スラッシングパンプキン
時刻は午後十時を少し回ったところだろうか。
その時刻、駒台のとある通りを男が歩いていた。
なんら珍しい光景ではない。男が道を歩く。たったそれだけの事である。
「おい、何やってんだ!」
だが、男の歩いている道と言うのが歩道ではなく車道だったならば、話は別だ。
くたびれたスーツを着て、酩酊しているのかよろよろと、頼りない足取りで歩く壮年の男。
幸いにして、車の数は少ない。が、決して零ではない。男を避けて通ってはいるのだ。
誰かが男を大声で呼んでいる。戻れと叫んでいる。
しかし車道を歩く男は聞く耳を持たず、ふらふらと、しかし何かに導かれているかのように歩き続けていた。
既に通りには多くの野次馬が集まっている。携帯を片手に男の姿を撮影する者、男に呼び掛け続ける者、ただ、黙ってその光景を眺める者。
やがて男は立ち止まった。尤も、誰かの呼び掛けに応えた訳ではないらしい。彼の視線は虚ろで、中空をさ迷っている。
「危ないっ!」
悲痛な声が響いた。
男の前方から、大型の自動車が向かって来たのである。
多くの人々が男に目を向ける中、自動車は止まらなかった。自動車の運転手が気付かなかったのか、気付いていたのかは定かではない。
それでも、自動車は、男を――。
「糸原さん」
「んー、何ー?」
銭湯から帰ってきた一と糸原は、部屋で寝転がっていた。
一は畳の上で、糸原はこたつの卓の上に、である。
「糸原さんて、糸原四乃、って名前ですよね?」
糸原はジャージの裾を扇いで風を送っていた。風呂上がりで上せているのか、ぐてーっとした様子で一を見遣る。
「そーよー、あー、ちょっと湯船浸かり過ぎちったかもー、にのまえー、扇いでー」
一は立ち上がり、うちわの代わりになりそうな、適当な薄さの求人誌を拾い上げる。
「今日は少し寒かったですからね。雪でも降るんでしょうか」
「積もったら雪合戦しようよー」
「嫌ですよ。糸原さん、雪玉に石詰めて殺傷力付けるタイプでしょ」
「だって合戦って言うくらいだもん。命掛けで戦わなきゃ面白くないじゃーん」
一は黙って、糸原を扇いでやっていた。
「あー、気持ち良いー。でもお腹空いたー」
「そうですね、何か作りましょうか」
「おあー、でもあんたがご飯作ると、誰が私を扇いでくれんのよー?」
糸原はまだ乾き切っていない髪を弄びながら情けない声を漏らす。
「じゃ、もう少し扇ぎましょうか」
「嫌ー。扇ぎながらご飯作れば良いじゃないのよー」
「俺が二人いれば可能ですね」
一は扇ぐ手を止めて冷蔵庫に向かった。
「超高速で動けば良いのよ。しゅびびーんっ、しゅばばーんって。そうすりゃ分身くらい出来るんじゃないの?」
「漫画の読み過ぎです」
冷蔵庫の中身が貧弱である事を確認した一は玄関に行き、サンダルを履く。
「んー? チアキん呼びに行くの?」
「ええ、まだあいつ手の怪我が治ってないから」
先日の事件以降、一たちの住む中内荘に越してきた歌代チアキ。一は、まだ怪我が完治していない彼女の面倒を見ていた。
とは言っても、チアキの怪我自体はほぼ治り掛けている。一がやっているのは食事の世話ぐらいのものだった。
一は扉を開け、寒さに身を震わせる。
チアキの部屋は一の部屋の真下に位置していた。階段を軽快に駆け下りた彼は、ノックもしないでチアキの部屋の扉を開ける。
「おーい、味噌くれよ」
「ひあああっ!?」
自室のソファで寛いでいたチアキは飛び上がって驚いた。彼女はさっきまで読んでいたらしき本を取り落とし、顔を赤くして一を睨む。
「ノックしてって言ってるやんか……」
「だって鍵掛かってないじゃん」
