Tank Sank!
「灯、準備は出来ていますね?」
「は、はいっ、勿論です光姉様」
「灯、私のもちゃんと持ってる?」
「はいっ、聖お姉様のも勿論持っていますよ」
「結構。じゃあ行くわよ、光、灯」
痛い。
誰かの何かで腹を刺され、血が流れ、傷口を抉られ、焼けるような痛みが全身を貫いた。倒れてしまいそうになるのを堪えて振り向けば、顔面を蒼白にさせた一人の少女、と、呼ぶにはまだ年端もいかぬ女の子がそこにいる。
彼女は小刀を握っていた。自分を刺したであろう凶器を持つ手は震え、歯はかちかちと震え、体はがたがたと震えている。
寒いのだろうか。的外れた事をぼんやりと思いながら女の子に笑い掛けると、彼女は震える声で呟いた。
「彼女との出会いはこんなところさ」
事のあらましを語った楯列は満足そうに目を瞑ってみせた。
一はしばらくの間言葉を忘れてしまう。どう返そうか考えているのではない。楯列に呆れ果てているのだ。
「馬鹿だろ、お前」
ようやく口を衝いて出たのは罵りの言葉である。楯列は「かもね」と笑った。
「自分を刺した奴を傍に置いとくか普通? また寝首掻かれるかもしれないんだぞ」
「掻かれないかもしれない。一君、僕は槐君を信じてあげたいんだ」
「……信じる? あの子の何をだよ」
「格と徳さ」
楯列は言い切ると、一の瞳を覗き込む。
「一君、座敷童子を知っているかい?」
「ざしきわらし? あの、家に住んでる子供の妖怪、みたいな奴か?」
一は聞き返し、記憶からおぼろげなものを引き出した。
「うん、その座敷童子さ。彼らが取り憑いた家には幸運が舞い込み、彼らの去った家には不幸が舞い込むって言われてる、あの座敷童子だよ。東北地方に古くから伝わる有り難くも有り難迷惑な妖」
「詳しいな。お前、そういうのに興味あったんだ」
「溺れる者が藁の材質を調べただけさ。これにしがみ付いても、自分を預けても良いのかって」
楯列は自嘲気味に笑むと、
「ま、藁はどこまで行っても藁にしかならない。その上、助けを求めた藁まで助けを求めてた。そういう話さ」
どこか他人事のように言い放つ。
「なあ、お前の口振りだと、さっきの子が座敷童子なんだよって聞こえるんだけど」
「少なくとも僕はそう思ってる。一君、僕がどこに行ったか話したろう?」
「……東北」
楯列は嬉しそうに頷いた。
「そう。じゃあ僕の目的がなんだか分かるかい?」
一は頭を掻く。ここまでヒントをもらってしまえば、答えは一つしか思い付かない。
「座敷童子に、会いに、か?」
楯列は鷹揚に頷いてみせる。
「思うところがあってね。幸運にも二年前に予約が出来ていたから、親戚総出で座敷童子を追い回してたって訳さ」
「二年って、そんなに前から? つーか、すげえ人気なんだな、座敷童子って」
「出会えれば幸運が舞い込むからね。それもローリスクで。金持ちってのは伊達に欲深くないのさ。欲しいものを手に入れれば次のもの、次を手に入れればその次に――人間の欲が尽きる事は多分、ないんだろうね」
「お前なら欲しいものなんて何でも買えるだろ」
羨望と嫉妬。持たざる者の気持ちは持つ者には分からない。しかし、その逆も然りである。
「買えるものならとっくに買っているよ。残念だけど、欲しいものは未来永劫非売品さ。だからこそ、ソレになんか頼ったんだ」
「……で、あの子を追い掛け回して刺されちまったってか。幸運をもらう筈が不幸もらって、世話ねえな。いや、どうしようもないか」
「正直焦っていたよ。僕ともあろうものが、全く嘆かわしい」
楯列はわざとらしく肩を竦めるが、元々のルックスが日本人離れしている事もあり、違和感はなかった。
「槐、だったか。なあ、あの子はどうしてここにいるんだ?」
「さあ、僕にもさっぱり分からない。目覚めたら、彼女もここにいたんだ」
「お前に取り憑いてたりな」
一はそう言ってからすまなさそうに笑う。
「うーん、あながち間違ってはいないかもね。そもそも、座敷童子なんて妖怪が現れたのはどうしてだと思う?」
問われ、一は考えてみる。しかし、何故現れたかと言われても、誰かを幸福にする為だとしか思えなかった。
「ヒントだよ、一君。どうして子供の姿をした妖怪なのか。どうして子供が幸せにしてくれるのか。ここに注目してごらん」
「民俗学みたいだな」
「ああ、そんな感じだよ。一君、講義取ってたよね?」
