アイネは化け物
わんわんっ、わんわんっ!
犬が鳴いている。
野良犬にとっては餌場でもあるゴミ捨て場にて、犬が鳴いている。
「この国は犬にも自由をおあげになっていらっしゃるのね…………あら?」
犬が二匹。餌を奪い合い、醜い争いを繰り広げている。
その光景を見て、一は涙を浮かべていた。あまりにも、情けなくって。
「灰色の方が勝ちますわね」
「……そりゃそうだろ」
正確に言うのなら片方は犬ではない。
「わおおぉーん(どうだ新参、ミーに勝負を挑んだ時点であんたの負けは決まっていたのさ)!」
灰色の毛並みは少し薄汚れていたが、野性に染まった双眸だけは変わっていない。今もぎらぎらとして輝いている。紛れもなく、『彼』は一の知るコヨーテであった。
「わおーん(うひょー、今日は大量じゃないか)!」
アレは一の知るコヨーテではなかった。
一が声を掛けようかどうか思案していると、彼の方からやってくる。尻尾をパタパタと振って、舌を出して嬉しそうに。
「餌をくれ!」
野性の欠片もくそもなかった。
「……第一声がそれか。自分から餌とか言いやがって。プライドはどこに置いてきたんだよ」
「プライドで飯が食えるなら、ミーは今頃丸々と太っていただろうよ」
誇らしげに鼻を鳴らすコヨーテが、妙に一の勘に障る。
「それより久しぶりじゃないかリトルボーイ。元気だったかい?」
「まあね。兄妹揃って元気だよ」
「そりゃ良かった。嬢ちゃんが元気なら、ミーがこの街に残った意味もあるってもんさ」
「だったら早く謝りに来いよ」
元々はそういう話だった筈である。
「ハードな物言いじゃないか。嬢ちゃんに謝る時機を一度逃しちまったからな、まだ先の話になるだろうよ」
「先っていつだよ?」
「勿論クライマックスに決まってるさ。敵に囲まれてこれまでになくピンチな嬢ちゃんのところへミーが登場、そして言うのさ――アイルビーバックってな」
「謝ってねえじゃん!」
「ディレクター、テーマソングもよろしく頼むぜ」
「犬のおまわりさん流してやるよ」
コヨーテは鳥の羽根らしきものを口から吐き出す。
「それよりリトルボーイ、今はまだ日も昇り切っていない時間だぜ。こんなところまで来て、目的もなくぶらついても良いのかい?」
「……いや、お前、何食ってんの?」
ちらりと、コヨーテは吐き出した羽根に目を遣った。
「ああ、こりゃ鳩だよ。だが、ここの鳩はまずいな」
「平和のシンボルをこんなにしちゃって、罰が当たるぞ」
「はっ、笑わせるなよリトルボーイ。鳩を食うなんてノーマル過ぎてつまらないくらいなんだぜ。第一、ジャパニーズだって鳩を食ってるじゃないか」
「そうなのか?」
一は女性に意見を仰いでみる。
「まことにおっしゃるとおりですわ。フランスでは一般的な食材とされているとうかがっておりますし」
初耳だった。と言うより、女性がこんなくだらない質問に答えてくれたのが意外に思える。
「そう、だったのか。いや、だけど、なあ。やっぱり鳩を食うってのは」
「鳩が平和の象徴だって? リトルボーイ、マーズアタックを見てみるんだな」
「ありゃB級映画じゃねえかよ。俗っぽい犬だな」
「ミーは犬じゃない! 誇り高いコヨーテ様だ。大体だな、俗っぽいとは酷い言い草じゃないか。ミーは文化的英雄なんだぜ。映画だって立派な文化さ、それを押さえておくのは当然だろ」
「その割には嗜好が偏っているような……」
文化的文化的とコヨーテは言うが、一にはどうにも信じられない。
「ん、いや、だがボーイの言っている事も確かかもしれないな。最近見た映画じゃ、暴力シーンの前にやたら白い鳩が飛ぶものがあった。アレは平和のシンボルを意味していたのか。今から鳩を飛ばすけど、平和とか関係なく暴力で訴えます、と」
