Joyful, joyful
ゴトゴト。
ゴトゴト。
白い軽トラックが駒台の街をゆっくりと進んでいく。
荷台には様々な家具が乗っていた。
ゴトゴト。
ゴトゴト。
縛り付けられたタンスと机が時折ぶつかり合い、軽快な音を鳴らしている。
運転席には柔和そうな顔付きをした眼鏡の男。
助手席には不機嫌そうな顔をした女の子。
車内ではこれといった会話もなく、ただゆっくりと、彼らを乗せた軽トラックは住宅街を通り抜けていく。しかし決して険悪といった雰囲気ではない。流れ行く時間を自然と受け止めるような、暖かな空気が二人を包んでいた。
大学の二時限目の講義が終わった一は中教室を出るなり耳を塞いだ。
「何故だ! 何故なんだ!? どうしてなのだ先輩っ!」
「……声がでけえよ」
「どうして私とお昼ご飯を食べてくれないのだ!?」
そうやって大声でまくし立てているのは、一の一つ下の後輩である早田早紀である。
二人は入り口近くに固まっていたせいもあって、教室から出て行く他の学生たちの注目を集めていた。学生の殆どは見てみぬ振りで、中には「またか」と声を漏らす者もいる。
「楯列にも言ったけどさ、今日は俺自主休講、午前までの予定なんだよ」
「だからその理由を聞いているのだ! 午前までで終わり? ならば私は今日の昼休みと午後の講義を先輩と過ごせないではないか!」
「そうだな。じゃあ行くわ、用事あるから」
一は手を上げ、早田から距離を取った。
「待て待て待て待て待ってくれ!」
が、凄まじい脚力の持ち主である早田はすぐさま一に追い縋る。
一は服の袖を引っ張られ、やむなしに振り返った。
「もう、何だよ。急ぐって行ってんだろ」
「それは分かった。私も女だ、涙を呑んで、笑顔で先輩を送り出そう。それに、先輩は束縛する女が嫌いだと言っていたからな。自ら好き好んで好感度を下げるつもりはない」
「それで?」
早田は真っ白い歯を見せて笑う。
「せめて、先輩が学校を出るまでは一緒にいさせて欲しい」
一は直に、しかもかなり近い距離で彼女の、ヒマワリを思わせるような眩しい笑顔を見てたじろいでしまった。
「……勝手にしろ」
「ふふ、そうさせてもらおうか」
「腕を組もうとするなボケ」
「しかし先輩、用事とは何なのだ? バイトではないだろうし、うむ、今日はそれ以外に用事があるとは思えない。何を隠している」
詰問するような早田の口調に呆れて、一は頭を掻く。
「確かに今日はバイトがない。でもさ、何で俺の予定を知ってるんだよ?」
「くくっ」
「悪役笑いは止めろっていつも言ってんだろ」
一はそれ以上追求するのを止めておいた。別に、どうでも良い事だと思っていたし、彼女ならばそれぐらいは把握しているだろうと諦めている節もある。
「では、何だ?」
「引越しだよ、引越し」
早田は目を丸くした。
「先輩のか?」
一は首を振り、空を見上げる。雲は掛かっちゃいるが、充分に良い天気だと言えた。
――絶好の引越し日和だな。
「俺じゃなくて、俺の住んでるアパートに引っ越してくる奴がいんだよ」
「ふむ、そうだったのか。ははあ、話が見えたぞ。では先輩はその人物の手伝いに行く訳だな」
「その通り。俺が戻る頃には始まってんじゃねえのかな、準備」
「ちなみに、その人物とは女、ではないだろうな」
トーンの落ちた早田の声音に、一の体が少しだけ固まる。
「生物学上は女だけど。ああ、誤解すんなよ、変な関係じゃないからな」
「ではどんな関係だと言うのだ? 聞かせてもらおうじゃないか、先輩」
「お前に問い詰められる理由は分からんが、そうだな、後輩、みたいなもんだよ」
「ショオオオオオオオオック!」
「ひっ! 急に大声出すな!」
早田は一を押し倒さんばかりの勢いで食らい付いた。
「こっ、こっ、こっ、後輩だと?」