「単位は落としたけどな」
腕を組み、もう一度ベッドの端に腰を下ろすと、一は目を瞑る。
「……妖怪って事は昔からいるんだよな。昔に、作られたんだよな。そんでもって子供、か」
「何か分かったかい?」
「時代背景……その辺から考えりゃ、労働力の象徴って事じゃねえの? 畑仕事とかさ、子供だからって馬鹿には出来ないだろ」
「流石、一君」
楯列は手を叩いて微笑した。
「どうして単位を落としたのか理解に苦しむね。……子供が多い事はそのまま富に繋がるんだ。だけど、そうならない場合もある。子供が産まれても、あまりに貧しければ労働力になるまで育てられないって場合さ」
「……口減らしだったっけ」
「東北地方では臼殺と呼ばれる風習があったのを知っているかい?」
一は首を横に振る。初耳だが、響きからは何となく想像がついた。
「口減らしに子供を間引く事を言うんだけどね。間引く子を石臼の下敷きにして殺してしまうらしいんだ。その後、家の中の土間や、台所の下に埋めてしまう。臼で殺す。だから、臼殺」
気の滅入る話だ。一は深く息を吐き、楯列の続きを待つ。
「間引いた子供たちを祭る為に、あるいは世間体を保つ為に、座敷童子は多分、真っ当でない理由で生まれたんだ。言い方は悪いけど地縛霊みたいなものさ。ああ、勿論、僕らが話した事は仮説の域に過ぎない。だけど、座敷童子とは幸運をもたらす使者として、万人から望まれていた訳ではないと思うんだ。陳腐な言葉だけど、彼らは可哀想だよ」
「おい、まさかあの子に同情してるのか? だから殺さないで、何もしないで傍に置いてるんじゃないだろうな」
「可能性はなきにしもあらずだね。だけど一君、忘れていないかい? 僕はね、幾らソレに縋ろうとした男とは言え、曲がりなりにも金持ちなんだよ。欲しいものなら買える。……殺すというのは、命を奪うって事だよ」
だからどうした。一は目だけで訴えた。
「奪う――下賎だね。僕には楯列としてのプライドがある。与える事はあってもその逆は行なえないな。何があろうと許されない」
強い意志、確固とした決意を、一は楯列から感じる。自分を貫き通そうとする彼が眩しくもあり、嫉ましくもあった。
相手が人外、ソレだからといって己を曲げない。素晴らしい事だと一は思う。
しかし、一は勤務外だ。ソレを敵に回し、殺し、殺される存在なのである。勿論、ソレだからと言って問答無用で憎んだりはしない。今までで、充分に学んできたのだ。
「でも、あの子はお前を傷付けた」
それでも、納得がいかない。放って置く訳にはいかない。仮に自分が見逃したとしても、座敷童子の存在はいずれオンリーワンにばれてしまう。そうなれば、人を傷付けたソレとしてあの子は討伐の対象になってしまうだろう。同時に、ソレを匿った楯列にも危害が及ぶかもしれないのだ。ソレか人間かで助ける対象、肩入れする相手を選別するつもりはないが、会ったばかりの女の子と友人ならば、一は迷わずに友人を取る。
「僕が悪いんだ。仕方ないよ」
「……ソレの味方をするってのか?」
「まだ話が足りていないとはいえ、どうやら、この件に関しては一君と平行線を辿るしかなさそうだね」
楯列は憂鬱そうに溜め息を吐いた。
――吐きてえのはこっちだっつーの。
一は今後の事を考え、肩を深く落とす。
「喉、渇いたな」
「ああ、僕もだよ」
二人は目を合わさないで、力なく笑った。
早田は悩んでいた。
「槐ちゃん、何が飲みたい?」
「わしは、別に何でも良い」
「ふーん、ならば炭酸飲料はどうだ? シュワっとして面白いぞ」
「それで構わぬ」
悩みとは、目の前の少女、槐についてである。
この子は誰なのだろう。楯列に妹がいるなんて聞いた事がなかった。自分より付き合いの長い一ですら驚いていたのだから、この少女が本当に楯列の妹なのかどうか、自分ではさっぱり分からない。
「どうした、買わぬのか?」
槐の、年に似合わぬ言葉遣い。背伸びしていると言えばそれまでだが、あまりにも似合い過ぎているのが気になっていた。外見は誰がどう見たって幼女としか思えないのだが、雰囲気からはこの世の全てを達観した老人そのものに思える。目を開ければ幼い女の子が、目を閉じれば老人が隣にいるような感覚に、はっきり言えば気持ちが悪くて仕方なかった。
そもそも、この子は、人間なのだろうか?
