ハレルヤ
あの歌を、もう一度。
あの声を、もう一度。
もう一度、聞きたい。
「始める前に、一つだけお願いしてもよろしいですか?」
「……何を?」
今から命のやり取りをすると言うのに。覚悟を決めた後、言葉を必要以上に交わしたくなかった。気勢を殺がれてしまい、一は少し気が抜ける。
田中は一の葛藤を知ってか知らずか、のんびりした動作で懐からナイフを取り出し、チアキの喉元に突き付けた。
「おい、何する気だ?」
「慌てなくても結構ですよ。……不本意ながら、今からあなたと一戦交える訳ですが、条件があります」
「……条件?」
短く肯定の意を述べると、田中は薄く微笑む。
「あなたの力、使わないでもらえますか」
一は顔が引き攣るのを我慢出来なかった。
「先ほど僕を止めた力の事です。何故あなたが傘なんて持ってきていたのか理解に苦しんでいたのですがね、それがあなたの武器、何かしらのアイテムならば納得はいきますよ。あの不可解な能力、僕の動きを止めたのか、時間を止めたのか定かではありませんがね。非常に厄介な事極まりない。あの力を以ってすれば、僕とあなたの力量差など関係なくなる。止める、ですか。成る程、一たまりもない」
「おい、ふざけんなよ。んな事言える立場か、あんた?」
田中は無言で、チアキの喉元に刃先を向けながらナイフを振る。
「……だったら、そっちも力を使うのは止めろ。不公平だろうが」
「不公平? 僕は社員で、君はアルバイトでしょう。バランスが崩れるのは摂理、と言えます。それに、生憎僕には力と呼べる力などありませんからね。何、これで平等になったと言っても過言ではないでしょう。でしょう?」
――過言に決まってる。
一は恨みがましい視線を送ろうとして、止めた。弱みはなるべく握られたくない。
「さて、返答はいかに。と、言ったところですか」
メドゥーサの力を封じて、戦え?
死ねと同義語だ。提示された条件、一は判断に苦しんだ。
自分には武器がない。体力だって常人と変わらない。もしくはそれ以下。アイギスの防御力とメドゥーサの能力があるからこそ勤務外として振舞えると言うのに。それを取り上げられてしまっては、無力だ。蟷螂の斧よりも使えない存在に成り下がってしまう。
「動きを止めなきゃ良いんだな?」
だが、チアキの生殺与奪権を握られていては、そう迷う余地などなかった。文句を言っても、愚痴を言っても状況は変わらないのだから、やるしかない。
田中は一の答えに満足したのか、チアキからナイフを遠ざけた。
「ええ、それ以外の用途ならご自由に」
一は盾が使える事に一先ずは安心する。
「では、始めましょうか」
「え?」
言った時にはもう遅かった。
予備動作も糞もない。田中は既に一の眼前にまで飛び込んで来ている。
「う……ああああっ!」
一は闇雲にアイギスを振り回す事しか出来なかった。そんな無策が通じる筈もなく、腹部に走った衝撃に呻き、あっさりと突き倒される。
「王手ですね」
待ったはない。振り下ろされる凶器を直視出来ず、一は身を捩らせた。何とか初撃を躱すも、頭の中で警鐘は鳴り響いている。
「ひっ――!」
次は肩を掠めていった。押さえ付けられてはいないが、プレッシャーでどうにも動きが鈍くなる。背中を向けて逃げようとしたところでコートを切り裂かれた。
「うっ、ああっ……」
「無様、ですねえ」
一は田中から距離を取ったところで振り向く。
田中は余裕を崩さず、追い掛けようともしない。チアキの元まで戻り、ナイフを弄んでいる。
「……遊んでんのかよ」
「ふむ。それもありますが、人質から距離を取り過ぎて力を使われるのも嫌なので」
一の目論みは見抜かれていた。
「慎重な事で」
落胆を表に出さないよう、一は気丈に努める。
「ふう……」
