貴族主義
終わりとは何だろう。
始まりとは何だろう。
命あるモノならば、死を終わりに、誕生を始まりとして考えても良いのだろうか。
では、終わりとは何だろう。
では、始まりとは何だろう。
何を基準に始まりだと断じ、終わりだと認識するのだろう。誰がスタートを決め、ゴールを決めるのだろう。
そもそも、終わりとは何だろう。
そもそも、始まりとは何だろう。
誰が、何を、どう定めているのだろう。
世界は、どうやったら終わるのだろう。
人間なら、少し力を込められれば終わる。少し力を込めれば終わらせられる。モノならば、作れば始まり壊せば終わる。
――どうしたら、世界は終わってくれる。
目に映る人もモノも何もかも終わらせたい。目に映らない全ても終わらせたい。目を瞑っても音は消えない。耳を塞いでも肌が気配を感じ取る。
死ねば、終わる。人間である以上、そうすれば終われるのだ。
だけど死にたくない。何より見たい。
人が死ぬところを。モノが壊れるところを。世界が、終末を迎える時を。
思っているよりも世界は頑丈で、絶対に近い。待っていても変わる事などありはしない。待っていて変わるものなどないに等しい。
だから、終わらせる。
自分の手で、自分の意思で、自分の力で。
世界の終わりを望む。世界が終わるのを見たい。
こんな世界は消えてなくなった方が良い。
十一月も終わりに差し掛かったある日の午前、五時。
「うげえっ!?」
駒台の街の古いアパート、中内荘202号室の住人である一一は腹部に衝撃を感じて目覚めた。
一は腹を押さえながら布団の上を転がる。ついさっきまで眠っていた頭では状況を把握しきれない。痛い痛いと呻きながら転がるしかなかった。
「……すかー」
隣の布団から安らかな寝息が聞こえる。寝息は一の同居人、糸原四乃のものだった。
そして、一の腹に衝撃を加えた犯人も彼女であった。
「えげつない寝相しやがって……」
三回に一回はこうして叩き起こされる。いつもの事だと、一は半分諦めていた。それに、丁度良い。今日は早朝からアルバイトなので、このまま起きておこうと決意する。
そうと決めたらお腹が空いた。一は何か食べられるものはないかと冷蔵庫を開ける。が、見事に空っぽだった。
「……うーん」
階下の住人、歌代チアキの冷蔵庫なら何か入っている筈だが、時間が時間である。押し掛けるにはまだ早い。
一はとりあえずの身仕度を済ませて、アルバイト先のコンビニ――オンリーワン北駒台店――で何か食べようと思い直す。
「……んー、起きたのー?」
「あ、ごめんなさい。起こしちゃいましたか」
「別に良いわよ。けどお腹減った。ステーキ食べたい、ステーキ……素敵なステーキ食べたい」
「思い付きで喋らないでくださいよ」
一はコップに麦茶を注いで糸原に手渡した。
「冷蔵庫何もないわよね。チアキんとこから持ってきてよ」
「……まだあいつ寝てますよ。可哀相じゃないですか」
「お腹空かせたお姉ちゃんは可哀相じゃないってのね。あーあー、私って不憫。でも美人ー」
面倒なのを起こしてしまったと、一は頭を抱えたくなる。こうなった糸原は何か口にしない限り、四六時中文句を言わないと気が済まないのであった。
「分かりましたよ。その代わり、糸原さんも歌代に謝ってくださいね」
「わーかってるわよ。任せなさい、謝る事に掛けては私の右に出るものはいないから」
突っ込む気にもなれず、一は部屋を出てアパートの階段を下りていく。歌代の部屋を前にして躊躇したが、意を決してチャイムを押した。
「やっぱ寝てるよな……」
しかし、辛抱強く待ち続けると扉が開く。中から現われたチアキは不機嫌な顔をしていた。
「……なんやねん」
「おはよう。ご飯をください」
申し訳ないとは思いつつ、一は頼み事を口にする。
「朝もはよからホンマ……師匠やなかったらパンパンやで」
「あー、悪い悪い。んじゃとりあえず上がるわ」
「って土足で上がって来んなや!」
「ごめんごめん、アメリカ人になっちゃった。いや、最近良くあるんだよね、こういう事」
「そんなちっちゃい外人なんかおらんわ」
「……あれ? お前起きてたの?」
点いていたテレビ。濡れている洗面台。温かくないベッド。さっきまで誰かが眠っていた部屋だと一には思えない。
「起きとったけど、ナチュラルにうちのベッドに潜り込まんといて」
一は布団に包まって枕に顔を埋める。
