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24時間戦う人たち  作者: 竹内すくね
セイレーン
116/328

戦士にラブソングは

 歌代チアキは眼前の光景を未だ理解出来ずにいた。

 ちらりと顔を上げれば、ほんの僅かに緊張した様子のナナの顔。自分を抱えている彼女の腕にも力が入っている事から、何かがおかしいと感じられる。

「早く渡してくださいませんか?」

 一定の距離を置いてナナと向かい合っているのは田中次史。本人の意向かどうかはさておいて、『棺』と呼ばれている男。

 自分を、歌代チアキを利用し、亡き者にしようとする男。

 彼がすっと足を踏み出せば、ナナが同じだけ下がって距離を取る。

「な、なあ? あんた……」

 チアキの困惑を無視して、ナナは田中を見据えた。

「田中さん、今のあなたに彼女をお渡しする事は出来ません」

「え……?」

 驚きの声はチアキから上がる。今、このメイドは何と言った? 自分を田中に渡すのが目的ではなかったのか?

「……やれやれ。一さんに続いてあなたもオンリーワンから離反するつもりですか?」

「失礼ながら。私はオンリーワンを離反するつもりも、一さんに味方するつもりも毛頭ございません」

 醒めた田中の口調に、ナナは冷たく、機械的に返す。

「では、どういうおつもりで?」

「私に命令を下せる権利を持つ、現段階でのマスターはオンリーワン技術部の方々と、オンリーワン北駒台店の店長である二ノ美屋さんだけです」

 田中の顔が僅かに歪んだ。

「尤も、技術部の方々は私の自主性を重んじてくれていますから命令を下す事などありません。そして、店長は一時的にマスター権を三森さんに譲度しています。つまり、今現在私に命令出来るのは他ならぬ私自身と、三森さんしかおりません」

「言いたい事が良く分かりませんねえ……」

 ナナは構わずに続ける。

「三森さんからは歌代チアキを保護した後、田中次史の元に届けろと言われています」

「それじゃ命令違反になりませんか?」

「歌代チアキを決して殺すなとも、言われました」

 田中の表情が強ばった。怒りを押し殺そうと必死なのは、チアキからでも見て取れる。

「田中さん、あなたが怪我をなさっていない事から私は問います。あなたの血でないと断定するならば、その返り血はいったいどなたの物でしょうか?」

「僕のスーツに誰かの血が付いている事が、あなたに関係あるんですか?」

「ええ、大いに。殺すなと言われている人物を、殺人者、かもしれない人物にお渡し出来るとでも仰るのですか」

 田中は忍び笑い。しかし、結局は堪え切れないで吹き出した。

「証拠でもあるんでしょうかねえ? あなたが僕を殺人者だと断じるような、決定的な何かが」

 ナナは胸を張って返答する。

「ございません」

「……自動人形(オートマータ)が」

「その通りでございます。私は人形。主人の命に従う人形です」

 ですが。そう前置きしてから、ナナはチアキをゆっくりと地面に下ろした。

「あ、あんた……?」

 ナナはチアキを見つめて、スカートの端を摘み上げ、丁寧にお辞儀をする。この状況下でも見惚れてしまうような、美しい所作だった。

「私は誇り高き自動人形。操り人形(マリオネット)ではございません。自らの意志で動く(・・・・・・・・)、オートマータなのです。田中さん、お分り頂けましたか?」

「結局は心のない作り物でしょう。黙って、僕の指示に従いなさい」

 違う! チアキは言ってやりたかった。ナナはちゃんと喜べる。怒れる。哀しめる。楽しめる。心がある!

 何故だか、チアキは涙を流していた。もどかしい。伝えたい気持ちがあるのに口に出せない。

「――かもしれませんね」

 顔を上げれば、ナナが悲しそうに笑っていた。その笑みも一瞬のもの。彼女はふっと表情を失くして、ぽつりと呟く。

「ですが、私にも心があるかもしれません」

「……ありえませんね」

 田中は憎々しげに口を開く。零れる言葉はまるで呪咀のようだった。

「人形風情が……早くそいつを渡しなさい。さもなくば――」

 刃が煌めく。獰猛に輝くそれからは、黒い瘴気が立ち上っているのかと思わせた。

「……渡せません」

「僕に届けろと言われたのでしょう? なら、その後はどうなろうとあなたには関係ありません」

「何か、勘違いしておられますね。私はオートマータであると同時に、主人に仕え奉るメイドでもあります。……もう一度、もう一度だけ(・・・・・・)言いますが、マスターからは歌代さんを届けろと、殺すなと言われています。二つです。片方を達成しただけではマスターは満足しないでしょう」