「まさかな……」
ソレの存在を早田は勿論認識している。理解している。しかし、幾ら槐が怪しいと思っていても、ソレだとは思えない。
馬鹿な考えだと自嘲して、考えを振り払うべく自販機に自分の千円札を挿入する。ボタンを押して、出てきた缶を槐に渡すと、彼女はびっくりして缶を落としそうになった。
「ああ、お姉ちゃんが持っていてあげよう」
「……わしの方が年上なのじゃが……」
「何か言ったか?」
「言っておらん――む?」
槐があらん方向に目を遣るので、早田もそちらへ視線を移す。
「なんだ、あれは」
彼女らの視界に飛び込んできたのは、珍妙な集団であった。
『騎士団』、『図書館』、『神社』、『天気屋』、『館』。
これらは駒台の街で目立った行動を起こしたフリーランスの通り名である。ソレを殺す事を生業とした集団の、もしくは個人の名前。
嫌悪すべき、忌避すべき、蛇蝎の如く扱われて当然の名前だ。
フリーランスはソレを殺し切る異能者で異常者で、あるいは異種の力を所持している。力を持つ。その点はオンリーワンに雇われている社員、勤務外と大差はない。
が、差は確かにあるのだ。
勤務外とフリーランスを分ける違いとは、唯一つ。自由。フリーランスは自由なのだ。勤務外と違い、他者からのルールに縛られていない。
だからこそ、疎まれる。同じ力を持つ筈の勤務外からですら嫌悪される。
縛られていないからだ。勤務外がオンリーワンに紐を付けられた飼い犬ならば、フリーランスは野犬か、狂犬。気に入らないものには噛み付き、吠え立てる。好きな時に好きな事を、好きなように好きなもの嫌いなもの関わらず、食い散らかすのだ。
勿論、フリーランスと呼ばれる者全てが狼藉を働く訳ではないだろう。一般人と変わらない生活を送れる者もいるのだろう。
しかし、それでも彼らは異なっているのだ。彼らは確かに力を持っている。生きる為に、恨みを晴らす為に、信念を貫く為にソレを殺している。
どこか、壊れている。
ルールに縛られている。聞こえは良くないのかもしれないが、勤務外はその一方、ルールに守られているかもしれない。ぎりぎりの、踏み越えてはいけない線の手前にいる事を強制されているからこそ、人間を保てるのだから。
中には素行の悪い、線を踏み越えた勤務外もいる。人々の為に、人々の為にならないソレを無償で殺すフリーランスもいる。一概に、フリーランスを悪くは言えない面があるのも確かだ。事実、オンリーワン近畿支部情報部の掴んだ話では『図書館』、『神社』、『天気屋』の片割れが街に溶け込めている、らしい。
性質の悪いフリーランス、『館』は北駒台高校での戦闘により、構成員の約半数、三名の魔女が死亡を確認され、壊滅に追い込まれたと判断されている。『騎士団』は駒台に来てから、オンリーワンに褒賞を要求する事無くソレを殺し続けている。問題はない。駒台にいるフリーランスに問題はない。
果たして、本当にそうだろうか。
フリーランスを、力を持つ者を野放しにしていて、問題はないと言い切れるのだろうか。
黒いベールと、黒いワンピース。
――シスター?
