男の子女の子
これが複写機、一般的にコピー機と呼ばれているものだとは理解している。
「ううん」
大学の構内のコンビニエンスストアに設置されたコピー機の前で、楯列衛はただただ唸る。
知っている。知っているのだ。だが、使い方が分からなかった。これはどのように動かすのだろう。隣でコピー機を使いこなす学生に聞けば良いのだが、楯列にはそれが出来なかった。
――楯列衛。
この名前を知らない者は駒台大学内にはいないに等しい。
駒台で一番の金持ちの息子で、一番狂っている。だから決して近寄ってはいけない。
この街に住む者は皆知っている。新しくやってきた者に先住者が伝えるのはコンビニの場所でも、安くて美味しい店でもない。
教えるのは楯列について、だ。
恐怖。嫌悪。畏怖。不快。
そのどれもが当てはまり、どれにも当てはまらない。関われば必ず面倒事が起きる。
楯列を成金だと揶揄する者もいる。持ち過ぎた者は、持たない者から疎まれるのが常だ。義務と言っても良い。絶対に、嫌われる。
だが、『楯列衛』が同じ大学に通う殆どの学生から距離を置かれているのは家柄だけが問題ではない。彼自身にも原因と呼べるものが存在するのだ。
奇行、である。
楯列衛は数々の伝説めいたものを打ち立て、今も尚打ち立て続けているのだ。
大学の坂道を自ら転がり落ち、向かってくるオートバイを避けようとせず、むしろぶつかっていき数メートル吹っ飛んで、増水して氾濫寸前の川をバタフライで下って、など。など。枚挙には暇がない。
その全てが、真実である。目撃者もいるし、何より楯列本人がそうだと認めていた。そうだ、自分は異常者なのだと。
しかし、彼が異常であろうとも、金を持っているのは確かだ。おまけにルックスも悪くない。いや、良過ぎるくらいに。だから、楯列に擦り寄っていれば何か良い目を見られるのでは、との打算を胸に近付く物好きもいた。
が、物好きたちが見られたのは悪夢だけである。楯列に付いても一銭たりとも得られない。外身が最高でも中身は最低な彼といれば、むしろ損をする一方だ。周囲からは変人の知り合いと判断され、見下される。失うもの、捨てるものがある限り、誰だって楯列には近付かない。
その事は楯列本人の耳にも入っている。なのに彼は変わろうとしなかった。自身の異常を直そうとも治そうとも、改めようとも、向き合う事すらしなかった。
そんな未来と諦めている。
そんな周囲に呆れている。
だが現状に甘んじている。
何をするでもなく、何かを求めるでもなく。周囲には誰もいない。自分以外を羨ましいと嘆くでもなく、助けてくれと叫ぶでもなく。過ぎる時間を有り難く思い、過ぎた時間を疎ましく思う。
楯列衛は今日も、全てを独りで受け入れていた。幼い頃、座敷童子が去った頃からはいつも独りでいた。当たり前だとも思っていたのだから、さして疑問も感慨も、もう今更浮かばないのである。
――僕は一人だ。
難しい話ではない。要は、楯列には友人と呼べる人間がいなかった。それだけの話である。
知人なら星の数ほどいた。使用人なら、親戚なら。
彼らに対して情ならば向けている。向けられている。しかし、それは親愛めいた、敬愛に近いものなのだ。欲しかったのは、友愛。もう諦めてしまった、届かなかったモノ。
だけど、それで良い。それが良い。
もう、自分には何もいらない。あるじゃないか。金が物が、心のないものなら何でも持っている。だったら――。
「邪魔なんだけど」
不機嫌さを隠そうともしない素直な声に振り向くと、そこには一人の男子学生がいた。
「コピーすんならさっさとしろよ」
「……ああ、すまないね」
楯列は声を掛けられた事に対して僅かに驚く。いったい、どこの情報弱者だろうか、と。一回生の前期も終わりそうな七月の中旬。大学で会話したのは、自分の正体がここに知れ渡ってから一ヵ月ぶりだろうか。