 田中は笑う。

「しかし、このままでは両方はこなせませんよ? 僕に彼女を渡すか。渡さないか。彼女を殺すか。殺さないか。人形であるあなたに選ぶ権利が、捨てる資格があるとでも?」

選ぶ(・・)? 捨てる(・・・)? ありえません(・・・・・・)。マスターの望みを完全に、完璧に、完膚なきまでに叶えるのが(メイド)の使命であり存在理由なのです。マスターが白を黒だと言えば白を黒に塗り潰し――」

 拳を前方に突き出してナナは言う。

「――二つの願いを叶えろと言うなら、二つとも叶えるのが道理でしょう」

 田中は少しの間呆気に取られていたが、すぐに表情を引き締めた。

「無理難題、ですねえ」

「いいえ。あなたを何も出来ないくらいに痛め付け、その後歌代さんを届ければ事足りる話です」

「……では、あなたは僕に挑むと、そう仰るのですね?」

「挑むなどとは大仰ですね。しばらくの間、眠って頂くだけですよ」

 開戦を告げ、ナナは『棺』へ拳を向けた。



 一は焦っていた。さっきから、引っきりなしに怖気が走っている。何かが起こっている。

 なのに、まだチアキはおろか他の人間を見つけられないでいた。最初に向かったトイレには、入り口付近のタイルの壁がぽっかりと穴を開け、破片をばらまかせていた。誰もいない。鼓動が早まる。自分の目の届かないところで、もう全てが終わったのではと、不安が心を突き刺していた。

 深呼吸を一つ。トイレから出て、一はナナの行きそうな場所を考える。考えてから、そうではないと気付いた。ナナの向かう場所は決まっている。田中のところだ。そこしかない。ならば彼はどこにいる。円堂も結城も三森とも出会った。どうして『棺』とは出会わない。

 アイギスを潰さんばかりに握り締め、一は目を瞑った。

 決まっている。自分たちの捜索を勤務外に任せたからだ。自分たちを連れて行くのだと、誰もが言っていた気がする。……奴は待っているのだ。

 今まで行かなかった場所を思い出す。反対側の入り口か、アスレチックエリアか。もしくは通り過ぎた場所。候補は嫌になる程上がった。考えていても仕方ないと、疲れを訴える両足に言い聞かせ、一は走り出す。外れたら、当たるまで走れば良い。



 歌代チアキにはまだ、眼前で繰り広げられている光景が信じられなかった。

 獣じみた速度で動く田中、その速さに付いていくナナ。

 ナイフが閃き、ナナの体に跳ね返る。高い音を響かせて火花が散った。彼女のメイド服は切り裂かれ、白い素肌が剥き出しになっている。

「え……?」

 火花? チアキは目を擦って事実を確かめた。どうして、血が出ない。刃が刺さらない。ナナがどうして素手でナイフを受け止められる。

 ここにきてようやく、チアキはナナが普通の人間ではないと、人間ではないのだと理解出来た。そして、本当に自分の為に戦ってくれているのだと分かった。

 ナナは表情を変えずに田中の攻撃を受け続けている。一合たりとも避けようとしないのだ。腕で、体で、時には頭で。攻撃を気にせず、ひたすらに拳を繰り出している。ダメージは全くなさそうだ。

