小さな夜に
闇があった。
黒よりも黒く、陰よりも暗く、夜よりも優しい闇があった。
「なあジィさん、あのガキヤんなくて良かったのかよ?」
漆黒と呼ぶには明る過ぎる世界の中、二つの存在が浮かび上がる。
「あの娘が種を蒔いた後なら構わぬ。尤も、その頃には女どころか誰も残ってはおらんじゃろうが」
「ああああ!? ふざけてんじゃねぇぞ老いぼれ、あんたは枯れてっからどうでもよさげだけどなあ、俺サマにとっちゃ女ってのは水と同じなんだよ! 分かるか! 分かるだろ! 分かってくれよ!」
白い外套を身に纏った小柄な老人に、アロハシャツを着崩した男が詰め寄った。
「知らん。それより、少し黙ってくれんか。ここにお主と二人でおるだけで吐き気がすると言うのに、耳元でがなられてはかなわん」
「そりゃこっちの台詞だっつーの! ちっ、折角戻ってきてやったってのに、いんのはジィさんだけなんだもんな。モリガンかヘルでもいりゃあ暇が潰れんのによー。あ、ヴィヴィちゃんでも俺サマ大歓迎」
アロハの男は体をくねらせながら、下品に笑う。
「ふん、腐り掛けや魔女はともかく、あの娘は主なんぞになびかんじゃろう」
「ジィさんってさー、いっちゃん下っ端のくせに生意気だよな。年寄りは敬うもんじゃねぇの?」
「ワシは神を信じておらんでな。主、ワシの目的を知らんかったか?」
「あー、あーあーあー、知ってる知ってる。悪魔を呼び出すんだろ? 悪魔なんかどーだっていーじゃねぇの」
老人は男を鼻で笑うと、地面、と、思しき場所に腰を下ろした。
「好きに言っておれ。それよりも、やっと交替してくれるのかのう? 皆好き勝手しおって。ここの守りはどうする気じゃ」
「するわきゃねぇだろ。俺サマは忙しいんだ。大体だな、こーんな国のこーんなトコに攻めてくる奴なんざいねぇっつーの」
「……ほう。忙しいときたか」
「おう! アメリカってのを落としたいからな、まずはリハビリ気分でここの奴らをぶっ殺すんだよ」
アロハの男は腕を組み、老人の隣りに腰を下ろす。
「お主、前はここなんぞに興味はないと言っておらんかったか?」
「興味はねぇよ。だからソッコー落としてソッコー次んトコに攻め入るっつーの」
「しかし、ここで暴れるとモリガンがうるさいと思うがの」
「ぎゃははは、知ったこっちゃねぇっつの。何か言ってきたらぶち込みまくって黙らせてやんよ」
浅慮どころか、思慮とは無縁の男に対して老人は溜め息を隠さない。
「勝手にするが良い。じゃがな、ワシの邪魔だけはするでないぞ」
「へいへい」
「……それとな、『王』が欠番を埋めに行くらしい。ここに、な」
「ああっ? マジかよ!? じゃあここを落としたらやべぇじゃねぇか!」
アロハの男は頭を抱えて意味の分からない言葉を叫んだ。
「あー、チクショウ。しゃあねぇな、今は準備だけにしとくか」
「くれぐれも、ワシと娘の邪魔をするでないぞ。種ですらまだ蒔かれておらんのじゃからな」
「あー、その種だけどよ。ガチで本物なのか? だとしたら、ジィさんやモリガンどころか、『王サマ』の目的すら達成出来ねぇんじゃねぇの」
老人は苦笑してから、
「心配はいらぬ。あの種はな――」
そう、告げた。
アイネ=クライネ=ナハトムジーク。
目を瞑れば今も思い出せる。彼女の脳裏にこびり付き、未だ網膜から剥がれ落ちない鮮烈な光景がある。
血と、火だ。
国が焼かれ、街が焼かれ、家が焼かれた。
皆死んだ。友人も死んだ。家族も死んだ。
何もかも、どれもこれも、全てソレのせいだ。
――貴族の血。
脈々と受け継がれた高貴な証は、体の中に今も流れ続けている。彼女が望んでいようがどうかお構い無しに、だ。
