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24時間戦う人たち  作者: 竹内すくね
座敷童子
126/328

ひとりぼっち

 聖釘(エレナ)。フリーランス集団『教会』のメンバーである、聖が主に用いる武器である。その形状を一言で言い表すのなら、大きな釘。十五センチと、通常のものより幾分か長い事以外には、見た目の上で大した仕掛けはない。

 が、大抵の場合、日夜ソレと戦い続けるフリーランスが種も仕掛けもない武器を使う事は稀である。



茨の冠(ピラト)

 光の呟いた言葉は、彼女が鞭で床を打った音に掻き消された。

「一応、聞いておきます。その子を渡すつもりはないんですね?」

「神に誓って、ない。だからと言って傷物にされるつもりもないがな」

「挑発的じゃのう」

 槐は呆れた風に呟く。

「しているからな」

 光には聞こえないように早田は笑った。喧嘩ならともかく戦闘なんてした事がない。まして目の前の女はソレを殺す事が生き甲斐と言っていた異常者である。ならば相手との力量差は考えるまでもなく、精神的に揺さぶりを掛けて隙を作るしかなかった。

「私に奇襲は通用しません、何をやろうとしても無駄ですよ」

「知っている。お前の狡賢そうな顔を見た時からな」

「……挑発も無駄です。断言しておきましょうか。あなたは私に殺されます」

 しかし、冷静な口調とは裏腹に、光は苛立たしげな様子で床を何度も鞭で叩いていた。

「では何でも出来るすっごい神様とやらにお祈りでもすると良い。無事に私を殺せますようにとな」

「主を……侮辱しますか」

「どうした、掛かってこないのか?」

 早田の挑発に乗る形ではあったが、光はぎりりと歯を食い縛ってから鞭で床や天井を叩き回る。

「それが異端者の言う事ですかっ!?」

 光の持つ武器、茨の冠は所々に棘の付いた鞭だ。叩くだけではなく、傷口に棘が食い込めば追加のダメージを見込める。肌を叩き、抉る事が可能なのだ。

 しかし、この武器は相手を痛め付けるばかりではない。ピラトの特異な部分として、持ち手の部分にも棘が生えている事が挙げられる。痛みは所持者にも何割か跳ね返るのだ。現に、光の手からは新鮮な血液が溢れ、しとどと濡れている。

「ソレを庇う愚者には茨の裁きを。『教会』の名に掛けて、あなたを抉り殺します」

 光の言葉を最後まで聞く前に、早田は咄嗟にその場から飛び退いた。彼女の動作より一瞬遅れて高く乾いた音が響く。

「……避けましたか」

 床が砕けていた。早田の立っていた位置の床が、歪な形に抉り取られている。飛び散る破片が目に入らないよう右腕でガードしながら下がれば、

「右からじゃっ」

 死角からの二撃目。

 槐の声に従い、早田は左方向へと転がった。耳元で破砕音。続けて風切り音。破片が腕が掠めていったが、痛いと気にしている余裕はない。壁際まで転がったせいで、逃げ場所が狭まっている。後ろに下がるか、右へ戻るか――。

「はあっ!」

 迷う時間は与えられない。早田は勘に任せて、姿勢を低くしながら前方へと転がった。と、同時、右側の床がピラトによって抉り取られる。

「もらった……!」

 息を吐く間もなく、早田は光の武器を奪い取る為に突き進んだ。予想していたよりも鞭の威力は恐ろしいが、叩き落とすなりすれば無力化するのは自分にでも出来ると判断、即座に行動に移す。

「させません」

「娘、下がれ!」

 光はピラトの軌道を直線から曲線に変えていた。早田が飛び込んでいこうとした空間、そこを鞭で薙がれてしまう。

 その軌道は正に変幻自在。上から下へ、下から上、右から左、左から右へ。更に上下左右問わず、ピラトは不規則に動き回っていた。

 壁、天井、床が空間ごと切り裂かれていく。そう思わせるほどに光の鞭捌きは素早く、鋭利だった。とてもじゃないが近付けそうにない。早田は口惜しそうに後退した。

「逃げられませんよ」

 光はピラトで空間を抉りながら足を進めていく。その分、早田たちは下がっていくしか出来なかった。

 一縷の望みを掛けるのも馬鹿らしくなるくらいに、光は徹底した破壊を尽くしている。少しでもピラトの攻撃範囲内に体が触れてしまえば、その箇所から肉体は削られていくだろう。かと言って、ここから逃げては何の解決にもならない。早田は唇を強く噛み、鞭の軌道に目を凝らす。一見不規則に見えて何かパターンがあるのではないかと、そう考えたのだが、徒労に終わった。そもそも、早過ぎて見えないのである。

