誰?
「安心せい、峰打ちじゃ」
小刀を袖の中にしまった槐は満足そうに、意識を失っている聖へ告げた。
「峰打ちでも死ぬ事があるって聞いたぞ」
「む、そうじゃったか?」
と言うか峰打ちではない。
「つーか、すげえうわーって感じで飛び掛っていったけどさ。怪我、大丈夫なのかよ」
「阿呆、わしらを痛め付けた奴に報いる絶好の機会だったのじゃぞ」
「……怪我の事を聞いてるんだけど」
一はその場に座り込んで槐に視線を送る。彼女は露骨に目を反らしていた。
「ま、そんだけ動けりゃ大丈夫そう、か。問題は……なあ、この人死んでないよな?」
「無論じゃ。ちいと血を流させ過ぎたかもしれんがの」
「本当かよ……」
聖が敵であるにせよ、槐を座敷童子であり続けさせる為には、なるべく早く医者を呼んだ方が良いだろうと一は判断する。
「しかし、ぬしの力は凄いのう。今までの役立たずぶりが嘘のようじゃ」
「役に立たなくて悪かったな」
槐は「冗談じゃ」と、一の肩をぽんぽんと叩いた。
「一、あの小僧を助けんで良いのか?」
「神野君? ああ、もう終わったみたいだよ」
年下ながら何とも頼もしい同僚である。一はアイギスを畳み、あちらの戦闘に目を向けた。
あちらの戦闘こそ、神野と灯の戦いは一合で終わった。灯が臨戦するより先に、神野が聖骸布を弾いたところで、である。
「ひ、卑怯です」
灯は座り込んだまま、神野を恨めしい目付きで睨んでいた。
「涙目で言われても困るんだけど……」
「邪魔しないって言ったじゃないですか」
「一分待ったじゃないか」
「そっ、それとこれとは話が別です!」
灯はぎゃあぎゃあと泣き喚いて神野を困らせ、呆れさせている。
「……悪いけど、向こうも決着は付いてる。姉さんなんだろ? さっさと病院に連れて……いや、ここ病院だったっけ」
「わ、私を殺さないんですか?」
「そんなのごめんだって言ったろ。ほら、運ぶの手伝うから」
神野は灯に手を差し伸べた。
「主が、言っておられるからですよ……」
彼女は頬を赤らめながら、躊躇いながらもその手に自分の手を重ねた。
聖、光、灯。『教会』は倒れ、ここに彼女らとの決着は付いた。一たちは勝利したのである。何の為に戦ったのかも、誰の為に血を流したのかも、何もかも分からないままに。
だが、勝ちは勝ちである。
その後、一たちの懇願によって『教会』の面々と負傷した者たちは病院のベッドに運ばれた。
そして時刻は午後九時。『教会』との戦闘が終わって二時間は経った頃だろうか。
「一、妹は大丈夫なのか?」
「ああ。神野君に送ってもらった。今頃は家に帰って寝てるんじゃないかな」
一と槐は今、無茶苦茶になった状態のロビーにいる。彼らは適当なソファを占領して、雑談を交わしていた。
「ぬしが送らんで良かったのか? あの娘、一と一緒に帰るやどうのと泣き喚いておったが」
「まだ聞きたい事があったからな」
「……わしに、か?」
「いや、お前らに、だよ」
一は荒れ果てたロビーを見渡す。
「しかしひでえな。壁は壊すわ床は抉るわ、皆やり過ぎじゃないか」
「それだけ激しい戦いだったんじゃ。今更じゃが、ぬしが生きていた事に驚いてしまうのう」
槐は一を見定めるような、無遠慮な視線を送った。
「運が良かっただけだよ」
「……そう言えば、ぬしは戦いの最中、何か聞こえていたと言っておったな」
「ああ、お前には聞こえてなかったのか。ほら、栞さんたちが戦っていた時の音だよ。壁が砕けたり、ジェーンが銃を撃った時の音」
「むう、悔しいがさっぱりじゃ」
やはり、血。
一は自らに流れるソレの血を、恨むと共に感謝する。少なくとも、そのお陰で窮地を脱するきっかけが生まれたのだから。
