コマダイ買い出しはしない紀行
一たちは槐と出会った場所からは離れた喫茶店の、窓からは遠い席で寛いでいた。
「……よろしくありませんわね」
いや、寛いでいたと呼べるのはアイネだけである。彼女はカップを置くと、トイレから戻ってきた一に冷たい視線を向けた。
「もう三度目ですわよ?」
一は姿勢を低くしたまま窓の外を注意深く観察すると、ようやく席に着く。
「どうやら、撒いたらしいな。ふう、あいつらしつこいんだよなあ、まったく」
すっかり冷めてしまったコーヒーに口を付けると、一はしかめっ面を作った。
「今日は散々だよ。警察には追い掛けられるし、ソレの情報は掴めないし」
「自業自得ではありませんこと?」
「なんだよ、ソレの居場所が掴めないってんならお前だって困るだろ」
アイネはその言葉に眉根を寄せる。
「私が?」
「ソレを探しに来たんだろ?」
「そのような事、申し上げた覚えはないと存じますが……」
「へ? なら、どうしてこんなところに来たんだよ? 言っちゃなんだけど、駒台には何もないぜ。アイネだって見ただろ、ここには面白いものなんか一つとしてなかったじゃないか」
面白いと言えば精々、滞在しているフリーランスと勤務外、ソレの数が他の街よりも多いぐらいだろう。
「私の目的をお聞きになられたいのですか?」
「……目的?」
フリーランスの目的がソレでないなら、何だと言うのだろう。
一には見当も付かない。厄介事に巻き込まれたくない気持ちはあったが、興味も沸いた。
「出来るなら、聞かせて欲しいな」
「さようでございますか」
アイネは探るような目付きになったが、それも一瞬の事。一は彼女の視線には気付かずにカップの中身を飲み干していた。
「熱的死」
「はあ?」
「黙示録。ハルマゲドン。ラグナロク。ご存知ではなくて?」
「聞いた事はあるけど、なんつーか、物騒なものを並べてるな」
くすりと笑うと、アイネは髪の毛をかき上げる。
「で、それがなんだって言うんだよ。お前の目的と関係があるってのか?」
「おっしゃる通りですわ」
「……え?」
一は空になったカップを置く。その時の音が、やけにうるさく聞こえた。
「私は終末を望んでいますの」
そう言うと、アイネは静かに微笑む。完成された笑顔が、一の目には恐ろしいものに映った。
「終末論をご存知でいらっしゃいますか?」
「いや、知らない。何となく、意味は分かるけど」
一は気圧されてしまっている。本当は、もっと聞きたい事があった。聞かなければならない事があった。
「そうですの。では、問題ありませんわね」
アイネはカップに口を付けると、窓の外を見遣る。
――終末論。
どこかで、誰かが言っていた。誰もが口を揃えていた。
歴史、物事には終わりがあり、それが歴史の目的であるといった考え方の事である、と。
世界の終わりで、神が現れ、罪は暴かれ、裁かれる。世界は生まれ変わり、信じるものは救われる。
誰しもがそう思う。誰もが願うのだろう。
苦しい時には、誰だって神に頼る。
差異はあれ、どこの文化でも、宗教でも変わらない。
苦しい目に遭っても、いつかは必ず救われたい。
だが、違う。
一はアイネの瞳から何かを感じ取った。――否、正確に記すならば、何も感じ取れなかった。何もない。だからこそ、何かあると踏んだのである。
「私、高尚なものを求めたいと思っておりませんの」
「つまり……?」
「終末は、終末ですわ。そこに救いは必要ないと、そうは、お思いにならないかしら?」
がらんどうな瞳が一を捉えていた。
「ただ、壊れてしまえば。止まってしまえば。死んでしまえば。メギドの丘も、ヴィーグリーズの野も。ミレニアムキングダムも、イザヴェルも。全て等しく、終わってしまえばよろしいのに。ねえ、そうは思わなくって?」
この目をどこかで見た事がある。一の全身を怖気が走り、肌が粟立った。
「随分とまあ、ご大層な話だけどさ」
口はからからに渇いている。黙っているのが嫌になって、一は引っ付いていた上唇と下唇を無理矢理引っぺがした。
「アイネ、まさか、世界を滅ぼしたいなんて言ってるのか?」
「さようで、ございますの」
「お前一人で、か?」
フリーランスと言えど、人を外れているとは言えど、所詮、器は人間なのだ。たった一人で世界に挑める訳がない。
「私だけでは、確かに難しいわ。でも……」