貴族制度や階級社会は形骸化しつつも、一つのモノとして残っている国もある。アイネはその国の生まれであった。
高貴な義務。全て多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。これは、貴族が自発的に『そうあるべき』と打ち出した責任ではない。無論、自分たちに許された自負だとも、自尊だとも声高に掲げる者もいる。
が、アイネはそう思わなかった。特権を持つ者に対して、持たない者が『そうあるべき』と貴族たちに社会的な圧力を掛けた結果が高貴な義務なのである。『貴族』と言う概念が廃れつつある現在でも守らなければならない。法的な義務はない。社会的な批判を浴びるだけだ。
耐え切れなかった。
ソレが出現して、その声は高まる。民衆は突き上げる。拳を振り上げる。
『ソレを倒せ』
『我々より前に出て戦え』
怨嗟の如く押し寄せる声に、アイネは唇を噛み締めた。
何をした。私たちが何をした。お前たちが何をしてくれた。持たざる者は持つ者に縋る。自分たちが何も出来ないまま殺されると分かっているからだ。本人たちが何もしないで死ぬのだと諦めていたからだ。――自分たちより裕福な者が憎かったからだ。
アイネの父は、その声に耐え切れなかったのである。
与える事も、与えられる事もなく。表立って賞賛される事も、非難される事もなく。
貴族たちはただ、突然と放り出された。
血の吹く嵐の中へ、肉が溢れる川の中へ。
充分な準備も整わないままに、大口を開けて待つ、死への顎へと飛び込んでいった。誰も彼もが、意味も分からないまま、意味もないままに命を散らしていった。
アイネの父も、母も、知り得る限りの親戚も、皆消えていく。
真赤な炎に包まれて、真赤な血飛沫を上げて食われていく。
狂騒は街を吹き抜け、国境を越えてまた新たな赤を生み出していった。
一晩で街は消え、やがて、アイネだけが廃墟に残されていた。戦場に出るには幼過ぎた彼女だけが、難を逃れたのである。
これで終わったのだと、アイネはそう思った。多大なる対価と、数え切れぬ犠牲。残されたのは、ちっぽけな命。
『お前のせいだ』
アイネが振り向いた先、数人の生き残りがいた。
しかし、彼女は喜べなかった。
負傷しながら、やっとの思いで立っている者たちの目は一様にこちらを向いている。獣じみた、ぎらついた輝きがアイネを怯えさせた。
『お前のせいだ』
耳朶を打つ声からは、生き残った喜びを共にしようという響きは感じられない。アイネは立ち上がる事もままならず、尻餅を付いて後ずさる。
――やめて。
声はどこにも届かない。
家族も、故郷も、尊厳も、何もかもソレに食い尽くされ、奪われた。守るべき筈の存在だった人々に蹂躙された。
全てに絶望し、憎悪し、嫌悪する。
男たちの慰み者になっていた彼女を救ったのは、皮肉な事にソレであった。何も、ソレがアイネを助けようとした訳ではない。腹を空かせたソレの近くにたまたま人間がいて、たまたまアイネが生き残っただけの話だ。
それでも、彼女はまた生き延びた。
意思もなく、目的もなく、空っぽの心と体を引きずって戦地を這いずり回る。貴族としての誇りなど、とうに失っていた。それでも、歩みは止められなかった。――アイネを支えていたのは、憎悪である。
国を潰したソレに対してではない。街を焼いたソレに対してではない。家族や友人を飲み込んだソレに対してではない。
憎悪の対象は、自分の尊厳を踏み躙った人間たちだった。
「おい」
「……あ、何か?」
三度目の呼び掛けでようやくアイネが一の方を向く。
「足が止まってるぞ。疲れたのか?」
「失礼致しました。先を急ぎましょう」
アイネは一の脇を素知らぬ顔で擦り抜けていった。その後ろを追い掛けながら、一は空を見上げる。