「む、どうした一、考え事か?」
槐に下から顔を覗き込まれ、一は仰け反った。
「失礼な奴じゃのう」
「悪い悪い。……なあ、楯列が来る前に聞いときたい事があるんだけど」
一は一度言葉を区切り、頭の中を整理していく。
「『教会』は何を狙ってたんだろうな?」
「愚問じゃな。わしに決まっておるだろう。それ以外に奴らが動く理由はない」
「……お前、あいつらと会うのは何度目だ?」
槐は僅かに目を見開き、その事を一に悟られないよう顔を伏せる。
「初めてに決まっておるじゃろ」
「じゃあ楯列とは?」
「……何じゃと?」
思わず上げてしまった顔。合わせてしまった目。今更避ける事など出来ず、槐は一の視線を真っ向から受け止めていた。
「あいつとはいつから会ってたって聞いてんだよ」
「衛とも、先日顔を合わせたばかりじゃ」
初めて出会って、その相手に刃を突き立てた。一は笑ってしまう。
「嘘だよ、そりゃ。全部話せ。隠してる事も何もかも、洗い浚い話してもらう」
槐は再び俯いてしまう。もはや、暗にそうだと認めているに等しかった。
「楯列が来てからで良い。だけど、絶対に話してもらう。どうしてこうなったのかをな」
一はソファに深く身を沈める。疲労している筈なのに、不思議と眠気は襲ってこない。それどころか、体は昂ぶっている。頭は冴え、血は熱く、感覚は鋭さを増していた。
――かつん。
耳は確かにその音を捉えている。こちらに向かってくる、一人分の足音だ。恐らくは楯列のものだろうと思い、一はそれ以上何も思わない。気にも留めない。
「一っ!」
「あっ?」
体が、宙に浮いていた。何が起こったかも把握出来ずに一はソファから身を投げ出される。呻きを上げて床に落ちれば、すぐ横にソファも横倒しになっていた。埃が舞い上がり、彼の鼻腔をくすぐっていく。
「……あっぶねえ」
冷や汗が背中を流れる。槐は無事だろうか。一はほうほうの体で立ち上がる。
と、無事だったらしい彼女は鋭い視線をこちらに向けていた。俺のせいじゃない。そう言おうとしたところで、そうじゃないのだと気付いた。彼女は自分の後ろにいるモノを睨んでいるのだと。
「……早田」
振り向いて、一はぞくりとした。久方ぶりに出会った早田からは一切の感情が消えていたのである。置いていかれたという悲しみも、彼女を置いていった自分たちに対する怒りも、ましてや再会出来たという喜びもなかった。
早田はただ、一を見ているだけである。
「先輩、久しぶりだな」
抑揚のない、感情の篭らない平坦な声。
一は気圧されながらも、早田を見つめ返した。
「よう、ここが良く分かったな」
「病院に行くと奴が言っていただろう?」
――馬鹿野郎。
心中で余計な事を言っていた楯列に毒づき、一は後ずさる。早田が一歩、足を踏み出したのだ。
「探し回ったぞ。大小問わず、駒台の病院をしらみつぶしに回った。先輩がいないと分かる度に、私の心は擦れていった」
「お疲れ様。ジュースでも飲むか?」
「走っている内に思うのだ。私は何をしているんだろうとな。段々と、分からなくなってくる。先輩と会いたいのか、それともただ走りたいのか」
早田はまた一歩足を踏み出す。彼女の雰囲気のただならぬものを感じて、槐は一と早田の間に割って入った。
「娘、お主……」
「常の私なら、先輩の姿を見掛けた瞬間嬉しさのあまり飛び付いていただろう。だけど、そうはならなかった。私は先輩の座っていたソファを蹴っ飛ばしていた。嬉しいが、憎い。相反する感情が私にブレーキを掛けている。なあ先輩、私はどうしたい? 何をしたいんだ?」
「早田、少し落ち着いてくれ」
ひまわりのような笑みを浮かべる後輩は、ここにいない。静かな狂気を秘めた早田に、一は恐怖を感じていた。