「糸原さんステーキが食べたいってー」
「えー? 肉なんかないでって、ああーっ! 何やっとんねんアホっ、変態!」
「ベッドって良いよなー」
チアキはにんじんを一に向けて喚いていた。
「野菜炒めが食べたいのか? いや、でも朝から油使うのはやだなあ。パンとかないの?」
へらへら笑いながらベッドを下りる一。
「師匠がうちをなんやと思ってんのか分からんくなるわ」
「弟子だよ、弟子。あ、食パンみっけ。なあ、持ってって良い?」
「もー、すぐ持ってくねんから。ちゃんとお金払ってやー」
「分かってるよ。あ、お前も食うだろ。何が良い?」
「フレンチトーストがええなー」
「あいよ。じゃ、先に準備しとくから。適当に上がってこいな」
「師匠、ゆっくりしとるけど、バイト間に合うん?」
「んー、ぎりぎりかな」
「ぎりぎりなら遅刻しちゃえば良いじゃん」
午前、六時前。
三人で卓を囲みながら、一たちはニュースを流し見ていた。チアキが中内荘に来てから、普通に、日常に溶け込みつつある光景である。
「今日は朝、店長しかいないんですよ。遅刻したら何言われるか分かりません」
「あ、O型一位だ。やふーっ、一、何か買ってー」
「そろそろ行こうかな」
一は糸原を無視して立ち上がった。
「あ、洗い物ならうちがやっとくわ。師匠ははよう行ってき」
「良いのか? じゃあ、悪いな。任せるよ」
それなら遅刻しないで済みそうだと、一はチアキの好意を素直に受け取る事にする。
「くふふ、弟子ってのは師匠を立てるもんやからな」
「その設定っていつまで続く訳?」
そんなの知るものか。
冬の朝は寒い。
吹く風と停滞する空気を身に受けながら、一は体を縮こまらせて歩く。
「ふあ……」
眠気がそろそろ収まりつつあるのが、せめてもの救いだった。
ぼんやりとしながら歩いていると、北駒台店はもう目の前にある。外から店内の様子を窺うと、客も店員も一人としていない。
忙しくないのはありがたいが、暇過ぎるのも考え物だった。
「おはようございまーす」
挨拶が返ってこないのは分かっていたが、一は自らを奮い立たせる為に声を出す。客の相手をしないとしても、仕事は探せばある筈だ。
「もう仕事辞めてェ」
バックルームに入った瞬間に一は戦意を削がれた。
パイプ椅子に背を預け、不安定な体勢で文句をだらだらと口にしているのは三森である。彼女は煙草を口に銜えながら、店長に対して愚痴を零し続けていた。
「人が増えたってのに休みなンか滅多にねーしよ。仕事はきついし、こっちは命張ってンのに給料安いし。もう無理。辞める」
「あと十年経ったら辞めても構わんぞ」
店長は三森をまともに相手していないようで、適当な相槌を適当なタイミングで打っている。
「あー、働かずに生きてェなあ。寝てるだけで金が入ってくりゃ良いのによ」
「……朝っぱらから止めてくださいよ、そういうの」
一は肩を落としたままロッカーを開けた。愚痴なんか聞いていたら、制服に着替えるのが億劫になってしまう。
「あ? 辞めて良いのか?」
「そっちのやめるじゃないですよ。三森さんは大事な戦力なんですから、辞められたら困ります」
「へー? 私が抜けたら困ンのか?」
「ワリ食うのは俺たちですからね」
「けっ、可愛くねェの。あーあーあーあーあー、つまンねーつまンねー!」
駄々をこねるジャージ姿の二十代女性を見て一は戦慄した。
「三森、そんなに言うなら一つだけ方法があるぞ」
ぴたりと、三森の動きが止まる。
「結婚して専業主婦になれば良い」
「はあ!? なっ、なっ、何言ってンだよ」
「別におかしな事は言ってないだろう。働くのが嫌。寝てるだけで金は亭主が稼いでくる。最高の職業じゃないか」
さも当然だと言わんばかりに店長は口を開いた。
「ああ、良いんじゃないですか。三森さんだってそろそろ将来について考えるべきだと思いますよ。恋人の一人や二人作っといて損はないんじゃないですか?」
「てっ、てめェに言われたかねーンだよ! だったらてめェにゃ彼女がいんのか! ああ!?」
「ひいっ、ぼ、暴力反対!」
「ンなもん知るか!」
襟元を掴まれ、一はタップアウトを繰り返す。
「止めろ三森。一が怪我をしたらどうなると思ってるんだ」
「どうなるってンだ!」
「私が店に出ないといけなくなる」
「それは良くねェな」
三森は一から手を離し、煙草に火を点けた。
一は床に這い蹲って咳き込んでいる。