「下に行くんじゃ、どうしようもないっ」

「しかし……」

 逃げるか、身を刻まれるか。迷いは新たな試練を産む。

「光姉様、無事ですか!?」

「――っ!」

 振り返ったそのすぐ先、十メートルも離れていない階段から聖と灯が姿を見せた。

「追い付かれたか」

 槐は諦めの混じった口調で呟く。前方にはシスター、後方にもシスター。前にも行けない。後ろにも戻れない。長いだけの廊下には他に逃げ場がない。

 早田は窓を見遣ったが、ここは病院の最上階だ。飛び降り、仮に即死を免れたとしても無傷で済む筈がないのだ。動けなくなったところを狙われればそれでおしまいである。

 相手は早田よりも命のやり取りに長けたフリーランス、もう奇襲は通じないだろう。ならば選択肢は二つ。鞭で抉られるか、釘で貫かれるか。

「良いわね、光」

「分かっています」

 絶対的に絶望的な状況に追い込まれている。一対一なら逃げる余地もあったのだが、挟まれてはもうどうしようもない。『教会』の誰かが少し腕を、あるいは指を動かすだけで殺されてしまう。

「……いや」

 早田は息を呑んだ。まだ、希望は潰えていない。絶望的な状況。それなら、どうして問答無用で仕掛けてこない。いつでもこちらを殺せる機会を不意にする。『教会』は何か狙っているのではないか。そして、付け込むならそこしかない。

「槐ちゃん」

 失敗すれば死ぬ。このままじっとしていても死ぬ。

「……すまない」

「ぬ? お、おおっ?」

 その子を渡せと『教会』は言った。

 ――だったらっ!

 可能性があるのなら、やるしかなかった。

 早田は槐を抱え上げると、光に向かって、投げ付ける。嵐の如きピラトの見えない打擲(ちょうちゃく)空間。ここに放り込まれれば、肉は叩かれ棘で抉られてしまうだろう。

「嘘っ!?」

 しかし、そうはならなかった。悲鳴のような叫びが光から上がり、嵐のような攻撃は止んでいる。攻撃を止める為、無理に軌道を変え無理に力を入れた彼女はピラトを手放してしまっていた。

「止めなさい光!」

 その間、槐は光の脇をすり抜けている。向かう先は一たちのいる病室だ。

 そうはさせまいと、光は振り返って槐へと手を伸ばす。

「待ちなさいっ」

「待つのはお前だ」

「光!」

 気が動転していたのだろう、光は早田がいる事を忘れて背を向けてしまった。聖の呼び掛けは少しばかり遅い。早田は既に床を蹴って、跳んでいる。

「かっ……!」

 背中に強い衝撃を受けてしまい、光は床に倒れ伏す。

 早田は光の背を踏み台にして前方の障害を飛び越えた。充分に勢いが付いていたらしく、着地した瞬間にはもう槐に並んでいる。あとは病室まで走るだけだ。

「逃がさない……!」

 聖は走りながら、修道服のポケットから釘を取り出す。聖釘ほどの大きさではないが、先端がやけに尖っていた。それを両手の、指の間に挟み込んで投擲する。合計六本の釘が早田の背に襲い掛かっていた。