「違うわ! ありゃ今から暴力シーンにいくけど、平和のシンボルを見て少しは癒されてねって事なんだよ」
「それより二丁拳銃とスローモーションはもう飽きちまったな」
「アレがなかったらもう誰の映画か分かんねえよ」
とんとん。
肩を突かれる感触に振り返れば、不機嫌な顔をした女性が一の目を、まっすぐに見据えていた。
「……あ、ごめん。退屈だった?」
「ええ……そうでございますねえ」
否定とも肯定とも取れる言い回しに、一は不安になる。
「私、犬がお話になるとは存じ上げませんでしたわ」
「今更!?」
そこで、初めてコヨーテの目に女性が映った。
「リトルボーイ、そこのレディは? もしかして、ユーの良い人かい?」
「あー、違う。この人はその、何と言うか……」
よくよく考えれば、一は女性の名前も知らない。フリーランスだという事だけ分かっているのであった。
女性はと言うと、柔らかな微笑を浮かべているだけで、自己紹介をしようとは思っていないらしい。
「お貴族様、だよ」
結局、コヨーテはソレの話など知らなかった。一が得た新たな知識は、豊富な餌場と、この近辺ではコヨーテの名前を聞くだけで野良犬が道を開けるという、無駄なものである。
女性を押し付ける事にも失敗して、一は彼女を連れ、とぼとぼと歩いていた。なるべく人の少ない方へ進んでいると、
「はじめちゃーん!」
呼び掛けられる。
が、無視した。
「はじめちゃん? はじめちゃんってばー!」
「おい、こっちの道を行こう」
「あの方、あなたをお呼びになっているように存じますが……」
一は尚も背後からの声に見向きもしないで、聞きもしないですたすたと歩いていく。
「はーじーめーちゃーん!」
「……はあ」
諦めて、足を止めた。このままでは自分の名前を連呼されながら街を練り歩く破目になってしまう。
「はじめちゃんはじめちゃんはじめちゃんってばー!」
「だああっ、止まりましたから! 止まったから叫ぶのはやめてくださいっ!」
振り返ってみると、一の予想通り、オンリーワン近畿支部医療部の部長こと、炉辺乙女がそこにいた。
が、彼女は一の予想に反して看護服を着てはいない。白を基調にした大人しめの服装に、薄い桃色のマフラーと手袋が暖かく見えた。新鮮、だった。
「何か、可愛い感じになってますね」
「そう? えへへー、ありがと」
「今日はお休みなんですか?」
「うん、でも午前中だけなんだよ。だから、今はお買い物してるの」
炉辺は手に持った紙袋を掲げてみせる。裏表のない笑顔を久しぶりに見れた気がして、一の気持ちは穏やかになった。
「可愛い服があったから買っちゃったー。……着る機会は滅多にないんだけどね」
「い、意外と落差ありますね」
「ところではじめちゃん、体の調子はどう?」
「お陰さまで。と、言いますか、あの病院で一晩寝たら傷とか塞がってるんですよ。どういう薬使ってるんですか?」
「秘密、かな? それを知りたければ、医療部で働いてみたら良いと思うよー」
まさか人に言えない何かを使っているのではなかろうか。
一はそう勘繰るのだが、炉辺の笑顔の前では邪推にしか成り得ない。
「山田さんたちは元気にしてますか?」
「うん、元気元気。しおりちゃんは退院が延びちゃったけど、ヒルデちゃんならもう退院しちゃったよ」
「ああ、そうだったんですか」
「はじめちゃんもお買い物?」
「あー、いや、俺は……」
先ほどから、炉辺がちらちらと女性に視線を向けていた事に一は気付いていた。隠す気はなかったのだが、出来れば何も言いたくなかった。しかし、だんまりで通す訳にもいかないだろうと、半ば諦める。