「なあ、世界ってさ、本当に終わるのかな」
「終わりますわ」
「でもさ、トリフィドが世界を終わらせるよりも先に俺たちが死んじゃったら?」
「それまでに死ぬつもりはありません。あなた、生き延びる自信がなくって?」
「ないね」
適当とも取れる口調ではあったが、アイネは気にしない様子だった。
「仮に生き延びたとして、本当に世界の終末を見届けられるかが不安だよ」
「……土壇場で。あなた、私を裏切るおつもりですか?」
「いや、別に。たださ、お前も考えた事はないか? 終わりって、どこなのかなーって」
アイネの足が止まる。
「この街が潰れたら? この国が滅んだら? 皆死んじまったら? 地球が消えちまったら? 違う気がすんだよな。多分、俺たちが生きてても死んでても世界ってのはあるんだよ」
「では、あなたは何を以てこれが世界の終わりだとお思いになるのですか?」
一は少しだけ考え――と、言うよりは、以前から用意していた台詞を演じるかのような素振りで、口を開いた。
「俺が死んだら。そこで俺の世界は終わりだよ」
「……あなたが消えただけでしょう。人間一人を置き去りにしたまま、世界は続いていきますわ」
「かもな。けど、そんなもんだよ」
「あなたは……」
それきり、会話は進まない。二人は黙々と足を運び、やがて、開けた場所へ出る。
「あら、ここは……?」
アイネの目が洋館に向いた。何か感じるものがあるのだろうか、彼女はしばらくの間、異国の建物を眺めていた。
「俺の知り合いの家。珍しいよな、こんなところにあるなんてさ」
一は言いながら洋館に近付いていく。
「ここも、ですか。お知り合いが大変いらっしゃるようですわね」
「そうかな。っと、誰もいないみたいだ」
建物の中を確認すると、一は近くの木に登り始めた。
「あなた、お気は確かですの?」
アイネには一が奇行に走ったようにしか見えなかったらしい。
「姫さまは見晴らしの良いところをご所望だと、そう伺っていたの、です、がっ」
ちょうど良い高さと太さの枝に足を掛け、一は洋館の屋根に飛び移った。
「ほら、こっち来いよ」
「……木登りなどと。そんなはしたない真似は……」
「剣を振り回すのは良いのかよ。良いから来いって。あ、まさか、高い場所が恐いとか?」
「…………よくってよ」
アイネは二三深呼吸を繰り返してから木に近付いていく。幹の強度を確かめるようにぽんぽんと叩くと、諦めたように深い息を吐いた。
絶景だと、素直にそう思えた。まだ自分にもこんな気持ちが残っていたとは、不思議で仕方ない。
「中々のもんだろ?」
得意げに笑う一も、大して気には障らなかった。
「ここが、この街で一番高いところですのね」
屋根の上に立ち上がってみると、街の灯りが眩しく感じる。アイネは目を細めて、ゆっくりと一の隣に座り込んだ。
「うわ、女の子みたいな座り方だ」
アイネは何も言わず一へ微笑み掛ける。
「ごめん」
「よくってよ」
「……なあ、種、蒔くのか?」
決まり切った事を聞かれて、アイネは眉根を寄せた。
「当然ですわ」
「そうか」
すぐ横で溜め息を吐かれては良い気などしない。
「何がおっしゃりたいのですか?」
「いや、お前さ、本当は世界なんか終わらせたくないんだろ」
そろそろ観光案内も終わりだ。この先彼女とどんな関係になろうとも、彼女がどうなろうとも言うしかない。世界を終わらせるなんて妄言を吐いて良いのは、絶対に彼女ではないのだから。
「こう言っちゃ悪いけどさ、全部嘘なんだろ」
絶句しているアイネを待たず、一は話を続ける。
「もしもその気があったんなら、お前はとっくに世界なんて終わらせてた。でも、そうはならなかったんだよ」
「……何を……」
