死人の寝床
鬱陶しい。
煩わしい。うるさい。面倒臭い。気持ち悪い。邪魔。疎ましい。苛立たしい。煙たい。うんざりする。暑苦しい。不快。腹が立つ。不愉快。忌々しい。憎たらしい。穏やかでいられない。むしゃくしゃする。癪に障る。吐き気がする。気持ち悪い。気味が悪い。気色が悪い。目障り。虫が好かない。嫌な気分。鼻に付く。
とにかく、うざい。
自分の部屋へ、図々しくも勝手に入ってきた彼を見て、彼女は――槐はそう思った。
槐はこの頃、ここを訪れる客がやけに多い気がしている。
勿論、自分にあやかろうとする愚かな人間が増えた事が原因なのだが、そんな人間が何故増えたのかが理解出来ない。ここを抜け出した事がないので、長い間外の様子が分からない。情報量も情報源も非常に狭い範囲に限られているのだ。
「……ふむ」
彼女はこの間フロントを通り掛かった際、予約は三年先まで一杯だ、このご時勢でも、このご時勢だからこそ商売繁盛だ、と、女将が笑っていたのを思い出す。
この家の人間の事を槐は愛している。
だが、それ以外の人間は愛していない。
幸運を与えるのはここの人間だけに止めてきた。たまには気紛れで旅行客にも幸運を分け与えてもいたのだが、やはり基本的には外の人間は嫌いだった。
お陰で、ここはいつだって商売繁盛。いつだって、知らない人間が出入りしている。中には優しい者もいるが、基本的に人間はがめつい。自分を血眼になって探す醜い奴らの姿をもう気が遠くなるくらいに眺めてきた。
人間は、欲深い。
食欲、睡眠欲、性欲。この三つだけでも事足りるのではないか。
昔と比べれば、人間と言う種族は非常に進化してきたとは思う。高い社会性、高い思考力を持ち得た人間たち。
獲得欲。保存欲。秩序欲。保持欲。構成欲。優越欲。達成欲。承認欲。顕示欲。保身欲。防衛欲。反発欲。支配欲。恭順欲。模倣欲。自律欲。対立欲。攻撃欲。屈従欲。親和欲。拒絶欲。養護欲。救援欲。遊戯欲。求知欲。解明欲。
高い能力を持ったから、高い次元の欲をも持ってしまった人間たち。
――調子に乗り過ぎだ。
欲を貪り、欲に渇き、欲に飽かず抑えずに目を眩ませる。
果たして、彼らに幸運を与えていたのは正しかったのだろうか。
槐は思う。もう、良いのではないかと。何より疲れたのだ。ここを訪れる人間の醜さ、汚さ、毒気にあてられて精神は磨耗する一方である。耐え切れない。いや、自分はもう充分に耐えてきたじゃないか。どうして我慢をする必要がある。人間なんて、もう、良いじゃないか。
知らぬ間に、槐は何かを握っていた。
小刀、である。
ここを訪れた人間たちが槐の気を惹く為に置いていった物の中の一つだった。
「……っ」
刀を握る手に力が入り、槐の心が乱されていく。黒い波が押し寄せて、積み上げた何かを浚っていく。黒い風が吹き抜けて、守っていた何かを攫っていく。
人間は嫌いだ。
囁く。耳元で誰かが囁く。
良いじゃないか。今まで数え切れない幸運を与えたんだから。奪うのは簡単だ。不幸を与えるのは造作もない。だったら、だったら、だったら――。
部屋にいるのは自分と、彼だけだ。無防備にもこちらに背中を向け、憎たらしい笑みを浮かべている、奴だけだ。
やがて、槐は一歩足を踏み出す。
一歩踏み出せば、後は簡単だった。小刀を突き立て、抉るだけ。
それだけで男は動かなくなった。
生あくびが止まらない。
「先輩、眠たいのか?」
「うん」
大学までの坂道で出会った、隣を歩く一つ下の後輩、早田早紀に生返事すると、一は昨晩の事を思い出した。
昨夜は、何が何だか分からない内に空を飛んでいた。文字通り上へ下への大騒ぎで、一の三半規管は二十数年の人生の中で一番揺さぶられている。今でも、だ。
