息切れ之人
二十名の男が病院の裏口を固めていた。全員が全員黒いスーツ、黒いサングラスを着用しており、髪型は五分刈りである。
病院の敷地内で異様な風景を形作っている彼らの目的は、雇い主の命を守る事だ。引いては――
「あら、聖姉さん、何かいますね」
――目の前の、三人の女の足止めである。
女は三人が三人とも修道服を着ており、背丈も顔も同じに見えた。
どう見ても、普通のシスターにしか見えない。一般の女としか思えない。
しかし、黒服たちの体は強張り、緊張感が彼らをピンと張り詰めさせていた。何しろ、相手はフリーランスと呼ばれる人外なのである。数の上では自分たちが有利だと分かっていても、何分、いや、何秒持つのか分からないのだ。
「鬱憤を晴らすのに丁度良いわ、灯、エレナを」
「は、はい」
だと言うのに、シスターたちは臆する事無く近付いてくる。まるで、黒服の男達が視界に入っていないかのようにだ。
居並ぶ男たちを眺めた後、聖は地を蹴った。
彼女の両手指の間には小振りな釘が三本握られている。それを二十の的の内、三つに当たるよう狙って放った。数瞬後、彼女の目論見通り悲鳴が三つ上がる。
「アレを止めろおっ!」
聞こえてくる怒声に苛立ちながら、聖は突出していた黒服の懐に潜り込んだ。男の瞳はサングラスで隠されていたが、確認するまでもない。きっと、恐怖に彩られている事だろう。
聖は修道服のポケットから新たな釘を摘み上げると、男の腹部に容赦なく突き立てる。
「ぎいいいっ!?」
黒服たちは防刃ベストでも着込んでいるのか、感触は鈍かった。釘の先端をきっちり内蔵に到達させる為、聖は男の背に片腕を回し、突き刺さっている釘を残った掌で強く押したのである。釘が肉に食い込み、血の噴き出る鈍い音が響いた。抱き締められる形にされているので、男は逃げられない。
聖は激痛にのたうち回る黒服を突き倒し、仕掛けてきた二人の男を見据える。
驚嘆すべき事に、黒服は空手だった。自分たちの命を奪うつもりがないのか、それとも別に狙いがあるのか。
「どっちにしろ、舐められてるみたいで嫌な気分ね」
舌で唇を濡らすと、聖は釘を両手に構える。
左右から同時に飛び掛かる男たちを見遣り、聖はまず右の男の胸を掌で叩いた。
男の息は寸刻止まり、その間に聖は左の男を相手取る。放たれた拳を身を低くする事で躱すと、男の胸を裏拳気味に殴り付けた。
「聖姉さん、伏せてっ」
声に従って聖は頭を下げる。そのすぐ上を、しなるような音と一緒に風が奔り抜けた瞬間、男たちはくぐもった声を上げて倒れ込む。
男たちを倒したのは茨の形をした鞭、ピラトであった。
「すみません、遅れました」
申し訳なさそうに頭を下げる光を見遣り、
「結構、良いタイミングよ。灯は?」
「一足先に中へ。何人かが灯の後を追ったようですけど」
聖は嫌らしく笑う。
「主も言っておられます、問題はない、と」
「残りの者は?」
いつの間にか、黒服たちはじりじりと距離を詰めて聖たちを囲んでいた。
「私たちも二手に分かれて中に。追ってくる者だけ随時対応していくわよ」
「かくあれかし。では、主のご加護……をっ!」
光は胸の前で十字を切り、ピラトを握り締めて振り回す。棘の付いた鞭が男たちに襲い掛かり、ある者は腹を抉られ、ある者はサングラスを弾き飛ばされ、ある者はスーツごと地肌を持っていかれた。
その隙を衝き、聖は包囲の穴を見つけ出す。近くにいた男の足に釘を突き立て、彼女は振り返らずに病院内部へと向かった。