「――させぬ」

 その前に槐が身を踊らせる。彼女の手には小刀が握られていた。

「槐ちゃん!」

「走れっ」

 槐の着物の袖が翻った次の瞬間には、迫っていた釘が二本落ちている。残りの四本はあらぬ方向へ飛んでいき、その行方を見届けた槐は再び走り出した。

 早田は一足先に病室の前まで辿り着いて扉を開けている。

「先に中へっ」

 後ろからは聖と、立ち直った光が迫るが、もう遅かった。槐は室内へと入り、続いて早田も中に入って鍵を掛ける。

「……早田、何やってんの?」

 一と楯列は目を丸くして早田たちを見つめていた。

 早田は息を切らせながら「鬼ごっこだ」と、何でもなさそうに告げる。

「馬鹿な娘よ。……衛、ここを出るぞ。奴らが追ってきている」

「へ? 奴らってお前ら、誰と遊んでたんだ?」

 一は不思議そうに扉を眺めた。

「早いね。一君、悪いけど備え付けている電話の一番を押してくれないか?」

 楯列は慌てる素振りを見せず、一をベッドから追い出してカーテンを閉める。

「おい、説明しろよ」

「ん、一君は僕の着替えを覗きたいのかな?」

「目を腐らす気はねえよ。一番だな、一番を押せば良いんだな?」

 一は返事を待たずに、一番をプッシュする。何も起こらなかった。

「……おい」

「説明は後じゃ。小僧、ここを出るから準備せい」

「生意気なガキだな。あー、良くわからないけど早田、帰るぞ」

 鞄を肩に引っ掛けた一は扉の鍵を開けようとする。

「先輩、駄目だ。開ければ死ぬぞ」

「……あ?」

「向こうにはまだ鬼がいるからな」

 一は動きを止めたまま早田に向き直った。

「なあ、どういう事だ?」

「……遊び相手は、『教会』というフリーランスだ」



「くっ、駄目です姉さん。ピラトじゃ歯が立ちません」

「何なのよこの扉っ」

「あ、あの、早くしないと誰か来ちゃいますよ……」

 楯列の病室、その扉の前でシスター三人が突っ立っていた。

 聖は壁を蹴りながら何事かを喚き散らしている。扉には幾つもの凹みや傷跡が出来ているが、どれも微々たるものだ。『教会』が病室に入る為に何度も攻撃を仕掛けたのだが、扉は強固だった。釘は先端が欠け、ピラトの棘も刺さらなかったのである。

「聖姉さん、エレナを使っては?」

 光の提案に聖は首を振った。

「エレナは無機物相手だと単純な硬さ比べになるのを忘れた? 多分、これは無理だわ」

「じゃ、じゃあ、外から侵入するしか……」

「そう、ね。ん、光、お願いね」

 溜め息を吐き、光は肩を落とす。

「高い所は好きじゃないんですけどね」

「これが終わったらパフェでも食べに行きましょうか。灯のおごりで」

「お、お姉様……?」

 聖は「冗談よ」と、灯の頭を撫でながら言った。

「主よ、どうか私をお守りください」

 光は胸の前で十字を切ってからピラトを構える。次に窓の鍵を開け、茨を外に向かって伸ばしていった。

「いってらっしゃい、気を付けてね」

「光お姉様、どうかご無事で……」

 だったら代わってくれないだろうか。そう思いながらも、光は力なく笑った。



 その頃、一たちはとっくに部屋を抜け出していた。

「……なあ、なんでこんなものがあるんだ?」

「備えあれば憂いなしと言うじゃないか。それとも一君はエレベーターが苦手なのかい?」

 今、一たちはエレベーターに乗っている。楯列の話によれば、このエレベーターは病室から駐車場まで直通らしい。

「病室にこんなん作りやがって。馬鹿な金持ちってのは最低だな」

 私服に着替えていた楯列は嬉しそうに笑った。

「否定はしないよ。でも、助かったろう?」

「……楯列、先輩にくっつき過ぎるな」

 早田は一と楯列の間に割り込むと、楯列の足を強く踏み付ける。

「仕方ないじゃないか、ここが狭いのがいけないんだよ。ああ、それとも悪いのは僕を惑わす一君の魅力かな」

「楯列、それ以上顔を近付けたらぶっ飛ばすからな。……で、この後はどうすんだよ。警察にでも駆け込むのか?」

「いや、病院に行こうと思っている。と言うかだね、既に相手方へ連絡を入れているんだよ」

 一は訝しげに楯列を見やった。

「また病院に? そうすりゃフリーランスってのを撒けるのか?」

「そこに行けば警察よりは融通が効くからね。撒けるかどうかは分からないけど、時間は稼げるよ」

 ――どうだろうな。

 一は、まだ自分が勤務外である事を黙っている。日常を壊したくなかったのだ。何より、楯列や早田に軽蔑されたくない。されないまでも、以前と同じようには過ごせなくなるだろうと思っていたからだ。

