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24時間戦う人たち  作者: 竹内すくね
トリフィド
137/328

トリフィドの日が来たら二人だけでも死ぬ

 寂しい。だけど目は反らしたくない。

 苦しい。だけど物言わぬ貝になりたい訳ではない。

 虚しい。だけど足を踏み出すつもりはない。

 欲しいものがあった。持っていたものを根こそぎ奪われても尚、手にしたいものがあった。

 長い旅路の果て、力を得た。その内人外と呼称され、奪われたものは取り返せないと知る。

 気の遠くなる道程の先、欲しいものを忘れていた。自分以外の全てを憎み、周囲のもの悉くを蔑んだ。

 何も映さなくなった網膜が最後に焼き付けたイメージ。消えてしまえ。壊れてしまえ。世界なんて信じられない。何もかもが虚偽に彩られ、虚像が踊って虚言を吐いて回るのだ。

 終わってしまえ。



「……アイネ?」

 自分の後ろを歩くアイネの様子がおかしい事に気付き、一は立ち止まって声を掛けた。

「疲れたのか?」

「いえ、あなたこそお疲れではありませんの?」

「いや、大丈夫だよ。……あー、それよりさ……」

 気掛かりと言えば、アイネの所持している種、である。世界を終わらせる種と言われても俄かには信じられない。種であるなら植物に間違いないだろうと思ってナナに尋ねてみたのだが、芳しい話は聞けなかった。

「見せてくんないかな、あの種」

「さようでございますねえ……」

 嘘だとは思えない。荒唐無稽の極地にもある話だが、彼女は嘘を吐いていない。吐く気がないのだと思った。

「もしかして、嘘、なのか?」

「……よろしくってよ。そうですわね、あなたは私の共犯者でしたわ」

「は、土壇場で裏切るかもよ? やっぱり世界を終わらせるなんて良くないっつってな」

「ふふ、有り得ませんわ」

「この短時間で随分と信頼されたもんだな」

 一は自嘲気味に笑う。

「信頼とは違いますわね。程遠いと申し上げても相違はないように存じます」

 その笑みを受け、アイネもまた口元を緩めた。

「魚が海を泳ぐように、鳥が空を飛ぶように――あるいは、寒くなれば体が震えるように、熱くなれば喉が渇くように。そう言い換えた方があなたにはお似合いかもしれませんわね」

「意味が分からないんだけど」

「あなたはそう出来ていると申し上げたのですわ。私と同じように、と」

 髪をかき上げると、アイネはスカートに手を伸ばす。その手が再び一の視界に収まった時、彼女は布袋を握っていた。

「どうぞ、ご覧になって」

 一はすぐ傍にいるというのに、アイネは彼の真上に袋を放り投げる。

「だっ、おいっ」

 不細工な格好で袋をキャッチすると、一は恨みがましい視線をアイネに送った。

「……はしたないぞ」

「お許しあそばして。それよりも中身を、ほら」

「あいよ」

 中に何が入っているか分からない。もしかしたら手を入れた瞬間、食い千切られるかもしれない。一は慎重に袋の口を開け、腰が引けた状態で覗き込む。

「用心深いお方ですのね」

「素直に臆病と言え……あ?」

 小さなものが一の手に当たった。かすかな感触にさえ血の気が引きつつ、一つ摘み上げてみる。

「うわ、本当に種なのな」

 手に取ったそれは真っ白く、楕円形。植物の種と言えばひまわりか、もしくはヒヤシンスぐらいしか見た事のない一にとっては、これが何の花を咲かせるのか判断出来ない。

「これが世界を終わらせる種なのか?」

「さようでございます。トリフィドをご存知ですか?」

「とりふぃど? いや、初耳だな」

「……意外ですわね」

「は? どうして意外なんだよ?」

 一の問いには答えず、アイネは彼の手から種を取り上げた。

「ご存じないのなら、それで構いませんわ。もう間もなく、あなたは世界の終わりをご覧になられるのですから」

「そりゃ楽しみだ。んじゃ、とっとと蒔こうぜ」

「では、この街で一番高い場所へ案内してくださいますか?」

「……高い場所? 構わないけど、なんでまた」

 一がそう言うと、アイネは挑戦的な笑みを零す。

「良いものは良い場所から。世界の終わりだなんて、一生に一度しか見られない素晴らしいショーなのですから、特等席でじっくりと、拝見させていただきたい。……うふふ、ね、そうは思わなくって?」