一はシルフと別れて家に帰るなり、ちょっかいを掛けてくる糸原を無視して泥のように眠った。
そして、一時限目の講義を受ける為、休息を欲しがる体に鞭を打って登校している、という次第である。
「そうか、昨日は随分とお楽しみだったようだな」
今日は早田に突っ込む気力さえ起こらない。講義の途中で眠ってしまいそうだと不安を覚え、これでは家で眠っていた方がマシだったと、ここまで来て思ってしまう。
「そういや、楯列って今日から大学に来るんだったっけ?」
「奴は来ないぞ」
「え、そうなのか。旅行の期間が延びたのかな?」
早田は口角を吊り上げて笑った。
「いや、駒台には戻ってきている筈だ。昨晩、奴からその事についてのメールが届いたからな」
「何だよ、それを先に言えよ」
「だからその必要はないと判断したのだ。奴が来ない。私にとっては僥倖なのだから、先輩に伝えるまでもない。そうだろう?」
「判断するのは俺だろうが。ま、良いけど。そんで、どうしてあいつは来ないんだ? 休み気分が抜けなくてサボりか?」
しかし、一の知る限り楯列はサボりや遅刻、早退をするような人間ではない。事実、一は楯列がその手の行為をするところを見た事がなかった。
「うむ。奴は入院しているのだ」
「……え、嘘、マジか?」
旅行先で病気にでも掛かったのだろうか。一は心配になり、早田の顔を見遣る。
彼女は、俯いていた。
「早田、おい、まさか――っておい」
「くくっ、病気ではない。どうやら、奴は刃物で刺されたらしい」
早田は薄ら笑いを浮かべている。人の、と言うより楯列の不幸を笑っていた。
「刺されたってどういう事だよ? 大丈夫なのか?」
「ああ、残念ながら命に別状はないらしい」
「残念ながらは余計だ。で、誰が楯列を刺したんだよ?」
被害者がいれば加害者がいる。幾ら楯列が無事だったとはいえ、彼を刺した人間を一は許せそうになかった。
「ああ、それが……」
早田は妙に歯切れが悪く、一の方をちらちらと見ては、再び地面に視線を落とす。
「犯人、まだ見つかってないのか?」
「見つかってはいるのだが、その、私も事態が飲み込めていないのだ。だから、先輩には正しく、客観的に説明出来る自信がない」
「どういう意味だ?」
「すまない、先輩。こればっかりはどうしようもないのだ」
一は正直、早田の説明に対しては納得出来なかった。が、彼女がこうも言い難そうにするのは珍しい。それ相応の理由があるのだと断じ、ひとまずは了承の意を込めて頷いておく。
「ありがとう、先輩。代わりと言ってはなんだが、私を嫁にもらっても構わないぞ」
「とにかく楯列は無事なんだな?」
「……ああ、無事だ」
早田はぶすっとした顔で一を見据えた。
「何見てんだ、あっ、おい腕絡めようとすんじゃねえよ」
「奴の事ばかり気にしないでくれ、先輩。今は私が目の前にいるのだぞ。遠くの楯列より近くの早田と言うではないか」
「言わないけど、そうだな。あいつなら心配いらないな」
一は苦笑する。半年前、楯列が軽トラックに横合いからぶつけられても無傷で、その上テンションが上がっていた事を思い出したのだ。
大教室での二時限目が終わり昼休みになった瞬間、早田の携帯電話がメールを受信した。
「先輩」
「んー」
「九十九先生からだ」
早田は携帯電話のディスプレイを一に突き付ける。
一は戸惑いながらもそれに目を遣った。
「……今から、ゼミ教室に来い?」
「そのようだな」
携帯電話を鞄にしまうと、早田は神妙な顔で溜め息を吐く。
「何かあったのだろうか?」
「さあ、何だろ?」
とりあえず、呼ばれたからには行くしかない。一たちは昼ご飯を食べるのは後回しにして、九十九ゼミへと急いだ。
こんこんと。
ノックの後、「入れ」としゃがれた声が部屋の中から聞こえてきた。