一は悪怯れる様子を見せないで、勝手にチアキの部屋の冷蔵庫を開けた。
「うおっ、空っぽじゃねえか」
「だって師匠らがようさん使うねんもん。買い出しが追い付かへんわ」
チアキは禍々しい髑髏が大量にプリントされた長袖のTシャツとホットパンツというラフな格好をしている。
「お前、その指で買い物行ってんのか?」
彼女は両指に痛々しいくらいの絆創膏を貼っていた。一はその事を心配して声を掛けたのだが、
「アホ、それぐらい出来るわ。なあ、それよりうちんトコにも来たって事は師匠のトコにも材料ないん?」
問題はないらしい。
「ああ、悪いけど」
「ホンマに悪いわ。けど、せやったら買いに行かなあかんなあ。ん、はよせなスーパー閉まってまうで」
「しょうがないな、ひとっ走り行ってくる。歌代、欲しいもんあるか?」
「のど飴」
「……まーた歌ってたのか? 本当に喉大丈夫なんだろうな、お前」
チアキは悪戯が見つかった子供みたいに笑って誤魔化した。
「ま、良いや。ああ、もうちょいしたらお腹を空かせた糸原さんが来ると思う。……相手、頼むな」
「はあっ? イヤ、イヤやって! あの人うちのお尻めっちゃ触ってくんねんもん!」
一は返事を聞かずに部屋を飛び出す。
急がないとチアキが食われるかもなあ、なんて思いつつ、一はのんびりとスーパーに向かっていた。
一が良く利用するスーパーは午後十一時には閉店する。今は午後十時を三十分回ったところだろうか。部屋を出る前に慌ただしく確認してきたので正確なところは分からないが、まだ余裕は残されていると踏んでいた。
「ん?」
ダラダラと歩いていると、前方に人影が見えた。こんな時間に学校の制服らしきものを着ているので目に留まったのである。
とは言っても、一には他人を注意する気概はなかった。見てみぬ振りでいようと思っていた、のだが。
「立花さん?」
「ふえ?」
間違っていたらどうしようかと思っていたのだが、一の知る限り駒台でセーラー服を着ていて、尚且つ竹刀袋をぶら下げている人物は一人しかいない。
振り返った人物は間違いなく、一のバイト先の後輩に当たる女の子、立花真であった。
「こんな遅くにどうしたの?」
「えと、お買物だよ。晩ご飯の用意するの忘れてて」
立花は恥ずかしそうに頬を朱に染めている。
「ああ、そうだったんだ。そこのスーパーまで行くの?」
「う、うん、はじめ君こそどうしたの、あ、お散歩?」
一は苦笑した。
「いや、奇遇だね。俺もスーパーまで行くんだ。あ、良ければ一緒に行かないかな?」
「いっ、良いよ! 一緒に行こう!」
立花は瞳をきらきらとさせて、元気いっぱいに頷く。
「えへへ、やったあ。ご飯を忘れてて得しちゃった。はっじめ君とーおっかいものー、ふふーん」
「大袈裟だなあ。あ、そういや立花さんの家って勤務外専用のマンションだよね?」
「うんっ、そうだよー」
「ここ、通るっけ? 逆方向だと思うんだけど、どこかに行ってたの?」
一はさっきから、その事が気になっていたのだ。
「え、えーとね。お家のベランダにいたらサイレンが聞こえてきて」
「うん」
「何だろうって思ってたら、あっちの通りにいっぱいパトカーとか走って行ったんだ。だからボク、パトカーを追い掛けに外へ出て……」
「ううん?」
一は頭を捻る。この子には動くものを追い掛ける習性でもあるのだろうか。
「パトカーには追い付けたの?」
「うんっ、何かね、結構近くに停まってたみたいなんだ。あっちのおっきな交差点があるところ。でも、人がいっぱいいて何があったか分からなかったんだ。黄色いテープとか、お巡りさんがずらーって並んでて! ドラマみたいだったよ、ボクわくわくしちゃった」