「道案内、みたいなものです」
「ふーん? はじめましてっ、私は炉辺って言うの。あなたは?」
炉辺はにっこりと微笑む。女性も彼女に微笑み返すのだが、口を開く事はなかった。
「ありゃ? もしかして私、嫌われちゃったのかな?」
「……その、口下手っつーか、照れ屋っつーか。誰に対しても割かしこんな感じなんで、気にしないでください」
「そうなんだ、ふーん。ふーん、はじめちゃんって、いつも女の子と一緒にいるよね」
「へっ!?」
「しおりちゃんとか、さきちゃんとか。ダメだよ、ちゃんと他の子とも平等に接してあげなきゃ、めっ、だからね」
改めて言われると、そうかもしれない。炉辺には自分が好色で軽薄な人間だと思われていたのかと、一から血の気が引いていく。
「あ、はは。俺にそんな甲斐性はないですし、何よりたまたまですよ。たまたま」
「そうなの? あ、でも、そう言われればそうだよね。だってはじめちゃんは――あ。ううん、ごめん、何でもないの」
「な、何を言おうとしていたんですか?」
「何でもないってば、あはは」
「どうして笑ってるんですか!?」
この笑顔の裏が怖い。見たいけど、見たらどうにかなりそうでもっと怖い。
「それより私行かなくちゃ、夕食のお買い物がまだ済んでないんだった」
「あ、料理出来るんですね」
「ふふふ、これでも自信があるんだよ? 私のイェミスタは絶品なんだから、多分」
聞き慣れない単語を耳にして、一は首を傾げた。
「イェミスタ――ギリシャのお料理の事ですのよ。お肉やお野菜をくり抜いたパプリカやズッキーニに詰めていただく……と、うかがいましたわ」
「うん、そうそうっ!」
「へえ、凝った料理なんですね。良いなあ、家事が出来る人って。炉辺さん、結婚してください」
「あはは、ごめんね」
即答である。
「じょ、冗談のつもりだったんですけど、いや、結構へこみますね」
「うーん、はじめちゃんがダメなんじゃなくって、私はね、誰とも結婚しないから。うん、結婚、出来ないんだよ」
「そう、なんですか」
勿体ない。しかし、一は炉辺にはその思いを伝えられなかった。自らに言い聞かせるような彼女の口ぶりが、どこか遠いものに感じられて、立ち入ってはいけないと、そう、理解出来た。
「……君と、同じだよ」
「え?」
「あ、もう本当に行かなきゃ、それじゃあね、はじめちゃん。元気でいるんだよー、お腹出して寝ちゃダメだよー」
「寝ませんよ……」
「気立てが良いお方でしたわね」
炉辺が去った後、女性は物憂げに呟いた。
「あのさ、自己紹介ぐらいしとかないか?」
「構わないのではなくって?」
「いや、だって名前ぐらい知っとかなきゃやり辛くないか?」
「……そういうお考えもありますのねえ」
どうにも、やり辛い。
女性は会話の合間合間に独特の間、のようなものを置くので、一は彼女とのコミュニケーションにおいて、どうしてもテンポを崩されてしまう。
「一一、俺の名前だ。あんたも名乗れよ。それとも、『貴族』ってのはコンビニの店員に名乗られても返さないのか? だとしたら、とんだ紛い物だぜ」
「……っ」
女性は眉を少しだけ吊り上げる。握っている鞭が、いやが上でも一を萎縮させていた。
「アイネ=クライネ=ナハトムジーク、ですわ。一度しか申し上げませんわよ。よろしくって?」
アイネ=クライネ=ナハトムジーク。
「おお、本当にそれっぽいな。良い名前じゃんか、オッケーよろしくな、アイスクライマー」
「…………あなた、喧嘩をお売りになる才能をお持ちでいらっしゃるのね」
「だって長いんだもん。じゃあ、アイネって呼んで良いのかな」