「ろくな説明もしないでほっぽり出したのは悪いと思ってる。だけど、お前を巻き込みたくなかったんだ。それでも俺を許せないってんなら、とりあえず殴れ」
「殴れ? 殴ったところで、私の気持ちはどうにも変わらないぞ。だが……」
早田は一との間に立つ槐を無視して進む。
「先輩が殴れと言うのなら、そうしよう」
「待て、一に手を出すな」
槐が口を挟むが、一は彼女に「良いんだ」と声を掛けた。その声からは、半ば諦めの色が感じられる。槐は納得していなかったが、渋々といった形で離れていく。
「やれよ」
一が自分の右頬を指で示した瞬間、早田は拳を振り上げていた。決して、早くはない。ついさっきまでフリーランスと戦っていた彼には、彼女の拳が自分の頬に届くまでがはっきりと見えていたのである。
――避けろ。避けろ。避けろ。当たると痛い。
「――――っ!?」
その、示していた指ごと殴られた。倒れる事も、フリーランスに殴られた時ほどの痛みもなかったが、一の心だけがやけに痛んでいる。じくじくと、ずきずきと、奇妙な喪失感で胸が一杯になっていく。
「今ので許しを乞う先輩ではあるまい。こちらを向いてもらおうか」
「まだ、殴り足りないのかよ」
「殴られたくないのか?」
フリーランスより厄介な奴だと思いながら、一は言葉を選んだ。
「俺はマゾじゃないんだ」
「いいや、先輩は充分にマゾだと思うぞ」
言って、早田は一の左頬を殴り抜く。その際も彼女は無表情のままであった。
「許して、欲しいのか?」
正直に言ってしまえば、一には分からない。早田に許してもらいたい。その気持ちは確かにあった。だが、そうなれば置いていった意味がなくなってしまう。彼女は、彼女だけには日常に戻って欲しい。こちら側を知って欲しくない。だから、ここで縁を切ってしまえば目的は達成される。だから、揺れる。
「許して欲しければ、今、ここで、私を抱け」
「えーと……」
この馬鹿は何を馬鹿な事を言っているんだろう。どう返すのが適切なのか。
「先輩はまだ、だろう?」
早田は一の襟元を引き寄せ、そっと囁く。
顔に吐息を吹き掛けられ、一の背筋がぞっと粟立った。が、早田の顔からは表情が死んでいたので、甘やかな気持ちは爆発的に萎えてしまう。
「まだって、何が?」
「とぼけなくても良い。先輩はまだ初体験を済ませていない筈だからな」
一は押し黙った。答える義理はない。それ以上に認めるのが悔しいのである。
「先輩ともあろうものが、まさか怖いのか?」
「違う」
童貞なんて、捨てられるものなら捨ててやりたい。だが、アイギスを得る為にアテナと契約した身では、二度と叶わない。一生純潔を貫き通す事が、一が勤務外でいられる絶対条件なのだ。そしてまだ、女神の加護を手放す気はない。
「安心しろ、私もまだだ。だから、もらってくれると嬉しい」
「だったらもっと嬉しそうな顔しやがれ」
「済まないな。だが、私が無表情キャラをやっているのも先輩のせいなのだ」
「……まさか、別路線を開拓しようなんて思ってるんじゃねえだろうな」
早田は何も言わず、一の頬を殴った。流石に予想外だったのか、彼は後ろに倒れていく。
「先輩はまだ自分の立場を分かっていないらしい」
早田は倒れていく一の襟元をしっかりと握り、無理矢理に自分の顔近くまで持ち上げた。
「どうやら、徹底的に教え込む必要がありそうだ」
「何を、だよ……」
「ナニカを、だ」
「そこまでにしてくれないか?」
振り下ろし掛けた拳を止め、早田は顔を上げる。そこで、彼女は今日ここにきて初めて感情を露わにした。
「やあ、久しぶりだね早田君。僕は君に二度と会いたくなかったのだけど」