「……それって、結構大きな事件じゃないの?」
「あ、そういえば道路の真ん中にトラックが倒れてたよ」
車や人が大量に行き交うであろう大通りでトラックが横転。
「やっぱ、大事故じゃないか。怪我した人とかいなかったの?」
「……うーん。分かんないや。あ、でもでも、帰ったらニュースやってるかもしれないよ」
もしそうなら、今頃は糸原辺りが騒いでいる事だろうな。一は一先ず、事故の事は頭の隅に追いやった。
「とりあえず、買い物しようか」
スーパーの前に着いた二人は入り口の自動ドアを潜る。
今日の献立は何にしようかと迷いながら、一はキャベツを手に取っていた。
立花は一の隣で買い物籠を持ったまま突っ立っている。
「……立花さんは晩ご飯どうするの?」
「え、えーと。カップラーメン、かな?」
そんな気はしていた。
失礼な話ではあったが、一には立花が包丁を握る姿が想像出来ない。
「一人暮らしだもんね。寂しくない?」
「う、うん。やっぱり少しは寂しいかな。でも、ボクのペースでご飯食べたりお風呂に入れるから、ちょっと嬉しいんだ」
「九州の実家にいた頃は? 時間に厳しかったの?」
立花は気まずそうに笑う。
「時間、って言うより、ボクに厳しかったかな……」
「そうなの?」
聞いちゃいけない話題だったろうか。一は少し後悔する。
「あ、で、でも厳しいだけじゃなかったから大丈夫だよ。お母さん、優しかったし」
「……そっか」
魔女を蹴散らす勤務外とは言え、立花はまだ十代の学生だ。親元を離れて一人暮らしするのに、寂しくない訳がない。
「あ、立花さん」
「ん?」
一は何故か言い淀んでしまった。自分が何か、決定的な事を聞いてしまいそうで恐くなったのである。
――どうして、ここに来たの?
九州で何かが起こって、『立花』が全滅の憂き目にあったのは聞いていた。立花の影響が及ばない近畿にまで来たのも聞いていた。他にも、色々と。
だが、本当にそれだけなのか。
立花には、何か目的があるんじゃないか。
「……良かったら今度、ご飯食べにおいでよ」
「えっ、良いの? やったあ!」
一にはまだ、聞けそうにない。
まだ、踏み込めそうにない。
丁度良い。自分にとって都合の良い距離を保っておきたかった。
そうでないと、壊れてしまう。あと一歩でも立花の事情に踏み入ってしまえば戻れない。この、生温く気持ち良い関係が崩れてしまう。
一はそう、予感していた。
スーパーで買い物を済ませた一たちは、閉店時間ぎりぎりになって店を出た。
「ねえ、立花さん。本当に大丈夫なの?」
「う、うん。任せてよ。はじめ君に負けてられないもんね。ボクだって料理ぐらい出来るって証明するんだ」
丸々一玉のかぼちゃを両手で抱えた立花を見て、一は多分、それは大分先の事だろうなあ、と思った。
「包丁とかちゃんと持ってる? かぼちゃって思ってるより固いよ」
「だ、大丈夫。包丁が無理なら刀でバッサリ斬っちゃうから」
「……怪我だけはしないでね」
シフトに穴が開いちゃうから。とは流石に言えない。
「んー、ね、はじめ君」
「どうしたの?」
「かぼちゃ見てるとさ、ハロウィンって思い出さない?」
――ハロウィンか。
生まれてこの方、一はそのイベントには参加した記憶がなかった。そも、日本ではあまり馴染みがないのかもしれない。
それでも、言われてみれば確かにハロウィンのジャックランタンを連想させる。
「立花さんはハロウィンに何かしたの?」
「んーん、してないよ。あ、でも学校じゃ誰かがお菓子配ってたかも。どうしてだろうね」
「トリックオアトリートって聞いた事ある?」
立花は嬉しそうに首を振った。彼女のポニーテールも一緒に揺れて、犬の尻尾を一に連想させる。