光は聖が正面に回っていくのを確認し、黒服たちを振り切って裏口の扉を開ける。
「……しかし、物足りませんね」
数人の黒服に視線を投げ掛け、光はつまらなさそうに呟いた。
一はごくりと唾を飲んだ。
「ふ、不死身の第二小隊?」
なんて頼もしい響きなんだろう。一は背後から、見えない男たちのパワーをもらった、ような気がした。
ベッドに寝そべる楯列は鷹揚に頷く。
「ああ、彼らはどんなところに行っても、必ず生きて帰ってくる事からそう呼ばれているんだ。多分、今頃は『教会』と交戦しているんじゃないかな」
「すげえ、名前だけで勝てそうな気がしてきたぜ」
頼もしさに一の気も大きくなる。彼は椅子に腰掛け、買ってきた缶のジュースを飲み干した。
「いや、それは無理だろうね」
「……相手がフリーランスだからか?」
「じゃなくて、彼らには危なくなったら逃げるよう伝えているからだよ。だから不死身。第二小隊の構成員は、普段庭の手入れをしていたり、掃除をしてくれている家のお手伝いさんが殆どだからね。相手が野良猫ならともかく、フリーランスじゃあ一分も持たないよ」
楯列は何でもなさそうに微笑む。
「ちょっと待て、それじゃあ意味がないだろうが」
「ただ、敵が病院内に侵入した事は教えてもらったよ。ほら、ついさっきメールが」
「もっと早く言えよっ!」
一は立ち上がって喚き散らした。まだ神野は来ていない。不死身、だなんて大層な応援が来たと言うからのんびりしていた部分もあったので、今更になって焦っている。
「じっとしてたら殺されちまうじゃねえかっ」
「いや、今のところその心配はなさそうだよ。『教会』は全員が上の階に向かっているそうだ。ははっ、金持ちと煙は高いところが好きだからね」
一は、楯列みたく余裕たっぷりには笑えない。
「どうすんだよ、マジで。いつかは見つかっちまうんだぞ」
「そうだね、迎え撃とうか」
「……はあっ!?」
「ここなら、暴れても誤魔化しが効くからね。一君、槐君、頼んだよ」
楯列は二人に笑い掛けてから枕に顔を埋めた。
「楯列、ちょっと待て。俺はまともにゃ戦えないぞ」
「知ってるよ。だから、槐君と二人で何とかして欲しいんだ」
「良かろう。行くぞ一」
「なあっ!?」
槐は事もなげに言い放ち、着物の袖から小刀を取り出す。
「わしなら心配いらんぞ?」
「いや、心配なのは俺だ。槐はともかく、俺には何もないんだぞ」
勤務外店員といえど、素手で戦場に放り込まれては何も出来ない自信が一にはあった。
「案ずるな、わしが一を守ってやろう」
槐は自信満々なのだが、一には信じられない。
「一君、彼女を信じてあげてくれないか? 槐君は座敷童子なんだよ?」
「座敷童子が戦えんのかよ?」
「無論じゃ。わしらは幸福を呼び込むと共に不幸を払う力も持っておるからな。家を付け狙う性質の悪いあやかし共相手に、三百年以上も戦い続けて来たんじゃぞ」
「……お前が? こんなちっこいのに?」
槐は無言で一の脛に蹴りを入れる。一は声にならない声を上げて床に這い蹲った。
「わしとぬし、二人で一人ずつ仕留めていくぞ。良いな?」
痛くて、返事など出来ない。一はただ、かくかくと首を振った。
「何か、人が少なくないか?」
病院一階の待合室にやって来た山田は首を捻った。幾ら平日と言えど、患者はおろか、ナースステーションや受付に誰もいないのはおかしい。そこそこに長い入院生活の中で、病院内に誰もいないというのは、彼女が初めて目にする異様な光景である。