「あー、何か疲れたからもう帰るわ。ンじゃな店長。おい、いつまで寝てんだよ、とっとと仕事しやがれっ」
――こんな世界なくなっちゃえば良いのに。
レジを打ち、商品を並べ、足りないものはバックルームから補充、床の掃除にトイレの掃除、店周辺のゴミ拾い、窓拭き、ゴミ捨てにゴミ袋の交換、おでんと肉まんの補充、ぐちゃぐちゃになった商品棚を陳列し直す。
これらの業務を一が一人で終える頃には、早朝勤務の三時間はあっという間に過ぎていた。
「……遅いなあ」
しかし、次にシフトに入る筈の立花が来ない。この後は立花と店長の二人で午前を回す。途中でジェーンもやってくるのだが、彼女が来るまでに二時間近くもあるのだ。誰かと交代出来なければ、少なくとも二時間、一は帰れないのである。
「どうした、一。上がらないのか?」
様子を見に来たらしく、店長がバックルームから顔を覗かせていた。
「立花さんがまだ来ないんですー」
「……また遅刻か。良い。一、上がれ。残業しても金は出さんからな」
そうまで言われては残る意味もない。客もいないので、一は制服を脱ぎながらカウンターを出ようとして、
「ごっ、ごごごごごめんなさい! ねっ、寝坊しました! 寝坊しましたボク!」
足を止める。
頭を下げながら店に入ってくる立花を見て、頬が緩んだ。
「あー、別に俺には謝らなくて良いから。謝るなら……そこの……」
そっと顔を上げた立花は、手招きしている店長を見て青褪める。
「て、店長怒って、ないよね?」
「うん、怒ってないよ」
「こっ、こっち向いて言ってよ! イヤだ、イヤだよっ、絶対怒ってるじゃないかあっ」
「立花ぁっ!」
「ひううっ」
直立不動で気を付けの姿勢。右手と右足、左手と左足を同時に出しながら立花は歩き始めた。
そこでふと、入り口から視線を感じて、一は振り返る。
気配もなく、存在感すら漂わせず、そこには美人がいた。
深い青を湛えたドレスを着こなし、眩いばかりの長いゴールデンブロンドの髪を縦巻きにカールさせている。まるで童話から抜け出してきたプリンセスのような――。
「いらっしゃいませ」
子供じみた考えを振り払い、何事もなかったかの如く振る舞い、一は頭を下げた。
「……道を尋ねたいのですけど」
女性は口調こそ丁寧ではあったが、居丈高な態度が滲み出ている。彼女の身長は一よりも低いのだが、何故だか彼は見下されているように感じた。
「ええ、分かりました。それで、どちらへ行かれるんですか?」
コンビニの店員なら道を聞かれる事も多々ある。店外の落とし物を尋ねられたり、コピー機の使い方を教えて欲しい、などなど。
一は慣れていたので快く、あるいは軽い気持ちで頷いた。
「ありがとう。実は私、この街を見て回りたかったの」
「……は?」
絶句する。二の矢を継ぐ前に機関銃で撃ち抜かれている、そんな気分に陥った。
「早速行きましょう。エスコート、していただけますの?」
それではもはや道案内と言うより観光ガイドである。もう仕事は終わっているし、そうでなくとも、目に見えて分かりやすい異端と並んで歩きたくはなかった。
「あの、さすがにそこまでは……」
「約束を違えるおつもりですの?」
敵意の籠もった瞳で見据えられ、一はしどろもどろになってしまう。
女性は畳み掛けるように一へ向かって足を踏み出した。
「連れて行ってくださるの? くださらないの?」
「――やめなよ」
一に近付こうとした女性の鼻先に竹刀袋が突き付けられる。
「あら、可愛らしいナイトですこと」
「あ、ありがとう? でも、はじめ君に近付かないでよ」
立花は怯えながらも、気丈に女性を睨み付けていた。
「ではあなたが道案内を?」
「ボクもイヤだ。何だか、あなたからはイヤな予感しかしない」
一は少しずつ後退り、事態の行く末を見守るしかなかった。
「出て行ってくれなきゃ、これを抜くしかないよ」
「……元気な方」
女性は口元を薄っすらと歪め、さり気ない挙動で距離を取る。瞬間、立花の持っていた竹刀袋が宙を滑っていた。
「えっ……!?」
その軌道を追い掛けると、袋の行く先には女性の右手がある。彼女は革製の鞭を使い、立花から武器を掠め取ったのだ。
立花は咄嗟に刀を追い掛ける。
「甘いですわね」
女性はスカートを捲り上げたかと思うと、ガーターベルトに装着したホルスターから金属製の棒を引き抜いた。それを振り上げ、立花に突き付ける。
――やばい!