 なるほどと一は得心した。

「だったら大学の裏手にある山だな」

 一はその方角を指差して、持っていた袋をアイネに返す。

「…………」

 指が触れ合った時、気付いた。

「どうかなさいまして?」

「いや、なんでもないよ」

 手袋越しでも分かる。彼女の手は震えていたのだ。武者震い、なのだろうか。それとも――。



 駒台山へ向かうまでの、人通りの少ない道にて。

「英雄色を好むとは言いますが」

 会いたくない時に限って会う。こちらが望んでいる時には出会えない。万事が上手くいくとも思っていなかった。今日は千客万来である。もしかしたらと一は覚悟していたのだが、いざ彼女と顔を合わせると何も言えなくなった。

「あー、今日もその、いつもの服なんだな。寒くない?」

 一が指差しているのは、セーラー服を着た少女、黄衣ナコト。彼女は一一の天敵であった。

「卑しい。脂ぎった目であたしを見ないでください。怖気が千里を走ります」

「千里も走ったらもうお前とは関係ないんじゃねえの?」

 ナコトは持っていたビニール袋を下ろしてから一に向き直った。

「人の揚げ足を取らないでください。それより、またあなたは違う女性を連れているんですね。とっかえひっかえ、よくもまあ……」

「もう俺は何も言わない。お前の根も葉もない罵詈雑言に付き合ってたらストレスで寿命が縮んじまうからな」

「なっ……! ではあたしのストレスはどこに行けば良いんですか。行き場をなくして体内で暴れ回ってしまいます」

「俺のストレスはどうなるってんだよ」

「ストレスを感じられるだけの神経があなたにあるとでも?」

「あるわ!」

 こうして今も溜まりつつある。一がナコトの悪口によって蓄積させられたストレスは相当のものだった。

「うるさいですね。セーラー服に関する膨大な知識だけが取り柄のくせに」

「そんなの取り柄にした覚えはないぞ!」

 ナコトは考える素振りを見せてから、セーラー服の襟に手を遣る。

「この大きな襟の事を何と言いますか?」

「ジョンベラ」

「セーラーの意味は?」

「海兵」

「日本で女学生の制服として、初めてセーラー服が採用されたのは?」

「1920年。京都の学校だったかな」

「好きなテレビドラマは?」

「セーラー服通り」

「セーラー服は地域によって襟の種類に違いがありますが、関西と関東の襟、どちらがお好みですか?」

「関西襟」

「セーラー服に似合うのは?」

「スカーフ。今日のお前は減点だな、ネクタイはちょっと違う」

 ふむ。ナコトは顎に指を這わせ、値踏みするような視線を一に送った。

「あなたはドが付くカス野郎ですね」

「どこがだよ!? これぐらい誰でも知ってるし、誰だってこう答えるに決まってる! なあ、そうだろアイネ!?」

「……さようでございますねえ」

 アイネは決して一と視線を合わせようとはしない。それどころか、彼と距離を取るかのように数歩後退する。

「黄衣てめえ!」

「ああっ近寄らないでください。犯される、目で犯すだけじゃ飽き足らず犯されてしまいます」

「俺の尊厳はムチャクチャに犯されたよ!」


 一呼吸置いて。


「……また本を買ったのか?」

「ええ、読みますか?」

「えー、だってそれ少女漫画だろ」

「先入観で毛嫌いしないでください。今や男性だって少女漫画を読む時代です。面白いものに性別や国境は関係ありません。あなただって息をするでしょう? それと同じです」

「いや、その例えはおかしい。空気ぐらい好きに吸わせてくれよ」

 なんて事を言い放つ女だろう。

「構いませんよ、許可します。あ、ほら、この辺りは窒素が豊富ですよー」

「酸素をくれ」

「駄目です。ところで、この街には座敷童子がいるのをご存じですか?」