呼吸を繰り返した。上った血が急速に冷えていき、一を冷静にさせる。
「一さん、諦めませんか?」
田中の問いを鼻で笑ってから、聞き返した。
「何を?」
「全てをですよ。差し当たって、僕と戦う事を諦めてはどうです。このまま続けたって結果は見えてる。無駄は省きましょうよ」
「諦めたら見逃してくれるのかよ」
「いえ、これ幸いにと殺しますよ」
馬鹿な話もあったものだ。だけど、もう馬鹿騒ぎは終わらせる。一は深く息を吐きながら田中を見遣った。
「ただでさえ弱いもの苛めだっつーのに人質を取って、俺の力を封じて。全く、最低と言われるだけはあるよな、本当」
「お気に召しませんか?」
一はゆっくりと首を横に振る。
「や、俺は好きだけど。勝てば良いんだよなあ、勝てば」
「ええ、その通りです」
「ふーん、そうかそうか、そうですか。聞きましたか?」
「――っ!?」
弾かれる様に田中が背後を振り仰いだ。
刹那、彼の目が捉えたのは木々の合間から疾風の如く飛び出し、外灯の下で照らされる巨大な鎌と、凛とした美貌。
戦乙女、ヒルデ。
「ヒルデさんっ」
「…………ん」
一は広げたアイギスを手に駆け出す。彼の呼号に応え、ヒルデは鎌を田中に向けて、地を滑る様に飛び出した。
――油断したっ!
田中は舌打ちしながら、前方の一、後方のヒルデにそれぞれ視線を遣ってから、チアキを見下ろした。
誰を狙う。誰に的を絞れば良い。
田中はチアキに刃を向けた。が、
「田中次史っ」
一がアイギスをかざしてくる。チアキは殺せるが確実にヒルデに殺される。
田中は咄嗟に横っ飛びして一の視界から外れようとした。正解か、不正解か。判断付かなかったが、一の舌打ちが聞こえてきたので正解だと思い込む。
どうやら、一が力を使うには様々な制約、制限があるらしいと田中は決め付けた。
「…………逃がさない」
「ちいっ」
体勢を崩したところにヒルデが飛び込んでくる。鎌を振り下ろされ、地面を転がる事でそれを躱した。
鎌の切っ先が地にめり込み突き刺さる。チャンスだ。田中は膝立ちのままナイフを強く握り、ヒルデに反撃を試みる。
「……あ、あああっ!」
「――っ!?」
しかし、ヒルデは鎌を無理に引き抜こうとせず、柄を持った状態でそれを支点にして地を蹴った。ふわりと、彼女は宙を舞い、続いて、反動が付き半回転した時点で鎌が引き抜かれる。彼女の軌道をなぞる様に鎌は動き、田中に襲い掛かる。
今度は避けられなかった。ナイフを前に出して防ぐのでやっと。刃はヒルデの攻撃によって砕け散り、破片が田中の顔に刺さっていく。
「きっ、さまあ――!」
懐から次の獲物を出す暇もない。袈裟切り、突き、右から左から繰り返される竜巻の様なヒルデの猛攻を凌ぐ事しか出来なかった。
更に、
「くっ……」
視線をずらせば、一がチアキとナナを離れた場所まで避難させている。これで人質もご破算だ。
「…………あなたは、許せない」
「ふざけるな! それは僕の台詞だっ、クソ!」
首を狙った一撃を避け、田中は鎌の腹を蹴り上げる。
「くっ…………」
田中は懐に手を入れてナイフの残数を確認、舌打ち、あと三本しかない。一本を引っ張り出し、逆手で構えた。
「歌代っ、おいしっかりしろよっ!」
横たえたチアキに呼び掛けながら、一は血の気が引いていくのを感じていた。どうして返事をしてくれないんだ。なんで目を開けてくれないんだ。
「歌代っ!」
「……静かにして下さい」
「――!?」
振り返れば、憂欝そうに瞼を持ち上げるナナ。一は驚いたが、彼女がオートマータである事を思い出す。四肢を切断されても、動くにはあまり問題でないらしい。
「ナナ、何があった?」
「説明している時間があるとは思えないのですが、仕方ありません、私が把握している限りの事をお伝えしましょう。私と田中さんとの交戦後、歌代さんは私がスリープモードに入っている間、田中さんに爪を剥がされていました」