「ストップ!」
「……う」
立花の喉元から一筋の血が流れた。突き付けられているのは棒ではなく、そこから飛び出した針のように鋭い何かである。
「止めましたわよ?」
一の感じた悪寒はこれだった。女性が手にしている棒、だったモノは今やレイピアのような形状をした刃となっている。恐らく、持ち運びの利くように手を加えていたのだ。
もし彼が止めていなければ、そして彼女が聞き入れていなければ、切っ先は立花の柔らかな肉を貫いていたであろう。
「何かおっしゃられましたか?」
異端、異質。間違いない。断れば、確実に立花は殺されてしまう。人を人とも思っていない類の禍々しさではない。人を憎み切った荒々しさでもない。見えていない。女性はそこにいる人、あるいはものをそうだと捉えていないのである。目の前の命を、命だと分かって殺すのではない。今まで感じた事のない次元の恐怖だった。
「案内ならあんたの好きなように、好きなだけ付き合う。だから、それをしまってくれないか?」
「しまうだけでよろしいんですの?」
「――っ! ……その子にも手を上げないでくれ」
切っ先はゆっくりと立花から離れていく。自由になった彼女は傷口を指でなぞり、唇を噛み締めた。
「善は急げと申します。準備はよろしいですわね」
「……立花さん、悪いんだけど制服をロッカーに戻しておいてくれないかな。それと、俺のコートを。ああ、後、店長によろしく伝えておいて」
「で、でも……」
「大丈夫。心配しないで」
一は、未だ彼を一人にする事を躊躇っている立花に制服を握らせ、無理矢理に背中を押す。
「おっとりしていらっしゃる方ですわね」
女性の言葉の端々から皮肉めいたものが感じ取れてしまった。が、一は何も言わない。
「……あんた、フリーランスか?」
「利発でいらっしゃる方ね。読みは当たっていてよ」
一は冷静になろうとして女性を観察してみる。彼女は一の視線に気付き、悠然として笑んだ。髪を梳いているシルクの手袋が妙に眩しい。
ドレス、手袋に髪型、佇まい。
一がお姫様と連想したのも無理からぬ事ではあった。が、先の振る舞いを思い出して『姫』と言うよりはもっと違うものを彼は想像する。
「『貴族主義』」
フリーランスの名前など多くは知らない。知っている名前の中から一番しっくりくるものを挙げたつもりだったのだが、女性は否定も肯定もしない。
「良いけどな、あんたの正体に興味はないんだし」
「さようでございますか」
女性は改造式のレイピアを元の場所に戻す。目の毒になりそうだったので、一は咄嗟に顔を反らした。
「はじめ君、お待たせっ」
「ありがとう」
立花は既に制服に着替えている。一は、駆け足でやってきた彼女からコートを受け取った。
「……店長は何か言ってた?」
「ううん。道案内頑張れって」
一は肩を落とす。つまり、現状ではどうしようもないのだ。ただ黙って、言われるがまま、請われるがまま、流されるままに女性をエスコートしなければならないらしい。
「分かった、ありがとね。んじゃ、くれぐれも皆によろしく」
「あ、あの、はじめ君、本当に大丈夫?」
「取って食われたりはしないよ、多分」
女性と目が合った一は心の中でもう一度同じ言葉を繰り返す。多分、大丈夫だ、と。
一たちが去った後、レジカウンターの前で店長と立花は溜め息を吐いていた。
「はじめ君、あの女の人にいじめられてないかな……」
「あいつは本当に疫病神だな……」
尤も、彼女らの真意は別同士にある。立花は一を心配していて、店長は自分の事を心配していた。
「またフリーランスなんぞに目を付けられやがって。蟻地獄か、あいつは」
「はじめ君には人を惹き付ける才能があるんじゃないかな」
「……一に? あいつは何も持っていない。そんなものある筈ないだろう」
「だから、じゃないのかな?」
「さっぱり分からないな」
新しい煙草に火を点けると、店長は不味そうに煙を吸い込む。
「それよりもさっきの奴だが、あれは『貴族主義』で間違いなさそうだな」
「綺麗なドレスだったなあ……」
夢を見ているような陶然とした様子で立花は言う。
「髪だってふわふわしてたし、話し方だって何だかお嬢様って感じで」
