大乱闘スマッシュシスターズ
「カンノ、行って」
「……置いてはいけないっすよ」
神野はジェーンに肩を貸しながら、彼女の様子を盗み見た。顔色は悪く、うっすらと汗もかいており、今にも倒れてしまいそうである。
「アタシなら平気。だから、お兄ちゃんを……」
「でも……」
ジェーンは神野の手を振り払い、自らの力だけで壁に寄り掛かった。満身創痍の彼女の瞳には、ぎらついた光が宿っている。
「行って」
有無をも言わせぬジェーンの語気に、神野はとうとう頷いてしまった。トイレの中に立て掛けておいたアイギスを掴み、溜め息を吐く。
「ここに隠れていてください。一さんを連れて迎えに来ますから」
「……うん、お願い」
どうか無茶はしないで欲しい。それだけをジェーンに願って、神野はトイレを後にした。
ここまでだ。立ち塞がる女は、目線だけでそう言っていた。
一人増えただけでは自身の勝利は揺るがない。絶対の自信を誇る鞭を捉えられたシスターは、己の浅はかさを呪うしかなかった。
右の鞭はヒルデに押さえられ続け、左の鞭は山田に殴り返され続け、遂には懐にまで潜り込まれている。
「乙女の柔肌に傷を付けやがって。貰い手がなくなったらどうしてくれるんだよてめぇ」
敗因は二つ。一つはヒルデの力を甘く見ていた事にある。シスターは細心の注意を払っていたつもりだったのだが、どうやら彼女に攻撃を見せ過ぎてしまっていたらしい。
「本当に見切られていたらしいですね」
山田は本能だけで鞭の軌道に食らい付いてきていた。
その分、彼女は何発か攻撃を食らっていたのだが、ヒルデは違う。彼女はパターンを完全に読み切っていたのだ。シスターは鞭を振るう際、何も考えず遮二無二やっていた訳ではない。本命の、当てに行く攻撃にフェイントを織り交ぜて何十ものパターンを作り、その上それらをランダムに振り分けていたのだ。相手を舐めていたつもりは一切ない。しかし、時間を掛け過ぎてしまったのである。長期戦になればなるほど有利だと信じ切っていた自分に非があった。
二つ目の敗因。山田を甘く見過ぎていた事である。シスターは真っ正面から向かってくるだけの彼女に脅威を感じなかったのだ。山田が一度膝を突いたくらいで、勝利を確信してしまったのである。腐っても、皮を剥がれても、肉を抉られてもフリーランス。
「……くっ」
そして、今更ながらに脅威を感じてしまっている。武器を奪われ、シスターは逃げる事すら叶わずに山田に見据えられていた。
「覚悟は完了してっか、おい?」
山田は肩を回しながらシスターを追い詰めていく。いつの間にか壁際に背を向けている事に気付き、シスターは恐怖すら覚えた。今から殴られる。分かっているのに、体は動こうともしない。見え見えのテレフォンパンチを避けられる自信が一欠けらも湧いてこないのである。
「行くぜ」
風が唸りを上げた。戦闘中にあるまじき行為だと知っていたが、シスターは目を瞑ってしまう。
「……?」
予想に反し、いつまで経っても衝撃はやってこなかった。恐る恐る目を開けてみると、山田の獣じみた笑みが視界を覆っている。
「何のつもりですか?」
情けを掛けられたのだと思い、シスターはなけなしの闘志を振り絞って虚勢を張った。
「おまえ、オレを一発殴ってみろ」
「……なんですって?」
驚いているのはシスターだけではない。山田の後ろにいるヒルデですら目を丸くしている。
「だから、先に殴って良いって言ってんだ」
気が違っているとしか思えなかった。敵に情けを掛けるどころか、目の前に迫った勝利を手放し、あまつさえそれを譲ると山田は言っている。
「信じろとでも? そんな事をしても、あなたにメリットなどありませんよ」
山田は豪快に笑い、拳を見せ付けるように突き出した。
「これはオレの自慢の拳だ。そんじょそこらの奴には負けねぇ。特に、てめえみたいな奴にはよ」