「…………なんだって?」

 どうしてナコトが槐の事を知っているのだろう。一は何故だか、言い知れぬ不安感に襲われる。

「耳が遠くなりましたか? あ、ついでに顔も遠ざけてくれます?」

「お前、座敷童子を知ってるのか?」

 槐がやってきてからまだ一週間経っていない。ナコトは誰から話を聞いたのか。

「先程、座敷童子と書店で出会いましたから」

 そういえば、槐も漫画がどうとか言っていたのを一は思い出す。

「おかっぱで着物、あなたの大好きな幼女でした。その子はあたしの前にレジに並んでいて、小銭が足りないとかで店員と揉めていたんです。あまりにも見苦しいので十円玉を渡してあげると、『ぬしは良い人間じゃな、幸せを分けてやる、かっかっかっ』と、あたしの頭を撫でてから去っていきました」

 本人からだった。

「いや、でも、それだけでそいつが座敷童子とは……」

「本人がそう言っていたので。なんなら連絡をとってみましょうか。メルアドも交換しておいたんです」

「いや、いい」

 好き放題し過ぎである。一は頭が痛くなってきて、こめかみに手を当てた。

「まったく、この街は異常ですね。座敷童子やら魔女やら――――『えせ貴族』やら」

 ナコトは眼帯の位置を直してから、アイネに鋭い視線を送る。

 一は彼女の、そんな目を見るまで忘れていた。ナコトだって、元はフリーランスである事に。

「……初めまして、『貴族主義』。早速ですが、この街から、一さんの傍から失せてもらえませんか?」

「お、おい、黄衣……」

 ナコトの視線――挑発を受けて、アイネは微笑んだ。

「ごきげんよう、元『図書館』。この街で一番最初に脱落した、奥ゆかしいフリーランスはあなた方だと存じておりますわ」

「余計なお世話です。今まで姿を見せず暗がりに隠れていた人には言われたくありませんね。貴族と騙るのならば民草の前に立つのが義務でしょう。……ああ、違いましたね」

 ナコトは一度言葉を区切るように口角をつり上げる。

「今は貴族、主義でしたね。つまり、今のあなたは貴族ではない。どうせなら貴族趣味に名前を変えてみては? おすすめですよ」

 空気が、重い。

 真っ向からやり返せば良いのに、アイネはただ笑むだけだ。それが、一には恐ろしくてたまらない。

「元気のある方でいらっしゃるのね。あなた、生き生きとしていますわ。フリーランスよりも、今の生活を余程楽しんでいらっしゃるように存じます。――お仲間を、見殺しになさった甲斐がありましたわね」

 だん、と地面を蹴る音。

 次の瞬間、ナコトは得物である鎖を握り締めてアイネに走り寄っていた。

「やめろっ!」

 一が叫ぶが、止まらない。

「決闘なら、受けて立ちますわよ」

 誰も止まらない。

 アイネは左手に鞭を、右手には改造式のレイピアを握っている。

「あんたなんかにっ!」

 走りながら、ナコトは鎖を振るった。狙いこそ乱れていたが、カトブレパスの時よりも更に速い。

「何が分かる!」

 唸りを上げて突き進む鉄の風。ナコトは肉体的に恵まれていない分、鎖を回転させ、先に付いた分銅に遠心力を加えて不足を補っている。

 アイネがいかにフリーランスと言えど、体のどこかに当たれば骨折は免れない。

「涼しい風ですこと」

 その、暴虐を具現化したような風に対して、アイネは正面から迎え撃つ。

 鉄の鎖と、皮の鞭。

 アイネは鞭で鎖の軌道をずらした後、逆の手に構えたレイピアで弾き、大きく向きを変えさせた。

 鎖はターゲットを見失い、大空高く上っていく。

「隙だらけ、ですわね」

「……くっ」

 ナコトが踏み込まれた間合いは、アイネのレイピアが届く距離だ。が、ナコトも戦闘慣れしている。彼女はバックステップ――と、言うより後方に体を投げ出しながら鎖を引き戻した。