 しかし、ナナの攻撃は田中に一発足りとも当たらない。スーツに擦らせる事さえ出来ない。

 当たらない。片や当たるが気にしない。不毛とも言える、永遠に続くかとも思える戦闘。

「……?」

 だが、田中が不可解な表情を浮かべていた事にチアキは気付いていただろうか。



 一一、ヒルデ、円堂慶、結城晃一、歌代チアキ。彼らは今日の敵だ。

 田中は名を挙げた一人一人の顔を思い浮べる。今日ここで倒した、倒すべき人物たち。

 一一、裏切り者。

 ヒルデ、裏切り者。

 円堂慶、役立たず。

 結城晃一、役立たず。

 歌代チアキ、殺す。

 誰も彼もが自分の障害だ。だが、気にする程度でもない。既に二人の役立たずを葬り、残り三人仕留めれば終わり。全て上手くいく、筈だった。

「――ッ!」

 ナナのパンチが空を切る。まるで弾丸。あたかも大砲。当たれば肉体の欠損は免れない。一発避けるごとに田中の神経が磨耗していった。

 単調で、ともすれば退屈なリズムでパンチは放たれる。見切った。見切っている。

 なのに、ナナはリズムを変更しない。狂気じみた正確さでこちらを追い詰めようとしていた。気が狂いそうになる。

 おまけに、ナナはナイフを回避しないのだ。馬鹿にされているのか、気にもしていないのか。苛立ちと怒りを込めて刃を突き立てようとしても、刃が負けている。

 田中は今日、念を入れていつもより多めにナイフを仕込んできた。確実を期する為に切れ味の良い業物も、ナイフの刃先が飛び出すだなんて、あまり好まない色物も持ってきた。スーツは重くなっている。それもその筈、彼が持ってきたナイフ類は、常からすると二倍、三倍の量なのだから。

 それなのに、体は徐々に軽くなっていく。田中はオンリーワン技術部の力を称賛すると同時、非難した。これはやり過ぎ、出来過ぎだと。

 いったいどんな素材、技術を使っているのか。ナナの体にナイフが当たる度、刃は欠け、根元から折れ、柄が衝撃に耐え切れず砕けるのだ。次から次へナイフを取り替えていく。既に足元には十を越える刃の欠けたナイフが転がっていた。

 損害を嘆く暇もない。必死に攻撃を避け、隙が出来る度に切り込んでいく。だが、ナナは怯まなかった。馬鹿の一つ覚えのように攻撃を繰り返す。

「……しつこいですねえ」

「そうですか?」

 思わず零した田中のぼやきにナナが食い付いた。

「そうです」

 舌を噛まないように最低限の言葉で返す。

「では、上げましょう」

 何を、と聞くまでもなかった。ナナは片手で田中の攻撃を捌きながら、残った手で眼鏡の位置を押し上げる。突如、回転数が上がった。

「くっ……!」

 間一髪、田中は呻きながらもナナの拳を躱す。

 加速。加速。加速。

 ゼロから一気にトップスピードに。

 リズムが変貌した。疾走感に満ち溢れたナナの攻撃。今度は完璧には避けられない。ナナの拳がスーツに擦り、次の攻撃で前髪が掠め取られる。

 早い。今までに慣れていたリズムを変えられたのもあるが、それ以上に、単純に早い。この速度には慣れそうにない。間断ない攻めに、今度は反撃すら叶わなかった。ただ、逃げるだけ。

「あら、お疲れのようですね」

 良く出来た人形だ。田中は答えずに、少しだけ顔を歪めた。

「あと、何本残ってますか?」

「……さあ、どうでしたか」

 ナイフの本数は残り、十を切っている。

「そうですか」

「――なっ!?」

 血が凍った。隙を見せたつもりはない。が、手に持っていたナイフを殴られ、折られてしまう。乾いた音を立て、刃は田中の顔の横を飛んでいった。歯噛みしながら懐に手を伸ばす。じわじわと追い詰められていくのを感じていた。ここで手間取る訳にはいかない。

「勿体ないですが……」

 田中はおもむろにナイフを投擲し、ナナから急いで距離を取る。

 メイド服を着た人形。そろそろ、目障りだ。



 今のところ、非常に上手くいっている。

 ナナは田中を見据えながら、そう思う。

 田中の得物がナイフで良かった。自分には並大抵の刃物は通じない。力だって、速度でだってこちらが優位。

 攻撃のスピードとタイミングを一定のリズムで刻み続けたのも功を奏した。相手の目は全然追い付いていない。更に、こちらには五割程度も余裕がある。まだまだ突き放せる。

 しかし、遊ぶつもりはなかった。三森たちが来るまでにケリをつける。具体的に言うなら、あと、一発。一発で田中を沈めさせる。

 ナナは少しずれていた眼鏡を押し上げ、標的を見据えた。

 不安要素なんてありえない。強いて挙げるなら、人間を相手にするのはほぼ初めてなので力の入れ具合が分からない、事だろうか。まあ、大した問題にはなるまい。命さえ取らなければ大丈夫。だろう。手加減出来るかどうか、多分、出来る。だろう。