「でも、どういう意味なの?」
「お菓子をくれなきゃ悪戯しちゃうぞって意味だったかな。ハロウィンになると、子供は皆変装して、お菓子をもらいに街を練り歩くんだって」
「ほ、本当に? ボクもやりたいなー、やれば良かったかなー」
一は曖昧に笑っておいた。
「おっと、それじゃ俺はこっちだから」
「うん、また今度お店で会おうねー!」
立花と別れた一はふと、振り返る。案の定、彼女はかぼちゃを抱えたまま手を振ろうとして、あたふたとしていた。
「遅い」
「いってえっ!」
自室の扉を開けた瞬間、一は恨めしそうな顔をした糸原に平手を食らった。
部屋の中には憔悴し切った様子のチアキが寝転がっている。
「……あいつ、何であんなに疲れてるんですか?」
「さあ? それよかお腹減ったー、とっとと用意してよねグズ」
「ま、遅くなったのは認めますけどね」
「師匠ー、今日のご飯なにー?」
一はスーパーのビニール袋から食材を取り出し、冷蔵庫に詰め始めた。
「オムライス」
「私、半熟ね」
「うち、半熟嫌いやから」
「統一しろよ!」
なんともわがままなお姫様二人である。しかし結局、何だかんだ言って一は注文通りの料理を作るのだから、仕方がなかった。
「あ、今日はデザートもありますよ」
「ふーん?」
糸原が冷蔵庫を覗き込む。
「これ、何?」
「かぼちゃのプリンです」
「へー……」
残念ながら、不評であった。
翌日。
一は大学の講義を三時限目で終え、アルバイトに向かった。
間食にメロンパンを齧りながら、バイト先であるオンリーワン北駒台店に入る。
「と、とととととっくりおあ鳥取!」
サングラスとマスクをした、怪しい人物がレジ前にいた。
レジではジェーンが未確認動物でも見ているかのような、そんな顔になっている。
「……タチバナ、何、してるのカシラ?」
「ボ、ボクは立花じゃないよっ、それよりどっちなの?」
「どっちって?」
「お菓子をくれるの? くれないの?」
なるほどなあ、と、一は素直に感心した。成否はどうであれ、立花の行動力には見習うべきものがある。
「ハロウィンだよ、ジェーン」
「お兄ちゃん? ハロウィンって、もう終わってるヨ」
「一ヵ月遅れの、だよ。ね、立花さん?」
烏の濡れ羽色のセーラー服に、野球帽とサングラス、マスクで変装しているつもりの立花は首を何度も横に振った。ポニーテールが揺れる揺れる揺れている。
「ち、違うよ? ボク、はじめ君なんて知らないもん」
「それじゃ強盗だよ。言い忘れてたけど、ハロウィンじゃお化けや妖怪に変装するんだ」
「は、はじめ君のうそつき!」
立花はマスクとサングラスを取って床に叩き付ける。帽子はその時の動きで勝手に取れてしまう。
「やっぱりタチバナじゃナイ。ほら、キャンディあげるからお店の中で泣くのはストップ」
「え、本当に?」
「だから、アタシの仕事ジャマしないでよネ」
ジェーンはポケットから飴の包みを取り出す。それを開いて、
「キャッチ!」
投げた。
立花は宙を浮く飴玉に飛び付き、口でキャッチする。危険ですのでよい子は真似しないでください。
「……うわ、スースーする。何これ、はっか?」
「ミントよ。文句言うなら返してちょーだい」
「んー」
「アー! やめてヨきたない!」
カウンター越しに口を近付けてくる立花から逃げると、ジェーンは一の背中に隠れた。
「ア、アタシのファーストキスはお兄ちゃんにサクるんだから!」
「……サクるって何だよ?」
「サクリファイス。つまり、さ、ささげる」
一はジェーンのツーテールを軽く引っ張り、立花に差し出す。
「俺を何だと思ってんだ。いらねえよ」