アイネはスカートに腕を突っ込む。いきなりだったので、一は勿論、話の内容こそ聞こえてはいなかったろうが、彼女の行動に他の客も驚いていた。
「これがあれば、不可能ではなくなりますわ」
「これ、は?」
テーブルの上に置かれたのは、小さな布の袋である。口を紐で縛られていて、袋の中身は見えなかった。
「あるお方から頂戴した種でございますの」
「種? 種って何の?」
一は袋に手を伸ばしたが、その手はアイネによってやんわりと押し止められる。
「世界を終わらせる種ですわ」
そう言って笑うアイネの微笑みは、やはり、完璧なものであった。
喫茶店のドアが開いたと同時、一陣の風が店内を吹き抜けた。
「ん……?」
一はただならぬ気配を感じて振り向いた。
「お、お、お……」
「ジェーン。何、なんだよ、何しに来たんだ?」
肩で息をしているジェーンは、オンリーワンの制服を着ている。着替えもしないで店からやってきたのだろう。
「この時間シフトだろ。サボってんじゃねえよ」
「……お兄ちゃん、そいつ、誰なノ?」
「あー」
アイネは敵意を振り撒く乱入者に怯む事無く、静かに微笑んでいた。やはり自己紹介などする気はないらしい。
「話せば長くなるっつーか、話す事なんかないっつーか」
「そっ、そんなどこの馬のボーンとも分かんない女なんかと……!」
「店はどうしたんだよ、店は。立花さんが可哀想だろ」
仕事を押し付けられて泣いている立花が容易に想像出来る。
「フフン、お兄ちゃんより優先するものなんか、このワールドにはないワ」
「あるだろ。ほら、そろそろ業者来るんだから、納品手伝ってあげなさい」
「イヤー、あ、メロンソーダプリーズ」
通り掛かったウェイトレスに注文を頼むと、ジェーンは一の隣の席に座った。
「つめたーい時に飲むつめたーいものはサイッコーにクールよネ。お兄ちゃんもそう思うでしょ?」
「俺はホットなコーヒーが良い」
「えー? だってお兄ちゃん、コタツでアイスクリーム食べるじゃナイ」
「そりゃまた別だろ。ありゃこたつだから良いんだよ。分かってねえなあ、日本のわびさびってのが」
「ワサビって、あの辛いの?」
「わさびじゃなくてわびさびな。まあ、わさびもわびさびっちゃあ、わびさびか」
ジェーンはあからさまに顔をしかめる。
「あんなの食べるなんて信じらんない。スシなんてフィッシュをライスに乗せただけじゃナイ」
「向こうじゃスシスキヤキバンザイって言ってたじゃん。食いたかったんじゃないのか?」
「ンー、見たかったって感じカナ。お兄ちゃんが食べたいって言うから、気になってたんだもん。バット、オクトパスを食べるなんてやっぱりムリ。アレはフードじゃなくてモンスターヨ。ザ・グリードみたいな」
「あー、外人ってものを生で食うのが駄目なのかな。なら、魚の塩焼きとか」
「あんなのフィッシュの焼死体じゃナイ」
それを言うなら牛の焼死体が好きな君たちは何者なのだ。
一は頭を掻き、反論を試みる。是が非でも、ジェーンに和食を食べさせてみたい。
「丼物は?」
「アレってB級グルメでしょ。アタシ、B級って嫌いなノ」
「さっきはザ・グリードがどうとか言ってた気がするけどな。じゃあ、漬物は?」
「あのスメルがドントライク!」
「天ぷらは?」
「……テンプラはサクサクしててノーセンキュー」
「それが美味いんだよ!」
「スキヤキ!」
「肉は高いから駄目」
一が考え込んでいると、ジェーンが思い付いたように笑う。
「お兄ちゃんお兄ちゃん」
「ん?」
「――お次はなんだ?」
「やっぱB級好きじゃねえかお前!」
コヨーテと趣味が一致している『妹』に一は目眩を覚えた。
「You know what? お兄ちゃん、そいつ、フリーランスなんでショ」
ジェーンは侮蔑、敵意、悪意、それらをない交ぜにした視線でアイネを射抜いている。
「らしいけど。でも、何をしに来たって訳でもないし、俺をどうにかするつもりもないんだし。こう言っちゃなんだけど、害はないぜ」
「信用、出来ないワ」
何を思ったか、ジェーンは吊り下げていたであろうホルスターからリボルバーを抜き出した。凶暴に輝くメタリックのシルバーが一の目を引き付ける。
「……おい、んな物騒なもん出すんじゃねえよ」
「ブシsword? ノー、お兄ちゃん。これはガンマンの証なんだカラ」
