Hail Violent Queen
――なンて顔してやがる。
子供みたいに笑う一と、鼻から血を噴き出しながら吹き飛ぶ田中を見て、三森はぼんやりと思った。
人間とは、ああも簡単に空を飛べるんだったか。
先刻辿り着いた戦場と思しき場所。
そこで目にした世にも奇妙な物語。
一は傘で田中の顔面を振り抜いたのだ。何とも綺麗なスイングで、野球に興味のない三森ですら、少しの間見惚れてしまう。
よもや、『棺』があんな醜態を晒すなんて思いもしなかった。しかも、その相手があの情けない一ときている。夢でも見ている気分だった。
「……っと」
三森は頭を振り、煙草に火を点けた。自分の役割を忘れてはいけない。
本来なら自身で全てに片を付けるつもりだったのだが、一が予想以上に動いてくれた。お陰でこっちとしては後始末に精を出すだけで事足りる。少し物足りないが、仕方ない。
今、一は田中がどうなったのかを確認しないまま寝転がっている。疲れていただろうから、これまた仕方のない事ではあった。
「世話焼かせやがって」
面倒そうに呟く三森だが、彼女の顔には笑みが浮かんでいる。
これから自分が成すべき事に思いを馳せているのだろう。
チアキはしばらくの間、身動き一つ取れなかった。今日は随分と驚かされてきたが、先程の光景は彼女の体に今日一番の衝撃を走らせる。
田中次史、『最低の棺』。
世界で一番恐ろしい存在。自分を脅して、使い物にならなくなったら即、命を奪いに来た最低の男。
その男が、気持ち良いくらいに吹き飛んだ。
骨が砕ける乾いた音を響かせて、『棺』は宙を舞い、今はぴくりともせず地に伏している。
未だチアキは信じられなかった。そんな事をやってのけたのが、一だと。信じられる筈もない。
だけど、彼は応えてくれた。自分を、助けてくれた。
白馬に乗った王子様なんて洒落たものじゃない。先日知り合ったばかりの、ただの友達。命を懸けるに値しない関係。普通ならそうだろう。
しかし、一は動いた。彼の思惑がどうであれ、結果的には自分の為に命を懸けてくれた事に変わりはない。
嬉しくて、涙の一つでも流したかったのに、体は固まっている。
「あ……」
声が出ない。
でも伝えたい。ありがとうと、そう言いたい。
今まで生きてきて、頭と体をここまで使った日があったろうか。
――ない、だろうなあ。
一はアイギスを掴んだまま地面に体を投げ出していた。もう、一ミリだって一秒ですら動きたくない。
全部使い切った。田中をぶっ飛ばした。『棺』に一矢報いた。
悔いはない。そう言えば嘘になるかもしれない。
何せ、自分はまだチアキを助けていないのだから。彼女をほったらかしたまま、野球しに行っただけのようなものだ。
自分も、ヒルデもチアキも動けない現状ではこれ以上の展開が望めない。第三者の介入、出来るなら味方になってくれる人間を呼びに行かなければならない。
「……くっ、うう……」
遠くからでは分からないだろうが、田中はまだ意識がある。アイギスで顔面を打っ叩いたのは良いが、一の筋力では彼の、鼻の骨を砕くので精一杯だった。意識を飛ばすには至らない。手をこまねいていれば、彼からの報復は避けられない。
一は立ち上がろうとするも、足腰に力が入らなかった。
田中の慢心、読み違い。ヒルデの復活。様々な偶然が重なった上でのラッキーパンチだったとはいえ、一度でも気を緩めてしまえば、再び気を張るのは難しいものである。アイギスを杖代わりに立ち上がろうとするも、どうしても駄目だった。
そんな中、