早田の双眸は修道服を着た三人の女を捉えていた。近付いてくる三つの影が、彼女の目には妙に禍々しく映る。
「……もう来たのか」
槐が何事か呟いたのだが、早田の耳には入らない。何故だか背筋が寒くなる。体が強張っていく。フットサルの大会でも一度だって緊張した事がなかったのに、どうしてだか自分でも理解出来なかった。
「槐ちゃん、戻ろう」
早田の声は微かに震えている。目的の飲み物は購入していなかったが、一刻も早くこの場から立ち去りたかったのだ。シスターから目を反らし、病院へと足を向ける。
「はぁい、神のご加護はいかが?」
「は……?」
軽い口調に振り向くと、三人の、シスターらしき人物がいた。
早田は声こそ上げなかったが、それでも驚きはしている。ついさっきまで離れていた筈の距離を、この集団は一瞬の間に縮めたのだ。
「……シスターが何の用だ?」
「よくぞ聞いてくれたわね。そうっ、私たちはシスターっ」
真ん中のシスターが声を張り、片手を天にかざす。
「何だお前ら、三つ子か?」
早田には正直、三人の区別が付きそうになかった。全員が同じ人物に見える。シスターは服も背格好も似通っているし、顔だってそうだ。
「神を愛する信仰深い敬虔な修道女、そして、私たち三人は姉妹でもあるのよ。シスターでシスター、主の命に答えるべく、フリーランス『教会』、ただ今参上」
早田の困惑は無視されている。シスターは何ものかに取り憑かれたみたいに話を続けていた。
「私たちは主の命に従い、この街を守る為にやってまいりました」
右側にいたシスターが恭しく頭を下げる。
「守る為、だと?」
槐を自分の背に隠しつつ、早田は疑問を投げ掛けた。フリーランスとは、何だ。確かに彼女らは修道服を着ていて、教会だなんて言っているが、信じられない。
「はっ、はい、私たちはこの街をソレの魔手から守る為にやってきたんです」
最後に、左側に立つ少し気の弱そうなシスターが口を開いた。
シスターで、シスター。
新手の、性質の悪い勧誘か、もしくは出来の悪い芸人としか思えない。早い話が、この状況は笑えない。関わり合いになりたくない。
「生憎だが、私は忙しいのだ。神に祈る暇がないくらいにな」
そう答えると、シスターたちは顔を見合わせてくすくすと笑った。やがて、真ん中に立つシスターが早田に向き直る。
「用があるのはあなたじゃないの。……主の重要性について説くのはまた今度。私たちが欲しいのは……」
シスターは早田の後ろ――槐を指で示した。
「……そちらのおチビさんよ」
「何……?」
ますます訳が分からない。
「その子を大人しく引き渡してくれれば、神に誓ってあなたには何もしないわ」
「街を守るのとこの子を引き渡すのと、どう関係があるのだ?」
頭はまだ混乱している。だが、このまま流されるつもりはなかった。早田は状況を整理しながら、注意深くシスターたちの一挙一動に目を向ける。
「大ありですよ。私たちはフリーランス。ソレを殺す事を生き甲斐としているんですからね」
「勤務外、とは違うのか?」
「ちっ、違います! あんなのと一緒にしないでくださいっ、私たちは犬じゃないんですっ」
「灯、落ち着きなさい」
左側のシスターが窘められた。どうやら、気の弱そうな彼女は灯というらしい。
「どうかしら、あなたにとって悪い話じゃない筈よ。命、惜しいでしょ?」
場の空気が、殺意によって凝固していく。相変わらず、早田は分からない。考えても考えても答えは出ない。自分は殺されるかもしれない。なのに、体は動かなかった。
「……聖姉さん、プラン変更です。『主は言いました、邪魔者は真っ向から討滅せよ』、でいきましょう。よろしいですね?」
聖と呼ばれた、真ん中のシスターはにやりと笑う。