「きさまぁ……!」
場の空気を全て掻っ攫うような声で、爽やかに謳い上げるのは楯列である。彼は無警戒に、一種悠然として歩みを進めていた。
現れた楯列を見遣り、槐は溜め息を吐いた。
「やあ、一君。殴られている姿もキュートだね」
「……てめえ、今頃出て来やがって」
「良いタイミングだと思うけどなあ」
早田は一から手を離し、今度は楯列へと詰め寄る。
「説明もなしに放り出すとは、やってくれたじゃないか、楯列」
「ありがとう。ふうん。なら、今の君に説明をすれば許してもらえるのかな?」
「許しはしないが、貴様の顔面を殴るのは千発から九百発にしておこうか」
「太っ腹だね、早田君は」
楯列は早田を見下ろして薄く笑った。何をするのかと思えば、彼は槐に目線を向ける。
――ああ。
槐は覚悟を決めた。彼は全てを話すつもりなのだろう。ならば、自分は認めるより仕方ない。願わくば、彼が彼らに嫌われないように。
一は床に座り込み、楯列に事のあらましを話すよう促していた。
「早田、話が終わるまでは手を出すなよ」
早田は一に返事をせず、壁に背を預ける。彼女の顔はまた、無表情なものになっていた。
「それじゃあ、何から話そうか」
「全部、最初っからだ」
楯列は鷹揚に頷いた。
「……分かったよ。うん、あれは、二十年以上も前の、雪がちらつく寒い日の事だった。僕こと楯列衛は楯列家の第一子として産声を上げて……」
「ちょっと待て。そこ、飛ばせないのか」
雲行きがのっけから怪しくなりそうだったので、一は話を中断させた。
「最初からと言ったじゃないか」
最初過ぎる。
「融通の利かない奴め。だったら仕方ない、俺の質問に答えていってくれ」
「良いとも。さあ、一君は僕のどの部位が気になるんだい?」
「……お前と槐の関係についてからだ。妹じゃないってのは聞いてる。だけど、それだけじゃないだろ」
一に無視され、楯列は大仰に溜め息を吐いた。
「答えろ。お前は槐と、いつ出会ったんだ」
「僕の好意には鈍いくせ、こんな事には鋭いんだから。……そう、そうだね。僕は槐君と初対面じゃない。もっと前に知り合っていたんだ」
「具体的には?」
「生まれた瞬間からさ。正確に言えば、彼女とは僕が生まれる前からの付き合いになるのかな」
驚きはしない。一は槐に視線を向け、彼女の挙動を確認する。
「ああ、嘘じゃないよ。楯列家はね、座敷童子との縁が深い一族なのさ」
「縁?」
「僕も詳しくは知らない。座敷童子のいる生活が当たり前になっていたから、疑問にすら感じなかったんだ」
そんな生活聞いた事がない。一はとりあえず続きを促した。
「楯列は座敷童子のお陰で富を築いていったのさ。ピーク時には、二桁を越える座敷童子が家に居着いていたらしい」
「二桁って、そんなに集まってきてたのか?」
そこで楯列は自嘲気味に笑い、力なく首を振る。
「いや、集めたのさ。力ずくかもしれない。知恵を絞ったのかもしれない。だけど、結果から見れば誘拐と変わりないだろうね」
「……槐も、集められた内の一人だったんだな」
槐は答えなかった。一の問いがくだらないものだと笑っているのか、怒っているのかとも判然としない。
「座敷童子たちも数が多いから、楯列の内、特定の誰かに取り憑くのが当たり前になっていてね。槐君は僕を担当していたんだ」
「生まれた時から、か。じゃあ、槐は妹ってより姉ちゃんだな」
「だと愉しかったんだろうけど、残念ながら、そうはならなかったよ。槐君とは一ヵ月も経たず別れてしまったからね」
楯列はそう言ってから、僅かに顔を曇らせた。
「どころか、最終的には全ての座敷童子が消えてしまったのさ。ここ数か月の間にね」
「数か月……?」