アイネは一を横目で見た後、「好きになさって」と、突き放すような口調で言う。
「不満か? じゃあ、ジークナハトム」
「逆ですわ。アイネでよろしくってよ」
「ん、ならそう呼ぶわ」
少しアイネの扱い方、あしらい方を覚えて、一は彼女に対して親近感をも覚えた。
「アイネ、次はどうするんだ。このまま適当に街を歩き回って良いのか?」
「お任せしますわ」
「……マジに、何しに来たんだかな」
「何かおっしゃいましたか?」
「いいえ。それでは、次に参りましょうか、お姫さま」
時刻は正午に差し掛かっていた。
空腹を覚えた一は、恥と人目を忍んで人通りの多い方へと歩きだす。適当なところで昼食にしたかったのだ。
しかし、隣を歩く女性、アイネが気掛かりである。彼女は自分が入れるような店に文句を言わないだろうか、と。
「……なあ、お腹空いてないか?」
一の後ろを歩くアイネは不機嫌そうに眉根を寄せ、取り繕うように笑みを浮かべる。
「ごめん、デリカシーに欠けてたな」
しかし、強くは否定されていない。ここまで歩き詰めである事も考えると、一度休憩を取るのが得策だろう。そう思った一はどう切り出したものか考える。
「んー、なあ、どっか店に入って良い?」
「構いませんわよ」
「ん。ああ、だけど、なあ……」
中心部まで来たので、ちらほらと飲食店は目につくのだが、これだというものは見当たらない。
「む、一ではないか」
迷っていると、正面から歩いてきた、小さな女の子に声を掛けられた。
十にも満たない年頃の女の子は、やたらにフリルの付いた黒い着物に身を包んでいる。おかっぱ頭に挿したかんざしがとても可愛らしく一には見えた。
「あれ、槐? どうしたんだよ、迷子か?」
「誰が迷子じゃ。そっちこそ、童のようにきょろきょろしおって」
槐。彼女は先日から駒台に居つき始めた座敷童子である。当面の脅威であったフリーランス『教会』を退けてからは楯列の家で世話になっていると、一はそう聞いていた。
「息災でおったか、一?」
「ああ、まあね。健康そのものだよ。しかも最近、落ちてる小銭をやたらめったら見掛けるようになった」
ふふん、と。槐は勝ち誇るように笑った。
「それはわしのお陰じゃな。感謝するが良いぞ」
「小さいなあ」
器や体が。
「仕方あるまい。大半の幸福は衛に分け与えているからのう。座敷童子の力は基本的に、住まわせてもらっておる家の者にしか効力を発揮出来ぬのじゃ」
「へえ、そうだったのか」
「それでもわしの力は同族の中でもとっぷくらすじゃからな、一にもある程度の幸福が舞い込んでいるのじゃろう。ほれ、あの時頭を撫でてやったじゃろ? ん、どうした、はよう感謝せんか」
「えーと、ありがとう?」
「良い良い、わしは今まっくすで気分が良いからのう」
ほくほく顔で一の頭を撫でようとする槐だが、完全に手が届いていない。
「何かあったのか?」
「うむ。読みたかった漫画が発売日前に買えたのじゃ」
「ちっせー!」
「小さいとは何じゃ!」
「何が漫画だよ。お前といい、コヨーテといい、すっかり楽しんでんじゃねえよ。この街はどうかなってるんじゃないか」
どうして誰もソレが闊歩している事に気付かないのだろう。
「ふん、ぬしにはこの漫画の面白さが分かるまいて。分かってたまるものか。で、何をしに来たのじゃ? ここはぬしのような枯れた者が来るところではないぞ」
「良く言うぜ、お前の方が年食ってるくせに。アレだ、腹が減ったから、何か店を探しに来たんだよ」
「そうじゃったか。ふむ、ではこの先を右に曲がってまっすぐ進むと良い、美登里屋という和菓子屋がある」
「ああ、知ってるのか。あそこは美味いよな、特にきんつばがたまらない」