 だから、ナナは気付けなかった。田中が自分を打破しうる武器を持っている事を、予想すらしていなかった。



 チアキが見守る中、ナナと田中の戦闘は一先ずの区切りを迎えていた。

 彼女の目からは、ナナが一方的に押しているように見えていた。現に、田中は沈痛な面持ちで(表情にれっきとした変化は無かったのだが)、肩で息をしている。

「あ……」

 何故だか、チアキの背筋に怖気が走った。

 田中が懐に手を伸ばす。

 彼が取り出したのは、何の変哲もない、ただの小刀。

 飾り気のない真っ白な鞘。

 そこから引き抜かれたのは、六寸五分の頼りない刀身。美しいが、それだけにしか見えない。溜め息の出るような青白い白刃。だが、それだけではどうにもならないように思える。

 田中は鞘を投げ捨て、短刀を構えていた。彼は今や、体中から絶対の自信を漲らせ、ナナを涼しげに見据えている。

 ナナは田中の変化に気付いているのか、いないのか、拳を固めて一歩ずつ近付いていく。

 田中は動かない。ねちっこい視線をナナに絡めたまま、彼女の一挙手一投足を観察していた。

「おや、随分と慎重ですねえ?」

「……その短刀、見覚えがあります」

「そうですか?」

「どこで、手に入れたのですか?」

「さて、ねえ」

 二人の距離が縮まっていく。

 喉がひり付くような緊張感が周囲を満たしていった。否応無しにチアキの体も強張っていく。

 既に、田中とナナはお互いの攻撃が届くレンジ内に入り込んでいた。だが、仕掛けない。どちらかが致命的な隙を見せるまで、虎視眈眈とチャンスを窺っている。

 耐え切れない。チアキは思わず目を逸らしてしまった。

 瞬間、田中が動く。短刀の握りを順手から逆手に持ち替え、腰を深く落とした。

 ナナもつられて動く。田中の頭を吹っ飛ばす勢いで、右の拳をフック気味に放った。

 それを、田中は更に身を低くする事で躱す。動きを止めないまま、ナナの右手首を狙って小刀を下から振り上げた。

 ナナは回避を選ばない。自身の強度が絶対だと信じ切っているからだ。空を切った右手で刃を折り、その勢いで田中の体を薙ぐべく、裏拳で対抗する。

 振り上がる刃。振り下ろされる拳。

 邂逅までコンマ一秒も掛からない。

 二人は理解していた。この一合で戦況が大きく変わるのだと。

 激突の直前、田中がナナを見上げ、ナナが田中を見下ろす。交錯する視線。双方の瞳には自信の色が見え隠れ。

「くっ……」

 田中は、嗤っていた。

 並大抵の刃物では、ナナの装甲に傷を付けるのですら困難だ。その通り。間違いはない。ブレはない。

「たああっ!」

 並大抵(・・・)の刃物、では。

 ナナが咆哮する。

 激突。風が奔り、金属同士がぶつかり合って盛大に嘶き、火花が散った。

「……あ、ああ……」

 チアキの目が見開かれる。驚愕と、絶望に。

 押し負け、打ち負け、宙を舞う敗者の得物。

 ナナの、右手首から先が飛んでいた。

「僕の勝ちですね」

 田中が嘲笑って、宣言する。

 煌めく。

 一閃、左手。

 二閃、右足。

 三閃、左足。

「あ……」

 伸ばそうとした手は地面に転がったままだ。何も掴めない。踏張ろうとして足に力を込めるが、無いものに力は込められない。四肢を失ったナナが、ゆっくりと地に倒れ伏す。

「……ふう」

「やはり、それは……」

「まだ、喋れますか」

「オートマータですから」

 ナナは平然とした様子で答えた。

「奪い、ましたね?」

 田中はその問いを受け、静かに笑う。

「ええ。お察しの通りですよ。この短刀、今剣(いまのつるぎ)は技術部の方から頂戴しました(・・・・・・)