銃口が、アイネに向けられた。
「センテヒッショー、ここで叩いておけば、コーコのウレイは消えるんだもん」
「その必要はありませんわ」
向けられる敵意を気にする素振りさえ見せず、アイネは柔らかに微笑む。彼女は椅子から立ち上がると、ジェーンに背を向けて出口へと歩き出した。
「Hey、stop it! まだ話は終わってないんだから!」
「――終わりますわ」
「おい、アイネ……?」
それ以上は言葉もなく。アイネはドアを潜り抜けて喫茶店を出て行く。気勢を殺がれたジェーンは銃を下ろし、行き場をなくした敵意はそのまま一に向けられた。
「お兄ちゃん、事情を説明してもらいましょうか?」
「いや、俺にも何が何だかさっぱり……」
「お兄ちゃん、excuseはcrimeと知りたまえ、ヨ」
騒動が収まった隙を窺っていたのか、ウェイトレスがメロンソーダをテーブルの上に置き、そそくさと立ち去っていく。一は溜め息を吐いた。痛めるのは心ばかりではない。支払いはどうせ自分、なのだろうと。
メロンソーダに目を輝かせるジェーンを置いて、一は一人で喫茶店を後にした。
自由、である。
アイネがいない。もう道案内をせずとも済むし、このまままっすぐ家に帰れば、騒動に巻き込まれる事もない。平々凡々、日々安穏、いつも通りの、昨日と同じの生活に戻れるのだ。
足取りは軽やかに。意気は揚々と。家に帰って、布団に包まって目を瞑ってしまおう。
だが、視線はさ迷っている。誰かを探している。雑踏に紛れてしまっているであろう彼女を見つけようと、必死に動き続けている。
どうしてなのか、分からなかった。
――終わってしまえば。
終末を望んでいると、アイネは言っていた。
全てが終わってしまえば良いと笑っていた。
詰めが甘い。そう思って、一は内心で苦笑する。アレは、自分なのだと。今になってようやく分かった。どうして、彼女が自分に声を掛けてきたのかを。自惚れではない。どうして自分と出会ったのかを。どうして、彼女が気になったのかを。
続きが見たいのだ。
一度は求め、一度は諦め、また、手を伸ばしている。いつか見たいと思った景色を、彼女も見たいと願っている。いつかやろうと思った事を、彼女は今やろうとしている。
足を踏み出す。
次は、自分の意思で。はっきりとした、確固たる信念でもって。アパートとは反対の方角へ。彼女は有象無象に埋もれるような存在じゃない。どこに隠れていようが、一には見つけられる自信があった。
「……っと」
信号が変わる。交差点にいた人が入れ替わっていく。進んでいく。人の波がアスファルトに押し寄せ引いていく。
その中で、進む事も戻る事もせずに、ただぼうと突っ立っている者が一人。嫌でも目立つその姿を見間違う筈もない。二つの青を湛えた紺碧のドレス。空のように、海のように広大な空虚さを身に纏った『貴族主義』。
アイネ=クライネ=ナハトムジーク。
彼女は、そこにいた。
何かを期待しているかのように、誰かを、待っているかのように。
「……よう」
だから、声を掛けてしまう。
振り向いた彼女の顔に別段変化はなかった。ただ、振り向くまでに若干の時間を要しただけである。驚いた表情を書き替えるぐらいは、驚いた事を取り繕うぐらいは出来得るくらいの、そんな時間。
「勝手に行くんじゃねえよ」
「お妹様のお相手はよろしいのですか?」
「正確に言えば妹じゃない。血は繋がってないからな。あいつは、妹みたいな奴なんだよ」
こんな状況でなければ相手の一つはしてやりたかったのだが。
「道案内はまだ終わってないしな。……世界、終わらせたいんだろ」
アイネは微笑む。一種、凄絶な笑みだった。
「手伝うよ。一人じゃ大変だろうからな」
「世界を終わらせてしまうようなお手伝いをなさるおつもりですか」
一は少しだけ考えて、首肯する。
「こんな世界なくなっちまえ。壊れちまえ。消えちまえ。止まっちまえ。くたばっちまえ。なんて、思わなかった人間はこの世にいないぜ。だから、手伝ってやるよ」
「……面白いお方ですこと」
「ありがとう」
そんな事を面と向かって言われたのは初めてだ。とは口にしない。
「それで、俺は何をすれば良い?」
「引き続き、この街の案内をお願いいたしますわ」
「案内? それだけか?」
「さようでございますわ。――エスコート、していただけますか?」