「交戦って、ナナ、お前……?」
「勘違いはしないで欲しいです。私は、マスターの命令に従っただけですから、あなた方の助太刀をした訳でもないんです」
結局、それって助けてくれたんじゃないのか。一は言い返そうとしたが、やっぱり止めておいた。彼女はやけにプライドが高いのだ。
「歌代は大丈夫、なのか?」
ナナは目を瞑り、傍らに置かれている壊れた眼鏡を見つめた。
「生爪を剥がされただけでは、簡単に人間は死にませんよ。死ぬ程痛いでしょうけどね」
「……本当、か?」
「間違いを口にする事はありますが、私は嘘を吐きませんよ」
一は胸を撫で下ろす。
「ですが、少々気になる点がございます」
「気になる、点?」
知らず、一はアイギスを潰さんばかりに握り締めていた。
「ええ。歌代さん、最初は悲鳴を上げてらしたんですけど、途中から声が聞こえなくなっていました」
「……声、が?」
視界がぐらつく。
「声が掠れてしまったのか、喉を潰してしまったのか、それとも単純に、ショックで声が出なくなってしまったのか、私には分かりませんけれど」
寒気が走る。怖気が体を通り抜けていく。
声が出ない。
話せない。
「なんだよ、それ?」
うたえない。
歌えない。謡えない。唄えない。
歌代チアキはもう、うたえない。
彼女の声はもう二度と聞けない。
「そんなのってないだろ……」
一体、彼女が何をした? 脅されて、仕方なく歌姫の力を使っただけじゃないのか? 彼女がソレの力を求めたというのか? 望んで、こうなったと言うのか?
誰が、そう言える。誰のせいで、こんな目に遭っているんだ?
一は無意識に田中を見遣った。
「最低……だと?」
怒りが沸々と沸き上がってくる。
田中次史、『最低の棺』。
違う。最低なんてものじゃない。
「あいつは、それ以下じゃないか」
全部、お前の仕業だ。もうそれで良い。知らない。全てをぶつけるには都合が良過ぎるぐらいに、調度良い。
ここを抜かせる訳にはいかない。
ヒルデは鎌を振るいながらそう思っていた。自分が倒れてしまえば、田中は嬉々として一たちを殺すだろう。一は決して弱くないが、単体では『棺』を打倒し得ない。彼の能力は攻撃に向いていないのだ。
「…………当たれっ」
気ばかり焦ってしまい、攻撃が雑になっている。が、修正もすぐには効かない。負ける訳にはいかない、その重圧が少しずつ精神を蝕んでいく。
田中は涼しい顔で鎌を避け始めていた。ヒルデの焦りを嘲笑うかの如く、自分からは一向に仕掛けず、隙を見せない。
「……逃げないで」
「発汗、大振り、定まらない視線。焦っているのがバレバレですねえ」
薄ら笑いを浮かべながら、田中はヒルデに揺さぶりを掛ける。
「あなたが死ねば、必然的にあの人たちも死んでしまいますからね。もっと必死になった方がよろしいのでは?」
「うるさい……っ」
鎌は虚しく誰もいない空間を切り裂いた。挑発に乗ってはいけないと理解しているつもりなのだが、一や、倒れたチアキを思えばそうもいかない。自分の事の様に悔しくて、悲しくて、腹立たしいのだ。
「荒いですねえ。恐い恐い、ほら、一さんもあなたの顔を見て怯えていますよ」
「――――っ」
そんな筈はない。だが、心とは裏腹に体には力が入ってしまう。
「ふっ!」
甘くなった体勢を狙われ懐に潜り込まれてしまった。迎撃を試みるも、鎌を持った手にナイフを投げ付けられる。避ける事が出来ず、刃は易々と肉に食い込んでいった。血が滲み、滴となって地に落ちる。あまりの痛みに堪えかね、遂に武器を手放してしまった。
「…………うあっ」
決着は間もなく付く。
「はああっ!」