「道理で。ならば私が切断されたのにも納得がいきます。……オンリーワン技術部が再現した源義経の遺物なら、私をも打倒出来るでしょう」

「僕としては使いたくなかったのですが、目には目を、オンリーワン技術部には技術部を。いやいや、皮肉な話ですねえ」

 そう言ってから、田中はまた嫌らしく笑った。

「あっけないものですねえ」

「ええ、お互いに」

 ナナが呟いたと同時、今剣の刀身に亀裂が走る。

「……ふむ」

 田中が今剣を軽く振ってみると、粉々に砕けた刃がぼろぼろと地面に落ち、風に流されていった。

「耐え切れませんでしたか。ああ、勿体ない」

 そう言う田中には悲愴感の欠けらもない。凡そ、この結末を予想していたのだろう。

「はあ、弁償して欲しいものです」

「柄だけならお返ししますよ。さて、と」

 これ以上の用は無いとばかりに、田中がナナに背を向ける。

「――ひっ……」

 チアキの体が凍った。流れる血がやけに冷たい。『棺』と視線が合う。絡められる。恐い。恐い。恐い。逃げたい。逃げ去りたい。遠いところまで走っていきたい。

「お待たせしましたね」

 心臓が飛び跳ねた。胃液が逆流して口から吐き出してしまいそうになる。

 田中が近付いてくるが、チアキは足どころか指一本だって動かせなかった。歯の根が合わない。かちかちと、かちかちと、かちかちと。

 助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて誰でも良いから誰か助けて助けて何でもしますからだから助けてお願い助けて!

「歌代さん、申し訳ありません。バッテリーを使い過ぎてしまいました。私はスリープモードに入ります。後の事を、三森さんたちによろしくお伝えください」

「え、な、あっ?」

 返事は無い。ナナは目を瞑り、一切の反応を見せなくなった。

「……出来の悪い人形だ。さて、と?」

 ああ、それは最後通告。

 チアキは何も言えず、震えるしかなかった。

「手間を掛けてくれましたねえ、歌姫(セイレーン)。生温く死ねると思わないでくださいよ」

 助けてっ、助けてっ!

 あまりの恐怖にチアキは目を瞑った。現実から逃れたくて、在りし日を思った。

 浮かんだのは一人の男。

 頼りない、口の悪い男。

 ああ、助けて、助けてよ。繰り返し名を呼ぶ。

 誰も答えてくれないのは分かっているのに、口は勝手にその名を呼んだ。

 一度は突き放した。虫が良いのは分かっているけど、何度も思った。

「うるさいですねえ……」

 首筋に軽い衝撃を感じる。意識が少しずつ薄れていく。

「……し、しょう……」



 間に合え、間に合えっ、間に合ってくれ!

 遅い、遅いっ、もう遅い!