「下に着いたら僕の車で行こう。……事情はそこで話すよ」

「事情だと? 私や先輩がこんな目に遭っている事情が本当にあるんだろうな。納得出来なければ、殺してやる」

「目が恐いよ、早田君」

「……へらへらと。本当に気に食わない奴だ」

 早田は楯列の足を解放してやると、彼とは反対側の壁に背を預ける。

「楯列」

「なんだい一君」

「……話がある」

 一は声を潜めて言った。楯列は彼の言わんとする事が分かっていたらしく、早田に一瞥をくれる。

「奇遇だね、僕もだよ」



 地下駐車場に着いた一らは楯列に先導されて早足で歩いていた。今は影も形もないが、フリーランスがいつ、どこから来るのかは見当が付かない。追われている。そんな焦燥感に体は後押しされている。

「槐君、追っ手は?」

「知らぬ。じゃが、人の気配はせんな」

 楯列は頷き、一に目配せした。

 やるのか。一は平静を装いつつ、

「早田」

 声を掛ける。

 早田は一を真っすぐに見上げて、小首を傾げた。

「……悪いんだけど、ジュース買ってきてくれないか?」

「こんな時にか?」

「こんな時だからな。お前も走ってたから喉が乾いてるだろ」

「問題ない。私は唾液でも飲んでいよう」

 飲むな。一は頭を掻く。

「俺の喉が乾いたんだよ」

「むう、先輩の頼みなら仕方がないな」

「悪いな。楯列、自販機はどこにあるんだっけ?」

「あっちかな。ああ、僕の車は赤いスポーツカーだから。先に行って待っておくね」

 楯列は駐車場の奥を指差した。早田は頷き、軽快に駆けていく。

 その後ろ姿を見届けながら、一たちは真っ赤にカラーリングされたスポーツカーに乗り込んだ。



 向こうから車のエンジン音が聞こえてくる。待たせては一に悪い。そう思った早田は速度を上げた。が、どこまで行っても自販機は見当たらない。あるのは車、車、車。車だけだ。

「何……?」

 更に、行き止まりに突き当たってしまう。道を間違えたかと思ったが、ここは一本道だ。左右にも注意を配っていたし、自販機を見落としたとは思えない。しんとした、地下特有の物寂しい雰囲気に囚われ始め、早田は思わず息を呑んだ。

 戻ろう。一には土下座して……許してもらえるだろうか。楯列には嫌味を言われるかもしれない。槐にはどう思われるだろうか。

 低いエンジン音が規則的に駐車場に響いていた。が、その音が長く尾を引くものに変わっていく。遠く、離れていく。

「う、あ……?」

 やがて、一切の音がこの場から掻き消えた。早田の心臓が早鐘を打っている。息が荒くなり、頭が真っ白に染まっていく。

 一瞬、何が起こったのか分からなかった。しばらくの間放心していたが、ポケットで震える携帯電話のお陰で我に返る。

「……た、てなみ?」

 早田は震える指を誤魔化しながら、受信したメールを開いた。


『シスターにバレないよう家に帰りたまえ。事情は後日説明するよ。突然君を置いていった事に対して悪いとは思っているが、これは僕と一君の総意だ。部外者の君を巻き込む訳にはいかないからね。ではまた、学校で』