「終わらせる筈の世界に居残り続けて、終わらせる筈の街を見て回ったのも、俺みたいな奴と一緒にいたのも、未練があったからじゃないのか?」
ぐっと、息を呑む音がどちらからともなく立てられた。
「私は……」
アイネは一の視線から逃れるように俯く。
「お前は、世界を終わらせるほどの器じゃないんだよ」
「私はっ」
「あのさ、世界を終わらせたいって思ってる奴は、そんな寂しそうな顔をしないんだよ」
弾かれたようにアイネが顔を上げた。
「もっとこう、ないんだ。寂しくもないし、嬉しくもない。空っぽな顔して、当たり前みたいに終わらせるんだと思う」
「わっ、私はっ、こんな世界……!」
「違うんだ。何もないから、世界に対して怒ったりもしない。お前はさ、本当は」
「やめて!」
これ以上聞きたくない。アイネは耳を塞いで頭を振った。
「期待してたんだ」
それでも、一は続ける。まるで自分自身に言い聞かせるかのように。
「違うっ!」
「お前がどんな酷いモノを見てきたのかも、どんな辛い目に遭わされたのかも俺には分からない。だけど、アイネ。お前は世界を終わらせられなかった」
「違う! 違うのっ!」
涙を流して訴えるアイネに一瞥をくれてからも、尚、一は続ける。
「本当は、誰かに分かって欲しかった。家族でも良い、友達でも良い、恋人でも良い。とにかく、誰かに傍にいて欲しかったんじゃないのか。お前はこの世界を憎み切れなかった。こんな世界にどこか期待してたんだ。明日はもっと……」
――良い日に、なりますように。
「……お願い、もう、やめて……」
振り絞った声は弱々しい。だが、一の耳朶を確かに打った。彼の心を確かに揺さぶった。
「言い過ぎたとは言わない。だけど、ごめん。そんで勝手な話なんだけど、早く泣き止んでくれないか?」
「……本当に、勝手な方ね」
一は頭をかいて苦笑する。
「勝手なのはそっちだった気がするんだけどな。折角の休み、駒台中引っ張り回されちまった」
「あ、その、私……」
「良いよ。ちょっと、あ、いや、正直楽しかったんだし」
今日は、ここに来た頃の自分では到底考えられないくらいの人物と出会えた。何よりも――――。
「可愛い女の子とデート出来て、嬉しかった」
「かわ、い……。わ、私が、ですの?」
「うん。って、自分でそんぐらい分かってんだろ」
「そんな……。わ、私のようなつまらない女……」
頬を染めて俯くアイネは、つい先程まで世界を終わらせると言っていたような存在には見えない。少なくとも一には、普通の女の子にしか見えなかった。
「どうして、お気付きになられたんですの?」
「ん、何が?」
「私が、本当は世界の終わりを望んでいなかった事、ですわ」
「あー、なんつーか、だから、その、アレだよ、可愛かったから、かな」
しどろもどろになりながらも、一はアイネの問いに答える。尤も、視線だけは合わせないように苦心しながらではあったのだが。
「そりゃあ、普通には笑わなかったり怒らなかったけどさ。そんでも充分、女の子してたと思うぜ。で、俺にはそんな奴が世界を終わらせたいとは思えなかった」
「……褒め言葉、ですの?」
上目遣いで尋ねられて、一は頷くしかない。
「お前の目的は知らないけどさ、良いんでないの」
「……?」
「だから、普通に暮らしたって良いんじゃないか?」
一は、アイネの過去を知らない。彼女について、何一つとして知らない。
「私は、世界から見捨てられたのだとばかり。ずっと、そう思っていました。でも、違っていたのですね」
同様に、アイネも一の過去を知らない。彼について、何一つとして知らない。
「……きっと、私が世界を見捨てていたのですわ。心のどこかで期待していながらも、いざ救いの手が差し伸べられて、恐かったのです」