隣のヒルデも目を瞑って何か考え込んでいる様子だったので、山田は声を掛けず、辺りをきょろきょろと見回していた。自動販売機のモーター音と、自分の足音だけがフロアに響いている。
「ちっ、つまんねえ」
山田は待合室のソファに腰を下ろし、退屈そうにあくびをした。
「ヒルデー、突っ立ってねえでこっち座れよ」
「…………ん」
こくりと頷き、ヒルデはこちらに山田の方へ向かう。
その足音に混じって、別の足音が廊下から響いた。重くない。軽くない。フリーランスである山田が耳を澄ませて、辛うじて聞こえる程度の音である。
「栞ちゃん」
「おう、気付いたか」
山田は立ち上がり、ヒルデと並んだ。二人して振り返れば、修道服を着た女が何か呟きながらこちらに向かってくるのが見える。
ただのシスターではない。彼女が茨の形をした鞭を持っている事だけでなく、身に纏った雰囲気から、山田はそう察した。そして恐らく、自分に近い種類のモノだとも気付く。
「よう、診てもらいに来たのか?」
目の前の女は、フリーランスだ。
湧き上がる闘争本能を押し殺しつつ、山田は人懐っこい笑みを浮かべる。
「……ここにお医者様はいないようですが」
「患者も見舞い客もいないみてえだな」
豪快に笑い、山田は一歩、シスターに近付いた。
瞬間、山田の目の前の空間がぶれる。シスターが手にしていた鞭を払ったのだ。
「お医者様も、患者も見舞い客もいない。では、あなたは誰ですか?」
シスターは強い敵意を込めて山田を見据える。それを受けて、山田は口の端を吊り上げた。
「れっきとした入院患者だ。隣のこいつもな」
「そうでしたか。では、失礼します」
頭を下げ、シスターは来た道を引き返していく。山田はスリッパでぺたぺたと床を鳴らしながら、彼女に近付いた。
「おいおい、待てよ。その手診せに来たんだろ?」
「なっ……」
山田はシスターの腕を乱暴に掴むと、無理矢理自分へ振り向かせる。
「血だらけじゃねえか、おい。痛くねえのか、これ?」
「はっ、離しなさいっ」
「っと、かはは、怒るんじゃねえよ――『教会』」
場が張り詰め、空気が凍り、シスターから漏れる隠し切れない殺意が山田の肌を突き刺していた。
「あなた、何者……?」
「かはは、良いじゃねえかそんなもん。気にしないで掛かって来いよ」
シスターは山田から距離を取り、彼女の姿を眺めている。
「勤務外……? いえ、むしろ私たちと……」
「つべこべ言ってんじゃねえぞ。今、オレは、むしゃくしゃしてる。それだけで充分だろうがよ」
「…………栞ちゃん、どうするの?」
くいくいと。ヒルデに袖を引っ張られ、山田は楽しそうに口角を吊り上げた。
「邪魔はすんなよ。オレと違って、お前はまだ万全じゃねえんだからな」
「…………栞ちゃんもじゃない」
「オレはもう完治してんだよ。って、おら、掛かって来いよ『教会』、そこはてめえのリーチじゃねえのか?」
シスターは信じられないと言った表情で山田を見つめる。
「あなた、まさかあなたも座敷童子を狙っているの?」
「ざしきわらし? んなもんに興味ねえよ。あるのは、お前だ」
「そう、ですか。私の邪魔をすると言うんですね?」
「ごちゃごちゃ言ってんじゃねえぞ、やるのかやらねえのか、どっちだ?」
山田はスリッパを脱ぎ捨てて裸足になっていた。シスターが「やらない」と言ったところで、従うつもりがないのは見え見えである。
「良いでしょう。主もあなたの事がお嫌い、だそうです。では、姉さんの露払いといきましょうか」
シスターは茨の冠で床を叩くと、パジャマ姿の二人組に視線を定めた。