声を掛けてきたのはどこにでもいる、ぱっとしない男子学生である。彼の身に付けているものの中にブランド品などなかった。安っぽいジーンズに、丈のあっていないポロシャツで、装飾品の一つすらない。着飾る事を知らない、もしくは興味がなく頓着なのか。
「ちっ」
その上、身の丈に合っていないくらいに態度が大きい。自分とは縁遠い人間だと、楯列はそう思った。
ともあれ、待たせているのに変わりはない。
「……おい?」
早くコピーを済ませなければとは思うのだが、焦ったところで咄嗟に使い方が閃く筈もない。出来るなら、他のコピー機の後ろで待っていて欲しい。よりにもよって、どうして自分の後ろなのだろう。これも一種の嫌がらせなのか。理不尽な敵意でなく、正当且つ明確な理由のあるやり方が、無視やその他の手口よりも嫌らしい。
「おい、小銭」
「……っ」
「うお、何すんだてめえ」
肩を触られたので、思わず乱暴に振り解いてしまった。
「重ね重ねすまない。癖になっていてね。触れられるのが駄目なんだ」
「……自意識過剰な奴だな。それより、小銭だよ小銭」
楯列は目を丸くする。かつあげにしてはやけに程度が低い。
「申し訳ないが小銭は持ち歩かない主義でね」
「はあ? だったらコピー出来ないだろうが」
「そうなのかい?」
男子学生は呆れたような――実際呆れているのだろうが――視線を向けてきた。
「お前、人間何年目だよ? ガキでも分かるぜこんなの」
「使った事がなくてね」
「ふーん。良いや、じゃあ札を渡せ。両替してきてやるよ」
「……なんだって?」
楯列にとっては信じられない提案だった。目の前の男は自分に話し掛けるだけでなく、救いの手を差し伸べようとしている。
「あ、ちょい待て。持ち逃げなんてしないぞ」
「分かっているよ。分かっているのだけど……君、僕の事を知らないのかい?」
「楯列衛だろ。駒台じゃ、すっげえ有名人じゃん。知らない奴の方が少ないとも聞いたぜ」
「なら、どうして?」
どうして助けてくれたの?
どうして話してくれたの?
どうして、どうして?
「……? 良く分かんないけど、とっととコピーしようぜ」
そう言うと、男は楯列の手から財布を奪い取る。
「うおっ、すげえ入ってる!」
「あ、欲しいなら……」
「いらねえよ! 欲しいけど!」
どっちなのだろう。
楯列が思案している間にも、男はレジの傍にいた店員に両替を頼んでいた。
「ほい。コピーってどれくらいすんの?」
「え、あ、ああ。これ、だけど」
男からお札と小銭を受け取り、鞄の中から数枚のルーズリーフを取り出す。
「あんだよ、すぐ終わるじゃねえか。貸してみ」
「……聞いても良いかな?」
「んー?」
「どうして、手伝ってくれるんだい?」
コピー機に紙をセットしながら、
「邪魔だったからだよ」
男はそう言った。
実に単純明快で、楯列はその答えが気に入り、男の事も気に入った。
だからこそ、彼には自分と一緒にいて、周囲から白い目で見られて欲しくないと、そうも思う。
「離れた方が、良いよ」
「コピー終わったらすぐどっか行くって」
「ふう、君は鈍いね。僕と一緒にいたら厄介な事になると言っているんだよ。友人だっているだろうに、君も変人だと思われるよ」
自分で言っていて虚しくなるが仕方ない。これも声を掛けてくれた男の為だ。
「いや、俺友達いないから」
「馬鹿な……」
「おい、手で顔を覆うんじゃねえよ。友達がいないからなんだってんだ」
「意外だと思って。君みたいに良い人なら、誰も捨て置く筈ないだろう」
「そりゃどうも。でも、色々あんだよ。ああ、それとな、良い人なだけじゃ知り合いは出来ても友達は出来ないと思うぜ」
良い人だけでは駄目。初めて聞く理論である。楯列は心底から驚いた。
「ん、コピー終わったぞ」
「……あ、ありがとう」
紙の束を受け取り、楯列は出来るだけ失礼にならないよう頭を下げる。