「みたいなもんって言ってんだろ」
「嫌だっ、断固拒否する! 先輩の後輩は私だけだ! 私だけじゃないと嫌なのだ! 今からでも遅くはない、そいつを後輩と呼んだ事を取り消すが良い。じゃないと――」
一は唾を飲み下す。
「……じゃないと?」
「――ひ、酷い事になる」
とっくに酷い事になっていた。
「分かった分かった、取り消すよ。そいつとの関係は……師弟関係だ。俺が師匠で、奴が弟子」
「そっ、そうだったのか。うむ、それなら――いや、良いな師弟関係。私もそっちが良い。良いなあ、師匠! 良い響きだ! 私にも教えて欲しいものだ。そう、牡と牝の肉体の何たるかを」
「……無駄にエロく聞こえるから牡って変換するな。なあ、お馬鹿な君はどうしたら納得するんだ?」
「師弟関係は先んじられたからな。良し、先輩とは肉体関係で手を打とう」
「頭強く打ってくれねえかなあ、こいつ」
学校を出てからも付いてくる早田を何とか押し止め、一はアパートまで帰ってくる。
「お」
アパートの前には家具を積み込んだ、白い軽トラックが停まっていた。
一は、そのトラックの荷台に背を預けて所在なさげにしている男に声を掛ける。
「堀さん」
スーツ姿に眼鏡を掛けた、優男が一の声に反応した。
「ああ、一君。思っていたよりも早かったですね」
「ええ、大学は午前だけ受けてきたんで」
「良いんですか?」
一は曖昧に頷く。堀はそれ以上何も言わなかった。人当たりの良さそうな笑顔を浮かべるだけである。
「あ、そういえば糸原さんたちは?」
そこで、堀は困ったような笑みを浮かべた。
「それが、皆してウチのコンビニまで行っちゃいましてね。何でも人手を増やすのと、打ち上げの買い出しを、との事です」
「増援はともかく、打ち上げってのは気が早いなあ。堀さんは留守番って事ですか」
「そのようで」
一と堀は顔を見合わせて笑った。
「どうします、堀さん、先に始めちゃいますか?」
「そうですね。鍵は預かってますから」
「ま、やっとかないと糸原さんあたりに文句言われそうですしね」
一は苦笑して、軽トラックの荷台を見遣る。
荷台にはタンスや冷蔵庫、机やテレビ。有り体に言えば重いものばかりだった。
「……明日は筋肉痛だな」
「いやあ、キツそうですねえ」
そう言う堀の顔には笑みしか浮かんでいない。
「あの、堀さん」
「何でしょう?」
一はトラックの荷台に上り、堀とは視線を交わさないままに口を開く。
「……ひつ――田中さん、どうなりましたか?」
堀は少しの間だけ笑顔を消し、眼鏡の位置を押し上げた。
「……彼は今頃、娘の写真を眺めながら、ゴーヤでも齧っているんじゃないでしょうかね」
一には、田中が遥々南の島まで行ったのが、単身赴任なのか左遷なのか分からない。精々、堀の言葉から彼が妻子と離れ離れになり、もう自分たちとは会わないんだろうなと、それぐらいしか理解出来ていなかった。
「苦い、ですね」
「この結末が、ですか?」
「まあ、そうですね。はっきりしないと言いますか、何か、歯の間にモノが挟まったままな気がして」
「一君は田中さんをどうにかしてやりたかったんですか?」
堀はアパートのであろう鍵を弄びながら、一に問い掛ける。
「――殺してやりたかった、とか」
まさか。一は首を横に振り、それはないと断言した。
「殺されそうにはなりましたけど、ね。三森さんには怒られちゃったけど、俺も一発良いの叩き込んでやったし、だから、良いんです」
「なるほど。いやあ、田中さんのあの鼻は見ましたよ。完全に砕けていましたね。完治までには相当の時間を要するでしょう」
「あ、はは。そんなに酷かったんですか?」
堀は肩を竦め、良く分からない微笑を湛える。
「気にしなくても良いですよ。彼はそれだけの事をしましたからね」
「それって、南の勤務外を殺したっていう……」