まず、掌底を腹に叩き込まれる。内蔵がグルグルに混ざり合う感触、ヒルデは吐き気を堪えながら必死になって崩れるのを我慢していた。
「くっ……ああっ」
関係、なし。
下がった頭、側頭部に容赦の欠片も感じられないハイキックをぶち込まれ、ヒルデの体が崩れ落ちる。意識が落ち掛け、もはや倒れた方が楽だと彼女は気付いてしまった。
「…………くっ」
しかし、まだ終わらない。田中はヒルデの髪の毛を掴んで後頭部から地面へ叩きつける。短く呻くと、彼女はもう立ち上がる事が出来なかった。
――手こずらせてくれたものだ。
田中は肩の骨を鳴らしながら、ヒルデに一瞥を遣る。
ヒルデは手強かった。ナイフも残り二本で心許ない。
しかし、残りは今日一番の雑魚である。負ける方が、倒される方が、殺される方が難しい。
「腹が減ったなあ」
時計を見ながら、田中は家族を思った。今日はもうすぐ終わる。上に報告して、帰宅して、遅い帰りを妻に詫びて、夕食を食べて、娘の顔を見て眠りたい。
視線を一に移す。彼の表情はここからだと分からないが、恐れ慄いているところだろう。
「……さて」
幕を引こう。
田中はナイフの柄を握り直し、地を強く蹴った。
一はアイギスを構えてこちらを睨んでいる。何か、嫌な事でもあったんだろうか。心配いらない、すぐに終わらせてあげよう。
「『棺』ぃ!」
馬鹿だ。畳まれたアイギスを見て、田中は内心で笑う。一は何故、能力を使わない。よもやまだ自分の言葉に唆されているのか? 理解出来ない。生存への道を自ら断っている様なものだ。
何を考えているか知らないが、一は真っ向からやってくる。退く様子を見せていない。ならばこちらも真っ向から行く。せめてもの情けとして、必要以上には苦しめない。
だが、やはり不可解だ。何故彼は向かってくる?
「度し難いっ、あなたは人間でしょう! 何故彼女に味方する!」
距離はまだ遠い、田中は最後の揺さぶりも兼ねて、一への疑問を口にした。
一は少しだけ迷う素振りを見せたが、
「そんなの関係ねえんだよ!」
田中にとっては噴飯ものの答えを叫ぶ。
「それでも勤務外ですかっ」
二人の距離は残り十メートルを切っていた。
田中は目測で最終ラインを割り出している。
一はビニールの傘を得物としていた。それを広げずにしっかりと畳み、あまつさえこの距離で、相手の動きを止めるであろう外道に近い力を行使していない。
一が盾としての機能(尤も、傘程度の頼りない盾だが)を捨てて向かってくる理由は一つ。 彼の狙いは恐らく、石突き部分による刺突。傘で致命傷、有効な攻撃を与えるにはそこしかない。
しかし、そのプランは成立しない。ギャンブルよりも質が悪い選択だと、田中は認識していた。
傘による突き。その選択自体はまあ、悪くはない。悪いのは状況、一の頭。何よりも相手が悪い。
突きならば傘でもある程度のダメージが通るには通るのだが、狙いどころが少ない。突きの性質上、単純に、相手に当てる面積が限られてしまう。しかも当たれば良いというものではない。体の柔らかい部分――眼球など――でないと刺さらない。
こちらとしては顔面への攻撃を注意して避ければ良い。おまけに、一度回避すれば前に突き出す動作のお陰で反撃し易くなる。
自分はどこに、どんな攻撃が来るか分かっていて躱せない程間抜けではない。負ける要素が見当たらない。
最終ラインは一の持つ傘の長さ、そこから突きを繰り出してくると考えて、二メートル前後。
躱せば、今日は終わりだ。
刃を体のどこでも良い、突き立てて突き刺して切り刻んで――。
恐怖が近付いてくる。
自ら、『棺』に、死へと向かっている。
可視の死。具現化された恐怖。
しかし一は不思議と、それに怯えていなかった。手足も震えていない。心臓だって脳だっていつもと変わらない。冷め過ぎず熱し過ぎず。気持ちがニュートラルになっていた。