「失礼します」
一が扉を開け、早田がそれに続いて部屋に足を踏み入れる。い草の匂いが彼らの鼻孔をふわりと漂った。
部屋の主であり、和と静を愛する九十九敬太郎の意向により、ここは畳の敷かれた和室になっている。卓袱台が置かれ、あとは流し台があるだけで他には殆ど何もない。
「一、早田、座れ」
声を掛けられ、一は思わず萎縮した。いつもそうだった、ここに来て、この声を聞けば嫌でも緊張してしまう。
部屋の中央に置かれた卓袱台の傍に座する禿頭の老人を見遣り、一は改まった様子で対面に座った。早田も、一の隣に遅れて座る。二人ともが綺麗な正座で、である。
「あの、今日はいったい……?」
一は遠慮がちに口を開いた。
対面に座る、甚平を着流す老人、九十九は顎を擦りながら、どこか遠くを見つめる。
「ふむ、大した用ではないんだが」
「はあ……」
「二人とも、就活はどうするのかと思ってな」
「就活、ですか」
最近大学をサボりがちだったので、出席率の低さを叱咤されるのかと思っていた一は肩透かしを食らった。
「まだ、何も考えていませんね。それよりも単位を取得して卒業出来るかが心配ですから」
「ならば学校に来たまえ。私のゼミはともかく、他の先生方は厳しいぞ」
「……はい」
結局、怒られてしまう。
「早田、お前はどうだ?」
「私は……」
早田は一に視線を送ってから言い難そうに、しかしはっきりとした意志の見て取れる声を放った。
「就職についてはまだ考えていません。今はただ、フットサルで、上に行きたいんです」
「……就活より部活か。早田、お前はまだ一回生だからな。それも良いだろうが、今からしっかりと将来についても視野に入れておけ」
「はい」
一は少し驚いていた。早田は日頃から先輩である自分に敬語を使わない。へらへらと、軽い調子で話し掛けてくる。だから、彼女が真剣な顔付きになって何かを語り、確固とした意志を貫こうとするのが珍しく思えて、少し、嫉ましかった。
「……ふむ、茶でも煎れるか」
九十九は立ち上がって流しに向かう。そこで、一の緊張が解れた。
「なあ、今日の先生変じゃないか?」
「うむ、私もそう思っていた。何か言い辛そうにしているようだが、本題は他にあるのだろうか」
「小言聞かせる為だけには、呼ばないよな」
一と早田がこそこそと話していると、九十九が盆を持って戻ってくる。盆には湯呑みと小皿がそれぞれ三つ乗せられていた。
「待たせた」
「いえ……あ、そのお茶請け、美登里屋の?」
「目が高いな、一。ああ、ここの羊羹は好物の一つでな、黄衣に頼んで買ってきてもらった」
「……あいつが、お使いですか」
傲岸不遜、傍若無人。ナコトが大人しく誰かの使いに行くのが一には想像出来ない。流石は雇い主、と言ったところだろうか。
「先輩、黄衣とは誰の事だ? まさか、愛人ではあるまいな」
「話すと長くなるから言わないけど、そいつの名誉に掛けて否定しとく」
「むう、本当だな?」
一は頷く。
「くっくっ、一、隅に置けんな」
「……早田はともかく、黄衣は俺の事嫌いでしょうに」
「いやいや、まだ短い付き合いとは言え、あれが素直じゃない事ぐらい分かるだろう」
「……?」
九十九は喉の奥で笑い、「言わぬが花か」と呟き茶を啜った。
「どうした、食べないのか?」
「あ、いえ、いただきます」
一は、既に一口大に切り分けられた羊羹に爪楊枝を刺し、九十九を何気なく観察する。
「どうした、一?」
「……えっと、俺たちはどうして呼び出されたのかなって」
「ああ、ん、そう……だな」
咳払いをすると、九十九は茶を啜り、口の中の羊羹を流し込んだ。
「先生、深刻な話題なんですか?」
「そうではないがな、ん。羊羹、美味いか?」
――は?
