはね」

 似ていると、そう実感してからは違った。アイネから感情を引き出したいと――助けてやりたいと思い始めたのである。

「あいつさ、少し前までの俺とそっくりだったんだよな」

「そっくりと言うと?」

「一人が嫌なくせに近付くなってオーラ出してたり、友達や仲間が欲しいのに、手を差し出されてもパーンって弾きそうなところ」

「ほほう、流行りのツンデレって奴ですね」

「いやー、もう下火じゃねえの?」

「では、今は何が流行っていると一さんは見ますか?」

「…………喪服、かな」

 また会話が止まった。

「ああ、忘れるところでした。一さん、例の種を見せてもらえますか?」

 一はアイネから受け取った布袋の口を開け、掌に種を乗せる。

「これだ。黄衣も見た事ない種類のだから、もしかしたらとは思うんだけど」

「……ふうむ」

 ガーゴイルは鈍色に輝く翼を振り、様々な角度から種に視線を送った。

「手に取れば?」

「感触に重きを置いていないですから。やはり、物事を判断するには何よりも、見るのが一番だと、わたしは見ます」

「そういうもんか。んで、どうだ?」

「長くこの世界を見てきましたが、こんな種は見た事がありませんね」

「そっか。お前が知らないってんなら、マジでトリフィドかもな」

 今、自分が握っているのが世界を終わらせるかもしれない種ならば、世界とはなんて小さなものだろう。掌の微かな重みに、一はそう思わざるを得ない。

「……この種、アイネさんはどこから手に入れたのでしょうね」

「確か、薄汚いジーさんにもらったって言ってた気がする」

「ふうむ。一さんがわたしを頼ってくれるのは嬉しいのですが、実はわたし、植物には明るくないんです」

「え? あれ、そうなのか?」

 意外な発言に一は目を丸くする。ガーゴイルなら何でも知っていると思っていたのだ。

「ですから、わたしがこの種を知らないのも仕方がないと見ます」

「じゃあ、これって、何の種なんだろ」

「……一つだけ心当たりが」

「ん、何?」

「梅干しの種です」

「うめっ……!?」

 まさか、まさかまさか。一の思考がこんがらがる。日本人ではないアイネが知らなかったのならまだしも、黄衣でさえ知らないと断じ、一自身も見た事のなかった種が、トリフィドではなく、ただの、梅の種。

「……嘘だろ。あ、でも、そう言われたらそんな気がしてきた」

「日頃見ているものを改めて別の視点から見ると、案外違った風に見えがちですからね」

「俺たちは、梅干しの種に踊らされていたのか……」

「梅だけに酸っぱい話ですね」

「別に上手くないからな、今の」

 一は軽く溜め息を吐く。

「なんか、どっと疲れたな」

「ええ、そのように見えますね」

 夜の海を見ながら、一は頭を掻いて立ち上がった。

「そろそろ帰るわ」

「ああ、一さん。その種、もらっても良いですか?」

 ガーゴイルは一の持つ布袋に視線を送っている。

「梅干しだぜ、これ」

「興味がありまして。よろしいですか?」

「まあ、こんなもんで良けりゃ」

「では、翼に結わえ付けてもらえますか?」

 一は指示通り、ガーゴイルの翼に袋の紐を結わえ付けた。

「ありがとうございます」

「ん。じゃ、今日は色々とありがとな。お前には借りが出来たな、何かあったら言ってくれ。出来る範囲で力になるよ」

「いえいえ、では一さん、お休みなさい」

「ああ、お休み」

 世界が終わる。

 一の世界は今宵、終わった。明日からは、彼にとって新たな世界が始まる。

 これもまた、一つの終末なのだろう。



 街の灯も見えなくなり始めた頃、屋根の上には、影が一つ残っていた。

「さて、そろそろ行くとしましょうか」

 翼の生えた影――ガーゴイルは駒台の街並みをしっかりと眼に焼き付ける。当分の間、この景色とはお別れなのだ。一つどころに留まる事など滅多になかったが、どうにもこの街は、彼の心を強く揺さぶる。

 ガーゴイルは翼を広げ、一に結わえてもらった袋を見遣った。

「一刻も早く処分したいところです」

 とりあえず、人のいない場所を探そうと決意する。差し当たり、海か、山か。長旅になりそうだが、致し方ない。こんなものが芽吹いてしまえば、世界は終わってしまうのだから。

 一も、アイネも、黄衣も種の正体を見抜けなかったのは、ガーゴイルにとって、世界にとって僥倖と呼べた。こんな災厄の種を彼が持っていては、今頃世界が終わっていたかもしれない。

 どうしてあの場面で嘘を吐いてしまったのか、ガーゴイルには分からない。今まで傍観者として、客観的に、感情を込めずに世界を見続けてきた。自分の意思を挟まずに、決して何とも思わずに。今になって、どうして。

「――ああ」

 旅立つ前、もう一度街を見下ろした時に気付く。

 自分は、この街が好きなんだと言う事に。

 世界が終われば、駒台も終わってしまう。もしかしたら、そんな、人間めいた感傷がガーゴイルを動かしたのかもしれない。

「……では、行くとしますか」

 翼をゆっくりと広げ、眼下の街に別れを告げた。それでも、出来る限りゆっくりと飛ぶ。別れを惜しむかのように、ゆっくりと、ゆっくりと。

 次に出会うのはどんな街だろうかと思いを馳せ、ガーゴイルは目を瞑った。

 月が照らし出す街。雪に埋もれた街。風が吹き荒れる街。

 叶うなら、この街のように、良い人で溢れた、良い街でありますように。



 闇が街の灯を侵食し切った頃、屋根の上には影一つとして残っていなかった。

 ああ、こうしてまた世界が終わる。

 ガーゴイルの世界は今宵、終わった。明日からは、彼にとって新たな世界が始まる。

 これもまた、一つの終末なのだろう。

 だが、誰か気付いていただろうか、ガーゴイルがぶら下げていた布袋に、穴が開いていた事に。

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