一は眉根を寄せる。数か月なんて、本当に最近の話じゃないか。
「徳、格の高い者から順々に消えていったよ。彼らがいなくなるたび、家には不幸が舞い込んだんだ」
「は、いいざまだ」
「……早田」
吐き捨てるように言った早田を窘めると、一は再び楯列に向き直る。
「それで東北に、槐のところまで行ったのか」
「実際に会うまでは槐君かどうかとは分からなかったけどね。座敷童子なら誰でも良かったんだよ。残念ながら、良い出会いとは呼べないものだったけれど、ともかく僕は槐君と出会えた」
槐はばつが悪そうにしてそっぽを向いた。
「目的は槐を連れて帰る事だったのか。でも……」
「ああ、上手くはいかなかったよ。先客がいたからね」
「『教会』、か」
一は独り言のように呟き、シスターたちを思い出した。
「彼奴らはしつこかった。二週間もわしを追い回して、家の者にも迷惑を働いておってな」
「そうか。ま、三百年も世話になってる、いや、している人たちだもんな…………あれ?」
「どうした、一?」
「お前、ずっと東北の旅館にいたんじゃなかったっけ?」
槐は言い辛そうにして俯いたり、一と視線を合わせては反らすのを繰り返す。
「その、わしは外の世界を見てみたかったんじゃ」
「取り憑いた家から出られないんじゃなかったのか?」
「いや、座敷童子は出ないだけだよ。彼らは義理堅く、情に厚い。だから、一度取り憑いた家からは滅多に出ないんだ。でも、取り憑く対象や時期ってのは僕らが思っているよりも自由なのさ」
どうやら、槐は元々いた場所から楯列家の者に付いていったらしい。
「それで、どうして槐は元の場所に帰っちまったんだ?」
「……駒台、この街から嫌なモノを感じたのじゃ。わしら座敷童子は幸せをもたらし、幸せに敏感じゃが同時に不幸に敏感でもある」
「嫌なモノって、何だよ。槐が駒台に来たのは二十年も前だろ? その頃にはまだ、ソレなんて……」
――ソレなんて、いなかった?
本当にいなかったのか? お前らは本当にいたのか? 言い掛けた言葉を飲み込み、一は槐を茫然として見つめた。
「……? わしが感じたモノの正体は分からん。じゃが、わし以外の座敷童子もここから逃げ出していった。ふ、そして今、わしらの予感は当たっておったと痛感しておるよ。この街は狂っておる」
「狂ってる、だって?」
楯列も早田も声を発する事無く、槐が次に何を言うのかを待っている様子だった。
「一、ぬしは何も思わんのか? 人を外れた力を持つぬしら、先の女子らや、わしらソレを含め、駒台には禍々しいモノが多過ぎる。まるで、ここには魔が降りておるようじゃ」
魔が、降りている。そう言われて、一は何も言えないでいた。
「駒台とは言ったものじゃな。さて、次は何を聞きたい?」
頭が追い付かない。一は必死に脳内から疑問を引き出そうとするが、的確なものは見当たらない。
「――槐ちゃん、君は何故楯列を刺したのだ?」
しどろもどろしている一を見兼ねたのか、沈黙を守っていた早田が口を開いた。
「……ふむ。そう、じゃな」
槐は楯列に目線を送り、ゆっくりと言葉を紡いでいく。
「今思えば、八つ当りだったのかもしれぬな」
槐はおどけてみせたが、彼女の声音からは悲哀の色が見て取れた。
「『教会』には追い回され、久方ぶりに出会った人間はわしの事を覚えておらなんだ。挙げ句、無理矢理にわしを連れ出そうとしおった」
「済まない、槐君。僕は……」
「もう良い。こうしてぬしに出会え、再び外に出ようと思えた。それだけで、もう良いのじゃ」
「……ちっ」
早田は舌打ちをして、楯列たちから顔を背ける。
「結局、『教会』の目的は何だったんだろうな」