それでも、『棺』に勝てる気はしない。五体満足で生き残れるなんて思い上がってもいない。
策はない。道もない。多分、自分には何もないだろう。ただ、やる事だけは決まっている。
握ったアイギスは答えてくれないが、妙に頼りがいがあった。
――これで思い切りぶっ飛ばす。
やる事はそれだけだった。
アイギスで叩く、だけ。
メドゥーサの力を使えば良いのだが、頭の中で、勝手に世界を作り替えられるような感覚がして気持ち悪い。それに、力を使ったあとはいつも吐き気を催すのだ。
生死の懸かった瀬戸際で思う事でもないだろうし、田中の発言を鵜呑みした訳でもない。しかし、一は力を使うつもりはなかった。
一は田中の命が欲しい訳でも、殺したい訳でもない。
ただ、ぶっ飛ばしたいだけなのだ。
二人の間、距離にして、約五メートル。
一は田中の狙いなど考えない。考えられない。自分自身をイメージ通りに動かすので精一杯だった。
アイギスを前に突き出して、田中を叩くだけ。
「――やはりっ」
距離が三メートルを切ったところで、田中は笑っていた。一は彼の笑みに気付かないでいる。
男の大声に目を覚ませば、指先に激痛が走った。曖昧とした記憶を探るうち、すぐに原因に思い当たる。
「…………っ!」
痛みの出所を見れば、そこにある筈の物がなかった。有体に言えば、爪がなかった。
記憶を更に辿れば、生爪を剥がされる感触、衝撃を思い出す。
「……あ……」
ひゅう、ひゅう。
呼吸の度、喉の奥から変哲な音が鳴っていた。
助けを求めたくて、誰かを呼びたくて、口を何度も開けるのだが、どうやってもまともな声を出せない。
――な、んで?
急に、世界が恐ろしく見えた。色が無くなって、全て真っ暗闇に閉ざされているみたいだった。
自分はいったい、どうなってしまったんだろう。
あの人は、何をしているんだろう。
「気が付かれましたか、歌代さん」
「――っ」
慇懃な口調。声の主が誰か分かって返事をしようとするも、肝心の声は出ていなかった。
「ああ、お返事は結構です。私の話は適当に聞き流してくださって構いません」
頷いてみせると、メイド服を着た女は口を開く。
「ご理解しているとは思いますけれど、今あなたは声を出せない状態です。おそらくは、爪を剥がされた時の精神的なショックのせいでしょう」
女は続ける。
「私は医者ではありませんので、治る見込みはおろか何も言えません。あなたに対して返事を期待していません。なんせ話せないのですからね」
なんて酷い奴なんだと、憤慨した。
「……失礼しました」
自分の態度だけで分かったのだろうか、女はすぐに頭を下げてくる。
「でも、言わせてもらいますね。――ありがとう、ございます。あなたのお陰で、私は少し人間の事を分かった気がします」
声を出せる状態でも、絶句していただろうと思った。身振りだけでも返事をしようと手を伸ばしかけるが、女は尚も話を続ける。
「それと、一さんをよろしくお願いします。私、そろそろ予備電源も切れてしまいそうなので……」
そんな事を頼まれても、どうしろと言うんだ。
「……応援、してあげてはどうでしょうか?」
迷っていると、的外れな意見が飛び出してくる。声が出せないのに、どうしようもないじゃないか。
「………………」
でも、良いかもしれないと思えた。
顔を上げれば二人の男。お互い、ただならぬ雰囲気を身に纏っている。
何を言えば良いのか、思いあぐねていると、ナイフを持った男が走り出した。
「……っ」
やはり、声は出せない。
それでも、彼女は彼を思った。
短い付き合いでも関係ない。自分の為に命を張って戦ってくれている。それだけで充分過ぎた。
大きく息を吸い、ありったけの真心を込めて、馬鹿みたいに口を開ける。願う。届け。
――師匠っ!