「――っ」
一の求めていた人物が現れた。
一も田中も、二人ともが彼女に目を向けている。停滞しつつあった状況を打破するであろう絶対の存在。
三森冬が、この場に遅れてやってきた。
威風堂々。三森は煙草を燻らせながら悠然と歩く。
彼女は倒れている二人の真ん中にまで進み、深く息を吐いた。短くなった吸い殻を燃やし尽くすと、男たちに一瞥を遣る。
「派手にやらかしたもンだよなァ、憩いの場が台無しじゃねーかよ。なあ、そうは思わねーか」
「……赤鬼」
田中は忌々しそうに呟いた。鼻から垂れた血が口内に入り、彼の歪んだ顔を一層歪ませる。
「『棺』さんよ、気分はどうだ?」
一は思わず身構えてしまう。
三森は一を見ずに田中へ手を差し伸べたのだ。
「……良くはありませんね」
田中は彼女の手を取り、ゆっくりと立ち上がる。
「来るのが遅い。いや、遅くはないですか。良いでしょう、遅刻についてはとやかく言いません。今から反逆者を始末すれば済む話ですからね」
「……反逆者、ねェ」
三森と一の視線が交錯する。彼女の目からは感情が読み取れない。
一は視線を反らしアイギスを握った。今から手負いの田中と、殆ど無傷に近い三森を相手にしなければならない。
――絶対無理だな。
無理だ。勝てない逃げ切れない。だがしかし、彼らに立ち向かえるのは自分しかいない。やるしかない。
と。一はそう思っていたのだが。
「そんなにびびンじゃねェよ」
三森は一の不安などよそに、あっけらかんと笑う。
「……三森さん?」
「――赤鬼、お前……」
「鼻、右に曲がってンなァ」
「……何?」
田中に向き直った三森は、左手をおもむろに振り抜く。
「あぐっ――!?」
骨折している鼻を殴られた田中は、痛みに耐え切れないで地面を転がった。
「左からイっといたから、これで真っすぐになンじゃねーの?」
けらけらと笑う三森に、一は少しばかり引いてしまう。
「あ、み、三森さん?」
「あンだよ、これからが良いところだろが、止めたら殺すぞ」
「やり過ぎじゃあ……」
「やり過ぎだあ?」
三森は田中の腹を蹴ったあと、血の気が引いている一を強く見据えた。
「お前、『棺』に何されたか分かってンだろーな? 見ろ。お前の後ろだよ。やられたのはてめェだけじゃねェんだぞ」
「……それは、そうですけど」
「全員息はあるみてェだがな、そこの鎌女はボロボロだし、あのガキもひでェ目に遭ってるだろうよ。メイドに至ってはバラバラにされてンだぞ、ボケっ」
「……殺すん、ですか?」
一はのたうち回る田中を見た。なんて情けないんだろう。醜くて、気持ち悪い。
「お前、本気で言ってンだろうな……? 馬鹿が、当然だろうがっ、てめェ身内がやられて黙ってンのかよ!」
「でも……」
「でも、なンだよ? 温い事言ってンじゃねェ。ここでこいつを殺しとかなきゃな、いつかまた痛い目見んだぞ」
一は身を縮こませる。三森からの強い視線は体に毒だった。
それでも、自分たちさえ助かればそれで良い。それ以上は望むべくもない。
「……殺さねェよ。冗談じゃねェけど、冗談だ」
一の願いが通じたのか、それとも三森が折れてしまったのか。彼女は呆れた風に呟いた。
「本当、ですか?」
三森は溜め息を吐いてから田中へと視線を移す。
「こいつにゃ使い道があるからな」
不穏な言葉を聞いて、一の眉間に皺が寄った。
「後始末だよ、後始末。私はもう疲れちまった。だからこいつ一人に押し付けて、今日はもう終わりだ。この話を終わりにするからな」
――後始末、だと?