「その隣のクレープ屋がおすすめじゃ」
「クレープ食うんだ、座敷童子」
この数日で槐はすっかり街に慣れているようだった。
「む、すまん。メールじゃ」
槐は袖からデコレーションされた携帯電話を取り出す。ストラップががちゃがちゃしていて、操作し辛そうだった。
「おお、駅前のケーキ屋がセール中じゃと? 流石、JKの情報収集能力は馬鹿に出来ぬのう。うむ、帰りに寄っていくとしよう」
「JKってお前、誰とメールしてんだ……?」
「そんな事も知らんのか? 女子高生の事に決まっているじゃろう。ふふん、羨ましいか? 駄目じゃ、駄目じゃ、ぬしのようなKYには紹介出来んな」
「俺は空気が読めないってか?」
「カカクヤスクで行こう、じゃ」
「そんなキャッチコピー打ち出してねえよ。しかも安くねえぞ」
「気安いぞ、一」
「無理矢理だなあ、もう!」
無理矢理でもあり、安易でもある。
「携帯電話なんて持ちやがってよ、俺だってまだ持ってないってのに」
「む、そうじゃったのか。ではわしの紹介で買うと良い。友達割引が利くらしいぞ」
「毒されてるなあ」
と言うよりかは、槐は背伸びをしているようにも見えた。長い間、一つどころに留まっていたからだろうか、知識を貪欲に吸収している。偏った、知識ではあるのだが。
「衛の家は退屈じゃからな、暇潰しにこの辺をぶらついていると若い娘に声を掛けられるのじゃ。可愛い可愛いと持て囃されて、色々と連れて行ってもらえて、少し気分が良い」
「座敷童子だってばらしてないだろうな?」
「案ずるな、そう言っても信じてもらえぬわ。ふっ、黙っていればわしも美少女で通るのじゃ」
「少女っつーか、幼女って感じだけどな」
「誰が幼女か! ぬしのような若造があまり生意気を言うものでない。わしを怒らせれば、駒台中の女子高生がぬしの家に押し寄せる事になるじゃろうな、かっかっか」
「なっ、なんて卑劣な……!」
想像してみた。
「結構良いじゃないか! むしろ望むところだと言っておこう!」
「しかも全員彼氏連れじゃ」
「嬉しくねえよ!」
「ときに一よ、散歩の途中で得体の知れないものを見掛けたんじゃが」
「なんだって?」
一は身構える。得体の知れないもの――遂にソレについての情報に巡り合えたらしい。
「うむ、昨日河原を歩いていた時の事なんじゃが、犬を連れた女がいての」
「……は、なんだよ。ただの犬の散歩じゃないか。そんなの得体が知れてるし、高が知れた話だな」
「いや、その女は犬を抱いて歩いておったんじゃ。何故じゃ? 犬を散歩させるのは、犬に運動をさせる為ではないのか? わしには理解出来んかった」
「あー、なんつーの? そりゃ飼い犬が可愛くて可愛くて仕方なかったんだろ。歩かせるのは可哀相だから、でも外には連れていきたい、とか、そんな理由じゃないか?」
「わざわざ犬を抱いて外出するのか? ふむ、人間とは良く分からん生き物じゃな」
「もしくは見せびらかしたかったとか」
槐は小首を傾げた。その所作は三百年の長い月日を生きた座敷童子のものではなく、外見相応の女の子のようで、一は少しだけ焦ってしまう。
「……かわいい」
「犬が、か? なるほど、しかし辻褄は合う気がしてきたのう。あれが一種の愛情表現だとは。いやいや、面白いものじゃ」
「多分、小さい犬種だったんだろ。セントバーナードみたいな犬より、チワワみたいにちっこい方が可愛いって感じる奴が多いだろうし」
「つまり、小さいものは可愛いという事か」
「そうとは限らないけど、間違いじゃないだろうな」
「では一よ、わしを抱き上げてみよ」
「はあ? 藪から棒に何言ってんだお前?」
気でも違ったのかと、一は訝しげに問い掛ける。