「結構よ、光。では灯、聖釘を」
「はっ、はい……」
灯は持っていたトランクの中から、長さ十五センチ程の釘を取り出した。その釘を受け取った聖は早田を見て楽しげに相好を崩す。
「覚悟は出来てるかしら、異端者さん」
駄目かもしれない。ここで訳の分からぬまま死ぬのを覚悟した刹那、
「娘、逃げるぞ」
早田は槐に耳元で囁かれた。
「……了解した」
さっきまで動けなかった足が動く。不思議と、声が出ている。早田は頷き、『教会』と向かい合った。
「悪いが、この子は渡せん。私は預かり物を大切にするタイプなのでな」
「良い心掛けね、主も喜ばれるわ。どう、宗旨替えしないかしら?」
「重ね重ね悪いが、私が信じるのは神などと曖昧な存在ではない。もっと崇高で、確実なものだ」
目の前の奴らがフリーランスだとか、『教会』が街を守ろうが槐を狙おうが関係ない。自分はここで死ぬつもりもなければ、槐を渡すつもりもなかった。それだけで、動くには事足りる。
早田は強く聖を見据える。
「良い目ね。真っすぐで、強い子。あなたを亡くしてしまうのは残念かも、主も悲しまれるわ、きっと」
聖は溜め息混じりに言うと、持っている釘を早田に向けた。
――釘、か。
釘に大した仕掛けは施されていない。持ち手の部分に滑り止め防止の布が巻かれているぐらいだ。しかし、大きさ、長さが普通の釘とは桁違いである。これで貫かれては、普通の人間ならばただでは済まないだろう。
戦う。その選択肢は早田になかった。自分は武器を持っていないし、傍には槐もいる。自分の命を守るので手いっぱいだと言うのに、その上誰かに気を配るのは難しい。選ぶべきは、闘争ではなく逃走だ。
「来ないのならこちらから行くわよ?」
聖が一歩前に出る。
聖だけが、前に出る。早田を侮っているのか、他に理由があるのかは定かではない。だが、チャンスはここしかない。
「……槐ちゃん、私が隙を作る。出来たら、病院まで逃げるぞ」
「ふむ、悪くない案じゃな。あそこの人間たちを巻き込めば逃げ切る算段も付くじゃろ」
耳が痛かった。早田としても、一や無関係な人を巻き込みたくはないのだが、自分たちだけではどうしようもないのも事実である。
「何を話しているのかしら?」
「お前らを出し抜く相談だ」
早田は挑発的に笑って、右肩をぐるぐると回し始めた。
「ふふ、結構。出し抜いてもらおうじゃ――」
聖が腰を落とす。
「――ないのっ!」
釘の先端が妖しくぎらついた。加速したシスターは早田の喉元へ一直線に向かっていく。
次の瞬間、早田と聖を結ぶ直線上に異物が入り込んだ。
それを投げ込んだのは早田だ。アンダースロー気味のフォームから放たれたのは中身の詰まったジュースの缶。
スチール製の缶だが、致命傷には至らない。それでもだ、やはり当たれば痛い。何よりも、聖の体は障害を払おうと勝手に動いている。
勢い余った釘は缶を貫き、
「きゃっ!」
聖の目の前で破裂した。飛び散る中身が彼女を濡らしていく。
「馬鹿めっ」
「聖お姉様っ」
早田は視界の塞がっている聖のこめかみに飛び蹴りを放った。
フリーランスといえど、蹴りが綺麗に決まれば軽く吹き飛ばされる。聖は地面を転がり、受け身を取って立ち上がったが、早田たちの足は早い。疾風の如く、彼女らの背中は遠くなっていた。
「光っ、灯っ」
「分かっています」
光と呼ばれたシスターはとうに駆け出している。しかし、追い付けそうにはなかった。脚力自体は早田の方が上らしい。
「聖お姉様、大丈夫ですか?」
聖は差し伸べられた手を払い、憎々しげに彼方を睨み付ける。
「あの子、許せないわ。服がベタベタする、虫が寄ってきたらどうするつもりなのよ……」
「あ、あの、姉様、無益な殺生は良くありません……と、思うんですけど」