一は咄嗟に答えられなかったが、早田は「美味しいです」と、白い歯を覗かせる。
「一、お前はどうだ」
「勿論美味しいです、けど……?」
「ん、んん。いや、お前たちは聞いているとは思うが、今朝楯列から連絡が入ってな。あいつは怪我をして入院しているらしい」
早田はぴんと来ていない様子だったが、一はそこで気付いた。
「……あいつ和菓子好きですからね。食べたいんじゃないのかな」
一は何食わぬ顔で、続きを言い難そうにしている九十九に助け船を出す。
「そう思うか?」
「ええ、出来ればお土産に持っていきたいですね。……見舞いの意味も込めて」
「では、持っていくと良い」
九十九は無表情を崩さぬまま立ち上がり、流し台の戸棚から、美登里屋のロゴが入った袋を持ってきた。
「……良いんですか、先生?」
我ながら白々しい演技だと一は思ったが、九十九は頷くだけである。
「それじゃあ、ありがたく。ああ、先生からだって伝えておきますね」
「頼む」
一は袋を受け取り、卓袱台に目を向けた。
「ああ、気にするな。片付けはやっておく」
ならば、用事はもう済んだろう。一は頭を下げ、鞄を肩に掛ける。
「早田、行くぞ」
「え?」
早田を急かし、もう一度九十九に頭を下げると、一は先に教室を後にした。
「先輩っ、先生の話はどうするのだっ?」
それならとっくに済んでいる。が、説明するつもりはない。それこそ、言わぬが花というものだろう。
三時限目が終わったあと、一と早田は楯列が昨晩から入院している病院へと向けて歩いていた。
「……普通の病院に行くのは初めてだな」
「何か言ったか、先輩」
「いや。それより、あいつの部屋は分かってるのか?」
早田は携帯電話を取出し、渋面を作る。
「メールが既に十件も来ている。奴め、先輩を連れてこいと催促しているのだ」
「案外寂しがりだな、あいつも」
「先輩、甘やかしては駄目だぞ。奴は付け上がって、くだらん事を先輩に頼むに決まっている」
百も承知だ。一は苦笑して歩を進めた。
病院には独特の臭いが立ち込めているものだ。それは薬であったり、器具であったり、
「……気持ち悪い」
死の臭いであったり。
早田は病院に入るなり、口元を手で押さえながら呟いた。
「見舞いに来といて医者に掛かるなんてつまらない真似すんなよ」
「ああ、分かっている。ミイラ取りがミイラになっては笑えないからな」
言い得て妙な、というより包帯を巻いた患者がいる、病院という状況に即した言い回しに、不謹慎と分かっていながらも一は破顔する。
一たちはエレベーターに乗り、最上階まで上がった。そこから降りるなり、真っ白い壁と廊下が眩しく目に映る。
「……誰もいないな」
一は辺りを見回し、訝しげに首を傾げる。
「ここはいわゆる、VIP待遇の患者が入る階になっているらしい」
「御曹司は違うねえ」
楯列の境遇を思い出し、一は皮肉っぽく口を開いた。
「先輩、気が進まないのは分かるが行こう」
「ありゃ、やっと先輩を見舞おうって気になったのか?」
「私は好きなものを残しておく主義なのだ」
早田は得意げに言うと一を先導するように歩きだした。長い廊下を歩き続けて角を曲がると、白塗りの引き戸が姿を見せる。
「ここか?」
「そのようだな」
ノックしようとした一より先に、早田は乱暴な所作で戸を引いた。
「来てやったぞ」
部屋の中は一が思っていたよりも広くない。早田からの話を聞く限り、天井にはシャンデリアがぶら下がっていたり、豪奢な家具でも置いてあるかと思ったのだが、この病室には大したものはない。自分が入院していた病院と何ら変わりはないように思える。