田中は鼻血を袖で拭きながら、よろよろと立ち上がった。
「ん、おいおい寝てろよ」
田中は声が出せなかった。三森の爪先が腹部に思いっきり突き刺さっている。恐らく彼女は手加減などしていない。今の蹴りで骨も何本か折れただろう。
「……かっ、はっ」
呼吸をするだけで田中の全身に激痛が走る。
「三森さん、やっぱりやり過ぎじゃ……」
「これ持ってろ」
三森は一に背を向けたまま何かを放った。
一は投げられたものを両手でしっかりと掴む。彼の手の中に収まっていたのは、赤い携帯電話であった。
「これ、どうすりゃ良いんですか?」
「持ってろ」
三森は一を半ば無視する形で、倒れている田中に近付き、髪の毛を掴み上げる。
「おらっ、呑気に寝てンじゃねェぞボケが」
寝かしたのはお前だ。田中は内心で毒づき、しかしされるがままに持ち上げられてしまった。
「……何をしているのか、分かってるんでしょうね」
「おうよ。てめェこそ今から何されるか分かってンだろな」
「くっ、ははっ。僕を殺しますか? これはオンリーワンに楯突く行為ですよ。当然、処罰も覚悟の上でしょうね。君だけじゃない。今日の関係者全員がオンリーワンから狙われるんですよ」
一が不安げに顔を曇らせている。良い様だと、田中は思った。
「殺す? ひっ、ぎゃはははっ! 馬鹿かてめェ、殺さないって言ったろうがよ。ンな人生悲観になんなって」
だが、三森は嗤う。心からおかしそうに。
背筋を寒いものが通り抜け、田中は思わず息を呑んだ。
「僕に何をさせるつもりですか?」
――にいい。
三森は口の端を吊り上げ、嫌らしい笑みを作る。
「今日は色ンな事があったよなァ。人が死んだり、死にそうになったり、いや、面倒だよな。これがバレたら大変だよなァ」
「……何が言いたい。そうだ。僕を殺さなければ、僕は必ず上に報告しますよ。そうなれば、また次の戦闘部があなた方を狙いに来るでしょうね」
田中は酷薄な笑みを浮かべ、一たちを見遣った。
「無駄ですよ。いたちごっこ。ウロボロス。無限ループ。どれを取っても構わない。あなたたちは死ぬまで僕らに追われるんですよ」
「知ってるよ」
「……何ですって?」
「――だから、てめェに任せンだよ。後始末って奴をな」
三森は田中の髪の毛から手を離す。支えを失った彼は再び地面に落とされた。
「今日ここであった事、私らは関係ない。私らは何もしてない」
「……赤鬼、お前まさか」
「さっきここへ来る時に死体を見たぜ。二つ、な。勿体ねェ、片方は私の獲物だったのによ。てめーに先を越されちまった。いやー、一人ではしゃぐねェ、『棺』さん。私らは何もしてないってのによ」
「何もしてないですって? ……なるほど、後始末とはそういう事ですか。しかし正気ですか? 僕が虚偽の、しかも自分が不利になる証言をするとでも?」
田中は毅然として言い放った。が、三森は顔色を一切変えない。
「今日ここには誰もいなかった。ソレなンていなかった。全部お前の勘違い。そう言え。言うんだよ」
「……僕を殺せ」
言える筈が無い。
「聞いた話だがよ、あのガキにてめェが頼ンでたらしいな。ソレをおびき寄せる為に歌えってよ」
「何故オンリーワンの社員である僕がそんな事を。証拠はないでしょう。第一、彼女の言い分を誰に伝えるおつもりですか? 誰も信じませんよ」
「いやあ? あンたが自作自演してたなんて誰にも言うつもりはねェよ」
「……自作自演ですって? 僕がする必要はない。決してない。あなたの要求を呑むわけにはいきませんね」
「……三森さん」
心配そうに声を掛ける一を手で制し、三森は尚も堂々として口を開く。
「いや、呑んでもらう。お前には全ての罪を被ってもらう。勘違いすンな。私は真実がどーのこーのなンざどうでも良い。大事なのは、こいつらの明日だ」