田中が己の中で定めた最終ライン。
ほくそ笑む『棺』に、一は気付いていなかった。
「おおお――っ!」
何故ならば、彼に張りついた笑みが、一秒と立たず驚愕のそれに切り替わったからだ。
一は田中の顔を見ながら、あの頃を思い出す。自身の一振りで世界が変わるあの頃を。
晴天。強い日差し。蝉の声。流れる汗と濡れたシャツ。たくさんの笑い声。そして何よりも――。
「くああぁっ」
田中が吠える。その声は悲痛で、ある種滑稽だった。自分の腑甲斐なさを呪う、虚しい音。
一が繰り出した筈の突きを、頭を下げる事で躱した田中が顔を上げた時、目に映ったのはアイギスを構えたままの一。
理解出来ない状況に答えたのは田中自身である。経験豊富な彼の脳が、不可解な問いに答えを出した。
一が狙っていたのは突きじゃない。
突きだと思ったのは、距離を計る為の、単なる予備動作に過ぎなかった。
一が狙っていたのは――。
そんな馬鹿なと思う前、田中の体はそれを止めようと動きだす。
田中が無駄な動きでワンテンポ遅れた分、一はとっくに攻撃を開始していた。
それでもモーションが大き過ぎる。田中が少し手を伸ばせば、ナイフは一の攻撃する直前、どこかしらに刺さるのだ。
「てめえなんかにっ――!」
――ざく。
「――っ……があっ!」
絞る様な、痛みに耐えかね漏れ出た獣の如き咆哮が轟く。
刃の刺さった箇所からは燃える様な激痛が走っていた。傷口から血が、炎みたいに滴っている。
「てめえぇらあぁっ!」
そして、田中がナイフを落とした。彼のぎらついた視線は、苦しそうに胡坐をかいているヒルデに絡まっている。
ナイフを投げたのは田中ではなく、倒れていた筈のヒルデだった。
彼女は最後の力を使い切ったらしく、後ろに倒れ込んでしまう。
次の瞬間。
一は足の爪先を田中に合わせて、体が正面を向くように構えていた。
唸りを上げて突き進む。一の足は地面を削りながら、風を少しずつ切り裂いていった。
空気の壁を抜けていく。抜けた先、田中が顔を醜く歪ませていた。
だが、一が見ているのは田中の顔ではない。
眩いばかりの、小さな白球だ。
耳鳴りがして、幻聴も聴こえてくる。懐かしい声に後押しされて、目一杯体を捻った。
――捉えたっ!
力の限り、有らん限り振り抜いた。
ごきり、と。
バットから伝わる重く、鈍い感触。
「おらあぁっ!」
歓声が聞こえる。
駆け寄ってくる足音が聞こえる。
その中で一際大きな、彼女の声。
視界は真っ白に染まり、意識は彼方まで飛んでいった。
全身を爽快感が駆け抜けていく。
確かめなくても分かった。
――ホームランだ。
だって、こんなにも気持ちが良いのだから。