「いやあ、それもありますが、一番はやはり、歌姫を利用した自作自演でしょう。率直に言えば、彼はやり過ぎました。オンリーワンに所属している者がソレの出現を助長するなんて」
「でも、人を殺してるんですよね。その、俺なんかが言っても良いのか分からないけど、罪にならないのかなって」
堀は気まずそうに溜め息を漏らす。
「彼には……功績がありますからね。性格、と言うより性質に難はありますが、戦闘力には目を見張るものがありましたから」
「そう、ですか」
「気に入りませんか?」
「……そんな事はないんですけど。あの、田中さんは自作自演を認めたんですか?」
一は荷台の縁に腰を下ろす。
「いえ、残念ながら。他の事については洗い浚い話したようですがね」
「……じゃあ、真相は闇の中、なんですね」
「――良いじゃありませんか」
「へ?」
堀は笑顔を崩さないまま、一を見遣った。
「はっきり言ってしまうと、私にはまだ、事情が良く呑み込めていません。辛い事、悲しい事、悔しい事があったでしょう。ですが、一君たちはこうして生きている」
「堀さん……」
「そして、新しい生活だって始まるんです」
堀はトラックの荷台に積まれた家具の数々を眺め、眩しそうに目を細める。
「……それで良いじゃありませんか。何も、提示された全ての問いに答えを求める必要はないと思いますよ。本当に大事な何か一つ、それさえ分かっていれば、良いのではないでしょうか」
「そうかも、知れませんね」
一は憑き物が落ちたような、晴れやかな気分になっていた。
「うん。それじゃあ堀さん、荷物を部屋に入れていきましょうか」
「ええ、そうですね――と、少しばかり話し過ぎたようですよ」
一は何気なく荷台から顔を上げる。
「……あちゃー」
ビニール袋を振り回す糸原と目が合い、一は頭を抱えた。
「ねえ、どうして男が二人もいて荷物が片付いてないワケ? あんたら、こ・こ・に、男の勲章がしっかり付いてんでしょうね?」
「……ごめんなさい」
「いやあ、申し訳ないです」
帰ってきた糸原に謂れのない叱責を受け、それでも一と堀はただただ頭を下げるしかなかった。
「ったく、使えないわねー。……にーのまえっ、なーにボサっとしてんのよ! ほら、買い出しに行ってくれた私らと、わざわざ店から来てくれた奴らに飲み物を注ぎなさい」
「えと、引っ越しの準備は?」
「んなもん後よ、後! 私は喉が渇いたの、ふふーん、ほらほら、妾はドリンクが所望であるぞ」
一は堀と顔を見合わせる。お互いがやれやれと言った具合に息を吐いた。
「じゃ、俺が飲み物注いでいきますから、あのう……」
堀は糸原からビニール袋を受け取り、その中から新品の紙コップを取り出す。
「私が皆さんにコップを配っていきますね」
「お願いします。じゃあ皆さん、飲み物を配るんで一ヶ所に集まって――集まれって言ってんだろ! おいジェーン勝手に俺の部屋入ろうとするなよ!」
アパート周辺に散らばりだすまとまりのないメンバーに辟易しながらも、一はジュースの詰まった袋をぶら下げた。
「俺の荷物重いんで、堀さんは先に、パパっとコップ渡しに行っちゃってください」
「代わりましょうか?」
「いや、社員さんにそこまでさせらんないですよ」
一は笑ってみせるが、堀はいまいち納得がいっていない様子である。
「……まあ、一君がそう言うなら。では、お願いしますね」
「? はい、分かりました」
堀は散らばったメンバーたちに紙コップを配り始めた。
パンパンに張った、二つのビニール袋を両手に持ち、一は堀の後に付いていく。
「糸原さーん、何が良いですかー?」
糸原は軽トラックの運転席で足を組み、ハンドルに肘を突いて踏ん反り返っていた。
まるで玉座にでも座っているみたいだと一は錯覚してしまう。