「ふっ、明日など。僕は言いません。ここまでされて、どうしてあなたたちに――」
「――パパってのは大変だよな」
田中は声が出せないでいた。今、彼は目の前の女が何を言ったのか理解出来ない。
「子供、出来たんだってなァ。いや、『最低』と呼ばれたあんたが一児の父親とは、恐れ入ったぜ。どんな悪魔とガキ作ったンだ?」
「……赤鬼、何を……」
「くくっ、これ見よがしに絵葉書なンて送ってくっからだよ。……金、要るよな? 何せ私が戦闘部にいた頃から謹慎食らってたもんなァ。そりゃ家族の為に、自作自演してまで気張るよな、なあ?」
「み、三森さん?」
「おい、私のケータイ、履歴の一番上に掛けろ」
一は三森の言葉を受け、携帯電話の蓋を開ける。が、しかし、何をしていいのか分からない様子であった。
「……おい。何やってンだ」
「これ、どうやって電話掛けるんですか?」
「はあァ!? ……あ、お前ケータイ持ってないンだっけか。もう良い、持って来い」
三森は、申し訳なさそうに傍へ寄ってきた一から携帯電話を受け取ると、片手で操作を始めた。
「おら、電話に出て『棺』に話を伝えてやれ」
「ええ? 誰と話せば良いんですか。話って何ですか?」
「出りゃ分かる」
一は三森の指示通り、電話を耳に当てた。
「……も、もしもし?」
『……………………』
通話口からの応答はない。訝しんでいると、首元に息を吹き掛けられるような怖気が走った。
『……ふっ、難儀しているらしいな、一一』
一は耳を疑う。それでいて、納得もした。感情の一切籠もらない、聞き覚えのある声。
「お前、何してんだ?」
『愚問だな。私を誰だと思っている。オンリーワン近畿支部情報部二課実働所属、春風麗だぞ。私がどこで何をしているのか、分からない筈があるまい』
一には全く見当がつかない。
「三森さんから話を聞けって言われたんだけど。お前で合ってるのか?」
『ああ、間違いない。田中次史に伝えろ。今私がどこにいるのかをな。それで奴には事情が分かる』
「……どこにいんだよ?」
『田中天美のすぐ傍だ』
「田中アマミ? 誰だよそれ」
何の事か、相も変わらず一にはさっぱり分からなかったが、田中にはそれだけで充分に過ぎた。彼は驚愕、憤怒に表情を大きく変えて一を睨み付けている。
『ちなみに、田中希も近くにいる』
「おい、まさかそれって……」
田中天美、希。この状況。不可解な電話。『棺』の様子。勝ち誇った三森の顔。
一にもようやく事態が呑み込め始めた。
――人質、かよ。
苗字が同じなのは偶然じゃない。田中天美と言うのは、田中次史の近しい関係者なのだと、一は理解する。
つまり、三森は脅迫しているのだ。
「……電話の相手は誰ですか?」
「無駄口叩くンじゃねェよ。分かってるだろ? 今からてめーが言って良い言葉は二つだけなんだよ。イエスかノー。これだけだ。余計な口利いたらぶっ殺すぞ」
田中が要求を呑まなければ、電話の向こうの春風が動くのだ、と。そう言っているらしかった。
一は三森たちのやり取りを見ながら、春風の声に耳を澄ませる。
『一一、貴様の話は聞いたぞ。田中次史が歌代チアキを利用してソレを呼び、殺し、オンリーワンからのボーナスを得る為に自作自演を働いたという、何一つ証拠のない荒唐無稽な話をな』
「別にお前がその話を信じなくても良いよ。俺が信じてんのは、そういうんじゃないからな」
『そう邪険にするな。一一、私は貴様の話を評価しているのだぞ。情報部でも何でもない、ただの勤務外がよくもまあ辿り着いたものだとな』
「荒唐無稽な話なんだろ?」
『その通りだ。仮に真実だとして、田中次史が口を割らない限りこの話は誰も信じないだろう』
一は溜め息を吐く。
自分の考えた話は自分に有利になる、極めて自分本位で独り善がりな憶測だ。彼も分かってはいたのだが、改めて他人から言われると憂欝になる。