「彼女たちの目的は槐君だよ。それは間違いない。ただ、槐君を使って何をするかまでは分からないんだけどね」
後で本人たちに聞けば済む事だと思い直し、一は頭を掻いた。
「何となくだけど、大筋は掴めてきたよ」
「……ああ、そうだな」
一に同意する形で頷いた早田は、キッと楯列を睨み付ける。
「充分に分かった、理由とやらが。今日の事は楯列、お前らが座敷童子を囲んだせいで起こったんだとな」
「早田、その言い方は……」
「間違っていないだろう? こいつらが槐ちゃんたちに見捨てられ、未練がましく追い掛け、すごすごと戻って、私たちの街に不幸を招き入れた! 何も間違っていないっ、そうだろう!」
早田は今にも楯列に掴み掛からんばかりの勢いである。一方の彼は何を言おうとするでもなく、黙ったまま俯いていた。
「……許しは乞わないのか? 謝罪の意思を見せろ。何とか言ったらどうなんだ、疫病神が」
「殴らないのかい?」
涼しげな顔で、涼しげな声で。でも、彼の目だけは冷たくて。
「殴らないのかい、と聞いたのだけど」
「…………っ!」
「早田!」
早田は正面玄関から病院を飛び出していた。見る見る内に、彼女の後ろ姿が遠くなっていく。
「行きなよ、一君」
追い掛けるかどうか迷っていた一に楯列が声を掛けた。
「話はまた後でしよう。槐君」
「うむ」
槐は頷き、外へ出ようとしていた一に「しゃがめ」と命ずる。
「……ああ」
一は時間がないとごねようとしたが、言う事を聞いていた方が時間を無駄にしないと判断した。
こうしている間にも、早田は遠くへ行ってしまう。自分から離れていってしまう。今日見つけだして、彼女の手を掴まえられなければ、もう二度と会えない気がしていた。
「心配するでない。ぬしにはわしが付いておる」
優しげに囁くと、槐は一の手に頭を乗せる。
「……おいこら」
「暴れるでない」
まるで子供扱いだ。しかし、一は槐の年齢を思い出して何も言えなくなる。それに、彼女の手は存外に気持ち良かった。
「……うむ、良いじゃろう。一、行ってまいれ」
「これさあ、何の意味があったんだ?」
「あの娘、思い詰めておった。放っておけば何をするか分からぬぞ、一」
「無視すんじゃねえよっ。……分かってる。早田は、必ず連れて帰る」
槐は満足気に微笑む。
「わしは奴に借りがある。助けてもらった恩を返させてもらうからな。一、任せたぞ」
任された。一は立ち上がり、駆け出す。
走れ走れ、今度は男が走る番。
病院のロビーに残った二人は、一が出ていった後も玄関の自動ドアを眺め続けていた。
「のう、衛。ぬしらの関係は一体何なんじゃ?」
「ん、僕らの関係、かい?」
改めて問われると、答えはすぐに出てこないものである。それでも、興味深そうにこちらを見上げてくる槐を見て、楯列は思考の回転を早回しさせた。
「……友人、関係なんだろうね。多分、だけど」
「多分、じゃと?」
楯列は首肯する。
「それも、とても危ういバランスでね」
「何だか、わしには分からん世界じゃのう」
「はは、分からなくても良いよ。いや、分からないでいて欲しい、かな。僕にだってまだ分かってないんだから」
多分、一生分からない。だけど、一生変わらない。そうあって欲しい。危うく、怪しく、甘やかなバランス。
「この街が狂っているなら、僕たちも狂っているんだよ」
離れたくない。近付きたくない。積み上げて壊したい。元通りにして崩したい。
「魔が降りる街、降魔の街か。本当、駒台は狂ってるね。それとも、元から狂っていたのかな」
狂ったモノがいるからコマダイなのか。コマダイだから狂ったモノがいるのか。雲を掴むような話だと心中で苦笑し、外の景色に目を遣る。今日は良い天気だったと気付き、声に出して笑った。