「大袈裟な奴だな。良いよ、コピーぐらいでそこまでしなくても」
男は苦笑して、自分の分のコピーを始めた。
――駄目だ。好きだ。
「お茶に行こう」
「はい?」
「お礼だよ。君はああ言ってくれたが、それじゃあ僕の気が済まない」
気付いたら口を開けている。声は心ない言葉を作り上げ、男の意識をこちらに繋ぎ止めようと足掻いていた。
「世話になった者にまともな礼も出来ないようでは楯列の名が廃る。この後、時間はあるかい?」
「女の子に言ってみ、その台詞。絶対引っ掛かってくれるぞ」
「僕は君と一緒に行きたいんだよ」
男は困ったような表情を浮かべ、楯列から視線を反らした。
「……まあ、良いんだけど。高そうな店は嫌だぞ」
「ああ、心配しないで、高そうではなく、ちゃんと高い店を選ぼう。君の為に」
「それが嫌なんだよ、気を遣いそうだから。んー、だったら俺に付いてこい、ジャンクフードと原価五円のコーラに舌鼓を打ちに行こう」
言うが早いが男は歩き出す。
「ハンバーガーは嫌いかー?」
「いや、大好きだよ」
「その人物こそが、僕の婚約者である一君だったのさ」
「ほう、人間とは面白いのう……」
「あっ、いた!」
「む?」
病院のロビーで寛いでいた楯列と槐、その二人のところに、血相を変えた炉辺がやってきた。
「は、はじめちゃんたちは?」
「早田君が出ていったので、一君も追い掛けに行きましたが……何かあったのですか?」
炉辺は何度か深呼吸をして息を整える。
「……あのね、『教会』の子が逃げちゃったの」
「なんじゃと? 炉辺とやら、逃げたのは三人共がか?」
「ううん、しおりちゃんに両腕を折られた子は寝てるの。逃げたのは二人、ひじりちゃん、あかりちゃんだったかしら」
「まずい、一たちと彼奴らが出会わんとも限らぬぞ。衛、どうするつもりじゃ?」
楯列はソファから立ち上がり、いつの間に取り出したのか、車のキーを握っていた。
「無論、行くさ。早田君の行きそうなところなら見当が付いているからね」
「一はどうするんじゃ、あやつは今武器を持っておらぬのだぞ」
「ふっ、僕に見当が付いているなら、一君にだって見当が付いているに決まっているよ。今頃は二人で抱き締めあっているんじゃないかな。ああ、想像しただけで鳥肌が立ってきた。急いで、二人揃って拾い上げてくるよ」
「……良し、では行くとする――ひゃあああっ!?」
楯列は付いてこようとした槐を抱き上げて炉辺に渡す。
「悪いけど、ここからは僕らだけにさせて欲しいんだ。すみませんが、槐君をお願いします。それと、一君の仕事場の方に連絡も」
「うん、任せて。はじめちゃんたちをよろしくね。応援も出来るだけ頼んでおく。でも、無理しちゃ駄目だよ?」
「ええ、分かっています。槐君、大人しくしているんだよ」
槐は炉辺に頭を撫でられながら、諦めたように、力なく首を縦に振った。
「聖お姉様、光姉様はどうするつもりですか?」
「捨てていくわ。あの子、もう使い物にならないぐらい壊されたもの。新しい光を補充した方が早いわね」
ワゴン車の中、聖は包帯だらけのまま後部座席で横になっていた。
「良いんですか? また神父様に怒られちゃいますよ」
「どうせ任務失敗しているんだもの、怒られるなら纏めて怒られちゃいましょ」
灯は運転中であるにも関わらず俯きたくなる。今から帰っても、聖は手当てを受けるだけなのだ。咎を受けるのは自分だけではないか、と。
「簡単に『教会』の代わりなんて見つかりませんよ。一ヵ月、いえ、もっと掛かるかも」
「……当てならあるわよ」
「え? 本当ですか? でも、もう孤児院には……」
「やあね、この街から持っていくのよ。忘れた? 最高の素材がいたじゃない」
喉の奥でくつくつと笑い、聖は腹部を押さえて呻きを漏らした。彼女の怪我はまだ癒えていないのである。
だが、灯は姉の容体よりも素材が誰なのかが気に掛かっていた。