「見捨てられるのが?」
「それもありますわ。ですが、何よりも、憎悪に焼いていたこの身が変わるのが恐かった。自分一人だけが幸せを掴もうなんて、許したくはなかった」
二人は互いの事を何一つとして知らない。ただ一点においてのみ、分かり合っていただけなのだ。
「自分が幸せになったら、死んじまった家族に申し訳が立たない。でも、普通に生きていくだけで文句を言われる筈もなけりゃ、誰かに後ろ指を指される心配もない」
「勿論、分かっています。ただ、私にはそんな簡単な事が出来なかった。あなたは、出来た。それだけの話ではなくって?」
アイネは一に背を向けて、ゆっくりと、この時間を噛み締めるように立ち上がる。
「……あなたには、申し上げた通りの終末をお目に掛けられませんでしたね」
一にはアイネが今から何をするのかが分かっていた。
「気にしなくて良いよ、そんなの」
「今日は楽しかったですわ。ふふ、勝手な話かとはお思いでしょうけれど」
「なあ、そっち行くと危ないぞ」
アイネは屋根の縁ぎりぎりで足を止めると、スカートに手を突っ込んだ。
「迷惑な話ですけれど、あなたには是非、一つの終わりを見届けていただきたいのです。相手もいないのに、無意味な復讐に身を焦がした、一人の人間の終末を」
落ち掛けた陽の光を受け、レイピアの刀身が鈍く光る。
「俺、スプラッタは駄目なんだけど」
ここで、アイネを終わらせるのは簡単だ。このまま何もしないで、顛末を見届ければ良い。
「お願い。もう、私には何もなくなってしまったの。分からなくなってしまったのよ。ねえ、あなたならお分かりになるでしょう。支えを失ったモノが、どうなってしまうのかを」
「……やめろってば。死んでも意味ないぞ」
一の言葉を無視して、アイネは自らの喉元に刃先を突き付ける。
「では、どうしろとおっしゃるのですか? 私には帰るべき国も、頼るべき者もいないのです。私の悉くを塵に帰したモノ、ソレさえも憎めなかった私に、何をしろと?」
「何もしなくて良いんだよ。普通に暮らしてりゃそれで良い。俺だけじゃなくて、多分、お前の親がここにいたとしてもそう言うよ」
「死人は口を利きませんわ」
その通りだった。だが、一は怯まない。アイネをこのまま死なせたくない。
「……分かったよ。じゃあ、最後に一つだけ頼みがある」
「死に逝く者に託す事があると、あなたはそうおっしゃるおつもりですか?」
「後ろ、見てくれ」
訳が分からないままに、アイネは振り向いた。
最近、一人でいるのが妙につまらなくなった。寂しくなったと言い換えても、差異はないと思える。
「……くだんね」
物思いに耽りながら、三森は自室のベランダへと出た。銜えていた煙草に火を点けると、緩やかに紫煙を吐き出していく。
「似合わん顔だな、三森冬」
三森は煙草を吐き出した。
「……てめェ、誰に断って私の部屋にきやがったンだ?」
「誰に口を利いている。私はオンリーワン近畿支部情報部二課実働所属、春風麗だぞ。好きな状況は二死満塁。嫌いな状況は一死一、三塁。好きな球種はターミネーター。嫌いな球種はプレデター。パシフィックよりもセントラルが…………何故止めない?」
ベランダの柵に立つ春風は、突然現れた事に対して詫びもせず不満を露にする。
「いや、止めなかったらいつまで喋るンだろうなって」
「ふん、悪趣味な奴だ」
「うるせェ。スパイダーマンみたいなポーズ取ってないでそっから退きやがれ、目障りだ」
「そうか」
春風は気にした風もなくベランダに足を置いた。
「こんな時間に何の用だよ? くだらねェ用事だったらぶちのめすぞ」
「三森冬、貴様の顔を見たくなったのでな」