「祈る事を知らない奴らに主の慈悲は勿体ないわ」
聖は立ち上がり、服に付いた汚れを叩き落とそうとするが、粘着力が強くて落ちそうになかった。
「……主は言いました、右の頬を殴られたら肉の一片すら残さず消し潰せと。灯、奴らはどこに?」
「え、えっと、あっちの病院です……」
「灯、聖骸布を使うわよ。油断していたわ。気付いてはいたけど、あんな物投げてくるなんて……最初から三人掛かりで行けば良かった」
負け惜しみなのは見え見えだったが、灯は何も言わない。言えない。機嫌が悪い時の聖に余計な事を言えば痛い目を見ると、身に染みて分かっていたからだ。
看護師が叫ぶ。医者が怒鳴る。患者たちが声を張り上げ見舞い客が悲鳴を上げた。
彼らには内心で謝りながら、一刻も早く一たちの元へと戻るべく早田は駆ける。
「ぬ、えれべえたあとやらは使わんのか?」
「時間が惜しい」
最上階まで行く事に変わりはないのだが、早田は、今はただ足を動かしていたかった。止まってしまうと、恐怖が心を押し潰し、塗り固めていく。もう二度と動けなくなってしまう。そんな気がしていたのだ。
「走れるか?」
「ぬしのような小娘に心配されるわしではない」
頷き、早田は階段を駆け上がった。
まだ、追っ手が来ている気配はない。足の速さなら誰にも負ける気はしないが、生死を分かつ極限下でいつまでも最高速を維持出来るとも思っていない。距離と時間を稼ぎ、一たちに危険が迫っている事を伝えなくてはいけない。『教会』とやらが槐を狙っているなら、楯列にも被害が及ぶだろう。逃げなければならない。
「……槐ちゃん、君は」
「無駄話は後じゃ、ほれ、着いたぞ」
早田たちは最上階まで辿り着くと、真っ白な廊下を脇目も振らず走り抜けていく。
もう少しで、病室だ。
早田が安堵しかけたその時、けたたましい音と共に前方の窓ガラスが割れる。
「来おったか」
駆け抜ければ部屋には入れたのだが、早田は思わず立ち止まってしまった。
「……間一髪ですね。部屋に立て篭られては面倒でしたから」
窓の外から、ひらりと身を踊らせたのは光と呼ばれていたシスターである。彼女は茨のような形をした鞭を所持していた。
「フリーランスとは非常識だな。ここを何階だと思っている」
「あなたの足の方が非常識ですよ。聖姉さんを蹴飛ばし、あまつさえここまで逃げ切るんですから」
「『教会』、何故この子を狙うのだ。この子がいったい何をした?」
その言葉に、光は薄い笑みを浮かべる。
「そこのソレは人を刺しました。主もお怒りになっております。人に害なすソレを討伐して、何が悪いのですか?」
「……奴からも聞いた話だがな、そんな与太を信じるほど私は馬鹿じゃない」
「与太? 違うわ、あなた、本当にそれが人間だと思っているの?」
はっきり言えば思っていない。自分のスピードに付いてきて、尚且つ息を切らせていない女の子を同種とは思いたくなかった。
「知らん。人間だろうとソレだろうと、私はこの子を守らなければならない」
それでも、見過ごせない。
「――汚らしい。あなたもそいつの恩恵に預かろうとするクチですか」
「何を言っている? 私はただ、先輩に嫌われたくないだけだ」
「世迷言を……っ!」
光は床を鞭で打ち鳴らし、その両端を持って構える。
――今度は鞭か。良い趣味をしてるじゃないか。
「槐ちゃん、下がって。私が道を開く」
槐は訝しげに早田を見つめた。
「ぬしが、か? 言っておくが、先刻のような真似は通用せんぞ」
「任せてくれ、恋する乙女の前に敵はいない」
「……精々目を曇らせるな」
言われずとも。早田は光を睨み付ける。思い人はすぐそこだ。二人の出会いを邪魔するのなら、神様にだって退いてもらう。