「もしかして、光姉様を倒した二人ですか?」
「アレは『神社』と勤務外じゃない。灯はあんなのと組みたいの?」
「では、どなたが?」
「あの、猿みたいにすばしっこい生意気な奴よ。どう、アレなら能力的にも充分だと思うわ」
誇らしげに語る聖をミラー越しに見つめ、灯は陰欝とした気分に陥る。
「い、一般人じゃないですか。あんな子を巻き込むんですか?」
「私たちだって最初は一般人だったのよ。まさかあなた、今からあの子に同情するつもり? 駄目、許さないわ」
「そっ、そんなつもりありません。だけど、やっぱり……」
「灯、私たちの目的を忘れたの?」
目的。その言葉を聞いて、反射的に体が震えた。
「忘れてないわよね? 無理を言って神父様に座敷童子捜索の任をもらったんだもの」
忘れられる筈がない。『教会』になってから、『教会』になる前から欲しかったものがある。灯は唇を噛み締め、弱い自分を苛めて、戒めた。
「記憶と、家族。忘れる訳がないです」
「結構、良い答えよ。私たちはその二つの為に主の言う事を聞いて、主の言う通りに動くの」
灯も、聖も、光も。『教会』の人間は皆、似たような身の上である。産んでくれた親も知らない。生まれた場所も知らない。家族も、友人も、何一つとして傍になかった。気付いた時には、『神父』と呼ばれる人の下、孤児院で暮らし、また働いてもいたのである。そこで、君は、君たちは『教会』の『シスター』なんだと告げられた。
「……聖お姉様は、あの孤児院で何年目でしたっけ?」
「覚えていないわ。でも多分、私は古い方よ。二十年目ってところかしらね。灯こそ、年、覚えていないの?」
「十年は越えていると思いますけど」
「あら、あなたでも冗談を言えるのね」
冗談を言ったつもりはなかったのだが、聖はくすくすと楽しそうに笑っている。
「あの子を連れて、行くんですか?」
「当然よ。私たちには前進しか許されていない。主だって、そう仰っているわ」
分かっていた。記憶と家族を、家族の記憶を取り戻す為には『教会』としての責務を果たすしかない。『神父』のご機嫌を取り続けるしかない。そうすれば、いつか、いつか、いつか必ず――。
「では、とりあえず車を走らせ続けます。ターゲットを見掛けたら教えてくださいね」
「はいはいっと」
必ず、見つかるのだろうか。記憶も、家族も。
「……本当に、あるんだろうか」
「灯?」
「何でもありません」と返し、灯は車の速度を上げる。
光は、終わった。聖に捨てられてしまった。自分本位の姉は、また一人、自分たちのような者を増やすつもりなのだろう。無関係な他人を引き入れ、自分が這い上がる為に。
――願わくば、あの子が見つかりませんように。
もし本当に神様がいるのなら、どうか、お願いしますと。
神様なんていない。
ずっとそう思っていた。思ってきた。
もし神様がいるのなら、自分はこんな目に遭わずに済んだのに。
そう、思っていたかった。
神様はいる。この世界、自分と同じ世界に立っている。女神と名乗るモノにも会っている。信じない方が、おかしい。神はいる。
だけど一は神の存在を信じるだけで、神を信じるつもりはなかった。
彼らはいつも何もしない。自分勝手に場を荒らすだけで、人の事なんて何一つ考えちゃくれない。人の世を動かすのはいつだって、神じゃなく人でなければならない。
左右に分かれた道の前で、一はしばらくの間立ち尽くしていた。右か左か。どちらが早田に続く道なのか。それとも、どちらとも続いていないのだろうか。
「……っ」
迷った末、右を選ぶ。
――いや。
選ばされたと言うべきだろうか。自分の意志でなく、別のものに背中を押されたような感覚が一を苛んでいる。右に進んでも尚、迷った。人の意志か、別の意志か。信じるのは、どちらだ。
今日ばかりは神を恨んだ。どうにも、今日の彼は悪戯が過ぎる。
「……お前らは」
「はぁい、元気してた?」