瞬間、三森は拳を繰り出す。その所作からは一切の情けが見当たらない。
が、彼女の拳は誰もいない空間を食い破るに過ぎなかった。
「相変わらず血の気の多い奴だ」
春風は再びベランダの柵に陣取っている。
「いつかてめェの仮面引き剥がしてやる」
「それよりも三森冬、先程面白いものを見たぞ」
「私は今まさに面白いもんを見てるけどな」
三森は吐き出してしまった煙草に目を遣ってから、新しいものを口に銜えて、
「一一と見知らぬ女が街を歩いていた。何やら、駒台山の方へ向かっていたな」
落とした。
「…………風がつえェな、今日は」
「そうか?」
「そうなんだよっ、つーか、そンなの私に関係ねェだろうが。あいつがどこで何してようが知りたくもねェよ」
「そうか。では、その相手がフリーランスだとしてもか?」
流石に、三森の表情が変わる。
「『貴族主義』。名前ぐらいは聞いた事があるだろう。鞭とレイピアを操る破滅主義者だ」
「今まで動かなかったと思えばこれかよ。畜生、毎度毎度大凶引き当てやがってあの野郎、どこまで迷惑掛けやがンだ」
「迷惑ではなく、心配の間違いではないのか?」
「ちっ、ちげェよ! 間違ってないっつーの、馬鹿じゃねーかお前」
「私は心配だがな」
時間の流れが凍り付いたように、三森には感じられた。
「……冗談だよな?」
「……当たり前だ。心配と言えば、奴らの相性が合っている事ぐらいだな」
「あ、相性……?」
「何を狼狽えている。三森冬、貴様は気付いていなかったのか、一一の異常性に」
「異常だァ? あいつは別に、普通だろ」
春風は笑う。彼女という人間を良く知っていない限りは分からない、僅かな変化ではあったが。
「貴様がそう思うのならそれで良い。だがな、一一には気を付けろ」
「何が言いてェんだ」
「……奴は普通じゃない。奴は、人を動かす。変えるんだ。必ずな。一一が望んで、望んだ方に仕向けているのかどうかは分からん。しかし、私は恐い。一一が恐い」
「恐い? あいつが?」
買い被りも良いところだと三森は春風の言葉を鼻で笑う。
「現に私は変えられた。いや、現在進行形で変えられている。三森冬、貴様はどうだ? 一一と出会ってから何か思うところがあるのではないのか?」
「ねェよ。私は私だ。誰にも変えられやしねーよ」
「……そうか。では、私は帰るとしよう。そろそろアニメの始まる時間だからな」
春風は言いつつも、何故かその場を動かない。彼女の視線は三森の部屋のある一点に注がれていた。
「あ? 帰るンならさっさと帰れよ」
「良いテレビだな」
「……あ?」
「なんでもない」
風が吹く。夜風に紛れるかのように、いつの間にか春風は姿を消していた。
「……テレビ、だァ?」
三森は釈然としないままベランダを後にする。部屋に戻って、何の気なしにテレビの電源を入れた。アニメが始まっている。頭を空っぽにしていても見られそうなアニメ。これが春風の言っていた番組だとは容易に想像が付いた。
自分は変わったと、春風は言っていた。三森から見ても、それは偽りのない事実である。以前なら、自分たちと一が出会う前なら、あんな風にベランダで二人で話をする事もなかった。
「あいつ、テレビが見たかったのかな」
灰皿を引き寄せ、煙草に火を点ける。
変わったと言うならば、自分はどうなのだろうと、三森は改めて考えを巡らせた。
春風は変化を恐れている。良くも悪くも、などは関係ない。単純に、彼女はあの日から動くのが恐いのだ。目を背け、忘れてしまうのが許せないのだ。
――私は?
考えても考えても答えは出ない。しかし、存外に悪い気はしていなかった。
「けっ、つまンねェの」
テレビに悪態を吐きながらも、三森は結局チャンネルを変えなかった。