「大方、カウンターを狙っているのでしょうが……」
「かっ、ははっ。カウンター? 馬鹿かてめぇ。この距離でオレにそんなもん必要あるかよ。こいつはな、ハンデだ」
「ハンデですって?」
舐められている。馬鹿にされている。下に見られている。山田に対して沸々とした怒りが湧いてくる。
「そうだ。オレは強い。だからてめぇにハンデをやる。そうしねえと後味が悪いからな」
「言ってくれますね」
シスターだって紛れもなくフリーランスだ。鞭がなければ何も出来ない訳ではない。武器が失われた際の有事に備え、彼女もソレと素手で渡り合えるよう肉体を鍛えてきたのである。
「どこだ、どこを狙う? おら、顎か? 頭か? それとも腹か? あ、けど顔は止めろよ」
ここまでに油断し切った相手を仕留めるぐらい、容易い。山田の狙いは依然として読めないが、嘘を吐いているようには見えなかった。つまり、彼女は本当に一発もらう気でいるのである。
――その油断、命取りと知りなさい。
シスターは山田が大口を開けて笑っている隙を衝き、彼女の顎を右から振り上げるように殴り抜いた。鞭を捌く要領でスナップを利かせた、自分でも感心するくらいに手応えを感じる会心のパンチである。この一発で倒れないまでも、確実にダメージは通った。
「しっ……!」
跳ね上がった山田の顎を目掛けて追撃を狙う。もう一度アッパー気味に振り抜けば、脳震盪を起こせる筈だ。
「――おい、一発って言ったろ」
「なっ……!」
振り上げた拳を掌で包み込まれ、シスターは狼狽する。
山田は顔をゆっくりと下げ、シスターをまっすぐに見つめた。
「約束を破るなって親から教わらなかったのかよ、おい」
力は込められていない。だと言うのに、シスターは山田の手を振り解けないでいる。冷や汗が流れ、体は硬直していく。
「効いてないの……?」
「や、思ってたより痛かったぜ。こりゃちっとばかしお返しにも気合いが入るってくらいにな」
かはは。山田は口の端を歪めると、再び肩をぐるぐると回し始める。その度に風を切る音が鳴り、シスターの恐怖感をいやが上にも高めていった。
「オレは今からてめぇの胸を殴る。しっかりガードしとけよ」
「あ、く……」
気絶してしまえばどんなに楽だったろう。シスターは祈りを捧げる事も忘れ、ただただ神に己の無事を願った。
もう何度、頭を壁に打ち付けられただろう。一は痛みを堪える事などせずに、衝撃を受ける度に悲鳴を上げ続けていた。
「あははははっ、安心なさい一般人! あんたが簡単に飛ばないよう手加減はしてるから……ねっ」
「止めぬかっ、主の狙いはわしじゃろう!」
「うっさいのよソレ風情がっ、私はこいつにも用事があるのよっ!」
シスターは槐の懇願を聞き入れず一に暴行を加え続ける。
「主も言ってるわ、塵は塵に、やる時は徹底的にやれってね!」
「がっ……!」
一の額は真っ赤に腫れ上がって血が滲んでいた。彼は両手を使って少しでも衝撃を分散させようとしているが、度重なる攻撃から手の感覚は麻痺し始めている。
「貴様ぁっ!」
もう限界だ。槐は一を助けようとして、自分の怪我を押してまで釘を引き抜こうとする。
「座敷童子、動いたらこいつを殺すわよ」
しかし、彼女の行動を見越したシスターはポケットから見せ付けるようにして釘を取り出した。投擲用に使っていた小振りな釘ではない。接近戦で使うであろう、聖釘である。
「……必ず殺してやる」
「ふん、幸福の象徴が恐ろしい事を言うのね」
「わしがたたりもっけに堕ちようが関係ない。じゃがな、これ以上、わしを守ろうとした者に対して危害は加えさせんぞ」
シスターは鼻で笑い、一の髪の毛を引っ掴んだ。
「幸せ者ね、一般人。主も言ってるわ、あんたなんかに幸福はもったいないって」
「……槐、殺すなよ」
一はシスターを無視して槐に話し掛ける。彼の額からは血が流れ、髪の毛は乱れて悲痛な様相を呈していたが、目だけは光を失っていない。