 その軌道上にはアイネがいる。

 背中を向けているアイネに当たればそれで良し。当たらずとも、彼女が回避行動を取りさえすれば仕切り直せる。そう考えて放った、ナコトの起死回生の一撃。

「……嘘」

「終わりとは……」

 歌い上げるような口調で、アイネは朗々と言い放つ。

「えてして呆気ないものですわ」

 ナコトは目を疑った。地面に突き刺さったレイピアに、放った鎖が巻き付いている。ぐるぐると、ぐるぐると。情けなく、空回りしている。

「あっ」

 アイネがレイピアを弾くと、鎖は持ち主の手を離れて中空を舞った。

 アイネは繋がり合った鎖の穴を狙っていたのだ。背を向けたまま、曲芸じみた、狂人じみた芸当をやってのけたのである。

 回避と同時にナコトの武器を無効化させたアイネは、尻餅を付いている『敵』に悠然と近付いた。

「……やめろ」

「お退きになってくださらない?」

 ナコトを庇って立つ一に、アイネは空虚な視線を向ける。

「もう良いだろアイネ、お前の勝ちだ」

「勝敗に興味はなくってよ。私を侮辱したのですから、死を賭して償うのが当然ではありませんこと?」

「……お前だって黄衣を侮辱したろ。お互い様だ」

「この辺りで剣を収めろと、そうおっしゃりたいのですか?」

 依然、アイネは一を見据え続けている。光が宿らない瞳からは彼女の感情が読み取れない。

「……よろしくってよ。あなたがやめろとおっしゃるのなら」

 武器をしまうアイネを見て、一は胸を撫で下ろした。



「終末を呼び込む植物――トリフィド時代、ですか」

 険悪な雰囲気をどうにかするべく、一は世界を終わらせる種をナコトに見せてみたのである。尤も、アイネは良い顔をしていなかったようではあるが。

 しかしナコトは興味が湧いたのか、彼女はいささか興奮した様子で先の言葉を述べた。

「黄衣、知ってるのか?」

「……あなたは知らないんですね。意外です」

「意外? 何でだよ」

「トリフィド時代、原題はThe Day of the Triffids、破滅をテーマにしたSF小説ですよ。映画にもテレビドラマにもなりましたから、あなたはそういう映画、お好きだと思っていたのですけれど」

 一は首を傾げる。

「そういうって、どういう映画だよ?」

「どういうとは、モンスターが出現して人々を襲う、B級映画の事です。頭を空っぽにしても楽しめるのであなたにはお似合いでしょう。トリフィドを題材にした作品は幾つかありますが、その全てが肉食植物である彼らが人々を襲うだけの陳腐でありきたりなお話です」

 馬鹿にされている気はしたが、心当たりがあったので一は黙っておいた。

「破滅を扱っているとはいえ、トリフィドは心地良い破滅と揶揄されていますがね。私は否定するつもりありませんが、好きではないです。どうせ終わるのならもっとドロドロしたものを望みますね。やはりメアリーかリチャードの……」

「ごめん、分かんないからストップ」

 ナコトはつまらなさそうに溜め息を吐く。

「これだから無知な人は嫌いです」

「それよりさ、トリフィドってマジでいるのか? いたとして、どんな姿をしているんだ?」

「……存在する訳ないでしょう。所詮は小説の中での、空想上の産物です。と、言いたいところですが、ソレがそのような存在である事は周知の事実。存在するかどうかは知りませんが、いてもおかしくはないでしょうね」