「妙じゃのう」
一と槐は病室を出て、病院の正面玄関に向かっていた。店長が話を付けてくれているのなら、神野がアイギスを持ってそこに来てくれている筈、なのである。
「何が?」
槐は一の隣を歩きながら、せわしなく視線を動かしていた。
「気付かぬか一、人の気配が全くしない事に」
「……ああ、そういえば」
二人は階段までの廊下を歩いていたのだが、患者、医師、看護師、見舞い客。未だ誰一人としてすれ違っていない。病院と言う環境上、静かなのは当たり前なのだが、静か過ぎる。
「嫌な予感がするのう」
「皆、『教会』に殺されちゃったって事はないよな?」
「分からん。が、奴らにその気があったならば、あの病院でとっくに死人が出ていたろうよ」
「それもそう、なのかな」
むしろそうであって欲しいと願いながら、一は階段に差し掛かった。
「あら」
差し掛かったところで、修道服を着た女とぶつかりそうになる。
「っと、ごめんなさい」
一はすかさず頭を下げた。面倒事に巻き込まれたくなかったので、相手の顔も見ないまま、逃げるように階段へ足を掛ける。
「待ちなさい」
呼び止められても聞こえない振り。
「一、待つんじゃ」
槐に呼び止められ、一は仕方なく足を止めて振り返った。
「あなた、どういうつもり?」
「……ごめんなさい」
シスターは溢れんばかりの殺意を湛えて睨み付けている。しかし、ぶつかりそうになったぐらいで怒り過ぎじゃね? ぐらいにしか一は気にしていなかった。ちょっと頭のおかしい人なんだな。適当に謝ってやり過ごそう。そう思って。
「あなた、その子を連れてどうするつもりなの?」
その言葉を聞いた瞬間、一は槐を抱えて階段を駆け上がった。失念していた。女の風体から鑑みるに、アレは『教会』と呼ばれるフリーランスだったのである。
「離さぬか一っ、わしらは彼奴を仕留めに来たのじゃぞ!」
「いきなりじゃ無理だ!」
「第一、どうして上に逃げるんじゃ! 玄関へ荷を取りに行くと言っていたであろう!」
「しまったあ!」
裏目裏目に空回り。今日は何もかも上手くいかない。いや、そもそも上手くいったためしが今までにあっただろうか。一は泣きたくなってきた。
「待ちなさいっ!」
すぐ後ろからシスターの声が聞こえてくる。彼女の足音は騒々しく、一の焦燥感を嫌でも煽った。
「どうするんじゃ!?」
「上だっ、上に逃げる!」
下る事は出来ない。シスターの足は速く、廊下に行っても直線で追い付かれる。ならば階段をひたすら上っていくしかない。しかし、この病院は五階建てだった。
――どこかで追い付かれちまう!
「神野くーん!」
その声は、どこまでも情けなかった。
「一さん、遅いですね」
「お兄ちゃんったら、どこでオイル売ってるのカシラ」
病院の正面玄関前で待ちぼうけを食らっている男女が二人。
一人は竹刀袋と、雨も降りそうにないのにビニール傘を持っている、学ランを着た背の高い少年。彼は神野剣、一の同僚だ。
もう一人は背の低い少女である。彼女はウェスタンブーツに細身のジーンズ、フリンジ付きのウェスタンジャケットを羽織っていた。テンガロンハットこそ被っていないが、その出で立ちはもう充分にカウガールといったところだろうか。
「もう、レディを待たせるなんて」
そう言って頬を膨らます少女の名はジェーン=ゴーウェスト。一の妹、のような存在だと周囲には認識されている。
「ちょっと寒いし、中で待ってましょうか」
「そうネ」