「殺したら、俺が耐えてる意味もなくなっちまう」
「無視してんじゃないわよっ」
その事に腹を立てたシスターは一を無理矢理に壁へ押し付けた。
「良い度胸じゃない、あんた。気に入らないけどね」
シスターは一の髪の毛を掴んだまま、もう片方の手で聖釘を握る。
「殺しはしないわ。だけどあんたには主まで届くような悲鳴を上げてもらう」
一には抵抗出来る力が残っていなかった。いや、そもそも抵抗しようとも思わなかったのである。
「……あんた、さあ」
自分では何も出来ない。
自分には何一つ力がない。
アイギスを持たない自分は、勤務外になり得ない。
「耳、悪いんだな」
「何ですって?」
一の囁いた言葉に、シスターは目を見開いて驚愕する。手加減はしていた筈なのだが、もう壊れてしまったのだろうか、と。
「聞こえねえのかよ……」
「あんた、何が……」
シスターが一から手を離した瞬間、彼はずるずると、壁に手を付きながら滑り落ちていく。
「い、てえ……」
一の額から染み出している血液が壁に痕を残していった。彼は体力を振り絞り、シスターの正面を避けるように移動しながら、どうにかして壁に背を預ける。
シスターが三人。戦場が三つ。
病院内で起こっていた戦闘の全てが、同時刻、ほぼ同じ場所である事に誰が気付いていただろうか。
ジェーンと神野は病院一階のトイレでシスターと出会い、山田とヒルデは病院一階のロビーでシスターと出会い、一と槐はシスターと出会って、今現在は病院の一階にいる。
全員が、病院の一階で戦っていたのだ。
――だから。
「食い縛れよ」
山田は腰を低く落として拳を振り下ろす。彼女の宣言通り、その拳は胸元へと向かっていた。シスターは両腕でガードを試みる。
「ぐううう――っ!?」
「でえあああああっ!」
が、骨の砕ける音を聞いただけに終わった。山田の強烈な一撃はシスターの両腕を折っただけでは飽き足らず、彼女のブロックごと突き崩していく。
既にシスターの体は壁と拳に挟まれて押し上げられていた。足が地に着かないままに上り詰めていく。背後の壁がみしりみしりと音を鳴らしていた。
「くたばりやがれええぇぇっ!」
山田が咆哮する。
「でえぇぇあっ!」
勢いを殺さないまま、山田は一気にシスターを殴り抜いた。ひびの入っていた壁は破片を撒き散らし、シスターもろとも背後の空間へ吹き飛んでいく。
――だから。
一には聞こえていた。気を失いたかったのに、意識は痛みによって無理矢理に覚醒されている。感覚が鋭敏に研ぎ澄まされていた。壁の向こう側の様子が手に取れるように、である。
「あー、いてえ……」
一は壁に寄り掛かり、釘を持ったシスターを見つめていた。
「あんた、何を言って……」
シスターがまた一歩壁に近付いた瞬間、みしりみしりと異様な音が鳴り始める。一は乾いた声で笑っていた。
「何笑ってんのよっ!」
そう、自分一人では何も出来ない。
力がない。武器がない。戦いは好きじゃない。だからと言って、ここまでされて強者に尻尾を振って媚びへつらうのも、尻尾を巻いて逃げるのも真っ平ごめんだった。
だったら、
「そこ、危ねえぞ」
助けを求めれば良い。
壁にひびか入り、シスターの耳を劈く破砕音が立てられる。舞い散る破片、開いた空間、吹き飛んでくるもう一人のシスター。
釘を持ったシスターは悲鳴を上げる事さえ出来ずに、コンクリートの破片と、飛んできたシスターに正面からぶつかってしまう。予期しない事態に、衝撃を殺し切る事さえ叶わずに二人のシスターが床を転がった。
「一、無事か?」
槐の呼び掛けに一は手を振って答える。
「あ? はじめ、だあ?」
一にとって聞き覚えのある声が、割れた壁の向こうから響いた。
その人物は無警戒に穴から顔を突っ込むと、一の顔を見て豪快に笑う。
「お、おおっ、やっぱり一かっ、久しぶりじゃねえの!」