「What!? だったらお兄ちゃんはアタシのテイソーが誰かにスティールされても良いノ!?」
一は少しだけ考え、
「まあ、立花さんとならアリじゃないか?」
無責任に言い放った。
「やったあ、ジェーンちゃんジェーンちゃん、ボクもファーストキスなんだー」
「知らないわヨちょんまげ! ひっ、あー、どっ、どんとたっちみー!」
「良いじゃない。しのちゃん言ってたよ、こんなのただのスキンシップなんだって。ボクら仲良しなんだから、気にする事ないってばー」
「イイイイイトハルアアアアアァァァ!」
「これがゆとり教育の弊害か……」
自分の事を棚に上げ、一は独りごちた。
バックルームには不味そうに煙草を吹かす店長がいた。
「ざいまーす」
「ああ、おはよう。早速で悪いんだが、あの強盗を追い返してこい」
店長はモニターを煙草で差す。監視カメラから送られている映像には、ジェーンがモップで立花と立ち回りを繰り広げているのが映っていた。
「お菓子を渡せば帰ると思いますよ」
「菓子? 立花は一体何のつもりであんな事やっているんだ」
「ハロウィンでしょうね。昨夜、そんな話をしましたから」
「そういう事か。……確か、立花の学校は『館』の影響で、まだまともに機能していないと聞いた。大方短縮授業で時間が余り、退屈だったから遊び相手を探していたんだろう」
短くなった煙草を空き缶に押し付けると、店長は椅子の向きをくるりと変え、制服に着替えている一へ目線を送る。
「一、昨日の晩に大きな事故があったのを知っているか?」
「ええ、知ってますよ」
一は何故か不安を覚えた。他愛ない世間話の筈なのに、店長がやけに愉しそうだったから、である。
「トラックが駅近くの大通りで横転して、ファミレスのガラスを突き破った。中々に酷い事故だが、犠牲者は意外と少ない。トラックを運転していた男が一人と、車道の真ん中を歩いていた男の計二名。あとは、被害に遭った店の従業員が飛び散ったガラスで腕を切ったぐらいだな」
昨晩から想像していたよりも大きな事故だったので、一は素直に驚いた。
だが。
「車道の真ん中を、ですか」
「ま、このご時世だからな」
「お酒に呑まれちゃったんですかね」
店長は首を横に振り、否定の意を見せる。
「いや、死体からは薬物反応もなし、アルコールだって検出されなかった。道路を堂々と渡っていた男は確実に素面だったんだ」
「……周りで見ていた人は何か言ってなかったんですか?」
「それが妙な話でな。意識があった筈の男に呼び掛けていた者もいたらしいが、全く反応を示さなかった、と、聞いている。男の視線はどこか虚ろで、足はふらついていて。……まるでただの酔っ払いだな」
「確かに変な話ですね。他に何か聞いてませんか? 現場には野次馬が大勢いたんでしょう」
そろそろ、嫌な予感がしてきた。だが、一は続きを促す。
「……火の玉を見たと発言する者が多々、いたらしいな。手放しでは信じられないが、中には携帯のカメラに写っていたものもあった。合成かどうかは、情報部が審議しているらしいが、目立ちたいって願望持ちの、一般人の虚言だとは笑えないかもな」
「火の玉、ですか。もしかして、ソレ、とか?」
店長は足を組み替え、妖しげに口角を吊り上げた。
「かもな。我々オンリーワンの人間はその可能性を考慮して動かなければならん。一、お前はどう思う?」
「もし火の玉がソレだとすれば、男の人を道路の真ん中へ歩くよう仕向けた。催眠術とか、その手の能力を持っているんじゃないかって思いますね」