「勿論、酒ね」
「これから荷物を運ぶんですけど」
「ふふん、分かってないわね。私がそんな事すると思う? ここで勝利の美酒を味わいながら、あんたたちの労働する姿を眺めておくに決まってるじゃない」
思わなかった。
「何に勝利したんですか」
「ふふん、そうね。…………何かしら?」
一は黙ってオレンジジュースを注いでおく。
その後も、一は甲斐甲斐しくジュースを注いで回った。
勝手に一の部屋に入り込んでいたジェーン。
トラックの荷台に積んであったベッドで眠っていた立花。
立花を必死で起こそうとしていた神野。
一人だけ引越しの作業に移ろうとしていたナナ。
部屋から出て来て混ざろうとしていた北。
アパートの塀にもたれ掛かり煙草を吸っていた三森。
「三森さんも来てくれたんですね」
「……無理矢理連れてこられたンだよ。言っとくけど私は手伝わねーからな……まァ、椅子なら一個ぐらい」
一は彼女のコップにウーロン茶を注ぎながら苦笑する。
「ところで、今は誰が店に残っているんでしょう」
「店長一人だ」
「あ、ははは……」
「ま、たまには良いンじゃねェの? こーいうのもさ」
三森は煙草の灰を落としながら、穏やかな顔で言った。
「ああ、それよか堀さンに気ィ遣わせんなよ」
一は頷く。堀には家具の運搬や、お留守番、他にも多分、色々な用事を押し付けてしまっているのだろうと思った。
「や、そーゆーンじゃなくてさ。ほら、今回の事だよ。一応、『棺』と部署が同じだったからな。戦闘部として、申し訳ねーとか思ってンだよ」
「あー、そういう意味でしたか。でも、アレですね。三森さんも堀さんの事には気が回るんですね」
「なっ! ちっ、ちげェよ馬鹿! わ、私だって、その、何だ。元とはいえ、戦闘部だったからな。お前に対してはそういう気持ちでいるンだよ」
「? そういう気持ちって?」
顔を真っ赤にした三森にウーロン茶を引っ掛けられそうになったので、一は足早に彼女の元から離れた。
「お、こんなところにいたのか」
そして最後に、アパートの隅に隠れる様にして座り込んでいた、歌代チアキ。
彼女の喉には痛々しく包帯が巻かれ、両手には傷跡を隠す為の手袋がはめてあった。
「……人、多いから」
チアキの喉は嗄れに嗄れ、以前のような歌姫を思わせる声ではなくなっている。がらがらに掠れた、ハスキーボイスに変貌を遂げていた。
「何が飲みたい? 何でもあるぜ、りんごジュースオレンジジュース、緑茶ウーロン茶に炭酸ミネラルウォーター、ああ、アルコールもあるな」
「いらん」
一はジュースの詰まった袋を地面に置き、チアキの指元に目を遣る。
「爪、まだ治ってないんだったな。良いよ、飲ませてやっから」
チアキは首を振り、一と顔を合わせないままさっきよりも深く俯いた。
「……爪ならすぐに生え揃うよ」
「声は?」
「声が掠れてんのは一時的なものなんだろ? 大丈夫だって、すぐ元に戻るよ」
「戻らん」
一は溜め息を吐こうとして、何とか我慢する。自分が投げ出してはいけない。
チアキの声はあの時のショックで、劇的に変わってしまった。掠れてしまった。オンリーワンの医療部ですらさじを投げてしまう特異な症状で、何故こんな事になったのか全く分からないのだと言う。最後まで諦めなかった、否、今でも諦めていない炉辺の話によれば、歌代チアキに流れるセイレーンの血が原因ではないかとの事だった。
しかし、原因が分かっても治療法までは分からない。
爪が生えたとして、今のところ、チアキの声は元には戻らないのだ。戻る見込みすら、ないのだ。
「うちはもう、一生うたわれへん」
「そんな事ないだろ。うたおうと思ったらうたえるじゃないか」
チアキは一を睨み付け、また、顔を伏せる。
「無理。声、変やもん」