「……やっぱり、栞さんでしたか」
一は立ち上がろうとしてたたらを踏んだ。やはりまだふらついてしまう。
山田は嬉しそうにしながら一の傍へやってきた。だが、彼の様子を見た瞬間表情を険しいものに一変させる。
「……やったのはあいつらか」
「まあ、そんなところです。それより栞さんはどうして?」
「話は後にしようぜ。向こうにゃヒルデもいるしな、一も知ってる奴だろ」
「ヒルデさんも?」
色々と聞きたい事があったが、今は死地を抜け出す方が先だ。そう考えた一は槐の着物に刺さっていた釘を抜いてやる。
「大丈夫か、槐?」
「無論じゃ」
槐は一の手を借りる事無く立ち上がった。彼女は小刀を握ったままで、戦意を失ってはいない様子である。
「一、まさかこいつが座敷童子なのか?」
「知ってるんですか?」
山田は倒れているシスターたちを眺めながら、
「こいつらが言ってやがったんだ。へっ、そういう事か。オレにも何となく見えてきたぜ」
愉しそうに口の端を吊り上げた。
「ヒルデっ、こっちに来い! 残りをぶっ潰すぞ」
一には、顎でこき使われている筈なのに楽しそうに微笑むヒルデの入院生活が浮かんで見える。
「…………だめっ、もう一人来てる!」
「ああっ?」
山田は向こう側を見るために穴から顔を覗かせた。それに倣い、一と槐も襲撃者を確認しようとして覗き込む。
「…………あ、君も来てたの?」
「ヒルデさん、お見舞いに行けなくてごめんなさい。体の具合はどうですか?」
ヒルデは目を細め、一に柔らかな笑みを向けた。
「……ん、大丈夫」
「ああ、それは良かったです。退院はいつ頃に?」
「えーと……」
「やってる場合かっ! おら来やがったぞ!」
山田に一喝され、ヒルデは肩をびくりと震わせる。
「三人目か」
「『教会』は彼奴で最後じゃ」
一は廊下の向こうから、こちら目掛けて走ってくるシスターを見据えた。
――こいつら、似てる?
と言うより、むしろ同一人物としか思えない。『教会』の三人は区別が付かない。一は何故か一抹の不安を覚えてしまう。理由は分からないが、抗い難い悪寒が体中を駆け巡っていた。
「一とガキはそこにいろ。ヒルデ、オレらで仕留めるぞ」
「なっ、わしの事をガキと申したか!」
槐は山田に刀を向けたが、彼女は壁を乗り越え向こう側のヒルデと合流している。
「だって座敷童子じゃん」
「ええい、一、ぬしは黙っておれ!」
やっぱりガキじゃないか。喉元まで出掛かった言葉を飲み込み、一は素直に黙る事にした。
接触まで残り十メートル。シスターはポケットに手を突っ込み、釘を投げて牽制する。それに対して、未だ無傷のヒルデが前衛に立ち、怪我をしている山田を庇っていた。
ヒルデは拾っていた釘を巧みに操り、投げられた釘を弾いていく。
「…………栞ちゃん、大丈夫?」
「問題ねえぜ、理由が出来たからな」
山田が何故笑ったのか理解出来ず、ヒルデは小首を傾げた。
「一はやらせねえ。それだけだ」
「…………ん」
それを言うなら自分も、である。さっきまでのヒルデはただ山田にくっ付いていただけだったが、今は違う。今、後ろには一がいるのだ。守るべき相手が傍にいる。フリーランスと戦う理由ならばそれだけで充分に過ぎる。
しかし、だ。
ヒルデと山田は油断している。相手が一人、こちらが二人。既に『教会』の内二名を倒した。その事実が数的にも、精神的にも彼女らを優位にさせてしまっている。
「性に合わねえなあ……」
「栞ちゃんっ?」
遅々とした展開の戦闘が続いた後、後方で待機しているのに堪え切れなくなったのか、山田はヒルデの前に躍り出た。釘が何本か服をかすめてしまったが、そんな事を彼女は気にしてない。
「おら『教会』っ、いつまでもダラダラやってんじゃねえぞ!」
シスターは答えず、鋭い視線をもってしてヒルデらを射抜き続けていた。
「…………んっ」