神野はジェーンに対して敬語を使っていた。と言うのも、彼女は神野よりも年下なのだが、神野よりも立場が上なのである。アルバイトと社員。一の妹、と言うのもあってか、距離を計りかねているのだった。
「アラ、開かナイ……」
ジェーンは自動ドアの前に立って不思議そうに首を傾げている。
軽いからだろうか。神野はジェーンの隣にさり気なく立つのだが、ドアは反応しなかった。
「壊れてるんですかね」
「……バッドコールドがするワ」
「はい?」
ジェーンはジャケットの内ポケットからリボルバーを抜き取る。勤務外店員、及び社員は武器の携帯が許されているのだ。しかし、神野は突如現れたメタリックの凶器にたじろいでしまう。彼女は一体何をしようというのだろうか、と。
「あ、あの……?」
「裏口に回るわヨ」
神野の返事を待たず、ジェーンは建物の裏側に向かって歩いていく。
「ちょ、勝手に入って良いんすかー?」
「オールオアナッシング。アタシは社員さんなのヨ? ここは勤務外用の病院なんだから、ネ?」
「俺は知らないっすよ……」
言いつつ、神野はジェーンの後を付いていく。少し歩くと、二人は関係者用らしき通用口を見つけた。
「グッド、ここから入りましょうか……オープンセサミー」
扉を開くと、入り口のすぐ近くに大の男が三人、倒れているのが見える。
「だっ、大丈夫ですか!」
神野は驚いたが、一番近くに倒れていた男の傍に駆け寄った。
「しっかり、しっかりしてください!」
しかし返事はない。体を幾ら揺さ振っても、黒服を着た男たちは意識を失ったままである。
「……アームズを持ってナイ」
ジェーンは黒服の体を探っていたのだが、彼らは銃の一丁、ナイフの一本すら持っていなかった。
「カンノ、先に進むわヨ」
「この人たちはどうするんですか?」
「生きてるカラ置いとく。だれかが見つけてくれるワ。それよりお兄ちゃんを見つけなきゃ」
「……分かりました」
黒服を置いていく事に対して躊躇ったが、彼らが生きている以上、今は一を探す事が先決だと断じる。神野は意を決して立ち上がり、竹刀袋から竹刀を取り出した。戦場は、近い。いや、まさしくここが戦場なのかもしれないのだから。
「アラ、頼もしいわネ、サムライ」
「急ぎましょう。何だか、嫌な感じです」
首筋からちりちりとしたモノを感じ、神野は目を瞑る。……病院。閉鎖された空間があの日を思い出させる。『館』と戦った日の、あの時の昂ぶりを。
病院、四階の階段、そこの踊り場を抜けた一の体力はもう限界だった。追われている、その事実が精神的にも彼を疲弊させている。
「一っ、もう良い。わしは戦うぞ」
槐は一の手から離れ、踊り場にてシスターを迎え撃つべく立っていた。
「良い度胸じゃない、座敷童子っ」
踊り場の手前の段を飛び越し、シスターは両手から釘を放り投げる。
槐は放たれたそれを小刀の腹で弾き返し、切っ先を当てて軌道を逸らし、頭を下げて全ての釘を躱した。
が、シスターは回避されるのを見越していたのか、肉弾戦を仕掛けにいく。体格だけ見れば槐の方が不利となる。槐は接近されるのを嫌って、後方へ距離を取った。
その間、一は階段の上から離れて見ているしかない。手助け出来ない。だが歯痒くはない。絶対に戦いたくない。アイギスがあれば防御を引き受けられるのだが、それがない今、自分には何も出来ないと分かっているのだ。
「大人しく捕まりなさい……!」
シスターは釘を片手に持ち、遮二無二突いていく。槐は一歩も退かずにそれらを受け流していた。
――なんで、だ?