聖に肩を貸しながら、灯は歯噛みしていた。
灯の意に反して、『教会』は早田を見つけてしまったのである。彼女が地面に座り込んで、虚ろな目をしていたところを聖は話し掛けた。本当に、嬉しそうに。
「あら、元気ないのね。ふふ、私もそうだけど、ほら」
聖は自らに巻かれた包帯を見せ付けるようにくるくると回る。
「……私を殺しに来たのか?」
「なら、どうするのかしら?」
早田は厭世的に笑い、
「好きにすると良い。私はどうせ捨てられた身だ。帰る場所もない。なら、前のめりに逝くのみだろう」
吐き捨てた。
「あらら、可哀相。帰れないのね。――なら、私たちと一緒に来ない?」
「殺しに来たのではないのか」
「事情があって、ね」
「一人足りないな。は、なるほど、情けない。むざむざと返り討ちにあったのか」
灯の背筋が凍る。挑発的な言葉を受け、聖は激昂すると思っていたのだが、彼女は早田に微笑み続けていた。まるで、妹に向けるそれみたいに。
「そ。出来の悪い子だったわ。その点、あなたは違いそうね」
「……私を連れていくつもりか」
「そうよ。ふふっ、頭も良いじゃない、あなた。結構。どうかしら、フリーランスにならない?」
早田は顔を上げて聖の瞳を射抜く。
「紛れもなく本心のようだが、何故私なのだ。知っての通り、私は一般人だぞ」
「一般人にしてはイイもの持ってるわ。類い稀な身体能力、良過ぎる勘。素材としてはピカ一なの。それに、私たちも元々は一般人だったのよ」
「一般人がフリーランスに?」
疑わしげな視線を向けられても聖は喋り続けた。その弁舌は留まる事無く、むしろ、熱が篭っていく。
その光景を横目に、灯は事態がこれ以上進展して欲しくないと思い続けていた。先刻は聖に賛同する旨を述べていたが、これ以上、一般人を巻き込みたくなかったのである。
だが、早田は灯が思っていたよりも話に耳を傾けていた。聖の自分勝手な言い分に、時折相槌を打ちもしている。雲行きが怪しいが、口は挟めない。『灯』はあくまで『聖』の妹、彼女よりも立場は下なのである。そう、作られていたのだから。
「どう、悪い話じゃないでしょう? 今までの自分に未練がないなら、『教会』になりましょうよ」
「未練……」
真剣に考え込む早田を見て、灯はお願いだからこちらには来ないでと、そう思うしかなかった。
未練なら、ない。
早田は聖の話を聞きながら、フリーランスになるかどうかを本気で考えていた。これが『教会』の甘言だとは気付いている。
だが、拒めない。笑い飛ばせない。
――だって、拒む理由なんてないじゃないか。
一たちには置いていかれ、見捨てられ。自分の居場所はもう、この世にはないのだと諦めている。世界に、自分に、全てに。だったら、良いのではないか。今までの生活を捨てて、フリーランスと呼ばれ、人外に堕ちるのも良いのではないのか。
「どう? ああ、考える時間はあげられないけど」
時間なんて必要ない。どれだけ時間が経つのを待とうが状況は変わらないのだから。一に捨てられた事実は変わらない。もう何も、覆らない。あの頃には帰れない。日常には戻れない。
「……フリーランス、か」
声に出してみると、存外としっくりと来る響きだった。
ああ、自分はこんなにも必要とされている。空っぽな自分を焦がれてくれている。
それが今だけだとしても。今だけは、今だけは自分の存在が望まれている。
だったら――
これが複写機、一般的にコピー機と呼ばれているものだとは理解している。
「ううん」
大学の構内のコンビニエンスストアに設置されたコピー機の前で、早田早紀はただただ唸る。
知っている。知っているのだ。だが、使い方が分からなかった。これはどのように動かすのだろう。隣でコピー機を使いこなす学生に聞けば良いのだが、早田にはそれが出来なかった。
怖いのだ。
他者に話し掛ける事が怖くてたまらない。