「小さいものは可愛い。可愛いものは抱っこして見せびらかしたい。そうではないのか?」
「そりゃ犬の話だろ、だいたい、俺はお前を可愛いとは……」
思っていた。しかもしっかりと口に出していた。
「……いや、可愛くないとは言ってないけど、また別の話だろ」
「良いから抱き上げてみろと言っておる」
「無理だって! 色々と問題があるから!」
「むうう、ならばわしが犬になれば済むんじゃな!」
「済まねえよ! むしろ悪化するわ!」
「わんわん!」
「やめろっ、皆こっち見てるから……」
このままではまた警察に連れていかれてしまう。日夜ソレとの殺し合いに心身をすり減らしている勤務外といえども、国家権力には逆らえない。逆らいたくない。
「わんっ、わんっ」
「幾ら鳴いても無駄だぞ。泣きたいのはこっちの方なんだからな」
「わんっ、ご主人さま、どうか哀れな雌犬にお慈悲をっ、ああ、体が疼くんですぅ」
「てめえ分かってやってんだろ!」
「わんっ――かかか、中身はどうであれ、今のわしはどこからどう見てもただの娘よ。ぬしがどう取り繕おうが、男が幼女をいかがわしい行為に耽らせているようにしか見えまい――くぅーん」
「おい馬鹿やめろ、ただでさえ最近は厳しいんだからな!」
規制、とか。
「止めて欲しければ素直に従えば良いのじゃ。意地を張っていてはつまらんぞ、ん?」
「意地張らなかったらとんでもないレッテルが貼られるんだよ!」
「そういえば、JKたちが最近面白い噂を話していたのう。何でも、つうてえる、などという髪型をしている異国の娘を誘拐し、あまつさえ市中を連れ回して、尚且つ自分の身体に強引に、無理矢理に接触させる悪逆非道な男がいるのだと」
身に覚えがあり過ぎた。
「……話が飛躍している……」
「ぬしが件の品性下劣なモノと疑われぬよう警戒するのは分かるが、なあに、心配はいらぬぞ。わしはそこらの娘とは違うからのう。存分に抱き上げ、わしの可愛さを周囲に見せびらかすが良いぞ」
「警察はお前が思っているよりも優秀で仕事熱心なんだぞ。頭も固いし、一時間は弁解しないと解放してもらえない」
「妙に説得力があるのう……」
「と、友達の話なんだけどな」
「ぬし、友人がおったのか?」
一は明後日の方角を向いた後、
「いるさ」
爽やかな笑顔で言い切った。
「ではその友人に伝えておいてもらおうかの、ゲス野郎、と」
「誰がゲスだっ、このチビ助!」
「やはりぬしではないか!」
「うるせえよロリババア!」
「ぬわーっ!」
槐は世にも奇妙な叫び声を上げて一に飛び掛かる。彼女の袖から携帯電話が飛び出し、ストラップが、がちゃがちゃと耳障りな音を立てた。地面に転がった電話が、メールを受信して震えている。
「誰がロリババアじゃこの犯罪者がっ」
「歳の割に精神年齢と背が低いだろうがっ」
一は飛び掛かってきた槐を胸の前で捕獲する。
「離さぬか、前科が移る!」
「移らないし前科なんて持っちゃいねえよ!」
槐はしっかりとロックされた状態から一の胸に頭突きを繰り返し、彼は攻撃を防ぐ為に力を込めて槐を両腕で挟み込んでいた。
その光景は、奇しくも槐が望んでいたものに見えなくもない。
「ぐああ、はっ、肺が、肺が……」
「くらええっ、ジーグブリ――――」
「お元気そうなのは結構ですけれど、あちらからパトカーがお見えになりましたわよ」
アイネの言葉を聞いた一は素早い動きで槐を放り投げる。
「やばい、ずらかるぞ」
走れば目立つ。一は早足でその場を後にした。その姿、動作は熟練された『本物』の何かを窺わせている。
「あなたも、あの方のご友人ですの?」
槐は咳き込みながら「ついさっきまでの話じゃがな」と毒づいた。