世界が終わるならば、この街を見て回る意味もなくなる。一には、ここが今際に相応しい景色とは思えない。少なくとも、アイネにはもっと相応しい場所があるように思えた。
「俺で良ければ、『貴族主義』」
「ありがとう存じます」
一はアイネに貼り付いた笑顔を剥がしたくて精一杯の皮肉を込めたのだが、彼女は微動だにしない。詰めが、甘い。
「おや、一さんではないですか」
「ん」
無機質な声に振り向けば、機械的な動作でお辞儀をするメイドがそこにいた。ヴィクトリアンスタイルのメイド服に身を包まれているのは、同僚のナナ、である。
「久しぶり。今日はどうしたんだ?」
「はい、今日は支部の技術部まで調整に行きました。今からはお店に行くところです」
「あれ、シフトに入ってたっけ」
ナナはいいえと首を振る。
「ゴーウェストさんが勤務中に脱走したらしく、その代わりに私が呼ばれました」
何とも言えず。何を言えば良いのか。一はとりあえず頭を下げた。
「一さんが謝る必要はありません」
「でも、あいつのせいで折角の休みを潰しちゃったんだし」
「ですから、私はゴーウェストさんの事で一さんが謝る必要はないと申し上げているのです。第一、私は人間ではなく、自動人形です。人間に使われるのが唯一の意義、仕えるのが無二の意味である私が一さんに謝られては決まりが悪いですから」
「そんな言い方はないんじゃないか? ナナだって休みの日にしたい事があっただろ?」
「……甘い方ですね。私みたいな人形に優しくしても見返りは得られませんよ」
突き放すような物言いではあったが、ナナの表情は存外穏やかだった。
「それは残念だな。でも、本当にやる事がないのか?」
「趣味と呼べるようなものは、私にはないですから」
「読書はしないのか?」
ナナは眼鏡の位置を指で押し上げる。
「いえ、本なら読みます。書物から取得出来るデータは多いですからね。どこを叩けば一番痛いのか。どこを殴れば骨が折れるのか。ソレ殲滅には欠かせない作業です」
「あー、そういうんじゃなくて、もっと普通の小説を読んだりは……」
「読む必要性を感じられません。わざわざ読まずとも、私には数百の物語が記憶されていますからね」
「へえ、凄いな。全部覚えてるのか」
「勿論です。一言一句完全に、完璧に、完膚なきまでに。一さんはどなたの作品がお好みでしょう? 良かったら太宰でもお聞きになりますか?」
興味はそそられたが、往来で聞くには些か無粋だろう。それに、何を言われてもナナの話す内容が一言一句合っているかどうか確かめる術はないのだ。
「いや、遠慮しとくよ」
「では一さんのリクエストに答えて『女生徒』を」
「してねえから! 何でよりにもよって『女生徒』なんだよ!」
「『女性奴』の方が良かったですか?」
「そんなものこの世に存在しない!」
ナナはうーんと小首を傾げる。彼女は、一は何が気に食わないのか本気で理解出来ていないらしい。
「『パンドラの匣』、『女生徒』、『斜陽』、『人間失格』、『惜別』、『晩年』、『冬の花火』」
「タイトルでストーリーを作るな。大体、花火って言葉通り吹き飛ぶ訳じゃないんだぞ」
「読書は一さんのお気に召さなかったようですね」
読書でも何でもないのだが、まともに受け答えする勇気は一には足りていなかった。
「他に何か趣味はないのか?」
「そうですね、技術部にいて時間が空いた時には溶接をしています」
「溶接? 何か作るのか?」
「いいえ。溶接するだけです。時間の許す限り鉄と向き合います。プラズマアーク溶接が最近のお気に入りですね。一さんもどうですか? ティグ溶接なら火花も散りませんし、初心者におすすめですよ」
「……考えておくよ」
死ぬまで初心者で構わない。
ナナとは根本的に話が合うようで、合わない。
「そうだ。ナナ、植物に詳しい?」
「詳しくない事物など存在しません。私のデータベースにはこの世の全てが記録されているのですよ?」
「だったらさ」
一はアイネの様子を窺ってから、
「世界を終わらせる植物を知らないか?」
そう、口を開く。
ナナはしばらくの間、無言になって目を瞑った。
「あ、分からなかったら別に……」
「いいえ、分かります。少々お待ちください」
彼女は意外と負けず嫌いで、自分の欠点を認めたがらない。その事を忘れていた一は溜め息を吐く。