「変じゃねえよ。それに歌ってのは、声だけじゃないんだろ。お前がそう言ってた、気がするんだけど」
「言ってへん」
「思いってのが大事なんだろ? 声なんてのは、二の次じゃないのか」
詭弁だった。それが分かっていながら、一はそう言ったのだ、
「うっさい。ボケ」
「気長に待とうよ。付き合うからさ」
チアキはもう、返事すらくれなかった。
「はーい、皆コップ持ったー?」
糸原の気楽な声が響く。
アパートの前の、ちょっとした庭らしき空間に置かれたチアキのテーブル。そこを中心に、チアキを除いた総勢十名にも上る人間が紙コップを掲げた。
「お兄ちゃん、チアキはイイの?」
「……放っておけって言われた」
一はちらりと、アパートの隅に座り続けるチアキを見遣る。彼女も同じ輪に入って欲しかったのだが、このメンバーだと彼女一人の都合に付き合い続けるのも、ご機嫌を取るのも困難なものに思われた。
誰が何をどう言おうが、結局はチアキの意思によって決定されるのだから。
「ねえ、しのちゃん。早く始めようよー」
「こういうのは音頭でも取って気分盛り上げんのよ」
「オンド? ね、お兄ちゃん。今からアタシたち踊るノ?」
「そっちの音頭じゃない。あ、字は同じだけど」
「ああ、良いわね、踊ろうかしら。ヤンキー、パラパラでも安来節でも構わないから踊りなさいよ」
「てめェ独りで踊ってろ」
一は額を指で押さえた。
このままでは一向に引っ越しの作業が進まない。
「おい坊主、もう飲んで良いだろ?」
「駄目よ! 誰かに踊ってもらわないと駄目、つまんないじゃない。良し、ナナ子、あんたいきなさい」
「どこに行けばよろしいのですか?」
「踊れって言ってんのよ」
「申し訳ございません。私には舞の機能はプログラミングされていないのです」
一は頭が痛くなってきた。
このメンバーを纏める事など誰に出来るのだろうか。
「……神野君」
「すみません一さん、俺には……無理です」
「堀さん」
「いやあ、皆さん楽しそうですね」
溜め息を吐き、一は律儀にも掲げたままだった紙コップを下ろす。
「あの、落ち着きましょうよ。早くしないと日が暮れちゃいますって」
「んー? 何よ一、私に歯向かおうっての。あ、今唐突にハムが食べたくなってきた。買ってきて」
「……糸原さん、調子乗り過ぎですよ」
糸原は目を細め、にやにやと嫌らしく笑っていた。
「じゃあ、あんたが乾杯の音頭取りなさいよ」
「ええっ?」
全員の視線が一に向く。
一は視線を反らしつつ、しかし四方八方から注がれる視線からは逃げ場がないと判断した。
「分かりました……」
この、混沌すら逃げ出すであろう状況には諦めが肝心である。一は咳をして喉の調子を整えた。
「えー、本日はお日柄もよく、冬の日もうららかに晴れ……」
「上司の結婚式じゃないんだから、もっと砕けなさいよ」
一はもう一度咳払いをする。
「レディィィィスアアァンドジェントルマン!」
「お兄ちゃん、発音が変」
「……拝啓」
「堅くなってンじゃねーか」
「…………皆様、本日は歌代チアキの引っ越し準備の為にお集まり頂き、まことにありが」
「え、ボク? はじめ君、ボクがどうしたの?」
「立花、お前じゃないから黙っとけ」
一は三度目の正直とばかりに咳払い。
「………………皆様、本日は歌代チアキの引っ越し準備の為にお集まり頂き」
「飽きた。一、なんか芸でも見せて」
「糸原てめえいい加減にしろよ!」
糸原は見る者を底冷えさせるような視線を一に送った。
「――もっぺん言ってみなさい」
「一番、一一、うたいます!」
力関係は悲しいほどにはっきりとしている。
一は紙コップをテーブルの上に置き、息を吸い込んだ。
「よっ、係長!」
北の、寒気を誘発させるような掛け声を皮切りにして拍手が起こる。
「うたいます。聞いてください、俺の十八番、エマニエル夫人の――」