一は不思議に思う。先程の打ち合いを見ていただけだが、槐の力量は高い筈。シスターの攻撃をいなしなどせず、打ち返せば良い。あるいは逃げても良いのだ。彼女にはそれだけの力がある。
何故そうしないのか。その事に思い当たった瞬間、一の体は勝手に動き出していた。今なら、シスターの虚を突ける。
階段から飛び降り、シスターの背中目掛けて、
「いい加減にしやがれってんだ!」
「いっ――た!」
着地した。
一はシスターと縺れながらも立ち上がる。彼女は背中に走る痛みからか、まだ起き上がっていない。
「逃げるぞ」
「なっ、まだ彼奴を仕留めておらん!」
構わず、一は槐の手を引いて階段を下っていく。
「一っ」
「殺しちゃ駄目だ、そしたら今度は本当にたたりもっけになっちまうぞ」
「じゃが……」
「悪いけど、楯列のやった事は無駄に出来ない」
追っ手の一人を潰せる機会だったが、槐に人間を殺させる訳にもいかない。何より、他人とあっても、それが例え敵であっても誰かが死ぬのを、一は見たくなかった。
「……手を離さぬか、自分で走れる」
槐は一の手を振り解いて彼の隣に並ぶ。
「一の言いたい事も分かる。じゃが、逃げ続ける訳にはいかんぞ」
分かっている。もう少しの辛抱だ。一は自らに言い聞かせ、神野が待っているであろう正面玄関に向かった。
倒れていた男たち。人の気配がしない病院。助けを求めていた一。
何も起こっていない方が不自然とはいえ、神野は何も起こっていない事を何に祈っているのかも分からないまま、ただ盲目的に祈っている。
「ノープロブレム、カンノ。きっと皆、どこかにエスケープしてるはずヨ」
「そうなんですか?」
前方を歩くジェーンは頼もしげに頷いた。
「勤務外関係者の病院だから、対ソレ、対フリーランス用のマニュアルがあるに決まってるじゃナイ」
「……少し、安心しました」
「少し?」
「皆避難してるって事は、何かあったって事でしょう?」
嫌でも、思い出してしまう。血の臭い。怨嗟の声。際限なく膨れ上がる絶望と憎悪。
「だからアタシたちが来たノ。まだ何も起こってないかもしれナイ。アタシたちは何かを止めに来た。OK?」
年上の自分が焦っていると言うのに、ジェーンは余裕たっぷりに言い放った。見習わなければならないな、と、神野は頭を掻く。
「一さんの妹なだけはありますね」
「最高にクールな誉め言葉ね」
裏口から入った二人が廊下を半分程進んだところ、近くの女性用トイレから水音が響いた。平時ならば気付かなかったであろう微かな音だったが、今は誰もいない、いてはいけない、音がしない、してはいけない環境、状況なのだ。
「カンノ、ハートの準備をしておきなさい」
「……敵、ですか?」
「フリーランス、ヨ」
「でも、フリーランスが無防備にトイレへ行きますか?」
もしかしたら、逃げ遅れた人かもしれない。淡い希望を込めて神野は尋ねた。が、ジェーンは首を振って否定の意を示す。
「トラップかもしれないワ。……見てくるから、カンノはアタシが合図をしたら入って」
「……女子トイレに、ですか?」
「そうヨ?」
小首を傾げられてしまった。勤務外の仕事だとしても、だとしてもだ。やはり男性である神野には抵抗がある。
だがジェーンは、神野の思惑やら思案やら葛藤を全て無視する形でトイレに入ってしまった。
「あっ」
しかも合図を決めていない。神野はアイギスと竹刀を握り締め、溜め息を吐く。
――もう、どうにでもなれだ。
そこで何故か、立花の顔が神野の頭を過ぎった。頭を振っても、頭を叩いても、彼女の笑顔が、泣き顔が脳内を通り過ぎていく。
『けん君って覗き魔なの?』
神野の顔色が分かりやすく悪くなった。血の気が引き、冷や汗が背中を通り抜ける。
『へー、けん君も女子トイレ使うんだー。ボクと同じだね』
死にたくなった。
神野は両頬を両手で力強く叩く。雑念を掻き消し、目の前の事に集中しようと努めた。
しばらくすると、ジェーンが入っていった女性用トイレから、爆竹の破裂した時のような、乾いた音が数回響いてくる。それが発砲音だと気付いた時には、神野は禁断の領域へ足を踏み入れていた。
シスターはソレと出会い、シスターはフリーランスと出会い、シスターは勤務外と出会った。座敷童子、『神社』、戦乙女、狼女を交えて、病院内での戦闘が幕を開ける。開けて、しまう。