 折れてしまいそうな心を鼓舞して、止まってしまいそうな足に鞭打って、一は必死に走っていた。

 疲労は体を蝕み、心まで犯そうと体内を駆けずり回る。

「歌代っ! 歌代――!」

 叫んで、苦痛を忘れようと努めた。一度止まれば、二度と動けない自信がある。今しかない。走るしかない。

「うたしろぉぉー!」

 舌がもつれそうになる。喉が乾いた。腹も減った。風呂に入って、温かな布団にくるまって一生眠っていたい。

 見つからない。どこにもいない。誰もいない。不安と焦燥が一に襲い掛かる。

 ――助けてくれ。

 誰でも良い、何でもするから、助けてくれ。

 チアキだけじゃない。助けてくれ。自分を、自分たちを、人でもない、ソレでもない、半端者たちをどうか救ってくれ。

「かみさま……」

 一は祈りを唱えた。叶えてくれるとは、答えてくれるとは思っていない。信じてもいないのに、虫の良い話だとも分かっている。

 だけど。

 信じるから。崇めるから。助けてくれたら、何でもしますから。

 遂に一は立ち止まってしまう。疲れが一気に流れ込んできた。肩で息をしながら視線だけを持ち上げる。

 だが、もう走れない。動けない。歩けない。

 神様なんか、みんな死ねば良い。


「――――――!」


 声が、聞こえた。

 聞き覚えのある喧しい声。

「……くそっ」

 一は苦笑する。なんて最悪なタイミング。諦めようとした傍からこれだ。やっぱり、神様なんて死んでしまえば良い。

「休ませろってんだ……」

 誰にも届かない文句を垂れつつ、一は顔を上げて前を見据えた。

 まだ動く。歩ける。走れる。気持ちはまだ、折れちゃいない。まだ何も終わっちゃいない。



 腕。にこやかな『棺』。足。伏したチアキ。死んだように動かないナナ。手首。足。

「ああ、一さん」

 田中――『棺』――が場にそぐわない、和やかな声で一に話し掛けてくる。

 一は答えずに、倒れたまま動かないチアキに視線を送った。

「……歌代に、何をしたんですか?」

 田中は薄い笑みを張り付かせ、チアキの傍にしゃがみ込む。何を思ったのか、彼女の右手を乱暴に持ち上げると、それを掲げた。

「彼女の声は耳障りですからねえ。少し、黙ってもらいました」

「何をしたって聞いてんだよっ」

 田中はわざとらしい所作で肩を竦める。

「声を荒げないでくださいよ。あなたもこう(・・)なりたいんですか?」

 そこで、ようやくになって一は気付いた。

 田中が掲げたチアキの腕、手、爪。

 爪。

 チアキの爪が、剥がされている。

 右手の指五本の爪、全てだ。爪の下の肉が、血に濡れ、塗れ、てらてらとした光を痛々しいばかりに放っている。

「――てめえっ……!」

「怒るのも止してくださいよ。これはまだ死んでませんから。多分、ですが。左も全て剥いだから、ショック死してなきゃ良いんですけどね。いや、僕としては望むところなんですが」

 一は田中の話を聞き終わらない内に走り出していた。

 許せない。許せるものか。

「うあああぁぁあああっ!」

 すぐに何も考えられなくなる。頭がまともに働かない。怒りに任せて足を動かす。口からは叫びが迸っていた。握った拳からは熱を感じ取れる。

 ――こいつをぶん殴る!

「意外と熱くなるタイプなんですねえ、あなた」

「ぎっ――!?」

 一は突然の痛みに歯を食い縛った。何が何だか分からないままにつんのめる。堪え切れずに地面に転がってから、痛みの元を見遣った。

「がっ、あ、ああああぁぁぁあああああぁぁ!」

 目を疑う、疑いようの無い真実が突き刺さる。当たり前みたいに、左肩にナイフが刺さっていた。

「大げさですねえ。急所も外してますし、深くも刺さってない筈ですよ」

 一のひきつれた叫びを耳にしながら、田中は何でもなさそうに告げる。

 そんな言葉は、一に届いていなかった。

 急所を外されたから何だと言うのだ。深く刺さっていないからどうなんだ。

 この痛みは、偽物じゃない。

 流れ出る血はフェイクなんかじゃない。

「あっ、ぐうっ――!」

 一は恐る恐るナイフを引き抜いて、投げ捨てた。出血自体は大したものではなかったが、刃物で刺されたと言う事実が彼を戦々恐々とさせている。

 肩で息をしながら、冷静になろうと努めた。一は深く息を吐く。『棺』。激情に身を任せて勝てる相手ではないのだ。アイギスも、頭も、何も使わないで戦える相手ではない。

 田中が何もしてこないのが幸いだった。のた打ち回るこちらを冷然と見ているだけなら、好きにしてくれれば良いと、一は投げやりになる。

「……あー、くそ、いてぇ……」

 痛みがマシになってきたところで一は立ち上がった。尤も、痛みは完全に治まった訳ではない。やせ我慢しているだけ。

「面白い見世物ありがとうございました。さて、一さん。どうするんですか? 次はどんな風に喚いてくれるんでしょうかね?」

 嘲りの声が一の耳を強く打つ。

 どうでも良くなる。

 見世物。見世物。

 一は笑った。

「見世物、ね。良いですよ」

 良いさ、小屋にでも何でも入ってやるさ。

 そんなに言うなら、面白い見世物とやらを見せてやろうじゃないか。

「――ただし、あんたにも協力してもらう」

「判然としないですねえ。何を仰りたいので?」

 馬鹿にしたような田中の声も、今の一にはどうでも良かった。

「踊ろうぜって言ってんだ。付き合えよ、『棺』」

「くっ、くっくっ、馬鹿が――――良いでしょう。踊りましょうか」

「――Shall We ダンスは見た事あるらしいな」

「リメイク版、だけですが」

「勿体ねえ」

 アイギスを広げ、一は左肩の感触を確かめる。傷口をぐいと押すと、涙が出そうになった。

 まだ、棺に入るには早過ぎる。

 今一度覚悟を決めて、一は『最低の棺』を睨み付けてやった。

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