『だが、今は必要ないな。真実か虚偽かなど、些末な話だ。そうだろう?』
「……重要なのは」
『田中次史の意志、という訳だ』
一は田中を見据えた。春風の名は伏せて、とある人物が田中天美、即ち、彼の妻の近くにいる事を伝える。
田中はしばらくの間、一を強く睨み付けていたが、
「……僕の家族を殺すつもりですか。何一つ証拠がない、誰が真に正しいのかも分からぬままに」
やがて観念して俯いた。
三森は煙草に火を点け、鬱陶しそうに田中へ向けて刺すような視線を放つ。
「どうしてですか? 僕はオンリーワンの社員としてソレを殺そうとしただけなのに。あなたたちも勤務外だ。少女の姿をしているとはいえ、ソレを見逃し、あまつさえ僕に楯突くなんて……」
「おい、喋ンなっつったろ」
「三森さん」
一は、田中に殴り掛かろうとした三森を手で制し、携帯電話を返す。
「……田中さん、俺は自分が勤務外だとか、歌代がソレだとか、あなたが社員だとかでこんな事をした訳じゃないんですよ」
「では、何故に?」
一は自分自身に言い聞かせた。そうだ。信じろ、自分を信じろ。
人間、ソレ、勤務外、フリーランス、社員。全て関係ない。大事なものは彼女が教えてくれたのだから。
――好きにしたら良い。
「――俺は、あんたが嫌いなんだよ」
ソレとどう接するんじゃない。
誰とどう接するのか。
拙いながらも、それが一の見つけた答えだった。
彼が苦しみながらも遂に辿り着いた、一つの、この世で一つだけの、彼だけの答え。
「関係ないんだ、そんなのくだらない。俺は……人間で勤務外だ。けど、それ以前に一一なんだ。好きな奴と好きな時に、好きなようにやる。だから、もう邪魔をしないで欲しい」
一はそれだけ言うと、田中から背を向けた。
三森は笑っていた。通話を切っていない電話口からは、春風の声も聞こえている。
「三森さん、後、よろしくお願いします」
携帯電話を三森に渡すと、一は覚束ない足取りで歩き出した。
「おう、任せとけ」
三森は手だけを振って一に返すと、田中を見下ろした。
「さーてと、まだ返事を聞いちゃいなかったな。言え、『棺』」
「言わなければ、妻と娘を殺すのでしょう?」
「はっ、妻と娘だってよ。笑わせンな。良いか、てめェがイエスと言えば全部丸く収まるんだよ。そうすりゃ私らは明日からも問題なくいつも通りに過ごせンだ」
田中は探る様に三森を見つめた後、
「ノーと言えば?」
平坦な口調で言う。
三森は携帯電話を見せ付けるように掲げた。
「てめェの大事な大事な家族が死ぬ。思い付く限りの、いや、思い付かねェぐらいの残酷なヤられ方で死ぬ。ハッタリじゃねー、やるぜ。ガキだろうが、女だろうが関係ねェからな」
「……それでも人間ですか、あなたは」
「お前が言うかよ。……言え、時間は待っちゃくれねェぞ」
「そうですね、では」
田中は自然な所作で立ち上がる。滑らかな手付きで懐に手を伸ばし、凶暴に輝く刃物を取り出した。
「なあ、お前何してンの?」
「ああ、交換条件を持ち掛けようと思いまして。あなた方が僕の家族の命を握っているのなら、僕もあなた方の命を握ります。分かりませんか? 殺すんですよ。こちらが殺されれば、そちらを殺します。よもや、赤鬼如きが僕を止められるとは思ってもいないでしょうね?」
どうやら、田中は先日の事を指しているらしい。指一本で三森たちを止めた、あの日の事を。
三森は納得し、携帯電話をポケットにしまう。
「あー、そーゆー事ね。はっ、良いね、良いじゃん、良いじゃねーの。私も今日は不完全燃焼だったからな。オッケオッケ、付き合うぜ『棺』。ンじゃ決まりな、死んだ方が殺した方に従うって事で」
「良いでしょう、実に分かりやすい」
「だろ?」