「……一さん、世界で一番大きな花を知っていますか?」
「え? あ、えーと。ラフレシアだったっけ」
「その通りです。マゾーンの女王、試作型モビルアーマーのモデルのラフレシアです。ちなみに、一さんが思っているラフレシアとは、ラフレシア・アーノルディと呼ばれる種類のものなんですよ」
「へー。ああ、でもさ、臭いがきついってだけでラフレシアは世界を終わらせたりしないよな」
尤もな疑問を口にしたところで、ナナは「しかしっ」と、大きな声で割り込む。
「ギネスブックに公認されている世界最大の花はラフレシアではございません。スマトラオオコンニャクなのです。花の形が燭台に似ている事からショクダイオオコンニャクとも、英名でタイタンアルムとも、強烈な腐臭から死体花とも呼ばれています。また、臭いだけでなく見た目の醜悪さから、世界で最も醜い植物の第一位に燦然と輝いています。私はそれよりもウツボカズラやハエトリグサの内部を推しておきたいところですけれど。ああ、一さんは食虫植物なら何がお好みですか? やはりロリドゥラ科ですか?」
「聞いた事もない植物で俺を貶めたいのは分かった。だけど、俺は食虫植物やら醜い植物について尋ねてる訳じゃないんだよ」
「ではマンドレイクのお話などいかがでしょう?」
「マンドレイクってマンドラゴラの事? ああ、何か聞いた事あるな」
「では詳細は省きましょう。やはり有名ですからね、説明をしても今更と言う感じはしますし」
沈黙が一たちを通り抜けていく。
――だからどうした。
「しょ、食人木と言うのはどうでしょうか?」
「何だそりゃ。木が人を食うのか?」
「……そうではないでしょうか」
「そんなもの、存在するのか?」
「…………そうではないでしょうか」
ナナの語気が段々と弱まり始めた。
「あのさ、ナナ。知らない事は素直に知らないって言った方が良いと思うんだけど」
「私に知らない事なんてありません」
きっぱりと、はっきりとした口調だったが、ナナは顔を俯かせたままである。
困らせてやりたい。
不意に、一の悪戯心が鎌首をもたげ始めた。
「分かった分かった。じゃあさっきの質問は止めにしよう。もっと違う事になら答えられるんだな?」
「……先程の質問も、もう少し時間を頂けたのならお答え出来たのですけれど。良いでしょう、他ならぬ一さんの頼みです。何でもおっしゃってください。難問奇問、どんと来いです」
「西暦十二万八千二十五年の九月一日は何曜日でしょう?」
爽やかな笑顔で告げる一。
ナナは押し黙り、ずり下がった眼鏡を元に戻した。
「あれ、もしかしてナナさん分からないんですか」
「ご冗談を。飛ばない豚はただの豚。そのような問題に答えられないとあっては、オンリーワン技術部の面目が丸潰れです」
「ほう、では正解は?」
「せ、正解は……」
一は信じられないものを目撃する。ナナの頬が朱に染まっているではないか。恐らくは羞恥から。人さじの怒りから。彼はこの場にカメラを持ち合わせていなかった事を心底から後悔し、深く恥じた。
「……嫌いです」
「へ?」
「一さんは意地悪です」
ナナは背を向けると、それだけでは飽き足らず顔さえも一から反らす。
「今日の事、ゴーウェストさんに言い付けます」
「なあっ!? やめてくれっ、今日はもうただでさえ余計な誤解をされてんだから!」
「武力で訴えるよりは死ぬほどマシだと諦めてください。一さんは私の目測よりも身体に対する痛みが強いようです。だから、精神的に揺さぶりを掛けるとしましょう」
「謝るから! だからお願い! それだけは!」
調子に乗り過ぎたと、一は本気で後悔した。ジェーンのお仕置きは回を増す毎に熾烈の一途を極めている。座敷童子の一件が片付いた時、どこから入手したのか、早田と抱き合っていた事を知った彼女は巨大な鉄板を持ち出して言ったのだ。
「ああああ思い出したくもない! ナナ、悪かった。悪かったってば」
「反省、していますか?」
してるしてる。一は何度も頷く。
ナナは振り向き、にっこりと微笑んだ。
「一さん、関係のない話なのですけれど」
「へ?」
「ゴーウェストさん、近頃はピラニアの生態に興味をお持ちのようですよ」
「関係あるじゃないか!」
世界が終わるより先、自分が終わってしまいそうだと一は嘆いた。