 メールを何度も読み返す。だが、文面は変わらない。状況は変わらない。

「あ……、ああ……」

 足元の感覚が消えていく。地に足が着いているのかどうか分からなかった。底無し沼に全身が浸かっていく感覚に、早田は震えている。

「先輩、先輩……」

 捨てられた。見捨てられた。

 嫌われた。一に嫌われてしまった。

 ここまで一緒に来ておいて、巻き込みたくないなんて嘘だ。嫌だ。独りでいるのはもう嫌なのに。

 頭は上手く働かない。何も考えられず、何も信じられない。

「急ぐわよっ、ああっもう! あいつら舐めた真似してくれたわね!」

 聞き覚えのある女の声に、肩がびくりと震えた。

「姉さん落ち着いて、まだ遠くには行ってない筈よ」

「車で追い掛ければ、す、すぐですよ」

 間違いない。『教会』が追い付いてきたのだ。どうやってあの壁を抜けたのか、ここを探り当てたのか。とにかく、敵は今ここにいる。それだけは確かだった。

 早田はふらふらとした足取りで、目についたワゴン車の後ろに隠れる。

「でも、どこに行ったんでしょうか……」

「知らないわよっ、手当たり次第に潰していくしかないわ」

「いえ、それはどうかと。多分別の病院では? どうせ怪我人を連れて無茶は出来ないでしょうし」

「根拠がないじゃないの。街を出られたらどうするつもり?」

「街を出るにしても準備はいるでしょう。追われているとはいえ、ある程度はここで留まります。それに……」

「……ああ、なるほどね。タイヤの跡が残ってるわ。けど、車じゃなかったら?」

「わざわざ駐車場までエレベーターを繋げる意味がないでしょう。タイヤ痕は一つしか見えていませんし、それに、奴らが徒歩ならそれはそれで構いません。何にせよ、無駄口を叩かずさっさと車を出しましょう」

 ――どうする……。

 シスターたちは会話を打ち切り、早田が隠れているのとは別のワゴンに乗り込んだ。

 追い掛けるのか、ここに隠れ続けるのか。

「駄目だ……」

 早田は結局『教会』を見送ってしまう。今から走れば、『教会』の行き先が掴めるかもしれない。しかし、足は言う事を聞いてくれなかった。せめて楯列に連絡を取ろうとして携帯を開く。が、電話を掛けても繋がらない、メールを送っても返事は来ない。どうやら彼は電源を切っているらしい。もしくは無視されているかだ。追い掛けようにも相手は車。おまけに手掛かりは、何一つない――。

「待てよ……」

 ――そんな筈はない。

 早田は思い直し、先程の会話を思い出してみる。そうだ、楯列はどこに行くと言っていた。

「――病院だ」

 確かにそう言っていた。ゴールさえ見つかれば、少しだけでも気力が湧いてくる。俯いている場合じゃない。本当に見捨てられたのか、嫌われたのか。まだ、分からない。一の口から真意を聞いていない。置いていかれたのは事実でも、楯列のメールだけでは何が起こっているのか分からないのだ。

 早田はゆっくりと立ち上がり、鞄を投げ捨てる。走るのには邪魔だった。

 何を悩む事がある。一に嫌われたのなら、彼の口からそう聞くまでは折れちゃいられない。走って走って、追い付く。追い付いてみせる。

 病院。駒台に大した数はないが、余計な時間は食っていられない。一番近い所から、しらみ潰しだ。

 決意すると、気持ちも体も不思議に軽くなる。早田はタイヤの跡を確認しながらゆっくりと、ゆっくりと速度を上げていった。



「良かったのかな」

 4シーターのスポーツカー、その運転席に座る楯列はぼんやりと呟いた。

「早田の事か?」

 助手席に座る一は流れていく景色を眺めながら、気の抜けた声で返す。

「うん。ここまで巻き込んでしまって、事情も話さずに置いてっちゃってさ」

「良いんだよ。あいつはまだ戻れる。ぎりぎり向こう側にいられるんだ。今日は、ちょっと運が悪かっただけだよ。ソレと話して、フリーランスなんて異常者に追い掛けられた。でも、それだけだ」

「それは一君にも言える事じゃないか」

 一は楯列の横顔を眺めた。嘘を吐けない割には底の見えない顔をしているな、と、ぼんやり思う。

「だったら、どうして俺には言ったんだよ?」

「何をだい?」

 後部座席で横になっている槐を見遣り、一は笑った。

「とぼけんなよ。早田を巻き込みたくなかったのは分かる。けど、俺にはその子の事を言ったよな? 俺は巻き込んでも良かったって事だろ」

「しまったな、つい口を滑らせてしまったよ」

「……いつから気付いてた?」

「さて、僕には君の言いたい事が分からないな」

 楯列は一の方を見ないまま、前だけを見つめている。

「ま、お前がそう言ってくれるなら良いんだけどさ」

「そうかい?」

「ああ。……楯列、俺さ――」

「――言わなくて良いよ。君が言いたくなったら、そうしてくれれば良い。状況に流されてしまうのは一君の悪い癖だと思うね。嫌いでは、ないのだけれど」

 一は再び窓に目を向けた。付き合いが長い事は、時に面倒でもある。そう思いながら、どこか嬉しさも感じていた。つまり楯列は自分が勤務外であると知っていても、今まで通りに接してくれていた事になるのだから。