その視線に気圧されたのか、ヒルデの肩に釘が刺さってしまう。彼女は僅かに眉根を寄せただけで、その釘を引き抜くと負けじとシスターを見据え返した。
「掛かりましたね」
「ああ? 何も掛かってねえよ、馬鹿かてめえ。さっさとこっちに来やがれってんだ」
業を煮やした山田が更に踏み込んだ瞬間、彼女の膝が崩れ落ちる。歩き出そうとするが、力が一向に入らない。気力だけは十二分に有り余っているのだが、体だけが言う事を聞いてくれなかった。その上、膝だけで立つ事も困難になり、遂には両手を使って床に四つん這いになる。
「……んだ、こりゃ……」
「マンディリオンに触れた者はそうなります」
シスターはいつの間にかマントのような布切れを愛しげに抱えていた。
「触れた、だあ?」
その時、山田の肩から布の切れ端がはらりと落ちてくる。
「く、釘に仕込んでおいたものです。本体の布から切り離されたモノでも、かすってしまえばマンディリオンは効果を発揮します。聖者には聖なる守りを。生者には裁きを。あなた方が骸になるまで生命力を頂いておきますね」
「誰がやるかよっ」
山田は助けを求める意味でヒルデに目を遣るのだが、彼女は既に床へと突っ伏していた。しかも寝息まで立てている。ただでさえ少なくなっていた体力が抜け落ち、彼女の意識も徐々に薄れていった。
どうして、ヒルデたちは眠っているのだろう。
戦局を窺っていた一にはどうにも解せなかった。
「一体、どうなってんだ……?」
寝息を立てているヒルデと、未だ動こうとしている山田の様子から判断して、彼女たちは決して死んでいるわけではない。まるで、急に力が抜け落ちたみたいだった。
山田の破壊した壁に出来た穴、そこから顔を出していた一の頭は事態の把握に努めようとしていて、動くのを忘れている。
廊下では二人の仲間が倒れ、最後の敵になるであろうシスターがゆっくりと、一歩ずつ近付いてきていた。
怖い。
さっきまで麻痺していた感情が、ようやくになってその機能を回復し始めている。
一の時間が凍結していた。思考が停止していた。
ヒルデ、山田。現時点で戦闘の出来る二人が倒れてしまった事により、残されたのは負傷した槐と自分だけ。相手は一人とはいえ、フリーランスだ。この状況はもはや一にとって絶望的と言える。
「――ぐうっ!」
一のすぐ上を何かが飛んでいった。ぎこちなく首を動かせば、向こう側の壁に槐が叩き付けられているのが見える。
――何が、起きた?
考えるまでもない。
「やってくれたわね……」
倒れていた筈のシスターが立ち上がったのだ。山田が殴り飛ばした方のシスターは依然として目を覚ます気配を見せないが、一の眼前で仁王立ちになっているシスターは致命傷を受けていなかったに過ぎない。
「か――――っ……あぐ……」
逃げ出す寸前、腹部に爪先を突き立てられて一は悶絶する。
「まさかこんなところにフリーランスがいるなんて。あんた、運が良いのね? それとも悪運が強いのかしら」
良い筈がない。一は言い返したかったが、声が出ない。それよりも息が吸いたい。
シスターは一の襟元を掴んで体を引き起こすと、壁の向こうへ乱暴に放り投げる。
「あんたの悪運もここまでよ、一般人」
「聖お姉様、大丈夫ですか?」
「ええ。灯、あなたも大丈夫かしら。怪我はない?」
「問題ありません。……あの、光姉様は?」
聖と呼ばれた方のシスターは壁の向こうを指で示し、
「両腕は確実に折れてるわ。多分、他にも何本か持っていかれたでしょうね」
呆れた風に溜め息を吐いた。
「良いようにやられてしまって、主もお嘆きになっているでしょう」
「……お姉様、状況はどうなっているのですか?」
「ああ、後はコレをやれば邪魔者は消えるって状況よ」