「更に加えれば、恐らくはトラックの運転手も火の玉に影響を受けていただろうな。幾ら午後の十時を回っていたとはいえ、あの通りは見晴らしの良い直線だ。ライトも点いていたから、まさか道路の真ん中にいた人間を見落とす訳がない。第一、何にタイヤを取られて横転した? 人間一人轢いただけじゃびくともせんだろうよ」
その言い方では、人知の及ばぬ何かが事故を起こさせたにしか聞こえない。
一は制服の身嗜みを整えながら考えを巡らせる。
「そもそも、火の玉ってソレなんですか? 鎌鼬や土蜘蛛みたいな、人に悪さをするような妖怪ならともかく、ただの火じゃないですか」
「……私が知っているのは鬼火だな」
「鬼火?」
「皿数え、狐火、宗源火、不知火、送り提灯、陰火に風玉。呼び名は他にもある。日本各地には火の怪異が多く伝わっているからな。さて、鬼火と呼ばれる妖怪だが、大きさはばらばらで、群れるケースも目撃されているが、大した問題じゃない。厄介なのが、人の体力精神力、早い話が鬼火ってのは生きている人間の命を吸うってところだ」
「なら、事故で死んだ人たちは鬼火に殺されたって事ですか?」
「まだ断定は出来ん。情報部から新しい話を聞いてみない事にはな。だが、ソレの正体が何にせよ、そもそもソレではなかったにせよ、火の玉とやらが鍵となるのは間違いない」
今提示されているヒントだけでは答えが得られない。
一はとりあえず、フロアに出たら立花にお菓子をあげようと思った。
彼女に悪戯されては、自分は敵わないだろうから。
午後十時。アルバイトが終わった一は相方のジェーンと途中まで帰り道を一緒にし、今し方別れたところだった。
吐く息は白く、時折吹く風は身に染みる。
家に帰ったら銭湯に行って、糸原たちと遅めの夕食を食べよう。
そう考えながら歩いていると、前方に人影が見えた。
「はあっ?」
前方の、空に、である。
民家の屋根から屋根へ飛び移り、空中に浮遊し続ける異様なシルエット。
――人間じゃない。
戦おうにも逃げようにも、アイギスがない。その事実に気付いた一は店に戻ろうとして、その場から背を向ける。
「……!」
瞬間、風が吹いた。不思議と冷たくない。むしろ暖かく、心地良い風。
一は振り向こうとして、止めた。その必要がないと判断したからである。
空を自由に駆ける者は、一の目の前に降り立っていたのだ。
「あんたは……?」
――女?
一よりも僅かに身長が高いその人物の胸元は、体型にぴったりと合った半袖のTシャツによって強調されている。スタイルは、良過ぎるくらいだった。彼女の手足は柳のように細く、だが、肌は健康的な白さに保たれている。
「分からないのか?」
女性の声は軽く、そして高かった。
一は暗がりの中、目を凝らして女性の顔を確認する。彼女の顔立ちは、類まれなスタイルに似合わず、あどけなかった。髪の毛は帽子に隠されているが、首元までは伸びているのが確認出来る。
服装は顔立ちよりで、大量の星がプリントされた半袖のTシャツに、ショートパンツと言うよりは、小さな男の子が好むタイプの半ズボンを穿いていた。見れば見るほど、知らない人である。
「いや、ちょっと。どこかでお会いしましたっけ?」
「あ、会ったよ! お前、もう忘れたのか?」
「……?」
自分よりも年齢は上の筈なのに、何故だか一はそうは思えない。言動もそうだが、正体不明の女性の雰囲気が幼いような、そんな気がしていた。
大きいのに、小さい。
女性から妙なアンバランスさを感じ、一は一歩退く。
「お、おいっ、なんで下がるのさ!」
「知らない人には付いて行っちゃ駄目って教わってるんで」
「はあ?」
「さいならっ」
一は来た道へ向かって一目散に駆け出した。店までは遠いが、少しでも距離を稼ぐ。今の時間なら三森とナナがいる筈だった。
「待てってバカ!」
――誰が待つか。