「ま、尤もだな」

 ですが。そう前置きしてから、ナコトは一の持っている種に視線を落とした。

「少なくともその種は見た事がありませんね。うーん、似ているものは思い付くのですが、やはり私も知らない種です。もしかしたらトリフィドってのも本当かもしれませんね」

「へえ、だってさ、アイネ」

 話を振られたアイネは僅かに眉根を顰める。

「私は最初から申し上げていた筈です」

「確かめただけじゃねえかよ」

 怒らなくても良いだろう。そう思いつつ、アイネが感情と言った類のものを表に出さない事は一にも分かっている。短い付き合いだが、彼女から人間らしさを引き出すのは実に楽しかった。

「で、トリフィドってのはどんな形をしてるんだ?」

「簡単に言ってしまうと、歩く木、と言う感じですかね。太くて丈夫な根っこが三本。頭から生えた有毒の棘で獲物を刺し殺し、死体を養分とする。とある映画ではハエトリグサみたいな姿をしていましたが、基本的な部分は変わりません。トリフィドとは、歩行する肉食植物です」

「歩く、木ねえ」

 想像して気持ちの良いものではない。一は深く考えないようにして、頭を振る。

「ところで一さん」

「なんだよ改まって」

 ナコトは可愛らしい咳払いを一つしてから。

「話を聞いてみると、『お貴族様』は終末を望んでいらっしゃる様子。では、あなたは? あなたは世界が終わっても構わないんですか?」

「ああ」

「即答、ですか」

 寂しげに言うと、ナコトは視線を落とす。

「あなたは、あたしを助けたんですよ?」

「は? いや、まあそうだけど。えっと、それで?」

「……こんな事を言うと誤解を受けてしまうと思いますが。その、あたしには、あなたしかいないんです」

「なっ、え、あっ?」

 一は赤くなって固まった。狼狽した彼を見て、つられたようにナコトの頬も赤くなる。

「だから言ったじゃないですか、もう……」

「いや、だってさ、んな事言われたらびっくりするに決まってんじゃんか」

 見るも無残な微笑ましい光景に、アイネは冷たい視線を送り続けていた。

「とにかく、あなたはあたしを助けたんです。勝手に。自分の都合だけで」

「えー……」

「ですから、勝手にどこかへ行ったり、世界を終わらせるなんて言わないでください。良いですか? あたしに世界をくれたのはあなたなんですからね」

「世界を?」

 そんなつもり、一にはなかった。

 誰かに何かを与えられるほど、自分は大きくない。そう思って、内心で自嘲する。

「あなたは世界の定義を勘違いしています。いえ、少なくとも、あたしとは違っています」

 ナコトは手を広げると、何もない空間を掴んだ。その手を広げて見せるが、中には何もない。空っぽである。

「何やってんだ?」

「あたしにとって世界とは、あたしの手が届く範囲の空間を指します。生きていく上で必要なスペースとでも言いましょうか」

「ちっせー世界だな」

「あなたがくれたんですよ? あなたがあたしに生きるべき意味を与えてくれた。なのに、勝手にいなくなられては困ります」

「言われたってなあ」

 とにかく。ナコトはそう言ってから、一から視線を反らす。

「あたしが今言いたいのはそれだけです。分かってもらえないのなら、まあ、仕方ありません。あなたの頭の悪さを笑うとしましょう」

 本の詰まった袋を掴むと、ナコトは一たちに背を向けて歩き始めた。

 残された二人は言葉を交わす事もないままに、立ち尽くす。



 ナコトが去った後、一たちは山に向けて足を伸ばしていた。

 もう、陽は落ち始めている。

「あなた、お友達がたくさんいらっしゃいますのね」

 長くなった影に目を遣ったまま、アイネは口を開く。

 一は歩くのを止め、今までを振り返った。

「あいつらを友達って呼ぶのはどうかと思うけどな」