「時代錯誤も甚だしい格好だ。異端だと、自ら公言している――狂っているよ、あいつらは」
「店長さんはさっきの人の事、何か知ってるの?」
「……ああ、いや、詳しくは知らん。そうだな、情報部に連絡を入れておくか」
店長は立ち上がると、頭に手を遣りながらバックルームに向かった。
「ま、悪くは転がらんだろう」
道案内をするのは構わない。その相手が何をしでかすか、想像の埒外なんて言葉を軽々と越えたフリーランスなのも大して気にしない。
「……あの」
「何かおっしゃいましたか?」
何とかして欲しいのは、女性の服装である。嘘みたいな髪型、整った容姿。彼女は歩いているだけで人目を惹くのだ。そこへ豪奢なパーティーから抜け出したかの如きドレスときている。せめて、格好だけでも地味なものにしてはくれないだろうかと、一は痛切に感じる。
「服、着替えてもらえないかな?」
「お気に召しませんでしたか?」
一は溜め息を吐く。気に入る入らないの問題ではない。
あちこちから聞こえてくる囁き声。そのどれもが一たちを指しているものだった。
あの女性はどこかの国の姫さまだとか、お忍びでやってきた女優さんだとか、はたまた自身過剰なコスプレイヤーだとか。
当然、一の存在も人の目に触れている。あんな美人の隣にいるとは何者なのだろう、と。
「執事か何かじゃないの?」
概ね似たようなものだ。誰とも知らぬ好奇がそこかしこに散りばめられた声に一は同意する。が、誰も彼の置かれた状況を知らない。誰も同情はしてくれない。
「目立ち過ぎる。街を見て回りたいんだろ? そのままじゃ動きづらくなるぞ」
女性は怯まなかった。むしろ望むところだと言わんばかりに、周囲に目を向ける。
「貴族たるもの、常に下々の者から見られていなければなりませんわ。上に立つ者の義務とも申し上げておきましょうか」
「……とんだノブレスオブリージュだよ。巻き込まれる身にもなってくれ」
形容しがたい美貌と、溢れんばかりに自らのプライドを振り撒いている女性の隣にいる事で、嫌でも自分は凡人なのだと、劣っている存在なのだと思い知らされてしまう。
と言うより、これでは悪目立ちだ。
「もう良い。とっとと終わらせちゃえば済む話だもんな。それで、具体的にどこへ行きたいんだ?」
駒台には観光施設など皆無と言っても良い。とは言え、一日で街を歩き回るなど不可能に近い。案内させるなら、せめて指針になりそうなものが欲しかった。
「あなたにお任せします」
「……じゃあ、俺んちでだらだら寝転がるツアーに」
女性は無言で鞭を握り締める。
「いや、だってさあ、俺だってあんまりこの辺に詳しくないんだよ」
「……お引っ越しなさって来たんですの?」
「まあね。ん、だから行きたい場所を言ってもらった方が助かる」
「そうおっしゃられても困ってしまいますわ」
だったら観光地でもない街へ来る理由はなんだ。しかし一は疑問を口にする事はせず、黙って考えを巡らせる。
見たところ、女性は手荷物もないようだし、格好からしてまともな人間だとも思えない。第一、フリーランスが目的もなく旅行へ来る筈がないだろう。
と。
そこまでに思考が到達して、一の脳内に閃きが走った。忘れていたのである、目の前の女がフリーランスだという事に。フリーランスが動く理由なら一つしかない。
――ソレだ。
どこからか、誰からか、この街にソレがいるという情報を仕入れて、十中八九狩りに来たのだろう。
ソレが出たなんて話は未だ耳にしていないが、出ないとも限らない。女性がソレと戦い、倒してくれるならば自分は何もせずに済む。危ない目に遭うのは彼女だけで事足りる。
「どこでも良いんだな?」
女性はにこりと微笑んだ。
一は内心でほくそ笑む。ならば、女性をソレのいそうな、出そうな、関わっていそうな場所へ誘導すれば良いのだ。もしくはソレの出現に関する話を掴んでいそうな人物まで連れていけば良い。上手く事を運ばせれば、厄介者を押しつけられる寸法、である。
「分かった。じゃ、しっかり付いてこいよ」
少しの間針のむしろに座るだけで危険を減ぜられるのだ。安いものだと言えばそうなる。
だが、安いものと旨そうな話は同義に近い。そして旨い話には大抵、裏があるものだ。
一にはその時、その事実が頭に全くなかった。