その部屋の中央付近に設置されたベッドのカーテンは引かれておらず、半身を起こした楯列が一たちを見て嬉しそうに頬を綻ばせていた。
「よう、意外と元気そうじゃねえか」
一は手を上げ、ベッドに近付いていく。
楯列は白い、バスローブのようなものを羽織っているだけであった。寒くないのかと一は思ったが、室内が随分と暖かい事に気付き、合点がいく。
「一君、来てくれたんだね」
早田の方は一切見ずに楯列は言った。
「ああ、起き上がっても大丈夫なのか?」
「心配いらないよ。君が来てくれたからね」
「……刺されたんだってな。本当に大丈夫なのか?」
事前に、命に別状はないと聞かされていても、こうして楯列を見れば安心するし、やはりまだ不安な部分もある。
「大丈夫さ。そう簡単に死なないし、殺されても死なないだろうからね。僕を殺せるものがこの世にあるとすれば、それは一君の愛だよ。刺し殺されるのも殴り殺されるのも通用しないだろうけれど、君になら愛で殺されるかもしれないな。ああ、それも悪くないね」
「ならば死ね」
早田は楯列の顎を右ストレートで振り抜いた。
「うわあっ、早田!?」
一は思わず叫んでしまう。が、楯列は真後ろに仰け反り、
「やあ、早田君も来てたのかい」
仰け反ったままの奇抜な体勢で挨拶をした。
「来たくはなかったがな。お前と先輩を二人きりにさせるよりは兆倍マシだ」
「ははは、手厳しいな。さて……」
元の姿勢に戻ると、楯列は顎を摩った。
「早田君、一君にはどの程度まで伝えたんだい?」
「何も。私をメッセンジャー代わりに使おうとは片腹痛い」
「一君は携帯電話が嫌いだから仕方ないじゃないか。けど、予想はしていたよ」
「……何の話だよ?」
若干の疎外感を味わわされ、一の口調は少しだけ荒くなる。
「気を悪くしないでくれよ。何の事はない、僕を刺した犯人についてさ」
「ああ、そいつ捕まったのか? 早田に聞いても、要領を得ないっつーか」
楯列はくすりと笑みを零した。
「そうだろうね、立場が逆なら僕だって信じられないのだから」
「で、どうなんだよ?」
「――衛、こいつらは何じゃ?」
「――っ!」
鈴を鳴らしたような、高く、甘い声。その声に弾かれて、一は振り向く。
「何じゃ、小僧と小娘か」
そう言いつつ、部屋の隅から姿を見せたのは少女――いや、幼女と形容するのが正しいくらいの年頃の女の子だった。
彼女は黒い着物に身を包んでいる。その着物は少し変わっていて、襟、袖口、裾にフリルが付けられていた。文庫結びにされた、ピンクの帯が黒の上でやけに映えている。
「ほう、黒ゴスか。……じゅるり」
「ゴスって、何の事だ?」
「ゴシックロリータの事だ。知らないのか、先輩」
涎を垂らしそうになっている早田が、一には遠いものに見えた。
――ロリータ、ねえ。
だというのに、その女の子からはどこか老成した雰囲気が漂っていた。前髪は綺麗に揃えられ、肌は病的なまでに白い。はっきりとした顔立ちのせいか、年齢に似合わず凛として見える。
「先輩、この子……」
早田が戸惑うのも無理はない。楯列以外、誰もいない筈だった部屋から突然現れた女の子の存在は、一をも大きく混乱させていた。
しかし、彼女が楯列の関係者なのは間違いなさそうではある。楯列本人が女の子に驚いていない事や、楯列の名前を呼び捨てにしている事から一はそう判断した。
「紹介するよ、この子は槐と言うんだ」
槐と呼ばれた女の子は、一たちを値踏みするような、無遠慮な視線を送る。挨拶を返すつもりはない様子であった。
「えーと、楯列、この子は……?」
「ああ、言い忘れていたね。僕の妹だよ。人見知りをするけど、どうか仲良くしてあげて欲しい」
――妹……?