「――なんてもん十八番にしてんのよ!」
拍手は止み、一には糸原のパンチが飛んだ。
「大学じゃ受けが良かったのに!」
「そりゃお前笑われてたンだよ」
「だったらもううたわないっ、うたわないもんね!」
一は地面に膝を付いたまま半泣きで叫ぶ。
「あんたそんな態度をとって良いワケ? ナナ子、やっておしまい」
「かしこまりました。一さん、失礼します」
「失礼すんじゃねえよ!」
ナナが一に飛び掛かると、周囲の熱気は狂気から狂喜へと変わっていった。
その光景は馬鹿げていて、くだらなくて、
――楽しそうで。
一人の少女の、凍り付いていた心を溶かすには充分に過ぎた。
「アホやなー、あんたら」
その少女の掠れた声は不思議なくらいに、暴れていた全員の耳朶を打つ。
「……歌代、お前……?」
一は目を見開いた。
チアキは自らに巻かれた包帯を解いていたのだ。片手に解き切ったそれを持ち、不機嫌そうに面々を見やっている。
「芸が見たいんやろ? 見せたるわ」
だが、彼女の声からは不機嫌の色など露も感じさせない。むしろ、堪えがたいほどの喜びが溢れていた。
「…………師匠、こっち来て」
ナナはあっさりと一を解放し、一は無言でチアキに近付いていく。
誰も彼もが、彼女の――歌姫の声に耳を奪われていた。
「うち、うたうわ」
「良いのか……つーか、大丈夫なのか?」
「師匠の変な歌聞かされるよりはマシやろ」
一は頭を掻いて、早田たちには受けた十八番を馬鹿にされたような気分に陥る。が、それ以上に、チアキがうたってくれると言ったのが嬉しかった。そして、期待感に満ち溢れていた。声こそ掠れているが、関係ない。もう一度、彼女の清廉な歌声を聞けるのだから。
「せやから、師匠……手ぇ握ってて」
「手って、お前怪我してんだぞ」
チアキの手は微かに震えていた。
「ええから、お願い」
一は何も言わずに、指を絡めて握ってやる。
チアキは身を強張らせ、痛みを耐えている様だった。
「痛かったら言えよ」
「痛くない」
これ以上は何を言っても無駄と判断し、一は彼女の好きにさせてやろうと決める。
「何、うたうんだ?」
「えっと、な」
チアキは恥ずかしそうに、一の耳元でタイトルを囁いた。
「ああ、それなら聞いた事があるよ」
「……う。恥ずいわ」
「ヘイっ、お兄ちゃんっ! いつまでチアキとシェイクハンドしてるノ!?」
ジェーンの甲高い声を受け、一は焦りながらも、歌が終わるまでと返す。
「…………ずっとがええねんけどな」
「何か言ったか?」
チアキは息を吸い、答える代わりに、握った手に力を込めた。
「うち、こんな世界嫌いやった。皆死ねばええって思っとった。消えたらええねん、そう思っとった」
一は黙って耳を傾ける。
「……うち、こんな体やからな。色々、あってん。せやけど、師匠。師匠と出会えて、ホンマに良かった」
「俺もだよ」
「……ま、真顔で言うなや、そんなん。……ほ、ほんでこっちに来てあの公園で笑っとる奴ら邪魔してて。でも、あの、でもな……」
「聞かせてやろうぜ」
「師匠……?」
「お前の思ってる事だよ、歌代。言葉じゃない。歌にして届けてやろうぜ。俺たちだけじゃなくて、そうだな、とりあえずこの街の奴ら皆にさ」
チアキは目を丸くして、頷いた。
「――――師匠、好きやで。嘘やない」
「ああ、俺も好きだぜ弟子一号」
「…………鈍感」
「? おっしゃ、お前は俺が育てた自慢の弟子だ。いっちょ聞かせてやれ、うたってやれ」
一は笑ってチアキの肩を叩く。
チアキは、悪戯な笑みを浮かべて一層強く一の手を握った。
「今から、俺の一番弟子が心を込めてうたいます。聞いてやってください」
一は言葉を区切り、
「皆一度は聞いた事があるかもしれません。曲名は――――」
高らかに、歌い上げた。