コレ。頭上で交わされる物騒な会話を聞きながら、自分の事なのだろうなと思い、一の気分は沈んでいく。おまけにお腹が痛い。だが、そのお陰で意識があるのだ。出来るならヒルデたちと同じように眠っていたかったのだが、そうもいかない。残ったのが役立たずの自分だけだとしても、何もしないでむざむざと殺されたくはなかったのである。例え千に一つ、万に一つとして生存への可能性が残されていなかったにせよ、だ。
「それじゃ、座敷童子以外は殺しておきましょうか。本当なら無益な殺生は好まないけど、主が言っているから仕方ないわよね。さ、灯、あなたはマンディリオンで二人をヤりなさい。私はエレナでこの一般人を始末するから」
「わ、分かりました」
自分の命も残り一分あるかないか。覚悟を決めて一は立ち上がろうとする。
「あら、しぶといのね」
シスターはよろけていた一の胸倉を掴み、彼の首筋に釘の先端を突き付けた。
「言い残しておきたい言葉はある?」
――だから。
自分の聴覚はどうなってしまったのだろう。そう思いながら、一は笑みを浮かべる。
「薄気味悪いわね」
「あんたさ、耳が悪いのか?」
だから、繋がっている。
病院内で起こった戦場は全て繋がっているのだ。一にはその全てが理解出来ていた。助けなんて求めていなかったのだから、助けてもらえる確率は恐ろしく低い。それでも、山田は壁を砕いてくれた。
「何を、言っているの……?」
「聖お姉様っ、新手ですっ」
灯と呼ばれたシスターの悲痛な声。その声を聞いて、聖は一から目と手を離してしまう。向かってきたのは少年だった。学生服らしきものを着た背の高い少年、神野である。
「聞こえなかったのかよ。響いてたろ、発砲音がうるさいくらいによ」
戦場へ参入した神野は、何事かを一に向かって叫び、光の頭上を越えるようにして何かを投げ付けた。
シスターたちの間隙を衝き、その何かは一の下へ、それが当たり前のようにして届く。彼はそれを拾い上げ、この世界に感謝した。
確率は限りなく低かった。
聖に壁へ叩き付けられていた時に聞いた音は二つ。壁の向こう側で何者かが交戦しているであろう音。この病院に山田とヒルデが入院している事を知っていた一には、二人の内のどちらかなのだと検討が付いていた。
もう一つは乾いた、高い破裂音。何発も何発も響くやかましい音であった。店長は嫌いだが、一は心のどこかで彼女を信じている。だから、必ず頼んだものを届けてくれると信じていた。頼んだものは、二つ。
「一さんっ、大丈夫ですか!?」
一は手を上げて神野に答えた。何となく察しが付いている。発砲音がしたという事は、ジェーンもここに来ているのだ、と。
どうやら、店長は約束を守ってくれたらしい。援軍も、
「何か、俺の悪運は相当らしいなあ」
アイギスも持ってきてくれた。
一はアイギスを広げる。それに反応して飛び退った聖に、彼は何を思ったか頭を下げた。
「……あんた、一般人ではなかったみたいね」
「初めまして、勤務外です」
一と聖とは離れたところで、神野と灯の戦闘は始まっている。が、一たちは動こうとせず、お互いの出方を窺っていた。
「主も言ってるわ、本当にしつこいわね、と」
「いやいや、もうすぐに終わるよ」
顔を強張らせる聖とは違い、一は穏やかな表情で、笑みさえ浮かべている。
「何、笑ってるの? あんた、さっきからどうして笑っていられるの?」
――あんたの間抜け加減にだよ。
もう何も怖くない。お膳立ては調ったのだから。
「最後に教えといてやるよ。俺の名前は数字の一が二つで一一、すっげー良い名前だろ」
「あんた、何を言ってるの?」
「ああ、つまり――おやすみなさい、聖お姉様」
聖が全てを理解するより前、一はアイギスを彼女に向けていた。
「ようやったわ、一っ!」
次に聖が目覚めた時、今回のお話はひとまずの結末を迎える事になる。そんな事は露知らず、メドゥーサによって動けなくなった彼女は今現在、何が起こっているのかすら分からず槐に切られているのであった。