田中は言うが早いが、一足飛びで三森の懐にまで近付いた。握ったナイフをかざし、彼女に切り付ける。
しかし、その攻撃はあまりにもお粗末過ぎた。田中がダメージを負い過ぎていたのか、動きは鈍く、易々と三森に手首を握られてしまう。
「よォ、やる気あンのか?」
「ええ、充分にね」
田中は口元を歪ませると、ナイフの鍔の位置に配置されたレバーらしきものを指で押した。刹那、刀身が、三森の顔を目掛けて射出される。
至近距離での投擲。目視は不可能に近い速度だろう。
だが、三森はそれを避けた。否、受け止めた。彼女は飛んできた刀身を歯で噛み締め、受け止めている。
「――狂っていますね」
三森は刀身を地面に吐き捨てると、田中のスーツの襟元を掴み上げ、嬉しそうに笑った。
「何だっけな、それ。スペ? スペシウムナイフだっけか? 初めて見たぜ、ンなおもちゃ。くっだんねーなー、おい」
「アレを知ってたんですか?」
「漫画で読ンだ。確か、握り方がどーのとか、形が筒みてェだとか書いてあったな。そんでもって、さっきのは最後の手段だろ? あンな物使うぐらいだから、もう手持ちの得物がないって訳だな。いやあ、惜しかったなァ、『棺』。もう少しでお前の台本通りに事が進んだってのによ」
田中は皮肉っぽく笑み、悠然と口を開く。
「さあ、どうでしょうね」
「これで何も気にせず無抵抗なてめェをボコれるって訳だ」
「……殺さないのですか?」
「あ? 言ったろーが、耳ねェのかお前。殺さねーっつったろ」
三森は田中を掴んでいない方の右肩をぐるぐると回し始めた。
「ただし、痛い目には遭ってもらうけどな」
「どうぞ。しかし、随分と印象が変わりましたね、あなた」
田中は懐かしむように言葉を紡ぐ。
「戦闘部にいた頃のあなたはもっと尖っていたと言いますか。そうですね、他者の為に動く事を決してしない人だった」
「おい、冷静に何言ってやがる。歯でも食い縛って黙っとけ」
「何があなたを変えたんでしょうね」
三森はそれ以上話を聞くつもりはなかった。ここ数日の間に積もり積もった様々な感情、積年の恨みとでも言うべきモノを拳に込めて、振り下ろす。
「はっ、どうしてこんな事になったのかなあ」
田中が寂しげに呟いた。三森は答えるつもりがなかった。
――変わった? 私が?
自分ではそんな事分からない。
だが、もしも自分が変わったと言うのなら、変えたのは誰だか分かる。
そいつを守ると、大よそ自分らしくない約束を交わしてしまったぐらいなのだから。
そして、どうしてこんな事になったのかも同時に理解出来た。答えが出ると、実に簡単でつまらないものだと、少しばかり落胆する。
三森は田中の意識が完全に飛んだのを確認した後、彼を乱暴に地面へ叩き付けた。
「……お前はやり過ぎちまったンだよ」
やっと終わった。そんな感慨に耽る事もなく、三森は大きく伸びをして、一の歩いていった方に目を向ける。
「マジかよ」
思わず舌打ちしてしまった。
一は歌代チアキの元まで行こうとしたのだろうが、辿り着くまでに疲れ果ててしまったらしい。呆れる事に、そこで眠っているヒルデと同じくして、満足げな表情を浮かべていびきをかいている。
眠っている者が二人。
四肢を失った者が一人。
傷付いて動けない者が一人。
気絶している者が一人。死者が二人。
誰が、この場を上手く丸めるのだろう。
「任され、ちゃったもンなァ……」
三森は頭を掻き、夜空を見上げる。月が、くっきりと空に浮かんでいた。
何故かは分からないが、今日の空は素直に綺麗だと思えてしまう。
そこでようやく、三森は何かで満たされたと、そう感じた。
「どーすっかなー」
とりあえず、一の寝顔でも見て笑ってやろう。そう思い、三森は煙草に火を点けながら歩き出した。
今日の煙草は実に美味いと、そう思いながら。