「私が拝見した限り、あなたはたいそう楽しそうでいらっしゃいました」

「そうかあ?」

「ええ。本当、う――とましいこと」

 アイネは眩しいものでも見るかのように目を細める。

「疎ましい、か。ストレートな悪口は初めて言われたな」

「ごめんあそばせ」

 ドレスの裾を摘み、アイネはわざとらしく頭を下げた。

 一は彼女のおどけた仕草に笑みを漏らす。

「……本当によろしいんですの?」

「何が?」

「世界を終わらせる事が、です」

「あー、良いんじゃねえの」

「あなたには友人がいらっしゃる。なのに、世界が終わっても構わないと?」

 今更、こいつは何を躊躇っているのだろう。一はアイネに失望の念を覚える。

「俺に友達がいたら、お前は世界を終わらせないのか? 友達がいないから、世界を終わらせるのか? そこんところはっきりしろよ」

「……失礼致しました。私、あなたを見誤っていたようですわ」

「ああ、俺も」

 一はアイネに背を向けて、再び歩き出した。

 彼には疑念ではない、確信があった。気付いてしまった。アイネは世界を終わらせる気がないのだろう。折角の種も、宝の持ち腐れである。

 彼女の空虚な瞳は世界に絶望していたのではない。何も映さないのは、興味がなかったからではない。

 似ているから。否。似ていたから。だから、気付けた。だから、彼女は自分に近付いた。

「なあ、アイネこそ友達はいないのか?」

 その問いに、アイネは答えなかった。

「家族は?」

 この問いに、アイネは答えなかった。

「好きな奴とかはいないのか?」

 どの問いにも、アイネは口を開かなかった。



 世界を終わらせてみたい。終わって欲しい。終わってしまえ。

 思った。少年(・・)は確かに思った。一度ならず、二度ならず、三度ならず――。

 あの日から、ずっと。ずっと。ずっと。ずーっと思っていた。思い続けている。今でも、終わってしまえば良いのだと。

 ――友達は? 家族は? 恋人は?

 ずっと考えていた。世界を終わらせるにはどうしたら良いのかを。考えて考えて、その内、『世界』とは何か分からなくなっていた。定義も、境界も。何もかもが曖昧に思えてしまう。考えて考えて、気付いてしまうのだ。終わって欲しいのは、本当はなんだったのか、と。

 自分を含めた全て。自分以外の全て。嫌いなモノ全て。好きなモノ以外は全て。それとも、もっと別の。

 この街に来てからも、その思いは消えたためしがない。考えが中断された事はない。

 気付いてしまったのだ。

 ――無理だ。無理だよ。

 世界を終わらせるのは無理でも、自分だけならすぐに終わらせられる。それで済む。これ以上、世界を見ずに、聞かずに、感じずに済む。苦しい事からは逃げてしまえば良い。悲しい事は忘れてしまえば良い。悔しい事は無視してしまえば良い。嫌な事からは目を反らし、腹立たしい事からは目を瞑ってしまえば良い。

 世界から、自分が終わってしまえば良い。

 そうした方がずっと簡単で、傷付かずに済む。

 だが、それでも、死ぬのは怖い。他者を求めてしまう。今日が最悪でも、明日は。明日が最低でも、明後日は。来週は、来月は、来年は、少しはマシになるかもしれない。そう、甘えてしまうのだ。願ってしまうのだ。



 坂道がある。この坂の中腹には駒台大学があり、その先を更に進むと山の入り口が見えてくる。ここには地元民ですら滅多に立ち寄らない。季節が冬で、日が沈んでいるのなら、獣だって近付きはすまい。

「着いたぞ」

「ええ」

 その入り口に、人影が二人分。

 世界を終わらせる、二人。

 気負いもなく、奇を衒う事もなく、彼らは何の気なしに、破滅へ向かって歩を進めた。

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