拒絶されたらどうしよう。一度は受け入れられたとしても、次はどうなるか分からない。
なら、最初から独りでいる方が良い。
そう思ったのは、早田が中学に上がってからの頃だった。
小学生までは、彼女は普通の少女と変わらぬ扱いを受けていたのである。
だから、自分が尊大な物言いをしていたのと、人間離れした運動能力を持っている事に気付けなかった。
自分は、特別な人間だと思い上がっていた。
他者を敬わず、見上げる事が出来なかった。
他者を侮り、見下す事しか出来ないでいた。
やがて周囲からは孤立していき、その時になって初めて、足が速いだけでは、高く飛べるだけでは人心など掴めないと気付く。気付いた時にはもう遅く、取り返しが付く筈もなかった。話し方を変えようにも、持って生まれたものを矯正させるのは難しい。強制は出来ても、所詮は付け焼刃だ。
親を恨む。どうして教えてくれなかったのかを。どうして自分は普通ではなかったのかを。どうして、普通に産み、育ててくれなかったのかを。筋違いも甚だしい。分かっていながらも、そう母親に告げた時、母は何も答えてくれなかった。ただ、悲しそうな目で見つめられ「ごめんね」と頭を下げられただけ。
情けなくなった。死にたくなった。
かと言って、死ねるとも現状を変えられるとも思えなかった。せめてもの逃げ道として、卒業した高校からは遠いところにある大学を選んだ。ここなら自分を知っている者はいないと、そう思って。
変わる筈もない。
人間はそう簡単に変われるものではない。
入学して一ヶ月。何も変わらず、友人どころか話せる知人さえ作れないまま、時間だけが過ぎていく。
これで良いのかもしれない。ああ、これは罰なのだと。今まで侮っていた人たちへの償いなのだと。いつの間にか、独りでいる事に理由を作っていた。
――馬鹿だ。私は。
「ふっ」
知らずの内に口元が歪む。
「笑ってんじゃねえよ!」
コンビニ内に突然響き渡った怒声に、早田の小さな肩は震えた。自分は笑う事すらも許されていないのだろうかと声のした方を盗み見て、もう一度肩が震える。
「楯列衛だ……」
呟いた言葉は、周囲の喧騒に掻き消されていた。
店内に入ってきたのは駒台でも有数且つ有名な変態、楯列衛である。
しかし、早田の目には話に聞いていたのとは違う人物に映った。確か、楯列は独りで行動しているのではなかったか。なのに、今の彼は見知らぬ男子学生を引き連れて……引き連れられている。あの変態をリードする学生は一体何者だろう。
楯列たちに興味が沸くと同時、裏切られたとも思ってしまう。
彼らは自分と同じような人間だと思っていたのに、今の楯列は酷く楽しそうだったからだ。
普通の友人と、普通に話して、普通に学生生活を送っている。
またしても、自分だけ辛い目に遭っているじゃないか。『楯列』ですら友人がいると言うのに、自分ときたら……。
「あ」
気を取られている場合じゃない。ここへはコピーをしにきたのだ。その事を思い出し、緩やかな絶望が早田を侵食していく。コピー機の使い方なんて、分からない。
何も、分からない。
足元が崩れていく感覚。目眩を覚え、吐き気を催す。自分はこんなにも、脆弱な人間だったろうか。独りでいると、人間とはこんなにも弱くなるものだろうか。
倒れて、しまおう。
ここで意識を手放して、冷たい床に身を投げ出してしまおう。子供じみた、自暴自棄な考えに身を焼かれ、早田の体がぐらりと崩れ落ちる。
「おい」
崩れ落ちる寸前で、体を無理矢理支えられてしまう。
「え、あ……?」
「うわ、意外と重いのな」
「な……」
困惑する早田をよそに、彼女を支えたままの男は喋り続けていた。
早田は慌てて男を振り解き距離を取る。顔が、真赤になっていた。
「なっ、何をする!」
「あーごめん。そこで倒れられたら邪魔だったから」
そう言って、男は屈託なく笑う。
それだけで、早田にとっては充分だった。