「ふん、お前の妹にしては似てないな」
早田は鼻で笑うと槐を見遣り、近付いていく。
「な、何じゃお主……?」
「槐ちゃん、このクソ野郎に似なくて良かったな」
「早田君、兄を前にしてその発言はどうかと思うよ」
「黙れ、耳が腐る」
楯列は大仰に肩を竦めてみせた。
「……久しぶりに君たちと話したものだから喉が渇いたね。早田君、悪いんだけど飲み物を買ってきてくれないかい? ああ、勿論お金は出すよ」
「ふざけるな、お前はそこで渇いて死ね」
早田は槐の頭を撫でながら言い放つ。
「お駄賃が欲しいなら弾んであげるけど?」
「馬鹿にするなよ、楯列。お前みたいな成り上がりに恵んでもらう義理などない」
「……一君、喉、渇かないかい?」
楯列に目配せされ、一は頷いた。
「早田、悪いんだけど」
「先輩は何がお望みだ? 任せてくれ、どんな無理難題にも応えてみせよう」
「あー、じゃあ甘そうなコーヒーを……ってズボンを脱ごうとするな!」
早田は不満そうに唇を尖らせる。
「おい、お前はどうするんだ?」
「僕はレモンティーを頼むよ。ああ、ホットでね」
「分かったから金をよこせ」
楯列は差し出された早田の手のひらに一万円札を乗せた。
「……嫌がらせか? 面倒だから小銭を出せ」
「悪いけど、小銭は持ち歩かない主義でね。ああ、それとレモンティーは病院を出て、右に曲がって、少し歩いたところにある自販機にしか売ってないんだ」
早田は万札を握り締めると、拳を震わせる。
「早田、頼むよ」
「先輩の頼みだ、仕方あるまい」
「それと……」
「まだあるのか?」
楯列は槐を指差した。
「その子も連れてってくれないか? 部屋にばかり篭っていては退屈だろうからね」
「良いだろう」
「なっ、何をするっ!?」
早田は迷わずに槐を抱きかかえると、尚も抗議を続ける年下の女の子へ愉しげに笑い掛ける。
「槐ちゃん、お金ならあるから心配いらないぞー、お姉ちゃんと一緒に気持ち良――楽しい事をしよう」
「早田、子供に手を出したら絶交すっからな」
「………………………………………………分かっている」
異様に長い沈黙について問い詰める前に、早田は病室から飛び出していく。
「あいつ、本当に大丈夫だろうな……」
「その点については心配いらないよ。槐君も本気で嫌なら抵抗するだろうしね」
一は溜め息を吐き、ベッドの端に腰を下ろした。
「一君、椅子ならあるよ?」
「……良いよ。で、話って何だ?」
「さすがだね、気付いてくれたんだ」
「三年も付き合ってりゃ馬鹿でも気付くよ。……わざわざ早田を追っ払った理由はなんだ? あいつには聞かれたくない話なのか?」
楯列は大儀そうに体を起こし、一の目を真っすぐに見つめる。
「好きだ」
「ふざけてんなら帰るぞ」
「久しぶりに会ったんだから、もっと優しくしてくれても良いんじゃないのかな?」
「充分優しいだろうが」
一は立ち上がり、窓の近くまで寄った。
「……早田には黙っておいてやったろ。本当は、お前に妹がいないって事を」
「あれ、一君は知っていたっけ?」
「一回生ん時、お前が自分で言ったんだよ。『一人っ子だから愛に飢えてる。だから結婚しよう』ってな」
楯列は「そんなのいつも言っているから」と、苦笑した。
「それを踏まえて聞くんだけどな。妹なんていない筈のお前が妹だと紹介したあの子は誰だ? いや、つーか、何だ、あれは?」
「難しいね。一言でならある程度は言い表わせるんだけど、説明するのは至難の業だと思ってる」
「言ってくれ」
「あの子が、槐が僕を刺したんだよ」
あまりにもさっぱりとした風に楯列は言う。
「……嘘だろ?」
「嘘じゃないよ。あの子のご機嫌を損ねてしまったらしくてね、お腹をぐさりと……。どうせ貫かれるなら、一君の――」
「――やめろっ。……じゃあ、妹じゃないのなら、あの子はお前とどういう関係なんだよ?」
「赤の他人さ。旅先で袖が触れ合ったくらいの縁はあるかもしれないけどね」
一は呆れて溜め息を吐く。
「刺されたんだろうがよ。傍に置く理由が分からねえ、警察に突き出したらどうなんだ」
「出来ない理由があるんだ。一君、槐はね、ソレなんだよ」
一は楯列と三年付き合ってきた。彼の人となりも良く知っている。意味のない嘘を吐く奴ではないし、シュールな冗談を吐く奴でもない。
「……楯列、お前……」
「大変な事になっちゃったよ」
楯列は笑って、力なくベッドに横たわった。