「そうするよ。でも、ありがとな」

「言葉よりも行動で示してくれた方が有り難いね。どうだい、今僕は運転中で手が離せない。ほっぺにキスでもしてくれれば、飛び上がって喜ぶんだけど」

「運転に集中してろ」

 楯列は楽しそうに微笑む。

「のう……」

 さっきからだんまりを決め込んでいた槐が口を開いた。

「どうしたんだい?」

「いや、その……」

 槐は遠慮がちに目を伏せる。不思議に思った一は彼女をじっと観察してみた。

「あ、トイレか?」

「小僧、礼儀を知らん男子は幸せになれんぞ」

「心配しなくてもどうせ幸せにはなれねえよ。で、トイレじゃないならなんだ? 腹でも減ったのか?」

 蔑みの視線を一に向けると、槐は腕を組んで考え込む。

「……お主ら、異様に仲が良いな」

「はあ?」

 一と楯列は二人して顔を見合わせた。

 楯列はすぐに運転に戻ったが、一は槐に視線を投げ続ける。どうして彼女は恥ずかしそうにしているのだろう。

「まるで、その、睦まじい男女の様な雰囲気で……」

「はあっ!?」

「はっはっは、それは良い。だとしたら、どっちが男でどっちが女かな、一君? ああ、僕はどっちもいけるクチなんだけど、君の意見を尊重するつもりだよ」

 二の句が継げず、一はただ自分から頑なに目を反らす槐を見続けるしか出来なかった。

「わ、わしには詳しい事が分からんのじゃが、そ、そういうのもアリ、なのか?」

「ねえよ! 楯列てめえ、こんな子供に何を教えやがった!」

「やだなあ、一君。姿はこんなだけど、槐君は僕たちなんかより遥かに大人だよ」

「うむ。伊達に長く座敷童子をやっておらんぞ」

 槐は誇らしげに踏ん反り返る。

「……大人? お前、何歳なの?」

「淑女に年齢を聞くとは……まあ、良かろう。ふふん、聞いて驚け、わしは既に三百もの歳月を生きておる。こう見えても、座敷童子の中でも最上位なのじゃ」

 ――三百年?

 しかし、数百年も生きていて童子、というのはどうなのだろうか。

「ん、驚いて言葉も出ぬか、小僧?」

 とりあえず、槐が満更でもない様子だったので、一は曖昧に笑っておいた。



 早田早紀は、楯列衛の事が世界で最も嫌いである。

 自分よりも一と仲良くしているのが気に食わないし、何より一目見た時からいけ好かない奴だと、生理的にそう思った。

 隙あらば殴ってやりたい。蹴り回したい。一と奴が話しているのを見ると、死んでしまえば良いとも思う。


 ――病院に行こうと思っている。


 楯列が自分を撹乱する為に嘘を吐いた一言だと、早田は思っていなかった。

 確かに、早田は楯列を嫌っている。彼の動作一つ一つが癪に障る。彼の言葉一つ一つが胡散臭く、信じられない。理解出来ない、決してしたくない。

 それでも、早田が唯一楯列を認められる点があるとするならば、彼が嘘を吐かないという事だろう。

 もし楯列が嘘を吐いていたとしても、すぐにばれる嘘しか吐かない。いや、吐けないと言うべきか。さっきも槐が妹だのとのたまっていたが、少し鎌を掛ければ、あるいは彼の血縁関係を調べれば気付かれる事だ。

「ふっ……」

 早田は息を吐いて、駆け出した。地下を抜けると、陽の光がやけに眩しく感じられる。

 何キロだろうが構わない。この足は飾りじゃない。愛しい人に会う為ならば、何十キロ、何百キロだって走り抜いてみせる。

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